その地は彼らにとって、ただひとつの『世界』だった。 どしりとした岩のような雄々しい巨木の、遥か上空に敷き詰められた枝葉の隙間から、天上の白い輝きが漏れ、まるで星のように瞬いている。柔らかな木漏れ日は地上に零れ落ち、大地を満たす広い水辺へ注がれた。光は水中の奥深くへと浸透し、仄青い沼底に沈んでいた、本来の清らかなる透明感を暴き出していく。 その光はとても眩しく、暖かだった。水面は淡い炎のようにゆらゆらと煌めきながら蒸発し、宝石の粒をあしらったような、霧のヴェールとなって辺り一帯を包み込む。 なんて美しい世界なのだろうか。光を避けるように青黒い藻の傍らに移動しながら、彼は眩しそうに天上の木漏れ日を見つめた。 相変わらずだ。彼がこの地に生を受けてから、この世界の在り方は何ひとつ変わっていない。 白く美しい日光に含まれる紫外線と熱の恩恵によって、沼地に微生物が誕生し、そこに息づく者達の排泄物を分解する。分解された排泄物は、『彼ら』の餌である藻や大樹の栄養となる。そして彼らの吐き出した二酸化炭素と日光によって藻は光合成をし、酸素を放出するのだ。彼らはその酸素を呼吸に使い、生き永らえている。やがて自らの命を終える時を迎え――朽ち果てた亡骸は、生き物達の糧となる事だろう。 運命の輪とも呼ぶべき完全な共生のサイクルが、その地には存在した。 ――相変わらずだ。 ――いや、我々がこの地に生まれたあの頃よりも、ずっと大きく、豊かに育っている。 刹那とも幾星霜ともつかぬ永い時の流れは、彼に大きな成長を与え、やがて一つの『想い』へと辿り着かせた。 彼には五対の鋭い足がある。 彼には硬く強靭になったハサミが二つある。 彼には鞭のように太く長い触覚が四本生え、尖った尾鰭がある。 彼には、とても硬い鎧がある。 ――もしもこの愛すべき、青き大地を穢すものが現れるならば――許しはしない。何としてでも。 群れの中でも一際大きな身体を持つ彼は、緩やかに巨体をうねらせ、沼地の奥深くへと姿を消した。 天上は白く輝いている。 *「ヴォロスの人里離れた山岳の奥地に、『青き沼地』と呼ばれる一帯が存在します」 世界司書リベル・セヴァンは導きの書と幾らかの書類を用意し、依頼の内容を旅人達に告げた。「沼地の中心にある大樹の幹に、竜刻が内包されているようです。現地に向かい、竜刻を回収してきて下さい」 広大なヴォロスの大地には、強い魔力を宿す『竜刻』――かつての地上の支配者である竜達の遺骸が、今なお地中深く眠っている。その一つである小さな欠片を入手してほしい、とリベルは言う。「沼地は深く、移動は容易ではないかもしれません。また――危険な生物が生息しているようですが、正体は不明です。何処から襲ってくるのか分かりませんので、気を付けて下さい」 最後にふと導きの書に目を落とし、リベルはこう付け足した。「……どうやらそれは、壱番世界に存在する生物に形状が酷似しているようです。ただ――竜刻の影響によって、体長は大きく異なるようですが」
世界は美しい花で象られている。 命あるものは、生まれながらに奪い続ける道へと堕ち、いずれは自らも奪われ逝く運命の中に存在するのだ。 失う事で生は成り立ち、与える事で終わりは叶えられる。 一つの命とは、次のものに繋ぎゆく為に在るのかもしれない。 芽吹いた双葉が花開き、実を結び、やがて小さな種を零し――何時の日か再び、鮮やかに咲き誇るように。 美しくも哀しい命の『輪』は廻り続け、この世の大地を彩るだろう。 青い双葉が芽吹き続ける限り、幾度でも。 世界は美しい花で象られている。 永遠なるその花の名は―――。 * 薄青い上空を覆う分厚い雲を切り裂くように、強い風が凪いでいる。切り立った断崖の果てに辿り着いた面々は、遥か真下に臨む青色の大地を見据えた。 何処までも森が続いている。青々とした樹木は空高く枝葉を広げ、上空からはまるで地面の様子が窺えない程に、隙間無く生い茂っていた。 「あの辺りが『青き沼地』かな?」 年若い少女の容姿をしたミトサア・フラーケンが、茶色の瞳を細めて呟いた。彼女の首元に結わえられた紅いマフラーが、風に浚われてはためいている。 「さて、どうしたものか」 デュネイオリスは顎に手をやり、ふむ、と小さく唸った。彼の全身は黒い鱗で覆われており、その背には一対の翼が備わっている。王城の壁を思わせる体躯の男は、世界樹の女神を護る守護竜なのである。 「下に降りるまでの移動はどうとでもなるとして……重要なのはその後か」 淡々とした静かな声が聞こえ、面々は彼女の方へと振り返る。浅黒い肌をしたハーデ・ビラールが、眼下に広がる森をじっと見据え、ぼそりと告げた。 「わざわざ沼に潜るのは反対だ。……一応、準備はしてきたが」 言いつつ、黒い長髪と共にばさりと肩から降ろされたのは、小さな酸素ボンベと海中用のブーツである。 「ふむ。ではどうする?」 デュネイオリスは金色の双眸を細め、ハーデと他の者を交互に見遣った。 「実際に足を踏み入れてみない事には分からんだろうが、司書の話によると、沼地周辺はほとんど陸地が無いらしい。竜刻探索が必要ならば、空中移動が安全かもしれんな」 翼をばさりと動かし、竜の武人は暫し黙考する。 「テレポートを使えば、数人を一度に運べるが……そのまま空中静止は出来ないぞ、私は。サイコキネシスは不得手なんだ」 能力的に限界がある、とハーデは淡々と告げ、顔に掛かった髪を払った。 「おっとお取り込み中。俺っちでよけりゃ、足場の用意ぐりゃぁできやすぜ?」 一同の少し離れた位置からニヤニヤと笑みを零していた男が、朗らかな声で片手をひらりと挙げた。鮮やかな着物に下駄履きスタイルの(旅先に不適切とか言わない)、叩けばぽきっと折っ切れてしまいそうな、線の細い男である。 男はブロンド……というよりも黄色に見える、目にも眩しい頭をぼりぼりと掻いた。 「あ。俺っちの事ぁ、お気楽にイーちゃんって呼んだっておくんなせ」 若干空気を読まないイーのにんまり笑いに、ミトサアが無邪気な笑みを返した。吹きすさぶ風の中で、二人の表情が酷く和やかに感じられる。 「まあ……此処で考え込んでいても何も始まらんしな。ともかく、下へ降りよう」 デュネイオリスの言葉に頷くと同時に、ハーデの姿がその場から消え去った。テレポートの能力を使い、いち早く移動したのだ。 ハーデに続き、ミトサアがイーの背中を掴み上げ、デュネイオリスは両翼を広げ、一同は断崖から飛び降りた。 彼らを待ち受けるのは、深く静やかな大樹の沼地である。 * 青い樹木が視界を遮るように立ち並んでいる。若々しい木の葉の青さと言うよりも、自然界には有り得ないような――不可思議な『青緑色』をしている。これも竜刻の影響によるものなのだろうか。それとも、ヴォロス特有の植物なのだろうか。 「………」 他の者より早く到着したハーデは、豊かな大地を目の当たりにし、静かに目を伏せた。 地上は澄んだ水で覆い尽くされていた。透き通った水底に、藻がびっしりと生えた樹々の根が走り回っている。天上は薄青い空の色だったが、水辺は酷く鮮やかな青だった。彼女の瞳と同じくらいの、鮮やかな青色の。 ひとまず、水中から顔を出している太い木の根に降り立ち、周囲を見渡す。 (……何を望んで存在するのだろう、この場所は) ハーデはそっと心中で呟き、水面に映った己の顔を見つめた。 (世界が力を分け与え、命を芽吹かせた。それは世界の望んでいる事だろう) 彼女の思考の奥深くには、常に『世界』という概念が存在する。一介の生物に過ぎない人間が感じ取るには、あまりに途方もなく、あまりに計り知れない代物だ。 (だが、この場所は。誰の目にも触れられず、青く輝いているのは……本当に、世界が望んでいるからなのか) 草木が身を揺すり、大地に種が蒔かれ、鳥が虫を捕らえる時、涌き水は大河となる。自然界とは、世界が望む在り方をもっとも忠実に再現している――だが人間は。その地に生を受けた時より、人の身には『意思』が植え付けられている。 本能の一言では片付け難い幾つもの複雑な思念は、時に己自身をも裏切り、或いは世界に背いて生きる事も可能なのだろう。 いや、もしかすると、全てに逆らおうとする意思ですらも――母なる大地の思惑に過ぎないのかも、しれないが。 (………。この地に人間は息づいていない。可笑しな事を考えてしまったか) ひっそりと浮かべた自嘲気味な微笑は、恐らく誰の目にも入らなかった。 「成程。本当に沼しか無いようだな」 ばさりと黒翼の風を切る音を響かせ、上空から腕を組んだデュネイオリスが降りてくる。まさか仁王立ちのまま飛んできたのだろうか。 彼の後から、ミトサアとイーがゆっくりと降りてきた。イーはがに股をばたばたさせながら――実は下駄が落ちそうになっていたらしい――、感心したように辺りを眺めている。 「まず足場を作らなくちゃね。いざって時に、自由に動けないと不利でしょ」 「ほいほい、お任せおくんなせー」 少女にしては凛々しいミトサアの言葉に、軽やかに返事を返し、イーは何やら袂(たもと)から小さな袋を取り出した。 袋の中に手をやり、中身をはらはらと水面に蒔いていく。何も無い筈の水の上に、幾つもの植物の芽が顔を出し――あっという間に、大きな円形の浮草と、紅桃色の大輪の花へと成長を遂げた。 青い水面に浮かぶ明るい緑の葉と、女の紅のような鮮やかな色合いの花は、何とも不思議な美しさがある。 「ほう。見事だな」 「オオオニバスってご存知ですかい。『鬼の蓮』ってんですぜ。極楽浄土の天女の花か、或いは地獄の閻魔の花かっつってね――あ、葉縁は刺がありやすからご注意を」 軽口を叩きながらイーがひょいと浮草に乗り、ミトサアも静かに足を降ろした。デュネイオリスはまず、片足で沈んだりはしないかと何度か確認してから、両足を着いた。 「ふむ。この辺りは『青き沼地』の外れに位置する場所なのだろうな。生き物が住み着いている様子は無いし」 しばし水辺を観察し、デュネイオリスは告げる。水の底に溜まった石灰らしき白い砂に生物の足跡は無く、青々とした藻にも、食い荒らされたような痕跡は無かった。 「……テレパシーが有効かどうかは何とも言えないが、少し探ってみよう」 木の根の上に佇むハーデは、森の奥深くを見据え、静かに目を閉じた。 「何か……力を感じるな。エネルギー体のような、強い力の片鱗を」 「うん。その場所に向かって進んでみよう」 ミトサアが口元に笑みを浮かべ、こくりと頷いた。 * イーが水面に種を蒔き、育った浮草の上を一同が歩いて行く。ハーデはテレポートとサイコキネシスを多用し、宙に浮いた状態を維持して移動していた。 「危険も伴う任務だってのに……この場所は妙に落ち着くんです」 時折、行く手を阻むように伸びた蔦に触れ、能力で枯らしながら、イーが静かに呟いた。 「樹々を前に静粛な気分が沸き起こってくるのは、俺っちが緑人だからでいやしょうかね」 誰にともなく告げられた言葉に、デュネイオリスが「さあな」と簡素な一言を返す。 先程の植物を操る能力は、彼の生まれた種族によるものなのだろう。黄色の髪に緑色の目をした男は、気まずそうにぼりぼりと頭を掻いた。 「こんな事ぁ、言うもんじゃありゃせんでしょうが……俺っちは思うんです。この場所は――むやみやたらに侵したくはねぇ」 彼の中に『本能的な』炎が宿っていたのかもしれない。草木を操る男はつまり、草木に近しい存在なのだと。 黒竜はふむ、と頷き、緑の男の呟きを静かに肯定した。 「まぁ、その通りだろう。自然はなるべく、そのまま残すべきだろうしな」 「……へへ。さすがは旦那」 イーは苦笑を零すと、何の意味があるのか、男前な竜人の二の腕をぽむぽむと叩いた。 「………」 ハーデは周囲を見渡しては軽く目を閉じ、中空からの探索を続けている。 「何か変わったものはあった?」 意識を集中させている者に軽々しく話し掛けるべきではないか、と一瞬感じたりもしたが、ミトサアはとりあえずハーデの背中に声を掛けてみる事にした。 「いや、まだ良く分からないんだ」 冷たい表情の多い彼女だが、振り返った海のような色合いの瞳は、存外優しいものだった。 「悪いな。あまり期待しないでくれ」 素っ気なく言い放たれた一言を、ミトサアは首を振って否定する。 「そんな事ないよ。君の強さはボクが知ってる」 顔立ちに似合わない大人びた言葉に、彼女よりも幾らか歳上に見えるハーデは、少し眉を寄せ……困っているような、照れているような表情を見せた。 「うん。ボクも手伝うから、一緒に竜刻を捜そう」 ミトサアがこくりと頷き、聴力を研ぎ澄ませて辺りを探ろうとした――その刹那。 「――危ない!」 少女の叫び声とほぼ同時に、樹々の間から高い水飛沫が上がった。飛沫はまるで蛇のような動きで水面を駆け抜け、彼ら目掛けて急接近する。ハーデは指先を伸ばし、刃のような構えを取った。 「―――!」 イーのすぐ脇から水の柱が上がった。デュネイオリスは片腕を力強く振り上げる。津波のような水飛沫が二人を覆い隠した瞬間、下から上へ穿つような孤を描いて、デュネイオリスのガントレットに重い一撃が打ち当てられた。ガチィンと耳を劈(つんざ)くような打撃音が響き渡る。 竜人は腕を振るい上げ、何者かを沼へと投げ返した。 「任せて――ッ!」 この隙をミトサアは逃さない。即座に跳躍し、それが沼の中へと落ちる前に、右手のレーザーナイフを水飛沫の塊へと撃ち込んだ。 ザン、と水を切り裂く音が鳴る。何か細長い鞭のようなものが切断され、宙を舞う。ギィ、と微かに悲鳴のような音が聞こえた。 派手な水飛沫を上げ、何者かは沼の中へと沈んだ。青白い飛沫によって姿がよく見えなかったが、反り返ったそれの背部から――身体の一部と思われる扇型の部位が覗いたのを、彼らは見逃さなかった。 水飛沫が収まった後も一同はしばし身構えていた。沼地は何者かが蹂躙した事によって酷く濁り、水底を窺い知る事は出来なかったからだ。 やがて水面に波紋だけが残され、辺りは再び静けさに包まれた。どうやら何者かは逃げ去ったようである。イーは困ったような笑みを浮かべ、盛大な溜息を零した。 「いやいや、参りやした。ありゃ何だったんでしょうかねぇ」 「まあ、大方想像は付くがな」 デュネイオリスは肩を何度か回しながらふむ、と相槌を打った。ハーデはいつの間にか出していたらしい光の刃を仕舞い、すっと手を降ろす。 「恐らく、竜刻に接近するにつれて、ああいうのがもっと出て来るだろうな」 「ボクもそう思う。用心しておかないとね」 冷静なハーデの言葉に眼鏡の少女は頷き、マフラーを直しながらもう一度辺りを見渡した。 青い沼地は、森の奥深くへと続いている。 * ――我々の世界を穢すものが現れた。 ――許してはならない……友よ。穢れのものに粛正を。 ――世界を、愛すべき世界を護らなければならない。 何としてでも。 樹々の間を抜けて沼地を進むにつれて、次第に水の中が仄暗く、闇のような深い色になっていく。沼底に沈む藻の塊が量を増し、天上からの光を遮っているのだ。 「そろそろ植物で移動するのは限界だろうな。何時何処から襲撃してくるかも分からん。……とは言うものの、陸地が無い事にはどうする事も出来んが」 「ふぅむ。そうでやすね」 デュネイオリスの一言にイーが気の抜けた相槌を打つ。ハーデは暫し黙考し、ぼそりと告げた。 「テレポートを使うか? ……ただ、私は機動戦闘型だから、身軽にさせて貰える方が動きやすくはある」 イーは吊り目でにんまりとした笑みを作ると、 「あんさんら、飛べるんでやしょ? だったら心配する事ぁねえ。俺っちもいざって時ぁ、走ってずらかりますから」 とあっさり告げて、朗らかに浮草の上を進んで行った。 ふむ、と何度目かの唸り声を上げ、デュネイオリスが後ろをついていく。 「話は変わるが……竜刻を内包する樹木、と言うのは、どういう状況で生まれたんだろうな」 ふと呟かれた疑問にミトサアが首を傾げ、僅かに眉を寄せた。 「うーん。確かに不思議だね」 「内包と言っていたのだから、埋まっている事は確かだろう。過程は分かりかねるが」 ハーデは前方を見据えたまま、表情を変えずに告げる。竜人は「遺骸の一部が幹に刺さったとか」と考察を付け足した。 一同の脇手からひょこりと顔を出したイーが、大真面目そうに眉を吊り上げ――その割に口元はニヤついたまま――、高らかに語った。 「樹木が竜の昼寝時を狙って、しめしめ今の内に――ぱくりと丸呑みしちまったとか! で、今に至るみてぇな」 「それはさすがに無………いや、あながち無いとも言い切れんな。ヴォロスだし」 「………」 デュネイオリスが予想外の納得をし、逆に「えっ」と驚かれそうな空気が流れた。――が、残念ながらこの面子には、突っ込みの成分が欠如しているようである。 「まあ、どちらにせよ、私では力任せの回収しか出来ん。必要とあらば手を貸すが、なるべく他の者に頼みたい所だ」 黒竜は腕を組み、言葉を放った……丁度、その時だった。 「――来たか」 「――あった」 二つの変化が同時に訪れる。テレパシーと透視能力を併用して樹々の間を探索していたハーデが、僅かに目を見開き――デュネイオリスとミトサアは何かの気配を察知し、鋭い眼差しで身構えた。 「どうやら、団体様で出迎えてくれたみたいだね」 少女の右手から、光を帯びたレーザーナイフが現れる。 ――ざん、ざん。 「――見つけた。竜刻を秘めた大樹は、すぐ近くに在る――」 海原のような青い瞳は見開かれ、闇の中に隠されたものを暴き出した。 ――ざん、ざん、ざばざばざば! 水面に現れた微かな波紋は、風によるものではなかった。優れた感覚を持つ者ならば、恐らく早い段階で気付いた事だろう。だから、足場にしていた浮草を食い千切るようにして真下から現れた『それ』を、彼らはいち早く回避する事が出来た。 「―――ッ!!」 高い水飛沫が上がる。水中から刃物のようにも太い金棒のようにも見える、物騒な得物が飛び出した。デュネイオリスとミトサアは背後に跳躍し、ハーデは離れた場所へテレポートする。飛行手段のある彼らは、陸地を離れても沼に落ちる事は無い。 だが、イーが居ない。緑の男はその場から忽然と姿を消してしまった。……一体何処へ。 「イーちゃん!?」 まさか沼底へ引きずり込まれたのか――ミトサアが暗い水中へ視線を落とし、飛び込もうとした刹那――、 「さぁて。鬼さんこちら、此処までついて来れるかい、ってね――」 派手な着物にたっつけ袴の、見覚えのあるシルエットが、何故か沼地の遠い場所を高速で走り抜けていた。 しかも水面を、しかも下駄で。 予測のできない動きで何度も曲がり、水上を駆け抜けて行く。彼が走った軌跡からばしばしと水が跳ね、まるで白い蛇のような幻を生み出していた。水中に身を潜めていた者達が、翻弄されるように荒れ狂い、次々と襲い掛かってくる。 津波のような飛沫をするりと潜り抜け、その奥で待ち構えていた者の鎧のような身体に足を掛けると――びょう、と。風を切る音と共に、上空へ一気に跳躍した。 男の着物がぶわりとはためく。樹々の高さを軽々と越え、森を上空から見渡し――彼はついに、その存在を見つけた。 「――これは……なんて見事な大樹でやしょう」 樹木の生えていない拓けた空間があり、その中央に、青白く輝く巨大な大樹が佇んでいた。まるで岩のようにどしりとした雄々しい姿だ。周囲に樹が生えていないのは、大樹の根があまりに強く深く、何処までも伸びやかに根付いているからなのだろう。 イーは眼下に視線を落とした。水面にわらわらと蟻地獄のように待ち構える影が見える。落下すれば瞬く間に沼底へ引きずり込まれるだろう。だがイーは、その場所へと落ちなければならない。いや、もう、落ち始めている。 荒れ狂う水飛沫に足が触れる直前、背後からぐいっと襟元を乱暴に引っ張られた。 「……無茶をするな」 イーの身体を引き揚げたのは、黒い長髪に浅黒い肌をしたハーデ・ビラールだ。 「イーちゃん! 怪我はない?」 足元に集っていた怪物をレーザーナイフであしらいながら、ミトサアが顔を上げた。ハーデは横目で緑の男を見遣り、静かな口調で問い掛ける。 「……私も大樹を傷付ける手段でしか、竜刻を回収出来ない。お前はどうだ?」 イーは吊り気味の目にほんの僅かな迷いの色を乗せ、にっと笑みを作った。 「俺っちなら出来るかもしれやせん。多分ですけど」 「ならば、これはお前の役目だ。イー」 イーの返事は曖昧だったが、ハーデははっきりと頷き、イーを掴んだままテレポートを行った。 ざばん。ざばざば。 沼の中から鋭い前脚のようなものが引っ切りなしに飛び出し、竜人の身体を傷付けようと攻撃を繰り出してくる。彼の体表面は鱗で覆われ、見るからに頑丈だ。最小限の動きで深手のみ回避すれば、恐らく掠る程度の傷は何のダメージにもならないだろう。 しかし、彼は苦戦していた。何度も突き出される前脚を避け、金棒のような大きな部位を捕まえようと腕を伸ばすが、水中の深い所へするりと逃げられてしまう。 「ふむ、厄介だな」 デュネイオリスは眉間に皺を寄せる。 彼は低空飛行から応戦している。相手が水辺を得意地形とする以上、容易に踏み込む事は出来ない。逆に言えば上空に居る以上、こちらも致命的な一撃を受ける事は無いのだが――これではまるで埒が明かない。 びゅるんと鞭の如く振るわれた触覚をかわし、足を貫こうと突き出された得物をしたたかに蹴り飛ばした。 (やはり陸上へ引きずり出すのが必須か) 戦いながらもデュネイオリスが思案していた時だ。突如、彼の周囲を炎が取り巻き、あっという間に沼地の一部を蒸発させてしまった。 「言ったでしょ? 足場を作らないと不利だよって。悪いけど、少しだけ失敬してね」 蒸気とも煙ともつかない薄いもやの向こう側から、燃えるような紅いマフラーがひらめいている――炎を放った金属質の左手を下ろし、ミトサアはひょいと片眉を上げて見せた。 デュネイオリスは足元を見遣る。敷き詰められた青黒い藻の塊が、沼地の水を堰き止めているようだ。蒸発した場所には水が流れ込んでこない。 足場は悪いが、土俵としては上出来だ。 「礼は言っておこう」 飄々とした少女に簡素な一言を寄越し、竜人は改めて沼地の狩人達を見据えた。 藻の山を乗り越え、ぞろぞろとこちらに近付いてくる。長く鋭い蜘蛛のような脚が三本、五本、いや、もっとある。するりとした髭のような触覚を四本も備えた顔は、仮面のような外皮に覆われ、眼前に二つの大きなハサミを携え、 「やはりな。……十脚目、エビ類の、特に――」 「……ザリガニ?」 「ザリガニだね」 「え、何、ゼニガメが何でやすって?」 離れた場所からのメッセージが合間に挟まったような気がしたがそれはさておき――、大型動物ぐらいはあるだろう巨大な、まるで海の色を映し取ったかのような鮮やかな青色のザリガニが、デュネイオリスの前に立ちはだかっていた。 竜人を中心にして、青いザリガニが周囲を取り囲む。振り下ろされたハサミを避け、デュネイオリスは一匹の背後に回ると、太く鋭い尻尾を両手で掴んだ。長い後ろ脚が彼の腕や脇腹を掠める。 「正面を取らなければ、ハサミも使えまい」 ギィ、と鈍い鳴き声が聞こえた。デュネイオリスはザリガニの尻尾を持ち上げ――自らを支点にして旋回した。 その技の名をジャイアント・スイングと言う。 「ギイィィッ!!」 掴んだザリガニと鎧を装備した彼自身の尻尾が、周囲のザリガニに容赦なくぶち当たり、ガスガスガスと硬く鈍い音が響き渡った。 ハーデとイーは上空に居た。真下に巨大な大樹の枝葉が広がっている。「行くぞ」とたった三文字のみを告げ、ハーデはイーを樹上に落とした。 イーは身軽そうに枝という枝をひょいひょいと渡り、大樹の中の竜刻が眠っている位置を探る。 見つけるのは簡単だった。大樹の表皮に、一際青白く輝いている部位が在ったのだ。 「弄くり回すような真似してすまねぇ。あと少し、堪忍してくれな――」 竜刻が埋まっているだろうその場所に手を触れ、静かに目を伏せる。 緑人であるイーには、草木を成長させる特別な力がある。花を咲かせる事も枯らす事も、意のままに操る事が出来るのだ。 だが彼は知っている。植物と言うものは……いや、草木だけではない、生き物と言うものは、他者に手を加えられる事なく、本来在るべきままの姿で命を全うするのが一番なのだと。 大樹が少しずつ、上空へと背を伸ばしていく。枝葉はより大きく広がる。幹の中へ、イーがそっと手を差し入れる―― 一方、大樹の根本にザリガニが群れで押し寄せ、幹をよじ登ろうと脚をがしがしと鳴らしていた。ミトサアの左手から、攻撃と牽制を兼ねた火炎放射が放たれる。 「此処を護りたいの? 君達は」 白い煙が視界に映り込む。ザリガニの蒼い瞳を見つめ、ミトサアが静かに問い掛けた。 「だが、僕達にも任務がある――手加減はしないよ」 世界を見失ってもなお、信じているものがある。その為に彼女は共に寄り添い、戦い続けているのだ。 いつの日か必ず、彼らとの邂逅を果たすと信じて。 それが彼女にとっての、護りたいものだから。 少女の瞳は力強い輝きを宿していた。その光はあまりに逞しく、年若い少女の顔立ちには不釣り合いに思えた。 大樹の反対側では、ハーデが戦闘を繰り広げている。打ち出されるハサミの迎撃を回避すると、テレポートを使って相手の死角に滑り込み、光の刃を翻した。 鋭い脚が突き出される。紙一重でかわしたハーデの黒髪が、はらはらと微かに散った。 ――ギィィッ!! 鈍い鳴き声を上げて、ザリガニが大きく身を揺する。樹の枝に居るイー目掛けて触覚がびゅるんと振るわれ、ハーデは素早く刃で切り裂いた。 「例え世界を構成するものであっても。敵対するならば滅ぼす。それが私の範(のり)だ」 何を想い、何を憎み、何が為に生き続けるのか。 冷たくも広大な青色の瞳は、真っ直ぐ射抜くように敵を見据えていた。 ――ザン、ザン、ざばざばざば!! 「………!!」 その時、水面が大きく盛り上がり――、 一体何処に潜んでいたのか、大型トラック程はあるだろう巨大なザリガニが、彼女らの眼前に姿を現した。 ハーデはミトサアに視線を送り、ミトサアもまた、ハーデに強く頷いて見せる。 「行くぞ……ミト!」 「行こう、ハーデ!!」 少女の口元に、少しだけ嬉しそうな笑みが浮かんでいた。 二人がそれぞれハサミの傍らに素早く移動する。光を帯びた刃を構え――巨大な蒼色のハサミを、根元から斬り落とした。 ――ギィイィイィィィッ!! 耳を劈くような鳴き声が轟く。武器を失った怪物は、それでも襲い掛ろうとしたが―― 「おい、ザリガニ。相手をしてやろう」 いつの間にか巨大ザリガニの背に、デュネイオリスが乗っていた。乗ると言うよりも、両腕を広げて甲殻にべたりと貼り付いている。 ぽかんとしているミトサアとハーデをよそに、ぎしぎしと何か不穏な音が鳴り響き――ザリガニの脚が、少しずつ持ち上がり始めた。 「―――――――ッ!!」 地を割るような咆哮は、果たしてどちらが発したものだったのか。 巨大ザリガニは腹を見せながら背後へ反り返り、ついには孤を描いて、頭部を沼地の底へごすんと打ち付けた。 その技の名を、ジャーマン・スープレックスと言う。 「…………」 「壱番世界の奴が言っていたが……食えるものは食うのが供養だそうだ」 此処には料理人も居る事だし。水飛沫が大雨のように降り注ぐ中、ハーデが真顔で呟いた。抑揚の無い表情で告げられた言葉が冗談だったのか本気だったのかは、恐らく誰にも分からないだろう。 何の因果か、壱番世界では、ザリガニを高級食材として扱っている地域もあるとか無いとか。 * 大樹の中で永い眠りについていた竜の遺骸が、今ようやく、その大地に姿を現した。 竜刻を取り出した瞬間、沼地に淡い光が降り注ぎ、一同の脳裏に不思議な映像が流れていく―― <何時の日の出来事だったのか。 土に塗れた竜刻のすぐ傍らに、小さな木の芽が生を受けた。芽は竜刻を包み込むようにして成長し、ゆっくりと長い年月を費やして、大樹の胎の奥深くへと飲み込んでしまった。 やがて大地に水が溜まり、小さな生き物達が息づく地へと変わっていく――> 「……今のは、竜刻の記憶なのかな?」 ミトサアが天上の光を見つめ、眩しそうに目を細めた。 掌にも満たない小さな骨の欠片は、まるで晴れた日の青空を映し取ったかのような色彩で、宝石のように透き通っている。 「こいつが……此処いらの生き物に影響を与えちまってた訳ですかい」 イーが竜刻を色んな角度から眺め、へぇーと感嘆の声を上げる。 「竜刻を回収した事で、この大地が可笑しくなっちまったりしないでしょうかねぇ?」 デュネイオリスはふむ、と相槌を打ち、腕を組んだ。 「どうだろうな。ザリガニがもう巨大化する事は無いとは思うが……それによって何が変わるのかは、誰にも分からんだろう」 「……変わらないさ、世界は」 ハーデがそっと呟き、静かに目を伏せた。 「命が失われて、花が枯れようとも――また何れ廻り出すだろう。世界が望み続ける限り」 * 世界は美しい花で象られている。 永遠なるその花の名を――Dianthus<神の花>と言う。
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