そこは廃墟の街だった。 壱番世界のヨーロッパの片隅の小さな街。ナチスドイツの侵攻により、村人のほぼ全員が虐殺されて廃墟となったフランスのオラドゥール=シュル=グラヌと似た経過があり、今でも誰もここには住まない。 『喪われた道』 街はそう呼ばれている。 レンガを積み上げた街並には屋根が残っているものが少ない。瓦礫となって半分崩れた塀や壁、砕けた石が転がる道路は街の中をうねうねと通るが、人っこ一人、いや犬や猫、鳥の姿も見受けられない。 廃墟の中には、その異常な光景を生かして映画やドラマの撮影現場となったところもあるが、ここはそうではない。静か過ぎて不気味なのか、それとも夜になると明かり一つ灯らない真の闇に、命あるものは怯えてしまうのか。 だが、そこに、ラウドは美しい紫色のアメジスト、『パープル・ヘイズ』と呼ばれる宝石を置いてきたと言う。 ラウドが引き受けた依頼はロストナンバーの保護だった。小さな男の子の精神体、つまり壱番世界においては『幽霊』と言われる存在に近いロストナンバーが、『喪われた道』に出現して困っていると言う。 廃墟の中を彷徨って、くすんくすんと泣いている、行き先を見つけられずに居る少年に必要なのは、成仏でもなければ浄化でもない。0世界への保護だ。「依頼を受けた」 ヴァネッサは、隣で微笑むラウドに目を見張る。ここのところ、立て続けに依頼を受けている。「なぜ?」「一人ぼっちはあんまりだろう」 ましてや廃墟だ、誰も恐れて近づかない。「君のように」 軽いキスは鼻先に降りる。それぐらいには、2人の距離は近くなっていた。「気をつけて」「腕は知っているはずだよな?」 にこりと笑ったラウドは、確かに苦もなく、少年、アルハイルドを保護してきた。 だが、それとは一緒に『喪われた道』に、あるものを置いて来た、と言う。「あそこは人がほとんど訪れない。壱番世界から遠く離れてしまった君がいきなり出かけても、お化けだって騒がれるぐらいさ」 だから、一人が苦しくなるようなら、君があそこで宝探しができるように、『パープル・ヘイズ』を置いてきた。「あれは…だって、あなたの大事な人のものなんでしょう」 ラウドは壱番世界の冒険家だった。アマゾンを探検中にロストレイルを目撃したために覚醒してしまい、コンダクターとなった。それ以後、アマゾン近く、自分の故郷近くには戻っていない。 それでも大事にしていた女性は居た、と聞いたことがある。その人の瞳によく似た宝石、それが『パーブル・ヘイズ』だとも。 本当ならば、それを彼女に贈るつもりだったのかも知れないとも、ヴァネッサは思う。 ならばなおのこと、自分が探し回ったりするのは口惜しく、切ない。「ヴァネッサ」 長く生きる命は辛くないかい?「……」 覗き込まれて唇を噛む。「君はもう、生きることに飽き始めている」 ずっと一人だったんだろう?「…今はあなたが居るわ」「……」 ラウドは笑う、微かに、柔らかく。 そのとき、いつか訪れる別れを、彼が考えていたのかどうか。「『パープル・ヘイズ』が始めだ」「どういうこと?」「依頼で出向く世界のあちらこちらに、君へのプレゼントとして宝石を置いてこよう」 倦み疲れたら、宝石探しをして遊ぶといい。「目的のない永遠は、人の心には負担になるよ」「…いらない、あなたさえ居れば」 ヴァネッサはラウドの胸にしがみつく。「あなたさえ居れば、永遠も怖くない」「恐れなくてもいい、という生き方じゃなくて、楽しいと思える生き方を選ぼうとは思わないか」「……」 首を横に振った、何度も何度も。 いつか終わりが来ると言い聞かされているように思えて。「……」 ヴァネッサは目を開く。思い出の中から身を起こす。 0世界に不穏な空気が漂ってきているのを感じている。 これまで全く揺らぎもしなかった平穏が、ここに来て大きく動こうとしているのも。「…ノーボディ」「はい」「アリッサに連絡を。依頼を一つ……『パープル・ヘイズ』を探してちょうだい、と」「かしこまりました」 きっと終わりの瞬間まで。「わたくしは、あなたを探し続けるのね」 ヴァネッサは低く呟いた。「はじめまして。ぼく、アルハイルドです」 目を凝らさなくては見えないような、薄青い影が目の前で揺れた。「明るい日差しの中ではうまく見えないかも知れないけど……探すのは夜なんだってね?」 ぼくにはあなた方がよく見えるし、話もできます。「あそこに行って、宝石を一緒に探してほしいって聞いたから」 ラウド・アルデリさんがぼくを見つけて連れ帰ってくれた時のことでしょう、とアルハイルドは明るく続けた。「ロストレイルで帰る前に、街で立ち寄ったのは、『喪われた道』の崩れた宿屋と、屋根のない酒場と、焦げた教会だったよ。そのどこかでラウドさんは宝石を隠したと思うんだ。宿屋には『紫の蝶』って看板があったよ」 名前にふさわしいだろう、って笑ってたよ。「ヒントになる?」======※このシナリオは、ナラゴニア襲来以前の出来事として扱います。======
「静かだね」 ツリスガラは背中にサキソフォンを負ったまま、廃墟の入り口で立ち止まった。 夜空は星の川が見えるほど澄み渡っている。背が高く、豊満なために大柄に見える彼女の姿も、煌めく天蓋の下では小さく包み込まれるように見える。 ラウドが宝石を置きに来たときも、こんな風な夜空だったのだろうか。今にも天から零れ落ちてきそうな星空の下で、何を思ったのだろう。 隠した宝石は大事にしていたものだと聞く。想いが籠っていればいるほど、そのあたりに捨て去るようにおいたりはしない。後から探す誰かを確信しているのなら、なおさら、宝石を置く場所には気を使っているはず。ならば宝石に相応しい場所か、その宝石を探す誰かに対する意図を込めた場所もありえる、そうツリスガラは考える。 「うん、ラウドさんが寄ったときも、こんな夜だった」 側でアルハイルドが頷いて、同じように空を見上げる。昼間の日差しの中では薄青い影だった彼は、この静寂と暗闇の中では薄白い人の形をとっていて、振り返った瞬間の表情や、身動きした一瞬の体がくっきりと見えた。 「お兄ちゃんの話からすると、パープル・ヘイズがあるのは宿屋じゃないかしら。リーリスは探すものがあるから、3か所全部回るけど」 少し先を歩いていたリーリス・キャロンがくるりと振り向く。闇の中でもきらきらと輝く金髪に、愛らしく指先を唇に当てて首を傾げてみせる。まさかアルハイルドを喰いたくなるから距離を取っているとは、とても見えない。 「諸行無常なのですー。この惑星の太陽も、百億年も経たないうちに赤色巨星なのです」 シーアールシーゼロは夜空を見上げて呟く。初めてアルハイルドと会った時、「はじめましてなのです。ゼロはゼロなのですー」と言い放って、いつのまにかアルハイルドの側にいるという存在感のなさを存分に発揮した彼女だが、リーリスの側を歩くと金と銀の二つの星のように見える。 「ヴァネッサさんの宝石集めにはそんな事情があったのです…でもヌカ・タマ・ヒはラウドさんとは無関係ぽいのです。なんとなく欲しかったからとかなのです?」 ゼロはリーリスとは逆方向に首を傾げてみせる。彼女は以前にもヴァネッサの宝石探しの依頼を受けている。その時のことらしい。 「廃墟には白い服で長い髪の女の子が良く似合うのだそうなのです」 崩れた家壁の背後に半身隠して佇み、仲間を覗き見すれば、確かにかなり『それ』っぽい。その前をツリスガラと通っていくアルハイルドの方が人間に見えるぐらいだ。 「ここが酒場だよ」 アルハイルドが指し示したのは屋根の部分がきれいさっぱりなくなったレンガ造りの建物だった。囲いしかない室内には古ぼけたテーブルと埃まみれの椅子が幾つか、カウンターには砕けたグラスやくすんだ瓶がそのまま放置され、カウンターの背後の棚には転がったり割れた瓶がごろごろと載せられている。 入り込んだリーリスが持って来たカメラのフラッシュを光らせながら、壁や机や棚などを撮り続けている。 「何をしてるの?」 アルハイルドがフラッシュの光に見えたり消えたりを繰り返しながら、尋ねた。 「ヴァネッサの銀青瞳の話、聞いてるわ。孤独を癒す為に石を撒くなら、本当に石だけを撒いてくるかしら。私なら探してくれるその人の為に、その人だけに分かるメッセージを残すわ。愛の言葉でも懺悔の言葉でもマークでも、2人だけに通じるような。探してくれた感謝と愛を伝えるために」 ヴァネッサの視線の高さで移動しながら、何かメッセージのような図柄、マークのように見えるもの全てをポラロイドで撮り続けている。 「……手紙のようなもの?」 「そうね。でも」 今度は少し屈み込み、その視点で見探せるような場所も撮り始める。 「ポラロイドを持って来たのはね、不鮮明な証拠が欲しかったからなの。普通のカメラじゃ綺麗に撮れすぎて意味がないの」 ひょいと顔を出したリーリスの鼻の頭が少し黒くなっていた。 「不鮮明な証拠……?」 ジョヴァンニが問いかけながら、作り付けの棚に頭をぶつけないようにリーリスの手を取ってやり、汚れた鼻を拭ってやる。大人しく導かれながら、きらきらした目で見上げてくるリーリスに、ジョヴァンニは謎めいた笑みを返す。 「証拠というものははっきりしているほどいいはずじゃが、お嬢さんは不鮮明なものが欲しいのじゃな」 好々爺じみた柔らかな物言いの最後に、ジョヴァンニは笑みを深めながら付け加える。 「それともお嬢さんは数々の写真を重ねて、ヴァネッサの頭の中に『証拠』を作り上げるつもりかな」 「ごめんね、リーリス、よくわかんない」 リーリスは可愛らしく頭を振って見せた。 「でも、ヴァネッサさんの淋しい気持ちが少しでも安らぐといいなと思って」 だって、ヴァネッサさんはなかなか旅には出かけないでしょう? 「あれ? ヴァネッサさんには壱番世界とターミナル以外に行けない理由でもあったのです?」 同じように酒場を探していたゼロがきょとんとして、一つ頷く。 「聞いてみるのです」 どうやらここにはなさそうだ、と一行は酒場を離れる。 「これが……教会」 アルハイルドは夜が深まるにつれてはっきりしてくる姿で、ふわふわと一行を導いた。 「ラウドはここのステンドグラスを見上げて驚いていたよ、どうしてかな」 指差した窓には確かに色とりどりのステンドグラスがある。星明かりでかろうじて見えるぐらいの図柄、幾つかは激しい炎が焼いたのだろう、焦げ煤けてよく見えなくなっている。 「なるほど」 「…あれって」 見上げて頷くジョヴァンニに、ツリスガラはひょいと図柄を指差して尋ねた。 教会の隅、本来ならば奥の執務室のような所へ続く扉があったのだろう、今はぽかんと虚ろな穴が開いている部分の上に、古めかしい緑のドレスを着て髪を結い上げたふくよかな女性が一人、拾い上げた何かを嘆くように目を伏せて憂えている。ふくふくした指先に支えられたそれは、やはり戦火で焦げているが頭蓋骨のようにも見えた。 「ひょっとして、ヴァネッサに似てる?」 「うん、そっくり」 パシャリ、とリーリスが写真を撮る。続いて周囲のステンドグラスも撮り、 「何かの話になってるのね。こちらからそちらへ、同じような模様で囲まれてる。続いてるみたい」 ゼロがふいにぐぐぐぐ…っと大きくなっていった。驚きに目を見張るツリスガラの前でステンドグラスの正面から覗き込めるほどになると、一枚一枚覗き込んでから元の大きさに戻ってくる。 「最後に二枚、焦げて割れた部分があるのです。どうやら、聖なる戦いに出かけた恋人を待っていた女性が、恋人の死を知って嘆くような話なのです」 「……」 ツリスガラが自分達の足下に目をやる。割れたステンドグラスの破片をまじまじと眺める視線、ひょっとしてその中に紛れ込んだりしてはいないかと。 探す人に確かに見つけて欲しいが、他の人には見つけて欲しくないのだとしたら、宝石をそれと知って探せば分かるような場所にあるのではないか。 そして気づく。このステンドグラスには紫色は一切使われていないことを。 「誰か、良かったら一緒に呑まんかね? ワインによく合うチーズもあるぞい」 ジョヴァンニが瓦礫に腰掛け、ワインセラーから生まれ年の秘蔵の一本を持ってきた、と皆を誘った。未成年よ、とリーリスが口を尖らせながらもチーズに手を伸ばし、ゼロは一応チーズにするのですーとそれに続き、ツリスガラが注がれたワイングラスを軽く上げて口に含んだ。 月が昇る。崩れ果てた教会の上に、それでもかろうじて残されていた残骸の十字架の影を、か細く地上に落としてくる。煙るように淡い光、少し目を細めたジョヴァンニが右目のモノクルの位置を直しながら、 「パープルヘイズ……」 静かに呟いた。 「紫の蝶か……思い出すのう、子供時代を」 語るともなく語り始めたのは、兄、ジャンカルロの思い出だ。 「その頃、儂とジャンカルロは昆虫採集に熱中しておった。どちらがより多く珍しい蝶を捕まえられるか競争したものじゃ」 幸福そうな声がふいに翳りを帯びた。 「儂は兄の誕生日に、兄がかねてより欲しがっておった希少な蝶の標本を贈ったのだが、余計な事をするなと怒られたよ。弟の手は借りぬと泣きながら標本を叩き割ったジャンカルロの顔を思い出すわい」 ジョヴァンニは微かに嘆息する。 「良かれと思ってしたことが裏目に出る、思えば人生その繰り返しじゃ」 儂はヴァネッサに共感を覚える。 ワインを傾けるジョヴァンニの間近で、月の光に散らされたアルハイルドが不安げに揺れる。 「…同じこと、ラウドさんも話してた。あのステンドグラスを見ながら」 「ラウドさんが何を話したのですー」 「永遠に側に居ると誓ったことが、逆に彼女を孤独にするなんてって。良かれと思ってしたことが裏目に出たって」 その時は、彼女って誰かわからなかったけれど、それはきっと。 黙り込んだアルハイルドにゼロが立ち上がる。 「宝石を捜したところで、全てが見つかるのはそう遠くないのです。でも世界群には無限に近い未知があるのですー」 「…」 もぐ、とリーリスがチーズを噛む。 「ラウドさんの真意は、ヴァネッサさんにターミナルの以外の世界群に目を向けて欲しかったのではないかと思うのです」 ゼロは神前を丁寧に探し始める。 「ラウドさんはここで変わらぬ何かを誓ったのかも? なのですー」 ツリスガラは膝と自分を抱くように体を丸め、もう一度夜空を見上げた。月は昇っても光は弱い。その弱い光にかき消されてしまう星もあり、アルハイルドの姿もやや薄くなっている。 ラウドはヴァネッサに何を探させたかったのだろう。宝石だけではない、今はそう思える。おそらくは、嘆く女性の支配するこの場所に、彼は宝石を置かなかっただろう。宝石が、ヴァネッサの退屈を消し、永遠の命の中のささやかな喜びを与えるためのものならば、強固な救いに包ませはしないだろう。 「何を……探させようとした……?」 それはひょっとして、『自分自身』か? 「…酒の肴にするには此処は殺風景すぎる」 ジョヴァンニがぽつりと呟いて、軽く黒檀の杖を振るった。何を察したのか、リーリスが急いで写真を撮りまくる。と、その後を追うように見る見る瓦礫に紫の薔薇が開いていった。 夜気に薔薇とワインの香りが満ちる。 宿屋はまともに砲撃を食らったのだろう、かろうじて『紫の蝶』という看板はあったが、それも傾いてひっかかっている程度、入り口から中に入ると幾つかある小部屋の、時に壁が、時に床が、ごそりと砕けて穴が開き、かなり危険な状態だった。 「手分けしようか」 「ゼロは花に関する場所や物を探すのですー」 ツリスガラの声にゼロがすたたと奥へ走り込んでいく。 確かによく見ると、奥に続く廊下にはくねるような蔓薔薇と乱れ飛ぶ蝶の紋様の敷物が敷かれ、ここがかなり華やかな場所だったことを思わせた。 「何かを見つけたら、トラベラーズノートで連絡してね」 リーリスもポラロイド片手に手前の部屋に入り込んでいった。パシャリパシャリとひっきりなしに落とされるシャッター音、ヴァネッサに何かの意味を読み取らせることができるようなものを手当たり次第にカメラにおさめているらしい。 「…冷えてきたな」 ツリスガラは持参していた温かい紅茶を水筒から呑んだ。皆も体が冷えて来ているかも知れない。目指す宝石はまだ見つからず、誰からも連絡がない。見逃している部分は多いだろう、思った以上に暗いし、瓦礫が積み重なっている。 けれど、ラウドはどこかに『隠した』のだ。逆に言えば、意図的に『隠せる』場所、しかもヴァネッサなら『見つけられる』場所のはずだ。 部屋の中を見て回る。古びたベッドはぼろぼろに裂けている。壁紙も破れ剥がれ、飾られていたタペストリーは意図が解れ、崩れかかっている。洗面台は割れ、赤茶けた水の跡で汚れ、鏡は中途半端に割られて不気味な印象だ。 「アルハイルド」 「はい」 「ラウドはここでどうしていた?」 「幾つも部屋を見て回ってたよ。こういう所へ一緒に来るのも楽しかっただろうな、って、何だか哀しそうだった」 「……来れない、と思っていたってことか」 さっきゼロが言っていた、ヴァネッサは壱番世界とターミナル以外は行けない理由でもあったのか、と。けれど、ヴォロスには行ってみたいとも言っていた気がする。だが、ラウドはヴァネッサが彼に同行しないことを確信していた。 「……」 部屋の窓辺で何かが光った。アルハイルドの光を反射している小物、近寄ってそれが小さなオルゴールだと気づく。開くと、それは小さな人形が輪になってくるくる回る仕掛けで、微かな音を鳴らしながらのろのろ動き、やがて止まった。 「……ここでなら幼少のみぎり恋い焦がれた幻の蝶と出会えるかもしれん」 別の部屋で黒檀の杖を振るったジョヴァンニは、荊の蔓を伸ばして瓦礫を片付けつつ、奥へと進んだ。そこにあるのはいささか小さなダブルベッド。この宿屋のスイートルームと言ったところか。 もう一度杖を振るって、あたり一面、墓標代わりに紫の薔薇を咲かせる。 ダブルベッドには、中央に紫の蝶を縫い取ったベッドカバーがかかっており、枕元のテーブルに空っぽの花瓶が飾られている。薔薇は周囲を飾りながら広がり、花瓶にも溢れた。 「紫の蝶が眠る地に紫の薔薇を手向けるのじゃ」 低い呟き、モノクルの奥のアイスブルーの瞳はベッドの上で愛しあう恋人達の幻を見る。 「愛する人を亡くし、永き生に倦む気持ちはよくわかる……しかし、ヴァネッサ、儂は貴女に前に進んで欲しい」 ラウドは自分を失ったヴァネッサが身動き取れなくなることを予測していた。全てを閉ざして『エメラルド・キャッスル』に一人籠ってしまうことを考え、それを良しとしなかったはずだ。だから、宝石に寄せて、呼びかけを繰り返した。 世界へおいで、君が想像もしなかった場所がある。世界へおいで。 「儂の支えは娘と孫、妻が遺した無二の家族……しかし、貴女は一人ではない、貴女の事を一途に慕い、見守り続けてきた側近もいる」 ジョヴァンニはヴァネッサに伝えたいと願う。薔薇が咲き極まって花弁を散らす、その様を眺めながら呟く。 「貴女は孤独ではない」 「宿屋にも、教会にもなかった」 「もう一度酒場に戻る?」 ツリスガラの吐息にリーリスが立ち上がる。 「まだ探し損ねた場所があったのかも知れぬな」 「一休みするのですー」 予想外に大変てんこもりに究極難問バトルになってしまったのですー。 ジョヴァンニが頷くのにゼロはいそいそ走り出す。 戻った酒場でゼロは持参のミルクとコーヒーと砂糖を出した。ワインをやや過ごし気味のジョヴァンニはコーヒーの香りを楽しみ、リーリスは目が疲れちゃった、とカメラを一旦置く。 「もし、リクエストがあるようなら演奏するが」 ツリスガラはカウンターに座ってコーヒーを受け取りながら、アルハイルドを振り向く。かつての自分はこのような時に吹いてみたいと思いそうしたはずだ。ならば今の自分もそう考え行動したい。 「夜の廃墟というステージはわたしの経験ではないが、吹くのに問題は無い。むしろ、静かな分だけ音が良く響く」 「音を出すの?」 アルハイルドはおっかなびっくりサキソフォンを覗き込んだ。 「ここから?」 「そうだよ」 ツリスガラは少し吹いてみた。渋みのある哀調を帯びた音が響き、夜の闇に鈍色の花を咲かせていく。小曲を一つ、その後、求めに応じてもう一曲吹いたところで、コーヒーを勧められた。 「ありがとう…もう飲んでよ」 アルハイルドが嬉しそうに笑う。 「何だかここのあたりがほっとするね」 胸の下あたりをそっと撫でるアルハイルドに尋ねてみた。 「ラウドはここでどうしていた?」 「う〜ん」 アルハイルドも一緒にカウンターに座り、腕を組んで首を傾げた。 「ここではただずっと座ってただけだと思うんだ」 「どこに?」 「そこだよ」 アルハイルドの示した席にツリスガラは近づき、そのテーブルにひしゃげたような形の金属の箱があるのに気づく。表面には葉巻の絵が浮き彫りにされていた。 「シガレットケースか」 「ああ…そこに書いてある絵を見て、紫色の煙だよ、って笑ってた」 アルハイルドのことばにはっとして、ツリスガラは箱を取り上げ蓋を開ける。瓦礫の中ではなく『隠せる』場所で『見つけられる』場所。 「…パープル・ヘイズ……名前にふさわしい、か」 見つけたよ。 箱の中からツリスガラが取り上げたのは、大粒で深みのある赤みがかった紫のアメジストだった。 『エメラルド・キャッスル』にはゼロとリーリスが赴いた。 トラベラーズノートでの連絡に応じて、ヴァネッサはノーボディを迎えに寄越し、ノーボディの背後に『いつのまにかいた』ゼロは、彼に大いに警戒されたが、それでも『エメラルド・キャッスル』に招き入れられた。 「可愛らしいお嬢さん達。報告書は読んだわ」 「はい、これが『パープル・ヘイズ』よ、ヴァネッサさん」 リーリスが白い布をそっと開くと、『喪われた道』の闇の中よりもっと鮮やかに、『パープル・ヘイズ』は光を弾いた。白い布ごと渡されたそれを、ヴァネッサは静かに眺める。 「アメジストは深酒から護るという石……やはり酒場にあったのね」 「知ってたの?」 ヴァネッサが隠し場所にあたりをつけていたのに探させたのなら、相変わらず人が悪い。 「それとこれ」 「……写真?」 「ラウドから貴女へのプレゼントよ? リーリスたちには分からなくても、今までの場所にも印はあったと思うわ。これから先も、貴女はそれを得る機会を失い続けるつもりかしら」 リーリスに渡された写真をヴァネッサは眺めた。マニキュアされた指が一枚一枚めくっていく。その姿が、あの焦げた教会のステンドグラスにそっくりに見えた。 「ラウドがわたくしに与えてくれたものは、ことばやメッセージではないのよ」 微かに嘲笑を響かせて、ヴァネッサはリーリスを見返す。 「永遠を最後まで受け取る覚悟だわ」 だからわたくしはラウドを探す。ラウドの居る世界への道を探す、それはもう喪われてしまっているのだけど。 「ラウドはここにはいない。世界群の中にもいない。一人ではないという希望ではなく、一人でしかないという絶望よ」 「ゼロにはわかりにくいのです」 覚醒しなければ何も無いところで、唯一永久にまどろみ続けていただろう存在のゼロには、ヴァネッサの永遠に対する苦悩はよくわからない。 「それはさておき、ヴァネッサさんは壱番世界やターミナル以外にはでかけられないのです?」 「…でかける必要がなかっただけよ」 ヴァネッサはもう一度、写真を眺めた。 「でも」 そうね、最後の一つには同行してもいいかもしれないわね。 漏れた呟きに、リーリスはにんまりと密かに笑った。
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