オープニング

 これは世界樹旅団に攻め込まれてターミナルが騒然となる、少しだけ前の話──。

 0世界は、いつも平和だった。
 商店が立ち並ぶメインストリートにはトラムが走り、様々な人間が行き交っている。トカゲのような鱗を持つリザードマンに、緑の肌をしたエルフ。羽を生やした女性は、買い物袋を手にふわふわと空を舞って自宅へと帰っていく。
 異世界からやってきた者たちは、この0世界を仮の住まいとして暮らしていた。
 そんな雑踏の中。紙袋いっぱいに買い込んだ中華点心を次々にほうばりながら、少女は心地よい気分で道を歩いていた。純白の花嫁衣装姿だが、ウェディングドレスを着ているぐらいで注目を浴びることは、この世界ではほとんどない。それが心地よくもあり、少々……残念なことでもあった。
 ニコル・メイブ。それが花嫁の名前だ。
 健康的に日焼けした浅黒い肌。それにドレスの白がよく映えている。
 肩が触れ合うような人込みの中である。自宅の方へと歩いていこうとして脇道に入ろうとすれば、たまたま進路が重なり、向こうからやってきた者とぶつかりそうになる。
 道を行く彼女の“純白”に、影が射すように一瞬“漆黒”が交差した。食べていた饅頭を落としそうになり足を止めるニコル。
「失礼」
 しかし相手は無駄のない身のこなしで、彼女の脇を通り抜けた。漆黒の民族服──中華風の長袍に身を包んだ優男である。
 見たことがある奴だ。と、その横顔に目をやりニコルは思う。相当使う拳士だと聞いたことがある。ニコルは彼の動きを目で追おうとする。確か名前は──
 その時。
 前方で、大きな声が上がったのだった。

「泥棒だ! 捕まえて!」

 物盗りか。ニコルは視線を戻し、前方を見た。強引に人波をかきわけてこちらの方向へ逃げてくる盗人の姿が目に入る。
「ったく」
 保護されたばかりでここでの生活の仕方をよく知らないのだろう。ニコルの中で、意識しないうちに覚醒前の感覚が甦った。
 悪さを働く者を捕まえていた時の感覚だ。
 0世界といえど、出身世界と同じように盗みを働いたり、他人を傷つけようとする者は時折り居る。
 ニコルはそういった連中の扱いには慣れていた。
「どけッ」
 花嫁姿の少女は応えず、ただ唇の端を歪めただけだった。そして食べかけの饅頭をいきなり男の口に押し込む──!
「ムグッ!?」
 次にその腹に掌打を叩き込もうとした時、また漆黒の影が視界の端に映り込む。
「!?」
 あの男だ、と、ニコルが視線をやった時。全く物音をさせずに、彼はすでに盗人の背後に回りこんでいた。そのままポンと盗人の背中に手を触れる。
 ふつん。
 途端に操り糸が切れたように盗人はその場に崩れ落ちた。
「おっと」
 ニコルは半ば慌てて膝をついた彼が倒れないように抱きとめた。盗人はすっかり意識を失っている。
「ありがとう、助かったよ」
 仕方なく男を地面に寝かせた時、ようやく追いついてきた店主がニコルに向かって笑顔を見せて頭を下げた。彼女が捕まえてくれたと勘違いしたのだ。
「いや……私じゃな……」
 彼女は店主に手を握られ、気まずそうに首を振る。ニコルは逃げるようにその場を離れようとして、もう一度回りを見た。

 だが、あの男の姿はどこにも無かった。


 * * *


 ツァイレンは買い物を終えて自宅に戻ったところだった。翠円門と書かれた看板の下をくぐればそこは住み慣れたボロ家である。
 武道家として道場を開いてはいるが、門を叩く者は数えるほどしかいない。それでも彼はこの世界での暮らしをそれなりに気に入っていた。
 「武道家」というのはマシな言い方で、実際のところ自分は「殺し屋」だと理解していたからだ。
 この世界にいれば、他人の命を奪わなくても済む。奇妙な隣人が彼を訪ねてきて、古き盟約を口にし誰かを殺してくれと頼んでくることもない。
 彼は自分の世界に存在する限り、千年近く受け継がれてきた純粋な“力”でしかなかった。力に不変性などない。いつかは滅びるものだとツァイレンは分かっていた。しかし自分のせいで正当な後継者であった兄を死なせてしまったことから、その脈々と受け継がれてきた血の道から退場することもできなかった。
 自分が覚醒したのは、おそらく運命だったのだ。
 最近では、彼はそう思うことにしている。
 この世界に来てから様々な人々に会った。どれも刺激的な体験だった。悪くない。ツァイレンはかぶりを振る。友人もたくさん出来た。
 あの血の道のことを考えなくても済む。
 そんなことを考えながら、彼は門をくぐり、ふと足を止めた。

「お帰りなさい。遅かったね」

 見れば庭木の下のテーブルに、一人の少女が座って待っていたのだった。白い花嫁衣裳が眩しく見えてツァイレンは目を細める。花嫁はテーブルの上に肉饅や桃饅、胡麻団子などを広げてせっせと口に運んでいた。
「食べる?」
 と、肉鰻の袋を差し出されると、ツァイレンは微笑み手を上げてそれを固辞した。
「こんにちは、お嬢さん」
「ニコルだよ。ニコル・メイブ」
 ごっくんと食べかけの饅頭を飲み込み、彼女は名乗った。ツァイレンはとうに気付いている。先ほど道ですれ違った少女だ。おそらくはあの顛末を見て──。
 それにしても。
 彼は少女の目をじっと見つめた。なんという輝きだろう。金色に輝くそれは──鷲のような猛禽類を思わせた。獲物を射抜く力強さと、透き通るような瑞々しさを秘めている。
 見つめていると、心の奥を見透かされそうな気がして、ツァイレンは目を逸らせた。照れたように微笑みながらきびすを返す。
「喉を詰まらせたらいけない。お茶を淹れてきてあげましょう」


 * * *


「困るんだよね、ああいうの。やるなら感謝もされてってよ」
 ニコルが先ほどの盗人の話を持ち出すと、ツァイレンはただ笑って茶を一口飲んだだけだった。
「追いかけてきたおじさんに頭下げられてさ。変な気分だったよ」
「いえいえ。あれはあなたの手柄ですよ。私は少しお手伝いをしたまで」
 彼はただ静かに微笑みをたたえている。ニコルはその横顔を見て目を細めた。さて、どうやって本題を切り出してやろうか。彼女は下唇を噛む。
「──その、あなたの衣装、素敵ですね」
 ふと、ツァイレンが言った。
「え、そう? 自分でつくったの」
 そんなことを言われ、ニコルは気を良くしたように微笑んだ。手合わせを、と言いかけた言葉を飲み込んで嬉しそうに答える。
「そうなんですか、ご自分で? それは凄い。本当に素敵ですよ」
 穏やかにツァイレン。
「しかし……つかぬことを聞くようで恐縮ですが、それは婚礼の際に着る衣装でありませんか? あなたにも大切な人が?」
 うん。ニコルは頷く。そうだよ。
 何か調子狂うなと思いながらも、彼女は急に言葉少なげになり説明した。
 元の世界に残してきた、夫になるはずだった男性のこと。大好きな人なの、と結ぶ。……だったとは言わない。自分はいつか彼の元に帰るのだから。
「そうですか」
 ツァイレンは目を伏せた。
 二人の間に唐突な沈黙が訪れ、ニコルは奇妙な感覚に襲われた。彼がどことなく寂しそうに見えたからだ。
 人は彼を“三指虎殺”と呼ぶそうだ。虎を三本の指で仕留めたことからその二つ名で呼ばれるようになったという。とても信じられなかった。
 ニコルが今まで捕まえてきた凶悪犯たちは、皆それと気づかせる何かを匂わせていた。目の色、気配、身のこなし等々。
 しかし目の前の男は違った。ただの平々凡々とした人物にしか見えない。今まで出会ってきた誰とも違う。
 やはり、無性に──手合わせをしてみたくなった。
「あのさ。わたし、実はあなたにお願いがあって」
 ニコルはキュっと拳を握り、やおら立ち上がった。

「──達人と名高い“三指虎殺”、マスターレンに一手ご教授賜りたく」

 不敵な眼差しを向ける花嫁の真意は、指南では無い。力試しだ。
「……駄目?」
 と、可愛らしく小首を傾げて顔色を窺ってみる。
 プッと吹き出すようにツァイレンは笑った。
「構いませんよ。しかし、何故?」
 ことり。静かに彼は手にした杯を置く。
「あなたはすでに強いはず。先ほどの盗人を捕まえようとした動きを見ました。あなたは警吏のような……悪人を捕縛するようなことを生業にされていたのではないでしょうか」
 当てられた。ニコルは眉を寄せる。
「私なぞで、力試しをする必要もないでしょう。それにあなたには大切な人がいるのだから、怪我をしては元も子もない」
「彼のことは関係ないよ!」
 思わずムッとしてニコル。怪我をするとは随分な言われようではないか。
「最初から勝負が決まっているような言い方して」
「……確かに。失礼しました」
 さらりと謝るツァイレン。ニコルはまくしたてるように続けた。
「私はね、ただ自分の強さを試したいの。私は」

 ──徹底的に私で居続ける為に強くなきゃいけないの。それだけ。

「妙ですね」
ツァイレンはぽつりと言う。「あなたはあなただし、私は私だ。強さと自己の有りようは関係がないのでは?」
「そんなことないよ」
「なら──」
 ツァイレンは一度言葉を切り、真っ正面から彼女を見据えた。
「強さとは、ある意味では他人を害する力であり、究極的には他人を殺すための力です。あなたはそれでも強くありたい、と?」
 こくりとうなづくニコル。
「分かりました」
 そう答えたツァイレンはいつの間にか立ち上がっていた。え──? ニコルはいつ彼が動いたのか全く分からず、戦慄を覚えた。
「そういうことであれば、手加減はしません。あなたの覚悟を見せていただきましょう」

 彼の顔からはすっかり笑顔が消えていた。

 0世界の空は変わらない。今日もただ、ただ晴れた青い空が広がっている。しかし翠円門を取り巻く木々は葉を生い茂らせ、彼らの上に影を落としている。昼間のはずなのに、ばかに暗いじゃないか。ニコルは思う。まるで夜だ。こんなに暗い場所がこの世界にあるのか。
 花嫁は白く輝く衣装をまとい、独り、暗い陰に立つ。


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!注意!
企画シナリオは、便宜上、参加枠数が「999」になっていますが、実際には特定の参加予定者のために運営されています。

この企画シナリオは下記のキャラクターが参加予定です。他の方のご参加はご遠慮下さい。万一、参加予定でない方のご参加があった場合は、参加がキャンセル(チケットは返却されます)になる場合があります。


<参加予定者>
ニコル・メイブ(cpwz8944)
ツァイレン(chax5249)


※このシナリオは、ナラゴニア襲来以前の出来事として扱います。

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品目企画シナリオ 管理番号2148
クリエイター冬城カナエ(wdab2518)
クリエイターコメントこんにちわ。ご指名ありがとうございます。
冬城カナエです。

詳細なオファーをいただきましたもので、わりとそのまま使わせてもらい(笑)、翠円門番外編にいたしました。
またせっかくですので、ツァイレン側の気持ちや思惑もあえて入れてあります。
彼が態度を変えたのも、彼なりの考えがあるようです。

さて、ご存知の通りツァイレンは手合わせをする時は、必ず相手に「なぜ強くなりたいのか」を尋ねます。
答えはいただきましたが、ツァイレンはご覧の通り納得いってません。
ニコルさんが「自分が自分であるために」というのは、どういった背景や思いから生まれた言葉なのでしょう? そこのところもう少し詳しく深くお聞きしたいです。
そしてニコルさんにとって「強さ」とは何なのでしょう。その問いについても、よろしければ答えをください。

あと……もう一つだけ確認です。
「手合わせ」にしますか「勝負」にしますか?
勝負の場合は、プレイングの内容を加味した上で、わたしが判定をして結果を決めます。
(これは全PCさん共通の判定基準があります)
手合わせの場合は、勝敗はつけません。

確認事項が多くて申し訳ないです。
そんなわけで以下を中心にまとめていただければと思います。
・どんな戦法でツァイレンと戦うか
・なぜ強くなりたいのか。「自分が自分であるために」の意味。
・強さとは何か
・「手合わせ」にするか「勝負」にするか

タイトルは十五夜の美しさを詠んだ有名な漢詩から拝借しました。鴉が住んでいようとも、ニコルさんは月のように美しく陰を照らすはずですよね(笑)。

では、よろしくお願いいたします。
イベントシナリオがありますので、少し長く製作期間をいただいております。
ご堪忍ください。

参加者
ニコル・メイブ(cpwz8944)ツーリスト 女 16歳 ただの花嫁(元賞金稼ぎ)

ノベル

 あの人が言っていた。
 
 相対する者がいたら脅威か敵か見極めろ
 敵ならば友と同等の敬意をもて、と。

 *

 広い庭の中央にぽつりと立ったニコルは、離れて佇む黒衣の男を見ている。彼は何の表情も浮かべず、構えもせず。ただ、ゆっくりと両腕の袖をまくっていた。
 双方とも武器の類は持っていない。素手での真剣勝負だ。
 ニコルは心の中で呟く。
 貴方が脅威なのか敵なのかは解らない。でも、敬意を払うべきだと思ったの。
 だから──本気でいくよ。

 木に停まっていた鳥がいたのか。鳴き声を上げて数羽が飛び立つ。それを合図に二人は動いた。
 滑るように横へ動くツァイレン。ニコルは相対しながら反対方向へ動き、間合いを取る。合っていた目が離れた瞬間、距離を詰めたのはニコルの方だ。
「はッ」
 軽やかなステップとともに直線的に切り込む蹴りを放つ。ガツッ。ツァイレンは左腕でその威力を受け流した。
 が、ニコルは続けて双方の手刀による小技の連撃を繰り出した。それはまさに猛禽の嘴のように相手に襲いかかり、武道家の進路を阻む。
 彼女はここぞとばかりに相手の守りを崩しにかかり、空いた隙間へ拳を突き出した。当たった、と思いきや、全く手応えがない。
 見れば前方にいたはずのツァイレンの姿が消えている。
 嘘でしょ? いや、居ないはずがない! ニコルは自問自答し、目より感覚に頼った。左後方に気配を感じ、大きく回し蹴りを放つ。
 パッと飛び退いたのはツァイレンだ。
 今の蹴りのおかげで間合いに入らせずに済んだのだ。しかし武道家は彼女に息をも吐かせない。またするりと視界の端へと逃げていく。
 ニコルは半身に構え相手の動きを追った。
 考えるより、打て、だ。
 タンッ! 気配だけを頼りに彼女はステップを踏むように前へと跳ぶ。動きに合わせ円を描くように掌打を繰り出す。鳥が飛び立つような美しい仕草だ。
 見えなかった相手がその掌を受けた。二手、三手と受け流されようやくニコルはツァイレンの姿をとらえる。
 このまま勢いで押し切れば──! 拳の威力を増し一気に畳みかけようとするニコル。武道家の腕の間をすり抜け、拳を突き出す。
 
 ガツッ。

 最後にニコルは顔面に衝撃を受けて後ずさった。攻撃をすり抜けたつもりが逆だったのだ。
 決まったのは、ツァイレンが彼女の顔に繰り出した重い反撃だ。ニコルはサッと後ろへ退く。
 また二人の間に距離が生まれる。
 ──最後の一撃が見えなかった。
 冷や汗をぬぐいながらニコル。あの連撃の間をどうやってすり抜けてきたのか。それを思い返そうとした時、今度はツァイレンの方が走り込んできた。
 足払いから入ってきた連撃を、前へ避けて踏み込むニコル。そこへツァイレンの拳が滑り込んできた。彼女は彼の腕を払いのけるように、ぐるりと肘を当てて力を外へ逃す。
 が、それは誘い水だった。
 ツァイレンは電撃のような素早さでニコルの脇へ滑り込んだ。さらに一歩踏み込み、上に伸び上がるような蹴りを放つ。
「くっ」
 間一髪。ニコルはそれを背後に跳んでかわした。彼女の目は爛々と輝いている。

 ──見えた。

 誇り高き「大鷲の民」である彼女は特別な目を持っていた。集中することで高い動態視力を発揮することができるのだ。
 その目で、ニコルは見たのだった。
 今のツァイレンの動き、である。
 彼女の目は、完全に武道家の動きを捉えていた。呼吸とタイミングである。通常であれば呼吸を掴むところで彼は動き、相手の盲点に滑り込む。だから見えないのだ。
「見えたよ」
 ぽつり。彼女は言う。
 ツァイレンは眉を上げ、構えをとった。
「そんな動きしてたら、長くは戦えないよ」
 ニコルはすぐに思い至ったのだ。彼の動きは爆発的な瞬発力によるものだ。そんな動きをしていれば体力の消耗は著しい。持久戦は苦手なはずだと。
 フ、と武道家は含み笑いをする。
「よくぞ、そこまで。あなたが見たものは、我が流派の極意ですよ」

 我が流派。
 そうなのだ。
 人を殺害するためだけに磨き抜かれてきた技なのだ、これは。
 ツァイレンは目の前の少女に心中で語り掛ける。
 あなたはそんなものに手を伸ばしたいのか。

「なぜ、強さなぞ欲するのです」
 
 一気に、ツァイレンが懐に飛び込んできた。見える……見えるのにニコルの身体が追いつかない。拳が鼻先をかすり、突きだした左腕を掴まれた。
 ──長所は逆手にとられる、目に頼り過ぎたら駄目!
 ニコルは左腕を回すように力を抜き、うまく束縛から逃れる。
 ──八方と頭上から互い違いに攻めて来ると思え、私即ち半身は悪手、基本は面で捉え円で捌き点を穿つ。
 大鷲が舞うように、ニコルは両腕を振るいながら相手の間合いから逃れる。その動きは大きく円を描き、ツァイレンの拳は鋭い音をさせて空を切った。
 今だ!
 ニコルはタンッと地を踏み、遠心力を生かして相手の首に手刀を向けた。頚動脈を打って意識を失わせるもので、保安官助手である彼女が犯罪者を捕縛するために多用してきた技だ。
 その手首を黒い腕が掴んだ。なんと逆手である。
 ツァイレンは彼女の威力をそのままに、恐ろしく強い力で後方へと引いた。ニコルは完全にバランスを崩し、前につんのめるようによろけた。
 彼女の背中にツァイレンは容赦のない蹴りを放った。純白の衣装をひらひらと舞わせながら地面に倒れ伏すニコル。
 受け身は取ったが、今の一撃は効いた。ぜえぜえと息を切らしながら、背中の痛みを堪え立ち上がるニコル。
 彼女はそれでも構えを取った。

「私はさ」
 ニコルは言う。
「いつだってほんの少し先の私に期待したいんだ。飛んでる大鷲は掴めそうでなかなか届かないから」

 無言のツァイレン。彼の答えは刺すような眼差しと強固な構えだ。
「思った通り動くだけなら誰でも出来るけど、その先に期待するならその先に通用する力が必要で」
 言いかけて、ニコルはさらなる痛みに顔をしかめた。左足だ。今ので少々ひねってしまったらしい。
「ツァイレンは、さっきの男を私の暴力から守ったでしょ。つまり私の先をいった。強いってきっとそういう事」
「──その先、などありませんよ」
 ようやく答えたツァイレンの言葉はにべも無かった。
「それはただの死だ。強くなることはただ死に近付くだけのこと」
 言い終えた途端、ツァイレンは滑るような足運びでニコルに迫った。それは敢えてリズムを狂わせた動きで、ニコルにはどういった攻撃が来るのか皆目見当がつかなった。
 ええい、為せば成れだ。
 彼女は分からないままに強引に突っ込んだ。こちらのペースに巻き込んでしまえばいいのだ。何しろ、ニコルには“見える”のだから。
 ツァイレンは拳で首や胸など急所を狙い打ってくる。ニコルはそれを“見て”いなした。集中すれば分かるのだ。掴まれれば掴み返す。
 思った通り、武道家の拳はスピードが落ちてきていた。身体の動きに隠すように放つ拳も、精彩を欠いてきている。
 長引けば──勝てるかもしれない。
 ニコルは頭に鈍痛を感じながら思った。ツァイレンが凡庸な動きに身を落とすのが先か、ニコルの“目”が力を失うのが先か。
「あなたはその先、と言う」
 距離が出来たとき、ぽつりとツァイレンが言った。「その先に行った時、後ろにいたはずの人が居なくなっていたらどうしますか?」
 え? ニコルは意味が分からず眉を寄せる。
「先を見るのは良いことだ。しかし行き過ぎて人は気付く。自分の周りにいたはずの人々がことごとく屍になっていることに」
 ──この私のように。ツァイレンは最後に付け足した言葉を自らかき消すように、再度ニコルに間合いを詰めた。

 その動きは、今までと全く違っていた。

 ぐるりと大きく回り込み、低い姿勢から拳を繰り出す。避ければ今度は反対側を突いてくる。そのスピードに着いていけずニコルが一呼吸間違えば、隙を突いてツァイレンは彼女の腕を掴んだ。
 それを振り払おうとした時、花嫁衣装の袖が無惨にちぎれた。
 あっ、と動揺したところをもう片方の腕を掴まれた。彼女はそれを翼をはためくように振り払おうとするが、相手の腕は鉄の棒のように曲がらなかった。
 捻らなければ外せない。
 まずい! ツァイレンのもう片方の手が自分の喉元に迫ってくるのを見て、その何万分の一秒の刹那、ニコルは悟った。
 ──もう駄目だ。避けられない。
 空いた片手を戻したとしても、彼は無慈悲にそれを打ち払い、次の瞬間には彼女の首を掴み、その喉骨を砕くだろう。
 ニコルはツァイレンの冷淡な目を見た。
 この男は本気でニコルを殺そうとしている。

 思い出した。

 同じ大鷲の目を持つ男。彼もこの目でニコルを見た。
 同族だろうが何だろうが彼には関係がなかった。ただ目的を遂げるためにニコルが邪魔だったから。彼女の命を奪うために、彼は大鷲の目でニコルを見据えた。
 命からがらに危機を脱した彼女は思ったのだ。

 彼は大鷲そのもの。大鷲に憧れる自分も、やがて──ああなるのか、と。


 ニコルの意識は白く遠のき、そして途切れた。


 *

 小鳥のさえずりに、はっと目を開くニコル。
 目に映るのは無機質な0世界の空と木々の枝だ。彼女は木陰の草の上に寝かされていたのだった。目を酷使したせいで、ひどい頭痛がする。ニコルは頭を振り振り、半身を起こす。
 すると額から湿った布が身体に落ちた。手当てをしてくれていたのか。彼女は布を手にし、すぐそばにあの男が座り込んでいることに気付く。
「あれ、私……」
 彼女の意識が戻ったことに気づき、ツァイレンが振り向いた。何事も無かったかのように柔和な笑みを向けてくる。
「気分はどう?」
「ん……」
「覚えていないのかい? あなたの技を少々拝借した」
 と、困惑した様子のニコルに手刀を作ってみせ、ツァイレンは片目をつむってみせた。
 あの時、彼はニコルの喉骨を砕くのではなく、首に手刀を当て彼女を気絶させたらしい。彼女はようやく自分が勝負に負けた顛末を悟った。
 殺す気はなかったということか。
 ニコルは嘆息した。だというのに、あれだけの殺気を放てるなんて……。
 改めてまじまじと武道家を見て、彼女はその手にあるものに気づいた。針と糸?
「ああ、そっか」
ニコルは自分の破れた袖を見て、もう一度息をついた。「大丈夫だよ、気にしないで。また縫えばいいんだし」
「あなたの大切なものを。本当に済まない」
 そう言って頭を下げるツァイレン。先ほどとは全く別人だ。殺気など微塵も感じられない。
 “強さ”とは何なのだろう。彼を見ていると、いよいよ分からなくなってくる。もう少しで何か見えてきそうなのに、まだ届かない。
 もどかしい思いを抱きながらも、ニコルは別のことを思い出す。
 戦いの最中に彼は言った。──自分の周りにいたはずの人々がことごとく屍に、と。
「ねえ」
 ニコルは心の赴くままに問うた。
「あなたにも大切な人がいたの?」
 その視線は、ツァイレンが填めている腕輪に注がれていた。以前から少し気になっていたのだ。それがどう見ても女物だったから。
「さすがに、よく……見ているね」
 ツァイレンは口端を歪め、そっと腕輪をなでる。その言葉は肯定の意味でもある。
「あなたには私のようになって欲しくない、と思ってね」
「そう……」
 十分な会話をしたとは言えない。しかし詳しく聞かずともニコルには分かっていた。この男の背後には、深い深い闇が連なっている。
 同じ闇を自分は行くのか、それとも引き返すのか──。

 まだ、答えは出せない。

「私はあなたの笑顔を見てると少し……なんでもない」
 ニコルは喉から出そうになった言葉を飲み込んだ。
「お茶、飲みたいな」
「ああ」
 取り繕うように言ったニコルに、ツァイレンは立ち上がる。
「分かった、用意するよ。ここでゆっくり休んでいくといい。だって我々には充分過ぎるほどの時間がある。……違うかな?」
「そうだね。破れた服を縫う時間もね」
 ニコルが言うと、武道家はプッと吹き出した。
 悲しむことも悩むことも、そして笑うこともできる。何しろ彼らは時の流れから放たれたロストナンバーなのだから。
 そうして二人は心から笑ったのだった。


(了)


クリエイターコメントご参加ありがとうございました!

いつにも増して、ちょっと闇が深い翠円門でした(笑)。
WRとしては個人的に翠円派の極意について触れることが出来て楽しかったのです。そんなこともあって、普段と違う翠円門になりましたね。

ニコルさんは中国武術にも造詣が深くていらっしゃるのでしょうか。
冬城もカンフー映画は大好きなのと、中国武術の演舞の動画を見るのが趣味だったりするのですが、実のところ理論よりビジュアル派なわけでして。
なんだか詳細なプレイングをいただいたのに、ビジュアルと演出でまとめてしまいました。お気に召されるといいのですけども……。

そんなわけで、悠久たる時間の中で、がんがん悩まれるといいかと思います(笑)。
そして、また肉まん等々お持ちになって、ぜひ翠円門にお越しください。
鴉ともども、歓迎いたします。
公開日時2012-10-06(土) 22:50

 

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