「――ところで、その『彼』なんだけどね」 あ、まただ。 音琴夢乃は、目の前の青年の言葉を聞きながら、心に覚える引っ掛かりを丁寧に摘み上げる。 最初に「それ」があったのは何時頃の事だろうか。 目の前の青年は、花菱紀虎。 髪のあちらこちらにカラフルなピンを挟み込み、無造作に纏めあげている。それ以外を除けば、割と普通の、どこにでもいる「大学生のお兄さん」だ。 多分、夢乃以外の多くの人間にとっては、関わったことのない人にとっては、というのでもいいけれど、特段取り立てることのない、埋没性の高い青年でしかないはず。 けれど、紀虎君は紀虎君で、紀虎君にとって紀虎君は紀虎君のはず。 それなのに。「ねぇねぇ紀虎君」「うん? 夢乃さんどうしました?」「『彼』って紀虎君ですか?」 夢乃の言葉に、紀虎は数度目を瞬かせ、数瞬考えて、ああ、と頷いた。「そうですよ。あれ、おかしいな――俺、『彼』って言ってましたよね」「うん、でもまぁいっかぁ」「ですねー。あ、ところでこれから見る映画なんですけど」 二人が歩いているのは、都心から少し外れたところにある新興の市街地。 ミニシアターがいくつも入っている映画館に、映画をはしごしにいくデートの日だった。 映画を二本。その前と間に軽いお茶の時間があって、一本目はホラー。二本目はイギリス映画で恋愛物。ホラーはすごく心の隙間をついてくるような怖さで、二本目はなんだかよくわからないけど心が浮き立つ、そんな風合いの作品だった。「一本目の最後でね、『彼』が『彼女』の横顔をちらっと見やった時、反対側からね、ひっそり声がしたのさ。『それで、次はだぁれ?』――夢乃さんも聞こえた?」 まただ、と想ったが夢乃は口に出さない。「やだなぁ紀虎君。ぼくにはそんなの聞こえませんでしたー。驚かさないでくれませんかー?」 くすくす笑いながら、夢乃はテーブルに広げられたフライドポテトを一つつまみ、紀虎の口へと放り込む。「むぐぅ」 そんな、いつものデートの風景。 店を出て、駅へと向かう。 あの服かわいいねー、もうすぐ秋だねー、そんな会話を繰り広げていた二人だったが、夢乃はふと、横にいたはずの紀虎がいなくなっていることに気づく。 あれれー? おかしいですねー。紀虎くーん? 自分の髪をいじりながら首を傾げ、夢乃は周囲を見渡した。 少し戻った先、紀虎がバス停に一人立ってバスを待つサラリーマンらしき人と話している姿が目に入る。 知り合いなんでしょうか? そう疑問に思いながら歩みを戻した夢乃。「……まぁ僕の友人が聞いた話なんですけど――貴方もお気をつけて」「紀虎くん!」 思い切って、丁度話を終えたらしき紀虎の袖を引く。 振り返った紀虎は――その瞳が何を捉えているのか、夢乃にはわからなかった。 さぁ、と二人の間に、冬を告げるかのような風が吹き抜ける。 その先にある何かをもたらすその風は、温度こそ違えど、沖縄で、力強く握り返してくれたあの手。その手と自身の間を吹き抜けていく風と、同じであるかのように思えた。 紀虎くんが、消える――それは今や、限りなく強い予感となって、夢乃の胸を灼く。「……あぁ、夢乃さん。あれ、俺おかしいですね、どうしたんだろう」 数秒。困惑したかのように紀虎が首をかしげた。「まるで、俺なのに俺じゃないような――なんだか、今日は俺、変ですね」 ふるふる、と夢乃は首を振って笑った。「ううん、大丈夫。紀虎くんは紀虎くんだよー。さ、帰ろうよー」 それは、夏がおわり、秋を迎えようとするある日の事だった。 それで、終わってはくれなかった。「そう、そこで終わるならば、すべてめでたしめでたし世はこともなし、というところでしょうか。でもこれには続きがあるんですよ」 彼は言う。「『彼』はそれからも何度も不思議な感覚を覚えたそうです。ふと、風が身体に入り込んでくるかのように、何か語らなければいけないことができるような感覚。あるいは語り終えた後に、己が不思議の感覚にとらわれていたという気付き。その時の『彼』は、『彼』であって、『彼』ではない。宛ら語り部――行きて戻りし先にあらぬ、不思議の話の語り部。そうとしか形容しようのない存在になっているような、不思議な感覚」 そう言って言葉を切り、彼は目の前の司書に苦笑する。「二つの人格がせめぎ合っているというわけではないのだそうです。あくまでも一つ。ただその本質が変わっていて、当の『彼』だけが、それに気づいていない――あ、中二病ではないそうですよ」「わかります」 犬の獣人の姿をした司書が、少し苦笑らしきものを浮かべながら応える。「ひょっとして、とその人は思ったんです。『自分は、いつのまにか、都市伝説の語り部になろうとしているんじゃないだろうか』、と」 不思議な話でしょ? そう言って笑う紀虎に、司書は問う。「それで、その彼は?」「さぁ……俺も聞いた話なのでなんとも。ところで、それは?」「今用意しました」 にっこり笑った司書が、チケットを二枚差し出した。「紀虎さん、音琴さんと少しお話の機会をもってみてください。率直に言うと、デートしてきたらいいと想うんです。貴方は考えるべきだと想うのです――これから自分がどうあるのか、夢乃さんとどうしていきたいのか、変化は誰にでも起こりえます。可逆の変化もあるでしょう、ですが不可逆ならば……起こる前に、起こった後にどうありたいか、考える時間が必要です」 そこまでいって紀虎に壱番世界行きのチケットを押し付けると、アインは笑っていった。「ところで。貴方は一体誰なんです?」=========!注意!企画シナリオは、便宜上、参加枠数が「999」になっていますが、実際には特定の参加予定者のために運営されています。この企画シナリオは下記のキャラクターが参加予定です。他の方のご参加はご遠慮下さい。万一、参加予定でない方のご参加があった場合は、参加がキャンセル(チケットは返却されます)になる場合があります。<参加予定者>花菱 紀虎(cvzv5190)音琴 夢乃(cyxs9414)
西の商都、大阪府。 その市街地に立ち並ぶ大きなビルの林の中でも、一際目立つ2棟が連結した形のビルがある。 地上40階、高さにして170メートルをゆうに越すその建物の屋上、強いビル風も和らぐ秋晴れの星空のもと、まだ若い男女が手を繋いで壁際に立っていた。 円形となり周囲360度を見渡せる眺望を有したその展望台にはちょっとした神社もあるという。 司書に送り出されてこの地へ降り立った二人が、城や万博公園、食べ歩きと楽しむ中で、昭和の香りが演出された地下街での食事をしにこのビルを訪れたのは、日も大分暮れた頃合いの事だった。 西梅田にそびえ立つ特徴的ななで肩の形をしたビルを筆頭に、大阪らしい極彩色のネオンが煌めく町並みは、二人きりのデートのしめとしては、大分上等の類といえるだろう。 「今日は誘ってくれて、ありがとーうー。うふふ、デートに行っておいでーなんて、司書さんから言われるなんて思わなかったねーえー」 すこし舌足らずに語尾の伸びた口調で傍らの青年に話しかける夢乃。 「そうですねぇ」 少しずれた眼鏡を直しながら、微笑む紀虎。 眼鏡に光が反射して、夢乃には青年の視線が見て取れない。 ただそれだけのはずなのに、夢乃はその日何度目かの違和感を抱いていた。 ‡ その日感じ続けた違和感も、一つ一つは微細なものだった。 最初は駅をでたところ。 大きなショッピングモール店舗の前を通りがかった時、紀虎がふと立ち止まる。 『そういえば夢乃さん』 存在感をわずかなものとするかのごとく、表情が消えた青年に、夢乃はその言葉が紡がれるのをまたず、袖を引く。 「……紀虎くん? ねーえー、紀虎くんー?」 『――』 話を中断されて、少し困ったような表情を浮かべる紀虎。 けれども、常にある彼らしさというものが、まるっきり欠落しているように思えて。 「ぼく、夢乃だよ? わかる?」 そっと青年の両頬を手のひらで包み、覗きこむようにして語りかけた夢乃。 その困惑した瞳を見返す青年の目にも、数瞬の後、感情が戻ったようだった。 「夢乃さん――そんなに近づかれると、照れちゃいますよ?」 ほんの少し、口の端にたたえた笑みとともに紡がれる言葉。 それは正しく紀虎の言葉であると感じられ、夢乃は「えへへー」とだけ笑い、手を離した。 それと同様のやりとりが、数度。 場所を問わず。時を問わず。 何かしらのスイッチが入った時に――まるで、今在る紀虎を押しのけるようにして出てきかける、もう一人の彼。 そんな違和感の主をできるだけ見ないようにして。 心の奥底に湧き上がる不安を押し込めるようにして。 夢乃は楽しげに笑い、語りかける。 紀虎が何か無表情に話そうとするたびに、あれやこれやとちょっかいをかけながら、邪魔した一日でもあった。 ‡ 「そういえば赤い女の話っていうのがあるんですけどね――」 「あー、紀虎くーん。あの光ってーえー、ヘリコプターかなー? こんなところで見れるなんて-、すごーいねーえー」 邪魔してるのは、わかってる。 夢乃はごめんね、と心の中で紀虎へつぶやいた。 彼の語る話が好きだった。 現実の狭間にふと忍び寄るその都市伝説の数々が、語り口のうまさと相まって夢乃の心をわくわくさせてくれたから。 けれど、今の紀虎が語る時、夢乃は彼に笑い返すことができなくなっている。 紀虎自身を話すときに、時折でる、「自分」のことを「彼」と言ってしまう紀虎の物言いがまたでるのではないかと、身構えてしまうからだ。 自然、紀虎の話題を遮る形になり、その為に話の腰をおり、無駄な口数が増えてしまう。 語りのテンポを狂わされ、どこか困惑いたような表情をうかべる紀虎を見る度に、このまま嫌われてしまうのではないかという怯えも、併せて訪れた。 話を聞かないぼくに対して、それでも話そうとする紀虎くん。 そんな彼の話を聞かないことで、がっかりさせてしまっているのではないだろうか。 一度とりついた不安は、なかなかはなれない。 夢乃が都市伝説的な不思議な話を聞くのが好きなのは理由があった。 元々夢乃自身が、時折現実と夢の間に揺蕩う感覚を覚えるような少女だったからだ。 まどろみの中にあるを好しとし、変わらない世界を望んだ少女は、安心できる、居心地のよい世界を夢見る少女だった。 今起きているはずの自分は、しかし本当に起きているのだろうか。 自分が生きている世界が、現か夢か。 自覚的に、そうした疑問を持つ少女だった。 そして今彼女はロストナンバーとなり、消失の運命を歩む者となっている。 目前の紀虎には真理数がない。 自分も、ない。 果たして自分達は生きているといえるのか。それすらもあやふやな心地の道程の最中にあって、しかしいつもそう思っているわけじゃない。 奇妙で貴重な立ち位置の中に自分達がいることを、夢乃はきちんと理解していた。 ――これは、ちゃんと現実だよねーえー そう語って笑ってみせることもできるくらい、心の底で、無意識にせよ意識的にせよ、現実と夢、その両者を区別する少女でもあったのだ。 都市伝説に気軽にわくわくできたのも、それが遠い世界の、あるいは虚構の世界の話だと考えることのできる自分が確立されていたからだ。 そして今、彼女の前にその語り部たる紀虎がいる。 都市伝説に思い入れを抱き、本人が自覚しているかは不明だが、都市伝説となろうとしている、彼。 それが消失の運命によるものなのか、それとも別の何かなのか、夢乃にはわからない。 今、彼女には静かな恐怖が忍び寄る。 紀虎くんはどうなるんだろう。 ぼくの世界は、どうなるのだろう。 ふと、疑問に思った。 紀虎くんはどうして、都市伝説に興味を持ったんだろう。 ‡ 『ところで。貴方は一体誰なんです?』 そう司書に問われた時、ああ、自分が変化しつつあるのだな、と理解し、同時に困惑したものでした。 僅かな喜びがどこかにある中で、胸を大きく占めるのは困惑と忌避。そうなる自分を嫌がる自分がいるという状況は、かつての自身を省みるにつけ、不思議なように思えたんです。 昔の俺なら? 自問してみれば、すぐに答えはでました。 きっと、都市伝説の語り部という都市伝説になろうとする、そんな自分を拒むことなどありえなかったでしょう。 いえ、むしろ嬉しいとさえおもったかもしれませんね。 では、今の俺は? 進めた自問に、答えがでない。 いえ、答え自体はでていても、迷いがつきまとってくるわけです。 都市伝説。 それは、人が無意識に想起する伝承への記憶の預託。希望の委嘱。恐怖の投影。 共通するのは、決して消えず、根強く残り続けるということ。 俺自身の無力さというものを思った日からでしょうか。都市伝説というものに、強く惹かれる自分がいました。 人の記憶とは遷ろい、消えるもの。 悲惨だった戦争の記憶ですら、いつの間にか風化してしまう世の中で、誰が俺のことを覚えていてくれるのでしょう。 「俺」なんてちっぽけな存在は、すぐに忘れられてしまう。 そうであるならば、この世界に「俺」がいる意味はなんなのだろう。 だからこそ、都市伝説というものの有り様に惹かれたんです。 人の記憶は遷ろえど、それと同時に人の口を転ろうそれは、決して「全てのものに忘れられる」ことはない。 そんな存在であれたならば―― その思いはロストナンバーとなったことで、もしかしたら強くなっていたのかもしれません。 誰か、俺を忘れないで――どんな形でもいい。ただ、忘れないで。 ……けれど。 以前の俺は、他人と仲良くなりたかった。 他人との仲が深まれば、「ああ、あんなやつもいたっけ」と思い出してくれるかもしれないと、思ったから。 誰とでも仲良くなれるし、なりたい――というのは表向き。 誰かに忘れられることが怖くて。 俺が何者であるのかを覚えていてほしくて。 誰とでも、接していた。誰でもよかったのか、と聞かれたら、頷くことになるでしょうね。 ……ただ、それだけのことでした。 ‡ 夜風が二人の髪をさらさらと撫ぜていく。 ビル風ですらそよ風のレベルなのだから、地上はさぞかし凪いだ状態なのだろう。 足下に見下ろせる満天の夜景に目を細めながら、紀虎は、自身がなぜ都市伝説というものに惹かれたのか、隠すことなく、夢乃に伝えていた。 いつしか二人の周りには、人の気配が少なくなっていて。 「こんな感じでしょうか」 話し終えた紀虎が笑うと、 「紀虎くんは、紀虎くんであることがとっても大事なんだねーえー」 夢乃もまた微笑みを浮かべていう。 柔らかな夜風にゆらされる前髪の合間から、可愛らしいおでこが覗いていた。 「ぼくはねー、こうだったらいいなー、こんな世界があったりするのかなーあー、なぁんて想像してたら、覚醒してたんですよーうー」 てて、と数歩ほど動いて二人の間の距離を詰めた夢乃が、自分の覚醒の経緯を話しだす。 そのやや間延びした口調が、紀虎の耳には心地よい。 「夢と考えていた世界が現実にあったりするかもって知って、驚きましたー。だからですねーえー、紀虎くんと最初に会った時も、こんな都合のいいことあるのかなー? って思ったんですよーうー」 また、自分の妄想なんじゃないか、今って現実ですよねーえー? そんな思いで、思わず戸惑いの言葉を零したのだと。 そのことは紀虎の記憶にも、まだ鮮明に残っている。もうずいぶん前のことだというのに。 「でもぼくは見たままに信じる方なので、『あーこれはちゃんと現実なんですねーえー』って思ったんですよーおー」 ‡ 現実は夢乃にとって、決して好ましいものではなかった。 まどろみの中の停滞感をまとうことに心地よさを感じる彼女にとって、変化というものは、自らを安穏より追い出し、平穏を遠ざける対象となることが多かった。 ただ、待っているだけ。 あるいは、見送るだけ。 そんな彼女は、『じゃあまたねー』と言って去っていったまま、再び会話を交わすことのないであろう同級生を幾人もにこにこ笑って見送っていた。 そこに、確かにあるはずの気持ちは、いつも見ないふり。 けれど、夢乃は同時に現実を好む娘だった。 彼女が厭うたのはただひとつ。変化。 うつろいゆく環境を与える、ただその一点が、現実を忌避し、夢の世界を常に見つめ続けた所以だった。 そんな彼女だから、見たものは、そのままに納得し、受け入れる。 そして、今彼女たちがいるのは――現実だった。 今までなら。 ううん、これからも。 でも、今だけは。 ‡ 「きっと、いつものぼくなら、笑って『よかったね』って言うんですよーおー」 確かに、と紀虎は思う。 夢乃さんなら、今話したように。 かつて見送った同級生の背中を見つめるのと同様に、きっと彼女はそうするのだろう。 「紀虎くんは都市伝説そのものになることを、きっと喜ぶんだろうなーあーって思うんですよー」 すぐ近くに立ち、そう微笑みながら言う夢乃さんの手が――いつのまにか自身の手をとっていることに、紀虎は気づいた。 「思うんですよーおー」 微笑みのまま、彼女は言う。 「でもぉ、どうしてかぼくは紀虎くんの手を握っちゃってるんですよーおー」 こつん、と彼女のおでこが、自分の肩口にあてられた。 その瞬間。 ああ、と。紀虎は、自分自身の想いが、すとんとお腹におちる感覚を受けた。 ‡ 変わらないで。 その思いが胸から溢れそうになる。 ほんとーにー? もう一人のぼくが、横から話しかけてくる。 どうしてぼくは紀虎くんの手をとっているのだろう。 どうして、小指をからめて、何かを伝えようとするのだろう。 どうして、あふれようとする思いをとどめよう微笑んでいるのだろう。 この想いは、なんなのかなぁ? 結ばれた小指とおでこから、紀虎くんの鼓動が伝わってくる。伝わるはずもない場所なのに、確かに感じる。 静かで、落ち着いていて、でも少しだけ悪戯っぽい、紀虎くんの鼓動の音が、ふわふわとした思いを形のあるものへと並べなおしてくれる。 紀虎くんだからこそ、変わってほしくないんだ。 紀虎くんは、どんなになっても紀虎くんなんだ。 だから、紀虎くんでいてほしいというのは、きっと違う。 うん、そう。ようやく、自分の気持ちが理解できた。 ぼくはこう言いたかったんだ。 ぼくから、離れていかないで――。 「夢乃さん」 きゅ、と触れ合った小指に、力が籠もる。 それは夢乃自身ではなく、紀虎からのもの。 「彼は――いいえ、俺は、ずっと誰でもいいから、自分のことを覚えていて欲しかったんですよ」 それは、ほんとに誰でもよくて――だから、誰にも覚えてもらえる存在になれなかったんです。 そう言う紀虎を見上げると、柔らかな微笑みが彼の口元には在った。 「でも、今はそうじゃないんです」 眼鏡の奥のその瞳が、向かい合う夢乃の視線を受け止めて、はっきりと握りしめてくる。 「今は、ただ一人の人に、覚えていてほしい。その人に、覚えてさえもらえればいいと思える人がいます」 「私が覚えてる。紀虎くんがどうなっても、ずぅっと覚えてるよぅー」 ふるふる、と紀虎くんが首を振った。 ああ、ぼくはその一人になれなかったんだなぁ、と無意識に浮かんだ笑みの下で思った瞬間、紀虎は夢乃の頬に、左手を添えてきた。 「俺は夢乃さんに、俺のことを覚えててほしい。都市伝説の語り部としてじゃなくて、『花菱紀虎』として覚えていてほしいんだよ」 落ちかけた視線が、弾かれたように上がる。 再び向き合った彼の目は、どこか遠くにいるように思わせるあの目とは、隔絶したもの。 はっきりとした意思を、彼を、感じさせるものだった。 「だから、ね」 ささやかれる声は、耳に心地よい。 彼の語る話が好きだった。 語る声が好きだった。 その語り口やテンポが好きだった。 今までもそうだったけど、今はもっとこう思う。 紀虎くんの言葉を、もっと聞きたい。そのすべてを覚えていたい。 ‡ 「今日も、一緒に過ごそう。もっと『花菱紀虎』を知ってほしい」 思いを振り絞って伝えた言葉に、夢乃さんはしっかりと頷いた。 俺のことを、知ってほしい。 覚えていてほしい。 出会った時には都市伝説を語っていた。 0番世界で、苦労して噺に言葉を託し語ったこともある。 ただ、その手を握って史跡の美しさを語り合ったこともあった。 振り返れば、出会ってから今まで、ずっと言葉とともに在ったのだと、そう思う。 だから、と紀虎は言葉を紡ぐ。 自分自身を覚えていてほしいから、強烈な記憶になる言葉を、貴方に送りたいのだと。 言外の思いを幾万も込めて、紀虎は目前の夢乃に、ささめいた。 大好きだよ、夢乃さん。 ‡ 夜景によって象られた二人の影が数瞬の間重なって。 えへへー、と顔を火照らせた夢乃が、数歩後ずさる。 それからぐるりと回りを見渡すと、彼女はててっと軽やかな足取りで、屋上の端まで移動した。 今の自分のありようを変えて、何かになりたいと強くおもったことは、夢乃にはなかった。 移ろいゆく、儚さを笑顔の奥で厭うた少女は、娘になり、想いを交わす人を得て。 はじめて、「何か」になりたいと、そう願う。 何になれば、ぼくは紀虎くんをつなぎとめられるのかなーあー? 数瞬の間に考え、はたと思いついた彼女が、数多の地上の星を背にして、紀虎に語りかける。 「紀虎くん、私はねーえー」 「なんですか、夢乃さん」 満面の笑顔を浮かべる夢乃を見守るように、その場にたったまま紀虎は応じる。 手を伸ばす必要は、もうない。 指をきる必要もない。 これは誓いの言葉。そして祈り。 「ぼくは紀虎くんの語り部になるの。だからーあー、紀虎くんは、ぼくが困らないように、しっかり側にいて、紀虎くんの事を教えてくれなきゃだめですよーおー!」 一時きょとんとした表情を浮かべた紀虎くんが、ぷ、と吹き出す。 お腹を抱えて笑うようにしてしばらく苦しそうにしていたが、やがて息を整え、顔をあげて夢乃に視線を向けてきた。 「――はい、ずっと。今日も。そして、これからも」 夢乃は一歩足を踏み出し、小指を差し出した。 紀虎も、一歩足を踏み出し、小指を差し出した。 煌めく夜風に揺らされて、たしかに、浮かび上がったのは――二人の小指を結ぶ、細く、それでいて確かな、約束の糸。 これまでと変わることを決意した夢乃と、これまでと変わらない自分であることを選んだ紀虎。 その、確かな約束の糸。
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