――トーマ、その数字、何ですの……? 彼女は俺の頭上を見て、確かにそう言った。 * * *「ロストナンバーの保護をお願いしたい」 シド・ビスタークが集まったロストナンバーを前に切り出した。「まず、保護対象のロストナンバーだが、名をトーマ・クロトジと言う。35歳、男性。……なんだ、俺と同い年だな。だが、背丈は、俺よりも高い。それに、黒い兎耳を生やしている」 一同微妙そうな顔で、シドの頭上を見上げる。 大男に、兎耳……。「おい、俺の頭に兎耳を想像するな」 察したシドがひとにらみすると、ロストナンバーたちは気まずそうに目をそらした。「……続けるぞ。トーマは、獣耳種族別に国家を作っている世界で、兎人に関わらず、狼国に仕えていた。これは、白狼族の末っ子姫が『彼を拾った』からだと書いてある」 『導きの書』を掲げ、シドは頁を捲った。「おそらくそれだけじゃあないとは思うんだがな、ここには、人の心のなかまでは書かれない。こいつが教えるのは事実、いや、これから起こる予言だけだ」 何かもどかしそうな表情を一瞬見せて、シドは続ける。「まあ、それで、トーマはその主で恩人の姫君が、目の前でディアスポラ現象に見舞われているのを見ている。彼に取っちゃ、突然消えたようにしか見えなかったろう。周囲には彼が姫を消したように疑われ、それでも彼は世界の果てまで彼女を捜す旅に出て――自身も覚醒した、ってわけだ」「あれ、じゃあ、そのお姫様は?」「残念ながら、その姫の行方は、世界図書館で把握していなかった。実際、図書館のリストには、すべてのロストナンバーすら載せ切れていないのが現状だ。生まれたばかりのロストナンバーをすべて補足するのは、非常に難しい。……何しろ『導きの書』頼りだからな」 書に目を落として、シドは軽く溜息をつく。「しかし、トーマには伝えておいてくれ。いつかきっと見つけると。俺たちに出来る手は打つと約束しよう。でないと、彼は俺たちの説得を聞きもしないだろう。 彼は今、インヤンガイに居る。そう簡単にインヤンガイの連中に見つかるとは思わないが、能力者だと判明するとやっかいだ」 眉をぎゅっと引き絞り、心配そうにシドは言う。「触れたものを空間転移させる能力、ああいう裏世界なら欲しがるものも多いだろう。しかし、それだけじゃない。彼は命を削って力を使う。彼に能力を使わせないでくれ」 * * * 黒灰色の長い兎耳が揺れる。 黒スーツに、黒コート、黒い髪。闇のなかで、紫の瞳だけがひっそり色づいている。 トーマ・クロトジは、静かに、周囲を伺っていた。 聞こえてくる言語は、聞き慣れぬもの。いや、むしろ、どの国の言語よりも遠い響きがある。 見たこともないほど背の高い建物群に切り取られた、空があまりにも小さい。 窓からちらりと見えた人影には、何の耳も見えなかった。耳がないなどありえない。それに、何か頭に数字が見えた気がしたが、あれは目の錯覚だったろうか。 いったい、ここはどこなのか。どの種族の地なのか。(俺は、確か、国の追っ手から、逃げていたはず……) いつものように追っ手をまいて、狭い路地に身を隠した、そこから、月を見上げて―― 気がついたら、路地の狭さはそのままに、見たこともない場所に変わっていた。 トーマは、姫を誘拐した罪で追われている。 むしろ彼自身が姫の所在を知りたいというのに、国は彼の話など聞いてはくれなかった。 だから、彼は逃げた。姫を捜すために。 世界のあらかたの国は、都市は、巡って回った。あとはそれこそ、人の手の入らぬ森や、隠れ里、朽ち果てた廃墟などしか、当てがない。 そう。ここが見慣れぬ場所だとしても、彼がやることに変わりはない。(姫さん、いまどこにいる) トーマの心の呼びかけに、過去からの声がする。――わたくし、ちゃんと名前がありますのよ?――呼んでくれるまで、ここを動きませんわ。 我が儘で、愛らしくて、生涯ただ一人の主と決めたひと。 身分違いで、親子ほども離れた年齢で、異種族の相手で。――トーマ。呼んで……くれませんの? 愛されていると分かっている。けれど、それは返せない。返してはいけない。 ただ、守る、と決めていた。(いつかきっと、探し出す)――俺が「姫さん」と呼ぶのは、貴女だけですよ。俺の姫。
も一度夜空を見上げようと思い振り仰げば、迫り出した建物の縁が視界を塞いでいた。月どころか星も、空すらも見えない。ジジッと音を立てて、壁に張り付いた複雑な形の管が明滅している。光る管で作られた矢印の先に、店番なのか乞食なのか分からぬ風体で座り込む人影。その真上の開いた窓から何かが投げ捨てられて、路地に落ちてくる。湿った音、腐った匂い。 トーマは雰囲気の変わってしまった街を肌で感じ取っていた。 「……」 周囲を盗み見る。トーマに注意を払う人も、視線も見えぬようだった。追う足音も今は聞こえてこない。しかし、何かが危険だと伝えている。姫さんから貰った耳飾りが揺れる。 薄暗い横道を目に留め、身を隠す。ぎりぎり通り抜けられる幅。足場は悪いが、通りを行くよりはいい。そのまま闇から闇、影から影に身を潜め、渡り歩く。 姫さんを探す目的は変わらない、しかしまずは、この街だ……。 (何かが起きている、この街に。……いや、それとも俺に、か?) トーマの姿が消えた後、暗闇に濡れた光が2つずつ、気配なく浮かび上がる。 「なぁ、今の。耳があったな。うさぎの」 「……ああ、見かけん奴だった」 かさこそと風の音にも似た会話が流れ、途切れた後には光もなく。 * * * 依頼を聞いたときに、思い浮かべた顔がある。 獅子の鬣のような金に縁取られた、かの人の姿。同時に、刻まれた傷痕をも思い出し、少しだけ眉を顰める。 クラウディオ・アランジは、自身の上司である金髪の偉丈夫と、0世界で再会していた。自分が消えた後に何があったか、なんて聞いたことはないが、きっと、彼は笑い話にするだけだろう。けれど、また同じコトがあったとしても、彼のために命を使う、その覚悟は変わらない。 (もっとも、二度目など起こしはしませんが) もう、あの人の傷は増やさない。胸の銃創を押さえ、誓いのように思う。 『誰かに仕える』という同じ志。トーマの忠誠に共感し、クラウディオはこの依頼を引き受けたのだった。 父を探して世界中を巡り、その結果覚醒、ツーリストになってもまた、探し人の旅を続けている自分と、トーマの境遇を重ね合わせ、ヤムイダ・アテモクはこの依頼を引き受けることにした。 自身の経験からの言葉が、彼に届けばいい。 列車の旅は、どれもこれも父親に会うための道程だと。 どの地へ降りても、その姿を探さない時はないのだから。 (いつかきっと会える。まだ、諦めない) そう、それに、旅は楽しいものが多いから、時折ふいに襲われる不安すらも、今は仲間となった旅行者たちと一緒に、飲み込んでいける気がしている。 彼らもまた、何かを探しているから。 (だから、トーマ、キミも絶対諦めないで) 仲間になれば、きっと世界が広がるから。 (いつかきっと会える。まあ、悪くない希望やわな。だって、姫さん生きとる可能性があるんやし) 生きているかもしれない、彼はそう思えるだけ幸せなのかも知れなかった。 アマムシにとっての大切な人は、もう居ない。あの人も、あの娘も居ない。 それゆえに、人の姿を取る蚕であるアマムシは、『呪術道具であること』に、頑なに拘っていた。あの人だからこそできた、自身の生まれ、それだけは。 (わいは人ちゃうから) へらりと笑う、軽妙な彼の口調からは見えない、何かの痛みが、この依頼を受けさせたのかも知れない。 * * * インヤンガイに降りた3人は、それぞれに探索を開始した。 「そう遠くには行けないんじゃないかって、シドが言ってたあね」 「ま、降りた路地がわかっとるし、そっから手分けしたほが早いやろ」 「ですね。お互い、ノートで連絡を取り合いましょう」 ほどなくして、路地という路地に、能力の影を這わせていたクラウディオから、エアメールが届いた。 兎耳を隠しもせずにいる、それらしき人影を発見。場所は―― 「ほんと真っ黒、黒ずくめだあね」 兎耳を除いても2メートル近くはある大男、トーマの姿を見失わないよう、後を付けていく。 「ええ。それに耳があのままでしたので、思ったより早く見つけられましたよ」 「獣耳種族ばかりの世界から来た言うとったし、隠すっちゅー発想がなかったんやないか?」 「あ、わかるわかる。前はあたしも、耳も尻尾も角もないひと、不思議だったあね」 ヤムイダが緋色の猫しっぽをくるりと回す。 それに目を留めたクラウディオ、閃いたという顔で 「彼には、ヤムイダさんから声をかけてもらったほうがいいかもしれません」 「あー……耳、持って来とったら完璧やったかもなあ」 「トーマ!」 走り寄りながら、ヤムイダが声を上げる。 びくりと振り返った彼は、小柄な彼女の手に何もないことを確認し、瞬時に素早く視線を周囲に走らせ、コートの中へと手を滑らせた。現状把握、追っ手ではないようだが、不明。 「あなたがトーマ? よかった、探してた!」 近付いてくる、満面の笑顔。異国風の装飾を身に纏う、少女。しっぽが揺れている。 意味の取れる言葉を話す彼女には、殺意も敵意も見えない。 気を許してはいけない。けれど、何かしらの情報を得られればと、トーマは口を開いた。 「お前は、何だ?」 誰、と問わないのは、やはりその頭に獣耳がないからだった。 むしろトーマとしては、耳のないお前達は、いったい何なんだ? と問いかけたかったのに違いない。 「よく見て! あたしの服、あっちの大通りにいる人と、ぜんぜん違うの、わかる? あの人たちとは、……この世界にいる人とは、違うところから来たんだあね」 両の手のひらを広げ、改めて武器のないことを示しながら、ヤムイダは言葉を紡ぐ。 (この世界にいる人……?) トーマはヤムイダから目を離さず、ゆっくり一歩下がった。 「待って! あたしたちと他の人の違いを言ってみて。頭上に番号は、ある?」 ――トーマ、その数字、何ですの……? 姫さんの言葉。最後の言葉。 ヤムイダの頭上には、何もない。獣耳だけじゃない、奇妙な数字も、何も。 トーマは凍り付いたように動けなくなった。 「言葉、通じますよね? 少し話を聞いて欲しいのですが……宜しいですか?」 ヤムイダの合図で、クラウディオとアマムシも両手を開きながら姿を現す。 その頭上に同じく何もないのを見て、トーマは彼女の仲間だと認識した。 「わいら、依頼受けて来たんやー。あんさんを、保護してほしいってな」 「保護、だと?」 「そう、守るために探しに来たんだあよ!」 多層に連なる世界群、所属した世界を失ったものたち。自分たちも同じなのだと。 3人が交互に話し出した説明は、眉を顰めるようなものだった。しかし、もしそれが本当だとすれば、姫さんが消えた理由にも当てはまるのだと思い当たる。あまりに辻褄が合ってしまう故に、トーマの心は揺れ動いた。もしこれが作り事ならば、何の利益があるのかと。 「――はい」 無言になってしまったトーマに、ヤムイダが水筒から温かいスープを差し出すが、彼はじっと見つめたままだ。それを見たクラウディオが、ヤムイダにリクエストする。 「それ、僕に頂けますか」 ちらりとトーマを見て溜息をついたヤムイダ、渡し損ねた器を、クラウディオに手渡す。湯気で眼鏡が曇りそうになりながら、彼は口を付ける。 「美味しいですね。トーマさん、身体が温まりますから、君もどうぞ」 毒などありませんよ、と、自ら証明して、茶がかった灰色の目が細められる。意図はトーマにも伝わったようだった。 トーマの視線で促され、ヤムイダは笑顔で応えた。 と、そこへ、唐突に声が響く。 「あーらあら、ティータイム中? あたくしも混ぜてもらえなぁい?」 路地の壁に這っている、細い細い電飾管を足場に、彼女は立っていた。 いや、彼女と言って良いのか――黒いチャイナドレスを身に付けた、胸のない、骨張った手をした、男顔の美人だった。よく見ても正直性別がどちらだか分からない。 「やぁっだ、うさぎ男さんがいるって聞いて来てみたら、なーんか、見慣れない姿をした人たちが増えてるわねーえ?」 気付いたら黒服の男達に囲まれていた。 「あたくし、珍しいモノ好きなのよぅ。そうねえ、うさぎさんだけじゃなくってえ、あんたたちも、あたくしに飼われてくんない? 大人しくしたら、痛いコトしないからー」 けらけらと笑いながら、彼女は手にした扇を一閃した。 「とりあえず掴まえちゃって」 舌打ちしながら、トーマは腕に付けていた大振りのナイフを構える。 言われた言葉は通じなくとも、相手の行動を見れば敵対しているのは明らかだった。 「一所に留まりすぎたな」 「同感です。ところでトーマさん、こうなったからには、共同戦線と行きませんか」 クラウディオも、スーツの懐からダーツ型トラベルギア『Bella-donna』を取り出した。 「賛成だあよ!」ヤムイダも構える。 「右に同じやな。……しっかし、こいつら呪いでもなんでもなさそうやな。がっかりやわ」 呪いやったら喰ったろと思っとったのになあ。呪術系体ちゃうから、ちっとは期待してたんに。ぶつくさと言いながら、アマムシはその口から蜘蛛の糸を吐きだした。 「つまらん。片端から簀巻きにしたるー」 ヤムイダの『またたきの瞳』は、常人離れした動体視力だ。 相手の攻撃のほとんどを見切り、身軽さを活かした格闘術で叩き伏せる。 アマムシが簀巻きにした黒服の男さえ利用しながら、次々と相手を戦闘不能へ陥れていく手際は見事だった。 クラウディオのギアは、投げた後、指先の動きで操れる特殊仕様だ。先端を伸ばせば小剣状にもなる。黒服の手に、肩に、太ももに、その切っ先を埋め込ませながら、麻痺させていた。 殺すのは容易いが、トーマの価値観をまだ計れずにいる。信頼されるか否かの時、自分やこの世界の基準で、命の重みを判断するわけにはいかない。 「トーマさん、大丈夫ですか」 「誰に聞いてる。守らずとも結構だ」 実際のところ、3人の強さにトーマは内心舌を巻いていた。彼らのおかげで、自身はまだ敵と刃を交えてすらいない。 構えたナイフを仕舞い、銃に持ち替える。 黒服がどちらの敵なのか、トーマには知らぬことではあったが、相手の動きを封じればそれでいい。地に縫い止めるよう足先を、銃を撃てぬよう指先を。その弾丸はひとつも外れなく。 動ける男達が居なくなったところで、戦闘は終わった。 ひとりの黒服から聞き出したことによると、彼らはこの街区を縄張りとしているのだという。 当然だが、黒いチャイナドレスの女は、いつのまにか消えていた。 * * * 「ひとまず助かった。礼は言おう」 いくぶん柔らかくなった声音で、トーマは頭を下げた。 「もし俺ひとりの時だったら、逃げるしか方法がなかったかもしれない」 一人で応戦出来る人数は限りがある。ましてや四方から襲われたら最悪だ。 (――最後の手段に、頼らざるを得なくなる) 「トーマ! ダメだよ! 力使っちゃ、ダメ! やだ!」 トーマの瞳に何を見たか、ヤムイダがコートの裾を握りしめ、息を吸いこみ思い切り叫ぶ。 「トーマ死んだら、姫様に会えなくなっちゃう!」 (?!) 何を、何処まで知っているのか。驚きに見開いた目で、ヤムイダを凝視するトーマ。 「君は、主の為に『居る』のでしょう? なら自分の為に命を削るのは……何か違うのでは?」 「そやで。能力は使うたらあかん。ええか、姫さんに生きて会いたいんなら、使うな」 クラウディオに、アマムシに、畳みかけられ、彼らの間に、自身と姫との関係が知られていることを確信する。それだけではない、能力のこと、その代償までも。 「………なるほど。君たちは、ずいぶんと俺の事情に詳しいようだ。何故、知り得たのかと聞くのは、愚問だろうな」 「あんさんの保護、依頼してきた人から聞いたんや。その人、やれることはすべてやる言うとったわ」 「ええ。『いつかきっと、姫君を捜し出す』と伝えてくれと」 「それにな、もし、あんさんが死んだ後、わいらが姫さんに会って、それであんさんのこと聞かれたら、わいら、どう答えればええんや?」 「ヤムイダも! あたしも、おとーさん探して旅に出た。まだ見つかってないけど……『世界図書館』のおかげで、こうしていろんな世界、旅できてる。いつかきっと会える、まだあきらめてない!」 「君の主を捜しましょう。是非その手伝いをさせて下さい」 「うん、トーマも一緒に、探そう?」 「な、わいらみたいに、世界図書館に所属すれば、探せる範囲広なるで」 途中から目を閉じて、説得を聞いていたトーマ、ぽつりと呟いた。 「本当に……本当に、姫さんが見つかると思うか」 信じている男の、それでも揺れている隙間から出た問いに、3人は即答した。 「もちろんだあよ」「当たり前や」「信じなさい」 トーマが姫を覚えている限り、姫はどこかの世界にいるはずだと。 静かに開かれた紫の瞳が、微かに笑う。 「わかった。君たちと共に行こう」
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