オープニング

「…っ!!」
 夢の中で悲鳴を上げたはずなのに、やはり声は出なかった。
 華宇海は引き裂かれそうな喉を押さえて飛び起きる。
 夕焼けに染まる一室、体を温めるのは一組の布団のみだ。
「…、……、………」
 顔を覆って大声で泣こうとする。だが、溢れる出すのは涙ばかり、喉を酷使する痛みに冷や汗が出る。身悶えて、何とか声を絞り出そうとして大きく咳き込み、むせて吐き出した薄い血を掌に受ける。
 繰り返し見るのは娼館『幻天層』での華やかな舞台だ。七階に渡る建物は、幻の天界を現している。とはいえ、そこに住まうのは天女ではなく、眉間に一枚、輝く鱗を貼りつけ、裾を引きずる薄物の長衣、耳に魚の鰭を模した金銀の飾りものをつけた人魚達、しつらえた舞台でも、客の待つ小部屋でも、切なげな甘い声で歌い続ける。その声音の魅了を人々は魔性の声と噂している。
 『幻天層』で華宇海は、ただ一人の女娼頭だった。
 客は彼女を求めて列をなし、舞台を見るためだけに三晩待ち、二人で語るために七夜待ち、床を共にするために十二の朝を耐えた。
 だがそれも、華宇海が舞台で血を吐いて倒れるまでのこと。
 過労であろうと宥められた。ささやかな病であろうと慰められた。主も恋人の真駿も、少し休めばまた歌えると窘めて、渋る華宇海を店から引かせた。
 心やすらかに療養しよう、そう思っていた華宇海が、退屈に耐えかねて店の裏方でも手伝おうと向かってみるとどうだろう、舞台には別の娘が主役をはり、真駿はその娘を支え立ち働いている。華宇海の持ち部屋は既になく、大切に集めていた衣装も宝石もとっくに店の娘達に撒かれている。
 苛立ちに主を詰ろうとしても声はでなかった。悲しみに真駿にしがみつこうにも遠ざかる背中を呼び止められなかった。理不尽な扱い、売り物にならなくなった者の傷みを訴えようにも、呻き声一つ出ず、必死に綴った書簡はことごとく捨てられ封も開けられない。ましてやなじみだった客に至っては。
『歌って欲しいんだよ、俺の体の下で』
 蔑むように言い放たれ、華宇海は立ちすくんだ。
 声さえでれば。
 声さえでれば。
 声さえ、でなくならなければ。
 傷む心にも空腹は勝つ。生き延びるために、下働きをし始めた華宇海の耳に惨い噂が届いた。
『品揃えを変えるのも客商売の一つ』
 『幻天層』に入ろうとしていた声のきれいな娘が、華宇海がいなくなれば考えてやると言われたらしい。その娘が喉の潰れる薬を手に入れたらしい。客からの差し入れを装って、華宇海の食べ物に混ぜたらしい。それらの黒幕は、恋人真駿だったらしい。
 本当ではないかもしれない。ただの作り話だったのかもしれない。
 だが、それが面白おかしく『悲恋幻天夢』と悲恋ものに仕立て上げられて演じられ、ほらあれがその華宇海よ、と指をさされるようになってはもうだめだった。
 華宇海はあたしだ。
 あたしだけが、華宇海なんだ。
 華宇海にふさわしい美しい歌声の娘を全て殺せば、きっとあたしにも役が来る。
「………」
 ゆらりと立ち上がった華宇海は棚に向かい、銀色の薬の小瓶とよく切れる丈夫な刃を懐に、今夜も夜に紛れていく。鏡に映る姿は、乱れ放題の髪にぼろぼろの衣類をまとい、薄汚れた顔をした醜い老婆だ。本当はもっと若く、身だしなみを整えさえすれば、まだ美貌は衰えていないのに。だが、彼女の視界には、艶やかな紅と薄桃の衣装を身に纏い、男達の賞讃を一身に浴びて微笑む自分が見える。
 ぐしゃりと踏みしだいた呼び込みのちらし、『幻天層』の最上階で、今夜も『悲恋幻天夢』が演じられる。また新たに選ばれた娘、幻海姫が初の舞台を踏むらしい。ちらしには黄金の瞳を瞬く少女が媚笑している。
「…く…ふ」
 低い嗤い声が朱色の世界に紛れる背中から漏れた。

『やぁ、こんばんわ!エレニアとパペットのエレクだよ。インヤンガイで起きてる殺人事件の話を司書さんに聞いたんだけど…』
 切り出したのはエレニア・アンデルセンだった。黒髪のボブカットの女性、右耳に大きな三枚の羽飾りをつけている。とはいえ、しゃべっているのはもっぱら左手のウサギのパペット人形だ。
『僕らの聞いた殺人事件て言うのはね、被害者は女の人ばっかりで、みんな声帯を切り取られて死んでたって…。それで殺された人のもう一つの共通点は『声』が綺麗って評判だった人だってこと。もう分かるかと思うけど『声』に執着していた殺人事件なんだ』
 エレニアの青い瞳が哀しげに曇る。
『…実は犯人の目星はついてるんだ。この殺人事件が起こる前にね、とっても綺麗な声だって評判だった娼館の女性、華宇海という人なんだけど、彼女が舞台で血を吐いて倒れたんだ。それから彼女は声が出なくなった。言葉を話せなくなった。ジェスチャーで伝えたり筆談したりはできたんだけど。それ以来彼女のお客さんは減る一方。ついには恋人にも捨てられちゃったんだ…』
 眉を寄せてエレニアは大きく体を揺らせる。エレクも両手を激しく振った。
『声を失った彼女はいろんなものも失った。それをすごく恨んでるんだ。呪ってるんだ。そして彼女は人を殺め始める。自分と同じ声が綺麗だった人を狙って。…そうすることで声が取り戻せるかのように』
 エレニアがほうう、と深い溜め息を漏らす。
『僕らはそれを止めたいんだ。この殺人に意味はないんだって。ねぇ、誰か手伝ってほしいんだ。彼女が人を殺めるのを止めて欲しい』
 くるりと周囲を見回すと、ドピンクのツインテール、ストロベリーソーダの庇護欲をそそる瞳をした少女、スイート・ピーと目があった。
「こんにちは、おねーさんとうさぎさん」
 舌足らずな甘い口調は、キャミソールとマイクロミニのきわどい服装を裏切った。ぺこりと頭を下げて、
「声をなくした人魚姫さん……気になるね。スイートのおうちも娼館だったから、なんだかほっとけないよ」
 一緒に行っていいかな、と小首を傾げられ、エレニアはほっとする。そこへ、
「こんにちはー! 僕、マグロっていうの。宜しくねっ」
 魚とイルカを足して割ったような魚獣人、ちんまりころころしたすべすべの肌をしたマグロ・マーシュランドが声をかけた。
「僕ね、お歌を歌うのが好きなんだけどね。もし僕がその人みたいに声を出せなくなったとしたら、多分とっても悲しくなると思うから。それにね。その、しょうかん、ってところ、海みたいな場所だったんだよね? なんだか他人のような気がしないよ」
 よかったら連れていってほしい、と続けられて、エレニアはぱっと明るい笑顔になった。
『ありがとう!声が出せないって辛いよね…大好きな歌も歌えなくなるから…』
 嬉しそうな顔でエレニアが全身で喜んでいると、
「どうも、はじめまして。実に気になる案件だね」
 加わってきたのは、色白で紫の瞳の青年、スーツ姿で眼鏡をかけた那智・B・インゲルハイム、探偵業を営んでおり、一度見聞きしたものはまず忘れないが、人探しはいささか苦手だ。それでも、
「人魚姫を探し出すだなんてロマンチックじゃないか。是非協力させて貰えないだろうか?」
 手助けを申し出られて、エレニアの笑顔はより明るくなる。
『悲しい人魚姫を助けて上げたいんだ』
 訴えたのはエレクだが、そのことばの数倍は強く願いを込めた瞳でうんうんと頷くエレニアを、金髪碧眼の少女が見つめている。ツインテールの髪には右に白、左に黒のリボンを結び、白と黒を基調にしたシンプルなドレス、どことなくセレブな気配が漂う。気づいたエレニアの視線に、
「あ……ごめんなさい、不躾な態度を取ってしまって。その子がとても愛らしかったから、つい見とれてしまったわ。私はセリカ。よろしくね」
『ううん、気にしないでー。ふふっ僕の事可愛いって言ってくれてありがとう』
 エレニアがエレクで応じると、セリカ・カミシロは少し考え込んだような目でエレクを見ながら、
「インヤンガイで声を失った女性の凶行を止める……のね? それまで当たり前のようにあった自分の一部を失うって、とても辛いことだわ。私も同行させてもらっていいかしら?」
 続けたことばは自分の失ったものをも含めていたのかもしれない。
『今まであった物を失う悲しみってきっとすごく辛いよね』
 エレニアは大きく頷いて答え、もう一度周囲を見回した。
 惨くて哀しい事件だけれど、ひょっとすると次の殺人は食い止められるかもしれない、そんな気がする顔ぶれに勇気が湧いてくる。
 いそいそとチケットを配り、
『ありがとう』「です」
 珍しく小さく付け加えた声が震えた。



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!注意!
企画シナリオは、便宜上、参加枠数が「999」になっていますが、実際には特定の参加予定者のために運営されています。

この企画シナリオは下記のキャラクターが参加予定です。他の方のご参加はご遠慮下さい。万一、参加予定でない方のご参加があった場合は、参加がキャンセル(チケットは返却されます)になる場合があります。


<参加予定者>

 エレニア・アンデルセン(chmr3870)
 スイート・ピー(cmmv3920)
 マグロ・マーシュランド(csts1958)
 那智・B・インゲルハイム(cyeu2251)
 セリカ・カミシロ(cmmh2120)

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品目企画シナリオ 管理番号1819
クリエイター葛城 温子(wbvv5374)
クリエイターコメントこの度はご依頼ありがとうございました。
私よりももっと素晴しい書き手がおられると思いつつも、頑張らせて頂きますのでよろしくお願いいたします。

さて、舞台はインヤンガイ、主題は『幻天層』の舞台に向かう殺人者、華宇海の阻止となっております。
深く重い鬱屈を抱えた彼女を、如何に食い止められるか。惨劇は果たして食い止められるのか。
あらゆる展開が考えられます。
万が一の返り討ちはないかとも思いますが、回避内容があれば書き加えて下さると有難いです。
お任せであれば、いろいろやらかせて頂きます(笑)。

なお、お時間長めに頂きますので、ご了承くださいませ。
皆様の真価が十分に発揮されますように祈っております。

参加者
エレニア・アンデルセン(chmr3870)ツーリスト 女 22歳 伝言師(メッセンジャー)
セリカ・カミシロ(cmmh2120)ツーリスト 女 17歳 アデル家ガーディアン
スイート・ピー(cmmv3920)ロストメモリー 女 15歳 少女娼婦
那智・B・インゲルハイム(cyeu2251)ツーリスト 男 34歳 探偵/殺人鬼?
マグロ・マーシュランド(csts1958)ツーリスト 女 12歳 海獣ハンター

ノベル

「酷い連中ね…まるで、彼女の声以外に価値がないみたいじゃない」
 セリカ・カミシロは憤る。『幻天層』一番の娼妓だった華宇海が、何もかもなくして堕ちていくさまが他人事と思えない。もちろん殺人は許されないし、それを華宇海が犯したという事実は弁えているが…。
「エレニア?」
 覗き込まれてぼんやりとしていたエレニア・アンデルセンが、はっとしたようにパペットのエレクを差し上げる。
『本当だ、哀しいよ』
 エレクの動く口と、エレニアの唇を凝視していたセリカが、小さく頷く。
「声だけが華宇海の魅力じゃないはずなのに」
 呟いた声にエレニアが縋るような視線を向ける。
『でも、どうしたらいいんだろう。声が無くなったら……華宇海に何が残ってるんだろう……どうしたら助けて上げられるんだろう…』
 その青く綺麗な瞳が今にも泣き出しそうに潤むから、エレクが語ることばより、なおはっきりとその想いはセリカの胸に伝わってくる。
『ぼくにできるのは……囮ぐらいだよね』
 きゅっと尖らせて結んだ唇を、セリカは無言で見つめ返す。
『次に襲われるのは誰かがわかっていれば……ぼくはその人の声を真似られる』
 決意を持って、そっともう片方の掌がエレニアの喉に押し当てられる。
『格好も似せれば、それらしくは出来ると思うんだ』
 どきりとしたように、側で聞いていたマグロ・マーシュランドが顔を上げた。
「でも、そんな、危ないよ」
 セリカがマグロの顔を見る。
『でも、ぼくにはそれくらいしかできないから……だから…皆の手を借りた………もうこれ以上被害が出ないようにしたいんだ』「きっと」
 思わず零れてしまった声を封じるように、慌ててエレニアはパペットを操った。
『華宇海さんを探すのにはこれが一番確実かなと思うんだ…』
「僕も……やっぱり華宇海さんの事放ってはおけないよ」
 マグロは少しためらってから、覗き込むセリカの顔をようよう見上げ、
「僕…僕、最初はね、海に住んでいる声の綺麗な人なら多分、僕の仲間だし、話し合えばきっと友だちになれる。慰めてあげることが出来る…と、そう思っていた」
 大きな瞳を見開いてセリカに訴える。だが、状況は思った以上に深刻だ。実際、この現実を目の当たりにすると、マグロは此処に来るべきではなかった、自分は何もできないんじゃないかとさえ思い始めている。
 今、花街の大門近くで、中に入れるように、スイート・ピーと那智・B・インゲハイムが門の責任者と交渉している最中だが、他の参加者は誰も、こういう人生の辛さに対して、それぞれにきちんと経験値を持っているような気がするのに、マグロには何もできないようにしか思えない。
「僕も…エレニアさんが言ったように……一人じゃ何もできない……だけど……」
 マグロのことばを、セリカはじっと聞いていてくれる。その姿に力を得て、マグロは胸に詰まる想いを吐き出す。
「…だって…こんなのって、ないもん…。凄く、悲しいよ…辛すぎるよ…」
 何ができるだろう。病にかかり、大事な力を奪われ、生きていく場所も恋人も、何もかも失って世界を恨み、殺人を繰り返す心に、一体何が届くのだろう。
「みんなから声を奪うのは、もうやめてって…伝えたい」
 マグロは振り絞るようにセリカに訴える。
「そんな事しても、君の声は戻らないんだよ…君のように悲しむ人が増えるだけ…
だから…やめて…って伝えたいんだ」
 でも、どうやって?
 マグロの悲痛な声に、エレニアも眉を寄せ、苦しそうな顔で見やる。
「……方法は…あるわ」
 セリカは静かに呟いた。自分もまた、大切なものを失ったことがある。その時、何が助けになったか、何が心を支えたか、それを思い出すならば。
「誰かの手が差し伸べられるなら…」
 そうだ、救いの手が差し伸べられた自分は、確かに幸運だったのだ。


「ええ〜? 今はここに入れないの〜」
 スイート・ピーは困ったように潤んだピンクの瞳を瞬かせた。
「言った通り、今日は『悲恋幻天夢』の公演日なんだよ、お嬢ちゃん」
 特に今夜は『悲恋幻天夢』に出る幻海姫が、近々行われる祭で一番の娼妓に選ばれるかもしれないって、常連含め、あちらこちらのお大尽も来られて大賑わいだ。
「その中で、こわあい噂があるだろう?」
 男はにやにやと下卑た笑みに乾いた唇を歪ませた。
「声の綺麗な娘ばかり狙う殺人鬼がうろうろしてるんだぜ、この街には」
「ふうん、スイートの声も綺麗だよ? お客さんに褒められたもん。甘くて蕩けそうな男殺しの声だって」
「おいおい、なんだ、お嬢ちゃんはどこかの店の娘だったのかい?」
 那智がにこやかに笑って口を挟む。
「実は、この娘を囮に、殺人鬼を捕まえられないかと考えてるんだ」
「捕まえる…?」
「その殺人鬼は声帯を切り取るんだったね? ひょっとして毒物も使うのかな?」
 じろりと大門の男は目を細めた。
「あんた、何でそれを知ってる? どういうことだね」
 那智は笑みを絶やさないまま続けた。
「祭までに物騒な事件は終わらせておかないと困るんじゃないのか。だから、愛らしい声のこの子を使って、殺人鬼を引っ張り出し、無事に『悲恋幻天夢』の舞台を終えてもらおうという話……毒物は喉を潰す金属系かな?」
 那智は毒物について詳しい。相手がなお詳細を求めてくるのなら、十分に説明できる自信がある。
「…確かに旦那がたも不安がっておいでだ…とすると……あんたは探偵なのか」
「気にならないのかい、その毒物をどうやって手に入れたのか…?」
 大門の男はなぜかびくりと体を震わせた。
「花街だからいろいろあるだろう。よからぬ薬も出回っている…けれど、表沙汰になってはまずいものも、動いたりするんじゃないのかい?」
 華宇海を陥れるために、喉の潰れる薬を入れた云々は事実だろうと那智は思う。実家が遊郭なので女同士のどろどろした関係は見慣れている。毒を盛るという発想自体も、那智にとってはそう突飛な話ではない。
 だが毒物は便利ではあるが、入手に問題が起こる場合も多い。病に倒れ、店を追われ、追い詰められた華宇海が、なぜそんな毒物を手に入れられたのか。
「あの毒物は、かなり高価なんだろうねえ、末端にいけばいくほど」
 大門の男がじっとりと妙な汗に額を光らせながら、焦った声で応じた。
「俺は知らない、ただ、『幻天層』の主人に、華宇海の体に効くからと頼まれて」
「ほぅ」
 那智はにっこりと目を細めた。紫の瞳の白皙が思わぬ獲物の喜びに綻ぶ。
「そうなのか、毒物を手に入れたのは『幻天層』の主人なんだね?」
 じゃあ、なぜそれが今、華宇海の手にあるんだろう。
 大門の男は呆気にとられた顔になった。
「華宇海って……死んだんじゃなかったのかい」
「おじさんは、華宇海さんが死んだって聞いたの?」」
 スイートが舐めていたロリポップを口から抜いて問いかける。
「ああ、そうだ。病気になって養生してたが、薬も効かず、ついに寝込んで死んじまったと…。真駿だっけか、あいつも、華宇海の大事にしていた舞台を守っていこうと懸命に働いてだなあ」
 で、どこでどうなったか、それが『悲恋幻天夢』という物語に紡がれた。
「まあ、一時、華宇海がいなくなったことで荒れていたようだが、それも今では『悲恋幻天夢』の真駿本人役で大当たりだ…そうか生きていたのか、……待てよ」
 男はさっと青ざめた。
「じゃ、じゃあ、一時期奇妙な噂が流れたのは……華宇海に似たばばあが『幻天層』の回りをうろついて嫌がらせしてるっていうのは、ありゃ」
「華宇海だったんだよ」
 那智がとどめを刺すように言い切った。
「そして、今、声の綺麗な娘を殺して回っているのも」
「こ…りゃ…大変だ……あんた、どっからの依頼だ?」
「実はまだ依頼を受けていなくてね。仕事柄、いろんな連続殺人犯を見ているから何か役に立てるんじゃないかと思ってるんだけど」
 薄く笑う那智に男は不気味なものを感じたのだろう、僅かに身を引いた。
「わかった。とにかく『幻天層』の主人に会ってくれ。だが、俺は知らない、何も知らないんだぞ」
「華宇海に毒物を届けたのに?」
「…薬だと思ってたんだ。その後、華宇海が死んだって聞いて」
 一生黙っておこうと決めた。
「……ああ、だから君も『悲恋幻天夢』の物語が広まるのに一役買ったのか」
 立ち去りかけた男がぎくりとする。
「あっちの筋書きなら、君の責任は追及されないものね?」
 爽やかな那智の声に、男は大きく舌打ちして駆け去った。
 

「華宇海が……連続殺人犯…」
 『幻天層』の最上階の奥まった一室で、セリカと那智のことばに、真駿は青ざめてことばを失っていた。
「本当なんですかい、旦那方」
 隣に座った『幻天層』主人、元天湖は分厚い唇をねじ曲げた。
「華宇海がここへやってくると?」
 その寸前、ち、と小さく舌打ちした顔を背け、しつこい女だな、と吐いたことばを那智は聞き逃さなかった。
「仲間が今街を聞き回っているけれど、おそらくは最終標的はここだろうね」
「華宇海姉さんが、あたしを殺しに来るんですか」
 うろたえる真駿やうんざりした天湖とは裏腹に、幻海姫はまっすぐに那智を見つめ返す。
「真駿兄さんのことでなら、構いません、あたしは華宇海姉さんに殺されても」
「幻海姫!」
 悲鳴のような声を上げて、真駿が首を振る。
「だめだ、だめだ、そういうわけにはいかない、もともと悪いのは俺だ、君を好きになって、心変わりした俺なんだから」
「ほう、心変わり」
 那智が面白そうに瞳を煌めかせる。
「では、巷で流れている噂の方が真相だったと言うわけかな」
「違います」
 幻海姫がきっぱりと言い返す。
「はっきり言いますけど、華宇海姉さんはひどい人でした」
「おい、幻海姫」
 天湖が苦りきった顔で口を挟む。
「いいじゃないですか。華宇海姉さんがひどい人だったってのは、裏方じゃよく知られた話。真駿さんがいい人なのにつけ込んで、他の男の人と遊び回って。親方が商売にさしさわるといっても、舞台にも穴をあけても平気。なのに、自分の役を他の娘がやると、火のように怒って折檻して。仕事ができなくなって放り出された娘が何人も居るんです。だからあたし」
「幻海姫、そのへんで」
「だからあたし、親方に頼んで、薬をもらったんです。華宇海姉さんが体調を崩した時を見計らって、これがよく効きますよ、って」
 セリカはじっと幻海姫の、まだあどけなさの残る紅の唇を見つめている。
「それを姉さんが呑まなけりゃ、天も姉さんに味方したんでしょう。けれど、姉さんは呑みました。天が姉さんを罰したんでしょうよ」
「なるほど。しかし、それは」
「……自分が正義のつもりなの」
 那智が口を挟もうとした矢先、セリカが低い声で呟いた。
「自分が正しいことをしたと思っているの」
「でも」
「その薬を飲んだってことは、華宇海さんはあなたのことを信じていたんでしょう。その信頼を裏切ったことも正しいの」
「幻海姫は、皆のためを思って! 俺だって随分傷ついたんだ!」
 真駿が耐えかねたように言い募る。
「俺は華宇海をずっと支えてきた。なのに、俺はいつまでたっても華宇海付きの小役でしかない。何をするにも華宇海の機嫌を伺って、何も決められない」
「真駿さんは立派な人です。彼を虐げているのは華宇海姉さんです。華宇海姉さんさえいなくなればって、皆言ってますよ。皆が苦しんでいる、願っていることを叶えて何が悪いんです」
「…なるほど」
 那智が薄笑みを広げる。
「ということは、こういうことですか。華宇海さんは節操がなく、非道で傲慢な女性だった。真駿さんは支配され虐げられた可哀想な好青年で、それを見かねた幻海姫さんが同情して、華宇海さん蹴落としに尽力した、と」
 微かに嘲笑を含んだ声で、天湖に冷ややかな視線を投げる。
「ご主人も、その天の裁きに力を貸された、ということですか」
「……さあなあ」
 天湖は耳をほじった指をふっ、と吹く。
「俺が知ってるのは、華宇海が病んだってことだけだ。歌えなくちゃ、ここでは使い物にはならねえ、それは華宇海も承知だったろう。何を恨んで今更娘達を襲って回ってるのか、わからねえなあ」
 たとえ、声の綺麗な娘が全部死んだところで、もう華宇海の戻る場所なんぞ、ありゃしねえよ。
「なんで、それがわからねえのかねえ」
 あまりと言えばあまりな言い草に、セリカが大きく息を吸った。
「そうやって、自分の正義ばかり掲げて」
 胸が強く傷むのは、封じ込めても抱きかかえても、じくじく傷む過去の記憶のせいだろうか。
「あなたの身勝手な感情が、どれだけの人の人生を狂わせたか分かってるの!?」
「お、俺は…っ」
 真駿が怯んだように反論する。
「俺は自分が正義だなんて思ってない。ただ、ちょっと、華宇海から離れて休みだかっただけだ……もう…振り回されるのはまっぴらだったんだよ!」
「……じゃあ、計画には賛成だね?」
 那智がなおも言い足りない気配のセリカを軽く制して、肩を竦める、
「幻海姫の代役はセリカくんが行う。華宇海の役はさっき紹介したエレニアくんが……真実の幕を開けて、結末を見届けようじゃないか」


「見ろ、あれが今度の華宇海役だぜ!」
「ありがてえ、初日だけの巡行だとよ!」
 『幻天層』の各階を、エレニアは黒衣装の女性に手を引かれつつ、巡り歩いて階層を上がっていく。時間を稼ぎ、華宇海が入り込みやすい隙を作っておびき寄せる、万が一、こちらへ来るまでに止められなければ、舞台上まで誘い込んでしまう方がいいでしょう。
 それが那智の与えた指示だ。
 エレニアは額に金色の三枚の鱗を貼り、色とりどりの布を重ねて腰紐で縛り、色鮮やかな帯を巻いて裾を引きずりつつ、しずしずと歩いていく。パペットのエレクは懐に入れているが、幻海姫の声で歌う舞台には不要かも知れない。
「幻海姫? 違うよね?」
「どこの娼妓だろう、けど」
 くつくつと嗤う女の声が耳に届く。
「幻海姫もさっそくお株を奪われたのかい、形無しだね」
「そりゃあ、真駿と言えば、さあ」
「ははは、女なら誰でもよしの優男」
 女達の声が、青や紺を基調にしつらえられた『幻天層』の部屋の隅々で響く。
 セリカや那智から聞かされた事の真相は、どうにもやり切れないものだった。
 真駿の裏切りは噂通り、気位が高く扱いの難しい華宇海にうんざりした真駿が、新しく入った幻海姫と接近したのがそもそもの発端、同じく華宇海人気に放り出すこともできない『幻天層』の主人がそれに一口噛んで毒薬を調達した、そうして三人で華宇海を葬ったつもりが、今は自分達が狙われているということだ。
 傲慢で人を見下して生きてきたような華宇海が恨まれたのは仕方がないのかもしれない。それでも、今の華宇海が願っているのが、真駿を取り返すことではなく、自分の美しい声を取り戻すためであるかのように思えるのがエレニアの胸に痛い。
 華宇海が声を失ったのは色々なものを失った結果であって、声を失ったから色々なものを失ったわけではない、そうわかったけれど、それでも。
(助けてあげたい)
 声さえ戻れば全てが戻ると考えている華宇海が、遠い未来の自分のようで。
(助けてあげたい)
 いつかの自分が救われるように。もちろん、そんな考えは、きっと華宇海にとって失礼だ。けれど。
(声に縛られて声を拘って声にしか頼って生きられない、なんて)
 そんな未来を否定したい。そんな自分を否定したい。
(声なんて)
 そう思ってしまえれば。けれどそれは、今ここにある自分を否定することになりかねない。
「…声、なんて」
 すぐ側の付き人の娘が、次の階層へ向かう緩やかな螺旋通路を従いながら呟いてぎょっとした。まるでエレニアの心を呟いたようだったから。
 問うように覗き込むと、娘はうろたえたように顔をうつむけた。
「…どこの姉さまかは存知上げませんが聞いて下さい」
 掠れた声が続ける。
「華宇海姉さん、あたし達が一生働いても買えない衣装の裾、泥だらけにして死にかけてたあたしを拾ってくれました。自分もそうだったからって。『幻天層』の軒下で死にかけてたんだよって」
 潤んだ声が続ける。
「姉さんが何を信じようと構いません。けれど、あたしにとっては、華宇海姉さんがこの世で一番綺麗な真実、それを守り切れなかったあたしを、あたしは一生許せないとこでした。だから、これだけ、姉さんに伝えて欲しいんです」
 娘は一つ息をついた。
「声なんてどうでもいい。あたしにもう一度、歌って下さい、って」
 客席の隅で、あたしずっと見てますから。
 そう呟いて、娘はエレニアを『幻天層』最上階の舞台裏に送り届け、また顔も見せずに遠ざかった。


 できれば説得したい。人殺しは嫌。何とかして華宇海を見つけ出し、凶行を止めたい。スイートはそう思っている。周囲に目を配りながら歩くマグロもまた同じだろう。那智の発案で、『幻天層』近くの小さな店に入った娘が、幻海姫並みに声がきれいだという噂を流した。そちらへまず引きつけようというのだ。
「まだ来ないね………『幻天層』の方へ先に行っちゃったのかな」
「スイート、ちょっと裏を見て来るね」
「うん、僕、ここで待ってみる」
 元は閉めた店、人気のない暗がりを覗き込み、スイートは裏へ抜ける。マグロは小さく溜め息をついて夜闇に明るい『幻天層』を見上げる。携帯しているトラベルギアのガン・ハープーンが脳裏を掠める。もちろん、何が何でも止めるならば、病気で弱った華宇海を一撃で仕留めることなど雑作もないだろうけれど。
「僕が彼女に出来る事って…何だろう」
 華宇海の殺人は傷つき過ぎた心の果てだ。単に止めても暴霊になる可能性だって十分にある。生きる意味も居場所も失った心は、何を得れば癒されるのだろう。
 背中に薄ら寒い感覚が広がって振り返った。夕焼けに染まった街の通りの片隅から、まるで闇が滲み出すようにふらりと小路へ入り込んでくる人影があった。
 生気がない。まさかこんなに堂々と街を徘徊しているとは思わなかったが、それもこれだけ気配がなくては存在さえも見咎められないかもしれない。
「華宇海、さん」
 ぼろぼろだ。そう感じた。何もかも空っぽで、人の形をした闇、しかも、その闇さえ定かではなく、幻のように透け、穴が開き、今にも千切れ飛びそうだ。マグロは人がこれほどずたずたになったのを見たことがない。助けてあげたい、その想いさえひどく薄っぺらな感覚に思える。
 華宇海は、ゆらゆらと頼りなく揺れつつ近づいてくるが、汚れて虚ろな顔はマグロを見ない。マグロの背後にある閉ざされた店を眺めつつ、側をゆっくりと通り抜けていく、風一つさえ起こさずに。
 そしてマグロはその絶望の重さに、凍りついたように身動きできなかった。考えて考えて、ようやく思いついた『歌を歌うこと』だが、一音さえ吐き出せない。自分の歌の力、それが今の彼女には巨大な暴力になりかねないことを、感じ取って。
「華、宇、海…」
 動かなくちゃだめだ。せめてスイートさんに警告しなくちゃだめだ。今、華宇海さんがそっちへ行く、懐の膨らみに枯れ木のような指を入れて握っている刃物が見える。片手を握りしめている、その中でぎらぎらと夕焼けに光る液体の瓶が見える。なのに、振り向けない、今まで感じたことのない怖さに。
(そうだ…僕は怖いんだ…)
 この依頼に参加した時から怖かった。何もできない無力な自分を突きつけられて。自分にできることが、彼女にとって辛い仕打ちになるかもしれない、憎悪を浴びせられるかもしれないことが。それでも、少しでも華宇海の心の癒す事が出来るなら、ナイフで刺されても構わないと思っていた。彼女を心の闇から救うため、自分の歌の力を信じて、精一杯心を込めて歌おうとしていた、が。
(僕が……華宇海さんを…追い詰めちゃうかもしれない…)
 被害者になる恐怖に立ち向かえても、加害者になる恐怖に向かうということ……マグロはその覚悟を決めていただろうか。
 華宇海が遠ざかっていく。闇の気配が遠ざかる。通り抜けてしまえば、虚無に向かわずに済む。落ちていく太陽の最後の光輝が視界を灼いた瞬間、脳裏に閃いたのは、マグロの数十倍ある獲物に遭遇した日のこと。
(あの日も、こうだった)
 巨大な獲物はマグロを敵と見なさなかった。通りすがりに尾びれで岩に叩き付けることさえしなかった。それがマグロのハンターとしての本能を目覚めさせた。振り向き、打ち込んだ攻撃は獲物の尾びれに届いた。開始された死闘を制したのは、マグロだったのだ。
『夢を…見たんだ』
 消えていく光に向けて歌い始める。ぎくりと背後で固まった感覚を、静かに力を込めて振り向き、迎え撃つ。
『見果てぬ、夢を』
「…く…」
 華宇海も振り返っていた。かさかさの唇から剥き出された汚れた歯がかちかちと鳴った。喉を掴む仕草、マグロの美しい声に苛立ち怒りを溜める目。
『永遠だと思っていた……永遠なんて、あるはずがなかったのに』
 胸が痛む。こんな歌をなぜこの傷ついた人に歌うんだろう、そう思いつつも、わかっている、この歌は自分の世界に籠ってしまった華宇海を、もう一度この現実に取り戻すための呼びかけなのだと。
「く、ひゃ…」
 干涸びた声で華宇海が懐から刃物を取り出し振り上げる。飛びかかってくる怪鳥のような姿を、まっすぐに、目を逸らさずに、両手を広げて迎え入れる。
『取り戻そう…永遠は今ここから始まる……!』
「…ひっ」
 雄大で豊かな音量、今にもマグロの額に叩き付けられそうになっていた刃が、寸前歌声に押されたように怯む。
「華宇海さん、こっち!」
 駆けつけてきたスイートが呼びかけた。手にしていたのはピンクの砂が入った砂時計、逆さにして砂が流れ落ち始めたとたん、スイートを除く周囲の動きが全て緩慢になる。華宇海に近づいて、その手から刃物と毒の小瓶を奪い取る。刃物は閉めた店の積まれていたゴミの中へ押し込み、小瓶の中身は溝に流した。そのまま、華宇海の手を握り、相手と一緒に抱えるように小路に座り込む。
「う、あ、あ、あ」
「華宇海さん! 華宇海さん!」
 悲鳴を上げて暴れる華宇海にはたいした力は残っていなかった。マグロの歌に圧倒され、頼みとする武器も奪い去られ、今度こそもう何もないと考えているのだろう、掠れた声で唸りつつ身もがきしていたが、スイートとマグロが手足を押さえるのに次第次第に諦めたように動きを止める。
「は、…う…う…う…」
 茫然と空を見上げる姿には、かつての『幻天層』一の娼妓の姿はない。幻を全て剥ぎ取られて傷つき疲れ切った一人の老いた女が居るだけだ。
「ねえ華宇海さん」
 その華宇海にスイートがそっと囁く。
「そんなことしたって声は戻ってこないよ」
「あ…う…」
「スイート知ってるの、華宇海さんみたいな人お店でたくさん見てきたから。その人達が破滅してく姿を、いやってほどね」
「う…お…」
 華宇海は首を振るだけだ。
「……ダメ? そっか、わかった」
 がたがた震える熱っぽい細い体を抱え、スイートが一つ頷いた。
「じゃあ一緒に『幻天層』にいこ。スイート手伝うよ。それで本当の事聞こうよ」
「……?」
 訝しげに動きを止めた華宇海が、がふ、とむせた。口元濡らす紅、だが、それでも新たな光を見いだしたように、必死にスイートを振り仰ぐ。
「あ…ぉ…」
 ああ、そうか、とマグロは気づいた。華宇海を苦しめていたのは、失った声のことだけではない、何が真実なのか、誰も確かめてくれようとしなかったからだ。華宇海に話を聞きに来た人もいない。訴えても聞いてくれない。世の中で作られた『事実』とは違う、華宇海の真実を、誰も考えようとしてくれなかった。
「ねえ、本当は、何をしたかったの? 僕に」
 マグロはそっと震える手を差し出した。
「華宇海さんのことを、もっと教えて」
「ぐ…あぅ……」
 いきなり溢れ出した華宇海の涙に、マグロも泣きそうになった。


「どうやら、お仲間が華宇海を止めて下さったらしい。もう心配はいらないな」
 那智は、間もなく華宇海とともにスイートとマグロがやってくるのをトラベラーズノートで確認した。上機嫌で笑いながら、真駿は弾むように舞台に出て行く。逃げ隠れできない場所で今度は自分が糾弾されるとは思いもせずに。
「…来たか」
 舞台を囲む通路で響く物音、客席にもそれが届いたようでざわめきが広がる。
 天湖が不審そうに那智を見やる。
「あんたは華宇海を止めたと言ったよな? もう安心だと」
「止めはしましたが」
 那智は上品に肩を竦めてみせた。
「私は女性の情熱にはいつも弱くて」
「っ、まさか…がっ!」
「来ましたよ、今夜のもう一人の主役が」
 警備を呼び集めようとした天湖を蹴り倒した。
「蝶への化身を見たいものですが、私は私の仕事をさせて頂きましょうか」
 微笑みを浮かべてヴァイオリン型のトラベルギアを取り出す。駆け寄ってくる用心棒達の間へ歩み入ったかと思うと、弓を翻してかすり傷を負わせる。
「へっ、こんな傷じゃ俺達はどうにかできね……っぎゃぶっ!」
 頬を一擦りした男が、次の瞬間ヴァイオリンの音色とともに血を噴いた。口からだけではなく、耳から鼻から目尻からも紅の飛沫を撒き散らして倒れる。
「なっ、なん…がああっ」「ぎゃあっ」
 那智の歩みに伴って、弓が翻る、その弓で紡がれた音が響くと同時に男達が次々と鮮血を撒いて倒れていく。
「…美しい……音だ」
 感極まったように那智は呟き、快感に潤む瞳を細めて死の楽曲を鳴らし続けた。


「お、お前達は何だ…っ」
 悲痛な声で真駿は叫ぶ。
 『幻天層』の最上階、青と紺を基調にした設えの中、スイートとマグロに支えられて舞台に上がってきた華宇海は擦り切れた垢だらけの衣類、涙で汚れ放題の顔を駆け寄ったセリカが静かに拭ってやると、真駿が真っ青になった。
 スイートがにこやかに声をかける。
「ねえ、真駿さん、華宇海さんを裏切ったの?」
「な、何を」
「それから、幻海姫さん、毒を盛ったの?」
 エレニアとセリカに魅きつけられていくような真駿が気になったのだろう、こっそりと舞台の端に姿を見せていた幻海姫が、問いただされて息を呑む。
「スイート、勘違いだって信じたい。でも、本当なら…」
 ごくり、と唾を呑んだのは、スイートではなく華宇海だった。支えられていた手を振り払い、そろそろと手を伸ばす。
「……っ、おっ……お前、お前なんか、知らない!」「真駿!」
 引き攣った声に力を得たように幻海姫が走り寄って、真駿の前に立つ。
「もう止めて! この人を苛めないで! 悪いのは私、私なのっ!」
 泣き伏し美しい衣装で身悶えする幻海姫、もう一度手を伸ばした華宇海を、侮蔑を込めて真駿が睨む。
「聞いたぞ、俺に捨てられたのを逆恨みして娘達を殺して回ったんだろう! お前みたいな非道な奴なんか、生きてる方が間違いだ!」
 正義を背負った鉄槌の声、撃たれたように華宇海の体がよろめく。
「は、ははは! 花街で色を売る女に、誰が本気になるんだ、ええ! なあ、お客様方、あんた達もそうだろう!」
 客に呼びかける。華宇海の凄惨な姿に息を呑んで見守っていた客達が我に返ったように、そうだそうだ、引っ込め売女、そう叫びが上がった瞬間、スイートの指先が翻った。どんっ、と重い音がして、その間近の柱が一カ所砕ける。
「シーっ」
 スイートが青ざめた周囲に片目をつぶる。
「舞台を邪魔しないでね?」
 華宇海が座り込む。激しく咳き込み、口を押さえて血に塗れた両手を眺める。
「く…ぅ…ふ…ぁ……」
 吐き出そうとしても声は出ない。七つの海を漂う娘達、その中でも人魚姫と呼ばれ、あまたの客を魅了した華宇海が、今嵐の後で陸に打ち上げられた傷だらけの魚の死体のようになって、失笑を買っている。光を浴びて泣き崩れていても輝く幻海姫との差はあまりにも大きく。
 次々流れ落ちる涙に両手が洗われるのを見つめていた体が、ついに力を失って崩れ落ちる、そう見えた瞬間。
『華宇海姉さん!』
 エレニアの口から別の声が迸った。ぎくりとしたのは、客達ばかりではなく、おそらく仲間もだろうが、エレニアは構わず、あの娘の声のままに華宇海に訴える。
『声なんてどうでもいい!』
 それを口にすることで、エレニアの胸は激しく揺れる。自分の存在理由を真っ向から否定する、それでも伝えることばを真実にするためには、そのことばに命の力、信実の力を込めなくてはならないと知っている。
『姉さん、あたしにもう一度、歌って下さい!』
 声のない華宇海に、それは何と惨い訴えか。だが。
「……あぅ…」
 華宇海がゆらゆらと崩れかけた体を起こした。血と涙で汚れた顔にひどく優しげな笑みが広がる。喉を掴み、客席のどこから声がかかったのかと探すように虚ろな視線をさまよわせる。
「あ…が…ね…」
 声がでないのだ、そういう仕草で首を振る。だが、静まり返った観客を見渡すうちに、華宇海はよろめきながら立ち上がった。
「あ…が…ね……」
 繰り返す呻きが人の名前のようだ、そう気づいて、エレニアは声を張り上げる。
『あたしはここにいます、姉さん、ちゃんとここで見てます!』
 ひゅう、と華宇海の喉が鳴った。喘ぐような吐息を繰り返しながら、静かに片手を天井に差し伸べる。枯れ木のような腕からぼろがごそりと剥がれ落ち、けれど次の瞬間現れたのは、肉が削ぎ落とされた細い腕の信じられないほど柔らかにしなる動きだった。ばさばさの髪に包まれた顔をゆっくりと回す。表情は見えない、だが反らせた首筋は、腕のしなやかさと呼応して、波間に揺さぶられる人の姿のよう、身もがいて、溺れている、巨大な波に翻弄されて、必死に助けを求める、けれど届かずに、今水底へ吸い込まれていく。
 はあ、と吐息をついたのは、華宇海だろうか、それとも、舞台で体で喘ぐ華宇海に声もなく魅了されていく客達だろうか。
 喉を繰り返し掴む仕草、崩れるように倒れていく姿、身につけているのはボロ切れなのに、その裂けて千切れた端々が閃くのが、水底に沈み、慣れない脚に海草を絡ませてのたうつ一人の娘が、不可思議な力によって魚に姿を変えられていくようにさえ見える。
『これは如何なる不思議…』
 客達の間から低い歌が零れ始めた。
『人の世に生きる術を奪われ…魚の姫は今や元の姿に戻りこし…』
「なに…?」
「……華宇海恋情…」
 きょとんとしたスイートに真駿が熱に浮かされたように呟く。
「人魚姫と言われた華宇海の…十八番のネタだ…」
 ごく、と浅ましい音を立てて唾を飲み下すのも道理、今舞台上で苦しげに体を波打たせる華宇海が縋るように手を差し伸べるのは真駿に向けて、ふらふらとその指を取ろうとする真駿を、幻海姫が必死に引き止めている。
『望みは幻の海に消え…今は恋慕の声も消え…』
 憑かれたような客の声は波音のように寄せて返す。
『姫は闇に消え入りたり……姫は闇に消え入りたり……』
 満員の観客の歌に抱かれるように華宇海は舞台で動かなくなる。細い指先が、ぱたりと落ちる。
「……華宇海ーっっ!」「華宇海っ!」「最高だぞおっ!」「最高だあっ!」
 立ち上がり、悲鳴のように絶叫する観客に叩きつけられるように、真駿ががくりと膝をついた。


「エレニア?」
 トラベラーズカフェで、エレニアはセリカに呼びかけられて顔を上げる。
「……最後に華宇海に伝えたことば。あれ、エレニアでなくちゃ、伝えられなかったわね」
「でも」『本当はぼくじゃなくて、あの娘が伝えた方がよかった』
 思わず零れた声に慌てて口を噤み、エレニアは胸に詰まる痛みを吐き出す。セリカが一瞬唇をきつく結び、やがて首を振った。
「確かにあの娘のことばだったかも知れないけど、エレニアの華宇海を想う気持ちもちゃんと聞こえた……だから、華宇海は元の華宇海に戻って、皆の中で逝けたのじゃないかしら」
 セリカの声が何かを堪えるように震える。
「どんな方法でも、それを伝えることが大事だと、思う。【あなたが、とても、大事なんだって】」
 一瞬重なって響いた、声なき声。
「そう、だね」
 その声に、エレニアはエレクを介さずに応じた。

クリエイターコメントご依頼ありがとうございました。
それぞれの方が、それぞれにやり方で華宇海のことを深く考えて下さったのが、よく伝わって参りました。
真相は二転三転しそうだったのですが、物心両面で皆様が次の殺人を食い止めようとして下さったのが功を奏した形です。凶器の奪取、行動の妨害、「真実の惨さ」に苦しむ華宇海の側に寄り添い、彼女の願いを満たそうとして下さったなどで、彼女は本来の姿を取り戻せたように思います。
そう、本来の姿に戻って、泣くことができました。
華宇海に代わり、お礼申し上げます。


もう一つ。
華宇海を軸に、皆様は皆様自身の生き様に問いを投げられているように感じましたので、いろいろと捏造させて頂きました。
もしご不快でありましたら、誠に申し分けありません。一層の精進に務めますので、ご容赦お願いいたします。

また何かのご縁がありますことを願っております。
公開日時2012-05-11(金) 23:40

 

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