開かれた雨戸の向こう、夜の薄い闇が包む静かな庭の中、糸のように降り注ぐ雨の気配ばかりが広がっていた。 畳敷きの部屋、板張りの廊下。小さな書棚やテーブル。気持ちの問題だろうか、蚊遣りの煙が空気を小さく揺らしている。 ――怪異ナル小咄ノ蒐集ヲシテオリマス。代価トシテ、茶湯ヤ甘味、酒肴ナド御用意シテオリマス 長屋の風体をしたチェンバーの木戸、風に揺れる浅葱色の暖簾の下に、そんな一文がしたためられた、小さな木製の看板が提げられていた。目にした客人が暖簾をくぐり、現われたチェンバーの主に案内されたのが、この部屋だった。 雨師と名乗る男は、和装で身を包み、細くやわらかな眼光は、眼鏡の奥でゆるゆると穏やかな笑みを浮かべている。 テーブルには酒と肴の用意が整えられていた。定食じみた食事の用意も、甘味と煎茶の用意も出来ると言う。 「それでは、お聞かせくださいますか?」 言いながら、雨師は客人の前に膝を折り座った。「あなたが経験したものでも、見聞したものでもかまいません。もちろん、創り話でも」 怪異なものであるならば。 そう言って、雨師は静かに客人が語り始めるのを待っている。
ここはいつ来ても雨なんだねぇ。 言いながら、ユーウォンは緑茶をすする。テーブルには蒸かしたての茶饅頭が並び、まだわずかに湯気をのぼらせていた。 雨師さんが行くところはどこにでも雨が降るのかなぁ。 続けて呟き、人のそれとは異なる手先で器用につまみ取った饅頭をひとつ、口に放る。控えめな、丁度良い甘さが口の中でやわらかくほどけていく。満足そうに笑みを浮かべつつ、再び緑茶を口にした。 口直しのためのものだろうか。柴漬けを小皿に分けたのを差し伸べながら、店主である雨師は静かに笑う。 さて、どうでしょうね。 言って、縁側に面した板張りの廊下の上に座るユーウォンの後ろ、畳の上に膝を折る。ユーウォンは饅頭をもうひとつ口に放ってから雨師を見た。 0世界は近頃新たな旅立ちと展開の兆しに包まれている。ユーウォン自身、もうじき0世界を旅立ち、一年という時間をかけて新たな旅路へ就くことになっていた。世界は変化を迎えるための転機にあるのだろう。 けれど雨師はそんな流れになどまるで関心もないように、常と変わらず安穏と笑っているばかり。 ユーウォンは雨師の笑みを見据えて安堵したように肩で息をひとつ。それから視線を庭へ移し、細かな雨に打たれ揺れる庭木の枝葉を見つめながら、饅頭をもうひとつ。 おれさ、お届け屋なんだよね。だからいろんなものを預かったり届けたりしたよ。たまに変わったものも預かったりしてさ。 ユーウォンの語りは唐突に、前触れも断りもなしに始まった。 おれ達はどこまでも旅が出来るからっていうことで、ニンゲンから死者の魂とか死者へのお届け物を預けられたこともあってさ。あの世への境っていうの? あれを越えていくんだよ。でも死んだニンゲンから仕事を頼まれたのって一回しかないんだ。生きてるニンゲンは死んだニンゲンによく届け物とかするのに、なんでなんだろうって考えたけど、おれ、よくわかんなくてさ。 でもおれ、ニンゲンがやる儀式って好きだよ。変な儀式とかさ、付き合ったり見たりしてるのは面白いしさ。 ああーそうそう。その儀式なのかな。おれ、変なものを見たんだよ。うん、あれはなんかこう、落ち着きがない集落だったなぁ。 海から山を三つも越えたとこにある小さいとこでさ。みんな同じような顔してて、おれが歩いてるとそわそわじろじろ見てくるんだよ。ニンゲンの集落だったから、おれみたいなのを見たことないのかなぁって思ったけど、わかんないや。それで、その集落の奥にわりと大きな家があってさ。おれ、そこに用事があったからお邪魔したんだ。 全体的に暗い家だったなぁ。灯りをあんまりつけてないんだよ。廊下も柱も屋根も古くてさ。ニンゲンの気配はざわざわしてんのにひとりも出てこないんだ。だから、おれ、家の中を歩き回ることにしたんだよ。 似たような廊下がぐるぐる繋がっててさ。引き戸はどこも閉まってるし、開けてもどこにも誰もいないし。おかしいよね、でも閉めるとやっぱりざわざわニンゲンの気配がするんだよ。 ニンゲンを探して廊下をぐるぐる廻ってさ。廊下もどんどん暗くなっていくしさ。炭鉱とか、歩いてくとどんどん地面の深くに潜っていくんだけど、ああいう感じだったかもしれないなぁ。空気がどんどん重くなっていくんだよ。それで、おれ、なんか楽しくなってきちゃってさ。どんどんどんどん進んだんだよ。そしたらその内、なんか踏んじゃったんだ。 グニャッていうか、フニャッていうか、そんな感じがして、おれ、それを見てみたんだよ。うん、ニンゲンの耳だったんだ。拾ってみたけど、まだフワッとあったかくてさ。汗かいたみたいにしっとりもしてたよ。血もついてないし、切ったって感じでもなかった。それ以外に? なんにも無かった。でもざわざわは少しずつ弱くなってたかもしれないな。 おれ、拾った耳を持ったまま、やっぱり廊下を歩いたんだ。ぐるぐるぐるぐる歩いて、その内におれ、ようやく廊下の突き当たりに出たんだ。壁だったけど、下のほうに小さいドアがあってさ。おれぐらいの大きさじゃないと出入り出来ないようなドアだったよ。 そこをくぐってみたら、奥に狭い物置みたいな部屋があったんだ。真っ暗で、埃だらけで、でもものすごく乾いた部屋だったよ。湿り気がぜんぜん無いんだ。 真っ暗だったから、おれ、最初ぜんぜん気がつかなかったんだけど、その物置の中にニンゲンがいたんだよ。 死んだニンゲンだったのかもしれないな。真っ黒に干からびた何かがいたんだ。壁にもたれて胡坐で座って、骸骨とかじゃないんだよ。焼け焦げでもないんだ。干からびた魚とか肉とかみたいな……うーん、なんて言えばいいかな。とにかくそれがじっとおれのことを見てるんだよ。おれ、そのニンゲンの近くまで行って見てみたけど、ぜんぜん動かないし、話しかけても答えてくれないしさ。でももしかしたらずっと見てたら何かあるかもしれないから、おれ、しばらく見てたかったんだけどね。でも仕事もあったし、仕事を放っておくわけにもいかないしさ。 耳? 何となくそこに置いておこうと思って、そのニンゲンの近くに置いてきたよ。別にそのニンゲンの耳じゃなかったかもしれないけどさ。 そこまで一息に話し終えると、ユーウォンは何ということもなさげに緑茶を啜った。柴漬けを口に運び、饅頭の甘さが残る口中に塩気を寄せる。 結局それで、その干からびたニンゲンは何だったんですか? 雨師が問う。けれどユーウォンは首をかしげた。 その集落には二度目も行ったし、その物置にも行ったんだけど、よく分かんないんだよね。干からびすぎてて、骨に皮だけが張り付けられたハリボテみたいになってたな。でもやっぱり死んだニンゲンじゃないような気はしたよ。見た目は変わりすぎてたけど、雰囲気はぜんぜん変わってなかった。物置の空気も干からびてたし、家の中はやっぱりざわざわしてたし。集落の人たちはやっぱりみんな同じような顔だった。 応えたユーウォンに、不思議なお話ですねと言いながら雨師もまた首をかしげる。対するユーウォンは目をぱちくりと瞬かせるばかり。 おれ、これからまたずっと旅してくるから、帰ってきたらまたお話聞いてよ。そう言いながら何ということもなさげに饅頭をひとつ口にする。雨師が微笑む。ええ、ぜひ聞かせてください。お待ちしていますよ。 言って笑みを浮かべた後、雨師ははたりと思い出して訊ねた。 そういえば、その耳は、その後どうなっていたんです? 問われ、ユーウォンはうなずいた。 それがさ、まだそこにそのまま残ったままだったんだ。ぜんぜん干からびてなかったし、フニャッてしてたし、あったかいまんまだったよ。なんでなんだろうね。おれ、考えたんだけど、やっぱりよく分かんなかったよ。
このライターへメールを送る