ヴォロスの一隅に在り続ける、微睡みの都市。まほろばの街。神託の都、メイム。 あらゆる人の夢を守り、託宣を伝え、道を示す。 その都の一隅で、今日も訪う者の夢を、見守り続けている彼女の名は、エデン。 艶めいた黒髪はシンプルな拵えのバロック真珠をあしらったピンよって装われ、かつては狂気に満ちていた時期もあったその瞳は、優しい慈愛を宿している。 喪失を乗り越え、人を信じ、一歩を踏み出す勇気を得た。 先ごろこの地で知り合った男と生涯を共にすると誓ったエデンの姿は、最早かつて幾度も己の手首を切り刻んだ、硝子細工のように儚いそれではない。 彼女が身につけているオパールのブレスレットのように、過去に負った傷さえもその身の一部として取り込んで、たおやかながら、強く気高い大人の女性となっていた。 † 「私の道を指し示す神託が欲しいんです」 夢守たるエデンの前に立った少女が、空ろな瞳を俯け、小さく呟いた。 朱金の髪。黄金の瞳。白磁の肌。 一つ一つの造作はよいのに、ただ一つ、希望がない。 その為に髪は艶を失い、瞳は闇く濁り、肌は青白く健康を損ねているかのような印象を与えるものとなっている、その少女。 アイシャと名乗った彼女の話を聞くにつけ、エデンの心にかつての己が湧き上がる。 彼女はほんの少し前まで、そこそこの規模の都市国家の上流貴族の娘として、不自由の無い生活を与えられていたという。 だがその幸運の代償を無理矢理に払わされることとなった。 始まりは、父の病没――父のみに任せきりであった領地経営に、貴族の育ちである母やアイシャが役に立つはずはなく。 領民の争いの仲裁もろくに行うことができず、やがて破綻。 母は度重なる心痛で、悲嘆の内に自ら命をたった。 その一連の騒ぎの中で、婚約していた青年はアイシャの下を去っていった。 小身貴族の青年にとって、アイシャは愛しい娘である以前に、大身の貴族の家柄を背負った娘だったというわけだ。 「生きていても――もう何もないの。夢も、希望も、家族も、愛も。なのに死ねないの! どうしても途中で怖くなってしまうわ。こんなに自分が臆病だったなんて……嫌になる。それで色々考えたけど、やっぱりどうしようもなくって――だから、今度こそ両親の後を負うべきではないかと、そう思うの」 最早涙も枯れたのだろう。 ただ淡々と来歴を語る少女の口調は、むしろその危うさを一層引き立てている。 けれども、とエデンは思う。 この子は本当はわかっているのだろう。 自分が心底は死にたいと思ってはいないということを。心のどこかで。 このような有り様で生きているよりは、死ぬ方が楽だと思いながらも。それでも前に進みたい――だが、傷ついた心は進むべき道を歩くための一歩すら、緩そうとしないのだ。 話を聞きながら、エデンはゆっくりと彼女の為の寝床を整える。 幸せに暮らしていた頃に用いていた、暖かな陽光をしっかりと浴びた、華やかな香りのする掛布団。 安眠の薫りを焚き染めて、その寝床に入るようにと促した。 「――怖いの。眠る度に、夢をみるの」 それは父が亡くなった後、全てをむしりとっていった親族たちの夢。 追いすがった彼女を打擲し、好青年の仮面を捨てた愛する男の夢。 いずれもが、過去の彼女を強く押しつぶし、今の彼女を囚えて離さない。 「大丈夫、あなたが悪夢を見ずにすむよう、手を尽くすわ。それが私のお仕事――それに、貴方には進むべき道を、見て欲しいの。だから、ゆっくりお休みなさい」 不安げな娘を優しく宥めすかし穏やかに微笑むエデン。 寝床に入った少女の額に置かれた手はやさしくその頭を撫で、そのままに少女の手を握る。 「私がついているわ。だから、今はゆっくり……ね」 誘い香の薫りに満ちた空間で、響くのは金糸雀の声と言われたエデンの子守唄。 枕代わりに膝を使わせている少女は、今ゆったりとした調子の寝息を立てている。 彼女の髪を漉いてやりながら、エデンはかつてターミナルで出会った人々の顔を、一つ一つ思い出す。 馬鹿騒ぎをする男の子。無愛想な軍人。騒ぎを起こしては反省した様子を見せない女の子。そして、異世界の者らしき容貌をした、幾人もの友。 彼の、彼女の顔を思い起こす度に、共に過ごした旅が思い起こされる。 時に囚われて闇の檻に入りもした。 袂を分かった事もあった。 それでも、暖かく迎えてくれた友達がいたから。 真剣にエデンに――楽園に相対してくれた、あの人がいたから。 どれを欠けても、今の自分はなかった。 「私も辛い別れを経験した。でもこうして生きている」 どこで諦めても、今の細やかな幸せに満ちた生活はなかった。 「貴女にも生きててよかったと思える日がきっとくる」 実感と共感を込めて、エデンは語りかける。 ゆっくりと、アイシャの表情が柔らかくなっていくのが、わかる。 夢の中で、彼女はどんな夢を見ているのだろう。 時折侵入しようとする悪夢を、柔らかな歌で、力強く握りしめたその手で、そして母のように、愛おしさに満ちたその心で、エデンは払いつづけていく。 やがて、夢から覚める時が来た。 うっすらと目を開けた少女の眦からこぼれ落ちるのは、一粒の涙。 「どうだったかしら――?」 「父と、母の夢をみたわ」 何も言葉は発されない。 ただ、その愛情を感じた。 「先の夢も、見たような気がする」 それは凄く靄がかったような光景だった。 けれど確かにそこに自分がいて――穏やかな陽の光に包まれたような、感覚をうける世界だった。 「それが託宣なのでしょう。未来は不確定なもの。けれども、今貴方が最善をつくしたならば、きっとそれは、もっとも行き着くべき未来なのだと、私はそう思うわ」 穏やかなその巫女の言葉は、少女の心をほんの少し後押しするだけの、偉大な力を秘めていたのだろう。 少なくとも、乾ききっていたアイシャの心中に慈雨のように染みこんでいったことに間違いはない。 「――ありがとう、エデンさん」 まだ、少女の瞳から陰りが消え去ったわけではない。 けれど、ほんの少し。 本当にほんの少しだけれど、光が蘇っていた。 そしてエデンは。楽園は。そのほんの少しがどれだけの葛藤の果てに生まれるものなのかを知っていた。 「貴方は幸せになれるの。私は、そう信じているわ――だから、貴方も信じて欲しい。それでも、もしどうしてもまた絶望にその心を閉ざされたならば……その時はお願い。また、私を訪ねて」 アイシャをやさしく抱きしめ、そう語るエデン。 少女は、そんなエデンの胸の中で、溢れ出る涙を隠すこと無く、泣き続けていた。 エデンは小屋の外に立ち、歩き出した少女の後ろ姿を、目を細めて眺めている。 これから、幾多の苦難が彼女を襲うことだろう。 その度に、脆く幼い心は傷つき、それと同じだけ――成長していってほしいと、そう思う。 今日、ここで取り戻した晴れやかな表情が。 薄靄にかかりながらも少女の前に訪れてくれた、希望という名の夢が。 彼女の支えとなってくれるように心から祈り、エデンもまた踵を返した。 ここはメイム。神託の都市。 彼女は今日も、新たな旅人を迎え、その進むべき道を知るための手助けをすることだろう。 晴れやかな表情の少女を笑顔で送りだし、エデンは次の旅人を迎える為、自分の小屋に戻っていく。 新たな夢の、守り手となる為に。
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