まさか同じ話をすることになるとは──。 世界司書リベルはそう呟いてから本題に入る。彼女は目を伏せ、珍しく言いにくいことを切り出すように小さな声で案件を話し出した。「ツァイレンと連絡が取れなくなりました。彼を止めていただきたいのです」 集まったロストナンバーたちは不思議そうな顔をする。武道家のツァイレンはロストナンバーの一人で、司書ではないが、他のロストナンバーたちの相談相手になるような節度ある人物だ。そんな彼が何をしでかすというのだろう? 皆は顔を見合わせた。「インヤンガイには、ランパオロンというカジノがあります。そのオーナーであるジェンチンはホンサイ地区の数あるマフィアのボスの一人ですが、我が世界図書館に協力してくれる現地の有力者でもあります。あなたがたの中でも、彼から助力を得た方もいらっしゃるのでは?」 リベルは集まった面々を見回し、言う。「ツァイレンは、そのジェンチンを殺そうとしているのです」 驚いたようにロストナンバーたちは声を無くした。「二人の間に何があったのか詳しいことは分かっていません。しかし私の『導きの書』に、不吉な予言が出ているのです。白い長袍に身を包んだツァイレンが、ジェンチンの首を捉え二秒で絞め殺す光景が」 その話を聞いて、ロストナンバーたちは思い出す。ツァイレンは“三指虎殺”と異名をとる暗殺拳の使い手なのである。その気になれば、彼はどこにでも入り込んで相手を仕留めることができるのだ。「ツァイレンはジェンチンと共に、先日までフォドウ(禍斗)という武装組織との戦いに身をおいていました。そこで何らかの意見の相違を得たのかもしれません。しかし我々は二人に何があったのかは関知しません。重要なのは──」 と、リベルは言葉を切って、もう一度静かにロストナンバーたちを見回す。「重要なのは、世界図書館はジェンチンを失う損失を見過ごせないということです。彼はその武装結社関連の混乱で頭角を現し、ホンサイ地区最大のマフィア連合体“虹連総會”の次期幹部候補になりました。彼は世界図書館にとって重要な人物です。あなたがたには、ジェンチンの命を守っていただきたいのです」 それって──。一人のロストナンバーが口を開く。それって、ジェンチンの方がツァイレンよりも大事ってこと?「忘れないでいただきたいのは、ツァイレンがこれからやろうとしていることは暗殺という反社会的行動だということです。あなたがたにお願いしたいのは、ジェンチンの命を守っていただくことです。そのためにツァイレンの暗殺を阻止してください」 リベルは肯定も否定もしなかった。 彼女は淡々と現在の状況を話す。現在のホンサイ地区では武装結社フォドウの殲滅作戦が展開されることになっており、地区全体は葬式のように静まり返っているそうだ。これから街のあちこちで無慈悲な殺戮が始まるのだ。ジェンチンは作戦の指揮のため、自らの手勢と共にショッピングセンターの跡地に陣取っているという。「あなたがたはジェンチンの傍にいればいいでしょう。──ああ、それから余談ですが、ジェンチンからは、このフォドゥ殲滅作戦に関わるなと釘を刺されています。またあなたがたが護衛に入ることも、彼には伝えていません。拒絶される可能性もありますが、そこはうまく対処してください。よろしくお願いします」 ねえ、そんなことよりさ。別のロストナンバーが、おずおずと口を出す。ツァイレンが説得に応じなかったら? 彼がやめてくれなかったら、どうすればいいの? リベルは発言したロストナンバーをじっと見つめた。「その時は、実力行使が必要になるでしょう」 そう言って初めて、彼女は顔を曇らせたのだった。=====!注意!シナリオ『【烟・火】龍を殺す君子』『【烟・火】瑠璃色の氷』への、同一のキャラクターによる複数参加(抽選へのエントリー含む)はご遠慮下さい。また、企画シナリオ『【烟・火】過越しの小羊』の参加者の方は両シナリオには参加できません。=====
壁一面に広がる大きな黒いパネルに、ホンサイ地区の地図が投影されていた。 それはまるで星空のようだった。明滅するのは赤や青、黄色の無数の点。 しかしその点は星ではなく、全て個人の位置を示しているのだという。 黄印はこの地区を支配するマフィア連合体『虹連総會』の作戦指揮官である。青印は作戦に参加しない総會の重要人物。そして赤印は殲滅対象のフォドゥの者を示していた。 ここはショッピングセンター「花神商城」である。虹連総會のマフィアの一つランパン(藍幇)が拠点にした場所であった。 見晴らしのよい頂上階のバーに陣を敷き、男は大型パネルの前に座っていた。彼はロストナンバーたちの来訪を全く歓迎しなかった。多数の部下に囲まれ、端末を片手にあちこちへと連絡をしながら、不機嫌そうにこちらを見る。 こんにちは、と、ぺこりと頭を下げる幼い少女、ゼロ。 淡々と名乗る花嫁姿のニコル・メイブ。 そしてスーツを着込んだ女刑事、流鏑馬明日。 「助力は不要と伝えたはずだが?」 「ジェンチンさん、ですね?」 話しかけたのは明日だ。彼女は刑事らしくきちんと名前を名乗ってから続けた。 「私たちは貴方を守るために来ました」 「守る?」 怪訝な顔をするジェンチン。その脇をすり抜け、ゼロは手近な者にスクリーンの点の意味を聞いている。 「貴方は命を狙われているんです」 「ハッ」 明日の言葉に笑い出すものの、彼はすぐに笑みを消す。 「助けは要らん」 「いえ。我々にはあなたを守る義務があります」 「俺が嫌だと言っても?」 「ええ」 ふうん、とジェンチンは間を置いた。 「……お前さんはデカか何かのようだが、それはマフィアの論理だぜ?」 言いながらも、最後にひらひらと手を振る。「好きにしな」 ありがとうございます、と頭を下げる明日。 ニコルはというと、じっと辺りの様子を伺っていた。皆忙しく立ち回っているが、一人だけ明らかに毛色の違う人間がいるのを見つけたのだ。目は落ち窪みまるで死神のような風貌だ。ニコルはこの男がジェンチンの護衛だろうと踏んだ。 「ねえ、ちょっといいかな」 チャキ、と彼女の手にいつの間にか銃が。銃口は真っ直ぐにジェンチンに向けられている。 「!」 がたんと周りの者が立ち上がる。いち早く反応したのは例の男で、手には既に銃が握られていた。当のジェンチンは腕組みをしてニコルを睨みつけるだけだ。 「冗談。その気なら、もう撃ってるよ」 すぐに銃を降ろし、試してみただけ、と上辺で非礼を詫びるニコル。 「ソン、よせ」 ジェンチンは男を嗜め銃を降ろさせた。護衛というより今の反応は殺し屋のそれである。 「無用心だなと思って。これから、このフロア全体を調べるよ」 ニコルは見ていた。ジェンチンの懐に銃のホルスターが見えたことを。先ほど銃を向けた時、一瞬だけ反応する素振りを見せたことを。 ツァイレンほど速くないが、それなりに使う相手だ、と彼女は判断した。 「私達を信じられないのも分かるよ。だって、私らはロストナンバーで、ツァイレンの仲間だもの。──でも、彼を止めに来た。それは本当だから」 じっと相手の目を見るニコル。 「ね、嘘でもいいから彼を殺さないと誓って。その嘘は貴方を助ける」 ジェンチンは眉を寄せる。 「悪いが、俺は奴の命より自分の命の方が大事だ」 「そうだよね」 視線を外し、ニコルはようやく銃をホルスターに戻した。 * ニコルと明日は手分けして、バーの内部や非常階段などを入念にチェックした。しかしゼロはジェンチンの隣りに椅子を持ってきて、ちょこんと座っていた。 ツァイレンは彼を狙っているのだから、ここが一番良いと思ったからだ。彼女は辺りの人間に状況を聞いていた。 「ふむふむ。そうなのですー?」 程なくしてニコルも戻り、ゼロの隣りに座る。 ニコルは確信していた。ツァイレンはすでにこの場に居る、と。 彼の手の温かさを思い出し、彼女は胸の奥が熱くなるのを感じる。振り向いてくれなくてもいい。ただ、彼に生きていて欲しかった。 そこまで考えて、ふるふると首を振り気を取り直すニコル。場の流れを見なくては。彼は機を伺っているのだから。 ──たぶん私、余裕の無い顔してる。何考えてるかバレちゃうよね。恥ずかしいな。 ふらりと軍人風の男がフロアに姿を現した。ヌマブチである。彼はジェンチンと何か話し、手近な席に腰を落ち着けた。賭け、がどうとか。 見ているとジェンチンはフォドウ幹部の探索に執心していた。リィ=フォという名前が連呼されている。 誰だろうとゼロが尋ねようとすると、モニターから悲鳴が上がった。 見れば、倉庫か何かの映像が映されていた。そこに十数人の女や子供が集まっていたのだ。赤い点の密集。フォドウの非戦闘員である。 明日も何事かと戻ってきた。 「そこに幹部は居るか?」 ジェンチンが尋ねると、現地の者は首を横に振る。 「なら、子供から撃ち殺せ」 息を呑む、明日とニコル。映像の中で銃声が上がった時、ジェンチンは素早く通信を切った。この数秒後、彼らは撃たれ全て屍となるのだ。 沈黙がその場を支配した。 マフィアといえど殺人が好きな者はごく少数だ。ジェンチンは自らの頬を撫で、不快さを隠しているようだった。 「──何でこんなことをするのですー?」 間を破ったのはゼロだ。彼女は普段と変わらない。 「報復だよ。奴らが、お偉いさんの跡取りを殺したからだ」 沈黙を返されれば、自身が補足した。「この流れはフォドゥ全員が死ぬまで終わらないだろう。もしツァイレンが俺を殺した、としてもな」 その名を聞いて、びくりと肩を震わせるニコル。 「でも、さっきゼロは聞いたです」 まどろむ少女は食い下がる。 「ジェンチンさんは、赤い点を青い点に変えることができるです。その権限があるってそこの人が教えてくれたですー。何でそうしないのです?」 「お前は頭がおかしいのか?」 ジェンチンは、ずけずけと言い放つ。 「そんなことをしたら俺が虹連総會に消されるだろうが──」 「大哥!」 そこで部下が声を上げ、映像が切り替わる。30代後半の男が映っている。それがどうやら件のリィ=フォらしい。 ジェンチンはゼロとの会話を打ち切り、その男の捜索に意識を切り替えてしまった。 * 明日はぼんやりと先ほどの映像を思い浮かべていた。 追いつめられ、殺される者たち──。 こんなことをしていていいのだろうか。 「ひどいね」 ぽつりと隣りでニコルが呟いた。彼女も同じ思いを抱いていたのだ。 女子供が殺される図がどうしても是とは思えなかった。 「死んでいい人など、どこにもいないのに」 明日も呟く。それは先ほどツァイレンに送ったメールの末尾に記した言葉でもあった。彼女は協力を提案し会話を求めたのだが、彼から返答は無かった。 ゼロはというと、またもやジェンチンに話しかけていた。 「ジェンチンさんは、どうしてツァイレンさんと喧嘩したのですー?」 「喧嘩なんかしてねえよ。どうだっていいだろうが」 彼もこの少女に聞かれるとついつい答えてしまう。 「なら、どうして仲良くなったの?」 そこで話に割り込んだのはニコルだ。彼女は想い人の言葉を思い出し、冷たい目で相手を見据える。 「彼はあなたのことを友達だった、と言ってた」 ニコルの言葉に、彼は頬をわずかに緩めたようだった。思い起こすように天を見上げる。 「あいつは、俺との賭けに一度勝ったことがあるんだ。ゲームはBJさ。奴は負け続け、ここぞという時に自分のカードを別のものにすり替えた。つまり、イカサマだよ」 どうしたことか、そう話すジェンチンはとても楽しそうに見えた。 「俺よりも素早く、気付かれないようにやりやがったのさ。……だから気に入った」 話を終え、小さく付け足す。「奴は、今回も俺より早く動くだろうな」 なるほど、とニコルは心中で嘆息した。おそらく彼の中では、かの暗殺者は友人のままなのだ。それを彼自身は残念に思っている。 「大哥!」 すると再度、部下がボスを呼んだ。 あるビルの屋上に炎の柱が上がる映像が映し出され、ジェンチンは立ち上がる。 「リィ=フォだ!」 騒然となった場の中で、明日はふと視界の端で動いた者に気付く。 ヌマブチである。彼は目立たない仕草で非常階段の方へ姿を消していく。追いかけた視線がニコルのそれと合う。 二人はそっと席を立ち、彼を追った。 * ゼロはパチパチと大きな目を瞬いた。 戻ってきた明日とニコルが仕入れてきた情報が驚くべきものだったからである。 ジェンチンはこの騒動の切っ掛けとなった事件で、実はフォドウと裏取引をし、自分の娘だけを助け出していたというのである。 つまり、彼は虹連総會の他マフィアを裏切り、その跡取りたちが殺されるのを見過ごしたわけだ。 「もし、ジェンチンが、肉工場で娘を助けることだけに腐心せずリィ=フォを叩いていれば、今回のフォドゥ虐殺は起こらなかった……ということらしいわ」 明日は非常階段でヌマブチを問い詰めて得た情報を話す。大きな声では話せないので、少し離れたブースで三人は輪になっていた。 「ツァイレンが彼を狙う理由も、何となく分かったね」 ニコルは自らのドレスの裾をなぞりながら言う。目をぎゅっと閉じまた開く。微かに聞いたツァイレンの声に、彼女は心を乱されていた。 「じゃあ、さっきの人たちは死ななくても良かった、ってことですー?」 明日は俯き、答えなかった。 いや、答えられなかったのだ。その答えが明快だったからだ。 「ジェンチンが、故意に今回の事態を招いたのかどうかは分からないわ。でも、父親として娘をどうしても助けたかったという……気持ちも理解できるわ」 「ジェンチンさんは赤い印を変えることができるです。それも一気に」 ゼロは口を開いた。 「死ななくてもいい人たちが沢山いるです」 先ほど殺されていた人々の姿が思い浮かぶ。淡々と事実を並べていくゼロ。 「ジェンチンさんはその中心にいるです」 彼女の言葉は論理となって積みあがり、一つの方向性を浮き彫りにしていくのだった。明日はうなづき、渦中の人物に目をやった。 すると、また別の騒ぎが起こっていた。種類の違うどよめきが湧き上がる。 モニターに映し出されたのは、赤いドレスの女。車に乗っており、その後部座席にカメラがパンすると、そこに二人の人物が座っている。 青いワンピースの少女と、金髪の女である。 「お久しぶりですわね。あなたにお願いがあります」 ジェンチンの顔から一気に血の気が引いた。 「時間がありません。簡潔に言いますわ。我々に付けられた赤印の半分を解除してください。そうしたらこの娘をあなたに返します」 * 突然の誘拐犯からの連絡で、花神商城のランパン本部は完全に麻痺した。 ジェンチンはうろうろと辺りを動きまわり、部下たちはどうすればよいのか次の指示を待ち、ある者は迂闊に声を掛けて叱責されている。 暫くすると、ジェンチンは呼吸を整え部下に通信を繋げ、と命令した。先ほどの女はミンイーという名で、どうやらフォドウ幹部らしい。 「心は決まりましたか?」 ミンイーが通信に出る。 「お前の要求は聞けん。やれば俺が殺される」 「もちろんそうですわね。でも、やらねばリウリーが死にますわ」 と、彼女はニコリと微笑み続ける。 「でも、確かに半分は多い。あなたにもしばらく生きていてもらわねばなりません。まず2割を解除してください。それならできるはず」 ジェンチンは画面の中のミンイーを見据えた。 「考えさせてくれ」 と通信を切ってから、彼は部下たちに声を掛けた。 「ミンイーはこの近くにいる。行け」 部下たちは命令されるがまま、バーから出ていってしまった。残った人数はほんの数人である。 計らずも人が減ってしまった。これは絶好の機会ではないか? ニコルは緊張した面持ちでバーを見回した。 「赤印を変えるです?」 とそこで介入したのがゼロだった。 「聞いたです。ジェンチンさんは、この事態を招いた責任があるです」 目を見開いて彼は少女に顔を向けた。 「お前、何の話を」 「だってジェンチンさんは肉工場の時──」 ガバッと彼はゼロの口を塞ぎ、抱えたまま脇へと連れ出した。残った部下を気にしているのだ。 「めったなことを言うな」 「でも、娘さんが生きているのが証拠ですー。さっきそんな放送も流れたですー。ゼロは気付いてしまったです。ジェンチンさんは戦えないフォドウの人たちを助けた方がいいですー」 ゼロはじっと彼を見上げる。 「娘さんが生きていることは状況証拠になりうるし、ゼロたちはそれを告発することも可能ですー」 そこまで言われて、初めてジェンチンは彼女の意図を察した。 「まさか、お前までこの俺を脅迫する気か?」 「ゼロはお願いをしているのですー」 「──ほほう、結構、結構。同じ考えの者がいるのは頼もしいでありますよ」 突然、話に割り込んだのはヌマブチだった。 その声の遠さに、奇妙なものを感じてゼロとジェンチンは振り返る。 フロアの入口に銃を手にした軍人が立っていた。 彼が身体をずらすと、その後ろにもう二人の人物が立っていた。 青い服の少女と、ベルダだった。 「リウリー!」 驚いたジェンチンは、自分の愛娘が戻ったことに目を瞬いた。脅迫者の赤い女の姿は無い。父親は取るものも取らず駆け寄ろうとした。 「待て、そこを動くな」 鋭い声で彼を止めたのは何とヌマブチだ。彼は銃をリウリーの側頭部に向ける。 「某はミンイーと一時的な協力関係を結んだでありますよ。我々の、そして彼女の要求を伝える。これからのことは彼女が全て録音していることも伝えておく」 「何をしているの!」 突然の暴挙に、怒ったように明日が声を上げる。しかし軍人は冷たい眼差しをちらりと向けただけだ。 「利用するされるは取引の常。それ故に露呈すれば首を締める事は判っている筈だ」 と、彼は汗すらぬぐえないジェンチンを顎でしゃくり、「その男は、個の情の為に我々図書館を裏切り利用した。その危険性を知って尚、協力を続ける意味はない」 「でも、そんな」 と、声をあげる明日をニコルが止める。 「ひとまず状況を見ようよ」 改めて、ヌマブチが言う。 「要求は、三つだ。ひとつ、フォドゥに付けられた赤印の解除。二つ、全権を他の者に譲り自分は退陣し金輪際関わらぬ事。三つ、報復行為はしない事」 うんうんとうなづくゼロ。 「この三つを全て呑んだら、生きた娘を返す」 くくく、とジェンチンは喉の奥で笑った。 「お前は俺に死ね、と言ってるんだな」 「そんなことないです。全権を譲って逃げればいいだけですー。そしたらゼロたちもジェンチンさんを守るですー」 ゼロも微笑みながら言う。人は脆弱ゆえに社会無しに安寧が得られない生き物だ。そして正義や裁きなどの概念はその安寧を維持するために必要となる。ジェンチンが裁く側から裁かれる側に回れば多くの人が助かるのだ。 「どうする?」 答えは無かった。 次のヌマブチの行動は早かった。リウリーが胸元でしっかり抱えていた小さなポーチを銃の先で引っ掛け飛ばすと、それをいきなり撃ったのだ。 リウリーが悲鳴を上げ、床に散らばった化粧品や小物に這いつくばった。それはジェンチンの妻の遺品でもあった。 しかし彼女は辺りを見、父親に目を止めてさらに恐怖の悲鳴を上げるのだった。 怖い人がいる! と泣き叫べば、ベルダがそれを抱きしめてなだめる。 「違うよ、リウリー。違う。よく見るんだ。あの人はお前のパパだよ」 ジェンチンは呼吸を整えているようだった。大きく息を吐いて、天井を見つめる。 そして誰かの名前を呼ぶ。部下の一人のようだ。 「聞いただろ? ソン以外の全員を連れてここから出て行ってくれ」 「でも」 「俺に何かあった時は後を頼む」 数秒の悶着の後、部下たちはぞろぞろとフロアから出て行った。一人残った例の殺し屋だけが立ち上がり、無表情のままジェンチンの傍らに移動する。 明日は、軍人がまさか幼い娘を撃たないようにと、彼の様子を注視した。 ゼロは、ちょこんとヌマブチの隣りにいる。その様子は普段と変わらない。 ニコルは、全身の感覚を研ぎ澄ませていた。 これから何かが起こる──それだけは確実だったからだ。 物音が消え、ただリウリーがすすり泣く声だけがフロアに響く。 知ってるだろ、とぽつりとジェンチンが呟く。こういう時、俺がどうするかを──。 彼は銃を抜き、撃った。 銃は真っ直ぐに、自分の娘に向いていた。 その後に起こったことは一瞬だった。 ヌマブチは反射的に銃の引き金を引いたが、腕に衝撃を受け、軌道を外してしまった。明日である。彼女が咄嗟に彼の腕に蹴りを放ったのだ。銃弾はリウリーを掠め壁に穴をつくる。 ニコルは“視て”、そして悲鳴を上げた。 撃たれたのはリウリーでは無かった。それは何とツァイレンだった。あのわずかな間に、潜んでいた彼は自らの身を挺して、幼い少女をかばったのだ。 なんてこと──! ニコルの目は彼の動きを捉えていたのに、それがあまりに速く、間に合わなかったのだ。 ツァイレンの背中に当たった銃弾が、白い長袍を血で染めていく。 明日は血相を変え、ジェンチンを振り向いた。彼女は動揺していた。なぜ、父親なのに娘を撃ったのか。彼は娘を心から愛していたのではなかったのか。ならば、なぜ自ら命を奪おうと──? ジェンチンは銃を下げない。彼の指がもう一度引き金を引く直前、白い影がその手から銃を弾き飛ばした。 ニコルの手刀である。彼女はくるりと円を描きながら、殺し屋の胸元に蹴りを叩き込んだ。彼の銃がツァイレンを狙ったからだ。おそらく最初からツァイレンを殺すようにと依頼されていたのだ。ニコルは相手を無力化するためにさらに間合いを詰めた。 と、その視界が白っぽいものに埋め尽くされた。 巨大な女の子──ゼロだった。 「みんなゼロのポケットに入るですー」 フロアの中に体育座りをした格好で、むくむくと巨大化するゼロ。いち早く、リウリーとベルダをポケットの中に入れてしまう。避けようとした殺し屋をうまく壁との間に挟み、ギュウギュウと拘束する。 ニコルは負傷したツァイレンを助けようとして、その姿が消えていることに気付いた。 「やめて──レン!」 これ以上やったら死んじゃうよ! ニコルの悲痛な叫びが響く。 「ツァイレン、やめて!」 姿の見えない武道家に向かって、明日も叫んだ。 「どんな人であろうと、奪っていい命なんて無いのよ」 「インヤンガイの人を裁くのは、この世界の人だけですー」 ゼロも彼を探しながら言う。 「それにジェンチンさんは、この殺し殺されの連鎖を止めることができるです」 「──ゼロ、君は正しい」 その時、声が風のようにどこからか届いた。 「私は異世界人だが、彼は親友だった。裁きではなく、私は友人として彼を殺さねばならない」 許してくれ、と声は言う。 「──明日、君は見たはずだ」 姿を隠した武道家は明日にも話しかけた。 「その男は自らの娘を殺そうとした。これ以上の悪徳があろうか」 明日は再度ジェンチンを見た。 彼にも声は聞こえているのだろう。ただ棒のように立ち尽くしたジェンチンと目が合った。 ふっと相手が微笑む。明日の視線に、その意図を読み取ったのだろう。 「あの子は、これから幸せになれるかな?」 それは問いだったのだろうか。 白いものが彼女の視界を横切り、ジェンチンの姿が消えた。 大きな物音と共に、彼はコンソールに背中を叩きつけられていた。滑り込んできたツァイレンの仕業であった。武道家は渾身の力を振り絞って、相手の胸に掌打を叩き込んだのだった。 がはっとジェンチンが大量の血を吐き、静止したままのツァイレンの腕や足のあちこちから鮮血が噴き出す。 彼は崩れるように倒れていった。 「レン!」 ニコルは叫び、彼に駆け寄った。 助け起こせば、彼は彼女の姿を認めると微かに笑った。身体中から血を流し、全ての力を使い果たしたのだろうか。うっすらと目を開ける。 「済まない。君たちに迷惑を掛けてしまった」 「喋らないで、傷が──」 「君にも謝らないといけない」 おずおずと彼は懐から何かを取り出し、手の平にあるものを彼女に見せた。クシャクシャになったキャンディチョコだ。 「大切にとっておいたんだ。でもなかなか食べられなくて──溶けてしまった。済まない」 「いいのよ、そんなの」 じわりとにじむ視界の中で、ニコルは彼の応急処置を始める。そこへ一人、ランパンの手の者が近寄ってきた。 「いい医者を手配したから早く」 警戒してニコルがツァイレンの服をぎゅっと握ると、当の本人が相手の腕を掴んだ。 「君は怜生、だろう?」 「バレた?」 帽子を取ったのはロストナンバーの少年だ。 「死ぬなって約束したろって、律が」 「急いで──!」 ニコルは花嫁衣裳を真っ赤に染めて、怜生と共にツァイレンを背負うように抱える。 一方、ジェンチンもよろめきながら立ち上がった。 ハッと近寄ろうとする明日だが、相手はそれを睨みつけた。来るなと気迫が言葉を発する。程なくして彼は喉の奥で笑い始めた。 コンソールに向かって何かを入力し始めるジェンチン。笑い声は静かな空間の中で狂ったように高まっていく。 やがて、フロアを照らす光の色が変わった。 青く、深い優しい色に。 モニターを埋め尽くしていた点が──全て青に変わったのだ。 誰もがその光景に魅了された。 それは目前の広がる海のようで、そして大空のように美しかった。一つ一つの点が、人が。今の今まで争っていた全ての色が青く変わったのだ。 笑い声が絶え、明日は気がついた。ジェンチンがコンソールに寄りかかるようにして倒れ、息絶えていることに。 もしや、と彼女は思う。彼は賭けたのではないかと。娘を撃てばツァイレンが必ず割って入ると。 彼は賭けに勝った。 しかしその時、彼は同時に何かを殺してしまったのだ。 そっと少女が近寄ってくる。 リウリーだった。彼女は父親の眠るような横顔を見た。その顔に表情は無く、彼女はただ、ただ死んだ男の顔に見入っていた。 パパ? 最後に言った言葉に、隣りにいたベルダが頷く。 ただ、見つめるリウリー。その頬を一筋の涙が伝った。 (了)
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