風で氷が削られ舞う大地を、一歩一歩踏みしめ歩き進める少年が居た。空のガラス瓶が詰まったバッグを襷掛けにし、ぎゅと自身を抱きしめながら向かう先は―― 「またきたのか」 出迎えるは人よりも遙かに巨大な体を持つフロストゴーレム。その大きな巨体が声をかければ、少年は笑みを浮かべた。 「うん……。もうちょっとだけ水が必要で……」 「大変だな」 「うんん、大変じゃない。病気で苦しんでいる人の方が大変なんだよ」 「そうか……」 ならば案内しようと……少年を自分の肩にのせ、己が守護する迷宮に消えた。 ●○●○ 深閑とする迷宮の最下層、最奥にある地底湖の間。天井からもしたたり落ちるその水が跳ねる音以外聞こえることはない。湖といえるほどに満ちているその水は、いかなる病気も治すことができる万能薬として言い伝えられていた。 迷宮は大氷原の中に存在する。 複数の階層にわたり深く深く地下に潜る構造は、魔物の格好の住処となり人を遠ざけてきた。しかし地底湖が齎す力の恩恵に預かろうと、幾度となく力自慢の冒険者たちが挑戦しては、凶悪な魔物の餌食となり消えていったこともあり、年を追うごとにその迷宮に挑戦する者たちは減少していった。そんな閉じて日のたつ迷宮の扉が開かれたのは、最後の挑戦者が還らずとなってから数年ぶりの、流行病が猛威を振るった年のこと。 人の体と精神を蝕む死の病は、名の知れた薬師が調合した薬でも、著名なヒーラーが施す癒しの手すらも受け付けない。ならば伝承の万能薬ならどうだ――最早地底湖の水に縋るしかない、そのような時だった。 それでは寒さに耐えられないだろう薄手のロープに身を包んだ男が、言い伝えの万能の薬となる水をを求め、迷宮に足を踏み入れた。 男、名を……いや、此処ではあえて彼と称する。 彼は2日程前に住まう街を出発し、寝ずに歩き続けここにたどり着いた。狙うは伝承の万能薬――地底湖の水である。彼の街もまた流行病に脅かされていた。 この危機を何とかしようと、白羽の矢がたったのが彼。だが当の本人、けして街を助けたいという正義感に駆られてここまできたわけではない。 「これと釈放が交換? 割に合わない」 舌打ちをしながら一人ごちる。体が丈夫そうだから、そんな理由で囚人である彼に目をつけた権力者が、水と引き替えに釈放をちらつかせてきたその時を思い出し苛つきが募る。 『力任せに暴れ、乱暴者と称された君なら、力も有り余ってるだろう』 『罪人たるお前も、これで街に感謝されるのではないか』 権力者から言われた言葉。 事実ではあるが、そんな嫌みも混ぜられては、誰が受けてやるかと。それに彼自身命を危険に晒す理由がない。しかし彼は結果的にその話を受ける。 ―― 想い寄せる人もまた……病に侵され苦しんでいると知ったから。 ●○●○ 考えてみれば、彼女との出会いがすべての始まりだったように思う。 「貴方という人は……どうしてそう愚かな行いを繰り返すのです」 彼女の声が鮮明に脳裏に響く。 暴れた挙げ句怪我をした彼を手当する者は、街の中で彼女……小さな教会に身を寄せていたシスターだけ。治療を施されるたびにおしかりの小言を受けた。 「五月蠅い」 減らず口をたたき返す、素直に言葉を紡げないのは彼の損な部分であろう。いつか「ありがとう」と返すつもりだった。あの時教会に向かったのも……本当は。 目に入るは知らない男がシスターに暴力を振るう瞬間 思うより先――体が二人の間に割り込む 気がつけば男を殴り続けた拳が真っ赤に染まり 倒れた男は動かず 甲高いシスターの悲鳴が響き 数人がかりで飛びかかられ 顔が地べたにつき体を押さえられ そして 彼は人を殺めるという罪を背負い檻に繋がれた。 殴り続けて腫れ上がった血まみれの拳。連行されるとき、彼女だけは「違う!」と抗議してくれたのだが、誰もそれを聞き入れてくれなかった。 「ありがとな」 本当は、こんなシチュエーションで言いたい訳じゃなかった。でも、もう言う機会も無いだろうと、そういう事は冷静に考えることができたから、笑って……言った。 お人よしな人であったから、流行病で見捨てられた人を介護でもしていたのだろう。それで自分も発病しては世話ない。馬鹿な奴だと心の中で呟いても、あいつだからな――と勝手に納得した。 幾度となく襲ってくる魔物たちを切り倒し、迷宮の奥に進めば進むほど、彼女への思いが支えとなる。氷原の中を休みなく歩いた体だ、とうに体力は限界を超えている……それでも足が止まることはなかった。 最深の地底湖にたどり着いたのは数日後の事。 迷宮と呼ばれるにふさわしく、入り組んだ構造が彼の歩みを遅らせた。既に倒した魔物の数など覚えてもいないし、持ってきた剣も盾も既に使い物にならない。これ以上魔物に襲われたら、体丈夫であっても流石に命の保証はないだろう――覚悟を決めたすぐのこと。 長らく続いた道が開け、そこに広がるのは輝く鉱石、その先に輝く湖。 「…すごいな」 寝ずの戦いを繰り広げようやくたどり着いた場所を前に思わず呟く。最深であるにも関わらず光の光景は、満身創痍の体であることをほんの一瞬忘れる事ができた。 (これがあれば、この水を持って帰れば……) もし、彼が私利私欲の為にここに来たのであれば、純粋な感動の中に浸れたのだろう。しかし彼は違う。ふ、と小さく笑みをこぼせば、重い足を叩いて最後の力を振り絞り歩き始めた。 一歩 また一歩 戦いに明け暮れていた方が、何も考えず進めただろう。だが、目的を前にした彼の体は、限界であることを主張するかのように、思い通りに動かせなくなって。 「くっ…!」 重い足を上げきらず、飛び出た鉱石の頭に足をぶつけ倒れ込む。 (畜生、あと少しなのに…!) 立ち上がろうと腕に力を込めようとする。けれど輝く鉱石の光に包まれ、此処まで戦い続けた蓄積した倦怠感も伴いそのまま意識を手放した。 暫くして、すう…という深く息を吸う音。彼の寝息であろうか、その呼吸に合わせ、鉱石の光が少しずつ、ゆっくりと放つ光を強めていく。 ぽ ぽ ぽ ぽ ぽぽ ぽぽぽ ぽぽぽぽ…… まるで炎を灯すような音を放ち、鉱石は輝きを増し、彼の体をいたわるように包み込んだ。 ●○●○ どのぐらい眠っていたのだろうか。 鉱石の光は淡く微かに輝く程度に弱まっており、疲労困憊だった体はどこへ行ったかどこかすっきりした目覚め。よっこらせ、と大きな巨体をおこ… (…ん?) 妙な違和感を感じる。その違和感が何か、とりあえずは自分の大きな手を見てぐーぱーと動かす。いつもと何かが違う。否、いつもってどんな風だったか。そもそも自分は『何だった』か。 立ち上がり、すぐ傍にあった湖に自身の姿を映し覗く。 色白を通り越した真っ白な肌。 氷柱の様な髭や髪。 人ではない、フロストゴーレムの姿がそこにはあった。 (俺はこんな姿だっただろうか) 水面に映る自身が首をかしげる。 裸体で立ち尽くす自分。 周りにやけに小さい服とおぼしき布切れが散布しているが、まさかこれを着ていたわけではあるまい。 しかし違かったか? と考えてもよくわからない。そもそも此処は?―― 腕を組み暫し思案するが、考えるだけ無駄かと諦める。 (こんなえらい高かっただろうか) あたりをぐるりと見回す。 今いるこの場所は温かい感じがするけれど、奥に見える路はゾッとする寒気を感じる。しかし不思議とそれが恐怖につながってはこない。 闇の中に向かえば巣食う魔物達が異物を排除せんと襲いかかってくる。しかし魔物達の爪が、牙が、刃が、彼の体を切り裂く事は敵わず、拳一つで倒す事が出来た。 こうして倒した魔物達の毛で身に纏うものを作り、危険な迷宮ををどうにせんと見回りする事が彼の日課となる。 有り余る時間をかけ探索していくと、この場所は何階層にも分かれている他、迷路のように路が分岐しているせいか迷った人間か魔物か既に白骨化した骨が転がっている。 数歩歩けば魔物に当たる危険な遭遇率。憂いた彼は、迷い込んで来た旅人や水を求め彷徨っていた人、か弱き魔物達を保護しては、安全な場所へと案内するようになり、季節が何度も廻る先、迷宮の安全度は格段にあがった。 ●○●○ 冒頭の少年とフロストゴーレムが出会ったのも、彼が見回りをしている最中の事だった。街の教会に引き取られた孤児だというその少年は、流行り病で苦しみ助けを請う街の人を救いたくて水を取りに来たのだが、入り組んだ構造に迷い嘆いていたところ救われた。 どうして危険を冒してまで水を汲むのか……それを訪ねた事がある。 「死んじゃったシスターの代わりに」 少年は笑いながらそう答える。 「凄くお人よしな人だった、悪い人も信じた。結局病気で死んじゃったけど」 少年の街で流行り病が蔓延したのは二度目だという。一度目のそれで街の半分の人間が死に至り、少年のいうシスターもその病気で亡くなった。きっと彼女が元気なら取りにいくだろうから、彼女の代わりにね…と。そんな少年の話を聞くと、遠き日その人に会ったような、どこか温かい感覚と、悲しい感覚が入り混じる不思議な感覚を覚えた。 「気をつけて帰るんだぞー」 水を汲み終えた少年を再び入口まで案内す。手を振り送りだせば少年も「またね」と笑顔で手を振って来た道を戻っていった。 この少年の街にある小さな図書館。伝承を綴る古びた書物にこんな言葉がある。 『 氷の迷宮。不思議な鉱石の光は心と体を変える力あり。 元の姿取り戻すには、その者の名を呼ばれたし―― 』 彼が伝承通り姿を変えた者だとしても、今、その名を知る者は……。
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