その静かな森に、傷を負った若い馬はやってきた。 一方の細い後脚をぶらぶらさせて、胴を庇い、跳ねるように歩いていた。 群れからはもう遠く離れてしまった。けれどもうじき、何もかも終わるのだとわかっていた。 危険のにおいはしない。森は凪いでいた。 ふと、風にのって水のにおいが彼の鼻腔に流れ込んだ。そう遠くない場所に、泉が、小さくて冷たくて、新鮮な水がわいていることがわかった。本能的に彼はそちらに頭をもたげた。 そしてそのまま、大木のように倒れて動かなくなった。 時が過ぎた。馬は崩れ、変化し、遺跡のような白骨となった。 彼を養分にして可憐な花が群れそよぎ、ちいさい動物たちが彼の逞しかった肋骨の間で遊んだ。 そしてちょうど彼の、白い頭蓋骨の空洞に、小さな樹が、育っていた。 ほそくやわらかい幹は煙のように若葉をまとって、頭蓋骨のドームを内側からさぐり、森へ、世界へ、伸びようとしていた。 だがその若木の梢には、ぼんやりと光る、土のついた何かがひっかかっていた。光の輪が。●「みなさんには、ヴォロスの森に行き、ある竜刻を取って来ていただきたいんです」 世界司書はにこやかにそう告げた。 ヴォロスのとある地方の、名も無い森にそれは在るという。 竜刻は土の中であざやかに結晶化し、まるで乙女の編んだ、花冠のような姿をしているという。ほんのりと内側から輝いて、輪になった花が咲き誇っている。 そしてそれは白い一角獣の角の根元にかかっているのだと。「その花冠を、取って来て欲しいのです」 一角獣は森を駆け巡る。楽しげに跳ねている、ように見える筈だ。 けれど「それ」に意志がある訳ではない、特別な力がある訳ではない、一角獣は骨と土と植物と竜刻の不思議な力で生成されたいわば人形のようなものだから。「それ」を追いかけて、あるいは待ち伏せて、それとも? 世界司書はヴォロス行きのチケットを扇のように開いてみせた。森と一角獣、きっと絵のような、美しい光景ですよ、と微笑んで。
● 森はいつも、緑色の光に満ちていた。 樹々は静かに佇み、風はその間をゆっくりと渡る。 絵に描いた平和。 アクアリウムのように、閉じた平和。 栗鼠たちはそっと草むらから顔を出し、小鳥は理由もわからず、生きる喜びを歌っていた。 柔らかな下草を踏む音に、一瞬、小鳥たちが歌うのをやめた。 静かでとても軽い足音が、風に乗ってやってくる。小鳥たちは一様に首を傾げ、その聞いた事も無い音から何かを想像しかけるが、かれらの小さな脳はあっという間にほかのこと、生きる喜び、いいお天気、甘い実への希求でいっぱいになって、なぜ歌うのをやめたのだったか、すぐに忘れて、また歌い出すのだった。 森はいつでも平和だった。 その森には道らしき道もなかった。 仲間の姿が白っぽい木立の向こうに途切れ途切れに見え、隠れ、見える。華月が振り返ると、ちょうど倒木をまたいだ藤枝竜の頭がぴょこりと揺れるところだった。燃える赤い髪が背景と相まって、まるで赤くて円い千日紅の花だ。 竜は華月に気づくとぶんぶんと手を振った。 (……疲れてない? わね?) こくりと息をのんでから、小声で尋ねると、くちびるを読み取ってまた竜が笑顔のまま、大きく頷く。華月も応えてこくこくと頷く、人に自分から話しかけるたびに少しずつ、体の中に爽やかな風が吹く。 「まだ見えませんねユニコーンは」 吉備サクラはくいと眼鏡を持ち上げると、そのまま顎も持ち上げて、ぐるりと首を巡らせた。緑、光、白、緑、緑。お気に入りの傘をくるくる回すように世界が回る、森のドームを光が巡る。その視界を軽やかな影がさっと横切った。 「あっ」 りす、ううん……と影を追ったがもう見えなくなった。もう一度くいと眼鏡を押し上げる。錯覚じゃない、多分。 その時、ひときわ高い鳥の声が尾を引いて長く森を旋回した。 銀色の鳥だ、とカンタレラは思った。モビールのようにこぼれる小さな赤い実をてのひらに受けて、その仔細を、艶を、色を、形を、記憶の物語に書き込んでいた時だった。彼女の帰りを待つ孤児たちに話をしてやるため、広い世界を希求する種をまくために、カンタレラは森のすべてを丁寧にその記憶の中にうつしとっていた。 群れて咲く白や薄紫の花も、踏めばふっくらと沈む豊かな土も、巣穴から顔を出す臆病なりすも、何もかも覚えて帰ろうと自分の中に小さな森をかたちづくっていたのだ。その新しい物語の中を、爽やかな容姿の銀色の小鳥が通り抜けていった。本当の鳥ではない、でも本当の鳥よりも、鳥らしく。 「今の……」 と赤い実を手で避けると、緑の木漏れ日に包まれるように立っていたニワトコが木漏れ日とまるで同じ明るさで柔らかく笑った。森と同じ色の髪が、光で金色にふち取られている。 「ドルジェさんが今、ほら、あそこに」 と、揺れる樹を追いかけ指差すがいつもそれはもう去った後。ただ風が森を渡っているようにも見える。 「いましたかっ?」 カメラを構えて、竜がニワトコの指差す方を凝視する。彼女は今日も熱く燃えていた。 「はやいね、見えなくなっちゃった」 ニワトコは笑って、指で小さな輪を作ってくちびるにくわえた。そしてまるで新しいおもちゃで遊ぶように、愉しげに、肩ごと持ち上げて大きく息を吸って吐いた。くちびるからはフィーと愛らしい、午後のやかんの音が漏れた。鳥にたとえれば多分まだ、たまごの中だ。 「あれ、むずかしいなあ」 すると彼に応えるように、銀の鳥がまたひときわ高く、鳴いた。 ● 指笛のコツは欲張らないことだ。空気は音の分だけ調達する、ドルジェはそう、幼い頃に教わった。彼女はひゅっと息を吸いこむと、指をくわえ浅く長く吹いた。音は気持ちよく風に乗る。鳥の声に似る、でも鳥ではない、獣を誘い、あるいは獣を脅かす、何かの波を含んでいるのだ。それはドルジェがよく知る狩りの方法だった。 一拍置いてから、がさがさっと激しく草むらが揺れて、若い鹿が飛び出していった。脅かすつもりはないんだよと、その木漏れ日に似たぶちのある背に向かい詫びた。そして同時に広い森を振り返った。耳にかけた短い髪がはらりと頬を撫でる。 光に満ちた森は、知っているようで、だが、知らない森だ。 ドルジェは思い出を振り払うように首を振った。 (やはり……) ユニコーンと自分とを対極に感じ、そしてそう思う事で、世界が反転し、トランプの絵札のように捩じれてしまう気がした。スラッシュで区切られた、ユニコーンとドルジェ。どんなに視線をめぐらせても、ドルジェにユニコーンを見る事はできない。白い嘶きと、乙女たちのはしゃぐ声が聞こえるが、反対側のドルジェには、それが現実なのか幻なのかも判断できないのだ。 (世界が、違うから?) 「きゃあ、あっ……大丈夫よ、大丈夫、しー、よしよし」 目を開くと、木立の向こうで、走って来た子鹿を思わずキャッチしてしまった華月が見えた。子鹿の短い尻尾がぷるぷると震えているし、華月も同じくらいぷるぷるしている。 「わっかわいいですね。写真撮っていいですか?」 「うん、あ、しー、震えないで、しー」 微笑みながら目を閉じ、まぶたの裏の暗闇に懐かしい安堵さえ覚えながら、ドルジェはふたたび指を吹いた。 銀の鳥が上昇して行く、とカンタレラは思ったと後で語った。その鳥の声を。真っ暗な井戸を垂直にまっすぐに太陽を目指して飛ぶ鳥の声だ。 「あ、ユニコーンです!!!」 子鹿と華月を激写しつつ、きょろきょろと辺りを見渡していた竜が、最初にそれを見つけた。白い幻、白い獣。竜は頬がほてるのを、いつもよりずっとほてるのを感じた。白い幻は額に飾られた絵のように、木立の間に、枝と草の間に、切り取られるように立っていた。 「ユニコーン、です」 よ、と竜は自分に語りかけるように続けた。あれがユニコーン、あれが……あの角が欲しい、と。竜は重たい荷物を背負い直した。 目を閉じて、目を開く。 何度か繰り返したが、ドルジェの赤い瞳には思い描いた通りの、純白の伝説の獣が、はっきりと映っていた。ほっそりとした煙のような姿が、白い木立の向こうで、耳を前に向け、ドルジェを見ている。透き通った花冠が角の根元で揺れていた。わたしなんかが見れば幻は消えてしまう、そう思い慌てて目を伏せたが気配は消えない。見られているようにさえ思う。光を受けて立つユニコーンが、森と同じ緑色の瞳でじっとドルジェを見つめている。白い角。巻き毛のようなたてがみ。煌めいている祝福のしるしのような、花冠。 ● ユニコーンはまるで、その形に吹き出された白い煙のようだった。緑色の瞳と貝殻のように巻いた角が、かれの形を世界に固定している。 対峙する竜はまるで燃えさかる炎だ。内側から照らされるように彼女の瞳と頬は強い輝きを放っている。そして彼女のもっと深い部分、彼女の中心にはいま、ある女の子姿があった。 (あの子を、助けたい) 竜にはユニコーンしか見えていなかった。視界の森は暗くなり、相対的にユニコーンの白い姿が浮かび上がる。獲物を狙う肉食獣と同じだ。フォーカスは捻った白い貝殻のような、長い角にぴったりと合っている、王の剣、とけないつらら、幻獣の象徴だ。幻を、幻たらしめるもの。竜が一歩踏み出すと、足元の若木がまるで王女にするようにその道を開いた。しゅうしゅうと竜は情熱を、文字通り情熱を燃やしていた。 「私はぴーちゃんのためにも、ユニコーンに、ユニコーンを!」 草を踏み、間合いを詰める。竜は祈りに似た友達の名を呟きながらその場にしゃがみこんでスニーカーの紐をぎゅっと引き上げると、そのまま前傾してクラウチングスタートを切った。土を蹴った。小鳥たちが一斉に飛び立ち、枝が弾んで揺れた。 「早い、竜さん早い!」 ニワトコはぴょんぴょんと喜んだ。風が走る。しなった枝が戻るとき、はらはらと雪のように葉を落とした。 カンタレラは、木立の中を駆けて行く赤い姿を、壁に並んだ絵のようだと思った。白い額縁に入れたその絵は少しずつ動いている。長い長い廊下に飾られている。こどもたちがその前を駆けて行く。それは瞬きをするごとに、動き出す絵だ。走馬灯だ。 熱が風を生んでいる。陽炎のように立つユニコーンに向かって、道なき道を疾走する。草むらを飛び越え、木立を蹴る。前に、前に。 華月は心配そうにその後ろ姿を見送りながらも、ユニコーンと自分と竜との位置を、静かに頭の中で図形を描いた。危険はないと思う、でももしもの時のために、最善を尽くせるように、いつでも。 ニワトコは背伸びして目の上で手をかざした。 ユニコーンは静かな瞳をしている。森と同じ、凪いだ目だ。緑の瞳の中には、近づく赤い点が映っている。じっと、見つめている。 (どうする? どうするかな) 夜が開けるように、太陽が地平線から顔を出すように、ユニコーンの瞳が明るくなって行く。そしてかれは大きく瞬きをすると、巻き毛のようなたてがみをなびかせて前脚を振り上げた。そして、走りはじめたのである。木立の間を縫い、リズムよく若草を蹴って。それはそれは、愉しそうに。 「うっそー! ちょっと待ってよ、待ってってば!」 もう少しでその熱い手に、白い幻が触れそうだったのに。ユニコーンが駆け出すと、時間が飛ぶように移動した。瞬きの次にはずっと先にいた。かれは振り返り竜が追ってくるのを待っていた。そしてハアハアと竜の息が近づくと、愉しげに嘶いて再び駆け出すのだった。 「あらら、楽しそうだね」 背伸びしたニワトコと樹上のドルジェがお互いの顔を見る。カンタレラは両腕で自らの体を包むようにして、くつくつと笑っている。 「ごめんなさい、でも、素敵だわ」 これはどうしても、こどもたちに話してやらなくちゃならない。熱い少女と冷たい幻のお話は。むかしむかし、ううん、そんなに昔でもない頃、あるところにね……。 (そうだよね、やっぱり走ったり、したいんだ) サクラはすっとその場に立ち上がって、眼鏡を押し上げた。 森は歓喜に揺れている。 いいや、風だ、いや、ユニコーンの喜びだ。 幻想と現実とかちょうどよく混ざり合う。 (あれは本物じゃないわ) 華月は風に舞う長い髪をおさえ、ユニコーンを追って首を巡らせた。 (あれはまがいものの命、意志はない、ただ、動いているだけ……) でも、そうは見えなかった。 「人形には、見えない……」 華月の呟きは森に溶けて消えた。サクラは仲間と幻を追いながら、シャツの胸元から金の鎖を引き出した。トップには鍵のモチーフが揺れている。木漏れ日を受けてそれはきらきらと輝いている。跳ねるユニコーンの姿を目で追いながら、まぶたを閉じる。スクリーンを引き下ろしたように森が暗くなって、白い幻獣だけがサクラの瞼の中を駆け巡る。 (……あなたにお友達をあげます) 本当ではないけど。本当ってなに? 一頭ずつ、ゆっくりと、同じ印画紙に写真を重ねて焼くように、サクラはまぶたの裏に幻獣を増やしていった。それは目の奥に残った木漏れ日のように、薄いピンクや、水色、黄色にうっすらと色づいている。花冠は無い。 (ねえ、お友達はどのくらい欲しい? 十頭? 二十頭?) そして引き出した鍵を口元に引き寄せ、ちょっと笑った。なぜだろう、その瞬間、なぜその数字が頭に浮かんでしまったのかわからない。多過ぎやしないかと笑い、そして多すぎる事はないと思ったのだ。 「ひとりじゃないよ、もうひとりじゃない、好きなだけ森を駆けるんですよ」 言って、サクラが目を開いたとき、うっすらと色づいた、うつくしいユニコーンの群れが、夕暮れの雨のように早朝の霧のように、森へと押し寄せた。 ● サクラの作り出した、幻覚のユニコーンたちが木立の向こう側をこちら側を、重ねて焼き付けた写真のように駆けて行く。映写機を何台も回すようにそれらは重なって駆けて行く。巻貝のようにほそながい角を額に宿して、彼らは遠くを見つめて走って行く。本物の、否、本物ではない、竜刻の人形たる花冠のユニコーンもまた、その中で純白の身を踊らせている。 「きれい」 それは誰の声だったか、誰への声だったか。 どうしてじっとしていられるだろう。 銀の髪が日に透けてきらきらと輝いている。 風に攫われるような仕草だった。カンタレラは藍色の衣装に包まれた、細い胴を捻り祈りを捧げるように群れの中へと誘われて行った。物語の語り部から、物語の姫君へ。 カンタレラのくちびるからこぼれるのは、古い伝承の歌だ。馬に乗った風の王女の歌だ。彼女は旅を助け、道をひらき、運命をタペストリーに縫い止める。 (さあ、お聞きなさい。そして、楽しんで) ユニコーンの脚もまた、ギャロップから優雅なダンスへと変わる。カンタレラが導く。踊りは受け継がれていく。頭が忘れてしまっても、他のどこかが覚えていることがある。それはわき水のようにふいに身の内に生まれ出る。リズムに乗る。自然と同調する。それは吹く風と足並みを揃え、枝が、森が、カンタレラとユニコーンの踊りに、幻想の群れに巻き込まれて行く。微笑んで目を伏せた彼女の前で、いくつものカーテンが開く。攫われた姫から、美しい森を吹き抜ける風の先導へと。 (みんな記憶するの、全部よ) 花冠のユニコーンは跳ねていた。群れの中で、ひとりっきりではない場所で。その時々、乙女の白い手のように、カンタレラの歌声が、かれの背を撫でていた。 いつしかその神話めいた美しい歌に揺れながら、絵が描ければよかった、と華月は思った。森と同じリズムで、軽い足取りで、木立の間を移動しながら、ユニコーンを目で追った。かれのステップを踏むような脚と、かれが生み出す風の流れを感じていた。それを色と線でスケッチ出来れば良かったのに。だが少しずつ華月の頭の中で銀が、形を作って行く。静かな湖に落ちた波紋のつらなりのように。線と線が繋がって行くのだ。 「こっちよ、さあ」 カンタレラがユニコーンを誘い、その額にそっと頬を寄せる。ユニコーンはまるで気遣うように、その尖った角で乙女を傷つけぬように顎を下げ、目を伏せる。夢を抱くように、かれの頭は長く、軽かった。 群れは遊ぶように、舞うように森を踊り歩いた。 「本物にしか見えないわね」 思わず呟いた言葉にドルジェが頷いた。 「そうですね。竜刻に……感謝しなくては」 華月は続きを待ったが、ドルジェはほとんど寂しそうに見えるほど、微かに笑っただけだった。 竜は諦めていなかった、ただし今度は踊るように、ぱっと目の前に飛び出して、両手を広げた。行かないで、と幻を追って。ユニコーンはちらりと彼女を見た。彼女の中で弾けた熱が肌を通して森を照らす。カンタレラは微笑みながら、竜に手を貸した。 「風に乗るのよ。追いかけても追いつけないのなら、追いかけさせてやればいいんだわ」 ふたり、幻の中で風に吹かれている。 かれらを追いかけながら、森と遊んでいたニワトコが、ふいにしゃがんだ。白い木立の奥で、ふわふわと揺れる彼の髪はひだまりの若草のようだ。そのままじっとしていればウサギが飛び込んでしまうのに違いない。 サクラたちの方に、ユニコーンの群れがゆっくり、休み休みページを捲るように、古いアニメーションのようにゆっくりと駆けて来る。ドルジェは咄嗟に肩を捻って身を躱し、華月は逆に柔らかく腕を伸ばして触れようとした。淡く色づいた大きな風が、雲の群れが、飛び跳ねながら、舞いながら、少しずつ大気に溶けながら、サクラの前で大きく割れた。清流が滑らかな岩の両側に流れるように。 幻はサクラの背後へと注ぎ込み、金木犀の残り香が風に吹かれるように消滅した。そして、花冠のユニコーンだけがサクラの前に残ったのだ。 まるで自分の庭であるかのように、ニワトコが静かな姿勢で歩いて来た。両掌を椀にして、何かを捧げ持つように、何か預かり物を返すように。口元はいつも愉しげに微笑んでいる。森を満たす凪いだ平和と彼の笑顔はとてもよく似ていた。 「ほら、飲んで、おいしいよ」 両手を下げると、ぴったりと合わせた指の隙間から雫がひとつこぼれた。 てのひらの小さな泉に森が映っている。木漏れ日が沈んだ砂金のように煌めいている。 「そこにあったんだ。すぐ近くにあったんだよ」 ユニコーンは少し考えるように、あるいは何かを思い出すように首を傾げた。あるいはそう見えるように風が吹いた。 本当? まぼろし? 華月の頭の中の銀細工を思考が邪魔をする。 人形? それとも、生きてるの。 (わたし?) ユニコーンは角を傾けて、水の中に、鼻先を沈め、そしてくすぐったそうに頭を振った。花冠が揺れた。どう、おいしいでしょうとニワトコも笑った。 ● 「壱番世界だとキングオブセクハラなんですよ」 とサクラはユニコーンの巻き毛をそっと撫でて言った。 「セクハラ?」 「そうそう、女の子じゃないと触らせないとか、しかもね、女の子の中でも、ううん」 サクラは言葉に詰まり、鮮やかに方向を変えた。しみじみと目を細めている。 「だからこのユニコーンを見ていると心が洗われる気がします……」 へえーとニワトコがユニコーンの鼻先をくすぐった。 「私の世界でも、白い幻獣の伝説はあります。……清らかな乙女が側に寄ると大人しくなるとか」 ドルジェもまた目を細めた。 ニワトコの見つけた泉の側で、大樹の元で、彼らは思い思いにくつろいでいた。枝越しに水色の空が見える。 「みなさまは清らかな乙女たる資質をじゅうぶんに持ち合わせていらっしゃる」 ドルジェの穏やかな呟きに、何となく視線が六芒星のように彼らの間を走った。サクラの視線を受けて、ニワトコがニコニコと笑い、生まれた間にドルジェが瞬きし、カンタレラはすべてわかっているという風に微笑んだ。 「女性ばっかりで準備は万端ですね」と竜。 華月は手を伸ばして、ユニコーンの頬にそっと触れた。あたたかくはない、つめたくはない、ひっかかりのない、すべすべしたまるで真夏の夜の石に触れるような、どちらともつかない、不思議な感触があった。 ニワトコが緑の瞳を覗き込む。幻の瞳は宝石のようだった。いくら両手で頬を挟んで近づけても自分が映るばかりだが、顔を傾けるとふいに角度が合致して、自分のずっと背後まで、ユニコーンのずっと向こうまで、合わせ鏡のように彼らが増えていくように思われた。無限の奥行きだ。 「ブラッシングをさせていただきますね」 まるで自分に確認するように言ってから、サクラがブラシを取り出して、まずはユニコーンの柔らかいたてがみをほぐしはじめた。毛先で撫でれば艶がでる、深くとかせば空気を含んでふっくらと立ち上がる。ユニコーンが大人しくされるがままになっているのを見て、サクラは更なる探求をはじめた。 (そう、前に会ったユニコーンもブラッシングをさせてくれましたが、今ここにいるのは……幽霊?) 彼女はいま確かに幻の毛並みを整えているのだ。馬とはちがう白い肌は、優しくとかせばとかすほどまるで綿飴のように、ふっくらと風に伸びるのだった。 「おおっ、これはまさしく幻の獣……」 「もっふもふですね」 撫でれば撫でるほど、白い幻想がまろびでる。白い綿毛は抜け毛にあらず、ブラシの軌跡を延長して、雲みたいに空へと舞い上がった。 「雲を撫でてるみたい」 カンタレラはそっとその白い幻の中に指をさしいれ、ふるい子守唄をハミングしている。ニワトコがぐーっと伸びをする。ユニコーンは軽い頭を完全にサクラの膝へと埋めて目を閉じた。 その穏やかな白い平和から、そっと立ち去ろうとしたドルジェの肘をニワトコが掴む。起きているのか眠っているのかその目は閉じていたが、「みんなの方が愉しいよ、きっと」と言って。 よろしかったら、と竜が皆にお弁当を回す。「お茶もいかが?」とは華月が。柔らかな若草の上で彼らは思い思いに幻想に遊んでいる。 割り箸を割りながら、ユニコーンを見る竜の瞳は燃えていた。 (なんだか、ここ、あったかいな…) と隣のサクラは思いながらも、ひたすら優しく、ひらすら熱心に、ブラシをくまなく動かし続けていたのである。 「ねえ、あれもしかして順番待ちなんじゃないかしら」 ふっとカンタレラの声で我に返り、見ると、木立の向こうで子鹿が丸い目をして彼らを見ていた。あの子だ、と華月が笑って腕を広げた。 ● 「ねえ、譲ってもらっていいかな」 泉の側で、前脚を折り曲げて、ユニコーンは頭を垂れた。ニワトコの白い手が、花冠に触れる。冷たくも熱くもない、不思議な夢の感触だった。 (きみのは痛い? ……ふふふ、痛くないね、よかった) 魔法の時間が終わる。 その変化はゆっくりと訪れた。 まるで角の捻りのひとつひとつが、目盛りのように、花冠が持ち上がるたび映像が変わって行く。コラージュが剥がれて行くように、白い幻は淡く薄く霞んで行った。 消え入りそうなその幻に向かって、竜が跪いて尋ねる。 「あの、友達のために、ユニコーンの角が、要るんです」 消え去る目を開かなかったが、確かに、白い煙はなお頭を下げて、愛しいものに額をこすりつける猫のように、竜の手の中に何かを押し込んだ、そう思えた。そして見る間に、白い幻は白い骨になり、そして土に変わっていた。まるで、最初からそうだったように、草の芽をたくさん含んだ柔らかい土が、彼らの足元に踞っていた。 時が戻ったのか、それとも進んだのか。 遠くで小鳥が鳴いている。 カンタレラは静かに膝を折って、ユニコーンだったものに触れた。撫でると、ともに踊ったユニコーンの、白い毛並みが思い出されるような気がした。 柔らかな土。ところどころに白い物が混じっているが、あっという間に風に乗ってしまう。軽いのだ。華月も並んでそこに座った。小さな土塊を摘むと、ぱりんとそれは指の間で弾けた。 竜はおそるおそる握った手を開いた。 熱いてのひらの上には、白い貝殻がある、と思った。それは小さな骨か石のかけらだった。古い木の枝が貝殻のように巻き付いている。ユニコーンの角に、見えなくもない。 永遠と、一瞬と。 「イメージできたわ」 と華月が風に吹く髪を抑えながら呟いた。彼女の頭の中にはいまは緻密な銀の絵が広がっている。黒い天鵞絨の上に広げられた銀色の夢。どこまでも続く銀色の波。 「どういうのです?」 サクラの問いに空に指で線を描きかけたが、ふいに恥ずかしげな表情になってその指を止めた。 「あの、もし出来たら貰ってくれる?」 「それは素敵です」 物語は形を変えてここにも残る。 風が吹いて、さらさらと、馬の骨が散る。それらは高く舞い上がることなく、地をはって、若草を撫で、森の隅々まで広がって行く。 サクラが鞄から二本、人参を取り出して柔らかい土に寝かせた。おやすみなさい、と呟きながら。 竜は小さな青い花をナプキンで包んで花束にすると、その横に並べた。 「やっと眠れるんですね」 「……うん、全然かなしいことじゃないよ」 ニワトコが言った。この森に来てから、ううん最近ずっと考えていたことだ。何かである、ということ、何かであり続けるということ。揺らぐ不確かな存在であるからこそ、遠くまで行けるのだ。遠くまで来られたのだ。 「姿が変わっても、なんていうか」 かれはここにいる。 「消えてしまう訳じゃないのよ」 カンタレラが静かに本を閉じるように、言った。 ひとりだけど、ひとりじゃない。 終わったけど、終わらない。 さよならだけど、また今度ね。 「行きましょうか」 サクラは言った。生きましょうか。なんてそれは言葉遊び。けれど事実そうしてわたしたちは生きて来た。竜は熱く火照った頬に手をあてた。生きる事は進むこと。立ち止まらないで、前に。 森は巡る、世界は巡る、水はただ流れていく。生きることとは続くこと、生きることとは循環の中に身を置くことそのものなのだ。 明るい森の中を歩きながら、ニワトコは視線を感じてふと振り返った。首をかしげてリスが、サクラの置いたニンジンを見ていた。ぴょこ、ぴょこと草むらから小さな耳が見える。尖った耳はウサギかも知れない。 (全部見ていた?) とカンタレラは声に出さず尋ねた。あなたたちはこの物語をずっと見ていた? これからも、見ていく? そして誰かに、伝えるかしら。 竜が静かにカメラを構えた。 ニワトコはニンジンを食べていいよと仕草で伝えた。 サクラはブラシを取り出すタイミングを見計らった。 華月の胸にはまたひとつ銀細工のアイデアがうまれた。 カンタレラは閉じた物語の余白に、愛らしいリスとウサギを書き加えた。 ドルジェは彼らの中に混ざってしまいたいと思った。 願わくば長い長い循環の時を。 枯れることのない命の森よ。 命はめぐる、生は続く、森はすべてを飲み込んで。 「おやすみなさい……、そう遠くない未来に、また、ね?」 サクラの呟きを背に乗せて、光に満ちた森を、白い風が静かに渡って行った。
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