「うわすごいなあ、みてよ、信じられないぐらいに綺麗」「…あまり騒ぐな、ムージク」「でもユーリ、ここで二人が腰を掛けるんだって。夜には上と下の二段のベッドになるんだって。ふふふ僕はどちらでもいいけどね、上でも下でも楽しめるしね」「……」「さっきのスチュワードの人素敵だったなあ、そう思わない、眉毛がほんとに」「いい加減にしろ」(くそ) 目覚めた瞬間に、由良久秀の頭の中は不快感で塗り潰される。薄っぺらで不安定なことばの調子、いつもならもっと響きが良くて落ち着ける感覚があるものを、何だって今日はこんなにこうるさい。(ユーリ?) それは誰だ、あいつは一体誰と話している。 枕元から差し入る薄赤い陽射し、瞬きした視界に全く見覚えのない家具調度が飛び込み、寝そべった体に覚えのある振動が届いて、不快感が戸惑いに変わる。(ムージク?) 体はずっしりと重くて息苦しい。長い間眠りこけていたようだ。跳ね起きるつもりもないが、跳ね起きたくともこの調子じゃ身動きとれないだろう。 かたり、と音がして、のろのろとそちらに顔を向ける。 磨き抜かれた寄せ木細工の扉は開いている。 その向こうに小さな部屋があって、同じような天井と凝った柄のソファ、そしてその前に今しも服を脱ぎ捨て、クリーニング済みらしいパックを破って新しいシャツを羽織ろうとする、見知った顔があった。 口許に微かな笑み、珊瑚色の髪をきれいに撫でつけている。薄い緑灰色の瞳には珍しくサングラスがない。「ああ、こんなところに棚もあるんだよ、ユーリ、その荷物を僕に渡してよ。こんなことならさっきのスチュワードに頼んじゃうのがよかったかなあ」 相手の唇が開いていないのに、耳障りな大声がまた響いた。それに苛立つもう一つの声。「いい加減に黙れムージク、俺達だけじゃないんだぞ」 その声に潜む気配に、由良は思わず目を細める。それはよく知っている衝動、何度も触れて味わい確かめ、解き放った瞬間の重苦しさと集中を、とてもよく。「……目が覚めたか?」 ふいに振り返った相手が、微笑しながら声をかけてきて、由良はのろのろと体を起こした。ぼんやりとムジカ・アンジェロの唇を眺める。「どうしたんだ、妙な顔して」「……ここはどこだ」「ベニス・シンプロン・オリエント・エクスプレスによく似ているな。たぶんキャビン・スイート」「何で俺達はここにいる」「さあ?」 相手は軽やかに応えて首を傾げ、再び身支度を続ける。「確か夕べ、俺はお前と一緒に食事をした」「おいしかったね、いい雰囲気の店だったし」「お前は何かを頼んだよな?」「そうかな…そんな気もする」 ムジカはタイを丁寧に結び、由良を振り向いた。「それを俺は断った、そこまでは覚えている」 室内をゆっくりと見回す。見事な寄木細工の壁、磨き込まれたテーブル、色とりどりの酒瓶の棚。夕焼けの光を煌めかせる窓。小さなランプと可憐な一輪挿し。由良が眠っていたのは壁の端に付けられていたベッドで、ムジカが居るもう一つ続きの部屋にはクッションのよさそうな、二人分のソファがある。「何者かに攫われたみたいだな」 おれも気がついたら、ここで眠っていた。 こともなげにムジカは言い切った。「何の為に」「さあ?」 けれど、こんなものはあったよ、とムジカが寄越したカードには、今夜ディナーの後でミステリーナイトが催されると書かれてある。「ミステリーナイト?」「虚構の殺人事件を、参加者が探偵として解決するというお遊びだよ」 そろそろ行かなくちゃならない、早く支度した方がいいよ。「は?」「枕元に一通り準備してあっただろう?」 促されて振り返ると、確かにムジカが身につけているようなダークスーツにネクタイ、シャツ、革靴まで準備されている。「洗面所はそこにある。先に使わせてもらった。着替えが済んだら声をかけてくれ」 軽くウィンクして境界の扉を閉めるムジカに、由良は深く大きく嘆息した。「さて、皆様、今宵のミステリーナイトは、この列車の中で起こった殺人事件の解決をご依頼いたします」 きらびやかなシャンデリア、贅を尽くしたテーブルセットの食堂車でダークスーツのムジカと由良を迎えたのは、今夜の参加者だと言う四人の男女、それにキャビン・スチュワードを名乗るエイドリアン。女性はイブニングドレス、男性はタキシードの正装だ。「よろしく、アレックス・モーズレイです」 爽やか好青年風の男が名乗り、「妻のカーラ・モーズレイです」 隣からやや年配の女性が艶やかなサーモンピンクのイブニングドレスで微笑む。「こんばんは、ムージク・アリエフです、よろしく」 さっきから聞こえていた耳障りな声の主は目を奪うような銀髪の青年だ。「ユーリ・プロトフだ」 その隣できしむような声で名乗ったのは、これも淡い金髪の男、妙に鋭い視線をくすりと笑ったムジカに向ける。「失礼、似た名前もあるもんだなと思って」 ムジカは、にこやかに笑って次々と差し出された手を握る。「ムジカ・アンジェロです」「そちらは?」 カーラが興味津々といった顔で向けてくる視線にうんざりしながら、由良はぼそりと唸った。「久秀、由良です」「ひさひで? え、ほんとなの不思議」 名乗ったとたんにムージクが嬉しそうに笑み綻んで、くいくいと隣のユーリの袖を引っ張った。「聞いたかいユーリ、ねえ面白いなあ、同じような名前があるんだなあほんと」「同じような名前?」 訝しく訪ねる由良に、ムージクは頷く。「ユーリはね、ユーリ・ヒデヒサ・プロトフって名乗ってた時があってそれで」「ムージク」 いい加減にしろ、ゲームが進まないだろ、とユーリが窘めたあたりで、自己紹介は終わった。 ヒラメのムニエル、アンズ茸とタイ風ジャスミンライスに始まり、コロンビア・コーヒーで終わった食事は終始和やかだった。 アレックスは貿易商の仕事について表情豊かな眉を動かしながら楽しげに語り、カーラは夫がどれほど忙しいかを笑顔で付け加えた。「私との記念日もいつも忘れ去られてばかりですのよ、この旅行だって、危うく新しい契約先に負けてしまうところでしたの」「すまないと思っているよ、カーラ」 卒なく、妻の手を取ってアレックスが口づける。「いつも君ばかりに苦しい想いをさせている」「ワインはいかがですか」 慰めようとしてか、本来の仕事ではないだろうエイドリアンが、赤ワインを注ぐ。「イタリア産ですが、爽やかですよ」「あら、おいしい」 カーラが満足そうに微笑むのに、アレックスが溜め息をついて肩を竦める。「ワインでごまかされてしまうのも切ないな」「あれ、それならユーリはいつもごまかしてばかりなんだよねえ」 不躾ぎりぎりの唐突さで割り込むのはムージクだったが、「そんな風にしか考えられないから一人になる」 冷ややかにユーリが流す。「そんなことはないよ、第一あれ…」「…失礼」 反論しかけたムージクのことばを遮ってアレックスが立ち上がった。「仕事の連絡だ」「まあアレックス…ごめんなさい、皆様」 カーラが謝る姿を後ろに、アレックスが食後のコーヒーを中座し、その後一行が食事を終えてバー・カーに移っても、アレックスは戻らなかった。 やがて、あまりにも遅過ぎますね、とエイドリアンが一行から離れ、しばらくしてゆっくりとした足取りで戻ってくる。「皆様、緊急事態です」「なあに、何か起こったんだね」 妙に嬉しそうなムージクの顔に頷いて、エイドリアンは一行をカーラの部屋に導いた。そこはムジカと由良の部屋同様、キャビン・スイート、ちょうど由良が眠っていた場所にアレックスが横たわっているのを示したエイドリアンが、振り返り、微笑む。「さて皆様、ミステリーナイトの開始です。被害者はアレックス・モーズレイ。ディナーの席から仕事の電話で呼び出され、そのまま、自室で死体となって発見されました。彼を殺した犯人と動機をお示し下さい」「はいはああい」 ムージクが子どもじみた仕草で手を挙げる。「死因は? 彼はどうして死んだのかな」「毒殺です。ディナーの食事には問題がなく、アレックスが部屋で頼んだルームサービスのコーヒーから毒物が発見されました。しかし、運んだのは私ではありません。ちなみにご覧の通り、カップは二つ、同席者がいたものと思われます」「死後どれぐらいたっているんだ」 ユーリが尋ねる。「おそらくはディナーから離れて、自室に戻られてすぐにルームサービスを頼まれたものと思われます。毒は強烈な眠気を誘い、そのまま昏倒、呼吸筋の麻痺から窒息に至るものでした」「はいはあああいもう一つ、カーラは共犯?」「どういう意味ですか」「カーラの旧姓を知りたいなあ」「旧姓?」 ムージクはこくこくと頷き、促されたカーラは渋々と言った様子で、「エインズワースですわ」「じゃああ後はあ、乗務員名簿と乗客名簿を」「他の方は? 何かご意見は?」「面白いよ、ムージクの話を聞きたい」 ムジカは楽しげに頷き、由良を振り返る。「よせ、俺にはわからん」 由良は眉を寄せた。冷たいまなざしでムージクを見つめるユーリの視線も気になるが、ひょっとすると、自分とムジカを攫った人間がここにいるのかも知れないと思いついて付け加える。「だが、名簿は見たい」「では至急。その前に」 エイドリアンは微笑み、肩を竦めた。「アレックス様に起きて頂き、一休みして頂いても構いませんか? 解決を待つ間、ずっと死体役というのもご退屈でしょう」「ぐっすり寝過ぎて起きてこれないとかだったり」 ムージクの突っ込みに構わず、エイドリアンはアレックスに近づき、声をかけようとして、一気に飛び退いた。蒼白な顔で振り返り、一言。「し、死んでいる」「いやあああっっっ!」「カーラ!」 目を大きく見開いたカーラが部屋に飛び込もうとしたのを、エイドリアンがかろうじて抱きとめた。「面白いな」「面白がるな」 バー・カーに戻った一行の中、さっきまでのはしゃぎっぷりはどこへやら、急に沈み込んでしまったムージクと、相変わらず冷ややかなユーリを見ながら、ムジカはなおも楽しげで、由良は不安な視線を周囲に注ぐ。アレックスの死を知った瞬間に取り乱し人事不省に陥ったカーラは、鎮静剤を呑み、別室で眠っている。「面白いよ」 ムジカは、不要になりかけた乗務員名簿と乗客名簿を眺めている。「ミステリーナイトはムージクの独り舞台で終わったんだろうね」 楽器を触れる繊細な指先そのままに、名簿に指を滑らせて、ムジカは由良を促す。「妻なのに、わざわざ『カーラ・モーズレイ』と名乗ったことに違和感があったというそれだけで、ここに辿り着く勘は素晴しいな」「……『カーラ・エインズワース』……モーズレイじゃないのか」「その上見て」「………『エイドリアン・エインズワース』……?」「そして、ここ」「…『アレックス・モーズレイ』……だが、これは乗務員名簿だぞ?」「だから、あの部屋は、本当は『カーラ・エインズワース』と『エイドリアン・エインズワース』の部屋なわけだ。だから、『運んだのは私じゃない』」 ムジカはウィンクする。「この三人の関係が本当はどういうものなのか、エイドリアンが戻って来たら確認してみよう」「……その必要はない」 背後から声が響いて、ムジカと由良は振り返った。 エイドリアンがさきほどまでの控えめなもてなしぶりを脱ぎ去って、押し出しの強い実業家風の顔に変わっている。「妻、カーラとアレックスは…不倫関係にあった」 この旅行を計画したのも、本当は妻と、ここのキャビン・スチュワードのアレックスの関係を暴くためだったんだ。だが、信じてくれ。「私はアレックスを殺していない」「でも、機会はありましたよね?」 ムジカの問いに、エイドリアンは苦々しく顔を歪める。「それを言うなら、アレックスが席を離れた後に、あそこの二人もトイレに離れている。あなた方もそうだ」「けれど、アレックスが扉を開けなければ入れない」 由良はぶすりと唸った。「あの部屋を開けられたのはあんたとアレックスだ」「アレックスと知り合いで、今夜のミステリーナイトのことを知っていて、機会を狙える人間なら誰でも、彼を殺せる」 淡々とした声で言い放ったユーリに、エイドリアンが振り返った。その顔に容赦なく、ユーリがことばを浴びせかける。「貴方には既に動機がある。違うかね?」「しかし!」「もう一人、居ますよね、アレックスと知り合いで、今夜のミステリーナイトのことを知っていて、機会を狙える人間が」 うろたえるエイドリアンを挟んで、ムジカがユーリに微笑んだ。「でも、問題は動機だ、そうでしょう?」「……そうだとも」 ユーリは目を細めてムジカを見返す。「問題は動機だろう」 そうだ、問題は動機だ。 由良は醒めた視線で相対する二人を見やりながら考える。 ムジカと由良は攫われてきたのだ。 その動機は一体何なんだ?「次の駅には警察が待っている」 エイドリアンが深く溜め息をついた。「いずれ、全てがわかるさ」「その前に僕らが、一つの結論を見つけなくちゃならないよユーリ」 俯いていたムージクが顔を上げた。「この中にきっと犯人がいると思うんだ僕は」 可哀想なアレックス。 呟いたムージクに、ユーリは目を細めて無言だった。=========!注意!企画シナリオは、便宜上、参加枠数が「999」になっていますが、実際には特定の参加予定者のために運営されています。この企画シナリオは下記のキャラクターが参加予定です。他の方のご参加はご遠慮下さい。万一、参加予定でない方のご参加があった場合は、参加がキャンセル(チケットは返却されます)になる場合があります。<参加予定者>ムジカ・アンジェロ(cfbd6806)由良久秀(cfvw5302)=========
問題は動機だ、そうユーリには言ったけれど。 由良が小用を装った顔で出て行くのを眺め、ムジカは考える。 (動機だけで犯人の予想は立てない) どんな理由であれ人を殺すのが人だ。 「エイドリアン。犯人は筋書きを知っていた人間じゃないかと思う…どこまで知ってた?」 相手の疲れた瞳を覗き込んでムジカは尋ねる。 「話したはずだが、旅行を計画したのは私だ。ミステリーナイトがあるのは知っていた。それまでに引っ掛かることがあって、うまく利用できると考えたんだ」 苦い笑いを押し上げる。 「カーラの不貞を疑ってた?」 「目の前で妻と異常に距離を縮める男、夫の目の前で見知らぬ男に手にキスされて平気な妻、疑わない方がおかしいだろう。シナリオでは、食後のコーヒーに毒が入っていることになっていた。私がいれたのは睡眠薬だ。アレックスが眠っている間に、妻と話し合うつもりだった」 なるほど『食事には問題はない』と聞いたが『食後』のコーヒーは範囲外、毒の効果は説明されたが作用時間は説明されず、即効性か遅効性かも不明だったな、とムジカは思い返した。 「シナリオでは、『死体』を発見した時に毒をカップに入れ、部屋で殺害されたように見せかけることになっていた。あの後、カーラの枕の下を探ると『毒』と書かれた小瓶が見つかったはずだ」 「死体の状況は芝居そのまま?」 「変わらなかった」 「つまり、妻の不貞に煮え詰まった男が、ゲームの筋書きを利用して不倫相手を殺し、罪を妻に被せるという結末だったわけだね? カーラはもう話せるのかな?」 「まだよく眠っている。しばらくは話せないだろう」 「もう一つ聞いていいかな」 ムジカは連れ立って出て行こうとするムージクとユーリに視線を投げる。 「彼らとは初対面?」 「初めて見る顔だ。カーラも知らないようだった。アレックスにはムージクが親しげに話しかけていた。荷物がどうとか眉がどうとか。妻が苛立っていたよ」 またもや苦しげな笑みを広げたエイドリアンが、ふと思い出したように、 「一つ気になったことがある。ユーリという男だ。見覚えはないが、ヒデヒサ・プロトフと名乗っていたことがあったと言っていただろう?」 一瞬ためらったエイドリアンが、二人が出て行った戸口の方を見やって声を潜める。 「君は『コイン・ダンサー』という殺人犯を知っているか?」 「『コイン・ダンサー』?」 「ヨーロッパで一時期話題になった男だ。殺害現場に必ずコインを一枚置いていく連続殺人犯で、未だ捕まっていない。その新聞記事でヒデヒサ・プロトフの名前を見たことがある気がする」 『いい加減に黙れムージク、俺達だけじゃないんだぞ』 ユーリが鋭くムージクを窘める声が脳裏に甦る。あれは、ムージクがアレックスを知っていることが周囲に知られると困るからではなかったのか。 『貴方には既に動機がある。違うかね?』 エイドリアンを糾弾したのは、『手っ取り早く』他の犯人が確定して欲しかったからではないのか。 ムジカが名前を名乗ったとたん、ユーリがきつい視線を投げて来たのは、自分を追う狩人の存在を感じ取ったからではなかったか。 ふい、と無意識に首のタイに触れ、甦った全く別の映像に微笑んだ。 『旅行に出かけないか』『断る』。 間髪入れずに返った答えに、『わかった諦める。その代わりにこれぐらいはいいだろう?』そう応じた。 視線を逸らせた由良は、気づいていなかった、グラスに落ちたささやかな粉末を。飲み干して、これで縁が切れるとばかりにこちらを見返した瞳が、とろんと流れて伏せられるのに、意外に薬がよく効く体質なのだと学んだ。 苦しげにタイを掻きむしったから、優しく解いてやったけれど、ひょっとしてあのまま首を絞められることを望んでいただろうか。 『おれも気がついたら、ここで眠っていた』 ムジカのことばに瞬きする、半信半疑の訝しげな黒い瞳。 謎を解くなら助手が居なければ始まらないだろう。 「さて…ワトソンはどこへ行ったかな」 数々の小説の例に漏れず、おそらくは事件の渦中にいるはずだ。 そして、助手とは、身を挺して事件の解決に役立ってくれるものなのだ。 喉元を強く締められた気がして、由良はタイに指先をかけた。思ったほどきつくない。むしろ、シャツともどもぴったりだ。 「…」 ふと、この数時間悩み続けていたことに、明らかな正解が得られるようなそんな感覚が過った。だがそれは、掴む間もなく、幻のように消えてしまう。 不快感。面倒なことに関わってしまったという口惜しさ。 これが生きている人間ならば一気に叩き斬ることで終わるものを、相手がもう死んでしまっているあたりが二重三重に口惜しい。 手荷物を再確認したところ、カメラが入っていた。せっかく死体があるのにフィルム一眼レフカメラではなく、デジカメなのは残念だが、ないよりはましだ。 「記録とっておいて損はないだろ」 もう一度構えて構図を確認する。 カメラを見つけてからここに来るまでに、調整かねてあちらこちらを撮り、関わった人間も撮った。自室の方へ去っていくユーリ達を撮って、ユーリに異様に冷ややかな目で見返された。すぐに逸らされた視線、由良を見つけて無邪気に手を振るムージクを追い立てる、そこに再びアレを感じた。 確信は無いが、殺意だ、と思う。 ムージクの子どもっぽさや声の調子には苛立ちが募る。 さっき、素知らぬ顔で鼻歌を歌いながら背後を通っていくのを意識した瞬間、脳裏に揺らめく黒い炎が見えた。 振り返り、引き抜き、手斧を叩きつける。 一瞬だろう、躱せるとは思えない。 頭部に殴り掛かるよりは首を狙って刈るほうが確実だ。 う、ふ、ふうん、ふ、ふ、ふうううん。 耳につく五月蝿い音はすぐに消える。皮膚から染み通ってくるような悪寒の伴う気配もなくなるはずだ。 人は簡単に死ぬ。殺人は珍しくもない。しかし、殺人は罪だ。忌むべき事、隠すべき事だ。なのに今、目前に他殺死体が現れた。犯人でなくとも揺らぐだろう。 だが、あの二人は揺らいでいない。それさえも一つの自然な欲求のように振舞っているのが不愉快だ。 私欲で殺人を犯す人間となど付き合いたくない。さっさとキエロ。胸で詰った。 舌打ちして構え直す。列車内に動機不明の誘拐犯、殺人犯。落ち着かない。 数枚撮って、のろのろと訝しく、カメラを降ろす。 何だ、この違和感は。 室内を見回す。死体を眺める。 改めて見ると死体のスーツが体に合っていない。急な旅行で誂え損ねたのか誰かの贈り物か。特にシャツの首回りが合っていない。またふと大事なことが頭の隅を通り過ぎた。だが掴めない。 緊急停車する次の駅までさほど時間はかからないからと言うものの、淹れたコーヒーはそのままで、死体も発見した時のまま、なのに、現場保存のために見張りも立てないという杜撰さにうんざりする。解決する気などないのだろう。 考えてみれば、金持ち夫婦の醜聞を暴き立てるよりは、乗務員の一人が不審死を遂げた、その方が納まりが良いのかも知れない。 死因が毒なら計画殺人、容疑者の限られる列車で犯行に及ぶのは不合理だ。余程自信があるか逃げる気が無いのか。 違和感の正体を探るために調べることにした。 ポケットチーフを広げて指先を包む。接触性の毒も困るし、指紋がつくのも困る。せっかく残っている証拠を消すのも本意ではない。 顔を深く覗き込む。唇から微かな異臭がある。よくよく眺めると薄く開いている唇は一部変色しているようだ。急いで身を引きながら、変色を起こすような毒入りのコーヒーを気づかずに飲んだのかと考えて、違うと気づく。 それはミステリーナイトのシナリオだ。アレックスの死因はまだ特定されていない。 放置されたコーヒーカップを見下ろした。二つのカップはとても綺麗だ。縁が全く汚れていない。違いがあるとすれば片方の中身がやや多いぐらいか。 数分粘って諦め、死体に向き直った。 苦悶表情というよりは眠ったまま死んだようだ。出血はない。目立った怪我はない。手足の異常な屈折もないし頭部に打撲もない。死体に目立った損傷がないから、病死を除外出来れば服毒死、自殺他殺両方考えておけばいいか。だが、直前の様子から考えて、自殺の可能性は低そうだ。 ムージク達二人の顔が脳裏に浮かんだ。眉の話からアレックスが乗務員であると知っていた節がある。彼らなら犯人の条件に当て嵌り、関係性の薄さから容疑から外れるのも簡単ではないのか。 しかし、動機は解らない。 「ちっ…」 行き止まりか。手がかりがない。ユーリがムージクを殺す為連続殺人でも企んだか。そもそも、あの二人の関係がよくわからない。 『いい加減にしろ』 ムージクを牽制する冷えた声音。 『あれ、それならユーリはいつもごまかしてばかりなんだよねえ』 何をごまかしているのか、自分の中の殺意か。 『そんな風にしか考えられないから一人になる』 一人にしていないだろう、まるで影のように寄り添い付きまとい、そうして何を狙っているのか。 『貴方には既に動機がある。違うかね?』 なぜあそこまでエイドリアンを犯人だと決めてかかるのか。まるで別の犯人を知っているようだ。 動機は何だ。アレックスを殺した犯人の動機は。 「?」 腰を屈め覗き込んだ視線の先、ベッドのスプレッドの裾ぎりぎりに何か光っている。そっと指を伸ばし引きずり出して、携帯電話だと気づいた。横目で死体を見やる。 そうか。腕がだらりと垂れているのは携帯電話を握っていたのを落としたからか。画面を操作して、同じ番号で何度も受信しているのを確認する。 ごくりと唾を呑んで、リダイヤルした。 『あれ? 誰…わっ』 通話はすぐ切れた。聞いた声に由良は茫然とする。今のは間違いなくムージクだ。受信歴を確認した。正確ではないが、アレックスが中座してから数回は会話している。 まずい。 今の時点で秘密に気づいているのは由良一人だ。ユーリが駆けつけてきて襲い掛かってくるまで大人しくしてる必要はないだろう。 慌てて部屋を出ようとした矢先、テーブルに脚がぶつかった。カップが軽く跳ね、繊細な見かけに相応しく軽やかな音をたてる。零れたかと振り向いて大丈夫なのにほっとしたとたん、真横から手が伸びてぎょっとした。 「、待てっ」 突然入ってきたムジカがカップの一つを手に取る。 「音が違う」 呟いたかと思うと、その中身を洗面台に流し始める。 「おい!」 「同じカップなら、ほとんど変わらないはずなのに」 「何が……あ」 ムジカが取り上げたのは中身が多めだと感じたカップ、流した後にカップの底に残っていたのは薄茶色の小さなコインだ。ムジカが眉を寄せた。 「イギリス通貨だ。ハーフペニー……『コイン・ダンサー』…」 「コイン・ダンサー?」 「ああああ見つけてくれちゃったあ?」「っっっ!」 体中の血にウジ虫が流し込まれたような感覚に由良は飛び上がった。振り返った戸口に銀髪を真正面から掻きあげつつあるムージク、だがその顔を見定める前に飛び込んできた黒い塊、とっさにトラベルギアを取り出すのが間に合わない。 『激情の槍、雷の愛撫、幻影の一瞬に、人は歩みを止め』 「う、あっ!」 背後から朗々と歌い上げられた声、その意味に気づいてとっさに体を伏せる。由良の頭上を駆け抜ける真紅の弾丸が、美しい内装を次々砕く。効果は絶大、そして相手は判断が早かった。 「ムージク!」「あんっ!」 ムジカのすぐ近くを銃弾が貫き、死体のアレックスを、豪奢なソファを、窓際の花を容赦なく撃ち抜いた。由良達が扉の影に体を潜める間に、ユーリはムージクをひっ攫って駆け去っていく。 「待てっ」「いいよ、もう遅い」 同一空間の危険で不愉快なものは殺しておかねば後々困る。 追おうとした由良をムジカが止める。何が遅いと聞くまでもなかった。 アナウンスが次の駅への到着を告げる。減速しつつある列車の傾きが体を揺らせる。扉が開くや否や、いやひょっとすると既に、ユーリとムージクは列車から降りているのかもしれない。 「行こうか」 「どこへ」 「尋問を受ける気かい?」 「……」 二人は駆けつけてきた警察にパニックになって訴え続ける気品溢れる御婦人方やサービスと危機管理に対して声高に抗議を始める諸紳士方に深く敬意を示しつつ、騒ぎに紛れて、その場から密やかに立ち去った。 ロストレイルに乗り込む前、ムジカはアレックスの携帯に繰り返されていた番号に連絡を入れた。いつの間に、と目を剥く由良に口に指先を当てて黙っていろと示す。 「……ああ、こんばんは、ムージク?」 それとも、『コイン・ダンサー』の方がいいのかな? 『……どっちでも、いいんだよ、ムジカ』 少し遠い声が跳ね飛ぶような調子で響いてくる。重なるように唸るエンジン音、 『今はあんまり話せないかもしれないんだ、ごめんねえ』 「車…じゃなくて、飛行機か。チャーター便だね?」 『あはははあ、耳がいいんだなあそういう人、困るんだユーリもそう』 「調べてみたよ。ユーリ・ヒデヒサ・プロノフ。あんたが起こした連続猟奇殺人を追いかけた探偵だね」 若い女性が次々と背中の皮を剥がれるという事件だった。犯人を捕まえる寸前、探偵自身が行方不明になった。殺人はぴたりと止んだ。世間は探偵が自らを犠牲にして犯罪を止めたのだろうと噂した。 『けれど僕はユーリは好みじゃないんだなあ。僕が愛しているのは最高の人だから。最高の時のまま居てほしいから殺す。アレックスもあの時が最高なんだ後はだめ』 そんな風にしか考えられないから一人になる。 あの時の会話なら、ムージクへの突っ込みとしか聞こえなかったが、愛する者を殺すムージクは、おそらく永遠に一人だろう。 『けれども、僕をユーリは守るんだっておかしいよねえ。止められないのに側にいるから、時々挑戦したくなるでしょう』 その前に僕らが、一つの結論を見つけなくちゃならないよユーリ。 あれはユーリに対する堂々の宣戦布告だったというのか。 『今さあ逃げてるわけだけど、カーラを諦めたわけじゃない』 「……どういう意味?」 『あああ知らなかったんだ。アレックスのコーヒーカップに毒が入ってる。うとうとしてたアレックスの口に、僕入れたのと同じの。同じのをエイドリアンの服とカーラの水差しに入れた。水差しって、ユーリが捨てちゃったから、カーラ死にません残念でした。アレックス殺すのを、止められなかったからってカーラ守らなくてもねえ、ユーリお人好しさん。エイドリアン不倫皆殺し作戦完成だったのに』 「……あんたはユーリに挑戦するために、アレックス、カーラを殺してエイドリアンに罪をなすりつけようとしたって言うこと?」 『殺したかったのはアレックスだって。眉がねえ素敵で。愛してるなあ』 貴方には既に動機がある。違うかね。 ユーリが言い放ったのは、エイドリアンを捕縛させるためだったのかも知れない。カーラを『エイドリアン不倫皆殺し作戦』に参加させるためには新たな手立てが必要となり、少なくとも二人はムージクに殺されない。 あれ、それならユーリはいつもごまかしてばかりなんだよねえ。 探偵は自分の才能を殺人犯の保護に使い続けてきたのか。それとも、殺意を押さえられないシリアル・キラーを、間近に抱え続けることで、被害が無制限に広がることを食い止めているのか。 ムジカを見つめた鋭い視線は、ムージクの本性を暴かれてはならないという警戒だったのか。或いは、ムージクが興味を翻してムジカや由良を狙いかねないから、その意図を挫こうという決意だったのか。 『ああじゃあほんとにごめん、もう乗らなくちゃあ』 調子の外れた、甲高い、楽しげな声が、さよならもなしにぷつりと切れる。 「…結局逃げ、だな」 通話記録を消し、ムジカは呟く。 「殺してしまえばそれまでだ」 相手に二度と干渉する事が叶わなくなるが、それで満足なのか。 「一つ謎が残っていたが」 ぼそりと唸る由良に、我に返って振り向いた。 「謎?」 「俺達を誰が誘拐したのか」 アレックスの死体を見ていて気づいた、と続けられて、ムジカは眉を寄せながらロストレイルに乗り込んだ。 なぜそんなもので気づくのだろう。 後ろからついて来ながら、くい、と由良がシャツの襟を指で引っ掛けて見せる。 「見ろ、ぴったりだ。シャツだけじゃない、スーツも靴も」 誇らしげに断じられて、ますます訳がわからなくなる。 「それとアレックスの死体とどんな関わりがある?」 尋ねながら座席に腰を降ろす。 「アレックスのシャツは合っていなかった。急な旅行でカーラがプレゼントしたんだろう。……つまり、お前が誘拐犯だ」 斜め前に由良が腰を降ろす。 「えーと……」 それがどう繋がってくるのか、と考えかけて、ようやく気づいた。 由良にぴったりのシャツやスーツや靴を準備できる人間は、きっとかなり限られるだろう。 「なるほどね……盲点だったな」 続いて由良は、ごくごく真面目な顔をして、こう聞いてきた。 「理由は何だ?」 「……」 ここで『動機』の確認か? 「素直についてきてくれればこんな真似をせずに済んだ」 「……」 ムジカは、沈黙した由良に軽く肩を竦めてみせた。
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