オープニング

 年の瀬も迫る十二月末。
 人々が年越しの準備に追われる時期ではあるが、0世界や壱番世界以外の異世界にも同じ風習が存在するかどうかはさだかではない。
 雑多な小世界が寄り集まって出来たシャンヴァラーラなどは、まさに文化のるつぼと称するにふさわしい。そういう場所での越年も面白いだろうと、神楽・プリギエーラがゲールハルト・ブルグヴィンケルやほかのロストナンバーたちとともに『電気羊の欠伸』を訪れた時、黒羊プールガートーリウムの化身は出かける準備の真っ最中だった。
 といっても、身体中から生えているコードやチューブを切り離したり別の何かと接続したりする作業が『お出かけの支度』だとは、言われなければ気づけないだろうが。
「で、どこに行く?」
「竜涯郷だ」
「……自分の領域どころか、【箱庭】まで超えてしまっていいのか?」
「私は化身にすぎないから、問題ない。何かあればプールガートーリウムかほかの夢守が対処する」
「しかし、急になぜ?」
 神楽が問うと、一衛は少し考える様子をみせた。
「『トコヨの棘』に関するものではないんだが、少し気になることがある。そのことを確かめに、旧い友に会いに行くんだ」
 最近、ロストナンバーたちとのかかわりで、少しずつ生命らしさ、人間くささを――心と呼ばれるものを獲得しつつあるこの人型兵器は、友、という言葉にわずかな感慨を込める。
 それから、
「……ああ、お前たちもいっしょに来るか? 今、竜涯郷は子育て期間中だから、たいそうにぎやかだが、たいそう穏やかでもある。仔竜をやしなうために、驚くほどたくさんの菜が繁り、果実や、木の実がみのっているはずだ。私には味覚という感覚があまり理解できないから、詳しくは言えないが、それらはお前たちの口にも、よい思いをさせるだろう。その、年越しとやら、竜涯郷で執り行ってもいいかもしれないぞ」
 そう、ロストナンバーたちを誘い、尋ねた。
「それで、どうする?」

 * * *

 竜涯郷は、いつも通り、にぎやかにロストナンバーたちを歓迎した。
 やんちゃ盛りの仔竜たちが、見知った顔を見つけて飛びつき押し倒しあちこち舐めまわして、誕生の日よりずいぶん大きくなった――種族によってはすでに全長五メートルに達しているものすらいる――仔竜たちの手荒な歓迎に、悲鳴と喜び半々の声がそこかしこで上がった。
 一行がたどりついたのは、豊かな森を背後に臨む、澄んだ湖のほとりだ。
 湖は、向こう岸が見えないほど広大で、水は清く、とてもよい香りがする。神秘的と言ってもいいだろう。
 森のあちこちに、色鮮やかで瑞々しい、他世界では見られないような果実や木の実がみのり、また、壱番世界でハーブや山菜などと呼ばれ珍重されている植物や、毒性のないキノコのたぐいが豊富に見られて、少し手を加えればすぐにでも越年パーティが始められそうだ。
「調味料やほかの食材、調理器具や食器はゲールハルトが持ち込んでいるから、言ってくれれば大抵のものは出せると思う」
 すでにやる気満々で宴の準備を始めているゲールハルトを横目に見ながら――例のアレにばかり気を取られがちだが、ゲールハルトはいますぐ料亭で働けるほどの料理の腕前と、ベテラン家政婦並の家事能力の持ち主である――神楽が言うと、調理や製菓、パーティのセッティングが得意な面々がそれに応えて作業の手順などを確認し始める。
 それを不思議そうに、興味深そうに観察していた一衛が、今気づいたとでもいうように静謐で清廉な湖へ目を向けた。
「ん、ここはコヒノムアカか。この辺りは変わらないな」
 それがどこか懐かしそうだったので、微笑ましさを覚えたものが話しかけると、
「あ、なんか感慨深げ? 前にも来たことあるんだな」
「ああ、最後にここを訪れたのは五十二万年ほど前だが、変わりないようで何よりだ」
 明らかに規格外の数字が一衛の口から出て、思わず目を剥く羽目になる。
「なんか桁がおかしい!?」
「竜涯郷は無機生命を基本とする【箱庭】と同じで進化の過程が平坦だし、時間の流れがゆるやかだからな」
「というか一衛の実年齢が激しく気になります先生」
「天地開闢とほぼ同時に存在はしているが。といっても、今のような意識を持つに至ったのは二十七億年ほど前のことだな。何度かバージョンアップを繰り返しているから、当時の私と今の私では少し違うが」
「壱番世界に即して考えるととんでもねーけど、ここで聞くとすごい普通みたいに感じるのはなんでだ……時間の感覚ってホント世界でそれぞれなんだなあ」
「……えー、つか、この世界って、出来て何年……?」
「ドミナ・ノクスの記録媒体には、シャンヴァラーラに初めての生命が誕生してから二百数十億有余年とあるが、そもそも世界創造から時間の感覚が発生するまでにかなりの時間が経過していると考えると正確かどうかは定かではない」
 淡々と、機械的に説明したあと、
「そういえば、このコヒノムアカ湖にはいろいろな生き物が生息しているんだ」
 今度は頑是ない童めいた無邪気さで、枯れ枝を拾い上げ、繁みにかかった蜘蛛の巣を剥がしてくるくると指先で縒った。蜘蛛の巣が長い一本の糸になると、一方を枯れ枝に巻きつけ、
「餌は……そうだな」
 一方に手近な場所にみのる赤い果実を絡ませて、『餌』を湖へ放り込む。
 ぽちゃん、という軽やかな音がして、数十秒もするとすぐに引きが来て、一衛が無造作に竿を上げると、そこには丸々とふとった、青く光る鱗を持つ魚が、果実に喰らいつきながらびちびちと暴れているのだった。顔つきからしてマスの仲間のようだが、これならいろいろな料理にして楽しめるだろう。
「ここの生き物は警戒心がないから、何を餌にしても簡単に釣れる。針すら必要ないくらいだ。乱獲は困るが、越年の宴に必要な材料を獲るくらいなら許されるんじゃないか?」
 言われて、アウトドアや釣りが好きなものたちがめいめいに竿をつくり、蜘蛛の巣を縒って――壱番世界のそれとは比べものにならないくらいの強度がある――糸をつくると、適当な餌を糸に絡めて水に放り込んだ。
 いったいどれだけ豊かな湖なのか、それらにはすぐ、なにものかが食いつく。
 が、
「先生、その辺の草を餌にしたら、ヒレのある牛みたいなのが釣れたんですが!」
「データによるとそれはウシマグロだそうだ。味や肉質は牛に似ているそうだから、いい食材になるんじゃないか?」
「無理です、解体できません! ていうかマグロって海水魚だよね!?」
「私にそれを言われても困る」
「なにこれ八頭身のカエルが釣れたんですけどちょっと怖いってか気持ち悪ッ!?」
「……食用だそうだ」
「無理無理無理無理夢に見るからそれ!」
「すんません面白半分にファッション雑誌餌にしてみたら上半身マッチョのおっさん人魚とか釣れました助けて!? 何か色目使われてるんだけどピクリとも嬉しくな……」
「それも食用らしい。データには、活造りにして、もみじおろしをたっぷり入れたポン酢でいただくと絶品とあるが、正直私にはどういうものなのかさっぱり」
「やめて、想像するだけで怖い! 二重三重にトラウマになるから!?」
 ごくごく普通の、食欲をそそる、それでいて美しい魚が次々揚がる合間合間に、異世界ってすげーなと思わず遠い眼をしたくなるような獲物が水面から顔をのぞかせては常識人たちに悲鳴を上げさせるのだった。
「あれ? これって水晶? あっちのはメノウだし、あそこのはヒスイだし、あれなんかアメジストにローズクォーツじゃない?」
 そんな中、コヒノムアカ湖の岸辺を形成する石が、すべて壱番世界で言われるところの宝石や天然石で構成されていることに気づいたものが、好奇心に駆られて糸を巻きつけ、水に放り込んだところ、

 どぱんッ!

 わずか一瞬で餌に食いつき、派手な音を立てて水面から飛び出したのは、赤い鱗に琥珀の眼を持つ、全長五メートルにもなる竜だった。
「!?」
 釣り上げてしまったロストナンバーが呆然となる中、竜は「にやり」と称するのがふさわしいだろう表情を浮かべてみせ、空中で一回転すると餌から口を放し、そのまま水に飛び込んで姿を消した。
 ざばあ、と大きな水しぶきが上がる。
「……なんで竜?」
「すっげぇドヤ顔だったな、今のあいつ……」
「個人的にはそれで折れない竿のほうに敬意を表したいところね」
「え、てか俺、素潜りとか試してみようと思ってたんだけど」
 竜って釣れるものだったんだ、と周囲がざわざわする中、すでに傍観の体勢に入りつつある夢守が、そういえば、といった風情で物騒な情報をくれる。
「この湖は竜涯郷のいろいろな『場』につながっている。竜には水が好きなものが多いし、何よりこのコヒノムアカは霊的な力に満ちているから、水とたわむれに、ほうぼうから集まってくるんだ」
「石、食べるの、あれ」
「宝石や貴石のたぐいは、自らエネルギーを放っている。彼らの眼には目立つから、惹かれたんだろう」
「あー、なるほど。え、でも、それって、下手したら」
「無防備に水に入るのは勧めない」
「ですよねー」
「てかそれ最初に言おうよ、せっかちさんが飛び込んで餌食になったらどうするの」
「訊かれなかった」
「あ、デスヨネー」
 思わず脱力する面々を横目に、神楽がぐるりと周囲を一望する。
 視線の先で、フリルつきの若奥様風エプロンに身を包んだゲールハルトが、熟年家政婦ばりの手際で越年パーティ会場をつくりあげていく。素晴らしい仕事ぶりはさておき、純白のエプロンが目に沁みたのか、目をそらす面々が続出する。
「やることはいろいろありそうだな。森で食材を採集するのもいいし、釣りに全精力を傾けてもいいし、料理や菓子づくりを楽しんでもいい」
「竜釣りがしたければ、なるべく珍しい石を探すのを勧める。希少な組成のもののほうが、彼らの眼を惹きやすいようだから」
 そこへ、
「申し訳ないが、少し手を貸していただけるだろうか。石を組んで天火用のかまどをつくりたいのだ」
 腕まくりをしたゲールハルトから声がかかり、応えた何名かがそちらへ歩き出すと、それぞれがめいめいに動き始める。
「では私も目的を果たしに行こう。何かあったら呼んでくれ」
 一衛もまた旧い友とやらのもとへ行くべく踵を返そうとしたが、
「ああ、そうだ。このコヒノムアカには不思議な力があって、願いごとを――……」
 言いかけた時、すでにそこに人はおらず、
「……まあいいか」
 夢守の姿は、大地へ溶け込むように消えた。

 清きコヒノムアカ湖のほとりには、ロストナンバーや竜たちのにぎやかな声が響いている。



 ※大切なお願い※
 「入りたい方(PLさん)全員に入っていただけるように」という理由から20枠に設定しておりますので、最初の24時間は、たとえ枠が空いていたとしても、1PLさんにつき1PCさんのエントリーでお願いいたします(24時間経過後、「プレイング受付中」となってからも枠が空いていた場合はお好きなだけどうぞ)。
 口うるさくて申し訳ありませんが、どうぞご協力をお願いいたします。

品目シナリオ 管理番号1591
クリエイター黒洲カラ(wnip7890)
クリエイターコメント皆さん今晩は、新しいシナリオのお誘いに上がりました。
長いオープニングを読んでくださって、ありがとうございます。
クリエイターコメントも相当長いですが、どうぞお付き合いくださいませ。

さて、今回は、活気にあふれた竜の園にて、大人数での年越しパーティに参加していただきます。記録者としても、20枠は初めての試みで、どんな着地を見ることになるのかはまったく判りませんが、皆さんに楽しくにぎやかなひと時を過ごしていただければ嬉しいです。

なお、20枠全部埋まった場合、とてつもなく長いノベルになる可能性があります。どうぞご寛恕を!

ご参加にあたっては、
1.森での食材採集に全力を尽くす!
2.コヒノムアカ湖の獲物は全部自分が釣り上げてみせる!
3.調理・製菓にテーブルセッティングと言えば自分の出番!
4.パーティの準備はみんなに任せて竜涯郷探検!
5.気になることがあるので別行動!
……の、中からひとつないしふたつ程度の行動をご選択になり、内容をプレイングにお書きください(描写自体はちょっと薄くなるかもしれませんが、三つ以上、多岐にわたる選択も可能です。例:森で金色のレモンを採集したあと、湖で虹色の鱒を釣り上げ、ホイル焼きをつくる……など)。

※パーティシーンは、全員分を描写させていただきます。

そして、それぞれの選択肢内において、
・こんな食材が採集できそう(想像力にあふれた食材、お待ちしています)。
・こんな餌を突っ込んだらこんな獲物が釣れるんじゃ?(楽しいツッコミも大歓迎)(逆に、餌だけ提示していただいて結果丸投げ、もアリです)
・パーティっていったら、あの料理やあのお菓子、あの飲み物がなきゃ始まらないよね!
・あの人(PCさん)と交流したい!(相手PCさんの許可がない場合、確定ロールは採用されにくいです)
・馴染みの竜(シナリオには参加しておられずとも、今までに竜涯郷を訪れているなどの捏造はご自由に。一部を除いて確定ロール可能です)とあんなことやこんなことがしたい!
・パーティ? そりゃあはじけなきゃ損でしょ!
・来年もいい年にしたいよね。
などなど、PCさんらしい、PCさん的に美味しい行動をお書きいただければ幸いです。

今回はかなり自由です。
プレイングによって登場率に偏りが出るかもしれないのはいつも通りですが、判定らしい判定は、どちらかというと『その他』に属するもろもろのみに存在し、基本的にはプライベートノベル寄りの、パーティに関するあれこれやPCさん同士の交流、新年に向けての希望や心構えなどが描写されます。


なお、「食べられなくてもいいから竜釣りがしたい」という猛者のかたは、お好きな天然石をご選択ください。一応、記録者側で、石の種類によって釣れる竜を決めてはいますが、「この石を餌にしたらこんな竜が釣れるんじゃ?」などの楽しい予測と、竜が釣れた場合の反応・接し方を添えてくださると喜びます。
更に、記録者が予測しない、珍しい天然石を選択されたかたには、ちょっと面白いことが起きるかもしれません。

※ちなみに、記録者の天然石好きスペック
・オーソドックスなものからレアものまで、百種類以上の石を所持
・年に二度大々的な天然石の展示即売会に出かけていく
・石を眺めて一日過ごせる
・石につぎ込むお金が自分の身を飾る費用を軽く上回る
・趣味で天然石アクセサリのネットショップを運営
皆様の、石マニアの記録者を唸らせる挑戦、お待ちしております。


*最後に
コヒノムアカ湖には、不思議な力があるようです。
それは、何かに対してとある行動を取った場合、起きることのようなのですが、さて……?



長いコメントを読んでくださってありがとうございました!

それでは、緑に満ちた竜棲の地にて、皆様のお越しをお待ちしております。

参加者
シーアールシー ゼロ(czzf6499)ツーリスト 女 8歳 まどろむこと
相沢 優(ctcn6216)コンダクター 男 17歳 大学生
蓮見沢 理比古(cuup5491)コンダクター 男 35歳 第二十六代蓮見沢家当主
ニワトコ(cauv4259)ツーリスト 男 19歳 樹木/庭師
ヴィクトル(cxrt7901)ツーリスト 男 31歳 次元旅行者
小竹 卓也(cnbs6660)コンダクター 男 20歳 コンダクターだったようでした
阮 緋(cxbc5799)ツーリスト 男 28歳 西国の猛将
ディーナ・ティモネン(cnuc9362)ツーリスト 女 23歳 逃亡者(犯罪者)/殺人鬼
アキ・ニエメラ(cuyc4448)ツーリスト 男 28歳 強化増幅兵士
ロナルド・バロウズ(cnby9678)ツーリスト 男 41歳 楽団員
ワーブ・シートン(chan1809)ツーリスト 男 18歳 守護者
舞原 絵奈(csss4616)ツーリスト 女 16歳 半人前除霊師
夕篠 真千流(casw8398)ツーリスト 女 17歳 人間
マルチェロ・キルシュ(cvxy2123)コンダクター 男 23歳 教員
しだり(cryn4240)ツーリスト 男 12歳 仙界の結界師
春秋 冬夏(csry1755)コンダクター 女 16歳 学生(高1)
迦楼羅王(cmrt2778)ツーリスト 男 29歳 武神将
ハギノ(cvby1615)ツーリスト 男 17歳 忍者
幸せの魔女(cyxm2318)ツーリスト 女 17歳 魔女
有明(cnmb3573)ツーリスト 男 20歳 稲荷神

ノベル

 1.過程もまた楽し

「あ、鈴露(スズロ)さん榮恵(サカエ)さんお久しぶりで……ぅわぶっ!?」
 黒と銀の竜夫妻に挨拶をしようとしたら、ほぼデフォルトでその仔竜に突撃され、腹に重たい一撃を喰らって吹っ飛ぶ。盛大に引っ繰り返った相沢 優に、黒い鱗と銀の鬣を持つ仔竜は、全身から喜びをほとばしらせながら優にのしかかった。そして、しっぽをばたばたさせながら顔中を舐めまわす。
 優は笑いながら仔竜の頭を撫でた。
「夜雲(ヤクモ)、大きくなったなあ」
 もう、2.5メートルにもなっただろうか。
 鱗も硬く、大きくなり、ぴかぴかと輝いてまるで鏡のようだ。
「壱番世界の動物じゃ、こんな大きい赤ちゃんってなかなかいないけど。でもまだまだ子どもなんだよなあ」
『そうだね、我々竜は最初の脱皮に至るまでだいたい十年ほど必要とするけど、それまではほとんど赤子扱いだ』
「そうなんだ……すごいなあ」
 遊べ遊べとぎゅうぎゅうくっついてくる夜雲を抱きしめつつ笑い、
「夜雲、いっしょに食材探し、しよう。美味しいもの、つくるからさ。なんか見つけたら教えてくれ」
 連れ立って歩きながら、パーティに最適な食材を探し回る。
「ん、あ、優。可愛い竜だね、友達?」
 声をかけたのは、キノコやハーブ、果物をかごいっぱいに採取している蓮見沢 理比古だ。外見はさておき、ひとまわり以上年齢が違うが、優とはよい友人関係を築いている。
「わ、たくさん集めたんだな。俺たちも負けてらんないぞ。そうそう、夜雲っていって、星飛びの日に生まれた子なんだ。夜雲、彼はアヤ、俺の友達だよ」
「あはは、よろしくねー」
 笑う理比古に飛びつき、夜雲がふんふんとにおいをかぐ。
 確かめるような仕草に、理比古は不思議そうな顔をした。
「ん? どうしたの? なんかにおうのかな……?」
「知ってる誰かの匂いがするとか?」
「えー、でもこの子のこと知ってる誰かなんて、優くらいしかいないと思うんだけど、俺」
 きゅ? と首を傾げたさまの可愛らしさに、大の男ふたりして思わず目尻を下げていると、ふたりと一匹の目の前を茶色い塊がいくつも転がっていった。さらに、大人の拳くらいあるそれらの傍らを、茶色いロケットのような何かが飛んでいく。
「……なあアヤ、今のって……」
「うん、馬鈴薯と筍に見えました先生」
「先生って誰ですか蓮見沢さん」
「え、ノリと勢い?」
「うん、そんなことだろうと思った。まあとりあえず食材だし、持って帰……案外すばしっこいな!?」
 いったいどういう原理なのか、ちょろちょろ動き回る馬鈴薯に四苦八苦し、あちこち飛び回る筍ロケットにときどき突き飛ばされながら、苦労して食材を採集する。その間に、理比古は七色に輝いていたり身の丈ほどもあるのに香りがよくてやわらかそうだったりするキノコや、殻が金色で中身が銀色のきれいなナッツなどを見つけ出し、かごをさらにいっぱいにしていた。
「優、俺その芋でつくったキッシュが食べたいな。炒めた玉ねぎとベーコン入れたやつ」
「えー、じゃあアヤがそのりんごでなんかつくってくれるなら?」
「あ、お目が高いですねお客さん。これ、金色の蜜が入ってるんだよ。俺、これでタルトタタンつくろうかと思ってて」
「あっそれ絶対おいしいよな。楽しみだ。んー、こっちの筍は焚火の灰に埋めて丸ごと焼くのはどうかな。それで、薄くスライスしたのに醤油とかバジルペーストとかつけて食べるのは?」
「どうしよう、もうすでにおなか減ってきた……!」
 食材のおいしい調理方法で盛り上がっていたら、視界の隅を銀と赤の光がすいとよぎった。
「あっ」
 立ち止まった優を、理比古が不思議そうに見やる。
「……瑚ノ果(コノカ)さん」
 銀に赤の散った、繊細でしなやかな体躯の小柄な竜が、木々の影からふたりを見ている。まだ若い、美しいその竜にはなじみがあって、優はやわらかく微笑んだ。
「こんにちは、お久しぶりです。来てるんじゃないかなって思ってました」
 生涯の友として認めた人間とともに、兄が外界へ出て行ってしまったため、『兄を取られた』という思いから人間嫌いになった竜だ。嫌いと言いつつ、ずっと人間を気にしていて、離れていく風でもない竜だ。
「しだりと会ったって聴きました。前、話したことありましたっけ、人嫌いの龍って彼のことです」
 今日、この竜棲の地へ来ている幼い龍神の名を挙げると、瑚ノ果が動きを止めた。
「……そうなの。彼が、あなたの友達」
「はい。あ、瑚ノ果さん、今日はね、みんなで年越しのパーティをするんですよ。よければいっしょにどうですか? みんないい人ばっかりだし、瑚ノ果さんにとってもいい思い出になると思うんだ。――それに俺、瑚ノ果さんといっしょにいたいし、いろいろ話したいです」
 優の、朴訥でまっすぐな言葉に、瑚ノ果はきらめく双眸を瞬かせ、それから小さく首肯した。
「そうね……わたしも、そうだわ。あなたと、もっと話してみたい」
 その時の優の喜びを、いったい誰が笑えただろうか。

 * * *

 ワーブ・シートンはというと、豊かな自然と深い森に懐かしさを覚えながら探索と採集に精を出していた。
「すごいですねぇ、住んでいた森を思い出しますねぇ」
 立ち上がれば三メートルにもなる灰色の熊が、餌を探して森を徘徊しているとなると由々しき事態だが、“知恵ある獣”たるワーブにそんなことを言ったら、怖くないですよぅ、と抗議されるだろう。
「なかなかに深い森ですねぇ。あっ、りんご発見ですよぅ!」
 りんごの木にのしっと前脚をかけ、揺さぶると、真っ赤に色づいた果実がぼとぼとと落ちてくる。それを、採集用に借りたかごに詰め込み、ワーブは周囲をきょろきょろと見渡した。
 少し歩くだけで食べ物を発見できるここは、まるで野生動物の天国だ。
「果物に木の実、キノコにイモ類まで、豊富にそろってますねぇ。星のかたちをしたブドウも発見! これもおいしそうですよぅ」
 うきうきと、採れた果実をかごに放り込んでいく。
「あっちに清流がありましたしぃ、岩魚や鮭や鱒が獲れるかもですねぇ。ちょっと行ってみようかなぁ」
 大きなかごを背負い、ワーブがワクワクと移動していく傍らでは、ニワトコが自分好みの食材を集めるのに夢中になっていた。
「新年、かぁ」
 樹木であるニワトコにとって、年を越すとか越さないとか、そういう行事はあまりピンとこない。彼らの時間の概念は、暦に縛られて生きている人間たちからすれば驚くほどのんびりしているし、非常に大雑把だからだ。
「でも、みんなとにぎやかに過ごすのは好きだよ」
 味覚が意味をなさない種族の在りかたにおいて、料理というものはよく判らないけれど、それが楽しい時間をつくることは理解できる。だから、ニワトコは食材採取を買って出たのだ。
「森の中って気持ちいいよね。本当は、湖の水に触ってみたかったんだけど、危ないらしいから」
 少し残念そうにしつつ、ルビーやサファイア、エメラルドのような色と輝きのキノコをかごの中へ入れ、その少し離れた場所に群生する、怪しい光を放つコケも剥がしてかごにインする。
「……面白いものを集めるのね。それは、おいしいの?」
 同じかごを抱えた夕篠 真千流に無表情で問われ、ニワトコは首を傾げる。
「ぼく、おいしいとかおいしくないとかは、よく判らないけど」
「そうなの。でも……食べられるのよね?」
「それもあまり考えてなかったなぁ」
「そこは一番大事なところだと思うわよ。たぶん。そのぶんだと、料理できるかできないかも……?」
「うん、考えてなかった。ぼく、自分が好きだなあって思ったものを採ってるんだ。ほら、これ、きれいじゃない? 茎が銀色に光るんだよ」
「きれいなことを否定はしないけど、なんだか堅そうじゃない? 齧って歯が折れるのは困るわね」
「え、そうなの? きれいなのに」
「そうね、きれいはきれいだわ」
 双方、決してツッコミが得意なほうではないので、交わす会話も、ツッコミ役が見たら身悶えざるを得ないような内容になる。
「真千流さんは、何を集めたの?」
 ニワトコに問われ、真千流はかごの中を漁ってみせた。
「いろいろ、ね」
 彼女は、元の世界とはかけ離れた年越しならば、故郷を思い出さずに済んで素直に楽しめるかもしれないと思い、この奇妙で賑やかな越年パーティへの参加を決めたのだった。
「あっそれ、苺だね」
「味はレモンなの」
「そっちは、りんご?」
「桃の味がしたわ」
「じゃあ、それは、ブドウ?」
「噛みしめたら塩分濃度20%の梅干しの味がして、ついついおばあちゃんの口になったわ」
「面白いね、それ。みんな、びっくりするんじゃない?」
「そうね、くじ引きみたいで楽しいのかも」
 やはりツッコミ不在につき、会話は淡々と進む。
 ツッコミ人が悶絶しかねない、シュールな光景だ。
 さらに、おそろしくリアルな人面が浮かび上がった、柿のような色つやの果物を、肌身離さず持ち歩いている刀で切り落とすと、
『ヒギャアアアアアアア!!』
 すさまじい苦悶の表情を浮かべた果実が絶叫とともにコロンと落ち、思わずびくっとなる真千流だった。が、すぐに気を取り直し、草葉の陰でしんなりとうなだれているキノコを発見する。
「このキノコ……かたちが面白いわね。毒を飲まされてもがき苦しむおっさんのようなかたちをしているわ。煮炊きしたらどうなるのか気になるから、ぜひ持って帰りましょう」
「そうだね、このおどろおどろしいところがいいよね。みんな、喜んでくれるんじゃないかな。真千流さん、よくこんなすごいの見つけられたね」
 ニワトコが無邪気な称賛を送る。
 それへ、まんざらでもない顔をしてから、
「そうだわ、ねえ」
 真千流が声をかけたのは、ふたりとともに食材を採取にきたかと思いきや、そのへんの葉っぱをもぐもぐしているだけという緑色の竜だ。
 何? というふうに首を傾げてみせる竜に問うと、
「せっかくの年越しなんだし、おめでたい花を飾りたいんだけど、なにかいい花は咲いていないかしら? ……柄じゃないって言われそうだけど、花を飾るのは好きよ」
 翠竜はしばらく首を傾げていたが、ややあって、長い尻尾で森の片隅を指示してみせた。そこには、黄色の、可憐で端正な花々が、凛と咲き誇っている。真千流が黙って花を愛でていると、傍らから覗き込んだニワトコが名前を教えてくれる。
「これは、福寿草だね」
「そうなの」
「うん、早春っていうか寒い時期に咲くんだ」
 ふたりは知るまいが、キンポウゲ科の多年草である福寿草は元日草とも呼ばれ、縁起のよい名称に加えて花の少ない時期に咲くのが珍重されていて、正月用に広く栽培されている花である。
「じゃあ……こんなものかしらね。一度、会場に戻ってテーブルセッティングを手伝いましょう」
「うん、そうだね。ぼくもテーブルに花を飾りたいな」
 いっぱいになったかごを抱え、来た道を戻り始めるふたりの傍らを、川魚を大量に仕留めてご満悦のワーブが行き過ぎてゆく。

 * * *

 ロキことMarcello・Kirschは腕まくりをして張り切っていた。
「さーて、何をつくろうか」
 傍らでは、純白のエプロンに身を包んだゲールハルトが華麗な手さばきで次々と料理を仕上げていく。その手際に感心しつつ、周囲を見渡すと、太い木の枝が目に入った。
「……バウムクーヘンでもつくるか」
 そもそも、バウムクーヘンの始まりは、木の棒にパン生地を巻きつけて焼いたことからとされる。
 この場においては悪くないチョイスだろう。
 材料はシンプル、年輪を髣髴とさせる見目は縁起もよく、何より素朴で味わい深い。大きなものをつくって、皆で切り分けて食べるのもまた楽しいだろう、と、ゲールハルトが持ち込んだ食材をごそごそやって、目的のものを探し出す。
「小麦粉にベーキングパウダー、砂糖にはちみつ、玉子に塩、牛乳にバター、っと。このシンプルさがバウムクーヘンのよさだな」
 小麦粉にベーキングパウダーを加え、空気を含ませるように泡だて器でかき混ぜる。そこへ、塩と砂糖を加えてよく混ぜ、卵と牛乳を混ぜ合わせたもの、はちみつを加えてさらに混ぜる。溶かしたバターを最後に加え、しっかり混ぜたら生地は完成だ。
 木の枝に油を塗ったアルミホイルを巻きつけておき、最初の生地はフライパンでクレープ状に焼く。それを木の枝に巻いてから、薄く生地を塗って焚火の上でゆっくり回して焼いていく。
 工程を繰り返すたびに、少しずつ分厚くなっていくケーキが楽しい。
 ロキは鼻歌交じりに木の枝を回し、じっくりと『幹』を太くしていく。
「上手に焼けましたー! ……ってね」
 つくる過程から楽しんでこそ、真の料理人である。
「わ、すごいね、バウムクーヘンつくったんだ。俺、今からタルトタタンをつくろうと思うから、それと交換してほしいな」
「ほんとだ、すごいな。じゃあ、俺は筍料理と交換してもらおうかなー」
「ああ、構わないぞ。ふたりのつくるものも楽しみにしてる」
 食材採集の旅から戻った理比古と優が、でっかく焼けたバウムクーヘンに盛大な拍手を送る中、舞原 絵奈はこまごまとした雑用に走り回っていた。彼女の傍らには、身の丈三メートル近い白竜がいて、絵奈の作業を手伝っている。
 このサイズで、まだ生まれて一年前後というから、竜族の巨大さには驚かされる。
「最初はびっくりしたけど」
 いっしょにテーブルを運び、人数分の椅子を準備しながら絵奈は白竜に笑いかけた。
「詩奉(シイナ)ちゃんはいい子ですね。竜の子どもたちって、みんなこんなふうにいい子なのかな」
 子どもの扱いが不慣れな絵奈なので、こんなに大きくてもまだ子どもどころか赤ちゃんと聞いて、思わず固まったり身構えたりしてしまったが、恐る恐る伸ばした手で頭を撫でてやると、白竜の仔は嬉しげにばたばたと尻尾を動かしてじゃれかかり、全身で彼女への好意を示したのだった。
 以降、パーティの準備に、右へ左へと縦横無尽に動き回り働く彼女を追ってついて回り、力仕事や荷物運びを手伝ってくれているのだ。
「ん、椅子とテーブルはこんな感じでいいかな。あっ、ゲールハルトさん、何かやることはありませんか! 何でもお申し付けください、馬車馬のように働かせていただきますっ!」
 食材採集、調理、釣り、他にもいろいろな仕事があったが、もともと、故郷では大抵のイベントにおいて準備を引き受ける役だったため、自然とこちらに身体が動いていた。
 特に、こまごまとした雑用をこなすのは得意だ。
 周囲を掃除してから、皿やグラス、銀器のたぐい、それから飲み物を各テーブルに並べ、各面子の料理の手伝いへ。食材を取ったり分けたり、出来上がった料理を運んだり、皆が採集してきた食材の仕分けをしたり。
「さ、さすがに、ちょっと、疲れてきた、かも……」
 あっちへこっちへ、フルスロットルである。
 準備が一段落するころにはへとへとになっていたが、そこへ、
「ちょっと。ここのテーブル、椅子が四個になってるじゃないの。四なんていう不吉な数字はこの私が許さないわ、早く追加の椅子を用意してちょうだい」
 テーブルセッティングに物凄くこだわりのある、幸せの魔女から駄目出しが飛ぶ。
「ひぁっ、はいっ、ただいま!」
 幸せを司り、自らを幸せな位置に置くためには手段を選ばない魔女は、テーブルの配置から椅子の個数までいちいち口うるさい。
「このテーブル、少し角度が歪んでいるわよ? ちゃんと水平にしてあげないと、せっかくの料理が歪んでしまうじゃないの。歪んだものも嫌いではないけれど、こと料理に限っては許されないわ」
「はいっ、かしこまりましたっ! ……幸せの魔女さん、こだわり屋さんですね」
「そうね、とことんこだわるわ。幸せをしっかり掴み取ろうと思ったら、まずは自分で動かなくてはだめなのよ、それはこの手で取るものなの。だから、幸せが飛び込んでくるのをただ待つだけなんて愚の骨頂だわ」
「なるほど、深いお言葉をありがとうございますっ!」
「ふふふ、貴方……筋がいいわね。きっとあなたにも幸せが訪れるわよ。もちろん、私ほどの、ではないでしょうけれど」
 褒めているのか励ましなのか、それともただの気まぐれなのか判らない言葉を残し、幸せの魔女は調理場へと戻る。
 そして、むんずと包丁を掴むと、次々に運ばれてくる色とりどりの魚を躊躇いなくさばき始めた。「こういう料理にしたいからこういうふうにさばいてほしい」というリクエストに完全対応の、素晴らしいテクニックである。
「魚料理は鮮度が命よ。それに、早くトドメを刺してあげないと魚さんが可哀想でしょう?」
 スズキに似た端麗な魚も、鮭も鱒も岩魚も、ウシマグロも等身大カエルウオも、さすがにあのおっさん人魚はリリースされたようだが、その他、どんな魚が運び込まれても、顔色ひとつ変えず華麗にさばいていく。ついでに言うと、森でとれた奇想天外な食材も眉ひとつ動かさず的確にさばいていく。
 お蔭で、調理場として設定された区画には、幸せの魔女が下ごしらえをした色とりどりの食材であふれた。
「……なかなかやるな」
 感心しているのは、紫の髪に紫水晶の瞳のクールビューティ、迦楼羅王だ。
「お褒めの言葉、どうもありがとう。私の包丁さばきは百八式まであるわよ」
「煩悩と同じだけあるというのが何とも言えないが、見事なものだ。これは、私も負けていられまい」
 彼もまた、わりとグロめの、美脚つき鰤や馬顔の鯛、もっさり毛の生えた四つ足のカンパチなどを的確に解体し、準備をこなしている。
「やはり、その命を美味しくいただくためにはしっかり下ごしらえをしなくてはな」
 さらに、無塩バター、小麦粉、はちみつなどを使い、素早く生地をこしらえてから、森で採集してきた果物をさっとワインシロップで煮立て、キャラメリゼしたナッツとともに天火で焼いて色鮮やかなタルトに仕立て上げる。
 周囲には、食欲をそそるいいにおいがあふれた。
 もうすでに空腹を覚え始めた面々がそわそわする中、まだしばらく準備は続く。



 2.おっさん来襲ラプソディー

 そのころ、ロナルド・バロウズは、忍者のハギノとお狐さまの有明とともに、湖のほとり、森の途切れる辺りでの食材採集に精を出していた。
 コヒノムアカの豊かな恵みを狙って釣りをするとともに、森のみのりをもいただいてしまおうという魂胆である。一石二鳥ってホントいい言葉。
 ヴァイオリンで一曲演奏し、自分や同行者の身体能力を上昇させたあと、フルボディの赤ワインを一本空けたロナルドはいつも以上のハイテンションかつ上機嫌である。ちなみにこの赤ワイン、ゲールハルトの持ち込んだ食材の中からこっそり拝借してきたものだ。
「さあ、いい感じの食材をたんまり持って帰ろうか。おじさん頑張っちゃうからよろしくねー。あれだけ人数がいると、大量にあって悪いってことはないだろうしさ」
 ここの季節感というのはどうなっているのか、真っ赤な苺とブドウが同時に実っているのを見つけてせっせと採取しつつ言うと、ハギノが大きく頷いた。
「うむうむ。賑やかなのはいーことすね! 欲を言えば女の子が少ないけど!」
「え、ハギノくん、なんて?」
「いえいえなんでもねーですよ。……ま、そこは気合で! いざとなったら僕が化けまっせ!」
「え、今ひとつ話が見えないんだけど、何に?」
「まあまあ、それはさておき未成年の強い味方、甘酒とシャンパン風ジュースですよ。これでも一杯やりながら釣りましょうぜ」
「いやおじさんもう大人なんでできれば本物のほうが」
「やだなあ、いつになっても、男ってやつは子どもの心を持ってるほうがもてるんですよ?」
「えっじゃあイタダキマス」
 有明は、ふたりのやりとりをきょとんと見つめていたが、ややあってリュックサックと水筒を傍らに置いた。なぜか、越年パーティではなく遠足仕様のいでたちである。
「なあなあ、僕な、僕な! 釣りって初めてやねん! まず何したらええの? 教えてぇなー」
「ん、ああ、いいけど。有明くんはアレなの、どこでハイキングする予定なのその装備」
「へ? あんな、りんごジュースとおやつ持ってきてん。やっぱりな、お出かけしたらジュースとおやつがいるやんか?」
「ってことはそのリュックサックの中身って、おやつと?」
「おやつしか入ってへんよ。好きなおやつ、いっぱい詰め込んだらな、ほかに何も入れられんかってん。ほんまはな、お稲荷さん持ってこよかなって思っててんけど、あかんかったわ。せやし僕、ゲールハルトのおっちゃんにお稲荷さんつくってもらうねん」
 けっこうなサイズのリュックサックをぽんと叩き、にこにこと有明が笑う。
 どんだけおやつ食べたかったのと突っ込みたいのをぐっとこらえ、ロナルドはハギノとともに釣りの準備に取り掛かる。
 適当な枝に適当な蜘蛛の巣を絡めて竿をつくり、それぞれ大物が釣れそうな餌を探して先端にくっつける。釣りをしたことがないらしい有明に、蜘蛛の糸を縒ってつくった竿を渡してやり、好きな餌をつけて水の中に放り込めばいい旨を説明したはいいのだが、
「さて、じゃあ適当に魚を、」
「なあなあ」
「ん? どうし――……」
「絡まってしもてん。はずして? あとな、糸がくっついて離れんよぉになったわ」
「あ、僕、向こうで釣ってるんでロナルドさんよろしく?」
「あっちょハギノく、……逃げられたか」
 ……有明が釣りを開始するまで、そこから三十分かかったそうだ。
「気を取り直して、と」
 せっかくだからメルヘンで可愛い、しかもおいしい獲物がかかればいい、と、いちごミルク色の花をひっかけて放り込んでみる。
 すぐに強い引きが来て、ロナルドがワクワクしながら竿を上げると、そこには、全長50cm、薄毛バーコード黒縁眼鏡のメタボ風ミニおっさんが食らいついていた。
「……」
 ビチビチ跳ねるおっさんをぶら下げ、うなだれる。
「これ、何がどう魚……」
「エラもあるし、背びれと腹びれもあるし、ええんとちゃう?」
「アッ、だよね、エラ呼吸なら問題ないよね! うわあ活きがよくておいしそ……いや、僕これをさばいて食す度胸とかないんでリリースさせていただきます。自然へ帰れ! いや、お願いします帰ってください勝手に釣り上げるとか調子こいてホントすんませんっした!」
 全力、全身全霊で投擲、リリース。
 ぽちゃん、という音を立てておっさん魚が湖へ還るころには、有明がリュックサックをごそごそやり始めている。
「んー、そういえば、遠足用のおやつ、これで何か釣れるんやろか」
 リュックの中から出て来るのは、まんじゅうにポテトチップス、バナナ。チョコレート菓子にクッキー、おせんべいもある。
「えと、ポテチは袋ごと下げればええのん?」
 粘度の高い糸の先端に、ポテトチップスをパッケージごとくっつけ、水に放り込む。
「えっそれ餌としてはどうなの……!?」
 ロナルドが目を剥く間にも、ぽちゃんと着水したポテトチップスの袋は、ゆらゆらと水面を漂っていたが、ややあって、周囲が泡立つと同時にいきなり沈んだ。同時に、有明の竿が強く引かれる。
「うわっ、わ、わ、わわわっ!?」
 それは恐ろしい勢いで、有明はたたらを踏む。
「ま、負けへんでー!」
 こんなに引っ張られるとは思っていなかった有明が、焦りつつも踏ん張り、竿を思い切り引いた瞬間。

 どぱんッ!

 水面から飛び出したのは、身の丈五メートルを超える大きなサメだった。
 感情のない、虚ろな眼が有明を映してぬるりと光る。
「えええええ」
 おとなしくコイやフナやモロコを釣って喜んでいたロナルドが目を剥いた。
「なんでサメとかなんでポテチに食いつくのとかなんで竿折れないのとかいろいろ突っ込みたいけど追い付かないよコレ……!」
 有明はおろおろしている。
「なあ、これどないしたらええのん、誰かなんとかしてぇなー!」
 必死で竿を引くと、一際大きく跳ねたサメが地面へと墜落、びったんばったん大暴れしながら有明を引きずっていく。
「ちょちょちょ、あかんて、そっちいったら。調理場はあっちやってー!」
 サメと有明の戦いはしばらく続きそうだ。
「いやー、自然ってすごいっすな」
 ハギノは、有明の戦いを爽やかに傍観しつつ竿を握っていた。
「しかし……さっきは、ファッション雑誌でマッチョなおっさん人魚が釣れたんすよな。っつーことは?」
 ふわふわのケーキ、きれいな花、いい匂いのする果物。
 せっせとそんなものを用意しながら結論づける。
「……美人のおねーさんが釣れてもおかしくない! よしっ!」
 もはや食材を釣る気はいっさいない。
 テンション高く、『餌』を放り込む。
 すぐに引きが来て、
「っしゃあ!」
 意気揚々と上げる。
 が。
 筋骨隆々な蟹。
「ポージングすんな! チェンジ!」
 なまめかしい昆布。
「え、仲間内じゃ一番の美人? ――却下します」
 ものすごい美脚のエビ。
「脚だけじゃどうしようもないってかちょっとその生えかた気持ち悪い!?」
 ヒレがゴスロリ鯛。
「あー……うん、惜しい! もう一声!」
 腰つきがセクシーな、とぼけた顔のナマズ。
「惜し……っていうか遠ざかった!?」
 釣れるもの釣れるものこの調子で、コヒノムアカにハギノの願いをかなえようという気がないのはよく判った。
「食材としては豪華なのに、この敗北感はなんなの……」
 積み重なっていく獲物はそれぞれ高級品なのだが、どうにも釈然としない。
「あーもー! ボケるヒマがねーですよー! つーかボケ多くない? 気のせい?」
「いやぁ、気のせいじゃないかな」
「全裸のおっさん魚釣り上げた人は少し黙るといいと思います」
 しかし、よくよく考えると食材採集としては正しいわけで、ハギノは深々とため息をつき、戦利品を魚籠に突っ込んだ。
「……まあ、終わりよければすべてよし、ってこと?」
 一方、一刀両断に斬って捨てられたロナルドは、魚釣りを終えて森へと足を踏み入れていた。ツッコミの必要ない、普通に美味しそうな魚がたくさんゲットできたので、今度は植物性の食材も、と思い立ったのだ。
「さて、どんなものがあるのかなー」
 がさがさっ、と繁みの向こう側が蠢く。
 しかしロナルドは落ち着いたものだ。長い時間を戦ってきた自信と矜持が、彼にその平静さを与えている。
「まあまあ、僕なんかこういうのには手慣れたものだから」
 ゆったりとした動作で振り向き、
「だから、グロ系が出ても平……ぅぉおっさんやないけえぇ!!」
 思わず衝撃波で薙ぎ払っていた。
 ぷいーん、という羽音とともに衝撃波を避けたのは、蝶の翅が生えた全長30センチのおっさんだった。背中の翅は黄と黒の鮮やかなもので、それだけ見れば精緻な工芸品めいて美しい。
 が、それが禿げtもとい頭髪に苦労した、ビール腹にパンツ一丁のおっさんの背中についているとなると話は別だ。
「わあ、アゲハチョウみたいできれいだねぇ~ってそれ警戒色やないかいぃ!」
 全身全霊で裏拳ツッコミを入れつつ、可愛らしい仕草でこちらへ飛んでくるおっさん蝶を牽制する。
「かわいこぶってみてもダメ! おっさん系生き物は食材に非ず……滅殺あるのみ!」
 必死の形相で衝撃波を放ち、おっさん蝶を追い払う。
 羽音が遠ざかると同時に沈黙が落ち、ロナルドはがくりとうなだれた。
「俺、ボケだったはずなんだけど……」
 深々とため息が漏れる。
「……何となく、今回の立ち位置が判っちゃったような……いやいや、そんなはずは。俺ボケだし。――ボケだし」
 大事なことなので二度言ったが、残念ながらそれは裏切られることなく、奇天烈な食材たちはロナルドに裏拳を放たせ、鼻水を噴かせ、盛大にむせさせた。
 目がちかちかするほど鮮やかな、どぎつい、原色の水玉模様のある香草。
「見つめてると猛烈に眼が痛い! でもすごくいい匂いだからたぶん食用!」
 ためしにつまんでみると、肉厚の葉は瑞々しくどこかエキゾティックで美味しい。
 やたら官能的な足を持つ巨大な鶏。
「こんなとこだけ美脚でも悦べない……いや、ドクなら可能かもしれないけど!」
 いいスープを引くには最適かもしれないがどう料理したらいいのか判らないのでリリース。
 目尻が下がるほどかわいい、ふわふわもこもこのウサギとも行き逢った。角が生えているから、ただのウサギではないのだろうが、可愛いものは可愛い。 思わず撫でようと手を伸ばしたら、
「往生せいやぁ!」
 恐ろしく野太いおっさんの声でウサギが鳴いた。
「え、今の……」
「往生せいやあぁ!」
「やっぱり鳴き声か! 何なの、その声帯どーなってんの。っていうかどこからどこまでツッコミ待ちなのこの世界……俺ボケだって言ってんでしょうが!?」
 ロナルドの中で、竜涯郷が、竜の住まう神秘の森から、おっさんの住まう理不尽のるつぼへとランクダウンされていく。
 もちろん、そのあとも、おっさん系生き物に愛されし男・ロナルドの苦難の道は続いたそうだ。



 3.竜の一本釣り踊り食い

「ふむ」
 阮 緋は、淡い青の、不思議な風合いの石を手に、コヒノムアカのほとりに立っていた。
 緋自身はその石の正式名称も種別も知らないが、雲母に似た淡いきらめきのある、清らかな水のようなそれは、詳しいものならばセレスタイトに似ていると言ったかもしれない。
「きれいな石だね。なんだか、天国みたいな色だ」
 調理場での、自分の作業を終えてきたとかで、竿を手にした理比古が隣に並ぶ。緋はふっと笑って掌の石を見つめた。
「天国か。……そうだな」
「もしかして、大事なもの? 餌にしちゃっていいの?」
「ん、いや」
 この石の、本来の持ち主を思い出す。
 これは、もともと、宿敵『青龍』の戦袍に飾られていたものだ。
「……大切というよりは、引きずっているもの、かもしれぬな」
 理比古に聞こえたか聞こえないかのかすかな声でつぶやき、有体に言えば未練であろうと緋自身思う。
 天の青のごときこれは、かの『青龍』と斬り合ううち、知らぬ間に袂へ潜り込んだものであるらしく、戦いを終え――それはすなわち、『彼』の死を意味した――、違和感に探った指先が石に触れたときの、あの何とも言えぬ感情を緋は今も覚えている。
「理比古、そなたはどんな石を使うつもりなのだ」
「ん? や、俺、珍しい石とかあんまり知らないしね。自分の好きな色とか、きれいだなって思ったのを使ってみようかなって」
「はは、そうか。しかし、それが一番ふさわしいのやもしれぬ」
 笑う緋へ「でしょ」と頷いてみせ、理比古が、はちみつが凝ったような琥珀、神秘的な青白のシラーが揺れるラブラドライト、穏やかな淡い光に透き通るムーンストーンなどの塊を拾い上げる。
「撒き餌とか有効かな?」
 ぽいぽいと湖の中へ放り込むと水面にさざなみが立った。
「あっこれすごい。石の中に景色がある……水墨画の田園風景みたい。ん、これにしよう」
 決して派手ではないが、大自然の神秘としかいいようのない、表面の模様がまるで風景画のような石を拾い上げ――壱番世界では、ピクチャージャスパーなどと呼ばれ、模様の入りが見事なものは珍重され高値で取引もされる石だ――、糸に絡ませると水に垂らす。
 すぐに強い引きが来て、理比古が竿をぐっと持ち上げる。だっぱん、と水面を割って飛び出してきたのは、岩山のような身体に、あちこちコケや樹木を生やした、身の丈十メートル近い竜だった。
「わー、すごい。森を背負ってるみたいだ……!」
 大きくとも恐ろしさを感じないのは、青い双眸がとても穏やかだからだ。
 ゆったりとした動作で水から上がってくる竜を、滴り落ちる水を避けながら理比古が見上げる。
「えーと……山竜さん? それとも、森竜さんかな?」
『岩竜。依峻(エチカ)。オマエ?』
「依峻さんか、俺は理比古だよ、よろしくね。その背中、登ってみてもいい?」
『好。嬉。楽』
 ひとりと一頭の朴訥なやりとりを微笑ましく眺めつつ、緋もまた、天青の石を放り投げた。
 ぽちゃん、という軽い音。
 きらり、とかすかな光を反射して、石が湖へと沈む。
「さて……」
 じっと湖面を見つめ、緋は、遠い故郷に思いをはせる。
 もはや戻らぬものの忘れ形見のように、覚醒してからも、偶然入り込んだあの石を持ち続けていた。宿敵として出会いながら、もっと判り合いたかった、もっと知りたかった、もっと近づいてみたかったという執着、違う出会いかたをしていればという想いは今もまだ消えない。
「だが……いつまでも、留まっているわけにはゆかぬ」
 だからこそ、石を手放すことで、未練を覚え続ける自分との訣別を果たそうと、覚醒したことで得た新たな出会いにつなごうと、緋はこれを『餌』に選んだのだった。
 それゆえに、緋には予測がついていたのだ。
 ぐんっ、と引かれた竿の先、丈夫で柔軟な蜘蛛の糸の先に、奇妙な縁を感じる青竜、鎮流(シズル)が食らいついていることにも。
「はは、やはりそなたか」
 身の丈は十メートルほど。
 しなやかにして優美な身体と、海や空にも似た青のきらめく鱗を持つ、東洋的な外見の若い竜だ。
『ぬしがここで釣り糸を垂れるなら、最初に私がかからぬ道理がない』
「なるほど、そういうものか」
 生真面目に頷き、鎮流を見上げる。
『……いかがした』
 青龍と青竜、どこか――なぜか懐かしさを覚える名前。
 いくつもの符号と不思議な出来事。
 彼と青龍の関係について、気になること、訊きたいことは山ほどあるが、今はまず、単純明快な、会えて嬉しい、いっしょにいると楽しいという気持ちを優先しても、誰も咎めはしないだろう。
「なに、今日はそなたと語り合いたくて来たのだ。仲間たちが年越しの宴の準備をしている、そなたもどうだ?」
『おお、それは楽しそうだ。人間の宴はにぎやかでよい、同行させてもらおうか』
 鎮流が緋の傍らに腰を落ち着け、とぐろを巻く。
 緋は、黒炭めいた艶のある石や、鮮やかな薔薇色の石を見繕い、さらなる竜釣りに勤しんだ。壱番世界ではシュンガイトやロードクロサイトなどと呼ばれるだろう石たちには、それぞれ巌のような鱗を持つ竜と、花のような桃色のヒレを持つ優美な白竜が食いついて、真珠めいて光り、降り注ぐ水滴とともに緋を楽しませた。
 さらに、石がいくつもついている首飾りを餌にして、まとめて釣れないかどうかの横着を試してみたところ、身の丈一メートルほどの小さな竜たちが群れてかかる。鎮流によると、あれはあれで成竜なのだそうだ。
「皆、律儀に食いついてくれるのだから、愉快な話だ」
『何、皆、客人の訪れに喜んでおるのだ』
 陽気に笑う鎮流になるほどと頷き、緋はまた釣りに没頭する。
 餌を石以外に変えてみたところ、ここの生態はいったいどうなっているのか、おっさん系生き物がちらほらかかり、持ち込んだ先で調理場の面々を盛大に噴かせたが――ちなみに全部却下された――、「食べられればそれでいい」という豪快な感覚の持ち主である緋が首を傾げたのは当然と言えば当然だった。

 * * *

「いやぁ、すごいですねぇ。そりゃあ、竜が釣れたら驚くですよぅ」
 森での採集を終えて戻ってきたワーブが、器用に竿を握り、ブラックオニキスを糸につけて水へ放り込む。
 ブラックオニキスは、瑪瑙の一種で、つやつやとした光沢のある漆黒の石だ。産出量は多く、比較的安価で取引されるが、滑らかな手触りと色合いを好むものは少なくない。
 竜にもまた好むものがあったのかどうかは判らないが、次の瞬間、派手な音と水しぶきを立てて飛び出してきたのは、蝙蝠のような翼膜を持つ飛竜だった。あまり珍しい石ではなかったせいか、飛竜はすぐに糸から口を放し、飛んで行ってしまったが、
「どひー!?」
 全長五メートルにもなる竜が釣れるという事実は、ワーブの度肝を抜くには十分だった。
「ま、まさか、釣れるとは思ってなかったですよぅ」
 驚いたぁと胸を撫で下ろしつつ、今度は普通の魚を釣ろう、と餌を探すワーブから少し離れた場所にいるのは、しだりだ。
「……竜が釣れる? ふうん……」
 彼は、優たちとともにほとりへとやって来ていた。
 先ほどまでは龍の姿を取っていたのだが、釣りには適さないと聴いて人型になっている。
「なんだっけ、天然石を餌にすると釣れるらしいよ。俺はどうしようかなー」
 優は、どちらかというとつかず離れずの位置にいる瑚ノ果の様子を気にしているようだ。
「……釣り、か」
 枝を手に取り、蜘蛛の巣を絡める。
 餌には石ではなく、真っ青な鱗を取りつけた。
「あ、それ、しだりの? こうしてみると、きれいだな」
「うん。この湖は竜涯郷のいろいろな場所につながってるみたいだから、もしかしたらしだりと相性のいい竜と会えるんじゃないか、って」
 しだりは、話がしてみたかったのだ。自分と似た属性の、相性のいい竜たちと。人間をどう思うか、そう思うに至ったのはなぜなのか、その考えはこの先変化していくと思うかについて、議論してみたかった。否、議論などという堅苦しい言葉でなくていい、ただ、彼らの意見を聞いてみたかった。
 の、だが。
「……釣れない」
 己が鱗をコヒノムアカに投げ込んで二十分。
 石を餌に、竜釣りに勤しむ人々が、ものの数分、へたをすれば数十秒で竜を釣り上げているのに、しだりの竿にはいっこうに当たりが来ない。竜以外の何かがかかることもなく、しだりの竿は沈黙したままピクリとも動かなかった。
「釣れないなぁ。やっぱり、石じゃなきゃ駄目なのかな?」
 夜雲とじゃれ合いながら、優が湖面を覗き込む。
 透き通った水の中を、水棲と思しき銀色の竜が泳いでゆくのが見えるが、それは、けっこうな存在感を放つしだりの鱗には見向きもせず、湖の奥へと消えて行った。
 若干さびしい気持ちになるしだりである。
 ここが竜涯郷以外なら気にしなかったかもしれないが、何せ自分の根源に近い、心が少しやわらかくなる――子どもである自分を出せる場所だ。その場所で、同属たちから見向きもされなければ、さびしさを感じるのも致し方ないだろう。
「……それは、当然よ」
「どういうこと?」
「竜涯郷にあっては、竜も龍もいて当然の存在。当たり前すぎて、誰も気にしないわ。――シダリ、あなたも。だから、竜の鱗に惹かれて出て来る竜はいない。同じく、竜の鱗に食いつく度胸のある生き物もいないわね」
「要するに、しだりは竜涯郷にいても違和感がないどころかごくごく普通の存在、ってこと?」
「ええ。竜涯郷の竜にとって、シダリ、あなたは同胞なの」
「……そう、か」
 いて当然の存在すぎて誰も気にしないのだと言われれば、むしろくすぐったい気持ちにすらなってしまう。竜涯郷でのしだりは、ただの、少し背伸びをした子どもの龍に過ぎないのだ。そのままの彼を、竜涯郷は受け止めてくれるということなのだ。
「じゃあ……仕方ない、かな。でも、せっかくだから、そのあたりの石で釣ってみよう。優、瑚ノ果さん、どんな石なら相性のいい竜が釣れると思う?」
「うーん、水系だから、アクアマリンとかブルートパーズとか?」
「……水を司る竜には黒に属するものも多いわ。黒くて珍しい石を探すといいのじゃないかしら」
 岸辺を覗き込み、ぴんとくる石を探すしだりと優に、瑚ノ果が少し、近づく。
 前回の邂逅のおかげか、口調も眼差しもずいぶんやわらかくなったように思えて、しだりは優と顔を見合わせ、かすかに笑った。
 変われること、近づけること、判ろうと努力できること。
 それを、とても貴く喜ばしいと思う。

 * * *

「私は! 帰ってきた!」
 春秋 冬夏は雄々しく仁王立ちをして叫んだ。
 彼女の気合いを感じ取ってか、セクタンが肩の上で同じポーズを取っている。
「竜が釣れるなんて、天国ですかここは! 釣りは初めてだけど……チャレンジしないわけにはいかないよね!」
 鼻息荒く――この表現をうら若き女子高生に使っていいものなのかはわからないが――竿を準備し、竜を呼ぶにふさわしい石を探してあちこち歩き回る。
 中に赤や緑の光が揺れるオパール、やわらかく透き通った薄緑のフローライト、空からの雫のような淡いブルーのトパーズ。苔のようなグリーンアベンチュリン、大地のようなジャスパー、弾丸のようなハイパーシーン。
「すごいなあ。どうしてこんな、いろんな石が集まってるんだろう」
 ひとつひとつ手に取り、陽の光にすかして色を確かめながら、気に入った色合いのものをポケットに入れていく。
「あ、これ、知ってる。ラピスラズリ……瑠璃だ」
 一際冬夏の目を惹いたのは、見事な金のパイライトが散った、深く神秘的な青の石だった。
「うん、これにしよう!」
 見晴らしのいいところで釣ろう、と、一番いいポイントを探して歩く道すがら、色とりどりの花を見つけて冬夏は首を傾げる。
 いったいどういう季節配分なのか、それとも似ているだけでまったく違う種類の花なのか、梅に桜、椿に紫陽花、金木犀に沈丁花、くちなしまで、本来なら同じ時期に咲くはずのない花が一堂に会していて、そこだけまるで花屋の店先のようだ。
「そういえば、花を餌にしたら、何が釣れるのかな。竜……は、石じゃなきゃ釣れないんだっけ」
 興味を覚えて、ごめんなさいひと房だけもらいますと謝りながら花を拝借し、開けた場所へと出る。
「ん、おや」
 そこには先客がいて、手の中で深い緑色の石をもてあそんでいた。
「あ、迦楼羅王さん。お邪魔でしたか?」
「いや、問題ない。冬夏も釣りをしに来たのか」
「はい。竜が釣れると聴いてチャレンジしないなんて私じゃありませんから! 迦楼羅王さんは竜釣りですか? それとも、食材の追加調達?」
「竜を釣ろうと思ったわけでもないんだが、この湖に少し興味があってな」
「興味? ですか?」
「ああ。ここはいろいろな場所とつながっていると聞いた。その『いろいろな場所』がどんなものなのか、確かめてみたいと思ったんだ」
 言って、手の中の石をぽいと湖へ放り込む。
「今の石は?」
「モルダバイト、という石だ。いつか、装飾品に加工しようと持っていたんだが、こういうのも面白いからな」
「へえ……なんだか不思議な風合いの石でしたね」
「隕石の落下で跳ね上げられた地表の物質が溶けてガラス化し、瞬時に固まったものと言われている」
「わ、なんだか不思議。地球と隕石がつくった、天然のガラスなんですね」
「そうだな。それゆえに、グラス・メテオライトと呼ばれることもあるそうだ。――ん、なにか来たかな」
 ぼこぼこと水面が泡立った、そう思った瞬間、ざばん、という音を立てて姿を現したのは、青銀の鱗に白い鬣を持つ竜だった。身の丈は十二メートルといったところだろうか、ヒレを持つのを見ると、水棲の竜であるらしい。
「おお、美しいのが来たな。私は迦楼羅王だ、お前は?」
『これはまた毛色の変わったのが来ているのだな。私は貴水竜の滸宜(ホトギ)だ。呼ばれたように思ってきてみたのだが、なんぞ用か?』
「ん、ああ、大したことではないんだがな、この湖がどこにつながっているのか確かめてみたいから、潜るのに付き合ってもらえればと」
 言いつつ、いわゆるせっかちさんに属する彼が、じゃぶじゃぶと水の中へ踏み込み、入っていこうとすると、
『……それは、よしておくがよい』
 滸宜に襟首を咥えられ、ひょいと岸辺に戻された。
「どういうことだ? 私は竜に喰われるほどやわではないぞ」
『そのくらいは判るが、無駄足になるからやめておけ』
「無駄足ってどういうことですか? ……わ、すごい、沈丁花を餌にしたら、上半身がおっさんで下半身がランチュウみたいな魚が釣れちゃった。メルヘン……って言っていいものなのかな? じっくり見てみると可愛いような気もするけど、これ食卓に並べるのはちょっと、ですよね」
「気にせぬものもいそうだが、気にするものはその場で卒倒しそうだな。しかしまあここの生態というのはどうなっているのか、おっさん顔の獲物が多くて驚かされる。真千流が持ち帰った、毒殺型おっさん茸を見たか? あれなどある種の芸術品だと思うぞ、私は」
『ん? そんなにオッサンニカ種がたくさんとれたのか。それは、竜涯郷がお前たちを歓迎しているということだろう』
「オッサンニカ種って、恐ろしく判りやすくて恐ろしくありがたくない分類名だな。しかもそれで歓迎って、竜涯郷のイメージが崩れるんだが……。まあ、それはさておき、なぜ潜るのが無駄足なんだ?」
 あちこちで阿鼻叫喚というか抱腹絶倒のネタを提供しているおっさん顔の獲物たちが、実は竜涯郷そのものからの歓迎ゆえだと知って、怜悧な美貌を猛烈な微妙顔にする迦楼羅王だったが、最初の疑問を思い出して問うてみると、滸宜は首を傾げるような仕草をした。
『“つながっている”というのは概念的な物言いで、物理的なものではないからだ。それを言ったのはあの、始祖龍殿の旧い古い友人だろう。あれらにとっては普通のことかもしれないが、コヒノムアカと『場』を自由に行き来できるのは竜や龍だけだ』
「なんだ、そういうことか。それでは仕方がないな」
 無論、迦楼羅王とて天上に属する身の上、非物質的な力を用いてコヒノムアカから『場』への道を開き、移動することなど造作もないが、今の目的はそれではないのであっさり諦める。
「それは、次に来たときにでも試すとしようか。滸宜、お前と知り合えただけでまあ、いい」
『おや、それは光栄なことだ』
 笑いあう迦楼羅王と滸宜の傍らでは、美しいラピスラズリを餌にした冬夏が竜釣りに挑んでいる。
「どんな竜がかかるかな……仲良く出来るかな」
 水面にさあっと波が走る。
 すぐに、ごぼり、と空気の泡が立ち、
「わあ……っ」
 水を割って現れたのは、紫の鱗に黄金の鬣、深い青の眼をした、とんでもなく美しい竜だった。身の丈は二メートル前後と小柄だが、弱々しさは感じない。
『ほう、聖王竜の仔か。確かに、あの石は強い波動を放っていたからな。惹かれて来るのも当然だ』
 まだ人語を獲得してはいないらしい、聖王竜の仔が、愛らしく、あどけなく小首を傾げ、感動のあまり目をキラキラさせる冬夏へと近づく。すっと通った秀麗な鼻面を寄せられ、すりすりと擦りつけられて、冬夏の歓喜と興奮が頂点に達したのは言うまでもない。
『寿々李(スズリ)、というそうだ。お前と友達になりたいらしい』
 ぴぁ、と可愛らしい声で鳴いた聖王竜から言葉を読み取り、滸宜が名を教えてくれる。
「と、友達に……もちろん、喜んで!」
 感激に上ずった声で抱きつけば、竜の仔はまた可愛らしく鳴き、冬夏の頬に顔をすりつけた。
 今この場で爆発してもいいくらい幸せ、というのが冬夏の正直な気持ちだった。

 * * *

「ふー……」
 一方、仕事が一段落した絵奈は、休憩がてら湖畔へとやって来ていた。
 コヒノムアカの岸辺に、いろいろな種類の石が存在すると聴いて、気になっていたのだ。
「こんなにたくさんの石があるなら、もしかしてあれも……?」
 竜を釣り上げ、交流しているロストナンバーたちの姿を横目に見つつ、絵奈はゆっくりと周辺を歩く。
 途中、桜石なる、不思議な模様のある石を餌にしたハギノが、
「これ、破邪のお守りになるんすよねー……って、うわあ」
 薄墨桜のような、白から桃色へ、桃色から灰へ変わる色合いの竜を釣り上げるのに行き逢った。竜としては高齢らしく、よぼよぼとした動きをする竜に、ハギノが介護よろしく付き添っているのが微笑ましい。
 その横を通り過ぎ、さらに行くと、目的の石は十分ほどで見つかった。
 もしかしたら、絵奈の願いを感じ取ってコヒノムアカ湖が『見つけさせて』くれたのかもしれない、とも思う。
「あ……あった」
 それは、不思議な光沢のある半透明の石だ。
 キャッツアイ効果があり、光の加減で猫眼模様が見える。
 ユーレックサイト・キャッツアイ。
 またの読みをウレキサイト、文字を透過する不思議な性質から、俗名をテレビ石とも言う。
 やわらかい、穏やかな光を持つ石だ。
 六月三十日の誕生日石で、持つメッセージは『心眼』。
 その日に生まれた絵奈の、お守り石だった。
「見つけた」
 誕生日石に自身のエネルギーを送り込むことで、身を護る効力を発揮するのだと教えてくれたのは、今は亡き姉だった。絵奈はその教えを護り、ユーレックサイト・キャッツアイをあしらった装飾品を身に着けているのだ。
「どこかで加工してもらおう。竜涯郷に来た記念に」
 手の中の石をきゅっと握り締めて微笑み、絵奈は、ネックレスを首から外した。指先で、ユーレックサイトのルースを外し、
「これ……湖の竜さんへのお支払いに。物々交換、ってことになるのかな」
 やわらかな光を放つ石を、湖へと放り投げる。小さなルースはゆったりとした弧を描いて落ちてゆく。と、
 ざああんっ。
 勢いよく水面を割って現れたのは、鱗に苔を生やした巨大な竜だった。
 身の丈は、おそらく三十メートルを超えるだろう。
「違う、あれは……龍? 千年以上生きてるっていう?」
 龍は、絵奈の投げた石をぱくりと飲み込み、ちらと彼女を見やってから――その眼が楽しげに笑っているように見えたのは絵奈の気のせいだっただろうか――、盛大な水柱を上げて湖へと沈み、あっという間に見えなくなった。
「……なんだか、すごいものを見ちゃった」
 石を掌に包み、絵奈は笑う。
 それから、
「さ、準備の続き、してこよっと」
 軽やかに踵を返し、パーティ会場へと戻っていく。
 その絵奈と入れ替わるように、ふらり、と現れたのは幸せの魔女だ。
 包丁さばきを存分に披露し、下ごしらえを終えて特にやることもなくなった彼女は、ふいと湖畔へ訪れていた。そして、竜釣りに興味を持ったのだ。猛者たちが色とりどりの竜を釣り上げ、交流を深めているのを目にして、なにがしかのインスピレーションを得たらしかった。
「何だかものすごい幸せが眠っている気配がするのだけれど……。うふふ、私は幸せの魔女。幸せを追い求め、決してそれを逃がさない残酷な魔女。深く深く眠っている幸せであっても、この私が叩き起こしてやるわ」
 小夜鳴き鳥のように可憐な、美しい声で、おどろおどろしいまでの凄みを伴った台詞を紡ぎつつ、幸せの魔女は湖畔を歩く。
「あら、これは……」
 幸せの魔女の、白くきれいな指先が探り当て、つまみあげたのは、赤みの強い、ピンク色のダイヤモンド。なぜかすでにカッティングまで施されており、それは水辺で異様なまでの存在感を放っている。
 それは、壱番世界最大のピンク・ダイヤモンド、60カラット近いシュタインメッツ・ピンクの十倍以上の大きさがあり、これだけでひと財産どころか人生すら買えてしまうような代物だ。
「こんなに大きなピンク・ダイヤモンドを見たのは生まれて初めてだわ。……うふふ、これひとつで、いったいどれほどの人間が運命を狂わされるのかしらねぇ」
 くすくすと笑いながら、糸に石をつける。
 まさに人間がさまざまな物事を間違ってしまってもおかしくないほどの石を手にしてもなんら動じることなく、執着するでもなく、軽い動作で竿を振った。
 キラキラ輝くピンク色のダイヤモンドが水面に落ちた途端、ざばんっ、と音を立てて食いついたのは、輝くような黒鋼の鱗、刃のような鬣と牙に、激烈な光を宿した黄金の眼の、ひどく獰猛そうな雰囲気を持つ竜だった。
「あら、ずいぶん攻撃的なのが釣れたわね」
 全長は十メートルほど。
 自分より何倍も大きな竜を恐れるでもなく見上げ、魔女が首を傾げると、竜はくくっと人間臭い笑い声を漏らした。
『人間の欲をかきたてる石だ、そいつを簡単に餌にすんのはどんな変人かと思って見に来たら、なんともまあ強烈な奴と行き逢ったもんだぜ』
「お褒めの言葉をありがとう、と言っておくわ。私は幸せの魔女、真の幸せを追い求めるためならば、物欲などには惑わされないの。さて竜さん、貴方は私にどんな幸せを見せてくれるのかしら?」
『残念ながら俺はその幸せとやらとは無縁でね! 仔竜どもの最初の脱皮が終わったら、大暴れすんのが俺の仕事なもんでな。だがまあお前さんにひとつ言うことがあるとすりゃ、お前さんはすでに金剛石みてぇに輝いて見える、ってことさ』
 刃の竜は、咆哮のように荒々しい笑い声を響かせ、
『魔女だのなんだのは俺にゃあ判らねぇ。だが、そうやってるお前さんはぞくぞくするくらいきれいだ。そういうやつには、自ずと本当の幸せってやつが集まってくるもんさ。……ま、古龍のじいさんの受け売りだけどな!』
 笑いながら身を翻して、盛大に風を巻き起こしつつ空へ舞いあがった。
「そうね、そうなるように祈るわ」
 肩をすくめる幸せの魔女の髪をはためかせ、恐ろしい勢いでどこかへ飛び去ってゆく。
「あ……すごい、剣みたいな竜」
 それを少し離れた位置で見ていたのはディーナ・ティモネンだった。
「ほんとにすごいね、ここ」
 きれいで、すべすべした手触りの、色の違う石をいくつか拾い、お土産にとポケットに入れる。
「帰ったら、なんていう石なのか調べてみよう。珍しい種類だと嬉しいかも」
 つぶやきつつも、ディーナの眼は一衛の姿を探している。
「お土産……持って来たんだけど、な」
 きれいな、小さいオルゴールと、自分で焼いたクッキー。
 一衛が菓子のたぐいを食すのかどうかは知らないが、手製の品というのは、気持ちを伝えるうえで、雄弁に物語るものではないかと思う。
「一衛、いないな……どこにいったのかしら」
 湖畔を歩くと、コヒノムアカの水が光を反射してきらきら光った。
「……きれい。どれだけたくさんの命を、あの湖は内包しているんだろう?」
 しゃがみこみ、水筒に水を汲んでから、
「……水の中、無闇に入らなければ、いいんだよね?」
 ばしゃっ、と顔を突っ込んでみた。
 透き通った世界が、ディーナの眼前に展開される。
「ひれひ……」
 ごぼっと息の塊を吐き出して、つぶやく。
 水世界の奥に、ゲールハルトに似た、ものっそい筋肉質のおっさん人魚が見えて手を振る。おっさん人魚はディーナを気にするでもなくすいーと泳ぎ去り、変わって流線型のきれいな魚の群れが湖の真ん中あたりを横切っていった。
 息の続く限り、言葉をなくして眺めていたら、水棲の、だろうか、竜の仔が突進してきた。
「!」
 慌てて顔を上げたが、思い切り尾で水をかけられて全身びしょ濡れになる。
「竜でもなんでも、子どもって、お茶目なの、変わらない、かも」
 くしゅん、とくしゃみをして、藪で着替える。
「さ、一衛、探しに行こう。きっと、古龍のところ、だよね」
 天地開闢のころから存在するという一衛が『旧い友』と呼ぶからにはそういうことなのだろうと結論付け、ディーナは竜涯郷の奥を目指して歩き出した。
 その背を、水面から顔を出した小さな竜たちが見送っている。



 4.リュウとニンゲンの輪舞曲

「ここが竜涯郷……、か」
 ヴィクトルは、報告書でたびたび耳にはしていたが、実際に訪れるのは初めてだ。
「素晴らしい。広大なる自然の風景もさるごとながら、これほど多くの竜と出会えるとは!」
 彼は、ひとりで竜涯郷を探索することを選択したのだが、行く先々で多種多様な竜と出会い、すれ違い、または勇壮な姿を目にしていた。当然ながら、竜たちはごくごく自然にそこにいて、道行くヴィクトルを驚かせ、また彼の心を躍らせた。
「うむ、幾多の次元を渡って生きてきたが、この様な光景を目にしたのは初めてだ。叶うならば、消え去った仲間や妻にも、見せてやりたかった。もう、名も顔も思い出せぬが……」
 むぅ、と、ヴィクトルは腕を組み、考え込む。
 口に出すと、なおさら重い。
 もはや文字でしか伺うことのできぬ、確かに存在したはずなのに、自分では何ひとつ覚えていない、同胞たちを思うと胸がしくしくと痛む。
「我輩は“仲間が存在していた”ことすら、いずれ忘れてしまうのだろうか……」
 喪うことはつらいし苦しい。
 別れに痛まぬ胸などない。
 しかし、それよりもつらいことがあるのだと、ヴィクトルは長い旅の中で理解していた。
「……む」
 物思いにふけりながら歩いていたら、自分がどこにいるのか判らなくなってしまった。竜との邂逅に心が舞い上がってしまった、というのもあるだろう。
「むむ、ここは、どこだ……?」
 実はヴィクトル、猛烈な方向音痴なのだ。しかも、地図が読めないため、見知らぬ土地で単独行動を取ると高確率で迷子になる。大魔導師が迷子属性などと、あまりにも格好がつかないため必死で隠してはいるものの、彼が誰かといっしょに行動したがるのはこのためだった。
「いかんな、つい、浮かれすぎた」
 色もかたちも大きさも様々な竜が自由に行き来するこの世界の、なんと豊かで力強いことか。空の高い位置を悠然と横切っていく竜の、白銀の鱗が光を反射して目にまぶしく、強い憧憬をかきたてられる。
 いつからかなど覚えていないが、竜の持つ威厳や勇壮に焦がれてならない。
「地を這うことしか出来ぬ蜥蜴風情が抱くには、壮大過ぎる想いか」
 ふ、とため息をつき、仕方なく、ノートで迎えを頼もうとしたとき、
『迷ったか、お客人!』
 雷鳴のような声が空から響いた。
 驚いて振り仰げば、そこには、身の丈十メートルを超える真紅の竜がいて、黄金の眼を友愛に細めながら、ヴィクトルの傍らへゆったりと着地しようとしているところだった。
「おお……これはまた、見事な。吾輩はヴィクトル、旅人だ。貴殿は……?」
『俺か。俺は火竜の紅廉(くがね)だ。ずいぶん奥まで来たのだな、道が判らなくなったなら案内しようか?』
 親しみのこもった言葉に、ヴィクトルはホッとする。
 竜を相手に意地を張っても仕方がないと、
「いや、その……では、お願いしてもいいだろうか」
『無論だ。背中に乗ってくれ、送ろう。どこまで行けばよい?』
「すまぬ、感謝する」
 ありがたく、その背を拝借することにした。
『何、我らにとっても客人の訪れは楽しきもの。おぬしらがこの竜涯郷を好いてくれるならなおさらのことよ!』
 勇壮な翼を広げ、紅廉が空へと舞いあがる。
「おお……」
 ヴィクトルとて、龍の姿を取ることも出来れば、空を飛ぶことも出来る。しかし、竜の背に乗るこの興奮は、自ら空を飛ぶものとはまったく違う。思わず歓声を上げたら、また、妻や同胞にも味わわせてやりたかった、という想いが浮上し、ヴィクトルは押し黙った。
『なんぞ、悩みごとか』
「む?」
『難しい顔をしておる』
「……うむ……」
 ヴィクトルは訥々と経緯を語った。
 意地を張る必要もない相手だからか、素直な想いが言葉になって出て来る。「貴殿や竜たちとの、この佳き出会いに感謝する。だが、こうしてかつての仲間ではない何かを想うたびに、“仲間”を忘れてしまうのか……忘れることは運命だと言うのか、忘れたくなどないと言うのに」
 消えて行った同胞たちが最期に何を思い、何を言い、何を願ったのか。
 名前も顔も、彼らと過ごした日々も、幸せで愉快な時間も、そこには確かにあったはずなのに、消失の運命の中に喪われた人々のことは、もう何も思い出せはしないのだ。
「なくすつらさならば、もう何度も味わった。その痛みは確かに、吾輩を苦しめる。だが、思い出して嘆くことよりも、思い出せぬことのほうが恐ろしいと言うのに……!」
 大切な人々、大切な記憶、大切な痛み。
 それらはすべて、我がものであればいいと思う。
 忘却は赦しかもしれないが、同時に残酷な略奪者でもある。
 それは、甘美でありながら、底の見えぬ寒々しい虚ろでもあった。
 ヴィクトルには、それが恐ろしい。
「吾輩は、喪失の痛みよりも、忘却の空白を恐れる。それがいつか、己を飲み込んでしまうのではないかと」
 赤い鬣を握り締め、心情を吐露したあと、
「……すまん、つい」
 それが、この火竜には何の関係もないことと気づいてうなだれる。
 竜との邂逅に舞い上がっていた反動で、余計鬱々とした感情がこみ上げ、深く重いため息がついて出る。
 紅廉は雷鳴の声で笑った。
『おぬしは、今でも失われたものたちを愛しておるのだな。そこにはきっと、忘れられてなお残る、佳きものがあるに違いない』
「佳きもの、か……しかし、」
『忘れてしまったからといって、積み重ねてきたすべてが消えるわけではなかろう。過去のおぬしが彼らを愛していなければ、今のおぬしの苦悩とてないのだ』
「!」
『俺はしがない火竜ゆえ、何をしてやることも出来はせぬが。それだけ愛せるおぬしを、羨ましくも思う』
 火竜の言葉は、ヴィクトルの胸に重く深く響いた。
「……そうか。はは、そう、だな……」
 鬣を掴み、瞑目し、ただ“いた”という事実だけが残る同胞たちに祈る。
 せめて、その魂が安らかであるようにと。
 ――その祈りすら、届くかどうかは判らなかったが。

 * * *

 小竹 卓也の興奮と緊張は最高潮に達していた。
 消えた一衛をどうにか呼び出して、同じく古龍を訪ねたいというシーアールシー ゼロとともに古龍の住まう区画へと向かった。途中、先だって出会った仔竜たちと行き逢い、少し大きくなった彼らとキャッキャしてからさらに奥へと進み、辿り着いたのがそこだった。
 それは、開放的な洞窟……とでも言えばいいのだろうか。
 距離にして百メートル以上ありそうな天井と地面とを、淡い銀光を孕む、たくさんの太い石柱が支えた、静謐でどこか荘厳な場所だった。
「ここに……その、神香峰(カミガネ)様が……?」
 思わず背筋を伸ばしながら、一衛に案内されて内部を進む。
「様なぞつける必要はないぞ」
「いや、でも……天地開闢のころからいるわけだし」
「それだと、私にも様をつけなければならなくなるが」
「あ、そっか同い年。……いや、それはそれ、これはこれっていうか」
 要するに貴ぶものの違いである。
「不思議な場所なのです。何か、荘厳なものを感じるのです」
 隣の超絶地味美少女は、不思議そうに天井を見上げ、地面を見つめ、まわりを見渡しながら歩いている。
「こういうの、畏怖、っていうのかもしれませんな。そういや、ゼロさんが古龍に会いたい理由ってなんです?」
 卓也が問うと、ゼロはこっくりとうなずき、
「竜涯郷の報告書を読んで、ゼロは竜涯郷で最も賢明な古龍を訪ねたいと思ったのです。なぜなら、多くの世界で、古くからある強大かつ賢明かつ周囲を思いやる存在は、自身が不要な影響を周囲に及ぼさないようほとんど動かずに時を過ごしていることが多いそうなのです」
「ふむふむ」
「自分の意志で、ほとんどのときを動かず過ごいている存在が、眠りやまどろみや瞑想に通暁していることは必然なのです! ゼロは、そのお話を聞きたいのです!」
 もともとの出身から、眠り関係にこだわりがあるらしく、小さな拳をぐっと握り締め、力強く目的を語った。
「パーティの準備は他のかたがたにお任せして、ゼロは古龍さんとお話をしに行くのです!」
「ああ、あっちもかなり盛り上がってましたな。まあ、任せていいって言われたし、いいんじゃないだろーか。自分としちゃ、こっちのほうがメインなんで」
「小竹さんも、最古の龍に会いたいのです?」
「あ、ハイ。そこの一衛さんに紹介状? いや紙じゃないけど、なんかそういうのいただいたんで。つか、一衛さんがいっしょに行ってくれるなら正直要らなかったかなコレ」
 おそらく一瞬で移動できるだろうに、ふたりに歩調を合わせて前方を歩く漆黒の夢守へ視線を向ける。そして、否、と思う。これは卓也に行動のきっかけをあたえてくれた。今の状況がどうあれ、これを手にしたことで覚悟が定まったのだ。
「添い寝もするのですー。まどろむものとして、古龍さんのまどろみと夢と瞑想を知るのですー!」
 拳を可愛らしく天へ掲げ、力強く宣言するゼロにあははと笑い、卓也は手の中の『紹介状』を確かめるように握り締めた。
 中へ進むにしたがって妙な圧迫感を覚えるようになり、それが奥に座すなにものかの放つ神威だと気づいて卓也の緊張はさらに高まる。
「正直」
 『紹介状』を見下ろし、ぽつりとつぶやいた。
 さっきまでいっしょにいた、卓也の気負いを感じ取っているのか心配そうでもあった仔竜たちはもういない。彼らは、しばらく進んだところで踵を返し、またあとでと言わんばかりに尻尾を振って去って行ったのだ。ここにいるものがなんなのか知っていて、それは気安く出会っていいものではないのだろう。
「――……命、賭けてる」
 最古の龍の一体、神香峰。
 同い年という一衛が、生き物の匂いこそしないもののニンゲンのかたちをとっているのもあって、どんな姿をしているのか見当もつかない。
「何もこんなときに、とは自分でも思うけど」
 ゼロが一衛と何ごとか話しているのを見ながら、思考を整理するように独白する。
 竜涯郷は逃げない。
 けれど、次にいつ来られるかどうか判らないし、トコヨの棘に関するもろもろが悪化して、シャンヴァラーラ自体が危機に陥らないとも限らない。
「一期一会、っていうんだ、こういうの」
 今、出来ること、向き合えるものに全力で。
「もしも……もしも」
 ぶるり、と背筋が震えた。
 恐怖なのか、期待なのか、畏怖なのか判らない。
「もし、竜化出来るなら。コンダクターでなくなっても、人間でなくなっても、自分が自分でなくなるとしても。本当に、なれるなら、悔いはない」
 以前、人嫌いの竜にも話した。
 竜という生き物が好きで好きでたまらないこと。憧れて憧れて、憧れつづけるうちに、偶然覚醒して、更に好きになったこと。
 そう、彼は愛しているのだ。竜という生き物と、その在りかたを。
「着いたぞ」
 一衛が、大きな岩山の前で立ち止まる。
「えっ、あ、そ……うなんですか? いったいどこに?」
 三つ四つとそびえ立つ岩山のほかには、めぼしいものなど何もない。
 まさか? と卓也が思っていると、
「客だ、起きろ」
 そのまさかで、一衛は岩山を蹴飛ばした。
 途端、
《起きておるとも。まったく、乱暴なやつだ》
 目の前の岩山がずずうん、と音を立てて動き、
「えええええ!?」
 卓也は思わず声を裏返らせた。
 ゼロは、大きく傾いて見上げながら目を瞬かせている。
「想像していたより大きいのです。添い寝する場合、巨大化するにしてもどこで眠ればいいです?」
「うん、全部視界に入りきらんてすごいすな」
《よくぞ参られた、遠き地からの旅人よ》
 見上げれば、そこにそびえ立つのは、巨大というのも馬鹿馬鹿しいくらい巨大な竜なのだった。
 なにせ、頭部だけで体育館くらいのサイズがある。
 それは、鋼めいた濃灰銀の身体と、白金に輝く鬣、そして黄金に輝く理知的な目をした、身の丈で言えば数キロ、下手をすれば十キロメートル以上あるのではないかと思われるほど巨大な竜だった。よくよく見れば鱗があるのだが、その一枚一枚が、畳くらいの大きさで、気をつけていなければ判らないだろう。
「か……神香峰、様、ですか……? あっ、自分、小竹卓也って言います!」
 確かに、小さくはないだろうと思っていた。何十億年も生きている最古の龍が、まさか十メートル二十メートルではすむまいと。しかし、正直、ここまでのサイズとは思ってもみなかった。
《いかにも私は神香峰。天地の開闢よりこの竜棲の地に在る始祖の龍だ。……おや、懐かしきものをお持ちだな》
 巨大な、しかし穏やかな光のおかげで恐ろしくは感じない黄金の眼が、卓也の手元を見下ろす。卓也は、その姿を目に焼き付けようと一生懸命見つめながら、ポケットから黒い塊を取り出した。
「あっ、はい、あの……一衛さんから、紹介状って。神香峰様に会いたいって言ったら、もらって。いっしょに来たんで、あんま意味なかったですけど。あの、これって、何かお尋ねしても?」
《一衛よ、何も説明せずにあれを?》
「お前に確実に会わせようと思ったら、あれが一番確実では?」
《……否定はせぬが。お客人、それはな、死した始祖龍の心臓の一部だ》
「えっ」
《シャンヴァラーラがひとつであったはるか太古の昔、神の一柱がひどく荒ぶってな。それを鎮めるために死んだ始祖龍がおったのだ》
「その、心臓? ええと……そのかたは、神香峰様にとっては、」
《私の、直接の兄に当たる。古龍の心臓は力場になりやすいゆえ、大地に葬れぬでな。我ら始祖龍と、開闢のころより在るものどもで、分けて持っておるのだよ》
「そっ……う、ですか……」
 いきなりの展開に頭がついていかない。
 そんなすさまじいものを自分にひょいと寄越した一衛に何か突っ込みたいが、おそらく言うだけ無駄だろう。
「あの、お返ししたほうが? 僕なんかが持ってても……?」
《一衛が託したというのなら、特に問題もない。その夢守は少々生命の倫理からはずれておるが、まったく目が利かぬでもないゆえ。――お持ちになられよ。異界にあっては、大した力を持つものでもないが……お客人を護る程度のことは、するやもしれぬ。とても気の好い龍であったゆえ》
 持ち上げると妙に重い、石炭のような塊。
 これが、卓也の想像も及ばないような昔に死んだ龍の心臓だなどと、どうして判るだろうか。
「あ、はい、あの……大事に、します……!」
 持っていたハンカチに包んで鞄の中へ仕舞い込む。
 ポケットなんてもう畏れ多くてできない。
《さて》
 仕切り直し、とばかりに神香峰が言い、卓也は姿勢を正した。
《卓也殿、ゼロ殿と申されたか。わざわざのお越し、なんぞ私に用だろうか?》
「ゼロは、古龍さんと眠りについてお話ししたいのです!」
 首を傾げる神香峰に、ゼロが先ほど卓也に力説したのと同じ説明をすると、
《ふむ。それなら白永久(シロトワ)が適任だな》
 神香峰からは別の古龍の名が挙がった。
「白永久さん……なのです?」
《ああ、私と同じ始祖龍でな、精神や魂の領域を属性としておるのだ》
 と、神香峰が足元へ視線を落とす。
 つられてふたりも見下ろし、そして息を呑んだ。
「……白永久さん?」
 岩肌のようであった地面がいつの間にか透き通り、その奥に、純白の鱗と鬣、星空のように輝く青の眼を持つ巨大な龍が漂っているのが見えたからだ。神香峰に比べればどこか繊細な印象の、清らかで美しい龍の全長は数百メートルくらいだろうか。
 それはまるで琥珀に閉じ込められた化石のようだったが、ゼロが呼ぶと、青の双眸が悪戯っぽい光を放ってぱちりと動き、確かに龍が生きていることを教えてくれる。
《ご機嫌よう、旅人さんたち。わたくしは白永久、夢とうつつの狭間に漂う始祖龍の一体。わたくしをお呼びになった?》
「はいなのです。ゼロは眠りや微睡についてお話がしたいのです」
《あら、素敵。ならばこちらへおいでになって……いっしょに、夢の波間に漂いましょう》
 白永久の言葉と同時に、ゼロの身体が琥珀の地中へと沈む。
 卓也が、ふわふわと漂いながら古龍のもとへ降りてゆくゼロを見送っていると、
《さて、卓也殿の目的を聞かねばな》
 神香峰に見下ろされ、彼は再度姿勢を正した。
「はい」
 叡智に輝く黄金のそれは、まるで太陽のようだ。
 この眼を前にして、嘘も偽りも黙秘も出来る気はしない。
「その……僕は」
 卓也はすべてを語った。
 以前、瑚ノ果に話したように、竜に憧れてやまないこと、竜になりたいという願いを抑え切れないことを。言葉は丁寧に、気持ちははっきりと。
「大それた願いなのかもしれません。願うこと自体がおかしいのかも。それでも、」
 言葉を切り、神香峰を見上げる。
 勇壮にして荘厳、峻厳にして壮麗なる龍の姿に胸が締め付けられる。
「それでも、僕は竜になりたいです。たとえ、今あるすべてを捨ててでも。――命すら。教えてください、神香峰様。この人の身を、竜へと変えることは、できるでしょうか?」
 思いの丈を吐き出し、息を吐く。
 本当は、ちっぽけな人間の身で話が出来るような相手ではないのかもしれないと思う。それでも願わずにはいられないこの厄介な想いを、業などと呼ぶのだろう。
 沈黙が落ち、いたたまれなくなった卓也がもぞもぞと身動きすると、
《出来ぬことはない》
 ぽつりと言葉が落とされて、ぶん殴られたように彼は飛び上がった。
「! じゃあ、」
《だが、それにはたくさんの覚悟が必要だ》
「覚悟、ですか。それは……」
《高威槻(タカイツキ)、久露沙(クロスナ)、清風吹(キヨフブキ)。珠諏佐(タマスサ)、紀野明(ノリノアケ)も、いるか》
 呼び声にこたえ、周囲の山がゆっくりと頭をもたげる。
「うわ、わ……ッ!」
 予想通り、山と見えたものはすべて始祖の古龍だった。
《どうした、神香峰》
《お前たちの中で、つとめの終わったものはいるか》
《久露沙と珠諏佐が》
《……そうか》
「あの……?」
 なんのことか判らず見上げれば、神香峰の金眼が卓也を真っ向から見つめる。
《卓也殿にお尋ねしよう。貴殿に覚悟があるかどうかを。そして、貴殿に深い理解と透徹があるかどうかを》
 静かな神威に気圧されて息を呑みつつ、彼は小さくうなずいた。

 * * *

「それは、その……だけど!」
 アキ・ニエメラは小竹卓也の狼狽した声を聴いた。
 レア食材を求めて森の深くへ分け入ったあと、古龍の住まう区画へと入り込んだときのことだ。途中で行き逢ったディーナ・ティモネンといっしょである。
「おお、これが古龍のみなさんか。でかいっていうかもうこれ山だよな」
「うん、すごいね、竜って最大でどのくらいまで大きくなるんだろう」
「竜は生涯成長し続ける。竜涯郷最大の龍は神香峰の10.7倍ある」
「すげえなそれ」
「あ、一衛。卓也はどうしたの? なんだか悲壮な顔になってるけど」
 古龍から一斉に見つめられても動じることなく、アキとディーナが口々に言うと、一衛は人間臭い仕草で肩をすくめた。
「彼は竜になりたいらしい。しかし、この世界で人間が竜になり変わろうと思ったら、他の竜の命を自分の中に取り込むしかないんだそうだ」
「そりゃオオゴトだな」
「役目を終えた始祖龍二体が、まあこいつらはもう気楽な隠居生活なものだから、自分を喰え喰えとしきりに言うんだが、壱番世界の人間というのは竜を喰い慣れているのか?」
「いや、どの世界でも、そもそも竜を食うってこと自体少ないんじゃねえかな」
「古龍さんを食べたらすぐ竜になれるの? わりと簡単だね?」
《無論、それだけではない》
 拳を握り締め、唇を引き結ぶ卓也の頭上から声が降ってくる。
《たいていの命がそうであるように、竜は竜である根本を生まれながらに理解している。だが……人間は、どうだ?》
「あー、それは、まあな。人間ってその辺鈍いっつーか、ややこしいからな」
《人間とは何であるか。自分とは何であるか。その、深い理解がなくては、おそらくなり変わることは出来ぬ。これは、正誤の問題ではない。己というものへの、自分自身による深い納得が必要なのだ》
 その理解があって初めて『組み換え』が出来るのだ、と。
 それはおそらく、人間に対するものだけではなく、自分以外の存在、他者をどれだけ理解出来るかにもかかってくるのだろう。そして、その理解は困難を伴うだろう。人間とは、そういう生き物だからだ。
《何より、竜に転ずればシャンヴァラーラに堰き止められるやもしれぬ。そうなれば故郷へ戻ることも叶わぬ。己を慈しんでくれるすべてのものを振り捨てる覚悟もまた、必要となるだろう》
「僕は、」
 どこか寄る辺ない顔で眉根を寄せる卓也に、神香峰は慈愛の眼差しを向けた。
《卓也殿はまだお若い。人間としての眼で見ておられぬものも多かろう。ゆえに、私は考えてほしいのだ。考え抜き、己を理解し、それでもまだこの竜涯郷で竜へと転じたいとの結論に達したのならば、その時こそ我らは卓也殿を同胞としてお迎えしよう》
「……はい」
 さまざまな感情がないまぜになった顔で卓也が頷く。
 話が一段落したのを見て取って、アキは古龍たちへ歩み寄った。
「しかし、でかいな。何を喰ったらこんなでかくなるんだ」
「食べ物でどうにかなるものなのかな、それって」
 ディーナは首を傾げている。
《さて、我らは己が体内で必要な熱量を精製できるゆえ、何かを喰わねばならぬということはない。我らのごとき大きなものが思う存分に食事をしては、同胞らの糧を奪ってしまうゆえな》
「なるほど。美味いものを食う楽しみがないってのは気の毒な気もするが……あ、そうだ。ちょっと訊きたいんだが、美味くて食べごたえがあって珍しい食材ってなんかねえかな。年越しパーティ用の食材を探してるんだが、なかなか面白いものがなくて」
 竜たちに協力してもらい、あちこち探したものの、アキのネタ魂を満足させるめぼしい食材とはまだ出会えていないのだ。
 それに対して、神香峰は深くうなずいた。
《一衛よ》
「なんだ」
《例のアレを出して差し上げるがよい》
「判った」
「一衛、例のアレってなに? 美味しいものなの?」
「……例のアレだ」
 夢守からはまったく要領を得ない答えが返るのみだが、突っ込んだところで無意味なことは短いつきあいながら理解している。
「あと、その鱗、一枚もらうとか出来るか? 皿とかテーブル代わりに使ってみてえ。あんまりでっかすぎてテンション上がるわ」
「古龍に鱗を寄越せと言ったのはアキが初めてだな。アレを怖いとは思わないのか?」
「ん? いや、畏怖とか敬意がないわけじゃねえよ。俺の故郷には竜なんかいなかったし。ただまあ、あんな偉大な存在なら、ちっぽけな人間のわがままくらいサラッと聴いてくれるんじゃね? って思うんだよな」
 それは要するに、幼少時よりひとりで立つことを強いられてきたアキが、古龍たちを無意識に甘えてもいい存在として認識しているからなのだが、当人にはそれに気づく由もない。
 そもそも気の好い連中が多いのか、神香峰以外の古龍たちが「持ってけ持ってけ」とばかりに身体をこちらへ寄せてくる。アキは、尻尾のほうの、直径一メートル程度の小さなものを一枚拝借することにした。
「ありがたくいただくわ。ここ、今度相棒も連れてきてやりてえな、自然が豊かで、命が活き活きしてるから」
 じゃあその『例のアレ』をもらって帰ろうかと思ったところで、ディーナが何かを取り出し、一衛と神香峰に向けて差し出した。
「えっとね……お土産。オルゴールと、クッキー。クッキーは手づくりなの。オルゴールは神香峰さんに、クッキーは一衛にあげる」
《おや、それはかたじけない》
「ディーナ、私は人間の味覚が理解できない」
「それ、経験がないから、でしょ? 一度試してみて、美味しく出来たから。――あのね、私、ふたりの話を聞きたかったの。ふたりがどんな結論を出すのか、って」
《結論、とは?》
「んー、この世界の行く末について?」
「それを結論付けるのは我々ではないな。我らはそれを見届け、必要とあらば手助けをするべく創られ、世界へ撒かれた存在だ。なぜ、それを気にする?」
「ん? うーん、……なんでもない」
 ディーナは曖昧に微笑み、首を横に振った。
「ねえ、そろそろ時間じゃない? もう、パーティの準備、終わってるかも」
 彼女の言葉を潮時に、ずっと何かを考えている卓也、満足げな表情で琥珀の地中より帰還したゼロともども、会場へと戻ることになる。
 アキは、ディーナと並んで古龍の区画をあとにしたが、
「……だって、私、この世界に帰属したい、って思ってるし」
「ん? 何か言ったか?」
「ううん? 独り言?」
 去り際、

「【緋のアルカディア】の」
《マナ・エリスの『糸』が》
「ミコトどもが言うには」
《『花園』に異変も》
「変質の兆しか」
《何かが起きる》
「だが、トコヨの棘ではない」
《おそらくは……世界の多様性が試される》

 ふと耳に入った、世界の守護者たちの会話は、長い間彼らの心に残り続けた。



 5.準備は進むよどこまでも

「なーなー、お稲荷さんある? ある? あんな、僕な、お稲荷さん食べたいねん。なーなー」
 有明は、手伝いに精を出しつつゲールハルトにまとわりつき、稲荷寿司を要求していた。狐姿に戻り、籠に食器や飲み物、スパイスや調味料を入れて運んでいるのだが、すらりとしたお狐様が一生懸命準備に励む姿はたいそう微笑ましい。
「おお、有明殿は稲荷寿司をご所望か。あい判った、不肖ゲールハルト、特別に美味なる稲荷寿司をおつくりいたそう」
「ほんまに? やったー、ほな僕、お手伝いめっちゃ頑張るわ!」
 わくわくしながらゲールハルトの作業を見守る。
 油抜きした揚げを甘辛く煮つけ、寿司飯に牛蒡や人参、戻した干し椎茸を煮しめたものに胡麻を加えてよく混ぜたら、じっくりこっくりやさしい味の沁みた油揚げを開き、中に寿司飯を詰めて出来上がり。
「わー、おいしそうやな、ゲールハルトさんすごいな! 僕、ほんま楽しみやわ!」
 有明自身は料理をすることは出来ないが、つくる手間や、つくってもらうことへの感謝の気持ちは理解していて、パーティのごちそうを準備している人たちにキラキラした眼差しを向けつつ、懸命に、食器や出来上がった料理を運ぶお手伝いに従事する。
「もう少ししたら始まるんかな。探検組が帰ってきたら、かな。あっ、そうや!」
 舞原絵奈が白い竜といっしょにセッティングしたテーブルの上には、すでに美味しそうな料理が並び始めている。
「ふっふっふ、宴といえど手加減はせぇへんでー、お狐様の名にかけて皆びっくりさせたんねん!」
 たくらみに有明がにんまり笑うころ、ニワトコは最後の準備に追われていた。
「ごはんをつくるのは、ぼくには出来ないけど。テーブルをきれいに飾るのなんかは、好きだな」
 真千流とともに摘んできた花を、花瓶に活け、飾っていく。
 素朴な素焼きの一輪挿しに、福寿草の鮮やかな黄色はよく映えた。
「こっちのテーブルは大きいから、少し大きめの花瓶のほうが似合うかな?」
 自分なりに考えながらテーブルを彩り、楽しい雰囲気づくりに努める。
「その花、きれいだな。場が一気に華やかになる」
 大きな皿を抱えたロキが、福寿草を見て目を細めるのへ、ニワトコはにっこり笑った。
「そうだね、小さなお日さまみたいだよね」
 そのころには、食材採集組、遠方探検組も戻って来ていて、調理場はさらににぎやかさを増した。
「さーて、いい材料をたくさんゲットしてきましたし、料理のお手伝いでもしましょうかね」
 ハギノが腕まくりをし、包丁を手に取る。
 隣のアキは、何、とも形容できない不思議な塊を手にしていて、それを黙々と切り分けている。古龍からもらってきたという、ぴかぴか光る鱗がまな板代わりだ。
「……アキの兄さん、それ、何です?」
「例のアレだ」
「えっ?」
「正直、俺もよく判らない」
「この世界、わりとツッコミどころ満載ですよねー」
「だな。へえ、ハギノって料理上手なんだな。その手際のよさ、かなり慣れてると見た」
「ふっ……忍者なめたらいけませんぜ?」
 ドヤ顔をしつつ手を動かす。
 ハギノがつくったのは、おひたしや煮しめ、だしまき玉子、鶏(っぽい)肉の照り焼き、煮穴子、豆腐の木の芽味噌がけ、よもぎ餅などなど。
「素朴でうまそうだな」
 派手好きのハギノだが、つくる料理は和風で地味なものばかりだ。
「あ、あんまりパーティ向けなものってつくれないんすよね」
「いや、充分だと思うけどな。そのよもぎ餅、つくりかた教えてくれ」
「そうすか。や、もちろんいいですよ」
 珍しく照れるハギノの視線は、フリフリレースのエプロンに身を包み、獅子奮迅の働きを見せるゲールハルトへと向かう。
「しかし……今すぐ嫁に行ける腕前をお持ちなんすね……いっそ戦慄します。これは、師匠と呼ぶべきなのか……」
 例のビームを浴びるまでもなく、賑やかしに、と華麗で可憐な魔女ッ娘に化け、ハギノは作業を続行する。
「年越しなら、お蕎麦にお節にお雑煮にお汁粉がなきゃ! 変わり種で、餅ピザとか餅グラタンはどうかな? ハギノさんアキさん、どう思います?」
 そこへやってきたのは、美麗で神々しい竜をおんぶした――竜が背中にしがみついていると言ったほうが正しい――冬夏で、彼女の言葉に男ふたりは顔を見合わせた。
「そういやそうですね。僕、蕎麦打てますよ」
「なら俺は餅を用立てるか」
「あ、ホントですか? じゃあ私、ゲールハルトさんに言って、おだしの準備、します。そば粉と糯米も探してきますね」
 フットワークの軽い冬夏がさっと動き、せっせと準備に勤しむ中、
「いや、ほら、僕、お坊ちゃん育ちだから、重労働は似合わないんだよね~」
 適当なことを言って仕上げなどの重要な作業はやろうとしないロナルドに、迦楼羅王は呆れ顔をしていた。
「オッサンニカ種の似合うお坊ちゃん育ちか、それはすごいな」
「やめて、もうあのことは思い出させないで!?」
「ロナルドが全身をオッサンニカ種にたかられながら戻ってきたときには、本当にどうしようかと」
「あれは正直、僕が一番『どうしよう』だったよね!」
 竜涯郷からここまでの仕打ちを受けたロストナンバーは彼しかいるまい。しかもそれが歓迎の表れだというのだからタチが悪い。
「で、その心は?」
「え……いや、ほら、失敗したら怒られそうだから」
「なるほど。まあ、大丈夫なんじゃないか? 気になるならゲールハルトに直接言ったらどうだ」
「いやいやいや、なぜそんな危険を冒すかな。なにがNGワードか判ったもんじゃないよ? ま、まあ、念のため鏡は用意したし?」
「うっ、そ、それは」
「あと、脛毛も剃ってきたからたぶん大丈夫」
「それはどう考えても喰らう前提だ、危険すぎる!」
 以前の花見パーティで、なすすべもなくビームを喰らっているふたりなので、それへの戦々恐々っぷりも並ではない。あの格好で宴に参加など、想像しただけで悶絶横転失神できる。
「いかがされた、お二方」
 ふたりの挙動不審ぶりに気づいたようで、声がかかるが、双方、余計なことを言ってスイッチを押すのも恐ろしく、曖昧な笑みとともに視線をそらすにとどめた。
「……ま、まあ、もうじきパーティも始まるしね、うん」
「そうだな、何ごともないことを祈ろう」
 これも竜涯郷の思し召しか、幸いにも、ロナルドと迦楼羅王が(ある種の)血祭りに上げられることはなかったという。



 6.輪の中で

「うひゃああぁ!?」
 パーティが始まるや否や響いたのは有明の声だった。
 飲食が必要ないゆえ、そういった行為に疎いゼロが首を傾げる。
「……不思議なのです。ごちそうが突如として有明さんに変わったのです。この有明さんは、食べても大丈夫なのです?」
 皆で乾杯をして、食欲をそそる匂いをたちのぼらせる料理の数々に手を付けた途端の悲鳴である。
「びびび、びっくりしたやんかあああああ!」
 お尻のあたりをフォークで刺されて涙目の有明に、
「いや、うん、その……ごめんね? まさか、有明が食卓に並んでるなんて、思わなかったから」
 ディーナが困惑顔で謝っている。
 その横では、ハギノが首を傾げていた。
「ていうか、なんでテーブルに? そりゃ、あんな変装っていうか変化されてたら気づきませんよね……? 逆に、丸呑みされなくてよかったって言うしかないような気もするんですが」
「えっ……いや、せやから、その」
 まさか、料理に化けて皆を驚かせてやろうと思ったら、待っている間につい居眠りしてしまい、無造作にフォークをぶっ刺されて反対に驚かされてしまったなどとは言えるはずもなく。
「ええと……なんでもないねん。お稲荷さん食べよ!」
 強引に話題を切り替え、その場から逃げだす有明である。
「いやあ、すごいごちそう。デザートも山ほどあるし、どれから食べるか迷っちゃうな」
 大好きな友人たちに囲まれて満面の笑顔を見せつつ、優はてきぱきと料理をとりわけ、しだりや竜たちに勧めた。
「好きなものとか、ほしいものとかあったら言ってくれよな」
 理比古のリクエストでつくった馬鈴薯のキッシュを頬張り、料理と雰囲気を満喫しながらも、しだりたちへの配慮は忘れない。しだりも瑚ノ果も、あまり大勢が集まる場所は得意ではないからだ。
「ん、ありがと、優。しだりは、皆がにぎやかにしている様子が見られればそれでいいから。――こうやって見ているのは悪くないな」
「そっか。しだりがそう思ってくれるんなら俺も嬉しいよ」
 人間というものに、重たい、激烈な何かを抱いているらしいしだりが、少しずつでも自分たちの方向を見てくれるのなら、こんなに素晴らしいことはない、と優は思うのだ。
「何か、幸せそうだな、優」
 理比古は、別のテーブルで旺盛な食欲をみせつつ、年の離れた友人の様子を目にして和んでいた。邪魔をしてはいけないという思いから席は外したが、親しい人々の笑顔は何ものにも代えがたい。
「ロキ、これ食べてみない? 鱸っぽい魚のパイ包み焼きなんだけど、バターの風味と鱸の淡白さがよく合ってていくらでも入るよ」
「ん、そうか、ありがとう。これは理比古がつくったのか?」
「うん、そう。この辺のは全部つくったかな」
 理比古がつくったのは、鴨のコンフィ、七色茸とハーブと金色トマトのスープ、身体の毒素を排出してくれるハーブのサラダなどで、どれも食べることが大好きな理比古の技術が活きている。
「うん、美味しい。理比古もだが、今回の調理役はみんな、いい腕の持ち主ばかりだな」
「だね。ロキのバウムクーヘンもすっごい楽しみ。むしろ今すぐ齧りに行きたい」
「ははは、そうか」
「あと、ゲールハルトさんには一度我が家にメイドとして来てほしいよね。うちの忍びと家事対決とかしてみてほしいなー」
「メイド……?」
 何を想像したのか珍妙な表情をするロキだったが、理比古はゲールハルトのつくった魚介のテリーヌに舌鼓を打っていた。
 どこかで、わっと笑い声が上がる。
 大樽で酒を持ち込んだ緋と、彼に酒を勧められて出来上がりつつある大人面子のテーブルだ。
「みんなが楽しそうなのは、いいな」
 ニワトコは、それらの様子を眺めながら、皆が丹精込めた料理をつまんでいた。樹木であるニワトコには、人間に類似する味覚は備わっていないので、料理の味を云々することは出来ないけれど、
「みんながにこにこ笑って食べていると、ぼくも嬉しいし、“おいしい”気持ちになれるよ」
 ハーブと果物でつくった清々しい飲料の、鮮やかな色合いを楽しみながら、ニワトコはこの平和な喧騒を楽しむ。
「ヴィクトルさん、卓也さん、ワーブさんも。なにか要るものがあったら言ってね。ぼく、持ってくるから」
 真っ赤な竜と同席し、何やら語り合いつつ酒など酌み交わしているヴィクトル、時折何かを考え込む顔を覗かせながらも、周囲を取り囲む色とりどりの仔竜たちとの戯れに余念のない卓也、旺盛な食欲で次々料理を平らげていくワーブに声をかけると、それぞれに頷きと謝意が返った。
「あ、じゃあニワトコさん、おいら、そこのスイカが食べたいですよぅ」
「はーい。どうぞ、ワーブさん。すっごく立派なスイカだよね」
「自分ら日本人からしたら、季節感丸無視すぎていっそ面白いレベルですな。まあここの生態にツッコミ入れても無駄な気はしますが」
「うむ、だが、そのくらいの実りがなくては仔竜を養えぬということであろうな」
「ああ、そう考えたら、そりゃ仕方ないですよね」
 くっついてくる仔竜を撫で繰りまわし、至福の笑みをみせつつ卓也が頷く。
 鶏っぽい脚肉にハーブソルトを擦り込んで豪快に焼き上げたものをほおばり、パリッと焼けた皮とジューシーな肉の絶妙な加減、そして溢れ出す肉汁に舌鼓を打つ。ヴィクトルと赤竜がさしつさされつしているのを微笑ましく眺め、鼻を擦り付けてくる仔竜をわしわし撫でて、少しずつ日の落ちてゆく空を見上げる。
「……考えることは増えたけど、たぶんこれも、僕が乗り越えるべきものなんだろう」
 苦悩も困難もものともせずに――あるいは、その葛藤を克服して――辿り着けるかどうか、それを試されているのかもしれない、と思う。
「堅苦しいことは抜きだ、呑め呑め!」
 一際にぎやかなテーブルで、緋は上機嫌だった。
 宴が始まる前から、持ち込んだ酒をちびちび舐めていたのもあって、すでにすっかり酔いが回り、出来上がっている。
 酔えば酔うほど気が大きくなり、陽気に、笑い上戸になる緋だ。彼のいるテーブルは見事に男ばかりのむさ苦しい空間だったが、大きな升で酒をあおり、初対面の相手にまで勧める彼にはあまり関係がないようだった。
『緋よ、あまり呑みすぎては、』
「そう堅くなるな、鎮流よ。楽しまねば損ではないか!」
 苦笑交じりの青竜も、豪快に笑う緋に押し切られてしまう。
「そうだ、ロナルドさん、俺が手に入れて来たこれ、食べてみてくれよ」
 アキが差し出した皿には、何がどうと表現することも出来ない何かが載っている。映像的に表現するなら、モザイクがかかったような状態だ。
「えっ……これ、なに?」
「例のアレだ」
「……食べるの? これを?」
「もちろん」
 視線で催促され、断れない空気を感じ取ったロナルドはそれをつまむ。手触りもまたどうとも表現出来ず、不安が募るが、意を決して口に放り込んだ。
「! こ、これは」
「どうだ?」
「う……うまい!」
 頬が落ちそうなほどの美味が口腔内にあふれ、ロナルドは至福の瞬間を味わう。
 が、
「……で、なにコレ?」
「例のアレ、だ」
「いや、だから、」
「例のアレ、以外の詳細は聞かされてない」
 それは、この世の天国と思うほどの美味でありながら、味の形容はいっさいできないという、理不尽極まりない食材なのだった。
「本当だ、ものすごく美味いのになんなのかいっさい判らん。オッサンニカ種といい、この食材といい……竜涯郷というのは案外面白い【箱庭】なのかもしれないな」
 分厚いミートローフを切り分け、あちこちのテーブルに配り歩きながら迦楼羅王は呆れる。とはいえ、そういう理不尽はいくつかの過去世で経験済みなので、なんとなく懐かしくも感じてしまう。
「……人間時代を思い出す、な」
 かすかに笑い、花ハーブのサラダを女性陣に供する。
 皆で囲む食卓を楽しく、幸せに感じるのは、彼が人間として生きていたころの名残だろう。
「きっと、この多層世界のどこかには」
 どこかから飲み物を所望する声が上がり、迦楼羅王はそれに応えて調理場へ戻る。
 爽やかなハーブとレモンで甘酸っぱく仕上げた水をキャッチャーに移し替えながら、昔の自分が愛した人々を思い起こし、その記憶の中に遊ぶ。
「遠い過去や、あの街で出会った、たくさんの愛する人たちがいるのだろうな。彼らは幸せに過ごしているだろうか。いつか、もう一度逢うことは出来るのだろうか」
 甘く苦くほんの少し痛い、遠い日の記憶に浸りつつ、賑やかな宴の様子を目にして微笑むと、
「……いや。まずはこの『今』を楽しむだけのこと、か」
 迦楼羅王は、記憶の中の、そして目の前の人々の幸いを祈った。
「皆さん、楽しそう」
 絵奈はというと、盛り上がりを見せるパーティに感動しているところだった。
 自分が一生懸命セッティングした会場で、人々が美味な料理に舌鼓を打ち、それぞれに笑い合っている。自分ひとりでそれをなしたとは思わないが、自分のしたことが人々の笑顔を担う一端になったという事実は、絵奈の心を温めてくれる。
 故郷での絵奈は、姉以外からは褒められることもない人間だった。
 それゆえに自己評価が低いのは致し方のないことだったが、いっしょになって会場をつくりあげた人々は、皆、絵奈の頑張りを褒めたたえ、感謝してくれた。そのことが、絵奈を奮起させる。
「私、来年も頑張らなきゃ」
 拳をギュッと握り、新しい年への抱負を口にする絵奈に、
「あら……絵奈、貴方、食べないの? 美味しい食事を摂ることは幸せへの第一歩よ」
 幸せの魔女が声をかける。
「貴方、ずいぶん頑張っていたのだから、しっかり食べなくては損ではない?」
「あ、はい、ありがとうございます」
 魔女の言葉からは、彼女がせっせと雑用に励み、皆のために動き回っていた姿を見ていたことが察せられ、絵奈は胸が熱くなるのを抑えられなかった。
 たとえ努力しても届かないものがあるのだとしても、努力を諦める必要はないのだと、きっと誰かが見ていてくれて、それは間違いなく誰かの、何かのためになっているのだと、そう認められたような気がした。
「来年はもっと皆さんのために働きたいです。そして、皆さんの笑顔が見たい。誰かの笑顔に貢献できるなら、私、きっと、もっと強くなれると思うから」
「貴方の幸せはそれなのね。私とは違う幸せだけれど……そうね、貴方はとても筋がいいから、応援しているわ」
 幸せの魔女が、たいそう魅力的に微笑む。
 絵奈は頬を上気させて頷き、魔女とともに宴の輪へと戻るのだった。
 宴はにぎやかに進み、どこかから軽快な音楽が聞こえ始める。
 ロナルドのヴァイオリンが奏でる音に、興の乗った緋が舞い始め、人々はやんやの喝采を送る。
「……素敵な光景」
 冬夏は、盛り上がる会場をにこにこと眺めていた。
「来年は、皆が今よりもっと笑い合える年になればいいな」
 ひんやり冷たく甘いベリーソーダを口にして、小さく首を振る。
「ううん、違うよね。いい年にして、笑い合うんだ! 旅団の皆とも、きっと判り合える。だから、全力で出来ることをやろう! その為には、まずは私が笑わなきゃ!」
 ねぇ、と、誰とも判らない『誰か』に話しかける。
「悲しみや憎しみのない世界なんてないよね。負の感情に捕われた貴方に何があったのかな? 私は、いつか貴方とも笑い合いたいよ」
 いつか、辿り着いてみせる。
 あの、激烈な、どこかもの悲しい感情を抱く『誰か』に。
 そして、その心に寄り添うのだ。この世界の、穏やかな継続のためにも。
「そのためにも、強くならなくちゃね。何よりもまず、心を鍛えないと」
 冬夏の、ひとりごとに近いそれを、黙って聞いていた真千流はというと、どんなに美味な料理を食べても常に無表情だったが、不思議な芳香のある、ブドウに似た果実を食べるや否や様子が急変した。
 どこかに置き忘れてきた表情筋を警察が拾得物として返してくれた並の唐突さで、満面の、幸せそうで楽しそうな笑顔になったのだ。
「え、あの、真千流さん……? だ、大丈夫です?」
 給仕にきたハギノが思わず心配そうに声をかけたくらいの変貌ぶりで、普段の無表情をまさに『かなぐり捨てた』という印象だった。
「あら、なんのことかしら。うふふ、酔ってない酔ってない、私は素面ようふふ」
「知ってますよ別にお酒なんか飲んでな……あれ、この果物、酔っ払うみたいな効果があるって誰か言ってなかったっけ……?」
 理不尽食材に満ち溢れた竜涯郷には、アルコール分ゼロでも酔える便利な食材もあるらしい。しかし真千流は、すでにそのようなことは聞いておらず、その辺に転がる釣竿をむんずと掴んだ。
「ちょ、真千流さん、いずこへー!?」
 大股で歩み去っていく真千流を驚愕の表情で見送るハギノ。
 その眼が、さらなる驚愕に見開かれたのは、わずか数分後、真千流が美しい紫色の鱗を持つ美麗な竜を連れて戻って来たからだ。
「自分の眼と同じ紫の宝石を見つけて試したら、お仲間が釣れたわ。ふふ、来年はいいことがありそうね」
「え、ああ、はあ……?」
 上機嫌の真千流に、ハギノは気の抜けた呼気で返すしかなかったが、宴自体は賑やかに、たくさんの笑顔を含んで続けられている。
 ロナルドの奏でる音楽がそれに拍車をかけていた。
 彼は、例のアレをはじめとした料理や酒に舌鼓を打ちつつ、神がかったたくみさで弦を操り、会場の盛り上がりに一役買った。人々は盛大に食べ、呑み、笑って、一年の終わりと新しい年の訪れとを同時に楽しんでいる。
(……もしも)
 和やかな、命の喜びに満ちた場を見渡し、弦を操る手は止めぬまま、思う。
(もしも僕が、“賭け”に勝って生き延びたとしたら)
 いつもはにやにやとした笑みを浮かべる眼が、今だけは真摯な色彩を宿して世界を映している。
(いつかここに、彼らを誘いたいね。――音楽を愛し、神に背を向け、同じものを憎んだ仲間を)
 そして同時に、ロナルドは祈らずにはいられない。許されるならば、ロストナンバーたちともう少し自由を楽しみたい、と。多種多様な思考や文化は興味深く、ロナルドに演奏の表現に幅を与えてくれるから。
 そんな彼の内心を読んだかのように、
「ああ、いい光景だな」
 杯を傾けながら、アキが目を細めた。
「明日のことなんか判らんけど、今の俺には守るものもあるし、このまま、自分らしくやるだけだ。――そう思うだろ、ロナルドさん」
 護るものを持つ人間の眼に、ロナルドはかすかに笑って頷く。
 皆と共有するこの時間を、得難く貴いと思った。



 7.乞ひ祈む閼伽

 日没後、宴が一段落してまったりとした時間が流れる中、思うところのある人々はコヒノムアカの畔を逍遥していた。湖水が淡い光を放つ湖周辺は、夜になっても明るく、ランプのたぐいが必要になることもない。
 湖面が、ゆらりと揺らいで光を反射する。
 祈っているのは、優としだりだ。
「……ん、よし」
「優は、何を願った?」
「壱番世界の崩壊を止められますように、大切な人たちを今度こそちゃんと守れますようにって。しだりは?」
「シャンヴァラーラに生きる命の行く末に幸せがあるように」
「無欲ね、シダリは」
「そうかな? だって、竜涯郷の力だから。大本であるシャンヴァラーラのために使われてしかるべきじゃない?」
「そういうものかしら? 自分のために願い、欲すること自体は悪ではないわ。願いがあるからヒトは強いのだと、以前、兄が言っていたもの」
「ああ、壱番世界の人間たちが文明を発展させたのって、ああしたいこうしたいっていう願望と、飽くなき探求心のおかげだしね。あっ、これ、ガーネットじゃないかな。すごい……深い、赤だ」
 赤子の握り拳ほどもある深紅の石をふたつ拾い上げ、優が片方をしだりへ差し出す。
「ガーネットは、邪気を払い、負の感情を清め、前向きな気持ちを与えてくれるって言われてる。愛と友情の石だとも聞いてるから、こっちはしだりに。こういうところだから、もしかしたらご利益あるかもね」
「……うん、ありがとう」
 石を受け取ったしだりが、軽い頭痛を覚え、額に手をやったところ、わずかに触れた角がぽろりと落ちた。
「!?」
 驚きで固まる間に、もう片方の角も落ちた。
「え、え、え、な……」
 痛みはないのだが、初めての事態に動揺する。
「……生え変わり?」
 瑚ノ果に言われてどうにか落ち着き、拾い上げた角を優に手渡した。
「これ、石のお礼。お守り……に、なるといいな」
 受け取る優があまりにも嬉しそうで、気恥ずかしくなったのは内緒だ。

 そこから少し離れた場所で、理比古とヴィクトルが並んで水面を見つめている。
「ヴィクトルさんもお祈りに来たの?」
「ああ。貴殿もか、理比古殿」
「ん? うん」
 早く『誰か』と出会えますように。
 一番の願いはそれだ。
 しかし、同時に、
「俺に優しい人たちが、いつも幸せでありますように……って」
 今の自分が充分幸せなことを知っているから。
「……そうか。吾輩は……」
 “仲間”のことを、思い留めていられるように。
 手を組み、小さな声で願う。
 大きな変化があったようには思えなかったが、記憶の片隅で、懐かしい誰かが微笑んだような錯覚があって、ヴィクトルは静かに瞑目するのだった。

 ロキはというと、ひとり、湖を見つめていた。
 静かにひざまずき、水面に自身が映るほどの位置まで近づいて、願う。
「強く、なりたい……得た幸せを護ることが出来るように」
 それは願いでもあり、己への誓いでもあった。
 今年、祖父とは少々違うが、『旅人』になれた。
 友人が出来たし、愉快な経験をたくさん積むことが出来た。
 何より、護りたいと心から想う、大切な人と巡り会えた。
 ロキはその数奇なる運命に感謝し、
「新しい年には、きっと、もっと」
 湖面に、いとしい少女の金の髪を垣間見つつ、その幸せを護るため、心も身体も強くなろう、と誓うのだった。

 それぞれに祈る人々を見つめつつ、ゼロがしたのは、湖に向かって二拝二拍手一拝。これは壱番世界の流儀だが、おおらかなゼロは気にすることもない。
「世界群の安寧安息安泰安心安定安全安眠安逸をお願いするのです。湖に満ちる大いなる意思が、なんだかすごいパワーで世界に満ちるといいのです。そうして、皆がいつでもふわふわぬくぬくと幸せであればいいのです」
 まどろむことが仕事であり存在の理由であるゼロだが、彼女の行動規範には自分を含むすべての存在の安寧を達成する、という欲求が無意識下においてあり、それゆえの祈りである。
《コヒノムアカはそれほど大きな力を持たないわ。湖はただ、願いがよい方向に進む、小さな流れをくれるだけだもの》
 声は、ゼロの足元、いつのまにか琥珀色に透き通った地面から。
「白永久さん。お目覚めなのです?」
《わたくしはいつでも目覚めているわ。いつでも眠っているのと同じく》
「よい夢を、見ているのです?」
《ええ。ゼロさん、あなたと同じく》
 最古の龍とのまどろみを思い出し、ゼロは少し笑った。
「ゼロは、穏やかな眠りのような平穏が、すべての世界群で達成されればいいと思うのです。そのために出来ることが何なのか考えて、まずは旅を続けることなのだろうと思い至ったのです」
《ええ。あなたの旅は、世界を変える小さな波紋になるでしょう。すべての波紋が合わさって、世界は少し、違う方向に回るのだわ》
「はい。ゼロは精進を続けるのです」
 こっくりとうなずき、
「皆さん、年越しそばの準備が出来ましたよー! あつあつのうちに食べてくださいね!」
 冬夏の呼び声にこうべを巡らせれば、もう、古龍の姿は消えていた。
 会場のほうから、賑やかな笑い声が聞こえてくる。
「……まずは年を越すのです。新しいことは、新しい年に考えるのです」
 そう結論づけ、ゼロは三々五々引き上げてゆく人々とともに会場へ向かって歩きはじめる。

 どこかから、鐘の音のように深い咆哮が響く中、今年最後の一日は、刻一刻と過ぎてゆくのだった。

クリエイターコメントご参加、ありがとうございました!
お届けがぎりぎりになってしまってすみません。

越年からずいぶん経ってしまいましたが、それぞれに思うところのある、それぞれの年越し、楽しんでいただければ幸いです。

ちなみに、章タイトルにも書きましたが、コヒノムアカとは乞い祈む閼伽、すなわち神仏に祈る水、ということで、「湖に向かって祈る」が正解でした。それほど大きな力を持つわけではないようですが、皆さんの願い、祈りが、真実となるように記録者もまた祈る次第です。


それでは、どうもありがとうございました。
また、ご縁がありましたら、ぜひ。
公開日時2012-01-15(日) 14:20

 

このライターへメールを送る

 

ページトップへ

螺旋特急ロストレイル

ユーザーログイン

これまでのあらすじ

初めての方はこちらから

ゲームマニュアル