「よろしいのでしょうか?」「いいのよ。だって面白そうじゃない」 かなりの厚みを持つ帳面を胸に抱いた少女が、同じ年頃の少女に手をひかれ、微かに現れた"道"を往く。 その島はかつて孤島だった。 だが不可思議な事象により月が二つに増えた時、その湖にも変化があらわれる。 湖底で海に繋がっているのか、はたまた純粋に不思議の為せる業か。 満月と新月の重なる日、湖面は大きく水位を下げて、隠されていた石畳の道が現れるようになったという。 だが、地元の者がその道を通ることはない。 何故ならその島は古来より信仰の対象となっていた島。 島に住まう墓守の一族に許可を受けた者――親を亡くした子のみが、生涯一度だけ渡ることを許されるという島だったからだ。 信仰心に篤い民人達は道が現れて後も、その律に背くことがない。 地元の者からその不思議を聞いた二人の少女。 片方の少女はただその不思議を面白そうに聞いていただけだが、黒髪の少女はチャシャ猫のようにその琥珀色の瞳を輝かせて囁いた。「面白そう。さがしてみない?」 かくして楽園と樹菓の二人は、ゆっくりと夜の濡れた石畳を歩いている。 長い、長いその道は長い年月を水中に使っていたのだろう。 ぬめりを帯びた道。 そこに宿る湿気は強く、夏の夜の熱気にむされて薄っすらとした靄を発生させている。 どこまで続くのか。そう思わせる程長い道を歩いた――あるいはそう錯覚しただけかもしれない――先、月と星のみの明かりに照らされた大地が、目に入った。 揺々とした光が不意に灯ったのに気づいたのはどちらが先だっただろう。 道の終着点たる場所に、カンテラのような灯りを手にした一人の女が立っている。「プリマヴェーラ……」 小さく楽園が言葉をこぼす。 月明かりに透ける薄絹はギリシャの三美神が身に纏う衣のように薄く、女の白い肌が透けて見える。 その布から体を隠すように肩にかかったショールのような編み布が膨よかな胸を軽く包み、鳩尾辺りに添えられたコサージュでまとめられ、体の前面を膝付近まで覆い隠している。 背面の方も、腰元を隠す程の長さを持っているようで、その編み込まれた意匠、奇妙な文様は、これが何らかの法衣のようなものなのではないかと推測させるものだった。 波打つ小麦の髪が湖面を渡る風に優しくなびき、微かにゆれるカンテラの錆びた金具がきぃ、きぃ、と小さく音を立てている。「ようこそ、惑う娘御よ」 楽園、そして樹菓が石畳の道から土の大地へと足を踏み入れてようやく、女は口を開いた。「わたしは当世の守姫、ヴェルーシア。貴女方お二人を歓迎しよう」「本当にいいの?」 黙って忍び込もうとしていた後ろめたさがあるのか、楽園が小首を傾げて問いかける。 樹菓はといえば、見つかってしまったということに多少の後ろめたさを感じているのか、楽園の少し斜め後ろにたち、事態の推移を見守っていた。「そう言った」「あ、あの、お邪魔します……!!」 何事か言おうとした楽園を邪魔するかのように樹菓が前に出て、頭を下げる。 楽園もまた、何事かを言いかけたものの、口を閉ざし、そしてほんの少しだけ頭を下げた。 案内されたのは、不思議な場所だった。 神殿のようなこじんまりとした建物の内部。 案内されるままに進んだ先にあったのは、荘厳かつ重厚な石の扉であった。「お二人で、同時に押してみなさい」 す、と三人程がようやく肩を並べて歩けるほどのその通路。端の方に身をよせたヴェルーシアが指図する。 樹菓、楽園の双方ともに一度顔を見合わせ、そして同時に扉に手を添えた。 途端、想定よりも随分と軽い感触のままに扉がゆっくりと開いていく。 重さを微塵も感じさせない滑らかに動く扉の向こうは、小さな泉。 屋根はなく、中天にかかる月光の白い光が差し込み、湖面に煌めきを与えている。「水面に足を踏み入れれば、望む華が咲くだろう。では私はこれで」 はっとして二人が振り返れば、扉が閉まる瞬間で。 気配なくしまった扉の向こう、最早音は伝わらない。「どうしましょう?」「ここまできて、行かなければ来た意味がないわ」「それも、そうですね」 自然と囁くような声での会話になってしまうのは、この場に立ち込める静謐さのせいであろうか。 二人が靴を脱ぎ、水面に足を踏み入れた瞬間――底はかなり浅い泉であるようだった――小さな泉の中央、ゆっくりと花の茎が、立ち上がる。 水の中に沈んでいた二つの蕾が月光に照らされて、緩々とその花弁を開こうとしていく。 それは、不思議の花であるという。 二人に墓守の島の伝承を語ってくれた村人は言う。 それは、死者への畏敬の念を込めて祈ることができる者のの前でのみ、姿を顕すのだと。 そしてその花は祈る人間の想いによって様々に色や形を変える幻のような花であり、花を摘み取った人間は、今は亡き大切な人や、喪った故郷の幻を見るという。 親を亡くし、その愛に飢えた子や、親の懐いを知りたいと切に願う子供のみに渡ることを許されたという理由もそこにある。 人は、自由に亡き人に会えるとあってなお自制をすることは、難しいものだから――。 そう言った村人の顔に浮かんでいた、寂寞の表情を想起しながら二人は歩をすすめ、花のすぐ側へと歩み寄った。 そんな二人の目の前で、それぞれの花が、今その蕾を開ききろうとしていた。=========!注意!企画シナリオは、便宜上、参加枠数が「999」になっていますが、実際には特定の参加予定者のために運営されています。この企画シナリオは下記のキャラクターが参加予定です。他の方のご参加はご遠慮下さい。万一、参加予定でない方のご参加があった場合は、参加がキャンセル(チケットは返却されます)になる場合があります。<参加予定者>東野 楽園(cwbw1545)樹菓(cwcw2489)=========
そして楽園の花が、立ち上がる。 水面の下に眠っていた小さな蕾がその姿を湖上へ顕す。 月光に照らされて緩々と花開こうとするそれに視線を囚われた樹菓と楽園だったが、ふと自分達の周りに水煙が立ち上っていることに気づく。 水煙管の蒸気を思い起こさせるその白煙が湖から立ち上るのだと気づいたとき、白い靄は既に部屋の大分を満たそうとしていた。 そこに浮かび上がるのは、楽園に封じ込められた楽園の父母。 父母の犯した罪の血は原罪として楽園に流れている。 それこそが楽園の覚醒の根本。 父母が互いを想い合う愛こそが、楽園の罪。 「お父さん」 靄の中に浮かんだ記憶よりも若い父の姿。 それはあの日記を書いた時の父なのだろう。 心の底から幸せそうな笑みを浮かべ、彼は何かを見つめている。 何を見つめているのかしら。 そう思った瞬間、疑問は氷解する。 彼がそれほどに喜色を浮かべながら眺める対象等、他にはいようはずもなかったのだと。 「お母さん……」 それは、彼女の父がこの世で愛する二人の内の一人。 清楚な服に身を包んだ歳若い母が、慈愛に満ちた微笑みを浮かべ、腕の中、柔らかそうな布に包まれる"何か"を見つめ、父と時折言葉を交わしている。 母の腕の中に抱かれたものが何なのか――否、誰なのか、問う必要性等ありはしなかった。 ――楽園。 ――可愛い楽園。 腕の中の赤子へ語りかける、暖かで、愛に満ち満ちた声。 語りかける母とそれに反応し笑う娘、その二人を護るように立つ父。 それは父の日記にあった、ありし日の家族の姿。 ひょっとしたら楽園が父の日記を読んだことによっていつのまにか創りだしてしまった偽の光景なのかもしれない。 けれど、父母が楽園を見つめる目は優しく、慈しみに満ちたその表情は、彼女に一つの事実を教えてくれる。 楽園、君は確かに愛されていた。 誰かに言われたような気がして、楽園は一度その目を拭う。 その瞬間、先ほどまでいた若い二人と生まれたばかりの赤子の姿は消えていた。 代わりに顕れたのは、最後に見た、平穏な時の姿のままの、二人。 先ほどまで赤子に向けられていた表情は今、まさに今の楽園に対して向けられていた。 楽園――そう語りかけるかのように、父が少女に対し片方の手を差し伸べる。 他方の手は、母と繋がれていた。 「お父さん」 伸ばした手はしっかりとした力で掴み返される。 そっと別の手に触れてくる繊手がある。 「お母さん」 繋がれた其々の手から伝わる温もりは確かなもので、間違いないと思えるほどの存在感で、楽園の側に二人は立っている。 その表情は穏やかで――暖かで。 だから、思わず言葉が口をつく。 「今、幸せ?」 罪の証の子を産み、それによって人々に疎まれた最後を経て。 けれど自分を愛してくれた二人は、今幸せなのだろうか。 今の自分を見て、どう想うのだろうか。 そう考えてしまう胸の裡の自分が、思わず漏れでてしまったような気がして、途端にとても恥ずかしいことをしたかのような気分になる。 だが、同時に楽園は何かが心の中で落ち着くべき所に落ちついた気がした。 私は、今幸せなのか――わからない。 わからなくなってしまったから。 永遠となりかねないこの旅路の先に何があるのか。 いつまで……どこまで。 歩き続ければいいのか、振り返らずに進むべきなのか。 それすらも、わからない。 「もう、疲れたわ」 思わずついてでた愚痴。 傍らに立つ樹菓の、「楽園さん……」と呟く声が聞こえた。 それで想い出す。 手を握ってくれる二人は幻なのだと。 だがその幻に抱かれ、甘やかされるように後頭部を軽く撫でられて。 幻だとしっていてなお、楽園は目を瞑りその身を預けてしまう。 わかっていた。 幻なのだと。影でしかないのだと。 でも――今だけは甘えていいでしょう? 覚醒しなければ、楽園もまたあの嵐の夜にその生命を終えていた。 二人とともに死んで当たり前だった。 だが、楽園は覚醒したのだ。 それが何故なのか。心のうちで問うていた。 余生を費やし二人を弔うためとでも? いいえ、と楽園は胸の内に向かって言い切る。 少し弱いその声ははっきりとした意思をしかし宿していた。 違う。私が覚醒したのは、人生の意味を見つけるため――両親が名づけてくれたこの名に込めた想いを叶えるため。 自分の足で、楽園に辿り着くためよ。 「本当は、ずっと寂しかったの。どうして私を一人にしたの……?」 腕の中、楽園は問う。わかりきっているはずの問い。 だから、応えは期待していない。 わかっていた、生かされたのは両親が彼女を愛していたからだと。 それでも気づいたら恨み事を唱えてしまう、そんな穢い心を持つ自分が嫌いだった。 だが、そんな自分を両親は愛してくれていた。 その腕の暖かさにずっと包まれていたかった。 けれども、楽園は自らその身を起こし、二人と距離をとる。 久方ぶりの涙の後。雨上がりの空のように、晴れ晴れとした心持ちで彼女は言う。 「お父さん、お父さん、お母さん――産んでくれて、ありがとう。生かしてくれて、ありがとう」 そうして彼女は湖面に膝を沈め、靄越しの月光に向かい咲く華に手をかざす。 その華は六枚の大きな花弁をゆらし、水面に咲き誇る。 淡桃の地色が涼やかなその花は、あの島にも自生していた透百合。 あなたたちが得たのが失楽園でも、此処には綺麗な花が咲くわ。 花を眺め、楽園は心の中で呟いた。 本当は消えていなくならないでと言いたかった。 でもそれは、もうしないと決めていたから。 もう甘えるだけの子供ではいないと決めたから。 誰かに依存してしまうだけの連鎖を断ち切ること。 自ら手を放す、その勇気を勝ち得たから。 だから、楽園は両親を見上げて微笑んだ。 さようなら 呟く声は水面を渡り、同時に楽園はその花を手折った。 それと同時に、両親の影も消えていく。 「楽園さん、大丈夫ですか?」 心配そうに、樹菓が彼女の横で、彼女と似たようにして座り込んでいた。 そんな樹菓に対し、眦を拭うと大丈夫よ、と一言告げる。 「ねぇ、あれ――」 そして、手にとった花を大事に抱え、今ひとつの蕾を指し示す。 視線の先、今ひとつの花が湖面から顔を出そうとしているところだった。 そして樹菓の花が、立ち上がる。 ゆっくりと広がるその靄の中、樹菓は想う。 果たして私に何か見ることができるのだろうか、と。 彼女は神仙の一人として世にあった。 冥府の吏員たる一人として、彼女は神の位を与えられ、その末席で仕事をこなす。 その日々は楽しい時もあれば、辛く、重く感じる時もあるもの。 多くの死者と言の葉を交わし、秘する処を知り、未練や嫌悪、悲哀の感情をその身に取り入れ――そして今なお持ち歩く。 数多の人の記録を記すその本は、宛ら世界図書館に在る司書の預言書のごときものといえようか。 彼女にできることは何もなく、ただ人々の死後の安寧のため、話し、理解しようとつとめ、それが十全にできないことにその心を傷めるのみだ。 けれども、数多の美しさに同時に触れてきたからこそ、彼女は想いを残し亡者となった人々に寄り添い続ける道を歩んだ。 そうでなければ、己が――そう、ふと彼女につきまとうその想いはいつも靄のような感触のまま、心の片隅に狩り続けた。 樹菓は同輩になんといわれようとも、想いをなくす者達に寄り添うことで彼らの安寧を欲した。 だが、その根源を覚えていなかった。 ――何か、何を。 今は亡き大切な人や、喪った故郷の幻を見ることができる伝承に触れた時、彼女の胸に去来したのは一つの疑問。 故郷とは、冥府のこと。 それなのに、胸に去来する不思議なざわめきはなんであろうか。 やがて、靄はゆるゆると一つの形をとりはじめる。 『ここに入って反省しておれ! 翻すまでは出さんから、そのつもりでいるのだ』 最初に映しだされたのは逆光の差し込む扉に立つ男の姿とその声だった。 すぐさま扉はしめられ、向こうから閂をさされる音がする。 辺りを包んだのは闇。だが、ややするとほのかな灯りが燈された。 「本があれば、いいです」 少しすねたような、少女の声。 その容姿は、樹菓にとってはよく知るもの。 楽園もまた、側に座る樹菓と靄に浮かぶ少女を見比べ、それが同一人物であると認めるに至った。 何事かにより閉じ込められたことを苦にする様子もなく黙々と本を読み始める少女。 そうして靄は再び空間をぼやけさせた。 次に映しだされたのは、二人の男女だった。 緑濃き渓谷に囲まれたその小さな村は、山と共に生きる人々の住まいであるようだった。 ――いずれはあの子を都に登らせたほうがよいだろう。 そう妻らしき女に語りかける男の声にあるは慈愛。深く、厳しい慈しみ。 『そう、ですね。緑花はこのような場所で埋もれさせるにはもったいないくらい……ですが、貴方はそれでもよいのですか』 構わん、と男は言う。 『あれは既にこの村に持ち込んだ全ての書物を読み解き、覚えてしまった。私が口で教えるものも含めて』 都の人を厭い、山奥の村に隠棲し私塾を営むようになった男とその妻。 だがその日彼女らの娘はこう言ったという。 『私はより深く学べればと思ってます。都に出て、学を修め、この村の人々に安寧をもたらしたいのです』 十六になるやならずやの娘が言い放った言葉。 だが、それを得心させるだけの才が、確かに少女にはあり――父母である贔屓目を除いてなお、それは否定のできぬものだった。 『まぁ、しょうがあるまい』 口に含んだ茶の渋さに顔を歪めた男が、しばしの後、そう呟いた。 また景が解け、そして結ばれる。 『緑花!』 泣きはらした目をして寝台に向かい叫び続ける先ほどの女。 母たる彼女の前には、死相を宿した娘の姿。 都にでる手はずを整えた頃合いで、死病に侵された少女。 医者もろくにない地でのそれは――即ちそのままに、死を意味するのだろう。 幾度か情景が変じ、やがてそれは奇妙な像を浮かばせる。 『引き返すことはできぬ。全ての記憶を失ってなお、想いを貫く覚悟があるか』 語りかける声の主――かつて、務めていた冥府の中でもかなりの上位に位置する者の声だった。 『構いません。私は、私は死にました。ですが私と同様、想いを残し死んでいった者達が多いことを知ることができました。私は、彼らの言の葉を聞きたく想います』 『茨を踏み、焼石を懐中に抱く行為であってもか』 『……それでも、です』 紡ぐ言の葉。蜜色の双眸に宿る意思は強く、硬い。 『ならば機会を与えよう』 『ありがたく――』 傾ける頭をさらりと流れる髪。 それは、死者となった一人の娘が、神となるまでの途だった。 遠く思い出せぬはずのその情景。 薄れゆく靄の中、水上に顔を出した花の蕾がゆっくりと花弁を開いていく。 その花は四照花。 薄緑色の花弁を四方に咲かせ、甘い香りと逞しい命の脈動を感じさせる、山の花。 やがて実を結ぶことがあったなら、それは甘酸っぱい実を宿すだろう。 その花の咲く枝を手折りながら、樹菓は言う。 「いたことさえ――両親がいたことさえ、忘れておりました」 「でも、思い出せた?」 「どうでしょう……」 楽園の言葉に、頭を振って樹菓が応える。 「この情景が真実己の過去なのか――それを識る寄す処はないのです。けれども」 そう言って彼女は手の中の花枝を大事そうに胸に抱く。 「見ることができて、よかったと、そう想います」 「……そうね」 楽園もまた、彼女の花を、月へと翳す。 すかし百合に、柘の枝ね。 そう呟く楽園の言葉が、樹菓にはよくわからない。 ただ、なんとなくその中に込められた想いは感じられたように思える。 成程、この地は一度だけであるべきだ。 ここで見ることのできた世界が投じる波紋は強すぎる。 あるいは、甘すぎる。 甘く、酸っぱいヤマモモの実。 そんな味わいを与えてくれる、この地が映した、人の夢。 伝承を教えてくれた老人の表情が、なぜだか思い起こされた。 「月が明るいわ」 花越しに月を見上げていた楽園が、小さく微笑み、そう囁く。 見上げる樹菓の目にも、月は同じく輝いていて。 頷き、彼女も花を月へと翳す。 十六夜の月のように大きく柔らかな光。 それがとても、身に染みた。
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