ずっと前にアルドは鴉刃の肩に印をつけた。 百足兵衛に引きずられ、戦いから戻ってこない鴉刃の心が不安で淋しくて。 その痕は今もまだ残っている。 龍人であり、アサシンである飛天 鴉刃の、硬い鱗の上に、銀色猫の獣人であるアルド・ヴェルクアベルの牙がいくら鋭かろうと、そうそう残るはずもなく、今まで消えぬはずもなかろうに。 それは受容、の形のように思える。 今もまだ、戦いを求め戦いに飛び込む恋人が、アルドにだけ許してくれた絆の徴のように。 だから。 もっと欲しくなる。 「んふふ〜」 「アルド?」 いきなりべったりとしなだれかかってきた相手に戸惑い、鴉刃は素早く周囲に目を配る。 何せ、ここは天下の往来、というか、ターミナルにある小さな公園。そこここで確かに恋人達がベンチに座り、時に語らい、時に肩を寄せ合って何事かをむつまじく囁いてはいるけれど、鴉刃とアルドは久しぶりの休日のピクニックとしゃれ込んで、アルドが用意してきたあれやこれやを、芝生の上で健全に食していただけなのだ。 もっとも、鴉刃の前にはあちらこちらで買い集めてきてくれたらしい各種の水、それに酒のボトルが並び、サンドイッチやジュースを楽しげに口に運んでいたアルドとは、いささか違和感があるのはあるが。 「ね〜、鴉刃〜、まだここに噛み痕、残ってるんだ〜?」 「ああ、そうだな」 幸い、周囲もリア充爆発状態で、他の誰が何をしようと構っちゃいねえ雰囲気だったのにほっとしながら、ようやくごろごろと喉を鳴らしながら肩に甘えてくるアルドの毛並みを楽しむ。 「不思議なものだな。幻術士の印はこれほど残るものなのか?」 尋ねながら、もっとも、そんなに早く消えてしまうならば、印の価値はないか、と呟いたとたん、びくりと体を強張らせた。 「んふ」 「あ、アルド」 残った左目でみやった相手は、気のせいかぼんやりと潤んだ瞳をしている。薄笑みを浮かべながら、もう一度、ぺろり、と噛み痕を舐めてみる仕草はなかなか蠱惑的、だがそれは情事を期待してというよりはむしろ。 「……マタタビが入っていたのか」 今呑み始めたワインを差し上げ、鴉刃は納得した。 アルドが意図して買ってきたのか、それとも偶然紛れ込んだのか。 とにかく、このマタタビワインのおかげで、アルドは軽く酔っぱらった状態になってしまっているのだろう。 「鴉刃〜!」 「っ」 ずしりと重くなってきたのに、急いで手にしていたグラスを置いた次の瞬間には、芝生の上に押し倒されていた。 「ふぅ」 全く、暗殺・斥候部隊に所属している者が、これだけぽんぽんぽんぽん押し倒されていては仕事にならない、いや既に素質を疑われるレベルだろう。 「……仕方ない」 左手と肩にのしかかる温もりと柔らかさが、これほど心地よいのだから。 風が柔らかく吹き過ぎる。 陽射しは頭上に茂った樹木に適度に遮られ、木陰で寝そべる二人は食後のお昼寝三昧だ。 いいか、時には、こういう時間も。 「気持ちいいな、アルド」 低い声で囁くと、こくんと肩で頷く気配があって眼を閉じる。 アルドの話を聞きながら、酒と旨い水を楽しみながら、それでも頭のどこかでずっと依頼を捜していた自分がいるのを済まないと思っている。失った片目をまだ治さない、なのになお、もっと危険な依頼はないかと司書に問い合わせているのを、アルドは知っているのだろう。 僕の心配もわかってよ! 嘆きと怒りに濡れる銀の瞳を何度見たことだろう。 鴉刃のこと、大事なんだよ、わかんないの! わかっているとも。わかっているから今もこうして、無防備に押し倒されているのだ。 もし、ここでアルドがいきなり本気で牙を剥いたら、何かの理由で鴉刃を是が非でも殺そうと思ったら、もちろん、鴉刃は負けることなどない、ためらうことなくアルドを屠ることはできるだろう、習い覚えた体の技で。 だがその瞬間、鴉刃の何かは,取り戻せないほど壊れてしまうのだろう、肩に残る噛み痕のように。 誰にも傷つけられない強靭な心を、唯一壊せるのはお前だけなのだと囁いたら、アルドは驚くだろうか喜ぶだろうか、それとも僕が鴉刃にそんなことするわけないのに、まだ信じてくれないの、と怒るだろうか。 「気持ちいいよ、鴉刃」 酒の匂いに酔って、すっかり眠り込んでいるとばかり思っていたアルドが応じて、思わず目を見開いた。 「僕、お日様に当たって少し暑いんだ……鴉刃の体が凄く気持ちいい」 ことばと一緒にすりすりと移動してくるアルドは、気のせいかマウントポジションを狙っている。 「ほら、ここも」 「む」 ふんわりと落とされた柔らかな頭が、ふかふかと首のあたりに擦りつけられ、無意識に体が強張った。 「何だかすべすべしてひんやりして気持ちいい〜」 「酔っぱらっているのだろう」 あのワインにはマタタビが入っていたぞ。 そう突っ込んでしまったのは、そのあたりに逆鱗があるからで。 普段はほとんど目立たない逆さに生えた鱗の一枚、喉仏のあたりにあって、触れられると一気に気力を奪われるような想いと不安が逆巻いて、今まで触れた相手を殺さずにいたことなどない。 「ア、アルド」 「何?」 ふいと顔を上げたアルドは、やっぱり潤んできらきらと輝く瞳をしていて、思わず綺麗さに見惚れた。もうしばらくこのままでいたい、そう思う願いも虚しく、よほど喉首のあたりの肌触りが気に入ったのだろう、アルドは引き続き、鴉刃の体に顔を埋めてくる、ばかりか。 「あっ、アルドっ!」 「何」 ふいにざらつく舌で逆鱗のぎりぎり側を舐め上げられて声を上げた。再びきょとんとした顔でアルドがこちらを見下ろし、やがてにまり、と笑った気配。 「何、鴉刃」 こいつ。 一気に顔がほてるのを感じた。 これだけぐにゃぐにゃのでれでれになっていても、アルドのこれは意図的なのだ。 「何だよ、鴉刃?」 んふふ〜、とまた無邪気なふりを装って(今はもう、そうとしかとれない)、アルドがすりすり、ぺろぺろと喉首への接近を再開する。 「だめだ、アルドっ」 「何〜」 「そこは…っ」 「だから、な、に〜」 「あ、汗をかいてるっ」 「うん、僕も」 「埃もついてるっ」 「うん、きれいにしてあげる」 「違うっ…っ!」 びくっ、と仰け反ったのは、あわや逆鱗をまともに舐められそうになったからで。 「そこは…っ!」 「鴉刃…っ」 跳ね起きれば一瞬で済む、なのに、アルドを突き飛ばして跳ね起きられない自分が信じられないまま、思わず切なげな声を上げたのを、アルドはがっちり誤解した。 「僕、もうっ」 「く、ぁああっ」 はむっ、と温かく湿った口で食まれたのは、こともあろうにまともに逆鱗。 どうしてそこがわかった、とか、どうしてそこを、とか、そういう意識が一度に吹き飛んで、視界を真っ白な光が埋め、体に激怒が満ち、腹の底から湧いた真っ赤な炎が吹き上がるのをかろうじて堪えたせいで、拳に握った指が震えた。 「あ…アル…ド…っ」 「んふんふ」 「も…う……っ」 やめてくれ。 その懇願はいらぬ炎をアルドに注いだようだ。 ちゅ、と音高くキスを贈られ、離されたと思うと、 「鴉刃……可愛い」 「ひ」 甘い声音で囁かれて、同じ場所を舐められ、視界が眩んだ。 過去これだけ傍若無人な攻撃を加えた相手がいただろうか。否、これだけ好き放題なことをされて、鴉刃が屠らなかった相手はいなかったはずだ。 何が何でも殺したい。 何が何でも殺したくない。 激怒と容赦なく相手を叩き潰したいという殺意に翻弄されつつ、ぎくぎくと体を震わせる鴉刃にお構いなく、アルドはこともあろうに、逆鱗を軽く噛んだ。 「っっ!」 満ちあふれる殺意。だが同時に、これまで味わったことのない甘美な衝撃。 「鴉刃?」 「…、は…ぁ…っ」 離されたとたん、力が抜けた。仰け反っていた体がぐたりと芝生に落ち、うろたえたようなアルドの声が降ってくる。 「え、ちょっと、鴉刃? ねえ、大丈夫? 鴉刃っ、鴉刃っ」 ああ、また泣くんじゃないか、この声は。次は逆鱗のことをちゃんと説明しておいてやらねば。 しかし、逆鱗に触れられても、自分がここまで攻撃を堪えられるとは思わなかった。とかく、アルドといると、決して越えられないと思っていた限界を易々と越えていくような気がしてくる。 「…だなぁ」 我ながら情けないほど気抜けた声が零れる。 「え、何、鴉刃…っ、しっかりしてっ」 意志力を限界まで酷使した疲労に、鴉刃はぼんやりと思う。 私は、アルドを、愛している、のだなぁ……。
このライターへメールを送る