嵐が吹きすさんでいた。 激しく強く、止むことのない風と雨。 どれだけ行く手を望もうとも、どれほど願いを繰り返そうと、その先に消えて行く姿をもう追いかけることは叶わない。 ……! ゼシカの叫ぶ声に、ふと、相手が振り向いた。 一際強い風が髪を巻き上げ、視界を遮る。 それでも、相手は微かに首を傾げて笑ったように見えた。「っ…」「…どうした、ゼシカ」 息を呑んで目覚めたゼシカ・ホーエンハイムを、まだ起きていたのだろう、ハクア・クロスフォードがそっと覗き込んでくる。「……」 とんとんする胸を白い柔らかな寝間着の上から押さえて俯くゼシカに、ハクアが苦笑する。「大丈夫だ、着替えよう」「、ううん、ちがうの」 おねしょをしたと思われたのに、慌てて首を振って相手を見上げた。 伸ばし放題の白髪を軽く後ろでまとめ、深緑の瞳は静かに深くゼシカを見下ろす。0世界で一緒に暮らして、その優しさはいつもゼシカを守り、支えてくれていた。 けれど。「……ちがうの」 夢で振り向きかけた横顔に、失ってしまった笑顔を重ねて、ゼシカは悟る。「そろそろ決めなきゃいけないの」「……」 ハクアがゆっくりとベッドの端に腰を降ろした。 『魔法使いさん』の温かな眼差しに、重なってくるのはもう一人の顔。壱番世界で両親の代わりに自分を愛し守り育ててくれた、優しい修道女。それに孤児院の仲間達。 そして、その笑顔にまた重なってくるのは、0世界で知り合い、大切な手紙を届けてくれた『郵便屋さん』のくるんとした茶色の瞳、ふさふさの猫尻尾。茶色の毛皮もつ狼の顔の少年キリル・ディクローズ 、大事なことばを二度繰り返す、その声に何度気持ちを救われたことか。 ゼシカの人生を覆った巨大な嵐は、彼女の運命を翻弄し尽くした。 それでも、そこには異世界の友人という絆が結ばれ、彼女を嵐から守り庇い育ててくれた。 けれど。 魔法使いさんと郵便屋さんはこれからどうするの? 故郷に帰る? ずうっとロストナンバーのまま? それとも……。 二人とも故郷に大事な家族がいることを、ゼシカは知っている。 それを失うことの辛さを、夢はゼシカに伝えてきた。 嵐から避難してきたこの場所に、次の朝がやってきたのだと、そう教えられた。「……魔法使いさん」「何だ」「……郵便屋さんを呼んで、いっしょにごはんを食べたいの」「…構わないが」 思慮深いハクアの視線が促している、彼女の真意を確かめて。 こういうところがとても好きだ。 ゼシカを甘えさせ、憩わせ、休ませてくれるけれど、肝心な部分では彼女を何も分からぬ子ども扱いをせず、一人前の大人のように相対してくれる。「……ゼシ、話し合って決めたいの」 唇を引き結び、ゼシカは顔を上げた。覗き込む深い瞳に泣きそうになる。失うかも知れない。けれども、きっと、もう決めなくてはならないから。「……魔法使いさんと郵便屋さんの気持ちを、聞きたいの」「……わかった」 ハクアは知らぬ間にぎっちりと固く握っていたゼシカの指を、そっと上掛けから緩めて開きながら、頷いた。「おいしいものを作ろう。何がいい?」「……いっしょに考えてくれる?」「主催はゼシカだな」「…っ!」 微笑む顔に抱きついた。 招待状が届いた。「手紙、ぼく、ぼくへの、手紙」 目を瞬いて、キリルは綺麗な花の縁取りがされた封筒を開く。 丁寧に綴られたたどたどしい文字が、ゼシカとハクアのホームパーティの開催を知らせている。 脳裏を掠めたのは、穏やかに回る風車と、ゼシカに渡された手紙、交わされた約束と、そして。「みゅー…」 ごはんを一緒に食べましょう。 そう書かれているだけなのに、手紙屋を再開したキリルには、その招待状があの時空にかかった虹そのものであるかのように感じ取れる。「……みゅー…」 キリルは小さく鳴いて、耳を伏せ、手紙を胸に押し当てた。=========!注意!企画シナリオは、便宜上、参加枠数が「999」になっていますが、実際には特定の参加予定者のために運営されています。この企画シナリオは下記のキャラクターが参加予定です。他の方のご参加はご遠慮下さい。万一、参加予定でない方のご参加があった場合は、参加がキャンセル(チケットは返却されます)になる場合があります。<参加予定者>ゼシカ・ホーエンハイム(cahu8675)ハクア・クロスフォード(cxxr7037)キリル・ディクローズ(crhc3278)=========
テーブルの上には白いクロスが掛けられている。 「魔法使いさん、お芋のサラダはここでいい?」 「そうだな。グリーンサラダはその横でいい。ああ、シチューは俺が持っていく」 「はあい」 木のボウルに入れたサラダを一つずつ運びながら、ゼシカはハクアを振り返る。 「ゼシのパンケーキは?」 「まず一番にキリルに食べてもらおう。手前でいい」 「クリームと蜂蜜をかけてもいい?」 「キリルが来てからな。せっかくうまく焼き上がったから、食べる直前にかけてもらうといい」 「うん、そうする」 いそいそと、自分の得意料理の隣にクリームの壺と蜂蜜の壺を並べる横顔は、自分が作ったものを大好きな人に食べてもらう喜びに輝いている。 野菜と肉をシンプルに煮込んだシチューはこってりとしているから、小さめの皿によそって並べ、二人で焼いたクルミとレーズン入りのパンを籠に盛り、ハクアはふと手を止めた。 ゼシカも、そしておそらくはキリルも自らの道を選択している。 深く話し合ったことはまだないが、ふとした拍子の表情や考え方、依頼に向かう態度などを見ていれば、それとなく察しはつく。 それに比べ自分は、ずっと迷い続けている。 答えが出ていない。 「えーと、フォークと、ナイフとスプーンと…」 考え考え食卓の準備に余念がないゼシカの姿を見つめながら、ハクアは残してきた妹のことを考える。 故郷には会いたい者達がいる。 けれど自分はあの世界では罪人だ。追われ、教会の監視下でしか生きていけない存在だ。家族も異母妹以外すべて教会に奪われた。 幸い、唯一残った家族である妹は古人の血は薄い。妹だけならば、ギルと共にあの地で教会に追われる事もなく平和に生きられる。ギルが守ってくれる。 だから戻ってはいけない。彼らに会ってはいけない。 覚醒する以前もそう決意してギルに妹を預け一人旅に出た。 そうだ、答えなど、本当は最初から出ている。 「ナプキンもいるわ」 思い出したように軽い足音をたてて、洗い上がったばかりのナプキンを取りに行くゼシカの背中を見送る。 ならば、自分はどうするのか。どうするつもりでいるのか。 ハクアには故郷とゼシカ以外、強い想い入れがある存在はない。 「これでいい?」 「ああ、十分だ。上手にできたな」 「ふふっ」 一所懸命に整えた食卓に満足そうなゼシカ。振り仰いだ笑顔に、思わずハクアも嬉しくなる。 ゼシカと共に壱番世界へ行くのもまた道のひとつかもしれない。 ゼシカと共に暮らすようになってから、家に帰るのが楽しみになった。 生活は穏やかで満ち足りたものになった。 こんなに優しい暮らしがあったのかと思うほど、日々は潤い、柔らかい。 「あ…はーい!」 控えめなノックが響いてゼシカが戸口へ飛んでいく。キリルが来たのだろう。 シチューの鍋を安全なところへ置き、サラダのお代わりを用意、思い出して野菜ジュースと果物ジュースを準備した。温かな飲み物も欲しいだろうか、と湯を沸かしながら考えに沈む。 情けない事にまだ考えは決められない。 まだゼシカと共に壱番世界に帰属するとは言えない。 それでも、できれば。 「魔法使いさん!」 呼ばれて振り返る。 嬉しそうなゼシカが小さなバスケットを掲げている。 「キリルがアップルパイとフレンチトーストを持ってきてくれたの!」 「この度は、ご招待、ありがとう、ありがとうございます」 キリルはハクアを見つけるとぺこりと頭を下げた。尻尾をぱたぱたさせながら、ゼシカを見やり、 「お手紙くれた、うれしい、うれしい」 アップルパイは、ベルゼ、ベルゼに手伝ってもらった。 フレンチトーストは、ぼく、ぼくが作ったよ。 「ああ、旨そうだ。食事の後で頂こう」 バスケットを受け取ると甘くて香ばしい匂いが広がった。これなら紅茶も必要だろう。 「ハクア、ハクアも一緒、一緒なんだね。ゼシカ、元気、元気にしてる?」 「ええ、元気よ。どうぞ、こちらへ」 キリルが来たとたん、どこか妙に大人びた仕草になったゼシカが、テーブルへキリルを誘う。 一緒にごはん、ごはん、楽しみ、楽しみ。 料理もできた、アップルパイ、フレンチトースト。 キリルは今日の食事会を楽しみにしていた。持参した料理も喜んでもらえたし、ハクアもゼシカも元気そうでほっとする。 「郵便屋さんはゼシの横ね」 「……みゅー」 キリルは色鮮やかな食卓に思わず息を呑み、それから微笑むゼシカに一瞬泣きたくなった。 「食べようか」 そのキリルの気配を読み取ったのか、竦みかけた彼をハクアが穏やかに促してくれる。 「冷めないうちに。ああ、そのパンケーキはゼシカが作ったものだ」 「クリームと蜂蜜はここにあるから」 小さな少女なのに、キリルの世話を焼くゼシカをハクアが眩そうな顔で見ている。クリームと蜂蜜を両方かけて、小さく切り分け口に入れた。ふんわりと柔らかで温かな感触、とろりと蕩けるクリーム、蜂蜜のしっかりした甘さに心が弾む。 「おいしい、おいしいパンケーキ」 「本当?」 良かった、とにこにこしたゼシカは、これもどうぞ、とポテトサラダを皿にとってくれる。続いて食べたシチューもとてもおいしかった。入っていた玉ねぎは実は苦手だけど、とにかく残さないで頑張って呑み込んだ。 「お代わりもあるの、たくさん食べてね」 「うん、とても、とてもおいしい」 そっとシチューの皿を押しやって、サラダをお代わりする。出されたパンはクルミのこっくりした甘さとレーズンの甘酸っぱさが、噛み締めるたびに広がった。 どの料理も単純だが味わい深く、食べるほどに元気が出てくる、本当においしいものばかりだ。 それでも、気のせいだろうか、皆少しずつ無口になっていく気がした。 「そろそろ、キリルのアップルパイとフレンチトーストを頂こうか」 「うん!」 ハクアがほどほどのところで食卓を切り替えて、紅茶を淹れてくれる。アップルパイとフレンチトーストには、クリームとマーマレードが添えられて出された。 「ゼシ、このまま頂くわ」 皿に少しずつとったゼシカが、フレンチトーストをおいしそうに食べてくれて、キリルは嬉しさと同時に切なさが募る。 やがて、それとなく誰からとなく、それぞれに手を止めてお互いを見た。 どうしよう、とキリルはためらう。 ゼシカの澄んだ青色の瞳を曇らせそうで辛い。 「……みゅー」 ゼシカが唇を固く結び、思い切ったように口を開いた。 「……あのね、郵便屋さん」 続いたことばは、予想していたものと少し違った。 「ゼシね 孤児院に帰ろうと思うの」 「みゅ…?」 食事はとてもおいしかったのに、なぜかテーブルの中央に、見えないけれど大きな塊が乗っている気がして。それが笑ってくれている郵便屋さんや魔法使いさんの顔を霞ませていくようにも見えて。 ゼシカは大きく息を吸って、口を開く。 「ゼシね、孤児院に帰ろうと思うの」 魔法使いさんが生真面目な顔でゼシカを見ている。郵便屋さんは本当に驚いてしまったらしく、目を見張ってゼシカを見返す。 「シスターに心配かけちゃったし……あそこがゼシのおうちで孤児院のみんなが家族なの」 二人とも無言だ。何も言ってくれない。 この間、夢にパパとママが出てきた。二人一緒に出てきたのは初めてだった。ゼシカを抱き締め、愛してるって言ってくれた。 その笑顔と声を支えに、ゼシカはもう一度、声を張り上げる。 「二人と離れるのはとっても寂しい。でもね、オトナになる為には寂しいのも乗り越えなきゃいけないの。ゼシはちゃんとおっきくなって、パパが遺した孤児院を守っていきたい。今度はゼシがみんなのママになるの」 ハクアがゆっくりと瞬きした。キリルがこくりと喉を鳴らした。 その二人をじっと見返しながら、ゼシカは思う。 二人にも大事な家族がいる。 魔法使いさんは他の誰かのお兄さんで、郵便屋さんは他の誰かの孫。 その人達から大事な家族を奪いたくない。 ゼシが独り占めしちゃいけない。 甘えっぱなしじゃオトナになれない。 手紙に、家族の温もり。ゼシカは大切なものを、たくさんもらったのだから。 「ゼシカ、俺は」 言いかけたハクアを遮った。 「二人とも、とっても大好き。本当の世界に帰っちゃっても忘れない、絶対に」 これね、と差し出したのは、密かに用意していた勿忘草の押し花だ。花言葉は「私を忘れないで」。指きりげんまんよ、と小指をそれぞれ絡ませる。 「二人が自分の世界を見つけるまで、本当のおうちに帰るまで、せめてそれまでは今まで通り、一緒にいていいかしら」 寂しいのを我慢できるくらいに楽しい思い出をいっぱいいっぱい作ろう。 きゅ、とキリルが口を結んだ。 顔をまっすぐ上げてゼシカを見る。 だめ、って言われる? 緊張でゼシカの胸が苦しくなった。 「ぼくは、ターミナル、ターミナルは好きだよ。ゼシカ、ゼシカやハクア、ハクアとも出会えたから、0世界、0世界は好き」 キリルはにっこりと笑った。自分がそんな顔をしているとは気づかないのだろう、瞬きもせずにどこか白い顔をしているゼシカに向き合う。 「でも、僕は手紙屋、手紙屋だから」 一旦ことばを切って大きく息を吸う。 「手紙屋は、一つの街、街に長く留まっちゃいけないんだ。その街が好き、好きになりすぎて、旅立てなくなる、から。ぼくの世界、世界にも、届けなきゃいけない手紙、手紙や言葉、たくさんだから」 ゼシカは無言だ。息を詰めてキリルの次のことばを待っている。 理由なんかじゃない。 手紙屋がどうとか言う問題じゃない。 ふいにそう気づいた。 何を伝えなくてはいけないのか、何を伝えるのに怯んでいたのか、よく見えた。 手紙を書く時はいつもそう。 誰かがそう言っていた。 書くまでははっきりしていないの、自分が何を伝えたいのかわかっていない。 けれど、一つ一つ文字にしていくでしょう、それを読みながらまた続きを書いているとね、自分が本当は何をしたかったのか、何を言いたかったのか、よくわかる気がするの。 知らない自分に出会うような感じかしら。 深い緑の目のハクア。美しい青い目のゼシカ。 二人の目を見つめていて、故郷を旅する自分を思った。 そうだ本当は、大好きな人や街が多過ぎて、旅立てなくて辛くなる時がある。 でも、そういった時に、鞄に入った手紙に背中を押されて励まされる。 この想いを込めて綴られたことば達は、新しい場所へ送られるのを待っている。託した人々は、手紙で新しい場所へ旅立つ、それまでの自分に別れを告げて。 キリルが書く手紙、は、何が書いてあるのだろう。 「ゼシカ、ごめん。ゼシカの故郷でした約束、守れないかもしれない」 謝った。耳は伏せなかった。不安そうな鳴き声も響かせなかった。 自分の手紙、そう思ったとき、届ける相手の顔がはっきり思い浮かんだ。 「ぼくは、手紙屋だから。手紙を届ける旅に出る。じいじへの手紙、ぼくが0世界で見たこと、触れたこと、いっぱい書いた手紙。じいじ、じいじに届けたいから」 ああそうだ、いつの間にか、キリルもターミナルへ来るまでのキリルではなくなっているのだ。 じいじに届ける手紙には、そのことが語られるだろう。そしてじいじは気づいてくれるだろう、キリルが新しい旅を始めたのだと。 言い放って、目の前の青い瞳がうっすらと潤むのを見た。 何だろう、この気持ちは。 胸が痛い、けれども、見惚れる、何て美しい瞳だろう。 「でも。ぼくが世界に帰る、帰るその前に、必ず、必ず」 気がつくと、そう口走っていた。 「ぼくからゼシカへ、手紙、手紙を書く」 「郵便屋さん……郵便屋さんからの、手紙…」 呆然とした顔で繰り返すゼシカに、何だか急に気恥ずかしくなる。今更ながらうろたえて、鞄の中を探した。ディクローズの風景を絵にした絵葉書。それを差し出して、ゼシカに囁く。 「ゼシカにも、ぼくの故郷を見て欲しい」 「ここが……郵便屋さんの、故郷…」 絵葉書を見つめて黙りこくったゼシカに、ハクアが口を開いた。 「ゼシカ…俺は」 一瞬のためらい、それを振り切るように、しっかりと。 「どんな形でも、お前が一人で生きていけるようになるまで、お前の成長を見守っていたい」 「……魔法使いさん」 ゼシカは顔を上げた。 自分を見つめる二人の顔それぞれに、心配と信頼とを読み取った。 席から滑り降り、二人の間に駆け寄って、振り向く二人に抱きつく。 「みゅ!」「おっと」 「本当は郵便屋さんのお嫁さんになりたかった。魔法使いさんの妹に生まれたかった」 一気に口にすると、二人が不安そうに体を支えてくれるのがわかった。 微笑む。 パパとママもこんなふうにしてくれたかしら、ゼシが新しい世界へ旅立つと言ったら。 「ゼシの夢……叶わなくても覚えていてね」 ありがとう。 さようなら。 頬を滑り落ちた雫は、温かかった。
このライターへメールを送る