おめでとう。 今日はあなたの生まれた日。 ずっと内側に隠されて、花開く日を待っていたあなたを迎えて、私に口にできるのは、このことばだけ。 ありがとう。 この世界に来てくれて、とても、嬉しい。「…いらっしゃいませ」 開いたドアに『フォーチュン・カフェ』のハオは満面の笑顔になる。「ハイユ・ティップラルさま。サシャ・エルガシャさま」「へえ? あんた、あたしを知ってるんだ?」 ハイユが気崩したメイド服の胸元をそれとなく突き出し、眠そうな瞳を上目遣いにハオを見る。雑に結ばれた背中まである紫色の長い髪が柔らかそうな肌に乱れるのも計算のうちかどうか。「はい、存じ上げています」 いそいそと近寄ってきたハオはにこやかにことばを継ぐ。「数々のご勇姿も」「…ご勇姿」「酒肴も多少はご用意できますが…」「……今から呑んだくれると思ってるな」「いえ。楽しんで頂きたいと思っているだけです。いらっしゃいませ、サシャさま、どうぞこちらへ」 いささか冷たい色になった緑の目に笑み返し、ハオはサシャを奥へと招く。「ちょうど奥の部屋が空いています。貸し切り状態ですね、ごゆっくり」 二人が席に落ち着くのと同時に、紺色のメニューと紅茶を置く。「注文してないけど?」 訝しげに目を上げるハイユに、ハオは静かに一礼した。「本日のサービスです。ご用の時にはお呼び下さい……それまでは誰もここには参りません」 さらりと入り口に掛けられていた布が降ろされた。「メイドに紅茶を出すなんて、いい度胸だね」「……おいしいです」 ハイユが曲げた唇にサシャが微笑んで口をつける。「ホントに?」「……メイドじゃない人が淹れたにしては」「違いない」 くくくっ、とハイユは笑ってカップを持ち上げた。 『フォーチュン・カフェ』は今日はあまり来客がないらしい。カーテンの向こうで静かな話し声が思い出したように聞こえるだけだ。 磨かれた木目のテーブル、壁際の棚に並べられたキャンドル、いつぞやはクリスマス・パーティに使われたそこそこの広さがある部屋の片隅、隣合わせに座った二人の間で、紅茶の温かな香りが漂っている。「実はハイユ様にご相談したい事があって……」 しばらくの沈黙の後、サシャは切り出した。「何さ突然改まって」 ハイユはのんびりと紅茶のカップを傾ける。 この葉ならブランデーもよく合うだろう。思い詰めたようなサシャの姿に、遠い昔の自分が揺らめく。ならばこそ、御館様に命じられたあの日のことばを忘れてはなるまい。「ワタシ、リリィさんに憧れています」 この0世界に帰属して、リリィの元でお針子として働きたい。難しいことはいろいろあるだろうけど、その願いは強く鮮やかに形を成し始めている。「けれど…旦那様の事や友達の事まで忘れてしまうと思ったら怖くって……本当にこの選択が正しいのか自信がなくなっちゃったんです」 0世界に帰属するということはロストメモリーになるということ、それはチャイ=ブレに記憶を捧げるということだ。リリィには憧れている、ターミナルを第二の故郷にしたい気持ちにも揺らぎはない、だが。 サシャの過去は決して幸せ一色のものだったわけではない。父の生まれた国イギリスへ母とともに渡ったものの、食い詰めて死にそうになり、救貧院でかろうじて生き延びてきた。そこから引き取られ、旦那様の元で過ごした柔らかで穏やかな日々。ロストナンバーとなって、その旦那様の元からも離れたけれど、思い出は胸の中で豊かに息づき、サシャを支えてくれている、友達の記憶とともに。 それを、失う。 胸を走った痛みは、あの日、広間に置かれた棺を覗き込んだ時のものと通じている。 どうして、ここから、離れたの?「知ってるかい? この店には誕生日を……お客の生まれた日を祝う趣向があるんだって」 ハイユはこくり、と紅茶を飲み干した。やっぱりブランデーを足した方が旨いはずだ、この薫りには。「サシャちゃんにあたしが生まれた日の……いいや、御館様と出会って生まれなおした日の話をしよう。あ、この話、お嬢には言っちゃダメよ」 ウィンクして見せる。 帰属は、それまでの生き方からかけ離れた世界へ飛び込むことかも知れない。大事にしてきた願いや譲れないとしてきた想い、自分が拠って立っていた基盤を砕かれ、欠片さえも残さないものであるかも知れない。 肩が疼く、とっくに治癒しているはずの傷が。 だがしかし。 それが『失う』ばかりのものではないことを、ハイユは知っている。『今までの人生よりずっと長く、ずっと楽しい時間を、過ごせるとしても?』 耳元で御館様の声が聞こえる。 差し出された手に伸ばす自分の手が見える。『楽しいというのが何か分からなかったら、まずは実感してみると良い』 サシャにもわかっているはずだ、実感したからこそ、歩み出そうとしているのだから。 思い出そうか、既に踏み出してきた一歩のことを。 それを導いてくれた人の表情と話し方を。 私達は幸福になることを望まれた。=========!注意!企画シナリオは、便宜上、参加枠数が「999」になっていますが、実際には特定の参加予定者のために運営されています。この企画シナリオは下記のキャラクターが参加予定です。他の方のご参加はご遠慮下さい。万一、参加予定でない方のご参加があった場合は、参加がキャンセル(チケットは返却されます)になる場合があります。<参加予定者>ハイユ・ティップラル(cxda9871)サシャ・エルガシャ(chsz4170)=========
「あたしは、御館様に出会うまで、『兵器』として生きてきた」 ハイユは、そのことばがサシャの胸にしみ込むのを待ってから、続ける。 「近接戦では剣術と格闘術を使い、中距離~遠距離戦用には元素魔法を操る、総合戦闘兵器『戦人形』だ」 「戦…人形…」 サシャが自分の突き放した物言いに気づいたと知って、薄く笑う。今もまだ、心の隅に微かに巣食う小さな痛みを語るには、これぐらいがちょうどいい。 「御館様というのは、シュマイトお嬢のお爺さまにあたる。名前はガオネオ・ハーケズヤ様。元軍人で、頼りがいがあって、でも気まぐれで、大胆で……亡くなられたのは、68歳だった」 ただの情報のように並べる事実一つ一つが、ハイユにとっては奇跡のような意味を持った。軍人でなければ戦人形として生きることしか知らなかったハイユと出会えなかった。頼りがいのある男でなければ、戦場で身動きできなくなった敵の兵士に向き合うことなどしなかっただろうし、気まぐれでなければハイユを連れ帰ったりもしなかっただろう。戦うことしか知らず、戦えなくなって己の生きる理由を見失ったハイユに、新たな生き方を教えてくれたのは年齢を重ねていたからこその明察、そして本人の生き様は大胆そのもの。 「『兵器』って馬鹿馬鹿しいほど単純な生き方しか知らないんだよ。戦場で殺すか殺されるか。毎日毎日、ただそれだけなんだ」 サシャの人生が平坦なものだったとは思わない。だが、あの頃の自分よりは数段豊かな色のある人生だったのだろうとは想像がつく。 「13歳で御館様に出会って命を救われて、あたしはハーケズヤ家のメイドになった。今の名前も御館様からもらったものだ。御館様は亡くなったけれど、あたしが忠誠を誓うのは御館様だけだ、今までも、これからも」 唯一絶対の忠誠を誓う、それは単に命を救われたからというだけじゃない。 「あの日が、メイドのハイユ・ティップラルが生まれた日」 紅茶を一口、唇を湿らせる。 戦うか屠られるか。殺すか殺されるか。 それまでの13年間、世界の意味は二分されていて、自分がどちらに属すかだけが問題だった。それ以外は何もない。何かあるのかと考える余地さえない。 「ぶっちゃけるとさ、あたしは困ったんだ」 「困った…?」 訝しげに首を傾げるサシャの無邪気さに苦笑する。 「そうだよ、困るだろ? 生まれてから13年、殺すことしかやってこなかったのに、いきなりメイド? 何をしろって?」 そりゃあさ、あたしはいろいろ優秀だったよ、『兵器』の時から。やることさえ教え込まれれば、多少時間はかかっても必ずやり遂げてみせた。 「けれど御館様が命じたのは、全く違うことだった。酒とエロネタ仕込んだのも御館様だし……時期はヒミツ」 そう、あたしをこんな体に…! 軽く胸を抱えて身をくねらせると、サシャがまともに受け取ったのか、まあ、と頬を赤らめつつ、不安そうに瞬きする。 「ま、それはいいとして……あたしが一番最初に御館様に頂いた命令は何だと思う?」 「…笑いなさい…?」 「それは最初に教わったこと」 笑ってごらん、ハイユ。そうだ、もっとほら、楽しそうに。まだ顔が固いぞ、こっちを見てごらん、こんな顔を見れば誰だって……ああ、そうだ、その顔だ、ハイユ。その顔で笑いかけられると、誰だって、もっと笑わせたいと思うだろう。 耳の奥で響く懐かしい声。 「最初のご命令は『適当に生きろ』」 「適当、に…」 「そ、適当に」 他の何より、それほど難しい命令はなかった。適当、の基準がわからない。やり遂げるようなことではない。けれど、何もない顔をして生きることでもない。 やり方が全くわからない。そんな基準は存在しない。 けれど、ハイユは形からでも入ろうとした、自分に与えられた唯一の命令だったから。 「最初に教わったのは笑い方、笑顔の作り方。次に教わったのは笑わせ方、冗談の言い方…」 かけられたことば一つ一つに戸惑うハイユに、ガオネオ・ハーケズヤは繰り返し笑い笑わせ、それまでと全く違う世界でハイユが生きるために必要なことを教え込んでくれた。 「………その前の13年間とその後の13年間は全てが違った」 ぽつりと呟いた後の沈黙を、シュマイトお嬢ならどう取るだろう。でっちあげるネタに詰まったとか? それとも珍しくしんみりとしたハイユの顔を、貴重で精巧な機械を見るように眺めているだろうか。 「亡くなられたとき思ったわ。あたしに命を下さった方なのに、どうしてあたしにはその命をお救いできないんだろう、って」 声に振り絞るような口調が混じっただろうか。そんな慟哭は、おそらくハイユ・ティップラルの辞書にはない。 病床で痩せこけた姿など、本当は見られたくなかったのではないか。それでも、この世界を去る前に家族や使用人や部下など、一人一人に向き合おうとした御館様の、震える声を覚えている。 『ハイユ、適当に生きろ』 初めて下さったご命令をもう一度、最後までハイユ自身についてのことばを下さった。 「だからね、サシャちゃん。何かあれば人は変わるんよ。いいとか悪いとかじゃなくて」 両の手を組み合わせて握りしめ、真剣そのものの瞳で自分を凝視しているサシャに向かって微笑む。 「あたしは、御館様のいた元の世界に帰属したいんよ」 自分の声音がいつもより甘く響いているのを感じる。 「シュマイトお嬢が危なっかしくて心配だしさ」 サシャが小さく吐息をついて、手を解くのを眺める。 「記憶を捧げるのが嫌ならやめればいいし、それでも帰属したいんならそうすればいい。今までとこれから。どっちか選ばなくちゃいけないんなら、選べ。それはあたしが横から口を出すことじゃない」 「ワタシは…」 ハイユの話を聞き終わって、サシャは口を開いた。 「旦那様はワタシの為に雲の中に虹をおいてくれたんです」 甦ってくるのは、優しい微笑。 「ワタシが引き取られたのは罪滅ぼしの為……出奔先のインドで野垂れ死んだ放蕩息子の落とし胤………ワタシ達は祖父と孫、でも…真実を知ったのは旦那様の死後」 ハイユが半眼の眠そうな瞳でサシャを見やりながら、机に片肘をつく。 「旦那様はワタシの恩人。メイドとしての誇りを、生き方を教えてくれた人」 『今日から、この子もこの屋敷の一員になる。皆、よろしく頼むよ』 初めて屋敷に来た時に、肩に置かれていた手の温もりを覚えている。 「旦那様は死の間際まで…いえ、天国でもワタシの幸せを祈ってくれてる」 メイドとして働き出してからも、なかなか仲間に打ち解けられずにいたサシャを、アフタヌーンティに呼んでくれ、紅茶の淹れ方を教えてくれた。クロテッドクリームをたっぷり塗ったスコーン、おいしさに驚き目を見張るサシャを微笑みながら見守る瞳。 その視線に意味を感じ取るには、サシャはまだまだ幼な過ぎた。目の前の老人が生きて来た人生を、慮るほどの経験もなかった。 その時、何かに気づいたのなら、後々の苦い現実を変えられたのだろうか。 サシャは一旦口を噤んだ。 改めて、そっと口を開く。 「旦那様や壱番世界の事を忘れちゃうのは怖い。でもね、ハイユ様。壱番世界でもターミナルでも、虹は見れるんだよ。ターミナルの空は造り物かもしれないけど、虹はきっとあの空とこの空を、ワタシと旦那様を繋いでる」 思い出は繰り返す、繰り返しながらその柔らかな波紋を心の海に打ち寄せる。その波は、心の砂浜を削るだろう。紋様を描き、時に美しい貝殻を運ぶだろう。 「旦那様がくれた沢山のぬくもり………忘れたくない。忘れるわけ…ない」 儚い願いだと知りながら、サシャは呟く。その願いを口にするのは、既に心が決まっているからだ。思い出の波に揺さぶられようとも、動かない小さな岩がそこに生まれているからだ。 俯いたサシャは顔を上げないまま、そっと小さく囁いた。 「ハイユ様、少しだけでいいの…アナタの胸で泣かせてください」 震える金の髪、必死に瞬く瞳の色は今は見えない。 「…いいよ、窒息してみたいんだな?」 ハイユはくすりと笑って両手を広げる。 本当は問い正そうと思っていた。確かめようと考えていた。 『脱げ。……ああ、そういう意味じゃなくてね。メイド時代を捨てるんなら、もうそのメイド服もいらないでしょ。もし着てたいんなら、それはまだ未練があるってことよ』 けれど、そんなことは必要なかった。 思い出にたじろぎ、失うことに怯えようとも、サシャはもう、一つの結論を選び取っている。今ハイユに甘えているのは、その結論にしっかりと両手をかけて握りしめているからだ。 「さあ来い」 「っ!」 ぱふん、と柔らかな音が響いたほど激しく、サシャはハイユにしがみついた。一瞬の沈黙、やがて途切れ途切れに訴えながら、泣きじゃくる声が響き始める。 「ごめ……さい…旦那様……ワタシ……沢山貰った…から…もったいないほど…幸せだから……今度はあげる側になりたい………」 サシャはわかっている。今大事なかけがえのない人の記憶を、チャイ=ブレという得体の知れない闇に捨て去る恐怖を。それが何をもたらすのかわからぬ不安、それでも、その記憶はまたサシャを押し出しもする、混沌の中を歩くための小さな灯となるように、と。 ハイユがしっかりと抱き寄せる。その力を感じて、サシャはなお一層身もがきしながら訴えた。 「ワタシも誰かの為にターミナルに虹をおきたい……その人が迷子にならなくてすむように……上を向いて歩けるように……」 たくさん与えられた愛情が、今サシャの心から溢れて広がっていく。その代償に失うものもまた多いのだけど、それでも彼女の選択は変わらない。 やがて。 「は…ふ…」 「…もういいかい?」 「……はい…」 しばらく続いた泣き声がようやくおさまり、ハイユはゆっくり腕を開いた。 そろそろと体を起こすサシャの鼻の頭が真っ赤だ。びしょびしょに濡れた瞳は、それでも少しずつ落ち着いて、テーブルのナプキンで顔を拭うサシャに、ハイユがあ、それマナー違反だから、と生真面目な顔で突っ込でみせるのにくすくす笑った。 「おじいちゃんはきっと、頼りなくて寂しがりで泣き虫だった孫娘の独り立ちを喜んでくれる」 生前、そんな風に呼ぶことなどなかっただろう。強がる黒い瞳を、ハイユは少し眩しく見返す。 「だから……ワタシの代わりに、ワタシの分まで旦那様の事を覚えていてください。シュマイトちゃんと故郷に帰ってもこの話を忘れないで…」 きゅ、と唇を噛み締め、サシャは強いてにっこり笑ってみせる。 「ワタシの大好きな人が、ワタシの大好きな方の思い出を持っててくれる……受け継いで語り継いでくれる」 それなら大丈夫。 「サシャはターミナルで立派にやっていけます」 光を帯びた黒い瞳。 帰属が叶うかどうか、元の世界が見つかるかどうかさえわからないのに。 いつかロストメモリーとなったサシャと、もしターミナルで出会ったなら、彼女はハイユの御館様のことは覚えていてくれても、自分の語った、掌に溢れた涙の記憶を、もう覚えていないだろう。 ハイユは珍しく、少し顔を歪める。 二人が『フォーチュン・カフェ』を出て行くとき、ハオは小さな贈り物をした。 誕生日を祝うイベントの時のように。 ハイユには紫の石柱のような枠に囲まれた鮮やかな緑色の砂が落ちる砂時計。サシャには金色の蔓草に囲まれたような枠の煌めく黒い砂が落ちる砂時計。 「これじゃあ、あまりにも当たり前って感じだね」 いっそ交換しようか。 ハイユの提案にサシャが喜び応じたのは勿論のこと。 やがて開かれるサシャの仕立て屋の一画には、この小さな砂時計が置かれることになる。 時計は刻む、新たな時を、新たな場所で、新たな絆を。 くるりくるりとひっくり返されながら、流れ落ちる時間の一粒一粒を輝かせて。 おめでとう。 繰り返し生まれる、あなたの命に、幸いあれ。
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