その建物は、広大な森の中に高くそびえていた。 少し前に、ドンガッシュがどこかの世界で見た塔を模して作ったものなのだそうだ。0世界の大きな森のチェンバーの中に、彼はそれに見合う建造物を建てた。 白い大理石で象られた円柱は、節々に蓮や葛など様々な植物の紋様が描かれていた。しかし人物は全く描かれていない。 壱番世界で言うなら、それはイスラム寺院にある付随する尖塔──ミナレットによく似ていた。しかしそれというには装飾が華美過ぎる。 ドンガッシュはこの建物をただ「迷いの塔」と呼んだ。 この塔の中にはいくつもの部屋があるのだが、それらへ登る螺旋階段はひとつしかない。つまりは複雑な内部構造により階段が途中で分岐しているのだが、登っている者にそれと気づかせない造りになっているのだ。 今、この静かな塔は、世界図書館で何らかの逸脱行為を行った者の収監施設となっていた。 * インヤンガイ、ホンサイ街区での事件から二週間ほど経っていた。 ニコル・メイブはこの迷いの塔に収監されている人物に面会するため、果物の入った籠を手に、ただひたすら螺旋階段を登っていた。彼女の白い花嫁のドレスが微かな衣擦れの音を立てる。 ツァイレン。 ニコルは会いに行く人物の姿を脳裏に思い浮かべる。 彼は彼女が関わった事件で撃たれ、ひどい怪我を負った。現地で運良く治療を受けることができ一命を取り留めたが、あの時はとにかく忙しない状況だった。 そして、彼は現地の者──マフィアのボスで世界図書館の協力者であったジェンチンを殺害した罪状により、この「迷いの塔」に収監された。謹慎処分はひと月だという。 傷はもう癒えたのだろうか。 あれ以来、ゆっくり話もできていなかった。 しかし── なぜ、勝てないのだろう。 ぐるぐると螺旋階段を登りながら、ニコルは自問自答する。ツァイレンのことを思い返せば思考はいつもそこに行き着く。 ニコルはツァイレンに一度も勝てていない。一手取ったのだって不意打ちで、しかも彼はその時怪我をしていたのだ。 何度も手合わせをすれば分かる。単純な力や技に大きな差異は無い。ツァイレンもニコルも様々な局面を乗り越え、技を磨いてきた身だ。そのスタイルに優劣があるわけでもない。 おそらく、と彼女は嘆息する。 私は自身を本来あるべき形に昇華できていない。活かせていないのだ。 ふと螺旋階段の外窓から差し込む光がまぶしくて、ニコルは目を細めた。 そういえばあいつ……どうなったかな。そこで思い出したのは、彼女が戦闘術を習った人物のことだ。荒野に飛び出して間も無いころ、彼女は強盗団が引き起こしたトラブルに巻き込まれ、あっけなく重傷を負った。死ぬのかと思った時、どういうわけか一人の男が彼女を助けてくれたのだ。 傷が癒えてからも、ニコルは彼と一緒にいた。彼は賞金稼ぎだった。 ニコルの技は彼のものだ。見様見真似で、彼女は彼の技を見て盗んだ。彼はそれをどうやら面白がっていたようだった。しかし聞いても何も教えてくれなかった。 彼は教えをせがむニコルにこう言い放ったのだ。 ──生まれつき“できる”奴に教える事なんざひとつもねえよ、ションベンガキ。 ニコルは彼の言葉を思い出して、歩を止める。 ひどくない? 思い出したらムカついてきた。そんな事言ったって、じゃあなんで今の私には“できない”のさ。 でも、ツァイレンには“できる”。だから勝てない。それは分かるんだ。 彼女の脳裏に思い浮かぶのは、先日インヤンガイで見た光景だ。 ジェンチンが自分の娘リウリーを撃った時、ツァイレンはそれを庇った。そして瞬く間にジェンチンを殺した。恐るべきスピードと深い力を持つ技。 それを、視ることはできる。 だが、届かなかった。 ニコルは立ち止まったまま思考を重ねる。どうなのだろうか。あの時、届けば彼を止められたのだろうか。止めたらどうなっていた? いずれにしても、ジェンチンは死んだ。 彼の娘、リウリーは生き残った。 虹連総會やフォドゥ。彼らの多くの者が命を落とした。 自分は──彼らのことを見ていたのだろうか。 ニコルは俯き、自分の額を手で拭った。自分が見ていたのは、ツァイレンだけでは無かったか? ツァイレンはもっと大きなところからあの状況を見ていた。 彼は大局を見て動いていたのだ。 だから、ジェンチンが銃を出した時、咄嗟にリウリーを庇うことが出来た。それにジェンチンもそうだ。ツァイレンが必ずそうすると踏んだから、彼は自分の娘を撃った。「って、それ?」 思わず独りごちるニコル。 大局。その言葉がすとんと腑に落ちた。 そう言えば、今まではちゃんと全部見ていた。旅団の時もカンダータの時も。いつも彼女は高い視点で──鳥瞰をもって流れを掴んでいた。 そんな時、きっと自分は大鷲だった。大空から総てを見取って自らを最適に射る。 ランパオロンでそれができなかったのは、自分の甘さのせい。ようやく、ニコルはそのことを自覚した。 彼女は、ツァイレンだけを見ていたのだ。 ただツァイレンに死んでほしくなかった。もっとたくさん話をしたかった。一緒にいたかった。 そう、ニコルの頭の中はツァイレンのことでいっぱいだった。大鷲は最初から地上にいたのだ。 そんな状態で、茂みに潜む虎に気付くはずが無いし、龍に向って飛び上がったって手遅れだ。 ツァイレンとジェンチンは大局を見ていた。あんな状況だったのに。自分や大事な人の命をせめぎ合ってる最中なのに。「なんだ。私、全然足りてないや」 ニコルは、長く息を吐いて、また階段を昇り始めた。 ジェンチンか。みっともないとこ見られたまま死なせちゃったな。悔しいな。 だんだん心が静かになってきて、ニコルはあの時居合わせた面々のことを思い返す。 彼らの域に一番近かったのはゼロかもしれない。それにあの軍人。 ……いや、あれは逆、か。リウリーを人質にとったヌマブチのことを思い出し、彼女は苦笑した。 以前、暴霊退治の仕事で一緒になったこともあり、何となくだがニコルは彼のことを少しだけ理解したつもりでいた。 ヌマブチは、人を人だと思えないのではないかと。 だからこそ、逆に流れ“だけ”を客観視できる。今回もおそらくそうだ。 そして、目的のため“だけ”に何もかも利用する。その気になれば自分すら。でも、必要が無ければ何もしない。ニコルとの対戦で早々に棄権した時のように。それはツァイレンやジェンチンの鳥瞰とは似て非なるものだ。 ──あ。 再度、ニコルは足を止めた。 ツァイレンと、ジェンチン。ヌマブチと、私。リウリーの存在。似て非なるもの。 ひょっとして、私もそうだったのかな。ツァイレンを生かすため“だけ”に私は私を利用しようとして。 私がやろうとした事は、リウリーが置かれた状況そのものだったんだ。 * やがて、ニコルは一つの扉の前に着いた。 入口で渡された石版をはめると、ドアを押すことができるようになった。重い石の扉を開くと明るい光が飛び込んできて、ニコルは眩しさにまた目を細めた。「ツァイレン……?」 私は、全然わかってなかった。いくつも、色々な事、気付いてたのに。 いつだって貴方は、それを教えてくれてたのに。身を以って示してくれたのに。 だから──今は貴方とゆっくり話がしたい。 廊下を抜けると、小さな部屋に突き当たった。 無数の小窓があって室内は光に溢れている。ベッドとテーブル。必要最低限の家具だけが置かれていて、テーブルには椅子がついていなかった。 ニコルは視線を動かし、椅子がどこに行ったのか気付いた。 窓の側である。 ツァイレンが窓際に椅子を寄せてそこに腰掛けていたのだ。無数の光が、彼の横顔を照らしている。 声を掛けようとして、ニコルは思わず口を噤んだ。相手の様子が少し違って見えたからだ。 いつもの黒い長袍ではない。白いシャツに黒のスラックス姿だ。片足を折って膝の上に片肘を置いている。胸のボタンを三つほど外しているので、身体に大きく巻かれている包帯が見えていた。 袖のボタンも留めておらず、両手はだらしなく投げ出されている。「ツァイレン」 そっと声をかけると、彼はようやくニコルを見た。頬には無精髭が見える。「やあ、君か」 挨拶をするも笑顔がない。「こないだは、済ま……」「──待って」 ニコルは相手の言葉を止めて、にっこりと微笑んでみせた。「謝るのは、無し」 言いながら彼女はテーブルに果物の籠を置き、そこにひょいと腰掛けた。ツァイレンは、まだ本調子ではないのだろう。しかし元気そうではないか。ニコルは安堵した。「お見舞いにきたの。それに、貴方とゆっくり話がしたくて」 そう。 ツァイレンは囁くように相槌を打っただけだった。「貴方の事を聞かせて欲しいの。──ジェンチンにも貴方の話を聞いたから」 ジェンチンか。自分が殺めた男の名前を復唱するツァイレン。そこでようやく彼は微笑んだ。寂しそうに、ほんの僅かに。「私の話って、何を?」「いろんなこと」ニコルも足をブラブラさせながら言う。「翠円派の事。三指虎殺って呼ばれるようになったいきさつなんかも面白そう。家族や、その腕輪の元の持ち主のこと……。あのね、だってさ私、貴方からちゃんと聞いてないな、と思って」 ツァイレンは無言だった。 彼はこうして会うときいつも微笑んでいた。だが、今日はどうしたことか。彼の顔にはほとんど笑みが浮かばない。 気にはなった。それでもニコルは彼に語りかけ続けた。「私も話すよ。旦那の事、今までの事、私の、気持ち。それで初めて、ほんの少し近づける気がするから。大空に──貴方に」 覚悟って、素直で穏やかな心の事なのかな……と思って、さ。「そうか。君は、本当に大鷲になれたんだな」 ニコルが最後に囁いた言葉。それに何か思うところがあったのか、ツァイレンは静かに言った。「今まさに大空に翼を広げて飛び上がったんだな。君は、もう後ろを振り返ることもないだろう」 彼はそう言って居住まいを直した。視線は窓の外の空へ向く。「地を這う者の話が、君の糧になるとは思えないな」「えっ?」 ニコルは眉を寄せた。「私の話なんぞ、聞くに値しないと言っているんだ。私にはもう何も残っていない。三指虎殺だって? そう呼ばれた男はもうどこにも居ないよ」 大きな瞳をさらに見開くニコル。 彼は何を言い出したのか。その意味がよく理解できない。「どういう、こと?」 つとツァイレンが視線を返してきた。軽く息を吐くと、手の平を広げてみせる。「手を強く……握れないんだ。あれからいくらやっても回復しない」 その指は窓からの光を受け、白々と照らされていた。明るすぎる光が、微かに震えている指を一本ずつ、残酷に浮かび上がらせている。「気も練れなくなった。分かるだろう? あの怪我で、身体から力が失われたんだ。剣も槍も握ることが出来ない。私は、もう二度と以前のように──」 言いかけて、彼は沈黙した。 拳を静かに握り締める。「君は自分の道を行くんだ。私のことなど捨て置けばいい」「──どうしてそんなこと言うの?」 ニコルの声は消え入りそうだった。 彼女は、瞬きも忘れ真っ直ぐに彼を見つめていた。今、初めて聞いたことに大きな衝撃を受けたが、それよりもツァイレンの言葉が彼女の心に突き刺さった。 どうして、どうして? ニコルは立ち上がっていた。「すまない」 ツァイレンは彼女の表情に気づき、我に帰ったようだった。「何というか……自分の中でまだ整理がついていないんだ」詫びつつ、取り繕うように続ける。「私は物心ついた時から武道と共にあった。それが自分の中に無い状態なんて、今まで経験がなくて、その」 と、自分の発言を恥じたのだろう。彼は話を中途で打ち切ってしまった。「すまない。ニコル、今日は帰ってくれないか」「謝るのは、無し……って言ったじゃない」 握り締められたツァイレンの拳に、柔らかい手が触れる。 ニコルは、彼の拳にそっと自分の手を重ねていた。以前、そうしたように。拳はざらざらしていて傷だらけで、無骨な武道家のものだった。 でも、彼女はその拳が好きだった。「変わらないよ、この拳。貴方のもの」 そう囁いて、ニコルは静かに微笑んで見せたのだった。=========!注意!企画シナリオは、便宜上、参加枠数が「999」になっていますが、実際には特定の参加予定者のために運営されています。この企画シナリオは下記のキャラクターが参加予定です。他の方のご参加はご遠慮下さい。万一、参加予定でない方のご参加があった場合は、参加がキャンセル(チケットは返却されます)になる場合があります。<参加予定者>ニコル・メイブ(cpwz8944)ツァイレン(chax5249)=========
湯がシュウシュウと音を立てて沸いた。 ニコルは茶器を温めるために湯を丁寧に注ぎ分けていった。しばらく置いてから湯を捨て茶葉を茶壷に入れ、改めて湯を注ぐ。 茶葉は発酵度の低い烏龍茶で銘は分からなかった。茶杯に注ぎ分ければ果実にも似た豊かな香りが辺りに広がる。ふとニコルは湯の無くなった茶壷を鼻に近付け、その匂いを味わった。 いつだったか、彼が言っていたな。 ニコルはぼんやりと思い出す。 茶の匂いは嗅ぐのではなく「聞く」もので、人もまた同じ、と。その時は、彼が何を言っているのか意味がよく分からなかった。 ニコルは茶杯を持ち、すぐ後ろのテーブルに置く。 人を「聞く」。今なら何となく分かる。それは、心そのもののことを言っているのではないか。他人の心、自分の心。いずれも耳をすませれば、自ずとその声が聞こえてくるものだ。 「お待たせ」 「いや……ありがとう」 ベッドに腰掛けていた彼は礼を言い、ニコルに一脚しかない椅子を勧めた。彼女はそれを隣りに寄せて腰掛ける。 私はこの人の心に耳をすませるんだ。 茶杯をつまみ一口飲むと、彼は──ツァイレンはぽつりぽつりと語り始めた。ニコルに横顔を見せ、視線は茶の淡い黄色に注がれている。 「これも……おそらく必然だったんだろう」 それは、静かで囁くような声だった。 * 「私はジェンチンを殺した。私も死ぬ覚悟だったが、君たちに命を救われた。私は自分の命が助かったことをありがたいと思うべきなんだろう。こうして今、君と話して、息をしていることを」 しかし、とツァイレンは自らの言葉を否定する。 「頭ではそう分かっているんだが、自分に何も無くなったことが……受け入れられないんだ」 ニコルは相槌を打つだけだ。彼の心を聞くために。 「私の武道は父や兄から受け継いだものだ。それは彼らの思いでもある」 再度、ツァイレンは自らの掌をじっと見つめる。「私のせいで彼らは命を落とした。大切なことを何も話せていなかったのに、若くて世間知らずだった私は彼らを死なせてしまった。私は──聞けなかった彼らの声を武道に追い求めていたのかもしれないな」 「そこにお父さんやお兄さんの心があると?」 静かに言葉を挟むニコル。ツァイレンは頷いた。 「ああ。彼らと話せているような気分になれてね」 「そっか」 彼女は優しく微笑んだ。 「ずっとそんな風に思ってたんだね」 ツァイレンには笑顔は戻っていない。 「嬉しいな」 「嬉しい?」 「足りないって気持ちを私に真っ直ぐぶつけてくれた。知り合った頃の私みたい」 目を伏せるツァイレン。 「本当はずっとそうだったのかな。貴方はずっと亡くした人たちのことを想ってた。貴方の笑顔がいつも辛そうに見えたのは、そのせいかな」 ニコルは思い出す。拳を合わせている時、話をしている時、彼はたいてい微笑んでいた。彼女はいつも感じていたのだ。その笑顔の裏に秘められたものを。 「それで武道が出来なくなったから、自分に何も残ってないって、そう言ってるんでしょ」 ツァイレンは答えない。ただ手にした茶杯の中身を飲み干しただけだ。 「それは違うよ」 はっきりと言うニコル。 「逆の立場だったら? 私が怪我で技を使えなくなったら、貴方は私に何も無い奴っていうの? それに弟子いるんでしょ。弟子にも同じこと言うの? ……違うよね?」 「参ったな」 ぽつりと漏らすツァイレン。ばつの悪そうな顔を見せ、彼はそこでようやく微笑んだのだった。 「大鷲って言ってくれてありがと。でも私は人よ。そうは見えなくても何よりも弱い。貴方と同じ、人」 ニコルも茶を飲み、その水面に映る自分の顔を見る。自分の弱さも、もう嫌になるほど分かっている。 「人は弱いけど、何者よりも想う心がある。そうだよね?」 「ああ」 ツァイレンはうなづいた。 物思いに囚われたのだろうか。ツァイレンは手元の空になった茶杯を手の中で転がしながらそれをじっと見つめている。 「想う心、か。父や兄は今の私を見て、どう思うかな? 翠円派を守れなかったことを」 「守れなかったって誰が決めたの?」 ニコルの言葉は迷いが無い。 「貴方が居るのに終わりなんかじゃない。それにお父さんやお兄さんたちは、貴方のことが好きだったんだよ。ずっと優しく見ててくれてるよ。だって、貴方の武道が好きだったんじゃないもの。ツァイレン、貴方が好きだったの」 そのフレーズに、はっとツァイレンがこちらを見た。ニコルも失言に目を見開いたが、もう後には引けない。 「私だって……そうだもの」 口調が変わってしまう。彼女は自分の中の女を押し殺そうと、息を整えた。駄目。きっと彼は私を受け入れてはくれない。だから。 「貴方の拳、きっといろいろなもの無くしてやっと手に入れたんだよね」 彼の手に目を留め、ニコルは話を続けた。 「貴方のやってきたこと、拳から力は失われても貴方のやっときたことは無くならない。私だってそうだよ」 いつしかその言葉は自分自身の心にも染み入ってくる。「不器用で、だから尚更武術しかなくって。笑ってごまかして馬鹿な友達殴って、弱気になって……」 「ニコル」 彼女の名をツァイレンが囁いた。 「何であれ貴方は変わってない」 ニコルは言葉を紡ぐのをやめない。 「なくしたように見えてもちゃんと存るよ。あるから──」 ──苦しいのに。 頬を滴が伝った。 ツァイレンは真っ直ぐに彼女を見つめている。 「貴方が気づかせてくれたんだよ」 語尾が震える。 「貴方が──今だって、貴方がくれた心を継ぐ人がいる。私や皆がどこにいてもそれは残ってる。残ってるんだよ、ツァイレン」 彼女はいつしか立ち上がっていた。高ぶった感情が視界を滲ませる。彼の苦しみを和らげてやりたかった。彼に寄り添って支えて、もっと優しく、もっと彼を判りたかった。 「あのさ、私料理は苦手だけど、頑張って作るし稽古も付き合うよ。掃除とかだってする。分かんないけど、何だってやるよ。だから話してよ。また私を叱ってよ!」 ツァイレンも立ち上がっていた。しかしそれでも彼に言葉は無い。 「私だって変わってないもん! いつまでたってもガキで馬鹿で弱くて何も判ってない」 「ニコル」 部屋に差し込む真昼の日光が、彼の姿を照らしている。白いシャツが光を反射する、その眩しさにニコルは我に返った。 ここは何と眩しいのだろう。 それに自分は何の話をしているのか。急に羞恥心に襲われて彼女は俯き、ドレスの袖で乱暴に目をぬぐった。 「……ごめん、何やってんだろ私。帰るね」 ニコル、と彼がまた囁いた。だが彼女はそれを無視する。 「もう来ない。庭で待ってるね。いつかみたいに」 握り締めていた茶杯を置き、光が照らす自分の手を見つめた。 「木人椿借りるよ。平気、私にも使えるよ。ずっと貴方を見てたから。でもね。本当は隠身を教えて欲しかったんだ。戦いを避けた方がいい時も多いから」 好きよ。 「ニコル、聞いてくれ」 静かに、ようやく彼は切り出した。 「私は、もうあそこには帰らない」 「え?」 意外な発言に、彼を振り向く。 「旅に出ようと思っている。既に“旅人”なのに変な話だがね」 それに、とツァイレンはいつもの微笑みを浮かべる。「私を好いてくれてありがとう。ここへ来てからもずっと私を元気づけようとしてくれたね。本当に嬉しかった。君は芯の強さを併せ持った素晴らしい女性だ。だが──」 その先を言わないでと、ニコルはドレスの裾をぎゅっと強く握り締めた。 「君と一緒には行けない。君を待っている人がいるから」 夫のことだ。彼女は冷水を浴びせられたように顔を強張らせる。しかしそれは残酷な事実なのだった。元の世界では結婚を約束した人がニコルを待っている。 「そうかもしれない。でも、私だって決めたの。あの人のところには帰らない、と」 「なぜ?」 「決まってるでしょ!」 聞き返され、思わずニコルは声を張り上げた。 「貴方のことが好きなの、もう無理なの。こんな気持ちで、あの人のところに帰れるわけないじゃない!」 彼女の叫びに、ツァイレンは言葉を返さなかった。代わりに、ひたとニコルの目を覗き込んだ。その大鷲の目の中に何があるのか見つけようとするような、そんな視線だった。 もっと近くで見ようとしたのか。彼は右手を伸ばし、彼女の耳の下に差し入れた。武道家であり殺人を生業としていた彼は、今までもこうして何人もの人間の首に触れ、喉骨を砕いてきた。 しかし今。その手には、ニコルの贈った革細工の腕輪がある。彼女の首を撫でる手は、優しくて温かかった。 思わずニコルはその手の甲に自分の手を重ねた。 「なら──君はなぜ、その花嫁衣裳を? 元の世界に帰って、君を待っている人に会うためじゃないのか?」 違うよ。 ツァイレンの言葉に、照れたように目を伏せニコルは笑った。笑みを漏らしたのは、彼にまた見抜かれてしまったから。 「これは、私の覚悟が足りなかっただけ。もう──」 言いかけて、彼女はベールを外し床に落とす。「いいの。私は」 そうして自らのドレスの襟に手を触れた時、ツァイレンがその手を止めた。 彼は微笑み、ゆるゆると首を横に振った。首を撫でていた手で彼女の身体をぐいと強く引き寄せる。 ニコルは抵抗しなかった。 そこには男の広い胸があった。頬を付ければ心臓の音すら聞こえてくる。抱きしめられ、目を閉じるニコル。 「──継いでくれるか?」 小さく頷き、女は恥ずかしそうに笑う。 「うん。ちゃんと、聞こえるもの」 彼女もそっと男の背中に手を回した。 * ニコルは足早に階段を降りている。 あれから数時間が経っていた。 彼は言った。所詮、人間は森羅万象、全ての事象の中の小さな点にしか過ぎない。そんなちっぽけな点である人同士が、どういうわけか惹かれ合い、巡り合う。不思議なことだ、と。 そうかもしれない。 彼の言うとおり、自分たちは取るに足らない存在なのかもしれない。 けれど。 ニコルは今日のことを一生忘れないと、そう思った。自分でも言ったのだ。彼の技を、心を引き継ぐ、と。 もう二度と彼と会うことはないかもしれない。それでも。 ニコルは足を止め、窓から外を見上げる。 この空は必ずどこかで繋がっているのだから。 (了)
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