ターミナルにいくつかある墓地の一つ。 その内の一つには、特徴的な墓碑が有った。 そこに刻まれている名はない。 ただ、句が一句、刻まれているのみ。 ――汝の悼む名を懐え 故郷から放逐され、懐かしき人がどうなったのか、定かではない0世界。 しかし時は常に流れ行く。 其の中で、おそらくはなくなっているであろう、近しい者。 亡くなっている事をしりながら、故郷に戻れぬがゆえにその墓前に立てぬ者。 この世界において知り合いながら、他の世界でその生死が不明となった者――おそらくは、その運命が確定的な者。 そのような者達を悼む為に建てられたと云われる、その標。 ひっそりとした墓地。 深閑の空間にいる少女は、今日も一人、仮面を身につけ墓所に佇む。 マスカローゼと呼ばれた少女。 ふと、物音がして少女が振り返る。 そこにいたのは、世界を旅する者の一人。「――”どなたか”に?」 人の気配が無かったはずの場所に佇む少女に驚いたのだろうか。 無銘墓標へ歩み寄ろうとしていたロストナンバーが、マスカローゼを見て息を呑む。 そんな旅人の様子を、無表情のままに観察する少女。 数秒の、沈黙。「お茶を淹れていますので」 そう言って、少女は踵を返し休憩所へと向かっていく。 付いて来るも、来ぬも自由。 話がしたければ聞きましょう。 独白したければ耳を塞ぎましょう。 ただし、赦しは与えられず、慰めはもたらされない。 全ては、そこに在るだけの。 その背中が、静かにそう語りかけてきた。
朝も、昼も、夜もないこの世界において、木々により遮られる光が僅かばかりの影を落とす墓地。 独りの少女がこの日もまた丁寧な所作で石に文字を彫り込み、新たなる弔い人の準備を行なっている。 梢の囀りと、ノミに当たる小槌の音だけが響き、墓地の深閑とした空気をより一層際立たせていた。 固く燦めく花崗岩の墓石に刻まれる銘は未だ明らかならず、その少女の手がとまる事はない。 小一時間の間、丁寧に丁寧に掘り出されていく意匠と、それを作り出す少女を見つめる気配を背中に感じながら、彼女はそれを気に留めない。 訪問者でなければ、彼女が注意を払う事はない。 何より森に溶け込むその気配は只人とは思わせず、敢えて言葉をかけるのも無性に躊躇われる類のものだった。 緩々と流れる時間。 不意に件の気配が地へと降り立ったのを感じ、少女は漸くにその手を止めた。 「――"どなたか"に?」 この墓地の最大の特徴とも言える、中核の墓碑。無銘の、ただひとつの句を刻まれたその墓碑の前。 赤銅の蓬髪を後ろへ流し、弊衣とは言えぬものの然程丁寧に扱われているとも見て取れぬ山伏姿の男が一人、立っている。 じい、と墓碑を見つめるその目は鉢金に覆われて見ることはできず、その評定は少女と同様、読み取るのが難儀な程の無。 悼む想いは気配に宿らず、かと言って目前の事物が何であるのかははっきり理解しているようで、故に目的が読み取れない。 「然様な時は過ぎた」 男は淡々と答え、そのままに再びじいと墓を見る。 少女も口をはさむ事はない。 ノミと槌を置き、ただ少し離れた位置に立ってその様子を眺めていた。 「これなる文の意、碑文より察するにこれはだれを弔うものでもない、この下にはなにもない――そうだな?」 少女、マスカローゼは一度頷こうとして数瞬考え、首を横に振る。 「何もありません、ですがこれは誰を弔うものでもなく――ゆえに、全てを弔うもの」 含意が他にもありそうなその少女の言葉に天狗はその顎を小さく動かした。 「常、疑問におもっていたことがある。なにゆえひとは墓をたてるのかと。おれはかつてつまの骸を地に埋めた。ひとがそれを好むと聞いたからだ。されどその行為の意味は明らかではなかった」 骨を地に埋めようとも、そうせずとも、いずれ地に宿る蟲らに喰まれ、粉となり、砂となり、塵となる。 そこにあるは摂理のみで、何らの意味があるのかと。 「だが今、これを見て得心した。墓は死者への手向けではない。すなわち生者のためにたてるものだと」 少女はただ、墓を見ながら言葉をつむぐ天狗の男を見つめている。 「呵らば墓とはかつてそれが在ったことの証。過昏れし者を偲ぶための具象。木や金でできた仏のごとく、ゆえにこそ、なにも拒まぬ虚ろな形こそ、ひとがこころを寓せる対象たりうるということか」 ゆらりと天狗の背に備わる羽が、風に揺れる。 それに触発されたか、天狗はその大なる爪牙がついた手甲を外し、その無銘の墓碑に手を触れる。 そこから何かを感じ取れるのか、試してみたいとでもいうかのように。 だが、しばしして男はその手を下ろした。そして再び、淡々と言葉を紡ぎ始める。 「碑に文字をきざんだとて、その存在のかわりとはなりえぬ。精々、ありし日を呼びさますことしかかなわぬはずだ」 万象は個としての滅びをまぬがれぬ。 それをなお留め置くは、生者の内に残される心象、記憶なのであろう――しかし、それらもまた失われる。 風雪にさらされ、獣に倒され、人に荒らされる。 かくて依り代は自然に帰し、事象はこの世より放逐され、在ったという事実は亡きものとなる。 「然るに、忘却をゆるさぬため、標すのか。ころさぬため、覚えてゆくのか。これは永遠をのぞむ、ひとのあがきなのだな」 独白は終わり、男は再び口を閉ざす。 鳥の囀りさえ聞こえぬこの世界において、ほんの少しばかりすら時の流れをつげるものはない。 如何程の時が経っただろうか。 男は手甲を身につけ、マスカローゼへと向き直る。 「おまえはなぜ、ここの守りをしている」 数歩足を動かし、少女の前に立つ。 玖郎が見下ろす先にいる少女の手は、白く、柔らかなものに見て取れる。 人の手だ。 妻と同じ、ものを引き裂くことを知らぬように見える手だ。 「挙を見るに、骸寄す場を糧とし、なわばりとする類とは異なろう。留め置きたい、なにかがあるのか――ひとがになう役目は、かならずしも本意に副うものではないとも知るが」 「私はただここにあるのです――その墓碑と同じように」 本意が言葉どおりのものなのか、人の心から隔たった玖郎には分かり難い。 「いくる為にあらずか」 「それは人の見方によるでしょう。今、貴方と会話しているとき、貴方にとって私が生きていたのならば、私は生きているのでしょう。あるいはその会話をするためにここに居るのかもしれません……そうでないのかも、しれません」 黙然と言葉を聞いていた玖郎は、ただ「そうか」と答え、その地を後にする。 もとより気ままな空の散歩の中で、響くノミの音に引き寄せられたのみ。 これ以上ここにいることはない――マスカローゼもまた、そんな玖郎をとめることはしなかった。 樹海をその身に抱いた世界を飛ぶ玖郎。 かつての故郷のように、起伏のあるわけでもないその光景は、俯瞰した際に個々の違いを気に留めることをしなくなりがちのものとなる。 かつての碁盤目の文様に比べればましであったものの、より近くに降りてみなければ、その異なる部分に気づかない。 生きるものも、同じなのやもしれぬとふと思う。 こころに留まらねば、うしなわれる。 みとめられねば、なきものとなる。 はらはらと散りながら狂い咲くあの桜の並木も、見つかることがなかったならば、そこにはないものであったろう。 彼の娘が墓地にいたことをしらなんだならば、その生は死と同じであったろう。 だがそれは己にも言えることなのではないかと、自問する。 とどまる時に、うつろわぬ存在。 現し世の環よりはずれ、種ものこせず……さてはこれなるが、隠り世か。 おれたちは、死んでいるのか。 中空を飛ぶ玖郎は、脳裏に浮かんだその想いを身の裡に抱きながら、その羽ばたきを一層力強いものとし、巣へと向かうべく方向を変えるのだった。 ――fin
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