報せは、『電気羊の欠伸』と至厳帝国、双方へ向かったものたちからもたらされた。 曰く、トコヨの棘は、五百年前にディアスポラし、転移した先のシャンヴァラーラに取り込まれてしまった強大な神が絶望と憎悪、怨嗟のあまり遺した感情の残滓であると推測されること。 ロストナンバーとなったそれはすでに消失の運命を迎えており、シャンヴァラーラに残っているのは、版画の如く世界に刷りこまれた負の感情、すなわち『トコヨの棘』であるということ。 世界計の欠片の保持者であるカイエ・ハイマートは、ロストナンバーによって目覚めさせられた至厳帝国皇帝クルクス・オ・アダマースの説得もあって、現状において棘を沈黙させる唯一の手段であった『無数の血と命を各【箱庭】に注ぐ』という方法を断念したこと。 また、カイエに融合し、彼を変質させていた破片は、ロストナンバーによって切り離され、カイエは一命を取り留めたこと。消耗は激しいものの、現在、クルクスが手ずから作成した最新鋭の義手を喪った左腕の代わりに得て、回復は順調であるらしいこと。また、彼から切り離された破片は、同じくロストナンバーのお陰で白紙化から免れ、黒羊に覚醒させられた黒の夢守・一衛によって粉々に砕かれて、シャンヴァラーラの各地へ飛び散ったこと。 そして、砕け散った破片は、各【箱庭】の『深部』へ到達し、それぞれの【箱庭】に眠る『トコヨの棘』に突き刺さり、その存在をシャンヴァラーラの住民たちにも明らかにしたこと。棘は、一定の手順を必要とはするが、人間の手でも除去が可能になったこと。 それらを伝え聞き、赤眼の司書、贖ノ森火城は即座にチケットを発行し、ロストナンバーたちに呼びかけた。「『トコヨの棘』の回収に、協力してもらいたい」 火城の物言いはシンプルだ。「回収の手順はそう難しくない。――いや、だからこそ難しいとも言えるかな。そう、『トコヨの棘』が突きつける負の感情と向き合い、己の中にあるそれと折り合いをつけることが出来れば、棘は力を失い、回収することができる」 棘は、それぞれが、今は名も姿も失せて久しく、誰ひとりとして記憶にとどめていない旧神の、多様な負の感情を閉じ込めている。 棘の力に取り込まれると、それぞれが司る感情、己の中に眠るそれが増幅され、我が身を傷つける力となって返ってくる。その感情を整理し、見つめ、対処することで、棘は無効化され回収が可能になるという。「帝国の『深部』に眠る棘は『憤怒』、『電気羊の欠伸』に眠る棘は『絶望』、華望月のヒノモトには『猜疑』が眠っている。その他、細分化された負の感情が、その他の【箱庭】にも棘となって残っているようだ」 瞋恚、悲嘆、怨嗟、哀惜、苦悩、侮蔑、諦め、劣等感、嫉妬、驕り、無力感、自己不信、自己否定。 その他、ありとあらゆる負の感情を宿した棘が、それぞれの【箱庭】の――すでに棘が取り除かれた竜涯郷を除く――『深部』に根付き、【箱庭】を破壊すべく、発芽の時を待っている。「【箱庭】を、シャンヴァラーラを破壊しようという意思なき意志は、もはや何ものであったかも判らない旧い神の、恨みと無念、憎しみの結果なんだろうな」 火城は、それぞれの【箱庭】に眠る棘の、司る感情をリスト化したものを人々に手渡しつつ、忠告を口にする。「感情は常に心とともにある。我々が得られるものが、よい記憶、経験ばかりではない以上、回収は口で言うほど簡単ではないだろう。シャンヴァラーラの人々も、回収に乗り出しているが……油断は禁物だ」 至厳帝国のクルクス、ロウ。 『電気羊』の夢守、覚醒しロストナンバーとなった一衛。 ヒノモトの武将たち、竜涯郷の竜たち。 その他、事情を知ることとなり、協力を申し出たすべてのシャンヴァラーラ住民が、ロストナンバーとともに、棘の回収に従事することとなる。「ひとりで赴くのでも、協力し合うのでもいい。結局のところ、それは自分との戦い……いや、語らいかな、我が身を見つめる旅でもある。――どうか、武運を。そして、あんたの見つめる己の中に、幸運と未来があるように」 祈りのような静謐さを保ちつつ、火城がチケットを差し出す。 人々は頷き、どこか使徒のごとき敬虔ささえにじませながらそれを受け取った。 ――世界の未来が託される。 運命の時は、刻一刻と迫っている。====================このシナリオは、ロストレイル13号搭乗者決定以前のできごととして運営されます。====================
1.苦悩 ロストレイルを降りた瞬間から、吉備 サクラは誰かに呼ばれ続けているような錯覚に囚われていた。 それが誰なのか、何なのかは判らない。 ただ、自分は呼ばれているのだと、行かなければならないのだと、それだけを強く強く感じていた。 「……おい、あんた、大丈夫か」 ここに来られたことが奇跡に近いくらい、サクラの状態はよろしくなかった。 人間が怖い。人の声、視線、表情が怖いのだ。当然、同じ依頼を受けた旅人たちともまったく同調できておらず、ロストレイル内でも皆からは離れて座り、また相手の眼を見て話すなどもってのほかだった。 人が近づくと身体が震えた。 アキ・ニエメラが声をかけてくれたのは、明らかに彼女の様子がおかしかったからだろうが、それすらサクラには恐ろしかった。 「いえ、あの、だいじょうぶ……です」 ぼそぼそと小さい声で返す。 胸中に、たぶん、と付け加えると、アキは何かを察したかのようにそうかとうなずき、彼女から離れた。 (大丈夫。これだけ、他の人がいたら、私が失敗しても、きっと大丈夫……大丈夫だから) 出発前、ターミナルで友人からもらった琥珀のブローチを握り締め、何度も自分に言い聞かせる。 今回の依頼を受けるよう勧めたのは彼女だった。 パワーストーンの考え方では、琥珀には、人間が本来持つ自己治癒力を増し、心身のマイナスエネルギーを吸い取って、プラスエネルギーを与える力があると言われているらしい。精神を安定させる効果があるとも、心を落ち着かせ沈めてくれる効果があるとも言われているのだそうだ。 太陽のエネルギーを含んでいるとかで、心身に元気のないときには生命力を高めてくれ、気力を湧かせてくれるのだという。 (過去の恐怖心や罪の意識を楽にしてくれて、不安や絶望感を取り除き、生きる喜びを与えてくれる、って……) そういうものを見つけ出し、ブローチに仕立て、サクラに贈り――押し付けて、ともいう――この世界へと送り出した彼女のバイタリティには感心せざるを得ないが、今さら琥珀のひとつやふたつで、自分自身が改善されるとは、サクラ自身、思えずにいる。 (失敗したいわけじゃないの……失敗したら、この世界の人たちに迷惑がかかるもの。だけど) しかし、成功するとも思えない。 失敗は許されないと、手のひらに汗をかくくらい緊張していても、自分が責務を果たし、達成し、成功できるヴィジョンを見出すことが出来ない。――達成したくて頑張った依頼ですら失敗するのだ。何度も何度も、失敗したのだ。 (ごめんなさいごめんなさい) 始まる前から、サクラは誰かに謝っている。 (失敗しても許して下さい……他の人はきっと成功してくれるから。ごめんなさいごめんなさい) もはや、己のこのありようが、変えられるとも思わないのだ。 「……」 そんな彼女を、アキはじっと見ていたが、 「アキさん、どうかした?」 枝折 流杉に声を掛けられて、何でもねぇと首を振った。 流杉は溜息をついている。 「……ディアスポラも、ここまで来ると頭が痛いよ」 「だな」 「本当に」 やれやれと言わんばかりの言葉に、アキと、蓮見沢 理比古が同意した。 「別に、その憎悪の残滓で世界を滅ぼそうとすることを身勝手とは言わないけど。もう消えちゃった相手に対して、言えることは何もないし……その神さまの苦しみが、僕に判るわけでもない」 「そうだね。その神さまが、本当に負の感情だけの存在だったかどうかなんて、これがその神さまの本意であるかどうかなんて、もう誰にも判らないんだから」 流杉は頷いた。それから、思案するように遠くを――視線のずっと先には、ゼロ領域がある――見つめる。 「……もう消えた相手、か」 「ん? どうかした、流杉さん?」 小首をかしげる理比古へ首を振ってみせ、 「いや……案外、アレグリアに行ったらいるかも、とか思って」 「あ」 「いや、それを調べるのはあとだ。まずは、棘を回収しなくちゃ」 流杉は、自分が向かうべき【箱庭】の位置を確認する。 「そうだね」 理比古もまた、自分の担当する【箱庭】についての資料に目を通している。 「この世界に幸せであってほしい。世の中には理不尽なことがたくさんあるけれど、だからといって不幸であれなんて誰も言わないよ」 あと少しで大団円が訪れるという確信を、理比古はこの世界に対して抱いている。 「耳を傾けよう、ひとつひとつの感情に。暴き立てられるものは、すべて真実だから。否定しても、拒絶しても、なにも始まらない」 だからこそ、額に汗して回収に努めようと思うのだ。 そうだな、とアキは頷き、 「たぶんこれが、俺の旅の締めくくりになる、そんな気がする」 モニタのごとく、『空』に各【箱庭】の様子が映し出された不思議な光景を見上げる。 夜女神ドミナ・ノクスの端末が御座す、ロストナンバーや元旅人たちのために設置された、世界の『外側』にもっとも近い無人の【箱庭】である。各【箱庭】に遺された棘の種類と傾向が調べ上げられ、手元の資料に列挙されている。 劣等感、孤独、苦悩、罪悪感、諦め。 書き出されたそれらは、アキが幼少期に味わった諸々の感情だった。 しかし、それらを見つめるアキの眼差しは穏やかだ。 「家族は俺が怖くて、嫌いだった。俺は、どうしてあの人たちはそんなに俺のことを嫌うんだろうって思ってた。どうせ俺なんかって思ってたし、寂しかった。苦しかったし、普通の子どもじゃなくてごめんとも思ってた。最後にはあきらめが勝って、何も感じなくなった」 「うん」 「けど、もういいんだ。俺も、あの人たちも悪かねぇ。残念だけど、縁がなかったってだけのことなんだ。俺は俺で、幸せにやっていける。あの人たちだって、幸せにやりゃあいい。そういう気持ちで、棘と向き合うよ」 「……うん」 アキの辿り着いた透徹に、頷く理比古の眼はやさしい。 「ふむ……」 ロウ ユエは『空』のモニタと手元の資料を代わる代わる見比べながら思案していた。 「どうしたの、ユエさん」 「悩みごとでも?」 黒燐とユーウォンが交互に問うのへ、 「なに、確かに単純だが、そのぶん困難な任務だと思っただけだ」 指先で資料を軽く弾いてみせる。 「だが……幾度も訪れ、たくさんのものを得、見知った者も、世話になった者もいる世界だ。このまま、黙って見ているわけにはいくまい」 そうだね、と黒燐が頷いた。 「僕、シャンヴァラーラが好きだもの。各【箱庭】が好き。【箱庭】によって文化が違うから、面白くて好き。――多様性は世界を強くするし、きっと救うよ。種族と同じ。生き物の、世界の強さを僕は信じるし、だからこそ護る」 きっぱりと言い切った彼の姿が、ほんの一瞬、若木を思わせる青年の姿へと立ち戻ったように見えたのは、旅人たちの目の錯覚だろうか。 黒燐はふふふ、と悪戯っぽく笑った。 そこには、何の不安も恐れも存在してはいない。 「だから、僕はここに来たんだよ。破壊なんて、させないから」 「――棘が突きつける感情に向き合い、折り合いをつける……か」 「難しいよね。心の傷なんて、簡単に消せるものじゃない。刻まれた憎しみは、容易く捨てられるものじゃない」 「だが、棘を無力化し取り除かなければ、【箱庭】は蝕まれいずれ砕けて滅びる」 「それは、とおい未来のことじゃないって皆が口をそろえるよね」 「持っている感情を増幅するんだったな。自覚のあるもののほうがいいか?」 「そうかもね。慣れていれば、冷静になりやすそうだもの」 「……故郷で抱えていた覚えのある感情が多いな」 あまりありがたくはないが、これならどこへでも回収に行ける、とユエは肩をすくめた。それから、やけにわくわくとした様子のユーウォンを不思議そうに見やった。 「楽しそうだな」 言うと、彼は悪びれない様子で頷いた。 「不謹慎かもしれないけど、おれがこの依頼に手を挙げたのは好奇心からだよ。ずっと、他の世界の竜と会いたかったのに、うっかりしてて竜涯郷には行けずじまいだったから」 ユエはなるほど、と苦笑する。 参加の理由など人それぞれであればよいのだ。 それが、世界を救う力の一端になれば何の問題もない。 「お互い、助けが要るかどうかなんて判んないけど、協力できたら嬉しいよね。だって、心強いだろ?」 「そうだな」 そこでしばらくの沈黙があって、ふたりは、アキと理比古と流杉が連れ立って出ていくのを見ていた。 肩を落とし顔を伏せたサクラが、【箱庭】間の移動に使われる丸い乗り物の扉をくぐるのを見ていた。 「――おれは気紛れで、感情もじっとしてない。俺たちはそういう生き物だから、留まり続ける感情っていうものがよく判らない。今、おれの中にある暗いものってなんだろ?」 「ユーウォン自身はどう思うんだ」 「わかんない。から、おいおい考えるよ。――行こうか」 そのころには、黒燐も、狙いを定めた棘へと向かっている。 * 黒燐が選んだのは『苦悩』だった。 彼とて、酔狂で長く生きているわけではない。 酔狂で五行長のひとり、『黒燐』でいるわけではない。 この【箱庭】の、純白で彩られた『深部』は、背筋を凍てつかせる冷気と、思考を煮え立たせる熱気とを伴っていた。奥へ奥へと進むうち、心の中に、凝縮された感情が流れ込んでくる。それは黒燐の足取りを知らず知らず重くしたが、彼はものともせずに進んだ。 「ああ、判るよ……目覚めようとしているんだね。辛くて苦しくて、ひとりじゃ抱えきれないから、どうにかして気づいてほしいって叫んでいるのかな」 黒燐の脳裏には、闘技場で妹と向き合った過去の映像が浮かんでいた。 棘は、黒燐の中にある苦悩を暴き立て、貫き、糾弾する。 「……うん、知ってる。もしかしたら、『黒燐』には、彼女のほうが相応しかったかもしれないって」 黒燐位に就くための最終試験で、妹の成美と戦うことになった。 妹は優秀な女性だったから、北都のためを思えば、どちらが『黒燐』になるべきなのか、黒燐は――加茂計斗は苦悩した。おそらく、妹も悩んだだろうと思うのだ。彼らは、仲のよい兄妹だったので。 しかしながら、結局のところ、それが答えだった。 「生きていれば、確かに悩むよ。そんなの、どうしようもないことだ」 眼を開けば、そこには、沈鬱な血の色をした、成人男性の腕ほどもある赤い赤い棘が、純白の岩場に埋もれるように突き立っている。それは拍動し、ゆっくりと明滅していた。焦燥感をかきたてる、ぼんやりとした光だった。 しかし、黒燐に恐れはない。 「だけど、それこそが前へ進む一歩の助けになるんだよ。だって、進もうとしなければ、苦悩することもないんだもの」 最終試験は、激しい戦いになった。 兄も妹も、互いに手を抜かず、一歩も退かなかった。 「あの時? 手を抜くことも彼女に失礼だからね。そりゃ、全力で戦ったよ」 そして、勝利したのは計斗だった。 加茂家の異端児は黒燐となり、北都の守護者となった。 「僕はそれ、後悔してないから。苦悩は僕の糧だった。苦悩が今の僕をつくった。――否定なんかしない。それも、自分の一部だから」 確信とともに言い、棘へと手を差し伸べる。 「僕はこの苦悩を肯定する。すべて、受け入れるよ」 とたん、赤い棘の明滅は止まり、それはふわりと浮かび上がった。 泣き出しそうな――なぜか黒燐にはそう思えたのだ――赤の棘が、黒燐の小さな手に収まる。 「――よかった」 黒燐は微笑み、次なる棘へと向かう。 2.諦め 流杉は砂漠の【箱庭】の『深部』にいた。 乾いた【箱庭】の『深部』には、やはり乾いた光景しか存在せず、そこは静かで静謐で、そして孤独だった。水のない世界の幽世は、かさかさと乾いていて、どこか潤いや豊かさを諦めているようにも見える。 「諦め……か」 流杉には、この【箱庭】に巣食う棘が判る。 「それは、僕の近しい隣人だった」 0世界を訪れる前の数百年間、流杉の生は、ふたつの感情を軸にした旅路によって成り立っていた。 そのひとつが、この諦めだった。 一歩踏み出すたび、からからに乾いた回廊の隅々まで高らかな音が響く。 足音はひとつきり。 すさまじいまでの孤独が、そこにはあった。 「故郷での僕は、色も心も殺して、意に反する絵を描き続けた」 しかし、流杉の心は、静かに凪いでいる。 実を言うと、先ほど、アレグリアの獅子獣人型ロボットから連絡があったと十雷が教えてくれた。 すわ一大事かと身構えたら、何のことはない、絵が完成したから見に来てほしい、という、のんきでのんびりとしたお知らせだった。自分と鴉猫と流杉の三人を、住民や夢守たちといっしょに、アレグリアのうつくしい風景の中へ塗り込んだ、やさしい絵が描けたのだと、声は弾んでいたという。 そのことを思い、次にアレグリアへ訪れる段取りを考えると、自然、流杉の唇には笑みが浮かぶ。 「絵を描くことを恐れたまま、無限の世界群へと投げ出されたね」 当ても、途方もない旅路、終わりも希望もない旅路を往くことになった。 「……もしも僕が、この道を辿らず、誰とも出会わなかったとしたら、今も、この旅路を、意味も意義もない無駄な寄り道だったと考えて、すべて諦めていたかもしれない」 歩みを止めた流杉の、視線の先には、沈鬱で禍々しい赤の色をした棘が、脈動を思わせる不吉さで明滅している。 それは、流杉に、もう何もかも諦めてしまえ、内へ内へと埋没して希望など捨ててしまえとそそのかしてくる。 ――しばらく前の流杉なら、その『声』に屈していたかもしれない。 生きていることは無意味で、無駄で、虚ろだと、もう『何もない』場所へ眠ってしまえばいいと、すべてを放棄していたかもしれない。 そしてそれは、きっと、安堵すら含む無であっただろうとも思うのだ。 しかし、流杉はくすりと笑う。 「残念だ。だって……今は、違うんだよ」 携帯電話を取り出し、撮り溜めた風景を表示する。 それらは色鮮やかに、時に激しく時に柔らかく、やさしく厳しく、流杉の視界を彩った。そこにあるものが、諦めをはじめとした、暗く重苦しい何かばかりだったとは、流杉には思えないし、言わない。 「そうだ……僕の旅路は、負の感情ばかりによって成り立つものではなかった。今なら、はっきり言える。僕の旅は、確かに必要だった。今、ここにこうして立つために、どうしても必要なことだったんだ」 別離の、喪失の哀しみは、いつでも流杉に諦めを連れてくるだろう。 けれどその諦めを、哀しみを負って生きるのは、何も流杉だけではないのだ。誰もが、世界を旅しているのでなくとも、生きる限り、出会いと別れを繰り返し、得ては失いながら進むしかない。 そしてその進む先で、救いと呼ぶに足る光明を得ることも、あるのだろう。 「僕は、後悔していない。もう、何も恨まないし、憎むこともしない。僕は僕をまっとうし、この道を進むよ」 アレグリアへと転生し穏やかな生を楽しむ獅子型獣人の笑顔と、今日もアレグリアへ入り浸っているかもしれない鴉猫のはしゃいだ姿を思い起こしつつ、きっぱりと言う。 彼らとの出会いと別れ、再会で、孤独な、虚しい旅路に思えた流杉の命は、鮮やかな彩りと歓びを孕んだ。 「僕は、諦めには屈しない。それがたとえ、どんなに甘美だとしても」 流杉がそう断言すると同時に、棘は光を失って萎れ、そのまま彼の手へ収まった。 ものがなしく項垂れたそれを手に、流杉は黙祷めいて眼を閉じ、もはや『どこにもいない』何かのために祈った。 そして、次なる棘へと向かう。 * 理比古は、棘を回収するさなかに立ち寄った小さな【箱庭】で、至厳帝国皇帝クルクス・オ・アダマースと、その側近のロウと鉢合わせていた。 「あれ、もう動いてもいいんですか」 クルクスもロウも、長い間世界計の破片の影響下に置かれていたはずだ。 ロウなど救出された直後は相当衰弱していたとも聞くが、双方、その疲労やダメージなど微塵も感じさせない様子である。 「こいつのことなら、問題ない。頑丈なだけが取り柄だ」 「それは一ヶ月近く帝城の屋上に野ざらしにされた俺に向ける言葉として適当なのか、なあ」 「捕まるお前が悪い」 「あっやばい殴りたいこの皇帝」 「出来るものならやってみろ、返り討ちにしてやる」 どこまでもいつも通りのクルクスとロウに、理比古はくすくすと笑った。 「華望月の人たちが、協力を申し出てくれたって聞きました」 「尾ノ江と奥ノ洲の頭領が皆を説得してくれたようだ。彼らには、もう、何十年も前から世話になりっぱなしだ」 「……今回のことで理解が進んで、棘の脅威も取り除かれたら、もう争わなくていいんですか?」 「そうだな、後片付けさえ済めば」 その『後片付け』という言葉に潔いほどの不吉を感じ、理比古は思わず声を上げていた。ロウが一瞬、哀しげな表情をしたのも、理由のひとつかもしれない。 「でも、皇帝陛下もカイエさんも死なないでほしいです、俺は」 「……」 クルクスが理比古を見つめる。 ロウは、何とも言えない表情で理比古と皇帝を交互に見比べている。 「責任を取りながら生きるって、とてもたいへんなんだと思うんです。死んでしまえって思う人がいる中で生きるって、すごくつらいことだから。でも、生きていれば、大好きな、大切な人の幸せな顔が見られるんじゃないかなって。それは救いになりませんか」 しばしの沈黙が落ちた。 人間に、他者の生きかたをどうこうする力も資格もありはしない。 クルクスが、本当に、自分の命でもって責任を取ろうとしているのなら、理比古がそれを推し留めることはできないだろう。彼の死が、一定の安定をもたらすであろうこともまた、事実だからだ。 「……そうだな」 しかし、ややあって落とされたその言葉に、理比古は確かな肯定を聞いたような気がするのだ。 3.憤怒 トラベラーズノートには、各【箱庭】へ向かった面々から、着々と棘の回収が進んでいる旨の連絡が入っていた。 棘の状態そのものは不安定で、まだまだ楽観視はできないが、そこに希望が存在することを誰もが感じ取り、額に汗して【箱庭】を行き来している。 ユエもまた同じだ。 別に、義務があるわけではない。ただ、この世界が、もはや消えた神の、感情の残滓によって滅びることをよしとはしたくないだけだ。ここで出会ったもの、見出したものを尊ぶ気持ちが、ユエに棘へと向かわせるだけだ。 そんな中、ユエは、とある『深部』で黒燐と行き逢っていた。 「意外そうだね」 黒燐がくすりと笑う。 「……そうだな。君は、なんというか……そういう感情とは、無縁のようにも思っていた」 「でも、実を言うと、僕にとっては身近な感情なんだよ。――北都の統治者『黒燐』としては、何もおかしなことじゃない」 資料によると、この『深部』に眠る棘が司るのは『憤怒』である。 心の晴れぬ怒り、やり場のない腹立ちと言葉にしてしまえば他愛ないものになるが、それはずっと、ユエの中にあるものだ。 「……弱いものから、衰弱してゆくのを見ているしかなかった」 ぽつりとしたつぶやきは、胸の奥にじりじりと燃える、感情の熾火を揺さぶるかのようだ。 「手の施しようがない仲間が死にゆくのを、腕に抱いて見送るたびに……俺は俺の無力さ加減に、この感情を抱いていた」 人間の生きる場所などわずかばかりしか残されていない、厳しい故郷だ。 「判っているんだ。本当は、ひとりで背負うべきではないということも。俺だけが苦しみ、無力感に憤っているわけではないということも」 棘が、ユエの中にあるそれを暴き立て、増幅しようとしていることが判る。 しかし、ユエの内面は静かで、むしろ彼は哀しみさえ覚えているのだ。 「無力感に憤ること、それのみに埋没すれば、気持ちは楽になるかもしれないが、結局のところそれはただの逃避だし、無責任でしかない」 生き別れた彼の守役も、ユエを喪ったと思った時、おそらく抱いたはずなのだ。それはユエの特権ではなく、また、彼ひとりのものでもない。 「怒りは活力源だと思う。――それに、飲み込まれさえしなければ」 黒燐は頷いた。 彼は、どこか楽しげですらある風情で、笑っている。 「君は、落ち着いているんだな。君の感じる憤怒と俺の感じるそれは、違うものなんだろうか」 「それを真実だと思う?」 「……いいや。万が一そうだとすれば、ますます判らなくなると思った」 正直に言うと、黒燐が軽やかな笑い声を立てた。 「僕はこの感情を恐ろしいとは思わない。連れ立って歩くべきもののひとつにすぎないと思っているよ」 「だが、そのために荒ぶり過つこともある」 「そりゃあね、生きているからには、ひどく怒ることもあるよ。だって、僕たちには、心があるから。心がなければ――愛していなければ、怒ることだってないもの」 黒燐の物言いには揺らぎがない。 「希望の存在を信じている。自分にもまだ出来ることがあると知っている。だからこそ、怒りや憤りを、『それだけ』のままにはしない」 覚醒の際、強大な力を持った敵に手足をもぎ取られた。 その時、偶然ながら、ユエの望む未来のための仕込みは出来たのだ。 「俺は未来を信じる。怒りは、俺の隣人として、共にゆくだろう」 ふたりの視線の先で、棘はすでに、明滅を止めている。 * アキもまた、すでにいくつかの棘を回収していた。 叩きつけられる負のエネルギーに、優秀なテレパシストであるアキの精神はひりひりと痛んだが、彼はそれを苦しいとは思わなかった。むしろ、それらのつらい感情を、慈しむように受け止め、見つめていた。 「……不思議だな。こんなふうに思えるようになったことが不思議だ」 彼に関わる負の感情の、大半は実の家族に関することだった。 彼を恐れ、彼を棄てた家族のことは、長くアキの中にわだかまる澱だった。 実の親でありながら、生まれつきESP能力を有していたアキに怯え、嫌い、ついには軍へと売ったふたりのことを、アキはほとんど諦め、関心すら抱かずに――想えば想うほど、辛くなるのは自分だったから――生きてきた。 しかし、覚醒し、同郷の友と出会い、彼と生きるにつけ、アキの中で『家族』は意味を変えつつある。 「今、こうやって話せるのは、今の俺が充足の中にあるからだ。それが判る」 アキが今、向き合っているのは『孤独』の棘だった。 今や何ひとつとしてそれの存在をあかしだてることのない、消えてしまった旧い神の残滓は、アキに、たったひとりのお前に生きる意味はあるのかと問い、芯まで冷える孤独を見せつける。 父も母も弟も、自分を不要な化け物として扱った。 あの家に、彼の居場所はなかった。 「縁ってやつだ、仕方ねぇ」 しかしもはや、アキにわだかまりはない。 もはや二度と会うことはないだろう家族への恨みも憎しみも諦めも、愛されなかったがゆえに染み付いた孤独も、すべてアキからは遠い。 「真実の意味でひとりじゃないやつなんていない。俺たちは孤独な旅の真ん中で誰かと出会って、その縁を喜ぶんだろう」 『深部』の最奥で、拍動し明滅する狂おしげな赤い楔を見下ろし、つぶやく。 その赤は、なぜか胸に迫った。 「何でも出来る神さまが、何にも出来なくなって遺したのがトコヨの棘なのか。その神さまのことはもう誰も判らないんだな」 アキは、邪神に近い存在であったにせよ、消失の運命などという寂しい終わりかたを回避できなかった神を憐れんでいた。 「俺には救ってくれる存在がいた。神さまと俺なんて比べられねぇけど、救われなかったあんたを気の毒に思う」 ゴウエンにこの神がどんなモノだったか漠然とでも判らないか尋ねてみたところ、おそらく、鬼神であるゴウエンに近しい存在だっただろうという返事があった。 「ひどく荒ぶって誰かを苦しめるようなこともあったのかもしれねぇけど。それでも俺は、同じロストナンバーとして、あのターミナルで、あんたと出会ってみたかったよ」 しんみりと言葉を落とせば、それに呼応するかのように棘はちらちらと瞬き、光をなくして、アキの手の中に納まった。 次の【箱庭】へと向かうさなか、クルクスとロウに行き逢った。 「お」 ふたりが元気そうなのを見てとり、アキは安堵の息を吐く。 最新鋭というバトルスーツに身を包んだ皇帝は、世界計の破片から受けた影響など想像もできないほど、頑健そのものの様子だ。その傍らにはロウがいて、彼の抱えるプロテクトボックスには、いくつかの棘が収められていた。 「よう」 片手を上げて挨拶すれば、鷹揚な頷きが返った。 「カイエはどうだ?」 「順調だ。精神的には不安定なのか、私が見舞いに行くとよく泣くが」 「いやそりゃ嬉しくてじゃねぇの」 「こいつの顔が怖いだけだろ……いってぇ!?」 「陥没しなかったか……残念だ」 「陥没してるほうが残念だよ! おまえ今の俺じゃなかったら脳挫傷の勢いだからな!」 苦労人の空気を漂わせるロウに苦笑しつつ、アキは自分が回収した棘を差し出す。 「あいつがあんなに必死になったんだ。あんた、あいつのためにも死んでやるなよ」 言うと、沈黙が落ちた。 少し経って、皇帝が小首をかしげる。 「先ほど、理比古にも言われた。お前たちはまったく、お人好しだな」 「で、どう答えたよ」 問いに返事はなかった。 しかし、アキは見たのだ。 スマートでありながら頑健なヘルメットの内側で、皇帝が緩く微笑むさまを。 こりゃカイエはまた泣くかもな、でも嬉し泣きは幸せなことだ、などと思いつつ、アキは次なる【箱庭】へと向かう。 4.嫉妬 そのころ、ユーウォンもまた、別の【箱庭】へとやって来ていた。 この世界には――というか帝国には、【箱庭】間を素早く移動する便利な乗り物があって、ユーウォンはそれに揺られてきたのだが、蚕豆のようなかたちをしたそれに乗っている間、彼はずっとひとつのことを考え続けていた。 【箱庭】へと降り立ち、『深部』へと向かいながらも、彼の脳裏を占めるのはそのことだけだった。 「なんだっけ……これは、なんだっけ」 ぶつぶつとつぶやきながら、より深い場所深い場所へともぐってゆく。 骨まで凍てつく冷気と、脳を蒸発させそうな熱気の双方が、ユーウォンを四方八方から包み込んだが、彼にとって『変化する』ことは根本的な在りかたそのものだ。彼は変化を柔軟に受け入れ、対処する能力に長けている。 そのため、環境の変化にはまったく頓着していないユーウォンだったが、彼は逆に、その特質ゆえ、自らの内へ残り続ける感情というものには疎い。 「ああ、そうか」 ようやくそれが何なのか判ったとき、すでにユーウォンは棘と対面を果たしたあとだった。 「そうだ。この前、この世界に来た時に感じたやつだ。これは、妬みっていうんだ」 棘は、ユーウォンの前で哭いている。 うらやましいうらやましい妬ましいうらやましい。 どうせどうせどうせどうせ自分には。 うらやましい妬ましい口惜しいうらやましいうらやましい。 「そうなんだ」 ぽつりとつぶやく。 脈動し、明滅する棘をじっと見つめていると、むしろ愛しいような気持ちにすらなった。 この棘は、ユーウォン自身だ。 彼は、来るべくしてこの世界へと来た。そして、この【箱庭】にも、来るべくして来たのだ。 「どうしてなんだろう? どうして、俺には理解することが出来ないんだろう」 とてつもなく熱くて激しいのに、当たり前の日々の幸せの中にあるという気持ちが。ニンゲンを死ぬほど苦しめ闇に落とし、逆に絶望をはねのけ、なのに何気ない挨拶の中にも宿っているという想いが。――ニンゲンどころか、竜涯郷の竜だって当たり前に知っているというのに。 「おれは理解することができない。わかる、ということが出来ないんだ。本当は判りたい。理解したいと思うのに」 だからこそ棘の慟哭が判る。 悔しくて羨ましくて妬ましい。 理解できない感情ばかり見てきたはずなのに、胸の奥が痛くて痛くてたまらない。 「……どうしてだろ。いつもなら、ほっとけばこの痛みもすぐにどっかへ消えるのに」 ユーウォンの中のねじけた嫉妬は消えそうもない。 それどころか、どんどん、ぐんぐん大きくなる。腹立たしさと哀しさが、四方八方からユーウォンを締め付け、締め上げる。 「ああ、どうしてなんだろ。おれはいったい、どうしちゃったんだ」 くやしいくやしい、うらやましいねたましいうらやましい。 理解できない、手に入れられないものなら、いっそ、と、思考が極端な飛躍をすることのおかしさに、ユーウォンは気づけていない。 「壊してやりたい」 ぼそりと、怨嗟にも似た声が漏れた。 「誰かの大事な想いなんて、俺には関係ないんだから。いっそ、壊してみたら、判るかもしれない」 心にはかたちがない。 かたちを持って存在しているわけではない。 そのくせそれは繊細で、やわらかくて、一度粉々になってしまえば、元に戻すのは至難の業だ。そのくらいは知っている。壊せばどうなるか、知っているつもりではいる。 けれど、ばらばらに砕かれてしまった、誰かの大事な想いを見下ろせば、理解できない苦しみ、もやもやも、少しは晴れるのではないかと思ったのだ。 「それに」 ユーウォンの眼に、ぎらりとした荒々しい光が宿った。 そこに、禍々しい赤が映り込んでいたのは、錯覚だろうか。 「どうせ、壊されたヒトの気持ちなんて、おれには判りっこないんだから!」 頭を抱えて叫んだところで、 「待て待て、早まるな」 「極論にもほどがある」 ふたつの声が降ってきて、いきなり頭に衝撃が来た。 がつん、というそれは、瞬間移動でここまで飛んできたアキとユエの、拳骨からのものであるらしい。 「――ッ!」 けっこうな衝撃に、頭を押さえて蹲る。 しかし、それでようやく、自分の思考のおかしさに気づくことが出来た。 「おれ、引きずられてた……?」 「ああ。気づいたはいいけど俺ひとりじゃここまで飛べなくて、ユエに力を貸してもらった」 「……その、ありがとう」 「まあ、お互い様というやつだ。頭は冷えたか?」 「うん、そうだね。冷えたっていうか、思い出したよ」 ユーウォンに理解できない感情は確かにある。 けれど、自分とは違う種族や、自分の故郷とは違う世界、そういったものと交わり、関わるのがこんなにも楽しい理由は、結局のところ『自分が持っていない不思議なもの』に惹かれるからなのだ。 ユーウォンは惹かれるということが出来る。 「代わりに持っているモノがあるはずじゃないか。そうだ、ないはずがない」 小さなつぶやきは、アキにもユエにも聴こえなかったようだ。 しかし、ユーウォンはそれで納得し、すとんと落ち付いた。 「……異界の竜たちも、同じような気持ちで、ニンゲンに惹かれるのかもしれないな」 では、ここに遺された嫉妬の棘は、もしかしたら、その世界では邪神と呼ばれた何ものかの、自分にはないものへの憧れであったのかもしれないなどと思えば、奇妙な親近感すら湧いてくる。 「この神さまと、話が出来たらよかったな。おれたちは、もしかしたら、いい友だちになれたのかもしれない」 苦笑交じりにつぶやくと、棘はまるで同意するかのように数度明滅し、それから光を失って、ユーウォンの手の中へと納まったのだった。 5.絶望 サクラは『自己否定』の棘のもとに来ていた。 否、自主的に訪れたというよりは、『声』に呼ばれてふらふらと引き寄せられた、というほうが正しい。 黒々と沈黙した孤独な『深部』の最奥で、不吉に明滅する棘は、禍々しい真紅をさらし、佇んでいる。 棘を見つめていると、心の奥底から『それ』が湧き上がってきて、胸が苦しくて立っていられなくなった。棘の傍らにうずくまり、頭を抱える。食いしばった歯の奥から、弱々しい謝罪の声が漏れる。 「ごめんなさい、ごめんなさい」 一年間、溜め込まれてきたものが、ここにきてあふれ出たかたちだった。 生きていてごめんなさい。 苦しめてごめんなさい。 死ぬすべさえみつけられなくてごめんなさい。 おそらくこの邪神は、本当に邪悪なだけの存在ではなかったのだろう。さもなくば、こんな、自分を何もかもなかったことにしてしまいたいなどという感情を、遺すはずがないのだ。 言葉も立場も考え方も違っただろう。 それでもこれは、今のサクラが抱いているのと同じ感情だった。 「飲み込まれる」 つぶやき、ぎゅっと眼を閉じる。 「……楽になれる?」 それは甘美な誘惑だった。 けれど、同時に、残された理性が阻む。 自分は楽になるかもしれない。でも、残された人たちは? ここに遺された気持ちは? いったいどうなるのだろう。なにもかも、なかったことに出来るのだろうか。――なかったことにしていいのだろうか。 「判らない。もう、本当に、何も判らない」 それでもサクラにはまだ、責任を果たし、依頼を成功させなくてはという意識があり、それは自己否定や終焉願望に勝っていた。 だからこそ、彼女はそれを口にしたのだ。 「ねえ」 震える唇で言葉を紡ぎ、震える指先を差し伸べる。 「いっしょに行こう? 私はまだ動けるから、いっしょに他の方法を、場所を探しに行こう?」 それは解決方法ではないのかもしれなかった。 しかし、それは確かに、サクラが示し得た善意だったし、誠意だったのだ。 「……ねえ?」 今にも崩れ落ちそうな身体を懸命に支え、差し伸べた手の先で、棘はゆっくりと明滅を止め、動きを止めた。 * 彼らが最後に辿り着いたのは、奇しくも至厳帝国の『深部』だった。 棘の大半はすでに回収され、おそらくこれが最後の棘になる。 そこに根差した棘の名は『絶望』。 おそらく、多くのロストナンバーが経験し、今も胸のどこかに持ち続けている感情だった。 あまりにも馴染みの、重たく激烈な感情であるがゆえに、全員で向かって飲み込まれてはまずいということで、現在、四人と主従のふたりは『深部』の入り口で待機している。 「……大きいな」 それを見つめ、ユエがつぶやく。 「うん。神さまはそれだけ絶望していたのかな」 「あとは……皇帝さんも、無意識に絶望しそうになっていたとか。そういうの、吸収してそうじゃないか、これ」 「そうかもね。根本において理解されない戦いは、孤独で苦しいだろうから」 理比古が頷き、流杉は思案の顔をした。 帝国『深部』に眠る棘は、すでに数メートルもの大きさに育っていた。 近づくほど身を切る冷気と思考を灼く熱気とがひどくなり、悪寒と汗、双方を連れてくる。そして、近づくほど、彼らの胸には重苦しい嘆息がのしかかるのだ。 ああ、ああ、ああ、ああ、ああ。 それは溜息をつきつづけている。 ひといきごとに、歓びや希望といったものが零れ落ちてゆくような、哀しく狂おしい溜息だ。 「……この感覚が、俺には理解出来る」 ユエがぽつりとつぶやき、己が掌を見下ろした。 「どうしたの、ユエさん」 「少し無理をすれば、民が安心して暮らせる土地を得る、まあ要するに奪い取ることになるわけだが、それは可能だ。偶然、可能になった」 「うん」 「……だが、仲間や民が死に絶えていれば、それも無意味だ」 「そうだね……」 仲間も民も、護るべきもののすべてが夜都によって滅ぼされ、従者もまた喪ったとしたら、ユエはきっと、命のすべてを投げ打って、一体でも多く夜都の民を滅ぼすべく行動するだろう。それはきっと、激しいばかりの憤怒と、絶望によって彩られていることだろう。 「理比古、君が集めた棘は何だった」 気をそらすようにユエが言い、理比古は指折り数えて羅列する。 「恐怖、悲嘆、孤独、辛苦、だったかな」 「……どう思った」 問えば、理比古からは、透徹した笑みが返った。 「今まで生きてきた中で、その感情は俺の隣人だったからね。特別否定することも、拒絶する必要もないって思ったよ。それに、今の俺はとても幸せで、俺の中にはあたたかくて強いものがたくさん溜め込まれたから」 言って、理比古は棘を見上げる。 「大丈夫、俺はきみを受け止められる」 言葉は、ありとあらゆる負によってかたちどられた、不吉な真紅へと向けられたものだった。 ユエもまた頷く。 がんがんと、物理的な圧力すら伴って攻め立ててくる絶望の声、暗闇の中へ沈んでゆけとばかりに叩きつけられるそれに屈することなく、真っ直ぐに前を見る。 「己の無力も力不足も知っている。今さら、絶望など」 まだ、ユエは何もしていない。 実際に仲間を探したわけでもなく、彼らの生死をこの目で確かめたわけでもない。 「俺は、約束は護る。託されたものを放棄しない。折れることも屈することもよしとはしない。――それはすべて、俺を信じた仲間を裏切ることにほかならないから」 そしてそれは、結局のところ、ユエの存在意義をも危うくすることだった。 「仲間を裏切る俺なんて、俺じゃない」 己が故郷の厳しさを知っている。 「どれだけ可能性が低くてもいい。あいつらが生存していて、再会すること、合流できることを信じている。信じると、決めた」 それでもユエは、旅人として覚醒し、疑わずに行くことを学んだし、決めた。 「残念だが、その声には、応えてやれない」 おうおう、おうおうと棘が哭いている。 それは、胸を貫く悲痛を伴っていた。 「たくさんの負の感情といっしょに消えるしかなかった神さまは気の毒だけれど、シャンヴァラーラに罪はないから」 理比古が、棘に向かい、両手を広げた。 「それは元々、どれもが俺たちのものだった。俺たちをかたちづくる、大切の要素にすぎなかった。今さら否定なんてしない」 見目のよい唇が、やわらかな微笑みのかたちをつくる。 眼差しは、確かに慈愛を含んでいた。 「――おいで、いっしょに行こう」 そのすべてを受け入れるから、そう言外に告げる理比古の透徹は、彼が愛し、おそらくは彼を憎み同時に愛した義兄たちとの確執に、一定の整理がついたゆえのものだっただろう。 そしてそれらは、確実に、棘へと届いている。 あああああ、あああああああああああああああああああ! 唐突に棘が絶叫し、慟哭し、懊悩する。 びりびりと『深部』の大地が震え、大気は凍った。 強大なエネルギーの波動を察知し、身構えるユエと理比古の前に、流杉はすっくと立った。 「判る」 彼の言葉には凛とした響きがある。 もはや、昏い眼をしただけの、哀しげな『物好き屋』はそこにいない。 「今なら、判るよ……今なら、映し出されたすべての風景を描ける」 彼の手には、何本もの筆が握られていた。 「そうだ……ワールズエンド・ステーション、その道がつながれば、その地でも、また」 手の中で、くるりと筆が躍る。 踊った筆が、うつくしい、七色の極光を描き出す。 それは天女のヴェエルのごとき優雅さで宙を舞い、泣き叫ぶ棘をやわらかく包み込んだ。 ああ、ああ、ああ。 あああああ、ああああああああああああああああ。 「聞いて。今の僕には、描きたいものが両手じゃ抱えきれないほどあるんだ。この欲求とエネルギーを無為にするつもりは僕にはないんだ。だから、過去に消えた神さまの残滓や、そこから生まれる絶望に屈することはできないんだ」 ユエが、極光にトラベルギアの茨を重ねる。理比古もまた、トラベルギアの小太刀から浄化の青い火を生み出し、極光へと重ねた。エネルギーをもらい、オーロラはますますうつくしく光り、幻想的に辺りを照らし出した。 揺れを察知したのだろう、仲間たちがこちらへやってくるのが見え、流杉は頬を緩める。 そして、高らかに宣言するのだ。 「ひとまず、これで終わりにしよう」 くるり。 絵筆が踊り、星空を描き出す。 煌めく星々は、棘を、慈しみ抱くように包み込んだ。 棘の慟哭が、心なしか和らぐ。 「願わくば……あの街で、あなたの、長い長い旅の話が聴けるように」 微笑む流杉の目の前で、棘は極光と星の煌めき、光る茨と青い炎によって少しずつ縮んでゆき、――やがて、彼の掌に収まるくらいの小さな楔となって、ころん、と地面に転がった。 万が一に備えて控えていた仲間たちから歓声が上がる。 皇帝とロウが計器を操作し、何かを確認して頷き合うのが見えた。 流杉が棘を拾い上げ、労うように、慈しむように撫でてからロウへ差し出したところで、 「……あれ、流杉さん、それ」 理比古が彼の頭上を指差した。 「え?」 小首をかしげる流杉は、じきに知るだろう。 彼の頭上に、シャンヴァラーラの真理数が、ぼんやりと浮かび始めていることを。そして、彼と同じ出会いと別れ、再会を経験した鴉猫の頭上にも、同じものが浮かびつつあることをも。 どの道が選ばれ、つながってゆくのかは、まだ誰にも判らないことながら。 こうして、シャンヴァラーラでの、堕ちて消えた神を発端とし、五百年に渡って【箱庭】を蝕み続けた――のちに『トコヨの棘事変』として編纂され、残されることになったという――、一連のできごとは終息を迎える。 帝国に回収され、厳重に保管されている棘は、一定の安定を見、ここから少しずつ時間をかけて、浄化してゆくことになるという。 無論、すべてが解決したわけではなく、こじれねじれた感情や関係の糸を解きほぐす、厄介な仕事はあちこちに残っている。帝国は、皇帝は、各【箱庭】への説明を余儀なくされ、また、不穏分子が消えることはないだろう。 そうでなくとも、世界の、【箱庭】の各地で争いは起こり、理不尽な死や痛み、哀しみが尽きることはないだろう。 それでも、世界の滅びは回避され、正常な未来の軌道に乗った。 ――あとは、生きている人間たちが、やっていくだろう。
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