裕福な家庭の、相応の館。 そう称するのが相応しい館には、当然相応の庭が付属する。 ちょっとした林を思わせるような一角を有するその庭園に栄える下草が、穏やかな風に吹かれ青々とした姿をなびかせていた。 その風にのって、少女の声が聞こえる。 微かな伴奏にのって届く、微かな声。 成長途上であることが聞いて取れるその声は、しかし庭園を通る者の足をふと止めさせる力を持っている。 活き活きとした、本当に楽しそうに歌う少女の声。 微笑ましさの中に、そう遠くない将来の称賛を予感させる声。 館の奥の部屋。 開かれた窓から漏れ出てくるその声が伴奏と同時に止んだ後、館へ向かっていた歩みを再開する聞き手。 訪問者には聞こえなかっだろう。 窓の中では久しぶりに教師に褒められた事を喜び、心の底から嬉しそうな声を上げる少女の姿があった。 ‡ セリカが初めて「歌う」ということの在り様をしったのは、まだ幼い頃のことだった。 落ち着いた世相とはいえない日々であったが、それでも国を挙げての大祭の日は皆心浮き立たせ、自然と笑みをこぼしながら親しい者達と街をめぐるものである。 セリカもそれにもれることはない。 線はやや細いものの、それがより一層美しさを際立たせる母親を左手に、そんな母に似合いの紳士然とした父親の暖かな手を右手に感じながら歩くセリカの機嫌が悪かろうはずはなく、三人の世界の中で、セリカは楽しく歩き続けていた。 時折興味のあるものを見つけては、走りだそうとするセリカ。 それを落ち着かせつつも、その興味の赴くままに付き合う両親。 その時も、セリカは絡繰仕掛けの小物たちに興味を惹かれ、広場の端にある露天商の前に座ってじっと眺めているところだった。 興味すらもたない背景と化していた広場の反対側にある舞台。 そこで何人かの歌い手が登壇しては、数曲その喉を披露して終える。 4、5人程の歌声を背中で聞きながらあれやこれやと小物を手にとっては楽しそうにはしゃいでいたセリカ。 不意に衝撃が、彼女を背中を襲う。 振り返ってみれば先ほどまでの者達と同じく舞台に立った女が一人。 風になびく豊かな緋色の髪は燃えさかるように其の存在感を示し、大きく広げられた手と相まって小さいはずの女性の身体に宿る、存在感とでもいうべきものを極限まで大きなものとしていた。 その声は既にただの声ということから外れ、一つの楽器として豊かな情感を奏でている。 伴奏もないままに、ただその感情を曲として、遠くへ行ったきり返ってこない男への愛を歌う。 その小柄な身体に秘められる情熱的な想いを吐き出すかのように紡ぎ出される旋律が、広場に集まった人々の心を囚えて離さない。 息をすることすらも許されないと感じられるような強烈な引力。 それが、不意に調子を変えた。 高く、透明な声。それなのに、耳に柔らかく響く声。 滑らかな節回しがセリカに想起させたのは、母と二人で遊んだ家の近くの平原の風景。 草生す野原に宿る匂い。花の香り、暖かな思い出。 奔流のように押し寄せてくるその光景に、おもわずすぐ側にあった父の手をぎゅっと握っていた。 やがて、女の舞台が終わる。 小波のように始まった称賛の拍手は、やがて雷鳴のように鳴り響く。 一礼して舞台から女性が降りた後も、セリカはその方向を眺め、呆然としていた。 「セリカ?」 どの程度そうしていたか、幼い少女は覚えていない。 だが、問いかけるようなその声に、はっとしたように顔をあげ、横に立つ父を見上げた。 「セリカもうたいたい!」 突き上げられるような想いがあふれるにまかせて放たれたその声。 「あの人みたいになりたいの!」 幼いがゆえか。普通ならば物怖じしかねない言葉を、はっきりと主張する少女。 その瞳は希望に満ち溢れ、夢に満たされていた。 ‡ 人の夢は移ろいやすく、微睡みの時間は儚いものだ。 ふっ、と取り戻した意識が宿る身体は感動に打ち震える幼子のままでなく、幾年も経て成長し、成長することのなくなった身体。 絶たれた夢の痕だけが、己が息遣いすらも、体内の振動を通してしか知ることのできない身体となって主張している。 ――それは、あまり心地のよくない目覚めだった。 だが、同時に不思議に思う。 これは、淀む水面の底へと沈め、ここしばらくは思い出すことすらなかった、遠い、遠い日の記憶。 あの日。 運命が廻りはじめたあの日から、はるか遠きものとなった、幼き頃の夢と情熱。 情熱のままに当代随一の導き手に師事し、日がな大勢の人々へと歌う自分の姿を夢見て前に前にと進んでいたころの自分。 それは、今のセリカにとってとても遠くにあるものだった。 今その手にあるは、母の死を嘆き溜まった涙と、塞ごうとしても溢れ出してきた父の血に濡れた感触のみ。 両親の死亡とともに失われた。それは道だけのせいではない。 歌を歌うのに必要な、この世の全てを感じ取る、自分自身の感覚。 それに身を任せる事ができるという、無自覚の自信。 綺麗な音が、セリカの心を震わせることは最早ない。 それなのに――。 「そんなに、弱ってしまっているのかしら」 インヤンガイの壺宙天での死の遊戯。 ハワード家との様々なやりとり。 世界樹との戦いから続いた一連の闘争。 その中で知っている者が、幾人も消えていった。 様々なやりとりを重ねてきた。 誰にも。誰にも己の身に宿る呪いを悟られぬようにと、細心の注意を払いながら生き抜いてきた。 強くあろうと、強くあるためにどうすればよいだろうかと自分をあえて追い込むこともした。 少しずつ。 少しずつその心がすり減っていくことは、自覚していた。 それでも、だ。 とうに諦めきったはずの過去に手を伸ばそうとするほどに弱ってしまっているのかと情けなくなり、今更ながらに我が身の現状を振り返る。 自分自身がどうしていきたいのか。 誰のために、どうしたいのか。 自分はどうありたいのか。 想いは巡れど、応える声はどこにもない。 自分自身で導き出さねばならない答えなのだとは思いつつ、セリカは鬱屈した想いを吐き出すように、息をつく。 今できるのは、こうしてため息をつくことだけだ。 昔は違った。 粗相をして父にしかられた時も。母を失った悲しみに幼い我が身を引き裂かれそうになった時も。 口をついて出る歌が、己の心をほんの少し、あるいは随分と、軽くしてくれたものだった。 今は歌うことそのものに不安がつきまとう。だから、もう歌うことはやめようと、そう思っていた。 だが。そうだ、とセリカは顔を上げてみる。 どうせこれほどに心が疲れてしまっているのなら、と――ほんの少し、気を迷わせて見ることにしよう、そう思う。 「何がいいかしら――」 迷うように呟いたものの、心は自然と決まっていた。 口からまろびでる声は、決して激しいものではない。 それは、幼い頃に憧れた歌姫が最後に歌ってみせた、情感を持たせることのできる技量だけが、その全てを決めてしまう、そんな歌。 引き攣れた喉を叱咤しようとはせず、掠れる声のままに小さな声で、歌詞を紡ぐ。 骨を震わせ伝う音は、かつて感じたそれと同じ。 自身の耳で音をひろうことは出来ずとも。 それでも、わずかながらに震う身が、昔と同じ感覚をもたらした。 ――ああ、やはり私は音楽がこれほどに好きなんだ。 ただそれだけの事を感じることができた。 それだけで、心がほんの少しあたたまる。 震えすら痛む酷寒の道を歩むセリカだったが、わずかでも得られたその安らぎに、少しだけ頬が緩んでしまう。 その瞬間、ふと、寝台の横にある鏡に映る自分が見て取れた。 同時に、す、と熱が引いていく。 確かに自分は声を出すことはできるだろう。 音を紡ぐこともできるだろう。 でも、あの女性のように、しっかりと「歌って」魅せることは、できはしないのだ――。 そしてそれを聞かせたい数多の人々。 暖かな日々をくれた父母。 絶望の淵を漂う自分を拾ってくれた小母。 覚醒の果てに出会った無数の人々。幼い命。造られた命。 希望をもって、前をむいて生きると決めた時に、心の奥底のどこかにおいやってしまった、声も出せずに泣いている幼子。 ――でももう、届くことはない。 何かを望むことを無意識に自制するようなその笑みが変化するまでには、まだ幾許かの時間ときっかけが、必要だった。 歌劇の終盤におかれる、無音の世界。 ただ自身の声でしか顕すことのできない感情の発露の場。 彼女がその時を得るのは――まだ、もう少し先のこと。 fin
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