「すまない、こんなことに付き合ってもらって」 『フォーチュン・カフェ』の一画、向かい合った席で、黒髪、金属製のゴーグルをつけた青年は頭を下げた。再び上げたゴーグルの奥で、緑の瞳がまっすぐにこちらを見ている。体にぴったりとした黒いセーター、知る者は知っているが、背中にかつてあった翼は今はもうない。金属製の身長の二倍ほどもあり、ナラゴニアとの決戦ではアクアーリオを抱えて脱出し、樹海に落ちた際にひどく傷めてしまって以降、外したまままだ。「俺はペッシ、と呼ばれてる。元…世界樹旅団だ」 ためらって、それでも言い切った顔は、以前より大人びたようだ。「実は考えていることがあって……その相談と…依頼をしたい」 前置きして、ペッシは話を続ける。 自分が世界樹旅団の一員として、繰り返しこの世界の侵略に関わったこと。それは、パパ・ビランチャの配下として、仲間、特にアクアーリオを守るために必要なことだったこと。 だが、世界図書館のロストナンバーと接するうちに、自分の手ではアクアーリオを守り切れないと感じ、またロストナンバー達への信頼も芽生えたため、アクアーリオを連れて世界樹旅団より出奔、その後、樹海でのパパ・ビランチャとの決戦を見るに至って、なおロストナンバーへの信頼が深まった。「俺達のしたことを許してくれとは言わない。けれど…もし、できるなら、アクアーリオは受け入れてやってほしい……あいつはほんと、ガキなんだよ」 苦笑した顔をすぐに引き締める。「今、カフェで働かせてもらって、ずいぶん落ち着いてきたようだし、あいつなりに考えてることがあるみたいだ。あんた達も知ってるみたいだが、あいつにはインヤンガイにリーラという姉がいる。そこへ戻りたい、そう考えてるみたいだ……俺にも来ないか、と言ってくれてる」 置かれたコーヒーを覗き込み、ペッシは低い声で続ける。「…俺は、別の道を行こう、と考えてる」 実はナラゴニアで一人、見つかっていない仲間が居る。「アリエーテ、と言う。灰色の目の、ぽっちゃりした赤ん坊の姿をしている」 苦い笑みが広がった。「彼女は数日内の予言ができる。今回の世界樹侵攻が防がれるだろう、とも言ってた。パパ・ビランチャは彼女の予言をあまり信じていなかった。正確に量れないと言って」 あの時、アクアーリオを連れ出すのが精一杯だった。アリエーテは赤ん坊だし、侵攻には加わっていなかったから無事だと思ってたんだが、行方が知れない。「探しに戻ろうと思うんだ」 ゆっくり上げたペッシの顔はまだ惑いに満ちている。「探しに戻って、見つかっても見つからなくても、俺はナラゴニアで暮らそうと思っている。あそこはまだ……復興してないところが一杯あるんだ」 けれど、リオ、は納得しねえよな?「どう話したら、あいつは納得するだろう?」 くす、と寂しそうに笑った。「だから、頼みたいんだ。俺がナラゴニアに戻ることを一緒に説得してほしい。できれば、アリエーテ探しにも力を貸してほしい」 噛んだ唇、やがて大きく息を吐いて、ペッシは深々と頭を下げる。「よろしく、お願いします」
「あっしとしてはさっさとアリエーテ君探したいんだけどネー」 『フォーチュン・カフェ』でセットされた話し合いに向かいながら、ワイテはいささかうんざりした調子で呟く。 「説得とか苦手だシ。思ったこと言っちゃうかラ」 今までの縁と、アリエーテに興味を引かれての参加、片手でシャッフルしていたカードを一枚引き抜き、ちらりとその図柄を眺めて、またシャッフルを繰り返す。 側を歩く優は少し緊張した顔だ。淡々と道を辿るジューン、軽い足取りで続くリーリスに比べると、いささか足運びが重い。 『フォーチュン・カフェ』にはもうペッシが待ち構えていた。アクアーリオは今接客に忙しく、もう少ししないと体が空かないとのこと、奥まった個室のテーブルに、それぞれが座る。 「お久しぶりです、ペッシ様。まだ樹海にペッシ様の羽を回収に行っていないのですが、そちらはどういたしましょう」 まず向き合ったのは、ジューンだった。まっすぐに見張った人ならぬピンク色の瞳は無機質に、けれども真実を静かに確かめていく。 「君は……あの羽根ならもういいよ。俺の背中はあれを支えられるほどうまく治ってくれなかった。今背負っても重荷になるだけで、もう二度と飛べないってわかってるし、そっちは諦めがついた………ペッシ様?」 懐かしそうな顔で微笑みかけたペッシが、訝しげに首を傾げる。 「…? 何かおかしかったでしょうか? 今の貴方は、私の庇護を必要とされません。適切な呼称であると考えます」 「庇護、か」 ペッシは複雑な顔で笑い返し、小さく、そうだな、と呟く。そのペッシに、ジューンは重ねて透明な声で問いかけた。 「先にお伺いします。アリエーテ様は外見が幼児でいらっしゃるとのことですが、意思疎通や運動機能は何歳児程度でしょう。1歳児と7歳児では随分出来ることに違いがあると思われます」 「アリエーテ? 彼女はほんとに赤ん坊だけど。生まれて数ヶ月、ぐらいに見えるかな。自分で身動きはできないんだ。大抵は仲間が抱いて運んでいたし」 再び戸惑ったペッシに、ジューンは事実を確認する。 「予言…超常能力をお持ちだと考えて良いのでしょうか。予言以外の超常能力をお持ちで、ご自分の身を守れるなら、探す場所も変わってくると考えます」 「それは、リオの説得に必要なのか?」 「ええ、アクアーリオさんへの説得内容が変わりますので、とても重要です」 ジューンは頷き、戸惑いを隠せないペッシに続けた。 「ペッシ様。説得出来る出来ないではなく、真心を込めてお話合い出来るかどうかの方が重要ですよ?」 「心は込める、いや十分に込めるつもりだ」 けど、とペッシはなおも逡巡する。 「リオはきっと納得してくれない…」 「貴方は説得如何に関わらず、その行動をお決めになられているのでしょう?」 ジューンの問いに、ペッシがはっとした顔になる。 「曲げられず譲れぬことであるならば、後は如何に目を逸らさず、真摯にアクアーリオさんと話し合えるか。貴方に重要なのはそれだけだと思います。大丈夫、アクアーリオさんへのフォローは相沢様がして下さいます」 「ペッシ」 黙ってジューンのことばを聞いていた優が、深い瞳でペッシを覗き込む。 「ナラゴニアや、仲間達は大切かい?」 「…、そ、りゃあ」 苦しそうにペッシは唇を噛む。 「大切でなければ、守ろうなんて思わなかったさ。元の世界に戻れないなら、あそこは俺の死ぬ所で、一緒に居る仲間がそれを見届けてくれる、そう思ってた」 確かにパパ・ビランチャのやり方にはいろいろ不満はあったけど。 「それでも、一時でも、あそこは俺の『家』だったんだ」 「…じゃあ、まず、その気持ちはリオに伝えなくちゃいけないと思うよ」 「その、気持ち?」 「君がどれほどナラゴニアを大事に想ってるか。仲間のことをどれだけ心配しているか。その気持ちをまず、伝えなきゃ」 「あ…」 ペッシが目を見開き、ジューンを振り向く。 「曲げられず、譲れぬこと、か」 ワイテは席にはついているが、シャラシャラと軽い音をさせてカードをシャッフルしているだけ、会話を無言で聞いている。 「一生懸命探している時は会えなくて、お別れの時は会えるから不思議よね、ペッシ。元気だった?」 リーリスがペッシの視線を絡めるように見やった。 「……うん、元気になった。君は?」 薄く頬を赤らめながら尋ねるペッシに、リーリスは紅の瞳で微笑を返す。 「元気よ。いろいろあったけど、リーリスは元気……生き残ってくれてうれしいわ。ナラゴニアへ心に決めた女の子を探しに行くんでしょ?」 「女の子、っていうか」 くすぐったそうな顔になったペッシが落ち着きなく体を動かす。 「他人の好きは動かせないもの。ペッシの夢が叶うよう祈ってるわ」 「好き? え、いや、その、アリエーテは、赤ん坊、なんだ。ほんと、一人では身動きできない。あそこから動いてないはずなのに、誰も彼女を見つけていない」 ペッシは表情を固くした。 「誤解しないでくれ、好きとかそういうんじゃない。ただ、あの時」 ペッシは唇を噛んで俯いた。 「俺はリオを助けるのを優先した。残された仲間がどうなるかまで考えてなかった。ナラゴニアは今まで無敵だったから、めちゃくちゃにやられるだけじゃなくて、何とか無事に残るんじゃないかとも思ってた。アリエーテだって、きっと誰かが見つけて助けてくれるんじゃないかって……そんな甘いことを考えていた」 そういう意味じゃ俺もガキ、だよな。 「……ここへ来て、リオが落ち着いて、俺も幾つか仕事や依頼を受けたりして、ああ、ここで生きていけたらなとも思ったよ? けどさ」 ふ、っと眠れなくなる夜があるんだ。 「眠っていたのに、目が覚めて、その時ふっと思うんだ、ああ、アリエーテはどうしたろう、って」 俺の元いた世界にはああいうちっこいのが一杯居て、親というのは生みっぱなしでさ、年長の『羽根付き』が育てるんだ。ナラゴニアに来る前に、俺はちょうどアリエーテぐらいのちっこいのをあやしてる最中に、雷に打たれてさ。 「俺の腕からちっこいのが飛ばされたのを覚えてる。あいつはもう……死んじゃっただろう。けど、アリエーテが、そっくりでさ」 ナラゴニアでも、俺が一番面倒を見てたんだよ。 「それをリオがよく拗ねてた、ボクにもちゃんと手をかけてよって」 苦笑したペッシは首を振り、話を続けた。 「俺はやっぱり、俺だけ楽しんで生きてちゃいけないって気になる…」 「だからっ」 ふいに側からきつい声が飛んできて、各々顔を上げた。 「だからっ、ボクも探すって言ったじゃないか。インヤンガイに帰属して、そっから何度でもナラゴニアへ行こうって!」 水色のメイド服姿のアクアーリオが険しい顔で拳を握っていた。 「こんにちは、アクアーリオさん。私たちはペッシ様とアクアーリオさんの話し合いの立会いと、ペッシ様のアリエーテ様探索に随行するために参りました」 固まった空気を切り崩したのは、やはりジューンだった。柔らかな口調、宥めるでもなく押し付けるでもなく、今ここで何が起こっているのかを話すだけのことばに、アクアーリオはぎらりと睨み返す。 「貴方には相沢様もリーラ様も居る。アリエーテ様を探しに行く気持ちを分かって差し上げて下さいませんか」 「、わ、かってる!」 拳を握り締めたまま、アクアーリオは席に着こうとさえしない。 「アリエーテが一人ぼっちだってこと、わかってるよ、ボクだって! でも、ペッシは一人で探しに行って、一人でナラゴニアに帰るつもりなんだ! じゃあ、何のためにここにボクを連れて来たんだよ! ボクだって、今だってまだ必死で一所懸命にここに馴染もうとしてて…っ」 小刻みに震える体は怒りを抑えかねているのか、それとも置き去られる恐怖からか。歯を食いしばる音が響き、堪えかねたように呻きが漏れる。 「ボクが邪魔なんじゃないの………結局、ペッシも厄介ものを押し付けて逃げるってことなんだろ……アリエーテが誰かに傷つけられることなんてないの…知ってるくせに……アリエーテは……『最愛の娘』になれる……あの目で見られたら……誰も彼女を傷つける気にならないって……知ってるくせに…」 「リオ…」 「なれなれ、しく、呼ぶな…っ」 俯いたアクアーリオの顔からぽたぽたと涙が滴り落ちる。きつく握りしめたメイド服はくしゃくしゃだ。 「かわいそ…だった………ら…助けて……くれたんだろ……も……めんど……になった…だろ…」 「リオ、違う、それは」 「本当に迷惑だよネー。自分のことしか考えないんだもんネー」 弁解しようとするペッシのことばをワイテがぶった切った。 「アクアー君の所為であっしパパさんにディラックの空に投げ出されたわけだシ。 ペッシ君と離れたくないと言いながらこの間のパパさんとの戦闘だと真っ先に自分から死のうとしたし矛盾してるよネー」 「っ!」 弾かれたように顔を上げるアクアーリオをきょろりと見やり、ワイテは手にしたカードをくるくる回す。マントを被った隠者の逆位置、それを眺めながら、 「自分の道は自分でしか決めれない、他人は助言しかできないのに自分の道に合わせろって駄々こねるんだもんネー」 「、だってっ!」 「出会いは一期一会、人の道は交わって離れるものなのにネ。死に別れようとした君が今度は離れたくないってそれはおかしいよネ?」 「……っっっ!」 「リオっ!」 「任せて!」 顔を真っ赤にしたアクアーリオが店を飛び出すのを、リーリスがすぐさま追いかけた。腰を浮かせたペッシは茫然とした顔でどすん、と座る。 「邪魔になってる、なんて……そんなこと…考えてた、なんて…」 「いやぁカードで嫌われ者をしろってでたかラ」 ワイテがしゃらっと応じる。 「言わないで済むなら越したことはなかったけド」 「……お茶を淹れてもらおうか」 優が手を上げてハオを呼んだ。 「リオ、待って!」 ターミナルの中をどこへとも知らず突っ走るメイド女装少年と、それを追いかける美少女の姿は目を惹いた、特に美少女が必死な声で叫んでるとあればなおさら。 「待って!」 「いやだ!」 「待ってってば!」 「っ!」 ついにリーリスがアクアーリオを捕まえたのは、ターミナルの地理を知っていたからだ。闇雲に突き進む道が行き止まりだと気づいたアクアーリオの腕を掴み、はあはあと息を切らせてみせながら、 「ペッシはナラゴニアでアリエーテを探して、ナラゴニアの復興をしたいって」 「どこでも行けばいいんだ! 何でもすればいいじゃないか!」 どうせボクはどこにも必要とされてない、そういうことだろ! 「アクアーリオ…リオ! しっかりして!」 リーリスはいじけた相手の腕を掴み、思い切りがくがく派手に揺さぶった。顔を近づけ、苛立ったふうに背ける耳に、大声で叫ぶ。 「キミには相沢が居るでしょ! インヤンガイのリーラの下に帰るんでしょ! キミは1人じゃない…周りを見るの!」 「っ」 相沢、リーラの名前に、置き去った相手を思い出し、向かおうとする夢を甦らせたのか、アクアーリオが抵抗を止める。徐々に俯き、沈み込む。 「落ち着いた? ちょっと空からこの場所を見てみない? 絶対手を離さないから安心して」 「空、から…? あ……っ」 リーリスはアクアーリオの手を握り、一気に空中へ舞い上がった。 「見て、アクアーリオ。一面の樹海…これって全部世界樹の記憶なんだって。ここまで離れると人なんて見えない。今アリエーテはこの世界で1人ぼっちなの。だからペッシは探しに行くの…分かってあげて」 「……でも……ボクだって……」 ボクだって、まだ、一人、だよ。 掠れた声が呻く。リーリスは風に金髪を嬲らせながら、体を震わせるアクアーリオを見つめ、 「人には自分の世界を選ぶ権利がある。もしペッシがキミにナラゴニアに着いてきてくれって言ったら。そしてキミが着いて行ったら。キミは幸せになれる? キミが1番欲しい物はそこにないでしょ? そう言うことなの」 「一番……欲しいもの……」 「私は陰陽街再帰属希望者よ? ペッシの代わりにはなれないけど着いていけるわ。ね…友達になろう?」 繋いだ手からリーリスは吸精しなかった。いつもなら全開で事をスムーズに運ばせる魅了も、アクアーリオが高ぶった心を押さえるのを支えただけだ。リーリスの経験から言えば、これは非常に失敗しやすい方法だった。けれど、彼女は空中に二人浮かんだまま、そっとことばを継いだ。 「もしかしてリーラの所に戻るまで、リオって呼ばれたくないの? リオって呼んじゃだめ?」 魅了を使えば簡単だ。塵族の名前の呼び方に許しを得るなぞ奇妙でおかしな話だ、彼らはリーリスの食事にしか過ぎないのだから。 けれど、リーリスはじっと樹海を見下ろしたまま、手を繋いだアクアーリオに囁きかける。 「一緒に再帰属できるよう頑張ろう?」 愚かしくて意味のない、ふざけた願いだ。なのに、彼女は今、真摯にそう願っている自分に気づいている。その願いの先にいる相手を想っている。 「……いいよ」 リオって呼ぶのを許すよ。 風に舞い乱れる茶色の髪の陰から、小さな声が同意する。 リーリスは微笑んだ。 『フォーチュン・カフェ』に戻った二人を迎えたのは、優のしつらえた温かなティータイムだった。 風舞う高空で冷えた体を柔らかなココアの匂いと温もりが包む。 「ボクは…」 促されてアクアーリオが口を開いた。 「ボクは…ここで初めて、明日も、生きてられるって、思った」 ナラゴニアで毎日毎日異世界へ侵略の手立てを求めてナレンシフで出かけ、敵に遭遇しては戦い勝ち残り、新たな情報を持ち帰り、パパ・ビランチャに褒めてもらう。怪我をして帰る時はこのまま捨てられるかも知れないと思う。実際、そうやって使い物にならなくなったと異世界に置き去られた子どもも居る。あの子はどうなるの、と聞けば、消えるのさ、とこともなげに言い放たれて、体が竦んだ。 少しでも強く少しでも早く、パパとママの願いを満たして果たさなくちゃ、ボクもいつか消されるのだ、あんな風に、枯れた葉っぱのように。 戦うほどに強くなる、新たな技や能力が増える、けど気のせいだろうか、少しずつ自分が空っぽになる、何を望んでいたのか、何を楽しみにしていたのか、自分が何をしたいのかさえ、どんどん忘れ去っていく。 「ママが言った……いつか、リボンのように解けて消えるの」 そうなんだと思った。そうなるしかないんだと思った。そうなる前に、少しだけでも、何か欲しかったけど、もう何が欲しいのかわからなくなっていて。 「……ペッシと居る時だけ、何が欲しいのか、少しわかる気がして」 でも、ここへ来て、少しずつ、自分の中に何かが戻ってき始めた。失ったもの、失ったことさえ気づかなかったものが。それは怖くて、温かで、優しくて、切ないものだった。 「嬉しくて、抱き締めてて……もっと先へ行ける気がして」 なのに、ペッシが旅立つと言う。いつの間にか、アクアーリオの側で全く違うものを見ていた相手に気づいた時、心を襲ったのは怒り。 「もっと、くれなきゃ、だめだって思ったんだ」 アクアーリオは顔を覆う。 「だって、ボクは……頑張ったんだもん…」 ひっく、としゃくり上げる声に、ペッシが泣きそうな顔になって声をかけようとするのを優は押しとどめた。 「リオ?」 「……」 「リオはペッシの為に自分の望み……リーラとインヤンガイを捨てる事が出来るか」 「え…?」 擦り過ぎて真っ赤になった顔を振り仰いだアクアーリオに、優は微笑み、新たなお茶を淹れる。 「俺には、大切な人がいた。その人とはリオもあった事があったな」 「ボクが会った……? ………あ」 満更報告書を読まないわけでもなかったのだろう、何かに思い至ったアクアーリオが目を見開く。その青い色に、旅立った人の望む世界を思って、優は続ける。 「その人は譲れない決意と覚悟があって、別の世界へと1人、セクタンだけ連れて旅立っていった。俺は彼女を追いかけなかった。追いかけられなかった。自分の望みを彼女の為に捨てる事ができなかったから」 「……」 アクアーリオもペッシも、食い入るように優を見つめる。 「リオ。人生は選択だ。選択の繰り返しだ。時に大切な人と別れても、対立しても、どちらかの道を、自分の望む道を選ばなければならない時がくる」 ああしかできなかっただろうか、と考える。別な道があっただろうか、と思い出す。繰り返し繰り返し、問いかける、自分の選択は本当に正しかったのか、と。 「でも、一緒に過ごした過去はなくならない………思い出はなくならない」 悩みも、迷いも、全てを封じ込めて、過去は香気を放つきららかな宝石になる。 「友達ならば……ちゃんと見送るべきだよ、リオ」 低い声はまだ震えてしまうけど。 「じゃないときっと、後悔してしまう」 「……好き、だった…?」 アクアーリオの問いに、優は笑った。 「……好きだよ……」 今も、まだこれほどに。 友よ。 もう、振り返らない背中ではあるけれど。 静かな沈黙がテーブルを満たす。 「………いって、きます」 ふいに、アクアーリオが俯いたまま、呟いた。 「え…?」 「ペッシが行くんじゃない」 ぐい、と顔を上げる。依怙地な瞳が濡れている。唇を尖らせて、それでもはっきり。 「ボクが行くんだ。だから、いってきますっ!」 「……ああ、そうだな」 ペッシが微かに笑って付け加えた。 「……無事を、祈る」 「そういやアリエーテ君って赤ん坊らしいけど話せるノ? 話せなかったら予言の内容も伝えられないよネ? それともテレパシーなのかナ?」 ナラゴニアに入ったワイテは早速大アルカナ22枚のカードを使い、アリエーテの居場所を探した。赤ん坊なら、示す図柄は太陽だろう。 「音は出せるんだ」 小鳥みたいに、ぴゅるるる、という音。 「それをことばにする機械を持ってて、簡単な会話なら出来た」 きょろきょろしながらペッシは崩れた瓦礫の中を覗き込む。 パパ・ビランチャと住んでいたという場所は、ロストレイルが突っ込んだ時に崩壊したままで、片付けもまだ途中だった。 「しかしアリエーテ君の予言ネー。確かにそこはパパさんの言うとおり、正確じゃないかもしれないネ。あの時、アクアー君は列車も人質も持ち帰れる言ったけど、実際できたのは車両半分と2人だけだもんネー」 ワイテはひたすら、アリエーテの予言の力に興味があるようだ。 「タイムの視界でも見つからないな」 優もワイテが示した方角をオウルフォームセクタンのミネルヴァの眼であたっている。周囲の人達に聞き込みもしたが、パパ・ビランチャの一党はいささか煙たがられてもいたようで、いなくなってせいせいしたよ、と言う者までおり、情報はなかなか集まらなかった。 「アリエーテに予知能力があるなら……ペッシが来る事もわかってるんじゃないかな」 「え?」 驚いたようにペッシが優を振り向く。 「そういえば…そうだな」 けれど、とペッシが眉を寄せる。 「アリエーテは興味のあることしか予知しないんだよ」 たとえば、今日、南の窓に小鳥が3羽やってくるから、捕まえたいなら餌を撒いて準備しておけとか。 「…それって予言なノー?」 ワイテがやれやれと言いたげに尋ねる。 餌を撒いたから小鳥がやってきた、そういう状況でもおかしくない。 「けれど、来る小鳥はきっちり3羽なんだよな」 ペッシは瓦礫の向こうに飛び降り、おーい、アリエーテ、と声を張り上げる。 「太陽は……あレ?」 ワイテがタロットの示す方向に首を捻る。 「ペッシ君? アリエーテ、土の中にいるヨー」 「は?」 「土の中……? あ…っ、そうか!」 ペッシがいきなり駆け戻ってきて、崩れた建物の壁に沿って回り始める。 「確か、この辺りに落とし穴が」 「落とし穴?」 「どうしテ?」 優もワイテも首を傾げる。 「いや、ほら、他のちっこいのが、世界図書館が攻めてくるなら、落とし穴に落とせーって造ってて」 「……平和だネー」 「うーん」 侵略者の中にあった途方もない無邪気。それは無知からくるものだとわかってはいるけれど、世界を白と黒に分けて落ち着こうとした傲慢であるとも知っているけど、こんなに端的に示されるとどうも。 「……あ、そうか…」 ふいにぽかんとした顔でペッシが立ち止まった。 「だから、アリエーテ、『私は落とし穴に落ちる』って言ったのか」 「え?」 「いや、落とし穴をちっこいのが掘っていた時、アリエーテがいつもみたいに唐突に言ったんだよ、『私は落とし穴に落ちる』って」 誰がお前を落とすんだよ、俺か、リオか、って大笑いしたもんだけど。 「じゃあ、やっぱりここに居るんだ……アリエーテ! アリエーテ! 応えろよ、アリエーテ!」 「しっ」 優が叫ぶペッシを制した。周囲のざわめき、雑踏、その有象無象の中で微かに響いたものがある。そら、もう一度。 ぴゅ、ぴゅ、るるる。 「ペッシ!」 「聞こえた!」 ペッシが走り込んだ先の瓦礫を、そっとそっと取り除いていく。大きな石が倒れている。何かの壁だろうか。瓦礫を分けていくと、その下に柔らかな土が見え、ひんやりとした薄暗がりがあった。指で押さえても沈み込む。掘り込まれてならされた土。その上を覆うように石が蓋され、それで崩壊は免れたが、代わりに誰も見つけられなくなってしまったということか。 「そっと……そっとだよ、ペッシ」 「この石を20㎝持ち上げれば、ペッシ様が潜り込めると思われます。落とし穴の傾斜角度、形状から申し上げて、それ以上は逆にアリエーテ様を埋めることになるかと」 「ジューン!」 「遅れて申し訳ありません。あちらで崩落した家屋よりの脱出を手伝っておりましたので」 巨大な石の端を軽く掴んだジューンが頷き、そのまま大きなウェハースを持ち上げるようにしずしずと上げていく。それに伴い周囲の土がざらざらと崩れ始め、ペッシが緊張した顔で手前の方から中に滑り込んだ。ほどなく、小さな歓声とぴゅるるる、という声が聞こえる。 「……た、のむ…」 そろそろと穴の隙間から差し出されてきたのは、灰色の布に包まれた、まさに小さな赤ん坊だった。胸のあたりに金色の円盤のようなものを抱いていて、汚れた頬に笑みを浮かべ、優を見上げる。 「…っ」 衝撃が来た。この子を守りたいと願ってしまう強烈な欲望。 「不思議な波動ですね。内分泌機能の変化をもたらすようです」 ジューンが石を支えて、ペッシが抜け出すのを見守りながら、興味深そうに首を傾げる。 「ああ、つまり、これが」 アクアーリオが叫んでいた『最愛の娘』とやらの力なのか。 優は苦労してアリエーテから視線を逸らせる。 「もうよろしいでしょうか、ペッシ様」 「だいじょう、ぶ……ありがとう」 「では、降ろします」 ずおん、と地響きをたててジューンの手から離れた石が地上にめり込み、一気に崩れた土の中に埋まっていく。もう少し遅ければ、アリエーテもろとも地下に落ち込んでいたかも知れない。 「無事でよかった、アリエーテ!」 ペッシは優の手から赤ん坊を受け取ると、金色の円盤を口許にあててやった。 『埋まると言わなかった』 感情のない淡々とした声が響く。 「あ、ああ、そうだよな。でも、お前を助けてくれたのは、ここに居る人達だぞ、お礼を言わなくちゃ」 『ありがとう』 「どういたしまして」 にこやかに微笑む優は微妙に視線を逸らしている。 「あのサー、こうなることを予知していたなら、どうして防がなかったのサー」 いろいろと傍迷惑だよネー。 ワイテがカードを弄びながら突っ込む。 『防ぐ事象ではない』 「は?」「いやだって、死にそうになったんだシー」 『法則に叶った』 「君が死ぬことが?」「落とし穴に落ちることガ?」「私達に見つけ出されることが、でしょうか」 『全て符号する』 「あの、さ」 首を傾げる優、ワイテ、ジューンにペッシがそっと口を挟む。 「いつもこんな感じなんだ。だから、パパ・ビランチャも量りようがないって」 ワイテが無言でカードを引き抜く。魔術師の正位置。 『掘られた穴に落ち、見つけ出され、抱き上げられる。私は未来である』 「アリエーテ様」 ジューンがまじまじと赤子を覗き込む。 『埋められ、探され、見いだされる。意味を全うしている』 「意味を全うする」 優が考え込む。 きゃきゃきゃ、とアリエーテは笑った。ぴゅるるる、と機嫌よく歌い、彼方の空へ手を伸ばす。誰もが誘われて、視線を上げる。 「もう一度、飛ぶ、か」 ペッシが呟いた。
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