* 燃えゆく炎の中に、彼女たちの瞳を見た。 ふたりの白い肌が、群衆の黒い背中の合間から浮かび上がる。 幼い少女とその身体をしっかりと抱きしめた一人の女。 こちらを見た少女の瞳に彩が浮かぶ。 助けて、とその瞳が訴える。 刹那、それが赤に包まれ消えた。 それは近く、そして遠かった。 おびただしい亡骸の山をつくり、彼は炎を消した。 しかし遅すぎたのだ。 その時には彼を照らす太陽も月も無くなっていた。 たった独り。闇の中に残された彼は自ら城のとびらを閉じ、門を固く閉ざしたのだった。 うぉう…… おぅ、おぅ…… おぉーん…… 彼の城の周りでは、いつも奇妙な音が響くのだった。 ある者はそれを風の音だといい。 またある者は殺された者の魂が啼く声だと言った。 * おぉーん…… 今、その城門の前に佇み、声を聞いている者たちがいた。 眉を潜め、暗闇を見つめるのはバルタザール・クラウディオだ。その外套に横殴りの雨を受けながら、彼は泰然と門の前に立っている。 嵐は吹雪に変わろうかとするほど冷たく、容赦無く彼の身体に吹きつける。しかしバルタザールは微動だにしない。凍えるような寒さも、吸血鬼たる彼の身体に忍び込むことができないのだ。「どうしたの?」 ひょこり、と外套の隙間、彼の足元から幼い少女が顔を出した。 ゼシカ・ホーエンハイムだ。 二人はヴォロスでの食材さがしの依頼で一緒になり、ひょんなことでこの城に辿り着いた。 依頼を終えたゼシカが、近くで見られるというヴォロスのオーロラを見たいと言い。その小さなレディを守る騎士としてバルタザールが腰を上げたという顛末だったのだ。 オーロラを見、満足したのもつかの間。二人はひどい嵐に見舞われた。 バルタザール独りならどうにでもなる。しかし彼はレディを守ることに重きを置いた。 それで、この城を見つけたのだった。「住んでいる者がいるようだ」 ぽつりとバルタザール。彼は内心の葛藤を見せず、そっとゼシカの顔を外套の中に隠す。「雨宿りをさせてもらおう」 彼は気付いていた。この城には何か得体のしれないものがいる──。その感覚が彼を逡巡させた元凶だ。 大きな扉を叩けば、ほどなくして大柄な男が顔を出した。執事だろうか。彼は暗い目でバルタザールたちを一瞥すると何も言わずに首を振る。うんざりするほど陰気な仕草だった。 帰りなさい、そう彼が囁いた時。「どうしたんだ、ゾルタ。お客様なら入ってもらいなさい」 奥から若い男の声が聞こえたのだった。 男は奇妙な表情を浮かべ顔を歪めた。その意を読みとろうとバルタザールが目を細めるが、彼は扉を開きその影へ逃れるように視界から消えた。 そこはエントランスホールとなっていた。 吹き抜けになった空間は百人ほどが一堂に介せるほどの広さを持っていた。高さは3階ほどの高さもあろうか。壁は丸くカーブを描いておりホール全体が円筒状になっているのが分かる。壁の脇には点々と松明があり、落ち着いた群青色の絨毯を照らしている。 外の嵐が嘘のような静寂である。 ホールを包み込むように螺旋状になった階段がある。その中ほどに一人の影を見つけて、バルタザールは目礼した。「ようこそ、旅のお方」 城の主であろう、若い男が静かに階段を降りてくる。栗色の髪を短くまとめ、絨毯と同じ群青色の礼服をまとっている。「済まないが、しばらく雨宿りをさせてもらえないだろうか」「もちろん構いませんよ」 彼は視線を走らせ、バルタザールの身なりと物腰を見てとったようだった。その上で丁重にもてなすべきと判断したのだろう。「しかし外はひどい嵐ではありませんか。もうすぐ夜の帳も下りる頃合です。ぜひ拙宅で一夜を過ごされるとよい」「いや、それは結構」「遠慮なさらず」 と、無表情だった城主はここで初めてうっすらと笑みを浮かべて見せた。「それとも、このようなあばら家ではご不満でも?」「そういうわけでは」 眉を寄せてバルタザール。こうした場で礼を欠くのは彼の性分ではない。不承不承うなづき居住まいを直す。「私は、バルタザール・クラウディオ。それでは城主殿のお言葉に甘え一晩の宿を願いたい」 城主は鷹揚にうなづいた。「それから彼女は──」「ゼシカよ。ゼシカ・ホーエムハイム」 庇護者の外套から滑りでた少女は、ぺこりと一礼してみせた。 もう一人いるとは思わなかったのか、それが幼い少女だったからか。驚いた様子で城主は目を見開いた。「──」 それが不自然な間をつくった。ホールの空間を長く沈黙で満たすも、まだ城主はゼシカを見つめている。 バルタザールは目を細め、咳払いをしてみせた。「僕はラザラスと申します」ようやく、城主はゼシカから視線を引き剥がし、名乗った。「ラザラス=イハ・ベルカと申します。領民も少なく、質素な暮らしを強いられておりますが、あなた方のご来訪を歓迎いたします」 夕食は確かに質素なものだった。 鹿肉のソテーに葉物野菜の付け合せ、それに輪切りにされたパンが添えられている。そして玉葱のスープにマッシュポテト。 吸血鬼たるバルタザールは食事を必要としないが、礼儀としてその料理に口を付けた。ゼシカは逆に、庶民的なその味に喜んだ。 会話も世間話程度に終わり、何事もなく静謐な時間が流れただけだった。 ラザラスが言うには、昔この領地を数年の不作が襲い、数多くの領民が命を落とした。今でも畑は痩せたままであり、領民は城から少し離れた肥沃な大地に村を移したのだという。 なるほど、とバルタザール。それならこの城が単独で存在している理由にはなるな、と。 意外だったのは、ラザラスの奥方が同席したことだった。 透き通るような白い肌の──端的に言うならば、ひどく美しい女である。 ルツィエと紹介された彼女はほとんど口を利かなかった。こちらを警戒しているというより心ここにあらずといった様子なのだ。彼女はただ静かに食事を済ませ夫とともに席を立った。 強い風は城の外を吹き荒れ、窓に大粒の雨を叩き付けている。 しかし城の中では、何も起こらず静かな夜が続いていた。 最初にそれに気付いたのはゼシカだった。廊下を歩く足を止めて、彼女が壁を見上げたのでバルタザールも足を止めた。 壁に大きな肖像画が飾られていたのだ。 二人が足を止めたので、前を歩いて案内をしていた執事のゾルタも振り返る。 絵の中では三人の人物がこちらを見ていた。主人のラザラスは静かに立ち、奥方のルツィエは傍らの椅子に腰掛けている。そしてルツィエの膝に幼い少女が乗っていたのだ。 金髪に青い瞳の、愛らしい少女である。「娘さん……?」 ゼシカはその少女の姿をじっと見つめた。 燭台の灯りは暗く、館の中の暗闇を少ししか照らすことができない。しかしそれでも二人には分かった。 この微笑む少女の姿。 まるで、生き写しではないか──。「アドリアナ様です」 と、執事のゾルタが囁いた。「ねえねえ、クラン。さっきの絵……」 部屋に通されるなり言うゼシカに、シッ、と唇に指を立てるバルタザール。「他人の空似というものだろう。主が君を異様なほど見つめていた理由が分かったな」「ゼシが娘さんにそっくり?」「そうだ」「なら、その娘さんはどこにいるの?」 ゼシカの問いに、吸血紳士はにやと微笑んだ。「それを今から調べてみようと思う」 彼は言いながら、懐からカードを二枚取り出しエレガントな仕草で指を走らせた。 ヒュッ。そこに現れたのは二体の鎧をまとった人型だった。頭から足まで鎧で覆われており、中身は伺い知ることができない。 バルタザールの使い魔、騎士(ナイト)である。「よく聞きたまえ。この城の主は人間ではないようだ。あの夫人もだ」「えっ?」 ぽつりと言われ、ゼシカは驚いて目を丸くする。「私と同じだと言えば分かるだろう?」「吸血鬼?」「同じ匂いがしたのでな。おそらく向こうも私に気付いたはずだ」 バルタザールはゼシカを怖がらせるのではと、それ以上のことは言わなかった。「私は少しの間席を外す。心配するな、君はこの部屋で待っていればいい。何か起ころうとも私の使い魔たちが君を守る」「うん。すぐ帰ってくるよね?」 素直にこくりとうなづくゼシカ。もちろん、と紳士もうなづいた。 バルタザールは自らの力を過信していた。 普通であれば、怪しげな主のいる城の中で幼い少女を一人残すなどしないだろう。それを実行したのは、相手と自分の能力を天秤にかけ、自分の方が上だと判断したからだった。 しかし彼が失念していたことがあった。 それは、相手がこの城の主である、ということだった。 ベッドに腰掛け、足をぷらぷらとさせているゼシカ。彼女のすぐ傍にはバルタザールのナイトたちが控え彼女を護っている。 静かな空間の中で、彼女は先ほどの肖像画を思い出していた。 ゼシカにも母や父がいた。 けれど彼女は父と母が一緒にいるところを見たことが無い。もしかしたら──天国で二人はまた出会っているかもしれない。ずっと会いたいと思っていた相手に再会したかもしれない。 二人は幸せに過ごしているのかな……。ゼシカは絨毯の模様をじっと見つめる。 そこにゼシも行きたいな、幼い少女は無邪気に思う。どういうわけか、みんなは天国に行くのはまだ早いというけれど。 パパとママに会いたい。一緒にいたいって思うのは変なこと? そうしたら、あの肖像画の三人みたいに。一緒に座って写真を撮ったり、美味しいご飯を食べたり、遊びに行ったりできるのに。「やあ」 ひゅん、と頭の上を風が切り、男の声がした。 我に返ったゼシカが視線を戻せば、目の前には城主ラザラスが立っていた。 どこからどうやってこの部屋に侵入したのか──。 彼が抜き身の剣を鞘に収めるのを見て、彼女は傍らのナイトたちが首を飛ばされ灰燼に帰したことを知る。「君とお話がしたくて」 凶器を納め、何事も無かったかのようにラザラス。彼は優しげな微笑みを見せ、そっとゼシカの傍に腰掛けた。ゼシカは突然のことに驚き、反応すらできずにいる。「あの人は君のお父さん? 違うよね」 恐怖に囚われ、ゼシカはドレスの裾をぎゅっと握り締めた。「クランのこと……?」「そう」「おともだち」「そうなんだ。あの人さ、僕と同じ匂いがする。あの人と友達になれるなら、僕とも友達になれるよね」 ゼシカはようやく相手の顔を見ることができた。柔和な笑みを浮かべている彼は、居なくなった父と同じほどの年齢に見えた。「僕にも君ぐらいの娘がいたんだ」 ゼシカの言葉を待たずに、彼はそっと彼女の手に触れる。少女はその彼の指に大きな赤い宝石のはまった指輪が光るのを見た。 ガーネットだろうか。血のようなその赤黒い輝きに、そしてラザラスの手の冷たさに。ゼシカは震えるだけで口を開くこともできない。「名前はアドリアナ。可愛い子だったよ。リアナ、リアナと僕が呼べば転びそうになりながら走ってくるんだ。頬はとっても柔らかくてふわふわでね。すぐ抱っこをせがむんだ。よく泣き、よく笑う。微笑みは輝くようで神の使いのようだったよ。抱きしめれば温かくて──。僕は独りだった。独りだった僕をリアナが、ルツィエが温めてくれた。僕は君を愛していた。君は僕の全てだった。君のいない僕はただの抜け殻だ。君がいることで僕の人生に意味ができたんだそれを奴らがリアナ──」 長い独白は小さくなり、そして消えた。「君はリアナなんだ。僕には分かっている」 手を振り解こうとすれば、強い力で手を握られた。「君は太陽なんだよ、リアナ。僕を照らしてくれ」 城主はそっと囁くように言うのだった。 ──ここで一緒に暮らそう。 その言葉は、一瞬だとしてもゼシカの手から力を奪った。一緒に……暮らす? 彼女は呆けたように城主の顔を見上げる。 幼い少女の心に迷いを植え付け、吸血鬼はそっと彼女の身体を抱きしめたのだった。「ルツィエ様とアドリアナ様は、もうこの世の方ではないのです」 壁に身体を押し付けられ、喘ぎながらゾルタは言う。彼の身体を押さえつけているのはバルタザールの使い魔ナイトである。 彼自身は片手をポケットに突っ込み、鋭い目つきで尋問相手を見つめている。 城主ラザラスは領民の美しい娘と恋に落ちた。妻となるルツィエである。彼女が貧しい家の出であったからか、彼女は非常に妬まれた。 やがてどこからともなく、ルツィエが魔物であるという噂が立った。根も葉もない噂であったが、ラザラスと結ばれてからのルツィエは美しさを増す一方で、結婚する前とは別人のようになっていたというから、多くの者がその噂を本気で信じた。 田舎領主の妻が絶世の美女であり、魔物である。その噂はイハ・ベルカ家に領地を与えた王の耳にも届いた。王は調査と称して、この地に異端狩りのための審問官を派遣した。 かくして──ルツィエと魔物の子アドリアナは処刑された。「ラザラス様はお可愛そうな方なのです。あの──あの宝石が全ての元凶なのです」 ゾルタは口にするのも恐ろしいと、声を潜めて言う。「イハ・ベルカ家に古くから伝わる赤い宝石なのです。祖先がこの地を征服した時に流した血を閉じ込めたものと伝えられていますが、本当に魔法の力を持っているのです。私はまだ子供でしたがはっきりと覚えています。ラザラス様があれをルツィエ様にお贈りになられてから、あの方は変わりはじめた。そしてラザラス様も……」「なるほど」 合点がいってバルタザールはそっと口を挟む。「石の魔力があの男を吸血鬼にしたか」 静かにゾルタは頷いた。バルタザールは顎をしゃくり、抵抗をやめた彼を解放する。「ラザラス様は剣の名手でした。審問官と村人を何人も殺め、多くの返り血を浴びました。生き残った者がラザラス様を吸血鬼だと……! ラザラス様の時間はあの時のまま止まってしまったのです」」「ふむ」 バルタザールは考察する。石にはおそらく人の思いを具現化する力があるのだろう。竜刻の類の可能性もあるが……?「──ッ!」 ゾルタが目を見開くのを見て、バルタザールは振り返った。 廊下の端に女が立っていた。 白く透けるような肌の女だ。今はルツィエと呼ばれているその女は、にぃっと笑った。口端には牙が光り、バルタザールを濡れそぼった目で見据える。「それはルツィエ様ではありません、ただの村娘で──」 バルタザールはゾルタの言葉を最後まで聞かなかった。なぜなら、ドレスの裾をなびかせ、おおよそ貴婦人とは言いがたい仕草で女が走りこんできたからだ。「面白い」 ふわりと香るは乳香──オリバナム。 バルタザールはそれだけ言って、懐に手を入れたのだった。=========!注意!企画シナリオは、便宜上、参加枠数が「999」になっていますが、実際には特定の参加予定者のために運営されています。この企画シナリオは下記のキャラクターが参加予定です。他の方のご参加はご遠慮下さい。万一、参加予定でない方のご参加があった場合は、参加がキャンセル(チケットは返却されます)になる場合があります。<参加予定者>ゼシカ・ホーエンハイム(cahu8675)バルタザール・クラウディオ(cmhz3387)=========
何という赤、だろう。 その毒々しく深い色に。ゼシカは目を近づけていた。宝石は暗い光を放ち、城主ラザラスの指に収まっている。 名を“イハ・ベルカの赤い石”という。 一族の名を冠するそれは、持ち主に災厄をもたらす元凶となっていた。 この指輪を嵌めた女は魔物にされ、幼子とともに処刑された。そして今の持ち主を人ならざる者に変容させた。この石には人の悪意を具現化する力があるのだ。 それをゼシカは知らない。 知らないが、彼女は直感的に悟っていた。 この石は良くないものだ。 絶対にそうだ。 「さあ君の部屋に戻ろう」 ラザラスはゼシカの手を引いて促し、そっと立たせた。彼は紳士的で優しかった。君の、と彼は言う。客の彼女が客室にいるというのに。 「あのね、城主さま」 廊下に出て歩を進めようとした時、ポツリとゼシカ。不本意な表情を浮かべ、城主は少女を見る。おそらくはその呼び方が気に入らなかったのだ。 「その指輪、素敵ね」 「指輪、これかい?」 ゼシカが恐る恐る口にすると、彼はすんなりと指輪を外し彼女に手渡してくれた。 「リアナは……ふふ、そう。この指輪を怖がっていたね」 “悪い指輪”を外してくれるとは。願ってもないことだった。 「ごめんなさい!」 ゼシカはいきなり走り出した。とにかく指輪をどこかに隠してしまわねば、と思ったのだ。 不思議と城主は彼女を見つめるだけで、追って来なかった。 上へ上へ。 幼い少女はいつしか螺旋階段をぐるぐると駆け上がっていた。息を切らし、その足取りはゆっくりとしたものに変わっていく。 パパ。 彼女は何故だか自らの父親の顔を思い浮かべていた。短い間だけだったが、父は様々な表情を見せた。しかしそれはいずれも苦しみの中にあった。牧師であった彼は、ずっと苦しんでいた。 ゼシカのせいなの? 彼女が産まれた時、母は死んだ。父が苦しんでいたのは母を失ったからだった。 そうなんでしょ。 皆は“ゼシカは悪くない”と言った。だが彼女にだって分かるのだ。 ゼシはいらない子だったの。パパはだからあんな顔をして──。ゼシはパパからママを取っちゃったの。 でも、いいのよ。パパはきっと今は大丈夫。天国でママと一緒に幸せに暮らしてるわ。 幸せすぎて──きっとゼシのことなんか忘れちゃうかもね。 ゼシは、ひとりぼっち。 思考がそこまで進んだとき。急に胸が締め付けられるような思いに囚われ、少女は足を止めた。 ふと手を開くとそこには大きな赤い石の指輪がある。心に染み入るような深い赤に、思わずゼシカは魅入った。彼女の心が尋ねる。自分は独りなのか、と。 きみはひとりぼっちじゃないよ。 いっしょにあそぼう。 きれいなお花の野原にいっしょに行こう。 誰、誰なの? 耳元で誰かが囁いたような気がして、ゼシカはその声に耳を澄ませた。 * 「淑女になって出直して来たまえ」 向かってきた女は、糸が切れた人形のように床に倒れ伏した。 今はルツィエと名乗っている女であり、石の魔力に心を奪われた女だ。身分不相応にも、彼女は目の前の異邦人を襲おうとしてその魔眼に支配されたのだった。 女にも相手を魅了する力はあった。しかし今襲いかかろうとした男のそれとは力の差が有り過ぎたのだ。 嘆息ひとつ、バルタザールは女を一瞥し振り返る。そこに居るのは執事のゾルタだ。 「待て」 今にも逃げだそうとしている彼に鋭く声をかける。 「城主と争うつもりはない。力に訴える野蛮な方法は私の好みではないのでね」 バルタザールの言葉に、ゾルタは今だ恐々とした様子を崩さない。 彼は気付いていた。自らの使い魔が消失したこと、それは即ちゼシカが城主ラザラスと接触したことを示している。連れは非力な少女だ。彼女に危機が迫っているかもしれない。 「案内してもらおうか。彼と会って話をしたい」 主の部屋は連続する小ホールの先にあった。ノックをしても返事はなく、バルタザールは、失礼すると呟きながら部屋の中へと足を踏み入れた。 机上のランタンが一つ、部屋の中をひっそりと照らしている。そこは本棚と机に囲まれた部屋だった。 「ラザラス様はご不在のようですが……」 彼は執事の言葉を無視して、何かの結界に触れるかのように慎重に部屋の奥へと進んだ。 そこにひとつ机がある。 紙や本が重ねられた脇に、ぽつんと置かれているものが目についたのだ。 桃色の花の髪飾り、である。 バルタザールはそっとそれを手に取った。花弁は刺繍で形作られているが、半分は燃やされたように焦げ無くなっている。 「──僕の娘のものです」 ふと、背後から若い男の声がした。バルタザールは驚くこともなく、それをテーブルの上に戻し振り向いた。 執事の姿は消え、いつの間にか城主ラザラスがそこに立っていた。吸血紳士は、城主が左手に一振りの剣を持っていることに気づく。 「失礼した。私の連れがここにいるかと思ってね」 しかしバルタザールの表情が動くことはない。 「ゼシカを見なかったかね?」 「いえ、部屋から出られたのですか?」 ラザラスは白々しく返してきた。彼は机に近づき、髪飾りを隠すように手に取る。 「そのようだ」 「心配ないでしょう。それほど広くない城ですから」 ラザラスは客人を促すように部屋の外へと誘った。バルタザールも逆らわず共に部屋を出る。 ホールを並んで歩く二人。音の無いその空間を、ちらちらとゆらめく燭台の灯りが静かに照らしていた。 「ちょうど良かった。貴方にお願いがあるのです」 ふいにラザラスが口を開いた。眉を上げてみせ、先を促すバルタザール。 「僕と勝負をしてくださいませんか? これで」 すらり、と彼は持っていた剣を静かに引き抜いた。 刃の細い長剣であり、持ち手にもまた赤い宝石が嵌め込まれていた。名のある剣であることは間違いなかった。バルタザールの使い魔を滅することが出来たのだから。 「構わんが、なぜ?」 吸血紳士は落ち着き払ったままである。しかし二人の間には自然と距離が生まれていた。 「僕が貴方に勝ったら、あの子にはこの城に残ってもらいます」 ハッ、と彼は笑った。この時ようやく相手の意図を完全に悟ったからだ。 「なるほど。つまり君は、私を殺しゼシカを奪いたいというわけだ。今のは宣戦布告か」 「その通りです」 「自信家だな」 ──キンッ。 短い言葉の後、バルタザールの抜き放った剣が、ラザラスの斬戟を受け止めていた。 皮肉にもラザラスの剣筋には全く迷いが無かった。何しろ彼は相手が武器を抜くまで待たなかったのだから。 しかしバルタザールの笑みも消えない。殺意ほど理解しやすいものは無いからだ。 彼が愛剣オリバナムを振り払えば、ラザラスは後方へ飛び退き、辺りには乳香がふわりと香る。 「いいだろう。こうした語り合いも嫌いではないのでね」 言いながら、バルタザールは剣を下段に構えていた。 * ゼシカはハッと我に返った。 目の前で桃色のカーテンが揺れている。 女の子の部屋だわ、とゼシカは思った。ならば、ここは城主の亡くなった娘、アドリアナの部屋だろう。知らずに入り込んでしまったらしい。 すぐに出ようとして、ゼシカはベッドの上に様々な玩具があるのに気付いた。 髪飾り、音楽隊の人形、木彫りの子豚。皆古いことは見て分かるのに、埃一つかぶっていない。この部屋の持ち主を忘れない人がいるからだ。 ゼシカは城主を思い浮かべた。あの人は今でも自分の娘に深い愛情を注いでいるのだろう。 父親とは娘を愛するものだ。 なのに、ゼシは──。 急に目が霞んできて、ゼシカは手の甲で涙をぬぐった。 自分が死んだら父はこれほど悲しんでくれただろうか。これほどまでに思い出を大切にしてくれただろうか。 ぽろぽろと零れ落ちた涙が、少女の小さなエプロンに染みをつくる。ハンカチを出そうとしてゼシカはポシェットの中の固いものに手を触れた。 そこにはあの赤い輝きがあった。 悲しまないで。赤い石が囁く。だって、きみはリアナじゃないか。 悲しむことなんかないのさ。 きみはリアナで、パパだってママはきみのことを愛してくれているよ。 きみをずっと、いつまでも愛してくれるよ。だってきみはリア── いけない。 顔を上げるゼシカ。 そうじゃない、ゼシカはこんな大切な思い出の中にいちゃいけないんだ。手をぎゅっと閉じて、あの指輪を握り締める。これを、これをどうにかしなければ。 彼女は部屋を飛び出した。 * 確かにラザラスの腕は悪くなかった。しかも吸血鬼を殺すために執拗に首を狙ってくる。バルタザールは冷静に受け流しながら、相手の内面を推し量っていた。 闇の眷属となり数十年、変わらず領地を保っているということは、質素な暮らしからも分かるように力で領民を虐げているわけではないのだ。彼はただ城の中に閉じこもり、失った者の身代わりで自らを慰め過ごしているのだろう。 「哀れだな」 バルタザールの中の悪い虫が言葉を発した。 「君は哀れな男だ」 もう一度言えば、ラザラスの目の色が変わった。意味を汲み取ったのだろう。返答は鋭く切り込んだ突きだ。 バルタザールはオリバナムで絡めとるように、相手の剣の軌道を外す。 「ゼシカを娘の身代りとして愛するのであれば、やめたまえ」 だが、こちらからは攻めない。一定の間合いを取ればまた彼は防御に徹した。 「愛とは求めるものではなく、惜しみなく与えるものらしい。君は愛すると錯覚しているが求めているにすぎん」 踏み込みが足りず、苛立ったようにラザラスは唸り声を漏らす。 「貴方は何も分かっていない。僕と彼女が出会ったのは運命だ。彼女だって──」 「運命だと? 笑わせる」 ふん、と鼻を鳴らすバルタザール。 「ゼシカは成長し淑女となり、いつか伴侶と出会うだろう。そして、子を授かり家族を持つ。今、君が切望しているものをな」 そして彼は初めて数歩踏み込んだ。「君がしようとしていることは、彼女からそれらを奪うことだ──」 絡んだ剣を滑らせれば高い金属音が響く。慌てて飛び退いたラザラスの腕に、オリバナムが僅かに食い込んだ。 「くっ」 「君が抱える苦しみをゼシカに与えたいのかね? それは君の寂しさを埋めるだけの我儘にすぎん」 バルタザールは待たなかった。澄んだ音だけを響かせ、彼は相手の剣を弾き飛ばしていた。無常な剣はそのまま若き吸血鬼の首筋に迫る。 動けずにいるラザラスの耳の下へ。血を飛ばして剣が静止した。 刃の上で、二人の視線がぴたりと合う。 「本当にゼシカを愛しているというのならば、彼女が成長し様々な人と巡り合ったうえで、君を選ぶというまで待ちたまえ。たかが数十年待つこともできないのかね?」 「僕は、ただ──」 首にめり込んだ刃は微動だにせず、ラザラスの言葉は消え入るようだ。 「闇に生きる者が、人を愛するということ。それが何を意味するか、今一度理解したまえ」 「やめて!」 廊下の端に、一人の少女の姿が浮かび上がっていた。 「喧嘩しないで、仲直りして」 息を切らしながら、ゼシカは動転していた。どういうわけか二人が真剣で切り結び、バルタザールが城主の首を刎ねようとしているのだから。 「二人とも、ほんとは優しいって知ってるもん。どっちが怪我しても哀しいわ」 「ゼシカ」 振り返りもせずにバルタザール。「すぐ終わる。そこで待っていたまえ」 「嫌よ! 見て、これ」 と、ゼシカが掲げてみせたのは、あのイハ・ベルカの赤い石である。 「この指輪を捨てちゃうわ!」 ぱっときびすを返して走り出すゼシカ。もちろん二人に剣を捨てさせるためだ。 「待って!」 先に反応したのはラザラスの方だった。バルタザールは、なぜあの指輪を彼女が持っているのか分からずに反応が遅れた。 よろめきながら追いかけるラザラス。ゼシカはあの玄関ホールにたどり着いた。壁を這う螺旋階段を駆け下りていく。 「教えてくれ……! 君は誰なんだ?」 その少女の背中に、城主は悲痛な叫びを浴びせた。 「君はリアナなんだろう? 違うのなら、なぜ僕の目の前に現れたんだ?」 「ゼシは……」 「なぜ、僕を苦しめる?」 追い付かれて腕を掴まれ、ゼシカは慌てて、手にしていた指輪をごくんと飲み込む。 驚いたラザラスが彼女の腕を離した。 「ゼシはゼシカよ。リアナちゃんじゃない」 そう言い放った時。彼女はふわりと自分の身体が浮くのを感じた。階段から足を踏み外したのだ。 「ゼシカ!」 身体の均衡を失い、落ちていく少女。バルタザールは素早くカードを取り出そうとして──やめた。 飛び出した影に任せようと思ったからだ。 目の前が濃い青になって……ゼシカは自分の身体が床に衝突したことを知る。しかし衝撃は少ない。自分を誰かが抱きしめて、下敷きになってくれたからだ。 「城主さま!」 倒れた男の左腕はあり得ない方向に曲がっていた。彼はうっすらと目を開く。 「大丈夫だよ、僕はこんなことでは傷つかない」 そっと右手を延ばし、柔らかい少女の頬に触れる。 「ずっと気になってたの。城主さま、ゼシを見るとき凄く痛そうな顔するの」 今もそう。ゼシカもそっと彼の髪に手を触れる。 「哀しくて優しくて……痛そうなおカオ。城主さまは娘さんが死んじゃって寂しいから、ゼシに一緒に暮らさないかっていうのね」 ラザラスは否定とも肯定ともつかない笑みを浮かべる。 「ごめんなさい。それはできない」 ぴたり、と少女の頬を撫でていた彼の手が止まる。 「だってゼシ、リアナちゃんじゃないもの。リアナちゃんのパパ、とったりできないもん」 ゼシカは、彼の胸にそっと手を置いた。 城主さまの、いたいのとんでけ──。 どうしたことだろう。痛くないようにおまじないをしたというのに。ラザラスの頬に大粒の涙がつたって床に落ちていく。 「ありがとう」 「あのね」 ゼシカは続ける。「ゼシのパパはママが死んじゃったのが哀しくて、ゼシの事忘れちゃったの。ゼシが産まれた事、なかったことにしちゃったの」 胸においた手にラザラスがそっと手を重ねる。 「大好きな人に忘れられるのって、とっても辛くて苦しいことよ。リアナちゃんのパパならリアナちゃんの事ずっと覚えていてあげて。本当のリアナちゃんを消しちゃわないで」 おずおずとゼシカは自分のスケッチブックを取り出して、ページを開いて見せた。クレヨンは解き放たれたように自由な線で人物を描いている。同じと思われる人物を何人も何人も。 「ゼシカのパパよ。大好きって気持ちをうーんとこめて描き直したの。リアナちゃんだってパパの絵を描いたはずよ」 思い出して 城主さま 「──忘れやしないよ。リアナは焼け焦げて死んだんだ」 その声は震え、城主は身体を起こし自らの顔を腕で覆った。 「彼女たちを助けることが出来なかったというのに。僕だけがこの暗い世界に取り残された。何度も死のうとしたのに死ねなかった」 「城主さま」 ゼシカはハッとして城主の肩に触れた。彼の悲しい思い出を思い起こさせてしまったのだ。慰めるように肩を撫でる。 かつん、と靴音をさせて、彼の前に立つのはバルタザールだ。ラザラスは彼を見上げた。 「今の僕なら、朝日を浴びれば死ねるかもしれない。そうなのですよね?」 「くだらんことを聞くな」 返す言葉は冷たく突き放すようだ。 「分からないのです。僕はなぜ──」 なぜ、僕は、独りなのですか。 「教えてください。僕は死にたくても死ねない。僕は一体何のために生き残り、何のためにこんな力を手に入れたのです?」 涙を流し、年長者を見上げるラザラス。見下ろす彼の目は冷たく、揺るがない。 「他人に聞くな。自分で考えたまえ」 にべもなく言い放つ。 「本当に分からないのです。僕には。ああ──」 「分からないなら、見ろ」 吸血紳士は涙を流す若輩者を正視した。 「見ろ、目の前のものを見つめろ。自分が何者であるか知りたいのなら、ただ、世界を見つめろ。そこに存在の理由があるだろう」 ラザラスは見た。 そこに立つのは悠久の時を過ごした一人の人物だ。彼は風を揺らすこともなく、ただ泰然とそこに在るだけだ。 若き吸血鬼は何かに思い至ったのだろうか。大きく目を見開き頭を垂れた。 そして最後に言ったのだった。 ──貴方に忠誠を誓います、と。 * 「その指輪には、人を変容させる魔力があるのだ」 帰路のロストレイルの中、バルタザールは言う。ティーカップを手に彼はゼシカに指輪の魔力のことを話して聞かせた。 「危険なものだ。速やかに取り出してもらわねばな」 「大丈夫よ。きっと」 しかしゼシカは明るく微笑んだ。その指輪を飲み込んでしまったというのに。 「人の思いを本当にしちゃうんだったら、ゼシが強く思えばいいの。みんながずっとニコニコしてられるように」 そうか。吸血紳士も微笑み、紅茶をすする。 君はもう立派なレディだな、と伝えれば少女は照れ隠しに笑った。 「そんなことより、あのね」 ゼシカは気になっていたことを口にする。あの城主と連れが話していたことだ。 「クランは知ってるの?」 彼は何のことかと眉を寄せる。 「クランは、どうして生き続けているの? クランは、その“りゆう”を知ってるの?」 その問いに、彼は窓の外へちらりと横目をやった。 そして。 口端を歪めて少しだけ、笑ったのだった。 (了)
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