オープニング

 むき出しの水道管やら配水管やら、様々なパイプが、路地脇に並ぶ建物の壁面と言わず路地上と言わず、あらゆる場所に通っている。それらのせいもあって、ただでさえ手狭な路地がことさら狭く細いものに感じられる。その細い路地がうねうねと折れ曲がり、あちこちに通じ、そのうねうねと曲がった路地に沿って並べられる建物は風の通りをも塞いでしまっているようだ。
 猥雑な印象の色濃い世界インヤンガイの一郭に広がるその区域は、半ばスラム街のような有り様だ。狭く、空気の澱んだそこここに隠れ住むようにして、それでも存外に多くの人影が見受けられる。ボロを張った露店が点在し、ネジだの鉄くずだの、用途の定かではないものが並べ売られていたりする。
 その区域にもかつてはジンジュウ(古典演劇)が来ていたらしい。その名残か、年寄りたちは時おり思い出したように懐かしく語るのだ。それがどれほどに流麗で鮮やかな、華やかなものであったのかを。今は廃屋と化して久しい小劇場が、その時ばかりはどれほどに殷賑(いんしん)を極めていたのかを。老人たちは目を細め懐かしみ、昔語りを進めるのだ。けれどもふと言葉を濁し、目線を所在なさげに彷徨わせる者も、中にはいた。その小さな異変を感じ取って「どうしたのか」と訊ねる子らに、老人は微笑みかぶりを振る。
「なんでもない。昔のことさ」そう言って。

◇ ◇ ◇

 初めはどこかのパイプや何かが軋んでいる音かと思った。キイキイと甲高く、何かが咽び泣いているかのようなその音を耳にして、ユエは眠りかけていた頭を揺り動かした。
 生活排水を吐き出すパイプやその他あらゆる用途をなすために通されているいくつものパイプ。そのほとんどが、今にも壊れてしまいそうなほどに古びている。風もろくに吹き流れてこないような吹き溜まりは、そういった金属音や誰かしらの金切り声、様々な音で溢れているのだ。聞き慣れない音がひとつ耳に届いたところで、この一郭に住むユエにとってはさほど気にすることでもない。
 穴の開いた古い毛布をかぶり直してもう一度目を閉じる。朝になったら質屋の店主のところに出向かねばならないのだ。出不精な質屋の足となってインヤンガイのあちこちを走り回り、わずかばかりの金品を得る。そうやって生計を立てているのだ。
 キイキイという甲高い音は少しずつ近付いてきている。どうやら移動しているようだ。ならばパイプなどではなく、誰かが酔狂や何かで立てている音なのだろう。それもありがちな事だ。この一郭には特異な種類の人間も少なからず住んでいるのだから。
 音はユエの部屋の窓の外近くを通り過ぎ、それから間もなく、おそらくは少女のものと思しき小さな叫び声が夜の闇を裂いた。弾かれたように身を起こしたユエは、目隠し用にと張っただけの布をそっと押しのけて窓ガラス越しに外を見た。
 点灯されたままの看板が明滅している。その向こうには小さな廃屋がうっそりと影を落としている。かつては賑わった小劇場だというが、今はその面影すらもない廃屋にすぎない。どこから流れてきたとも知れない浮浪者が住み着いたりもするのだが、数日ともたず、すぐに出て行ってしまうような場所だ。怪異が起きるのだとか呪われているのだとか、様々な曰くを抱えている場所でもある。
 その小劇場前にいくつかの人影があった。ゆらゆらと揺らめくその様は風になびく洗濯物のようだ。
 ユエは知らず息を飲み、その影を眺めていた。なぜかとても強く視線を奪われたのだ。
 人影は何かを手にしていて、キイキイという音はそこから発せられているようだ。それに合わせるようにゆらゆらとうねる者もいる。残りの影は跪く人影を引きずるようにしており、少女の叫び声はそこから発せられている。
 小劇場の古いドアが開く。広がったものは夜の闇よりもさらに暗い闇であるように見えた。その中に吸い込まれ消えていく影の姿を、ユエは知らず息を潜めて見つめていた。気がつかれてはいけない。そんな気がするのだ。
 ゆらゆらとうごめく影は次々とドアの奥に消え、最後にひとつ、弦楽器のようなものをつまびく影が残された。それもほどなくドアの中に足を踏み入れる。ユエは小さく安堵の息を吐き、布をそっと戻そうとして動いた。
 その時だ。
 ユエは見てしまった。見てしまったのだ。
 弦楽器のようなものを抱え持つ影の顔を。それはユエを見つけてしまったのだ。ユエは見つかってしまった。キイキイという音が嗤い声のように耳に響く。
 叫びだしたい気持ちをこらえ、ユエは毛布の中に身を隠した。身体を屈め、恐怖で手足が冷えていくのを懸命にこらえる。
 ――見つかってしまった……!!

◇ ◇ ◇

 銀縁の片眼鏡を指の腹で押し上げながら、世界司書は開いたままのページに目を落とす。
「この一郭では少女の失踪が相次いでいるようです。もっともインヤンガイではといいますか、この地区では失踪など日常的なものとも言えますから、皆さんそれほど気にはとめていないようです。が、どうやら一連の失踪の影には猟奇的な気配があるのも事実なのです」
 言って、司書はテーブル越しに向かい合う五つの顔を順に眺めた。
「この一郭には探偵と呼べる存在もありません。皆さん、ご足労いただいてもよろしいですか?」

品目シナリオ 管理番号250
クリエイター櫻井文規(wogu2578)
クリエイターコメントインヤンガイでのシナリオのご案内にあがりました。お目を通してくださった皆さま、ありがとうございます。お心を惹くOPであれば幸いです。

さて、文中、いくつかの補足がございます。
まずは「ジンジュウ」ですが、これは京劇を指すものであります。つまりは京劇に似たものであったのだろうと想像していただけるとよろしいかと。
小劇場の中には、この地域の住人たちは足を運びたがりません。邪気が巣食うのだとか、そんな感じで避けられているのでしょう。現在は浮浪者やそういった者は住み着いてはいません。

小劇場内は昼夜問わず闇に支配されています。

ユエに対する処置はお任せします。保護しつつ小劇場内を探索するでもよし、保護等は一切無視するというものでも良いでしょうし。


あと、申し訳ないのですが、製作日数を少し多目にとらせていただいています。よろしくご承知くださいませ。
それでは、皆さまのご参加、お待ちしております。

参加者
サーヴィランス(cuxt1491)ツーリスト 男 43歳 クライム・ファイター
虚空(cudz6872)コンダクター 男 35歳 忍べていないシノビ、蓮見沢家のオカン
黄燐(cwxm2613)ツーリスト 女 8歳 中央都守護の天人(五行長の一人、黄燐)
ロディ・オブライエン(czvh5923)ツーリスト 男 26歳 守護天使
那智・B・インゲルハイム(cyeu2251)ツーリスト 男 34歳 探偵/殺人鬼?

ノベル

「ちょっといいかな? いくつか訊きたいことがあるのだが」
 路地脇で、露店と思しき場所で鉄くずを並べていた男をつかまえて、那智・B・インゲルハイムは穏やかな笑みを浮かべながら首をかしげた。那智に声をかけられた男はうっそりとした表情で振り向き、面倒くさげに口許を歪める。
「すみません、すぐに終わります。――こちらには小劇場があると聞いて来たのだけれど、その小劇場はどこにあるのか、教えてくれるかな」
 拒絶の表情を色濃く浮かべている男の視線にも、那智の笑顔はわずかほどにも曇らない。それどころか、用途も知れないような鉄くずをひとつ手にとり、「これ、いただいてもいいかな」そう言ってインヤンガイで使われている貨幣を数枚、差し出した。鉄くずを購入する代金としては不相応の、それどころかインヤンガイという街ではなかなか目にすることもないような枚数だ。男は表情を一変させ、那智の顔と貨幣とを数回見比べた後、そそくさとそれを受け取りポケットにしまいこむ。
「……小劇場か、アンタたち、小劇場に行くのか」
「出来れば早めにね」
 うなずいた那智の後ろには、那智のほか、四人分の人影がある。男は全員の顔を順に眺めた後、小さな唸り声のような声で喉を震わせた。それは引き攣った笑い声だった。
「あそこは呪われてるんだ、呪われてる。あ、アンタたち、探偵とか霊能者とか、そ、そんな類の連中か」
「私は一応探偵のような真似事を少し。彼らは、私と目指す場所を同じくして、ここにいらした方々です」
「た、探偵か。ひっひ、この辺で探偵なんてモンを拝めるなんざ、お、おれももう長くねえのかなあ」
 引き攣れた笑い声で喉を震わせながら、男はゴザの上に置いた鉄くずの整理を始める。せかせかとした動きは、男の精神が病んでいるのであろうことを周知させた。
「昔、ここにジンジュウってのが来てたらしいじゃねぇの。そのジンジュウってのが出入ってたっていう劇場だよ。この辺にあるんだろ?」
 穏やかな表情をひとつも崩すことなく微笑んだままの那智の後ろから、銀髪蒼眼の男が顔を覗かせる。おそろしく整った顔立ちは、インヤンガイの住人たちとは異なる異邦のそれを充分に彷彿とさせる。鋭利な刃物の切っ先を思わせる視線は、那智とは異なり、一片の笑みもなく、ただまっすぐに鉄くず売りの顔を見据えていた。銀髪のその男の名は虚空といった。
「おれは詳しくなんか知らねえよ。ほ、ほら、あっちの、見えるかい、なあ、あっちにいるだろ、釘売りのジイさんさ。あのジイさんならし、知ってるよ、ひ、ひっひ」
 男が指差す方角を見やると、確かに。決して広くはない小路の向こう側、角にあたる一画に、ひとりの老人がこちらを見ているのが知れた。
「ありがとう」
 礼を言い、那智は鉄くず売りの前を離れ小路を歩き出した。老人のいる場所まで数分の距離ではあるのだが、小路を挟み並び立つ住居の内外からまとわりつくような視線が寄せられているのが分かる。それは品定めするかのような視線であり、あるいは異邦の者を物珍しくみるものであり、そうして不吉なものを見るような、怯えの入り混じったものでもあった。
「なんなの、気持ち悪い」
 周囲から寄せられる視線をうけて、居心地悪げにそう吐き捨てながら、ぽてぽてと早足気味に歩き進むのは、蒲公英色の髪をツインテールに結い上げた少女・黄燐だ。黄燐はその顔を単眼模様を描いた薄黄の布で隠しているために、その風貌から実質的な年齢を窺うことは難しい。だが、「ねえ、もう少しゆっくり歩いてくれない? あんた達そろいも揃って、あたいはあんた達と違って身長だってこんなに小さいんだから、もう少し気を使ってほしいのよね!」前を行く四人の男たちに向かって声を張り上げる様は、やはり子供のそれであるようにも思われる。顔を覆う薄布の下、形良い唇がむっすりと横に引かれた。
 ふわふわと流れる春風のような黄燐の衣は、インヤンガイの薄汚れた小路の上には決して似つかわしいものとはいえない。やはりどうしても人目は引いてしまう。
 寄せられるいくつもの視線の中に、ひとつだけ違和感のあるものを感じ取った黄燐が、ふと歩みを止めた。それに気付いたロディ・オブライエンもまた同様に足を止める。
「どうした?」
 訊ねながら数歩、黄燐の近くまで歩を進めた。
「あそこに」
 言いながら示す黄燐の指先を追う。指差しているのは釘売りの老人のいる露店の数軒手前、一軒の小さな三階建てのアパートだった。そのアパートの一番下の階を示している。
 年若い女がひとり、布の隙間から片目だけを覗かせて、こちらを窺っていた。その目には欲も興味もなく、何か、救いを求めているかのような感情が滲んでいる。
「……俺たちに話でもあるのかもしれないな」
 言って、ロディは黄燐に背を向け、まっすぐにそのアパートを目指し歩き始めた。
「あたしも行くわ」
 身丈も歩幅も大きく異なるロディの後を追い、黄燐もまた走り出す。女はもう布を引いて閉じてしまっている。が、部屋数は多くない。どの部屋がそうなのか、すぐに分かるだろう。
 進路を逸れたふたりに気付いたのか、虚空と那智の後ろを歩いていたサーヴィランスが、歩みのペースを緩め、肩越しに振り向いて口を開く。もっとも、その顔は覆面で覆われ、さらにその上に大型のゴーグルを装着しているために、表情の変化ひとつ窺い知る術はない。屈強な身体にはボディーアーマーを着込み、その上にフードのついたマントを羽織っている。その厳重なまでの出で立ちは、どこか外界との接触の一切を拒絶してでもいるかのようにも見えた。

「どこへ行く?」
 覆面の下から、サーヴィランスの低い声が放たれた。名を呼ばれたわけではないのだが、自然、黄燐とロディが足を止める。
「あの部屋から、女の人がこっちを覗いてらしたの」
 黄燐が口を開いた。
「……ふむ」
 サーヴィランスが小さな反応を示したのを受けて、黄燐は女が覗いていた部屋を指し示す。対するサーヴィランスの表情はおろか、視線の向きでさえも杳として判別つけ難い状態ではあるのだけれど、間をおかず、サーヴィランスが「なるほど」と小さくうなずいたのを見て、黄燐は言葉を続けた。
「あたしたちに、何か言いたいことがあるみたいなのよ。気のせいならそれでいいんだけど」
「一応、確認をな」
 ロディが続く。
 サーヴィランスは、女の影の窺えない小さな窓をしばし検めた後、「そうか」と小さくうなずき、続けた。
「現場となっている劇場、もしくはこの周囲で、かつて、どのようなことがあったのか。それは確かに調べ、認識しておく必要はある。この周辺で失踪者が相次いでいるというのは事実なのだからな。だが今は、それを悠長に調べている暇はないと、私は見ている。……すまないが、私は先を急がせてもらう」
 言って、サーヴィランスはその巨躯を一軒の鄙びた建物に向ける。
 ――龍活劇場
 古い、掠れた文字ではあるが、辛うじて読める看板が、その建物の入り口に立てかけられていた。元々は壁に張り付いていたのだろうが、今は釘穴も朽ちてしまったらしい。釘は持ち去られたようだが、看板はこうして残されているのを見るに、この劇場がいかに特別なものであるのかを思わせる。かつては殷賑を極めた施設であるというが、その楽しかった名残に対する懐古ゆえのものなのか、あるいは恐怖による、――例えば触れるだけで呪われる、祟られるといったような吹聴が伝播しているのかまでは、定かではないが。

 黄燐はサーヴィランスの背を送った後、その向こうでこちらを見ている虚空に向けて、ひらひらと片手を泳がせた。虚空は那智と共に、釘売りの老人から話を聞くべく向かっているところのようだ。
「そんなわけだ、俺たちはこっちを見てくるから」
 ロディが虚空にそう声をかけると、虚空もまた同じく片手を持ち上げる。
「了解、後で落ち合おう。――劇場でな」

 ◇

 釘売りの老人は眼前に並んだふたりの男を見比べた後、ゆっくりと視線をずらし、廃屋と化して久しい小劇場“龍活劇場”に立ち入っていく大柄な男の背中を見つめ、小さな、しかし深い息を吐き出した。
 劇場は施錠もされているわけではなく、朽ちた扉は容易に開閉できる。言ってしまえば小さな子供ですら簡単に立ち入ることのできる場所なのだ。事実、どこから流れてきたとも知れないような浮浪者が飲み込まれていくことも珍しくない。吸い寄せられるように劇場に立ち入って、けれども大抵は決まって数日の内に精神を病み、転がり出てくるのだ。
 彼らは決まって同じことを口走る。

「あの劇場、いわくつきだったりしねェか?」
 後ろ手に劇場を指差しながら、虚空はわずかに首をかしげた姿勢をつくる。
 老人は生気の薄い眼孔をゆっくりと動かし、虚空の顔を仰ぎ見た。少なくとも老人が長く住んできた界隈では目にしたことのない色の頭髪、眼色。「異国から来なすったのかね」小さく口を動かしてはみるが、それは言葉という形を成すことはなく、もごもごと口ごもる、曇った音にしかならなかった。
 虚空は、ごもごもと口ごもる老人に対しわずかに片眉を跳ね上げはしたが、わずかに首を撫でるような仕草をしただけで、応えを待つことをせずに再び口を開く。
「誰かが死んだとか、殺されたとか、そんな話が過去になかったどうかを聞きてぇんだけどな」
 言いながら、老人の売り物である釘をひとつ手に取って目を落とした。どこかから引っこ抜いてきたもののようだ。並べられているものの中に、新品のものは見るかぎりひとつもない。
「釘……釘はものを張り付けるために使うんだ。知ってるか、金づちで打つのさ。釘で打たれたものは壁に張り付けられて動けなくなるんだ」
 老人は独り言を呟くような口ぶりでそう告げて、枯れ木のような細い腕で釘を打つ動きをしてみせた。
「そ」
 口を開きかけた虚空を制し、代わりに静観していた那智が穏やかな声音で口を開く。
「昔は、ジンジュウがあの劇場に立ち寄っていたそうですね」
 微笑みながら声をかける。老人は那智の言に肩を揺り動かし、弾かれたように動いて那智の顔に目を向けた。
「ああ、そうだ。あんた、ジンジュウを知ってるのか」
「いいえ、残念ながら、見たことはありません」
 そう返して肩をすくめてみせると、那智はゆるやかに言葉を続けた。
「そうですね、噂……というよりは知識として“識っている”というほうが正しいのかな。見目に鮮やかな色合いの着物を身につけた役者が、それぞれの役どころ……ええと、確か、“ション”“ダン”“ジン”“チョウ”、主としてこの四つに分類されるんでしたよね」
 言って、那智はゆるゆると目を細める。笑顔の仮面をはりつけたような表情だ。
 那智の表情を横目に、虚空は口をつぐみ、言葉を飲む。釘売りの老人は那智の表情を汲み取ることができず、――否、まるで遠い過日を懐かしみながら独り言をごちるような口ぶりで、ジンジュウがどれほどに華やかですばらしいものであったのかを語り始めた。
「オレが好きだったのはチョウさ。知ってるかい? 顔の真ん中を白く塗ってな、道化だよ、歌ったり踊ったりするんだ」
「……俺ァ、そのジンジュウってのを知らねェんだが、ただ楽しく歌って踊るだけなのか?」
 虚空が言を挟みいれる。
「ジンジュウというのは古い伝承や歴史をモチーフにした物語を踏まえた内容となっていることが多いようです。もっとも、この街に神話や歴史というものが在るのかどうかは、改めて調べてみないと分かりませんが。……そうだな、私が識っているのは悲恋ものだとか、そういった内容のものですね。もっとも、この街におけるジンジュウが、私が知識としておさえているジンジュウとまったく同じものだとも思えませんが」
 応えたのは老人ではなく那智だった。那智はひとり過日を懐かしむ老人に視線を向けたまま、その老人の語りを邪魔しないよう配慮しているのか、ささやくような小声で話している。表情は変わらず、笑みをはりつけたような形で固定されたままだ。
「彼が好きだったと話している“チョウ”にはウェンチョウ(文丑)とウーチョウ(武丑)があるそうです。どちらも滑稽であったりおどけていたりする役どころではあるのだけど」
 那智はそこで一度言葉を区切り、ゆっくりと視線を虚空に寄せる。
「彼らが必ずしも善人であるとは、限らない」
 そう言葉を落とし、那智は紫色の双眸をさらに細く、三日月のような形へと変化させた。

 ◇
 
 確かに、劇場やこの周辺の地域で、過去にどのようなことがあったのかは気になる。かつてこの劇場を訪れていたというジンジュウなる一行から死傷者が出たのかもしれない、あるいは彼らに因するなんらかの事件があり、観客側――つまりは地域の住人たちから死傷者が出たのかもしれない。死傷とは無縁の何かが生じたのかもしれないし、――つまるところ、それらはいくらでも想定できるのだ。
 むろん、そういった情報を収集することも必要だ。サーヴィランスは持参してきたヘッドランプを着用すると、マスクの下に隠した口をかたく横に引きしめる。
 しかし、生存者がこの劇場内にいた場合を想定すれば、情報収集に使う時間が、あるいは生存者の命を脅かす猶予となりえてしまうかもしれない。今は生存者の確認、確保が最優先だ。 
 考えて、ヘッドランプを点す。
 龍活劇場、という名の劇場だったらしい。それは朽ちかけた入り口の横にあった看板を見て確認した。龍とは、いずれにせよ大いなる存在を意味するものであったはずだ。大仰な名前を冠したこの小さな空間が、どれほど特別な場所として扱われていたのか、想像に難くない。
 入り口を抜けると小さなエントランスフロアが広がった。とはいえ、チケットを扱ったりするためのブースなのだろうか? 小さく狭いカウンターが隅の角に置かれているだけで、待ち合いのためのソファやテーブルらしきものがあるわけでもない。フロアのすぐ向こうに観音開きのドアがひとつ。そのドアも形を成してはおらず、その奥に広がる暗闇が一望できる状態になっている。
 ヘッドランプが闇の奥を照らす。その次の瞬間、サーヴィランスはゴーグルと覆面の下で表情を歪ませた。
 覆面で顔を覆い隠していなければ、そうして、もしも万が一、この場に立ったのがサーヴィランスのような者ではなく、いわゆる常人であったならば、たちどころに吐瀉し、床を汚していただろう。
 ランプが照らす暗闇の向こう、――小さな段差を越えた舞台の壁に、一見、人形ではないかと見紛うようなものが数体、きらびやかな装束に包まれ踊るような格好ではりつけられていたのだ。

 ◇

 案の定、女の部屋はすぐに判別できた。
 コンクリートがむき出しの壁や廊下は内装といった色気のあるものは一切施されてはおらず、窓にはられたガラスはひび割れ、窓ガラスとしての役割も大して果たしてはいないようだ。廊下も狭く、階段は勾配がきつい。廊下の天井に吊るされた電球は強く明滅している。管理も届いていないのだ。住環境としての条件は好いとは言い難いものだろう。
 部屋はふたつあった。一フロアに二部屋といったところか。もっとも、ひとつはドアノブも壊され、ドアは半分開いたままになっている。覗き見る室内は物置のような状態で、とてもではないが人が住んでいる空間だとは思えなかった。
 ロディは前を歩く黄燐や周囲に向けて気を配る。もっとも、廊下の窓のすぐ外には隣接している建物があり、暴漢が身を潜めるほどの広さもない。物置のような部屋の中にも人の気配は窺えず、つまるところ、周辺に黄燐やアパートの住人の安全を脅かすような者はいないということになる。
「誰かいます?」
 残るひとつの部屋のドアはきっちりと閉ざされていた。黄燐がそれを数度たたき、数度同じ呼びかけを繰り返す。「さっき窓からあたしたちのこと見てたわよね。話を聞かせてほしいの。ここを開けてもらえない?」
 言いながら、黄燐はそれからも何度かドアを叩いた。
 応えはなく、黄燐が肩をすくめロディの顔を仰ぎ見て「居留守、よね?」そう口を開きかけた矢先のこと。
 かたく閉ざされたままだったドアが小さな音を鳴らし、それからおずおずと、何かに怯えているかのように、ひとりの女がドアの隙間から顔を覗かせた。
「……助けて、くれますか」
 消え入りそうな声でそう告げた女に、ロディが出来るかぎりのやわらかな笑みを浮かべて首肯する。
「そのために来たんだ。……話を聞かせてくれるか?」

 ◇

 老人の懐古が途切れたのは、虚空が放った問いかけの影響だったのかもしれない。
「そういや、妙なものを見たっていう子供がいるらしいな。本人から聞いたわけじゃねェし、そもそも本人に面通りしたわけでもねェんだけどな」
 そう訊ねた、次の瞬間。それまで過日を懐かしみ穏やかな笑みを浮かべていた老人が、突然表情を一変させたのだ。
「……見た? 何を」
「さあな、詳しくは知らねェよ。さっき仲間がふたりばかり話を聞きに行ったみてェだし、そろそろ分かる頃じゃねェのかな」
 応え、虚空は肩に乗せたフォックスフォームのセクタンの頭を撫でた。手入れの届いた毛並みは指通りも良く、撫でてやるとセクタンもまた甘えるように虚空の頬に顔を摺り寄せてくる。
「何かご存知で?」
 老人が見せた変化にも、那智の笑顔は揺るがない。小さく喉を鳴らし、間を置かずに言葉を次げた。
「もしかして、この界隈で起きている、少女連続失踪の件に関すること……とか」
 ガタン
 老人がわずかに腰を浮かす。
「し、知らん、知らんよ、わしらは何も知らんのだ、本当だ、本当だとも」
 早口でそう言い放つ老人の顔には、今や笑顔などかけらほども残されていない。しかし焦燥やおののきといったものが浮かんでいるわけでもない。その表情からは、そう、恐怖という感情のみが窺える。
「わしらは連れていくだけだ、連れていくだけなんだ、本当だ、ああ本当だとも、あいつらが何をしているかなんて誰も知らない、知るはずもないだろう? なあ、ああ、そうだ」
 怯え、視線をぐるぐると忙しなく移ろわせながら、老人は助けを請うように虚空のシャツをわし掴んだ。その手を引き離し、老人の、今にも折れそうな細い肩を掴みながら、虚空はまっすぐに老人の顔を見据え、口を開いた。
「……ジイさん、聞かせてくれるか。――昔、あんたたちの間で何があったのかをだ」

 ◇

 壁にはりつけられていたのは、ざっと見た限りでは五体の遺骸だった。白骨化した遺骸からはさすがにどのような表情を浮かべ死していったのかを窺い知る術を得ないが、少なからず分かるのは、どの遺骸も両手と両足を大きな釘で固定されているという共通点を持ち合わせているという事だった。また、おそらくは年齢も性別も同じだろうと思われる。
 まだ肉の残る遺骸を前に、サーヴィランスは表情を歪めた。
 十代の半ば、あるいは後半ほどといった年頃だろう。黒髪に、顔の造形も比較的可愛らしい、のかもしれない。もっとも顔の半分以上、そして身体の大半が腐り液状化しているその様からは、生前の姿態がどのようなものであったのかを知る事すら難しい。
 しかし、異常なのは、その顔にはりつく表情だろう。
 少女は笑っているのだ。口を大きく歪め、舌をだらしなく垂れさげて、辛うじてしがみついている片側の眼球は上向きになって、まるで狂喜し踊り狂っているかのようだ。
 喉を釘で打ち抜かれた後も、少女はこうして笑っていたのだろうか。あるいは、正常さを手放していたのか――?
 いずれにせよ、遺骸はもう救助の見込みもない。
 サーヴィランスは踵を返して舞台脇にある吹き抜けの通路を捉え、歩みを進める。
 舞台上には目立った設備もない。万が一に劇場内に被害者、もしくは加害者が身を潜ませているとするならば、そのための空間はさほど多くもないはずだ。楽屋、そして衣裳部屋。そして照明設備。
 天井を仰ぎ見る。ライトの明かりがまっすぐに頭上を照らしだす。ホコリの舞うのが見える。天井もそれほどには高くない。が、それでもサーヴィランスの身丈よりは高い位置にある。
 大きなパイプが張り巡らされている。その中に小さな照明がいくつか見受けられた。むろんそのどれもが壊れている。照明としての用途は為さないだろう。
 一通り上部を確認した後、次いで、吹き抜けをくぐる。そこは衣装部屋となっていた。古くなり湿ってカビの温床となった衣装が数点、壁に吊るされたままになっている。そして、ここにも隠れるような場所はない。
 他には部屋らしい場所もない。小さな劇場だ。足もとも検めてはみたが、床下に空間があるようにも思えなかった。
 小さく息をつき、再び舞台を目指し踵を返した。と、その時だ。
 どこからか、キィキィという音が響き始めたのを、サーヴィランスは確かに聴きとめたのだ。

 ◇
 
「音がしたから覗いたんです」
 ユエと名乗る少女は震える声でそう告げた。
 椅子の代わりに粗末なベッドに腰を落とし、両手で肩を包み込むような姿勢を作って、身を屈め、小刻みに揺れている。そのすぐ横に腰を据えた黄燐が、ユエを宥めるように背中を軽く撫でていた。
ロディはユエと向かい合わせの位置に椅子を置き、それに腰を落として足を組んで、その膝の上に肘を置き頬杖をつく。そしてユエの顔をまっすぐに捉えて口を開けた。
「劇場の中に連れて行かれたっていう女の顔に見覚えはなかったのか?」
「た、たぶん。暗かったし、その、……怖くて」
「女を連れていった連中の人数もわからないんだな」
「……ごめんなさい」
「ちょっと、その言い方なんなの? ユエ、こんなに怖がってるでしょ?」
震えるユエの肩を抱いて、黄燐がロディの語調を責めるように、たしなめるように口を開く。だがロディはと言えば黄燐の言葉などどこ吹く風といった様子で、頬杖をついたままで片眉を跳ね上げている。
「それが昨日の夜のことだった、と」
 訊ねたロディに、ユエは消え入りそうな声で「はい」とうなずいた。
「ひとつ、訊いていいか」
「言葉遣いに気をつけなさいよね」
 黄燐がユエの背中を軽く撫でながらロディをねめつける。
「おまえは何をもって、夕べ見たものに“恐怖”しているんだ?」
 むろん、理由も根拠も持たない恐怖、というものもあるだろう。ユエは夕べ目にしたものを単純に恐怖しただけなのかもしれない。同じ年頃だろうと思しき女が、誰とも知らぬ連中にさらわれたのを目撃しているのだ、無理からぬ話ではある。
「インヤンガイという街では少女の失踪など珍しい話でもないと聞く。物騒な話だ。それが日常的なものである以上、多くの人間はそれを特別視するわけでもなく、もちろん恐怖すらしないわけだからな。感覚が麻痺している、という表現が正しいのかもしれないが」
 息を吐き、ロディは姿勢を正した後に再びユエの顔を覗きこんだ。
「おまえは何に怯えている?」
 再びそう問いかけたロディに、ユエは弾かれたように泣き崩れる。
「あの劇場では美しく装われた死者が、今でも演じ、舞っているんだと聞きます。チョウに選ばれた者、あるいは彼らの姿を目にしてしまった者。そういった者たちはチョウにさらわれ死者となって永遠に捕らわれ、踊らされるんだって」
 しょせん単なる言い伝えや都市伝説のようなものだと思っていた。だから初めに目にした時もあれがそうだとは思えなかった。ただ目を奪われ、息を殺した。――なのに。
「私も、……私も見つかってしまった……。次は私がさらわれる番なのかと思うと……」
 両手で顔を覆い、泣き崩れたユエの背中を撫でながら、黄燐はしばし口をつぐむ。そしてふと顔を持ち上げ、ロディの顔を見据えると、顔を覆う薄布を捲りあげて口を開けた。
「あたしが劇場に行けば、もしかしたら時間稼ぎぐらいにならないかしら」
 薄布に隠されていた素顔は稚い幼女といって過言ではないもので、質の良い蜂蜜のような金色の双眸がひらひらと光を帯びて閃いている。
「……少女というよりは、幼女だな」
「木履を履くわよ。それでこうやって顔を隠せば、見た目の年齢ぐらいどうとでもなるわ」
 言って、黄燐は稚い見目には不釣合いな、どこか艶然とした笑みを浮かべて首をかしげた。

 ◇

 キイキイと響く音がどこから発せられているのかを検めるため、サーヴィランスはもう一度、改めてヘッドランプで四方をくまなく照らした。
 おそらくは楽屋と衣裳部屋とを兼ねたスペースとなっているのであろう空間を端から端まで照らす。決して高価なものとは思えない椅子が三脚、その上に無造作に置かれた書物があった。歩み寄り覗いてみる。紙は湿気を吸い捲るのも容易ではなさそうだが、いずれにせよ、黄色地に鳳凰と牡丹の刺繍の施された艶やかな着物をまとった役者が剣舞をしている写真が写し出されていた。
 音は次第に明瞭なものとなっている。まるで音を鳴らす何かが遠くからこちらに近付いてきているかのようだ。
 サーヴィランスは頭を持ち上げ、衣裳部屋を改めて照らして確認した後、再び舞台に続く吹き抜けに足を差し向ける。――そして、ふと足を止めて振り向いた。
 さっきまでと、何かが違う。
 片手をランプに当てて光の強度を調整しながら、サーヴィランスは小さな息をひとつ吐いた。
 壁に吊るされていた衣装がすべて無くなっていたのだ。

 ◇

 龍活劇場に足を踏み入れた虚空と那智が見たものは、照らす明かりのひとつも無い中で優美に跳ね踊る、ひとりの少女の姿だった。
 舞台の端には形の定まらない、まさに暗闇の塊のようなものが、二本の弦を張った竹筒を弓で爪弾いている。キイキイという音が、一条の光もない闇の渦の中で鳴り響いていた。さらにその音に続き、鼓を叩く音までもが入り混じり、少女の舞踊を支援するかのように音色を奏でている。
 少女は、まさにテーン、テーンと跳ねるように宙を舞う。隈取された顔に表情はなく、そもそも意思を持たない操り人形のようだ。
 舞台の壁には少女と同じような装いを施された死骸が、やはり舞踊をしているかのような格好ではりつけられている。死骸はもはや微塵も動きはしないが、装いの華美さはむしろ舞台を彩る装飾のようでもある。
「……あれは」
 虚空が口を開きかけたのと同じタイミングで、舞台袖から飛び出てきたサーヴィランスの手から何かが放たれ、同時に、跳ねていた少女は何かから解放されたかのように、そのまま力なく舞台の上に崩れ落ちた。
 弦や鼓を鳴らしていたものが、同時にぴたりと手を止める。楽の音は止まり、湿った闇だけが残された。――否、そこには未だ楽器を手にしたものが留まり、舞台の上には崩れ落ちた少女がびくりとも動かずに転がっている。見れば、少女の両脚はそれぞれ奇妙な方角にねじれていた。
「……暴霊」
 サーヴィランスの、抑揚のない声が暗闇の中に落ちる。
「違う」
 虚空がそれに向けて応えを返したが、その時にはもうすでに、サーヴィランスは巨躯に見合わない俊足をもって舞台上に駆け上がっていた。

 ◇
 
 ぽくぽくと足音を鳴らしながら、黄燐はロディと連れ立って龍活劇場のドアをくぐり抜けた。
 陽は沈み、先ほどまで路地の上に姿を見せていた住人たちの姿もなくなっている。釘売りの老人も、それを教えてくれた鉄くず売りの男もいなくなっていた。明滅する看板、電飾。悪臭を放つ排水を吐き出すパイプの群れ。それらを横目に見ながら入り口をくぐりぬけると、そこにあったのは混じりけのない暗闇だった。
「俺の近くで、静かにしてろ。いいな」
 連れ立ってきたユエを横に置きながら、ロディが言う。
 黄燐は先を歩いている。灯となるものを持ってはいないが、彼女は暗闇の中でも視界を奪われることはないのだと笑った。ユエの部屋にあった小さなランタンには油はそれほどには残されてはいなかったが、それでも足もとを照らすものとして、無いよりはましだ。
 ランタンで足もとを照らしながら歩くロディの袖を、ユエの手が力なく掴む。それによって動きが制されてしまうようではあるけれど、かと言って、離して歩くのも気が引ける。
 ぽくぽくと先を行く黄燐が、そのとき、小さな悲鳴をあげた。
「どうした」
 ランタンをかざし黄燐を検める。
 黄燐は三つの人影――どれも華美な装束をまとい、人の形をしてはいたが、とにかくそれらに囲まれた状態で宙に浮かされ、じたばたと両脚を動かしていた。
「ちょ、やだ、何これ!」
 じたばたと動きながら、片腕が自由に動くのを知った黄燐は、腕を振り上げ、そして振り下げた。研がれた刃先のような鋭利さを得た爪先が、華美な装束の肩から胸下までを袈裟切りに引き裂く。裂かれた装束の隙間からは闇が飛散し、人の形をしていたものがひとつ、その形をなくした。装束は床に落ち、同時に自由を得た黄燐がその上に降りて地団太を踏むように踏みつけた。
「やだっ、やだっ、もう!」
 装束はカビて腐っていた。幾度か踏みつけると簡単に布片へと変じる。
「なんだ……これは」
 言いながら、ロディは残る“それ”がこちらを振り向いたような感覚を得て、咄嗟にトラベルギア【デス・センテンス】を手にとり引鉄を引いた。

 乾いた銃声がエントランスフロアから聞こえた。
 トラベルギア【涅槃】が弦を爪弾いていたものを貫き、弦が一片の炭を残すこともなく消え落ちたのを確かめた後、虚空は肩越しに振り向いて銃声のした方に目を向けた。
 気配は、ある。確とした“人”の気配だ。黄燐とロディが追いついてきたのだろう。目を細め、視線を舞台上の少女へと向ける。
 舞台上ではサーヴィランスが倒れている少女を抱き起こし、生存の確認をとっているところだ。鼓を鳴らしていたものはサーヴィランスのトラベルギアによって既に抹消されている。偶然にも、虚空とサーヴィランスのギアは双方ともに距離のある対象にも難なく対応できるものだった。ゆらりと動き、再び楽の音を鳴らし始めたそれらを、虚空とサーヴィランスは共に、まるで示し合わせたかのように迷い無く、射抜いたのだ。
「……大丈夫だ、息はある。ただし、速やかな処置が必要だ」
 少女を軽々と抱き上げながら告げたサーヴィランスに、虚空は「そうか」と小さくうなずく。
 インヤンガイがどのような街であるのかを知らないわけではない。いまこの瞬間にも、誰かが誰かを笑いながら殺しているのかもしれない。――だが、許してはならないのだ。年端のいかない子供たちが犠牲になるような惨劇など。

 ◇

 昔、劇場に訪れていたジンジュウは、地域の者たちの熱心な要望に応える形で、予定よりも多い歳月、逗留していた。人々は日々の潤いを彼らから得、そうして心癒されていたのだ。
 だが、ジンジュウはやがて別の地域へと移動していった。さほど金を持たない住人たちから得られる収入は少なく、最後には半ば振り捨てる形で出て行ったのだ。
 残された住人たちは、残された劇場の中で、残された古い装束と使い捨てられた楽器だけを用いて、今度は自分たちだけでジンジュウを演じてみることにしたのだ。

「しかし、どうしても再現することが出来ない。住人たちはやがてあきらめたのさ。懐古の中にだけ安らぎを得ようとしたんだ」
 壊れた照明を仰ぎながら、虚空が告げる。釘売りから聞いた話だ。
「そうしている内に、怪異は起きた。廃屋と化したこの劇場を遊び場としていた子供たちが失踪するようになったんだ。加えて、夜毎劇場の中から楽の音が響く。これは怪異だ、寄ってはならんと、以来、ここは禁忌の場所となった」
「サーヴィランスは言ってたわ。誰がここに釘を持ち込んだのか。誰が死体をここに釘ではりつけたのか、って」
 黄燐が首をかしげる。虚空は黄燐の顔を見据え、双眸を細めた。
「夢を見ていたかったんだろうね、いつまでも」
 那智は変わらず微笑んだままだ。「だから皆で目をつぶり続けることにしたんじゃないのかな」

 応えるように、どこかでキイキイという音がしたような気がした。けれどそこにあるのはただ、暗い闇ばかりだった。

クリエイターコメントこのたびはご参加くださいましてまことにありがとうございました。
シナリオ「渦」のお届けにあがらせていただきました。

今回は人数が五名様ではありましたが、いただいたプレイングを拝見・検討しまして、三つのパートに区分けさせていただきました。カメラは三地点に置かせていただく形をとらせていただいてます。
 
皆さますごく書きやすく、想像(妄想?)しやすいプレイングをくださって、書いている間はノリノリで楽しませていただきました。

インヤンガイという街の、薄暗い闇というか、ベクトルの定まらない狂気というか、そういうものを描写できていればなと思います。
もちろん、ご参加くださいました皆さま、ならびにお目を通してくださった皆さまに、少しでも楽しんでいただけていれば幸いです。

口調その他設定もろもろ、修正してほしい箇所などございましたらお声がけくださいませ。
それではまたお会いできるのを心待ちにしております。
公開日時2010-05-05(水) 14:10

 

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