手を伸ばす。指先が霧に溶ける。溶けた指を掌に握るけれど、掌に感じられるのは自分の指先だけ。 月灰色の瞳が瞬く。霧の向こうから自分の腕を引き戻し、何も掴めなかった掌を何度も開いたり閉じたりする。 (つかめると思ったのになあ) それほどまでに、この世界を覆い隠す霧は濃い。 頭の半ばで結い上げた長い黒髪が肩を滑る。柔らかな髪は今は水の粒子を存分に吸って重くなっている。 水を被った子犬の仕種で頭を振る。肩にしがみ付いて散らばる髪を、何も掴めなかった掌で背中に追いやる。 一歩、踏み出す。踏み出した分だけ、動く身体が生んだ風の分だけ、霧が分かれる。一歩分だけ、視界が開ける。 壱番世界のアスファルトにも似た道が地面に敷かれている。 霧に濡れた地面から、夏の日の雨の匂いがする。砕けたアスファルトの隙間から濃緑の草が生えている。霧の空に眼を凝らせば、薄墨色のビルの陰が覆い被さって来る波のように見える。 踏み出した靴が、砕けたコンクリート片を踏んだ。霧を吸って黒く染まった石灰の端々から突き出た錆びた鉄筋につまづく。声もあげず、身を庇うこともせず、派手に転ぶ。 霧が舞い散る。 「……痛たた」 アスファルトを破って繁る草の中に無防備に突っ込んだ顔を両手で押さえて起き上がる。その場にぺたりと座り込んで、 「ここ、どのあたりかな」 呟く。周りを見回しても、視界のほとんどを濃霧が覆い隠す。 どれだけ眼を凝らしても、空気にミルクを溶かし込んだような霧の中に見えるのは、壁が壊れ硝子の砕けたビル、折れて曲がった街灯、散乱するほとんど溶けた紙切れや泥に汚れた誰かの靴や服の切れ端、どこから落ちてきたのかも解らない壊れた机や椅子、錆びて動かなくなった車のような機械、それから、―― 「みんな、どこかなあ」 結い上げた黒髪を揺らして、廃墟同然の街に視界を彷徨わせる。さっきまでは皆の隣を歩いていたはずなんだけれど。はぐれないようにと仲間のひとりが手を繋いでいてくれたはずなんだけれど。 知らない間に離れてしまった掌。 霧の中に伸ばしても何も掴めなかった掌。 転んだ時に作った擦り傷に血が滲んでいるのを見つけて、掌に唇をつける。よいしょと立ち上がる。 この廃墟街のどこかに、探すべき人がいる。探し出して、保護をする。それが今回の『世界司書からの依頼』。 (……ええと、) 世界司書が話した依頼内容を頭の中に探る。名前や年格好や、保護対象の現在置かれている状況なんかを教えてもらったはずだけど。 (わすれちゃった) 身体を包む大きめのパーカーに顎を埋め、小さな息を吐く。 (出会えば、おもいだすかな) 保護対象の人と。はぐれたロストナンバーの仲間達と。 トラベルギアのカンテラを取り出し、明かりを灯す。ステンドグラスのような窓から放たれた光がふわり、周囲の霧に色とりどりの光の花を咲かせる。光があれば、霧の中でもきっとまた出会える。 霧の奥で銃声が響いた。 「わ」 ぎくりと立ち止まりかけて、前につんのめる。身を立て直すこともせず、べたんと全身で転ぶ。 一発の銃声を合図にして、廃墟の街に人の気配が湧き上がった。 伏せた頭上を幾つもの銃声が通り抜ける。濁った水の中のように視界の通らない霧の街を、何人もの誰かが走り抜ける。何人もの誰かが怒鳴りあう。撃たれたらしい誰かの悲鳴が、罵声まじりの呻きが街のあちこちで渦を巻く。 身体を貫き命さえ奪う音に、思いがけず近くで聞こえた誰かの怒声に、反射的に身が竦む。カンテラを持ったままの手で頭を抱え、蹲って身動きできなくなる。 丸めた身体の傍を誰かが駆け抜ける。間近に響く足音に、霧の中に膨らんで見える人影に、思わず息を潜める。 「灯を消して」 霧の中から細い腕が伸びて来た。黒い手袋の手が、カンテラを持つ手を掴む。 手荒く引き起こされ、中腰の格好で頭を押さえつけられる。 「目印になる」 無愛想な低い声に言われるまま、カンテラの光を消す。 「ベガ? アルタイル?」 「……え?」 霧の向こうから手袋の手の主の顔が現れる。深く被ったフードの下から霧に濡れた黒髪が僅かに見えた。 手袋に包まれた細い指先や声から鑑みて、霧に隠れたままのその人は女性であるようだ。 「どちらでもなさそうね」 彼女は独り言のように言うなり、 「頭を低く」 手を引いた。 為されるがまま、霧を巻き、引き摺られるように駆ける。霧が銃弾に引き裂かれ、けれどすぐにまた白く埋まる。銃撃を受けた誰かが断末魔を上げる。 誰かと誰かが殺め合う、紛う事なき修羅場の最中を駆け抜けながら、 (どうしてだろう) 夢の中にいるように、思う。 霧の中、顔も見えない彼女が、 (どうしてこんなに懐かしいんだろう) 知らない人に手を引かれているはずなのに、どうしてこんなに心強いのだろう。 霧の街に馴染んでいるのか、彼女は迷いの無い足取りで駆ける。彼女が大股に踏み出し先に進む度、霧が掻き分けられる。霧が流れる度、彼女の華奢な腕と背中が見え隠れする。 錆びた車の陰に身を寄せる。細い腕が伸びて乱暴に頭を抱え込まれる。 「怪我はないわね」 フードの影と黒髪に隠れがちな痩せた顎が小さく動く。ぶっきらぼうで、けれど優しさ秘めた声と言葉を酷く懐かしく感じられて、首を傾げる。 彼女の声は誰かに似ている。でも、誰だろう。知らない誰か、居ないはずの誰か。 (誰かって、だれ?) 「子供がこんな所で何してるの」 問いかけると言うよりも叱り付ける口調で訊かれ、顔を上げる。フードの頭がぷいとそっぽを向く。霧の中で繰り広げられる銃撃戦の気配を探っているのか、頭を抱えてくれている腕が僅かに緊張する。 「みんなとはぐれちゃって」 「そう」 興味のなさそうな返事が返って来る。 「名前は」 抱えられたままの頭に、彼女の体温と鼓動が伝わってくる。 (生きてる) 生きていてくれた。ふと、痛烈にそう思う。 「よく生きてたわね」 ほとんど同じ言葉を彼女が口にする。 その言葉は、自分が抱いた想いとは別の意味をなす言葉だったかもしれない。否、間違いなく違う意味の言葉だったのだろう。 けれど突然、彼女の顔が見たくなった。顔を見れば思い出すかもしれない。そう思った。何を思いだしたいのか解らないまま、彼女の腕の中で頭を動かす。途端、彼女はこちらの頭を解いた。 手を伸ばせば届く距離に居るはずの彼女の姿が霧に霞む。 「あなたの名前」 苛立つように再度問われ、慌てて応える。 「スバル」 「そう」 素っ気無い返事と共、手袋の手が伸びてくる。 「行くわよ、昴」 引き摺られるように立ち上がり、霧の中を再び駆ける。霧の向こうに高いビルの影がぬうと立ち塞がる。 「あなたの、なまえは」 彼女の隣でビルの壁に肩を押し付ける。 「ケイ」 息も乱さず囁き、彼女は昴の手を引く。窓枠ごと何処かへ吹き飛んだ元窓からビルの内側に入る。 「彗」 彼女の名前を呟いて、ちらりと首を傾げる。 (どうして) どうしてその漢字が思い浮かんだのだろう。その漢字は、その名前は、 (その名前は、……) 思いは全て霧に溶けて消える。 ビルの内部にも霧は入り込んでいた。視界を、手を引いて先を駆ける彗を、霧が呑み込む。 「ぼうっとしてないで」 「うん」 彗に叱咤され、昴は頷く。 「こっちの仕事が終わったら、あなたの仲間を一緒に探してあげるわ」 手を引く彗の声が宥めるように和らいだ。繋いだ掌に励ますように力が籠もる。 ――この掌の温かさを昔から知っているような気がするのは、何故だろう。 息苦しくなるほどの濃霧の中にあって、まるで見えているかのように彗の足取りは惑わない。不意に黒く立ち塞がる壁を避け、鉄筋が見えるまで銃弾の撃ち込まれた柱を回り込み、 「見ない方がいいわよ」 大きく開いた両開きの扉の前で足を速める。彗の掌で眼を覆われながら、昴は鉄の錆びたような生臭い血臭を嗅いだ。 「ベガとアルタイル、どちらかが消えるまで続くわね」 乳白色の霧が赤く染まるようにも感じられる、濃い血の臭いの漂う空気の中で、彗は低く吐き捨てる。 赤黒いもので斑に染まった扉の脇に、階上へと続く階段がある。彗に促され、昴は階段を登り始める。 「牽牛と織女?」 ベガとアルタイルの別名を口にした途端、手を引いて先を行く彗の背中が揺らいだ。彗が華奢な背中に負う細長い金属ケースに顔をぶつけて、昴は足を止める。 「……そう、ね」 どこか戸惑ったように呟いて、けれどすぐに彗は何事もなかったように歩き始める。対立し合う組織の名称なのだと息を吐く。 「でも、ここでは、織姫と彦星は殺し合い、奪い合うのよ」 折り返しの踊り場を時折経ながら、暗い階段は続く。左右を壁に守られた階段を上る間だけ、視界奪う霧が僅かに晴れる。 (ロストナンバー) 昴の脳裏にその名称が過ぎる。 自らを指すその名は、おそらく、彼女をも指し示す。 (そうでなければ、どうして――) 昴は十数年前にロストナンバーとなった。壱番世界への帰属を失い、身体の成長を失った。けれどそれに気付かぬまま、世界図書館にも気付かれぬまま、壱番世界で十数年を過ごした。その十数年の間に、自身の傍の人々が離れて行った。 けれど、それをそのまま全て受け入れてきた。大人になれない昴の身体を忌んだ母親や周囲の人々が背を向けたことも、人々の頭上に奇妙な数字を見るようになったことも、『居ないはずの誰か』と――両親も、自身でさえも、居ないはずと信じている、『居ないはずの姉』と行動を共にする夢を見続けたことも。目の前に広がるものをあるがままに自身の内側に受け入れた。 (いまは、) 今は、それは構わない。 失った多くのものに代わり、得たもののひとつに真眼がある。その人物が帰属する世界の階層の数字、真理数をその人のの頭上に読み取る、真理数失ったロストナンバーが持つ能力。 (いまは、ロストナンバーのひとを助けなきゃ) 彼女の頭上を見詰める。 この荒廃した世界の言葉を話し、この世界に馴染んでいるように見える彼女のその頭上に、この世界を示す階層数は見えない。 彼女は真理数を失っている。 (このひとを、保護しなきゃ) ――保護対象のロストナンバーは消失間近 依頼をもたらした世界司書の言葉が不意に蘇る。 (このひとが消失するのは、いやだ) 何か重たいものが入っているらしい金属ケースを背負い、片手で昴を引き、それでも彗の足取りは鈍らない。真直ぐに前を向いたフードの頭は揺らがない。 壁の向こう、建物の外から聞こえる銃撃の音は未だ絶えない。 銃声よりも重い爆音が響く。霧が震える。足元が揺れ、壁が軋む。転びそうになる昴の手を彗が掴み、引き寄せる。昴の頭と身体が彗の細い身体に抱え込まれる。 階下の何処かが流れ弾の砲撃を受けたらしい。階下の何処かの壁に穴が空き、全てを覆い隠す霧が凄まじい速さで階段を駆け上ってくる。 視界が霧に奪われる。 「怖くないわね」 額に彗の息が掛かる。頷けば、肩を励ますように叩かれた。傍らにあった体温が霧の向こうに離れる。手を取られ、霧に呑み込まれた階段を二人で登る。 「……うん」 ――夢を、見た。繰り返し繰り返し。 「こわくない」 おとうさんもおかあさんも『居ない』とそっぽを向いた『お姉ちゃん』と夜空を走る列車に乗る夢。 ボックス席に向かい合わせに座って、夜空に零れたミルクみたいな天の川を窓の外に一緒に見た。 太陽に光る雫のような金の星と透き通る雪のような青の星がくるくると踊るさまを見て一緒に眼を輝かせた。 緑色の首長竜が天の川の底から首を伸ばしてきて、銀色のカササギや紅い目玉の蠍をぱくりぱくりと一口に呑み込んでしまうのを見て一緒に泣いた。 夢から覚めては、夢だったのだと、お姉ちゃんは居ないのだとぼうやり途方に暮れた。こんな夢を見たと母親に話す度、母親が怪訝な顔をするのに胸が痛んで、夢も、『存在しない』お姉ちゃんのことも、心の中に閉じ込めた。 「あなたみたいな子がどうやってこの街に来たの」 「列車にのって」 問われるままに答えて、ちらりと首を傾げる。この世界に列車はあるのかな。 「この辺りにまだ動く列車なんてあったかしら」 彗は不思議そうに言って、けれどそれ以上問うては来なかった。 「昔、銀色の列車によく乗ったわ」 その代わり、思い出したように呟く。霧の向こうで話す声が、ほんの少し懐かしげに和らぐ。 「車体に赤の線が入った列車で」 彗の声と共、昴の脳裏に古い記憶が過ぎる。 夏の暑い風を纏って、銀色の列車がホームに停まる。帰ろう、と誰かの手が昴の手を引く。銀色列車の向こうに、蠍の目玉みたいな赤い夕陽。沈みかけていても眩しい夕陽が、手を引いてくれる誰かの顔を逆光に隠す。 何度も何度も通ったプラネタリウムの帰り道。一人で行って一人で帰っ来ていたはずなのに。記憶の中では顔の見えない誰かが手を繋いでいてくれる。 転びそうになるたびに手を繋いでくれた。支えてくれた。 「アンタレス」 ふと、昴の唇をその名が衝いて出た。彗がちらりと笑う。 「そうね。さそり座電車。あの子はそう呼んで――」 誘われるように応じて、彗が口をつぐむ。昴の手を握る彗の手の力が強くなる。 「……夢よ」 彗の声が凍る。 「この世界に動く列車なんてもう無いわ」 優しさを拒むように、自分に言い聞かせる。 「帰る場所なんて私には無い」 どうして、と昴が尋ねるよりも先、 彗が足を止めた。鉄錆びた臭いの扉が開かれる。 霧が雪崩れ込む。繋いだ手が離れてしまいそうな気がして、昴は彗の手にしがみ付く。 「怖いのなら此処で待っていて」 昴の仕種を、ビルの外から聞こえる銃声に怯えたせいだと思ったのか、彗は冷えた声で昴の手を解こうとする。 「ちがう、怖くなんかない」 昴は首を横に振る。結い上げた髪が左右に揺れる。 「なにを、するの」 「仕事」 無愛想に短く言い、彗は昴の手を引く。振り向かずに囁く。 「来るのなら、傍に居て」 「うん」 階段よりも更に濃い霧の中に二人で踏み込む。霧に阻まれるのか、ビルのずっと下、地上で繰り広げられる戦闘の音がひどく遠く小さく聞こえる。 錆び付いた鉄柵の前で彗は足を止めた。 「座ってていいわよ」 昴は言われるがまま、その場にぺたりと座り込む。霧の向こうで、彗が屈みこむ。金属ケースの開く音がし、何か重たげなものが幾つか取り出される。昴が黙って見詰める先で、彗は幾つかのパーツを見る間に組み上げた。金属と金属が噛み合う音がする。胸を衝くような火薬と金属の臭いがする。 「銃?」 「そう」 平然とした冷えた声が返って来る。 階下には誰かが血塗れの惨い死体となって転がっている。銃声の絶えない地上では、きっと今も誰かが暴力に曝され、血を流して死に向かっている。紙屑が破り捨てられるように、あっけなく人が死んでゆく世界。 その世界で、彼女は生き抜いてきた。帰る場所なんてないと自分に言い聞かせて。家に帰るために銀色の列車に乗ったことなど遠い夢だと信じて。 そうしなければ、すぐ隣に死が待つこの世界で生きられなかった。 霧の中で彗のぼんやりとした影が動く。霧に紛れる。 見えなくなる。 「おねえちゃ……」 お姉ちゃん。唇から滑り出そうとする言葉を掌で押さえ込む。僅かな風に霧が動き、屋上の床にライフルを構えて伏せる彗の後姿が垣間見えた。 唇を両手で押さえたまま、昴は息を殺す。 一瞬見えた彗の後姿は、今にも放たれる弓矢のような緊張感に満ちていた。 邪魔をしてはならない、と肩を強張らせる昴の耳に、小さな歌声が聞こえてくる。地上に満ちる惨劇に溶けてしまいそうな優しい詩と、どこかで聞いたことのある旋律に、昴は耳を澄ませる。 ――あをいめだまの 小いぬ、 ――ひかりのへびの とぐろ。 (星めぐりの歌) すぐに思い当たる。自身の世界の歌。プラネタリウムの帰り道、夕空を仰いでよく唄った、懐かしい歌。 ――オリオンは高く うたひ 歌声を辿れば、彗の背中に行き当たる。細く高く、どこまでも優しく、彗は小さな声で口ずさんでいる。 (私と、同じ世界の人だ) 霧の中、確信に至る。 彗は、私と同じ世界で生きていた人だ。私と同じ旋律で、私の好きな詩を唄う人だ。 そう思った途端、胸が温かくなるほどの安堵に包まれた。 「……大くまのあしを きたに」 彗の歌に合わせ、小さく声を合わせる。 「五つのばした ところ」 彗の声が僅かに震え、 「小熊のひたいの うへは」 微笑む。 「そらのめぐりの めあて――」 最後の一節を二人で詠い終えた瞬間、空から風が降った。風は光を纏った蛇のように空を踊り、半壊したビル群の間を駆け抜ける。深く蹲る白い霧を渦巻かせ、空の彼方に吹き払う。 天から青空の光が舞い降りると同時、 傍らから銃弾が唯一度、放たれた。 静かに息を吐き出し、彗が身を起こす。霧を晴らす強い風が、彼女が被ったフードを肩に落とす。肩の辺りで断った黒髪が風に踊る。 荒廃した世界から、傍らに立つ昴へと、彗は顔を向ける。青空に浮かぶ月のような、同じ灰の色した二人の眼が合う。 「私は、あなたを」 晴れた空を背に、昴は彗に手を伸ばす。 「迎えに来たんです」 終
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