オープニング

 万象の果実・シャンヴァラーラ。
 元ロストナンバーの夜女神が、対たる太陽神とともに創り上げたそこは、【箱庭】と呼ばれる小異世界が連なって出来た異世界であり、その中で、もっとも特異な進化を遂げたと言われているのが【電気羊の欠伸】である。
 壱番世界の技術力から換算すれば四十世紀以上という、遠未来とでもいうべき文明を持つそこは、無機から発生した無数の生命と、それらに付随する諸々の不思議にあふれた場所だ。
 同時に、電気羊と呼ばれる極彩色の獣神と、夢守と呼ばれる強力な代理戦士たちによって護られた、帝国による問答無用の侵攻に揺れるシャンヴァラーラで唯一、武力によって平らげられる恐れのない、奇妙だが平和な【箱庭】でもある。
 最近、タグブレイクという技術によってとあるロストナンバーの青年が飛ばされてきたことから交流が始まり、特に夜女神ドミナ・ノクスと近い【電気羊の欠伸】には、ちらほらとロストナンバーたちの姿が見られるようになっている。

 永遠に自己増殖を続ける『層』=構造体の連なりによってかたちづくられた【電気羊の欠伸】の一角に、光沢のある黒と静かな銀で彩られた森がある。
 何故かここだけは、胸を締め付けられる鮮やかな夕焼け色をした空の――むろん、擬似空である――下にあるそれは、まるで、黒曜石と黒水晶、ブラックオパールを組み合わせて彫り出した樹木に、銀と白金の葉を飾りつけ、わずかなサファイアで陰影をつけたかのような、幻想的で美しい、どこか物悲しい森だった。
 【電気羊の欠伸】の生命は殆どが無機物だが、それを知らされておらずとも、木々が『生きて』いることは、それらが時折、内部に光を孕んだ果実を実らせるところからも判るだろう。
 果実は甘く芳しい……どこか懐かしい芳香を放ち、森を訪れた者の心を捕らえて放さないのだという。そして、果実を手にしたものに、『あの日』の幻、あの日の思いを見せるのだという。
 ここは、黒羊プールガートーリウムが支配し管理し、その化身一衛(イチエ)が守護する、想彼幻森(オモカゲもり)という名の場所だ。
 かのひとを想う、あの日の幻と出会うための。
 数多の記憶、無数の想いが実るという静謐な森に足を踏み入れれば、入り口から少し行ったところに聳え立つ、樹齢で言えば三千年を超えるのではないかという黒き巨木の傍らで、
「ん、来たのか」
 彼、最近ではこの想彼幻森の案内人のようになっている青年、明佩鋼(アケハガネ)=ゾラ=スカーレットが、物静かに訪問者を出迎える。
「いい時に来た」
 ゾラは不吉な緋色の目で訪問者たちをぐるりと見やり、わずかに口元を綻ばせた。いつも哀しげな眼差しをした彼には珍しい表情に、何かいいことでもあったのかと誰かが問えば、ゾラは淡い光の瞬く森へと視線を流し、
「この【電気羊の欠伸】にも新しい年というのは来る。年に一度、年を越す前に、想彼幻森は果実の大掃除とでも言うべき『整理整頓』を行うんだそうだ。だから、この時期、森へ入ると、普段よりも望む果実と出会いやすくなるらしい」
 そう言って、あまり焦るつもりはないが、ほんの少し期待している、と言葉を締め括った。
「あんたたちも、見たい記憶があってここに来たんだろう。なら、今回は、少し奥まで行ってみるといい。特に、『整理整頓』の最中は、黒羊も化身もよく周囲をうろついている、何か手伝ってくれるかもしれない」
 彼らは呼べば来てくれることもある、と付け加えてから、ゾラはまた、いつもの、生真面目で物悲しげな目をした。
「ただ、やはり、気をつけるに越したことはない。ここには、あんたが忘れたかった記憶も、なかったことにした想いも、あんたが思いも寄らなかった、誰かのあんたへの想いも、きっとどこかに実っている。心を掻き毟るような他人の哀しみも、心が砕けそうになる激しい怒りも、きっとどこかに落ちている」
 見たいと、出会いたいと望んだ記憶の果実に救われるか、更なる痛手を被るか――その果実との邂逅が吉と出るか凶と出るかは、誰にも判らないのだ。
 そう、それを手にする本人にすら。
「――あんたが何を見つけるかなど、俺には計り知れないが。果実に――果実のもたらす記憶に、飲み込まれないよう気をつけることだ。別に先達ぶるわけじゃない、単純に、俺自身が、何度も危ない目に遭っているというだけのことで」
 記憶の奔流に呑まれて自らを見失いかけたものは、大抵、一衛が拾い上げて、外の領域に放り出してくれるのだそうだが、
「何度も言うが、あれは恐ろしく大雑把だ。却って痛い思いをすることもある。だから、重々気をつけてくれ」
 何度かそんな目に遭っているのだろう、彼に真顔で忠告されては、頷くしかない。
「まあ、それでも」
 ゾラが、森の奥を見つめて微笑む。
「あんたたちの魂をよき方向に震わせてくれる、そんな邂逅を祈っているよ」
 俺が、自分自身にもそう祈るように。
 そんな言葉とともに、森の中へと踏み込んでゆくゾラの背を見送って、旅人たちもまた、めいめいに歩みを進める。
 あちこちに、光を内包してあかくあおく輝く美しい果実が見える。
 しかし、魂が囁くのだ。
 これではない、と。
 自分のために実り、自分を呼ぶあの遠い日の果実。
 その、たったひとつを求めて、旅人はゆっくりと足を運ぶ。
 それが、よき出会いであるよう祈りながら。

品目シナリオ 管理番号1118
クリエイター黒洲カラ(wnip7890)
クリエイターコメント皆さん今晩は、今年最後(推定)の通常シナリオのお誘いに上がりました。

こちらは、オリジナルワールドでの一名様用シナリオ『たそがれの果実』の番外編となっております。全体の雰囲気などは、過去に公開された作品をご覧いただけると幸いです(強制ではありませんが、その方がプレイングなどは書きやすいかも知れません)。

数多の記憶の果実がみのる幻想の森で、しっとりと静かに、誰かのことを想いながら年の瀬を過ごしてみませんか。特に、年越し前の『整理整頓』中の今は、お望みの果実と出会いやすくなっているようです。

あなたが出会いたいと望む思いの果実とは、いったいどんなものなのでしょうか。
それは、やさしいものですか、かなしいものですか。
やわらかい、甘い想いですか。
重苦しい、冷ややかな懊悩ですか。
その果実を探しに、たそがれの中を歩いてみませんか。

無論、果実はあなたに真実を突きつけ、揺さぶり、飲み込むことでしょう。その時、あなたはどうするのでしょうか。前へ進むための糧に? 喜びの欠片として? ――それとも、受け入れられず暗闇に飲み込まれ、夢守に手荒く救出されるのでしょうか?
選択は様々です。

ご参加に当たっては、
・想彼幻森を訪れた理由、心境
・PCさんが出会いたい記憶の果実
・それを見つけた時の反応
などを自由にお書きいただければ、と思います。

あまり他PCさんとの絡みのない(絡みをご希望の場合はその旨をプレイング内にお書きください。必ずとはお約束できませんがなるべく対応します)、プライベートノベル要素の強いシナリオですので、プレイングはなるべく詳細だと嬉しいです。いつものことながら、プレイングによっては登場率に大きな偏りが出ることもありますので、それぞれご納得の上でご参加くださいませ。
更に、キャラクターシートなどに記載のない事柄に対する捏造率もかなり高いですので、捏造の可・不可をどこかでお知らせいただけますと幸いです。


なお、拘束力はありませんが、なるべくたくさんの方に入っていただきたいので、最初の二十四時間は(例え枠が埋まっていなかったとしても)1PLさんにつき1PCさんのエントリーでお願いしたく思います。口うるさいことを申しまして大変申し訳ありません。

※プレイング期間が少々短くなっておりますのでお気をつけ下さい。


それでは、たそがれに佇む静謐な森の中で、皆さんのおいでをお待ちしております。

参加者
東野 楽園(cwbw1545)コンダクター 女 14歳 夢守(神託の都メイムの夢守)
理星(cmwz5682)ツーリスト 男 28歳 太刀使い、不遇の混血児
ディーナ・ティモネン(cnuc9362)ツーリスト 女 23歳 逃亡者(犯罪者)/殺人鬼
アルティラスカ(cwps2063)ツーリスト 女 24歳 世界樹の女神・現喫茶店従業員。
ダンジャ・グイニ(cstx6351)ツーリスト 女 33歳 仕立て屋
ルイス・ヴォルフ(csxe4272)ツーリスト 男 29歳 自称・大神の末裔
ロボ・シートン(cysa5363)ツーリスト 男 27歳 獣兵
ツヴァイ(cytv1041)ツーリスト 男 19歳 皇子
玖郎(cfmr9797)ツーリスト 男 30歳 天狗(あまきつね)
木乃咲 進(cmsm7059)ツーリスト 男 16歳 元学生

ノベル

 1.果実は囁く

 ごぉ、お、おおぉ――――んんん。

 どこかから、鐘の音が聴こえて来る。
 否、鐘に似た何かが音を立てているだけなのかもしれない。
 ただ、それは荘厳で、それでいてどこか物悲しかった。
「除夜の鐘、とかいうやつか……? この【箱庭】にそういう風習があるのかどうかはさておき」
 ロボ・シートンは、静謐な森の中をゆっくりと進みながら、黄と朱の交わる空を見上げ、呟いた。
「遠い過去の記憶、か……」
 ただの擬似でしかないというたそがれ色の空は、しかし、ロボの胸に深い感慨をもたらす。
「……あの頃はよかった」
 つい年寄りめいた口調になってしまうのは、そう思わざるをえないような壮絶な戦いを、彼と彼の一族、そして同胞たちが繰り広げてきたからだ。
「あの、戦いが始まる前までは」
 『ファーブルの遺産』と呼ばれる化け物たちとの激しい戦いは、死に瀕して覚醒し、異世界間の旅人となった今でも、ロボの記憶の中に深く刻み込まれている。
 しかし、覚醒した今では、家族も友も、同胞たちも、どうなってしまったのか――生きているのかすら判らない。
 愛した大地も、群も、一族も。
 いずれ必ず戻ると心に誓いつつも、ロボは、それらの記憶を懐かしみたいと思って想彼幻森を訪れたのだった。
「ん、この匂いは」
 森の奥深くへ分け入るうちに、彼の鼻腔を懐かしい草の香りがくすぐった。
 彼が生まれ、暮らし、戦った、あの草原の香りだ。
 呼ばれている。
 そう思い、足を速めたロボは、静謐な樹の枝先にそれを見つけた。
「……これか」
 見上げた先に実る、それはまるで、彼が日々駆けた草原のような、鮮やかな緑色をしていた。
 樹の幹に前脚を掛けて後脚で立ち上がり、鼻先で果実に触れる。
 と、
「ああ……あれは」
 果実に触れた途端、ロボの脳裏を、草の香りとともに幾つもの記憶が駆け抜けていった。

 まだ幼い灰色狼のきょうだいたちが、ころころと転げまわって遊び、食べ、眠り、少しずつ大きくなってゆく。
 成長し、日々をともにした群を離れ、放浪を始める青年狼。
 やがて見つけた別の群に合流し、新たな営みを始める頃には、彼はすでに今のロボになっている。
 妻として迎え入れたのは、真っ白な美しい狼。
 彼らはいつものように群で生活し、いつものように、命をつなぐための狩りをして、食べて、眠り、生きた。
 生まれた子どもたちは、灰色と白の毛皮を纏っている。
 すくすくと子どもたちが育ってゆき、日々は繰り返され、生命とはこのまま永遠に巡ってゆくもののことを呼ぶのか、そんな風に思っていた頃、『アレ』との戦いが始まった。

「……そうだった、な」

 動物が知恵と言葉を持った、彼の故郷。
 狼の『シリウス』、熊の『ポラリス』、虎の『ティグリス』、獅子の『レグルス』たちによって平和が保たれていた世界。
 しかし、いつからか、東の辺境からやってきた昆虫人と呼ばれる存在との戦争が始まり、ロボたち動物勢は苦境に立たされていた。
 ロボもまた、その戦いで、心臓を矢で貫かれ、命を落としたものと思っていた。
 結果的には覚醒し、ロストナンバーになったのだが。
「懐かしいものを、見たな……」
 気づけば、ロボは、鮮やかな緑の果実を前に佇んでいる。
 鼻腔をまた、故郷の緑と土のにおいがくすぐり、彼は目を細めた。
「戦争さえなければ、などと言ったところで無意味だが」
 元の世界へ戻ったところで、待つものが例え再びの死であろうとも、彼は、誇り高き灰色狼としてその生をまっとうし、戦い抜くだけだ。
「それにしても、子どもたちは……今頃、成長して立派な狩人になっているのだろうな。早く、戻ってみたいところだ」
 ロボは笑みとともに呟き、鼻先で果実を転がした。
 果実は瑞々しい香りをたたえて、微笑むように揺れる。

 * * * * *

 ツヴァイは自分の望む果実を探してあちこち歩き回っていた。
「覚醒してターミナルに来てから、一年とちょっと……ってトコか」
 その一年ちょっとの間に経験した様々なことを思い起こしつつ、周囲を見渡す。やわらかな、色とりどりの光が、彼の視界でちらちらと瞬いて、『誰かのためにある気持ち』の存在を教えた。
「定期的に国のコト思い出してねーと、なんか忘れちまいそうだしなぁ。俺たちの世界とか、国のことを思い出せるような果実を見つけたいもんだぜ! ……ま、その果実は多分『俺が国民に讃えられている』シーンを見せてくれるだろうけどな! なっはっはっ!!」
 誰に向けたと言うわけでもない、独り芝居にも似た大きな独語だったが、突っ込んでくれる相手も同意してくれる同行者もいないため、彼の笑い声は静かな森の中に解けて消えていくのみだ。
 それに虚しくなったかどうかはさておき、
「……まあ、何にしたって、国のことは知りてーしな」
 ふと真顔に戻ってツヴァイは呟く。
 過去の記憶にせよ、誰かの想いにせよ、ツヴァイと言う人間をかたちづくるものの一端が垣間見られればいい、そんな気持ちで森を歩いていると、唐突に、肩を叩かれるような感覚があって、ツヴァイは立ち止まった。
「……?」
 おいで。
 ここへ、おいで。
 これは、おまえのためにみのったかじつだから。
 誰かが、たどたどしく呼んでいるような感覚に、自然、ツヴァイの足はそちらへと向かう。
「これ、か……?」
 ツヴァイが辿り着いた先には、まだどこか若い雰囲気の樹があって、その枝先には、暗闇に閃くナイフのような冷たい銀色をたたえた果実がぽつりと実っていた。その果実を見つめると、他の果実には感じることのない懐かしさを覚える。
 ゾラも言っていたではないか、果実は手にするべきものを呼ぶのだと。
「よし、見つけた!」
 『国民たちの前で演説し、拍手喝采と歓声の中讃えられ胸を張る自分』の姿を期待しながら果実へ手を伸ばす。
 それへ、指先が触れた、その時だった。

(……弟は、殺してもいい)

 聞こえてきたのは、耳慣れた男声。

(だが、兄と私は、助けてくれ。私も、その子も、まだ死ぬわけにはゆかぬのだ。――代替わりが無事に済めば、私の命もくれてやる。だから、今は、片割れだけで見逃してくれ)

「え……?」
 訝しげに眉根を寄せると同時に、脳裏に自分が知るはずのない光景が閃く。
 大きな寝台が見える。
 天蓋つきのそれには見覚えがあって、すぐにああ寝室だ、と判った。
 寝室にいるのは、豪奢なマントを纏い、煌びやかな王冠を戴いた怜悧な印象の男。
 全身を黒で埋め、鋭い光を宿した目だけが覗く何者か。
 そして、どこか見たことのある、赤と青の髪をしたふたりの赤ん坊。
 ――ふたりの赤子は、黒ずくめの何者かによって片腕に抱えられ、もう片方の手に握られたナイフを首筋に押し付けられていた。

「あれ、は、まさか」
 マントの男にも見覚えがある。
 といっても、最後に見た時はもっと老けていたが。
「父上、と、兄貴と、俺……?」
 ならば、双子の命を脅かすあれは、王族を狙った暗殺者か。

(弟は好きにしろ。初めから、そのためにある命だ)

 記憶の果実の中で、父が、兄と自分の命乞いをする。
 ――弟の、ツヴァイの命と引き換えに。
 父の、苦渋の表情が見て取れる。
 決して喜んで差し出すわけではない、彼の顔はそう物語っていた。
 けれど。

「……!」
 ツヴァイがその場に固まる間に、ばたばたという足音が響き、護衛たちが寝室へと雪崩れ込んでくる。
 衛兵のひとりが暗殺者の一瞬の隙をついて双子を救出、他の衛兵は王を庇いながら暗殺者と戦い、すぐに黒ずくめの侵入者は舌打ちをひとつ残して窓からするりと出て行った。

(……)

 父王の、安堵の呼吸。
 泣きもせずじっとしていた双子を両のかいなに抱き、ふたりを見下ろす。

(……許せ)

 そこに込められた万感の思い、意味は、ツヴァイにも理解出来た。
 理解は、出来た、けれど。
「……」
 しばし、沈黙が落ちる。
 掌には、あの銀の果実が冷たく輝いている。
「……まあ、国のためを思うなら、一番いい選択肢だろうさ」
 嘆息とも諦観とも取れぬ呼気を吐き出し、自分に言い聞かせるように呟く。
「それに俺は生まれた時からスペアみたいなモンだったしな。そりゃやっぱ嫌だとは思うけどさ、別に、誰も恨んじゃいねぇよ。仕方のないことなんて、世の中には幾らでもあるしさ。……俺が覚醒してこの世界に吹っ飛ばされたようにな」
 愛されていなかったわけではない。
 愛していなかったわけでもない。
 ただ、どこか、せつないだけだ。
 己という存在の、ある種の重さと、それ以上の軽さが。
「……けど、だから、か。父上や兄貴は皆から護られてる代わりに、国には縛られてる。けど、俺は皆から護られない代わりに自由なんだ」
 否、護られていないわけでもない。
 ただ、いつでも、二番目であるだけだ。
 あくまでも、一番目の次であるだけだ。
「――決めた」
 それを不幸だとは思わない。
 自分が不幸だとは思いたくない。
 だから、ツヴァイは、果実を握り締めて瞑目し、
「俺は好きなように生きて、自分で選んだ好きな子と結婚して、好きな場所に住む。――それでいい」
 脳裏に、今一番気にかかっている少女の姿を思い浮かべつつ、厳かに宣言する。
 恐らく、父や兄には不可能であろう、自由な生き方。
 それを成し遂げることでアイデンティティとする。
 ――その程度は許されてしかるべきだろう、と、ツヴァイは思う。



 2.ナミダウタ

 東野 楽園はセクタンの毒姫とともに想彼幻森を歩いていた。
「どこに、あるの……?」
 ここを訪れた理由は、両親の想いを知りたいがため。
 今はもう、面と向かって尋ねることも出来ない亡き人たちの記憶と出会いたいがため。
「お父さん、お母さん、どこ?」
 楽園は実の姉弟が愛し合って生まれた子どもだ。
 一族の恥として、父が院長を勤める病院に幽閉されて育ち、『普通の子ども』とは無縁の日々を送っていた。
 父も母も、彼女を愛してくれた。
 掌中の珠の如くに慈しんでくれた。
 そして、最期には、彼女を逃すために命を賭けてくれた。
「ねえ……教えて」
 楽園にとって、両親は、覚醒し数十年が経った今でも思慕の対象だ。
 今でも、似たような雰囲気の、顔立ちの、年代の人々には、いつもと違う顔を見せる程度には。
 ――しかし、
「だけど、ねえ。本当は、私のこと、どう思っていたの?」
 果実を探して歩みつつ、記憶の中の父母に語りかける。
 ずっと自由に憧れていた。
 病院の外に出たかった。
 他の子と同じように学校に行って友だちを作りたかった、走って遊びたかった。
 普通の子はそうするものだと本で読んだ。
 そうさせてもらえなかったのは、自分が恥だったからなのか?
 自分が生まれて来たことは、間違いだったのだろうか?
 もはや問う相手をなくした疑念は、ぐるぐると渦巻くばかりだ。
 あの手の温もりを信じたい、優しい声を信じたい。
 ――だけど、信じ切れない。
 あのふたりが死んだのは、間違いなく楽園の所為だから。
 憎まれていたって仕方がない、そう思うのは事実だから。
「あ、」
 不意に、鼻腔を覚えのある匂いがくすぐった。
 唯一にしてすべてだったあの孤島の病院の、様々な薬品が交じり合ったような匂いだ。
 それに導かれるように歩みを進めると、
「……あった」
 あの日、両親と楽園を飲み込んだ嵐の海のような、どこか重苦しい色合いの果実が枝先に実っているのが見えた。
 逸る心を抑えて駆け寄り、手を差し伸べた、その瞬間、

(愛しいエデン。この子のいる場所こそが、私たちの楽園)

 妊娠が判った時の恐れ、怯え、戸惑い。
 それを遥かに上回る喜びと幸福。
 周囲の反対を押し切って慈しまれ育まれる命。世間の偏見と迫害から守るために隠して育てた娘。戸籍も作らず病棟に一生幽閉し、患者として遇するのが産む条件。
 たくさんの不具合を、不都合を、罪のない娘に押し付けてしまうと判っていて、それでも産みたかった。
 それでも、この想いが真実であるという証と出会いたかったのだ。

「ああ……!」
 伝わってくるのは、ただひたすらに愛しいという気持ち。
 実の姉弟が愛し合って生まれた禁忌の子。
 それが楽園であることに変わりはない。
 けれど、そんなものは垣根のひとつに過ぎなかった。
 彼女は、間違いなく、愛されていた。
 最後の瞬間まで、深く。

(護りきれなくてごめんね)
(ひとりぼっちにして、すまない)
(どうか……あなたは、楽園に辿り着いて)
(ずっと、ずっと、お前の幸せを祈っているよ)

 抱き合いながら波間に呑まれて行った両親の遺言に涙が零れる。
「会いたい……」
 ぽつりと呟いたら、嗚咽が止まらなくなった。
「ひとりぼっちは寂しいよ、会いたいよ」
 誰もいない。
 ここには、誰もいないのだ。
「ごめんなさい、ごめんなさい、お父さん、お母さん。ねえ……抱き締めて、頭を撫でて、愛して、たくさんたくさん愛して。お願い、私をひとりにしないで」
 毒姫を抱き、泣きじゃくりながら謝り続ける。
 一時でも疑った自分が、ひどく惨めで汚らしい存在のように思えて、震えと涙が止まらない。
 そんな中、掌の果実は、

(どうか、幸せに)
(そして、お前もまた、愛する人を見つけなさい)
(自分が愛される以上に、自分よりも愛することの出来る人を探して)
(それはきっと、お前を救い、幸せにするはずだから)
(交歓の幸いを、外に求めるのよ)
(私たちは、その幸いにずっと救われてきたのだから)
(愛しいエデン。どうか、幸せに。愛する幸いを、あなたも知ってね)

 やさしい微笑とともに、両親の願いと祈りを彼女に伝えた。
「愛する……って、どういうこと? 愛してって言うだけじゃ、駄目ってことなの……?」
 両親の望む楽園への道。
 そこへ至るには、足りないものが多すぎる。
「ねえ……教えて。楽園は、どこにあるの。どうすれば、行けるの……?」
 無論、その問いに応える声は、ない。

 * * * * *

「ない、ない、ない、ない、ない」
 ディーナ・ティモネンは、除夜の鐘を思わせる荘厳な音色を意識の端に聞きながら、ぶつぶつと呟きを漏らしていた。
 望む果実を求めて想彼幻森の奥へ奥へと入り込んでも、光るそれらはディーナを呼んではくれなかった。
「今、出会いやすいって聞いたのに。私が殺した、私に殺されたと思ってる人たちの、最後の記憶……百はないから、探せるかなって思ったのに」
 覚醒してずいぶん経ち、そろそろ自分と向き合うことも必要かと思って想彼幻森に来た。
 それなのに、森は、ディーナに求めるものを与えてはくれない。
「ねえ、どこにいるの、どこにあるの。どうして、見つからないの……!」
 苛立ちと、それに倍する焦燥が募る。
 変わらない、変われない、進めない、見つからない。
 ――他者につないでもらって続いた命だった。
 けれど、ならば、自分は何をつなぐのだろうかと、何をつなげば贖えるのだろうかと、思うだけで咽喉元が塞がれるような錯覚に陥る。
「殺人技術? 生きたくて人を殺すこの矛盾? ……おかしい、よね……!」
 気づけば、涙が零れている。
 トラベルギアのナイフを抱えたまま、ディーナは森を彷徨い続ける。

 首から生える刃。
 後ろから腎臓を貫き捻られる刃。
 撃たれて倒れる先頭。
 助けに向かい急所を狙撃される仲間。
 着弾するたびに洩れるか細い悲鳴。
 ハンマーで殴られるような衝撃。
 横薙ぎに乱射されるSMG。
 隠れた土管の中に降ってくる手榴弾。

 そういう世界だった。
 言葉でいえば簡単だ。
 数十年に一度の逸材なんて言われたって、それが人殺しの技術じゃ、誇れない。
「ごめん……ごめんね」
 管理官の命じる通りに訓練をした。
 かつて仲間だった相手を殺す。
 殺さなければ、殺される。
 だから、生きたくて殺した。
 何の疑問も持たずに、引鉄を引いた。
 けれど、フロアに人がいなくなって、誰も動かなくなって、初めておかしいと思った。命の理と、理不尽に、気づいた。
 ――殺した人間は、もう戻って来ない。
 死んだら、そこで、お終いだ。
 それを、自分は、容赦なく奪ったのだ。
「皆、判ってたんだよね。皆も、生きたかっただけなんだ」
 憎くて戦ったわけではなかった。
 ただ、「そうするしかなかった」だけだった。

「どうして、ないの……どうして見つからないの、どうして!」
 悲鳴のような叫びが漏れる。
 見つけて、どうするつもりだったのかと問われても、判らない。
 もしかしたら、そのまま、自分を終わらせていたかもしれないとすら、思う。
 それでも、確かめたかった。
 確かめて、向き合って、報いねばと思っていた。
「なのに……どうして!」
 ふわふわと瞬く、ディーナのためのものではない果実を、涙で霞む眼で睨みつける。
「こんなもの……!」
 手を伸ばして掴み取り、握り潰そうとしたら、
「……それは、お前が好きにしていいものではない」
 背後から伸びた、明らかにヒトではないと判る硬質な手に、手首を掴まれ、止められる。
「ッ!!」
 『あの頃』へと回帰した意識は、背後に立つものを敵と――殺すべき相手と認識し、ディーナはほぼ無意識のまま、急所めがけてナイフを繰り出したが、それは虚しく空を切り、
「我ら夢守、刃物では死なん」
 静かな声とともに、唐突に周囲に浮かび上がった破片、楔形をした、無数の漆黒に全身を絡め取られて、ディーナはその場で身動きも取れなくなる。
「何、これ……ッあ、キミ、は……」
 ひとり用簡易牢獄とでも言えばいいのか、全力でもがいてもびくともしないそれにつなぎ止められたディーナの視線の先には、性別のはっきりしない、ただそれが有機的な生き物でないことだけが判る、この森の守護者たる夢守が佇んで、表情の少ない目で彼女を見つめている。
「一衛、だっけ……?」
「いかにも」
「何で、コレ、」
「……ここの果実は、ひとつひとつが『誰か』のためにある。ひとつたりとして、乱雑に扱っていいものはない」
「う、その……ごめんなさい……」
 そのあたりでようやく頭が冷えて来て、ぐすん、としゃくりあげ、鼻を啜ってから詫びると、漆黒の牢獄は楔型の破片へと変わり、それは見る間に一衛の腕へと吸い込まれていった。
「望む果実と行き逢えなかったのか」
 静かな問いに、肩を落として頷く。
「ねえ……ひとつ、訊いてもいい?」
「ああ」
「ほしかった記憶が見つからないことだけを理由に生きることって、許されるのかな。……どうすれば、私は、向き合って、乗り越えられるんだろう」
 口にする間にも、また涙がにじむ。
 見る間にそれは珠になって、ぽろぽろと零れていった。
 ――たぶん、魂の根っこでは、後悔している。
 あの時、ああすればよかった、こうすればよかった、あんなふうに出来ればよかった、今になってそんなことを思っている。
 彼女らの在りようでは、不可能だったと今は理解しつつも。
「お前自身が許されたいと思えていないのでは、仕方がない」
 しかし、夢守の言葉は淡白で、ディーナには辛辣だった。
「それは、」
「生きるからには、存在はすべて罪を犯している。それは、どの世界のどんな存在であっても変わるまい」
「……キミも?」
「ヒトを殺すことが罪であるという観点から見れば、私は、この百数十年の間に、『電気羊の欠伸』へ侵攻して来た帝国兵十数万名を鏖殺している」
「!」
「しかし、その意味、意義を見出すものは、私でしかない。私にとってそれは責務だ。それが為されぬなら、私に意味などない。――お前はどうだ、ディーナ・ティモネン。殺したこと、犯した罪のみで、お前は終わるのか」
 後悔。苦しみ。痛み。懊悩。罪の意識。消えない血肉の感触。断末魔の絶叫。憎悪の眼。化け物と罵る声。呪いの言葉。恐怖。絶望。
 その先にあるのは、いったい何なのだろう。
 答えられず、ディーナがその場に固まっている間に、一衛の姿は消えていた。
「許される、って……どうすれば、いいんだろう……?」
 途方に暮れた迷子の目で、ディーナは呟く。
 もちろん、答えなど自分で見つけるしかないのだと、判りきっているのだが。



 3.とおいひとに

 ごぉ、お、おおぉ――――んんん。

 どこかから、また、鐘のような音が聴こえて来る。
 荘厳で、それでいてどこか物悲しいその音を聴きながら、ダンジャ・グイニもまた、己と向き合うためにここを訪れていた。
「都合のいいことだけじゃないから緊張するね。――でも、だからこそ見なきゃいけないのさ」
 彼女が探しに来たのは、罪と、報いと、贖罪と、それにも増した再確認のための思いだった。
「さて……どんな果実に呼ばれるのやら」
 言いつつも、求める果実は決まっている。
 “仕立て屋”ダンジャ・グイニと“解体屋”シンガ・バロナイ。
 かつて犯した大罪を未だ背負い、贖うすべも罪の許される日も示されぬまま――ヒトの心のままで、永遠の放浪を続けている対なるふたりの、魂の邂逅をダンジャは望み、ここへ来た。
「報いは当然だ。誰を責めるつもりもない」
 罰を受ける己を辛いとは思わない。
 辛いとすれば、傍観者として見過ごすほかない苦渋の時だ。
 苦悩といえば、何が罪になるか償いになるか判らず、誰かを救うことで別の誰かを窮地に陥れるかも知れぬ恐れ、予期せぬ結果や数多ある矛盾だ。
「それでも、ねえ?」
 呟きとともに、ダンジャの視線は、やわらかい朱色に輝く果実を捉えていた。
 ヒトの心に灯る夕焼けのような色だ、そう思いつつ手を伸ばす。
「……それでも、護りたいじゃないか。あたしらみたいな罪を背負わせないためにも、さ」
 苦笑と慈愛とを滲ませ、果実に触れる。
 と、

(結局それも命を弄ぶことに過ぎぬ)

 重く苦々しい、ひどく聞き覚えのある声が耳を打ち、ダンジャは微苦笑を浮かべた。

(決して、なかったことにはならぬ)

 あの日、ダンジャは軍に騙されて民間飛行船を墜落させ、四千もの命を喪わせた。
 ――四千だ。
 その四千の命には、家族があり、友がいて、想う誰かがいただろう。
 四千の死に、それに倍する人々の悲嘆と絶望と涙があっただろう。
 “仕立て屋”ダンジャ・グイニはそれを見過ごすことが出来なかった。
 己が過ちは己自身で償うしかない。
 ゆえに、全霊でもって命を仕立て、結果、禁忌を犯したダンジャは覚醒し、ロストナンバーとなった。

(軍の横暴を以って戦が始まる……苦しみ死ぬものもいるやも知れぬ)

 ダンジャとシンガは対なる者だ。
 滅多に会うことはないが、罪と罰を共有し、こうして立つ世界を違えてなお、再び道を外れぬように見つめあう。――見つめあわねば、ならぬのだ。二度と、あの日の惨劇を繰り返さぬために。
 それゆえに、ダンジャの罪、過ちを、苦悩の末の決断と知って、彼は責める。
 彼自身、苦渋の色を滲ませながら。

(……無論、俺とて、お前と同じ立場になれば、とは思うが)

 シンガの言葉は、理解と矛盾を孕む。
 それは、ダンジャも同じことだ。
「……判ってるよ」
 掌の果実に、語りかける。
 果実を通して、今は遠い故郷にいる対の者へ言葉が届くよう。
「だけどね、あたしたちは己の罪から目をそらしちゃいけないのさ」
 恐らく、逆の立場であれば、シンガがダンジャに同じことを言っただろう。
 長い時の中で、たくさんの営みを見てきた。
 かつての己らと同じく愚かな者たち。
 かと思えば現れるのは、他者のために我が身を削って悔いぬ誠実な人々。
 身に持った強大な力に目をつけられ、利用され裏切られることも多々あれど、逆に、「そんなものはあなたをかたちどるわずかな要素に過ぎない」と、ただ彼女らの心根のみを求める優しさと思いやりに救われもする。
「『それだけ』じゃあないんだよ。連中も、あたしらもね」
 長い時を生きるうちに、そう理解した。
 一方がすべてではないのだ。

(前にも、同じことを言ったな、お前は)

 記憶の中のシンガ、恐らく未だどこかでつながった対の者が、瞑目とともに言い、ダンジャは頷く。
「あんただって、ずっと前に言ったよ」
 彼らと、彼らの可能性を信じようと決めた。
 償いのために歩む道の中、彼らの可能性に救われることもあるだろう、と。
「生き延びさえすれば、苦しみの他には喜びもあるだろうよ」
 結局それが偽善に過ぎぬとしても、見殺しにする偽善より救う偽善だ。
 それを為す力を持ちながら手をこまねいて傍観するだけでは、何ひとつ贖うことは出来ないだろう。

(何度裏切られようとも、か)

 問いと言うより確認に近いそれに、ダンジャは苦笑して頷く。
「あんただって、言うだろ。そんな半端な覚悟じゃない、ってさ」
 ダンジャの言葉に、意識の向こう側で対の者もまた苦笑し、頷いた。
「やっぱり、そういうことさね」
 幾度裏切られたら諦めるとか、見捨てるとか、そんな曖昧なものではないのだ。
 己と向き合い続け、罪を見つめ続け、彼らの可能性を信じ続ける。
 結局それが自分だと再認識し、
「……ま、融通が利かないだけかもしれないけどね」
 頑固なババアだよまったく、と、ダンジャはどこか晴れやかに笑った。

 * * * * *

 アルティラスカは、誰かに呼ばれているような気がしてここへやってきたひとりだった。
 それは、彼女が女神という存在であるがゆえに抱けない心であったり、理解できない記憶であったりするのかもしれないと、それらを見ることもまたつとめのひとつであろうと思い、自分を呼ぶ果実を探しに来たのだ。
 無論、女神であることに縛られているアルティラスカには理解できない感情もあるだろうが、それでもせめて静かに寄り添えたら、と願う。
「あら、この香り……」
 森を歩むうち、どこか懐かしい匂いがアルティラスカの鼻腔をくすぐった。
 大きな樹を通り過ぎた先の小さな枝に、やわらかな青の光を見つけ、手を伸ばす。
 と、聞こえてきたのは、幼い、哀しい声。

(ごめんなさい、ごめんなさい)

 泣きじゃくっているのは、誰だろうか。

(愛されたかったの)
(あなたに愛してほしかった)
(――違う、あなたは愛してくれた)
(でも、どうしたってあなたの『特別』にはなれないって、知ってしまった)
(ごめんなさい、我がままで、ごめんなさい)
(だけど、きっと、あなたには、この絶望は判らない)
(あなたの一番でいたかったっていう、この絶望は)

 脳裏をよぎるのは、知らない誰かの記憶と映像。
 アルティラスカが手にしたのは、『その人』に愛されたいと願い、事実その通り愛されているはずなのに、その愛がすべてにおいて同一のものであると知ってしまった、自分はその人にとって他の誰かと同じものなのだと知ってしまった何者かの絶望がたっぷり詰まった果実だった。

(もう、それならいっそ、壊してしまおうって)
(あなたの前から、わたし以外をなくしてしまおうって)
(全部全部、傷つけて壊して、あなたを哀しませて、苦しめて)
(そんな自分が大嫌いになって)

 泣きじゃくる誰かが、嘆く『その人』の前で命を絶つ映像が目の前をよぎり、アルティラスカはそっと目を伏せた。
 血の海に倒れ伏す記憶の主の傍らで、『その人』が悲嘆の涙を零している。
 その涙に、記憶の主の泣き声が重なる。

(ごめんなさい、ごめんなさい)
(大好きだったの、特別だったの)
(わたしのことを、一番、思ってほしかったの)
(だから――だけど)
(あなたを傷つけることでしか、表現できなかった)
(ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい)
(あなたを苦しめて、哀しませて、傷つけて、ごめんなさい)
(本当は、あなたに笑っていてほしかった)
(笑っているあなたと、ずっとずっと一緒にいたかった)
(それだけだったのに……わたしは、間違えてしまった)

「ああ……」
 過ちを後悔し、謝り続ける記憶の果実を、アルティラスカはそっと掌に包み込んだ。
「ごめんなさい」
 ぽつり、と謝罪の言葉が漏れた。
 ――彼女には、『特別』になりたがる心や感情が理解出来ないのだ。
 何故なら、彼女は神だから。
 世界を平等に護り、愛することが神としての責務だから。
 それゆえに、神である限り何に対しても平等にしか愛せず、手にかけた親友の創世神も、傍にいてくれる黒竜も、確かに大切なのにそれ以上にもそれ以下にもならない。
 一番に愛してほしいと、自分だけを見てほしいと、求める気持ちも求められる意味も、アルティラスカには理解出来ないのだ。
「ごめんなさい。でも……私には、判らないのです。『私たち』は、こうすることしか、出来ません」
 記憶の主が『特別』になりたかった誰かも、同じ思いだったのだろうか。
 その人は、記憶の主が死んだ後、どんな思いで過ごしたのだろうか。
 親友のすべてを背負う覚悟で彼女を害したアルティラスカと同じように、何もかもを受け止め受け入れたままで生きているのだろうか。
 それを、記憶の主が望んでいるかどうかはさておき。
「ああ……どうか、泣かないで」
 掌の果実をそっと撫で、囁く。
 ――結局のところ、すべてを同じように愛するということは、極論すればすべてに無関心であるに等しい、その自覚はある。
「泣かないで……そんな風に、自分を責め続けないで」
 記憶の主が、親友たる創世神が罪を犯したのは事実だ。
 しかし、その罪を犯させたのは、『その人』であり自分自身だったのかもしれない。
 だとすれば、彼女らもまた、罪人だった。
 直接罪を犯したものたちとともに、償うべき業を背負う罪人だ。
「わたしと、あなたの大切な人は、同じなのですね……」
 ならば、背負った思いが浄化されるまで、同じ罪を抱き続けることが彼女らにとっての償いなのかもしれない。
 そう、悟りながら、アルティラスカは掌の果実を優しく撫で、悲嘆の記憶に静かに寄り添い続ける。



 4.サンサーラ

 玖郎は、途中で行き逢った別のロストナンバーとしばし道をともにしていた。
 名を、理星と言っただろうか。
 玖郎と同じく背に翼を負い、しかし玖郎とは違い明確な『鳥』の気配を持たず、額には鳥が持つはずのない角を生やした、不思議な風貌の青年だ。とはいえ、人間とは違い、美醜や善悪の区別を持たぬ玖郎なので、理星の外見はそれ以上でもそれ以下でもない。
 理星も、天狗たる玖郎の容貌に対しては無頓着で、
「玖郎さんは、ふるさとの景色が見たくて来たんだ?」
 邪気なく、声をかけてくるばかりだ。
「そうだ。……おまえは」
「俺? んー、父さん母さんが見たいって最初は思ってたけど」
「そうか」
「今はちょっと、探してるヒトがいてさ。そのヒトのこと、見つける手掛りみてーなのがないかな、って。……玖郎さんのふるさとは、綺麗なとこ?」
 問われて、玖郎は首を傾げる。
 彼の判断基準に、綺麗、というものはない。
 それは、人間の持つ感情だ。
「いのちが、満ちてめぐる場所だ」
 それゆえに、少々ちぐはぐな答えになったが、理星は気にするでもなく頷いた。
「ああ、うん、何か判る。みどりがいっぱいで、きらきらしてるんだろうな。すごく、綺麗なんだろうなって思う」
「……そういうものか」
「うん、そういうもの」
 身の丈180を越す長身の男同士、その癖どこか互いにあどけなく会話を交わしつつ歩いていると、
「おや、道連れか、この森においては珍しい」
 いのちの気配がまったくしないのに生きていることだけが判ると言う、不可解なにおいと出で立ちの――身に纏ったスキンスーツや、身体のあちこちから伸びたコードやコネクタ、ソケットなどは、玖郎には無機的だと感じるばかりで何のことか判らない――、この森の守護者という『夢守』なる存在が樹の影から顔を覗かせた。
「あ、一衛。散歩中?」
「そこはせめて見回り中と言ってもらいたいものだが」
 真面目腐った表情で理星に返し、一衛が玖郎を見やる。
 そして、不思議な瞳孔のある双眸を細めた。
「……山と森のにおいがするな」
 二重鉢金の内側まで見透かすかのような――スキャンされている、などとは、玖郎には思いも寄らぬことだったが――眼だ、と、淡々と状況のみを把握していると、
「郷愁、か? 無機や人工物に満ちた場所は、居心地が悪いか」
 直截に問われ、しかしそれは玖郎の在り様にとっては不快でもなく、彼は朴訥にうなずく。
「……ああ」
 玖郎がここに来たのは、郷里を見たいという思いとともに、帰る想いをあらたにするためでもあった。あの、生命に満ちた故郷の映像を見ることで、0世界に感じ続けている据わりの悪さから少しでも解放されるのではないか、という思いもあった。
 それに、何よりも、あの地には大切なものがねむっている。
 もう一度、それを見たいという思いも、確かにあった。
 しかし、
「ふるさとかー、きっと色々変わってるんだろうな、もう」
「理星は還りたいと思うのか」
「んー、帰らない方がいいんだろうな、って思ってる。別の世界に、会いたいヒトもいるしさ」
「かえらないほうがいい、とは」
「ん? あー、俺、鬼族と天使族の混血なんだけど。俺のふるさとでは、混血ってすげー不吉なんだって。だから、俺がいると、あの世界のヒトたちが不幸になるかもしれねーし、他の、俺がいてもいい世界を探すのもいいな、って。玖郎さんは、帰りてぇんだよな?」
「ああ。……そう、だな」
 言葉を交わすうち、次第に、少しずつ変化してゆく心境を、玖郎は漠然と感じ始めていた。
 変わりゆくもののことを、理星が口にしたからかもしれない。
「ひと……か」
 ぽつりとしたつぶやきに、理星が小首を傾げ、一衛が目を細める。
「……そうだな、あれとはもはや、まぼろしでしか会えぬ」
「あれって、誰?」
「つまだ」
「つま……ああ、お嫁さん? えと、もう死んじゃったってこと?」
「ああ」
 玖郎は、初めの妻子を、覚醒する前に天敵によって殺されていた。
「……あれの感情を、とらえきれぬまま逝かせた」
 知能は人間と同じでも、価値観が猛禽に近しい彼は、人間の女であった妻の気持ちや思い、心を理解しきれぬまま死なせてしまったことを今でもどこか無念に――無論それは言葉の塊としてでではないが――思っている。
「玖郎さんは、それを、知りたい?」
「ああ」
 朴訥に頷く。
 記憶の果実がみのるここでなら、少しは何か掴めるだろうかと、それを『次』に――新しい伴侶を得たときに――活かせるだろうかと、そう思い始めていたのも事実だ。
「今は亡きものの感情、か」
 不意に、一衛が森の奥を見やり、その、無機的な指先で一点を指し示した。
「少し、見えた。お前の望む果実なら、その奥に」
「……そう、か」
 言われた途端、鼻腔を、懐かしい匂いがくすぐった。
 晴天の続いた夏の日に降った雨の匂いだ、そう気づくと、玖郎は、ふたりの連れに目だけで頷き、ひとり、足早に歩みを進めた。
 ふたりが、別の方向へ歩き始めるのを気配だけで感じつつ、真っ直ぐに進むと、そこには、あまたの感情を詰め込んだような、真っ赤な果実が実っていた。
「これは……おまえ、なのか」
 ぽつりと呟き、手を伸ばす。
 瑞々しいそれに、指先が触れた途端、

(あの村に雨など降らせないで下さい)

 聞き覚えのある声と言葉、そして風景が、玖郎の脳裏を行き過ぎていった。
「ああ……あれは」
 山深く緑多き故郷の景色に、じわり、と静かな喜悦が滲む。
 あまたの存在が永遠の連鎖を繰り返す、鮮やかなる生命の庭だ。
 その庭に、きらきらと光る雫を撒き散らして雨が降っている。
「……懐かしい、とは、こういうことをいうのか」
 掌の果実を見下ろし、独白する。
 果実から伝わってくるのは、戸惑い、寂しさ、安堵、慕わしさ、畏れ、諦め、憤り、喜び、哀しみ、安らぎ、不安、もどかしさ、そして――……。

(あの村に雨など降らせないで下さい)

 記憶の主が嘆願する。
 女は、泣いているようだった。
 彼女の視界には移らないが、その傍らには、あの時の玖郎がいるはずだ。
 ――あの時のことならば、今でもよく覚えている。
 雨を降らせたのは、玖郎だった。
 人身御供というかたちで伴侶を得た代わりに、渇きに喘ぐ村へと雨を降らせた。
 それは、連綿と続く暗黙の約定だ。
 『気持ち』などと言うもので違えることは出来ない。

(あそこにいたくなかったのも事実です)
(けれど、私が去ったことであの村が幸せになる、それも嫌なのです)

 啜り泣く彼女の手が、顔の半面に触れたのが判った。
 彼女の顔は、半分が、大きな、醜く奇妙な痣で覆われていた。
 そのことは玖郎もよく覚えている。
 彼女が、それを引け目に感じている様子だったのも、よく覚えている。
「子をはぐくむのに支障がないなら問題ない。――その答えでは、足りなかったか」
 玖郎が言った時の、彼女の複雑な顔もよく覚えている。
 やはり、天狗と人間とでは、在り方が違うのだろう。
 そう思いはしても、玖郎には理解しようがなかったのだ。
「おまえは……何を、のぞんだ?」
 生涯をともにする伴侶の気持ちが判らないのは、自分が化け物であるからなのか、それとも雄であるからなのか。
 小さな雨を降らす彼女の、それを止ませるすべさえ彼は持たなかった。
 しかし、例え化け物と呼ばれる存在であろうとも、妻が大切だという思いに違いはなく、何をしてやればよかったのか、と掌の果実を見下ろした玖郎の脳裏を、

(私を受け入れ、必要とし、傍に置いてくださった貴方)
(村の男たちなどより、よほどやさしく誠実な貴方)
(けれど、私の気持ちは一生判ってくださらないでしょうね)
(貴方に感謝しています……今はまだよく判らないけれど、きっと、貴方をお慕いしているのだろうとも思います)
(ああ……でも。どうしても伝わらない、この感情がもどかしい)
(私たち人間は、貴方のように純粋には生きられない)
(貴方が私を大切に思ってくださっていることは判ります。私はそれが嬉しい……あの村に、私の居場所などなかったのだもの)
(ああ、でも……だからこそ。この壁が、もどかしい)

 彼女の感情が奔流の如くに流れ去ってゆく。
 それと同時に、玖郎の意識を、彼女があの痣のために、村で醜女と嘲られ、不具と、化け物の落とし胤と罵られてつまはじきにされる記憶が、哀しみと諦めの感情とともにサッとかすめていった。
「……」
 人間の感情は、複雑すぎて玖郎には理解しきれない。
 痣など生きるに何の妨げでもない。
 しかし、きっと、『それだけのこと』ではなかったのだろう、人間たちには。――妻には。
 今でも、まだ、わからないことだらけだ。
 そう、妻の涙ひとつ、止められないのと同じく。

(これは、どうすればとまる)

 記憶の果実の端に引っかかった、あの日の玖郎の、朴訥な問い。
 ――そこにいらえがなかったことも、よく覚えている。

 * * * * *

 理星は、自分が覚醒するきっかけになった、自分をここへ呼んでくれた『あの人』の手掛りを求めて想彼幻森へとやってきた。
 初めは両親が今どうしているか知りたい、と思っていたのだが、
「父さんも母さんも、元気でやってるって判る。俺のこと、大事に思ってくれてるのも判る」
 それはもう、魂のレベルでの理解だ。
 どんなに迫害され、ひどい扱いを受け、孤独に泣いても理星が折れない一番の理由だ。
 だから、考えを変えた。
 『あの人』のことが知りたい、と。
 先日、シャンヴァラーラの別の【箱庭】で出会った、天地開闢のころから生きているという古龍に、その人もまた理星を待っていると教わった。理星がその人と会いたいように、その人も理星と会いたがっているのだと。
「探し人……か。お前は、その誰かも、ロストナンバーだと?」
「んー、それは判んねーけど。でも、古龍のヒトがさ、俺のことあの人が待ってるって教えてくれたんだ。だから、俺、その人のことを見つけたくて」
「古龍か……どれだ? 《白永久(シロトワ)》か、《貴威槻(タカイツキ)》か」
「ええと、神香峰(カミガネ)、さん?」
「……ああ。あの気の好い男か」
「あ、神香峰さんって男のヒトなんだ。知り合い?」
「幼馴染のようなものだな」
「え、じゃあ一衛って俺より物凄い年上……まあいいや。あのさ、だから、もしそれっぽい人を見かけたら教えてほしいなーって」
 竜涯郷から帰った後、天地開闢と言うのはものすごく昔のことだと『先生』に教えてもらった理星には、自分と同い年程度にしか見えない一衛がその長生きの古龍と同年代と言われても理解が及ばず、思考を途中でぶった切って『お願い』にうつる。
「それっぽい、というのは、なかなか難解だが」
「あー……うん、その、」
「……しかし、まあ、意識に留めておこう」
 一衛が頷いたので、理星はパッと笑顔になった。
「うん、ありがとう!」
「それに……お前のそれとよく似た言葉を、どこかで聞いたような気もするし、な」
「えっ」
 理星が、それはどういうことかと問い直そうとするより早く、彼の視界の片隅が青い果実を捉えた。
「!」
 それが視界に移った途端、涙が凝ったようなその果実から眼が離せなくなり、動悸が激しくなる。
 ――呼ばれている、と、判った。
 あの人のだ、とも、判った。
 わずかな距離すらもどかしく駆け寄り、手を伸ばす。
 指先が、それに触れた瞬間、理星の中に流れ込んできたのは、

(この、愚図め)
(お前に、兄と呼ぶ許しを与えたつもりはない)
(お前を弟と思うことも一生ないと、何度言えば判る)
(――家の、面汚しが)
(親父殿も、何故お前など家に入れたのか)
(妾の子の、分際で)

 罵倒と嘲笑、そして激しい暴力による痛みだった。
「!!」
 理星は大きく目を見開く。
 果実の主は、顔立ちのよく似た大柄な男たちに、日常的に暴行を受けているようだった。男たちの姿を目にすると、彼の身体が、心がひどく怯えるのが判るのだ。
 しかし、果実を通して流れ込んでくる感情は、彼が、ふたりを心底慕っていることを如実に伝える。
 大好きな、愛してほしい人に、散々に打擲され、存在そのものを否定されて、しかしその癖手放してももらえず、理星には理解出来ないような不可解な行為を強いられている『あの人』の痛みや哀しみ、諦めにも似た思慕が、理星の中に流れ込んでくる。
「やめてくれ!」
 理星は知らず、悲鳴を上げていた。
「何でそんなことするんだ、その人はあんたたちのこと、大好きなのに!」
 無論、声が届くはずもなく、男たちは彼が身動きも出来なくなるまで暴力を揮い、足音も荒く部屋から出て行った。
 ここから逃げられると思うな、そんな捨て台詞とともに。
「どうしたらいい? 俺、どうしたら……」
 古龍の言っていたのはこのことかと唇を噛み締める理星だったが、

(……探しに、行きたい……)

 激痛の最中、銀髪に白皙の男に助け起こされながら、彼が譫言のようにつぶやくのが聴こえて、ドキッとする。

(だって、泣いてるんだ、寂しいって。――俺も、寂しいからかもしれないけど、放っておけないよ)

 会いたい、抱き締めたい、涙を拭きたい。
 銀髪の男に介抱されながら、半ば意識を失いながらも、彼はずっと、理星を呼んでいた。
「ああ、だから、なのか……」
 ようやく、自分が覚醒した理由が判った気がして、理星は掌の果実を見つめた。
「俺も、会いたい。あなたに会って、ありがとうって、言うんだ」
 あれだけ辛い思いをしているのに、『あの人』はずっと幻のような自分のことを、助けたいと思ってくれている。出会えるかどうかも判らない自分を探し続け、呼び続けてくれている。
 彼の呼び声に応えて自分は覚醒し、0世界の片隅に居場所を得た。
 よき隣人を、理解者を得た。
 存在する意味すらなかった自分にとって、こんなに嬉しいことがあるだろうか。
 それが、すべて、彼のおかげなのだ。
「絶対に、見つけるから。それで、あなたのこと、ぎゅってするんだ。ありがとうって」
 幸せそうに微笑み、理星は、果実を握り締め、抱き締める。
 早く早く会いたいと、今はただそれだけを思った。



 5.きみをおもふ

 木乃咲 進は、柄にもない、と思いつつここへやってきていた。
 正直、過去には、あまりいい思い出がない。
 しかし、たまには思い出さなくては、忘れてしまう。
 自分に都合の悪いことはすべて忘却し、何もかもをなかったことにしてしまいかねない。
「……そりゃ、調子がよすぎるわな」
 自分の罪も、拙さも、至らなさも、弱さも、ずるさも、それと認識しているからこそこれ以上過たずに済む。謙虚に、などと言う言葉とは無縁な進だが、少なくとも自分を過信して罪を重ねることはせずに済む。
「ま、それだけはやっちゃ駄目だろ、やっぱな」
 独語しつつ、森の奥へと分け入ると、白く淡く光る果実が進の目を捉えた。
「ん、これ、か……?」
 どこか懐かしく感じるそれへ手を伸ばし、触れる。
 と、

(いいか、よく聞けよ。てめえだって家族の一員じゃねぇか。そうだろう?)

 聞こえてきたのは、進の声だった。
「ああ、これは……あん時の、俺か」
 同時に、唇を噛んで俯く少女の姿が目に入り、進は微苦笑を浮かべる。
「どうしてんのかね、あいつら」
 呟きとともに、また、言葉が脳裏をよぎる。

(だけど、小兄様、でないと私たち)
(言うなよ、それ以上。そりゃ、俺は確かにてめえが苦手だが、そんでも妹を犠牲にするぐれえなら死んだ方がマシだ。たぶん、兄貴だって同じことを言うだろうぜ)

 ――あれはいつのことだっただろうか。
 進には、戻という兄と歪という妹がいる。
 木乃咲家は由緒正しい『呪われた一族』ゆえ、進が空間を操る能力と金運から見放された呪いを持つのと同じく、兄は水を操る能力と愛するものから強制的に遠ざかる呪いを、妹は人の縁を切ったりつないだりできる能力と他者の運命を狂わせる呪いを持っていた。
 それでも何とかうまくやっていた彼らの関係は、歪が眩暈や頭痛に襲われて倒れ、寝たきりに近い状況になるというアクシデントによってまさしく『歪ん』だ。
「あん時ゃ焦ったね、ったく」
 溜め息混じりに進が言うように、果実は、過去の進が、家にある蔵書と言う蔵書を凄まじい勢いで調べてゆく様を伝える。
 そして、『能力の使いすぎによる衰弱』という項目を見つけた時の、彼の驚愕の表情を。

(何度でも言うぞ。このままだとてめえの精神は崩壊しちまう。それを止めるにゃ、『赤い糸』の能力を使わねえ、ってことしかねえ)

 果実から聴こえた、冒頭の言葉は、進が頑なに家族と離れ離れになりたくないからと拒む妹をどうにかして説得しようと発したものだった。

(だけど、でも)
(――……心配すんな。俺も兄貴も、てめえのことは大好きなんだからよ。てめえが俺たちを歪ませてる限り、俺も兄貴もどっかに行ったりはしねえよ)

 苦手だろうが何だろうが、進にとって戻と歪は大切な家族に違いなかった。
 その大切なひとりを犠牲にしてまで保つようなものなど何もなかった。
 それゆえの進の説得に、妹はようやく応じ、『赤い糸』と呼ばれる能力を家族のために使い続けることをやめた。
「ま……ホント、それでよかったと思うぜ」
 それで確かに分かたれてしまったものはある。
 しかし、むしろ強くなったものもある。
「……ああ、解ってるさ、歪」
 しろく光る果実を見下ろして、進は呟く。
「言われるまでもなく、わざわざ思い出すまでもなく、ちゃんと覚えてる」
 能力ゆえに苦しい思いもした。
 能力ゆえに失ったものもあった。
 けれど、能力など何の関係もなく、強固に揺らがぬものも、彼らは持っている。
「もう門限は過ぎちまったかも知れねえが、それでも俺はちゃんと帰るから。だから……待っててくれ」
 ロストナンバーとなって得たものも無論ある。
 しかし、進の思いはひとつだ。
「……絶対に、帰るから」
 つぶやき、握り締めた果実は、やわらかい光を放った。
 その光の向こう側に、進は、故郷と、家族の姿を――その、懐かしい笑顔を見る。

 * * * * *

「さーて、どこにあるのっかなーっと」
 ルイス・ヴォルフは、人型を取った状態で、昔の、記憶を失う前の自分の手掛りがあったらいいな、という軽い気持ちで想彼幻森を訪れていた。
 普段は明るく振舞い気にもしない大型犬(いや、狼だが)も、ふと不安になることもあるのだ。
 この場所の噂や、今は望みの果実を見つけやすい、と聞いていたこともあって、ルイスは、ここなら何か手掛りが見つかるのではないか、ただそれだけを覚えている『兄』のことも何か判るのではないか……という期待を胸に、あちこちを歩き回っていた。
「おっ、あれ、かな……?」
 青く光る果実に手招きされたような感覚を覚え、歩み寄る。
 手を伸ばし、指先で触れると、記憶が流れ込んで来る。

 それは、まるで覚えのない誰かの、日常の記憶。
「……? これ、誰だ……?」
 それなのに、何故か、懐かしい。
 すぐに、別の場所にみのった果実に呼ばれ、触れると、
「……何で、懐かしい、ん、だろ……」
 それは、まるで覚えのない誰かの、血みどろの戦いの日々だった。
「あっち、にも?」
 ちかちかと瞬き、果実が次々にルイスを呼ぶ。
 急きたてられるように駆け寄り、触れるたび、果実はルイスが全然知らない、姿も格好も違う『誰か』の記憶を彼の脳裏に再生し続ける。
「誰、だよ、あんた」
 幾つ目かの果実に触れ、それが半吸血鬼の青年の記憶だと知って、まるで覚えがない……と言おうとしたのに、あのあと彼はヒトとしての生をまっとうしたんだ、それは兄との約束だったからだ、と、知らないはずの真実が浮かび、ルイスは眉根を寄せた。
 触れる果実、触れる果実に覚えがない。
 それなのに、すべて、知っている。
 この、足元の定まらない矛盾は、何なのだろうか。

「あれ……おかしいな、なんか、眩暈が……」
 いったい、幾つの果実に呼ばれただろうか。
 幾つの果実に、見知らぬ、それなのに懐かしい記憶を見せられただろうか。
「……なんだ、これ、」
 いつからか、ルイスは、『自分』が磨耗して行くような錯覚に囚われ始めていた。
 不安や恐怖、困惑、薄ら寒さ、冷や汗脂汗。
 頭痛、眩暈、身体の重さ、手足の冷たさ。
 そんな、精神的、肉体的な負担が圧し掛かり、果実に呼ばれるまま記憶を見続けることは危険だ、と本能が警鐘を鳴らし始めていたが、
「だけど、でも……見つけてぇんだ、俺」
 ルイスは、探すことをやめなかったし、記憶を見ることを、止めなかった。
 止められなかった、と言うべきなのかもしれない。
 これを逃せば、自分が何者であるのかを知るすべを、一生見逃してしまうかもしれないと言う焦りが、ルイスの中にはあったのだ。
 しかし、幾重にも分岐してゆく枝葉のごとき記憶たちと向き合い、そのすべてに懐かしさと『知らないのに知っている』不安とを感じながらも、追い立てられるように――ある種の強迫観念とともにそれを繰り返すうち、
「何者……俺は、何者? 俺は、自分? 自分、は、何だ、ルイス? ――自分って、なんだ」
 何かおかしい、と思った時には、もう遅かった。
「自分、ジブン、じぶん」
 自我が、ガタガタと音を立てて崩れ落ちてゆくような感覚がルイスを包み込んでいる。
「じぶんとは、なにを、いみしている、のか。――じぶん、わたし、おれ、ぼく、なに、わから、ない」
 自分ではない自分の記憶が脳裏をぐるぐると回っている。
 彼らの生死、喜怒哀楽、あまりにもたくさんの記憶に、ルイス・ヴォルフという存在の意識がかき消されそうになる。
「わかる、わからない、わかる、ことば……ことば、とは、なんだ……?」
 判らない。
 すべてが判っているのに、何も判らないという恐怖。
「ああ、あ、あああああああああああ」
 思考するすべすら、いつしか奪われてゆき、ルイスは頭を抱えてその場に蹲り、壊れたように呻き声を上げ続けるしかなかった。
 そんな彼の周囲を、不可解な黒い磁場が覆い、それはやがて風を、嵐を引き起こし始める。

「うわ、何だこれ……ッ?」
「あ、あそこ、あれルイスじゃないか」
「ちょ、おい、しっかりしろ、何があったんだ!」

 己が求める果実を見出したあとのロストナンバーたちだろうか、自分を呼ぶ誰かの声が聞こえたが、
「ルイス……誰……俺は、誰だ……?」
 内へ内へと回帰しつつある彼には、何も届いてはいなかった。
 ――やがて、嵐は激しくなり、その質量で以って想彼幻森の一角を飲み込まんばかりになる。
 恐らく、放っておけば、更に大きくなるだろう。
「え、何、もしかして……果実を見たから、とか?」
「そうかもしれませんね。ならば、何とかして止めなくては」
「どうにか出来そうかい?」
「そう……ですね、考えられる手は、幾つか」
「ああ、あたしもそんな感じだよ」
 理星と、アルティラスカと、ダンジャの声が聞こえたあと、
「ルイス……“Ruinous Id Submerged”、隠されたる魂の原型、か……?」
 聴こえていないが聞いているルイスの耳に届くのは、一衛の小さな呟き。
 それから、
「何にせよ、私にはここを護る責務がある。鎮まらぬというのなら、排除あるのみだ」
 冷徹に過ぎる一言と、
「ちょ、一衛、まさか、殺す気……」
 ディーナが息を飲む気配、
「殺す? 違う、この【箱庭】から放り出すだけだ」
「ああ、頭を冷やす的な? ……下手したら死にそうだけどな」
 若干のんびりした進のツッコミ。
 ルイスは―― 一衛の指摘どおり、魂の原型たる存在である“すべてのルイスの根源”は、自我が磨耗し、一時的に原型として覚醒した状態で、制御しきれぬ能力を暴走させたまま、自分の周囲を、黒曜石めいた輝きの破片が無数に舞い飛んでいることに気づいていたが、
(死? 消滅? 死とは、なんだ? 生きるとは、なんだ)
 自己保存の本能からは遠く、ただ甘んじて『それ』を享けようとしていただけだった。
 しかし。
「……悪く思うな」
 静かな声とともに『それ』が解き放たれるより早く、

(まったく……おまえには、困ったものだ)

 ルイスの停止しかけた意識に響いたのは、

(おまえが何であったとしても、おまえはおまえだろう)

 ひどく懐かしく慕わしい、幾つもの声、言葉、思いだった。

(目を覚ませ、馬鹿者。おまえが僕の弟であるという事実に、何の代わりもないということを判れ)

「……兄、」
 それらは、声も言葉も違えど、同じ意味をルイスへと伝えた。

(早く起きた方がいいぞ。帰れなくなっては困るだろう)

 どこか見覚えのある、色素の薄い髪と眼が、視界をチラリとよぎった気がした。
 ――それだけで、ルイスの暴走が収まってゆく。
 黒い磁場が消えてゆく様に、
「……ほう」
 一衛が目を細めて破片を消し、
「聴こえたね」
「ええ……界層を超えての干渉、でしょうか?」
「いや、ただの気遣いさね、あれは。手のかかる弟が気懸かりで仕方ないんじゃないかね」
「そうかも知れません。……素敵なお兄さんですね」
 同じ声を聞いたのか、ダンジャとアルティラスカが顔を見合わせて笑ったところで、完全にただのルイス・ヴォルフに戻った“魂の原型たる何者か”は、意識を失ってその場に引っ繰り返った。
 受け身も何もない、盛大な転倒に、
「あーあー、大丈夫かよ」
「とりあえず、手当てでもしようかね」
「えーと、担架みてーのってあるのかな。持って来た方がいい?」
「うーん、なんかなさそう? 私、担ごうか?」
「あ、じゃあ俺も手伝うよ」
 ロストナンバーたちが呆れ顔で歩み寄る。
 仮死状態となったルイスは、自分がロストナンバーたちに担がれて森の入り口まで運ばれたことも、その後黒羊経由でロストレイルに乗せられたことも知らないままだったが、

(おまえはおまえだろう、まったく手のかかる弟め)

 やわらかな慈愛をたたえたその声が、穏やかに自分を包み込んでくれていたことだけは、意識を取り戻したあとも、何故か理解していたのだった。



 ――こうして、シャンヴァラーラでの越年は終わる。
 幾つかの収穫を得て、旅人たちは0世界へと還ってゆく。
 次の事件に呼ばれるまでの、一時の休息のために。

クリエイターコメントご参加ありがとうございました。

異世界シャンヴァラーラでの越年……というよりは、幾つもの記憶、感情との邂逅の一時をお届けいたします。

皆さん、お望みの果実とは出会えたでしょうか?
それは、皆さんに何をもたらしたでしょうか?
かの果実が、皆さんのこれからに、何かしらの彩りを加えることが出来たなら、幸いです。

それでは、どうもありがとうございました。
ご縁がありましたら、また。
公開日時2011-01-18(火) 21:40

 

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