オープニング

 インヤンガイに落ちた世界計の欠片を脳に所持した状態で保護されたキサ・アデルは力のコントロールが出来ると司書から判断されて再帰属が決定した。

 ロストレイルが地下にある駅に到着し、地上にあがると太陽の眩しい日差しが出迎える。
「キサは、インヤンガイに帰りたい」
 駅から一歩出てキサは目を眇める。
「キサは、待ってる人がいる」
 一歩、また進んでキサは呟く。
「……けど私は」
 キサは護衛であるロストナンバーたちの和やかな笑顔や呼びかけに突如足を止め、逆方向に走り出した。
 誰も彼女を止めることは出来なかった。

 どこをどう走ったのかは覚えていない。建物の密集した路地のなかで息を乱したキサは立ち尽くし、胸の上に光る小さな鍵のついたアクセサリーを握りしめた。
「私は、まだ消えたくない。みんなといたい。私は……私は、私は……私は、……!」

 ――見つけ、タ
 不気味な囁きがキサを飲み込んだ。


 彼女を探して、ようやく追いついたロストナンバーが見たのは昏い路地に佇む少女だった。その瞳は妖しく輝き、口元ににっと笑みを浮かぶ。
「すばらシい、これほどノ力とは! ワタシの所有する記録、すべてヲ使っテ、今度こそ! 星を手に入れヨウ、イヴ! 今度こそ、星にだって手が届ク! 死者だって蘇ル、この落ちてきた星の知識と力を使っテ!」
 めきぃと音をたてて少女の内側から出現したのは薄い紫色の化け物――チャイ=ブレ? と誰かが囁くが、こんなところにそんな化け物がいるはずがない。
 だが、少女は完全に蚕じみた化け物に飲み込まれ、その姿は見えなくなっていた。
 化け物は嘲笑う。それに合わせて空気は響き、割れ、何かが、

 ――さぁ、死者の門を開キましょウ?

★ ☆ ★

 緊急事態としてロストナンバーを集めた世界司書は深刻な顔で語った。
「理由は不明だが再帰属するはずだったキサはインヤンガイにつくなり、逃亡した。その結果、インヤンガイのネット上で記憶を食べると言われるチャイ=ブレに似た化け物に捕まり、利用されている」

 インヤンガイでたびたび起こった神隠し事件に関わっているチャイ=ブレに似た化け物は記憶を食らう。
それは過去世界樹旅団がインヤンガイに放ったワームのデータを元に強欲な一部のインヤンガイの者たちが術と霊力によって作った劣化コピーだと推測されている。
 その飼い主であるイヴという少女は大切な人を失って、死者を蘇らせようとした。
霊力をエネルギーとするインヤンガイのサイバーシステムには悪霊が入り込むことからヒントを得て、魂のソフトウェア化を企んだのだ。
しかし、それは失敗した。
 飼い主であるイヴを亡くした化け物はたった一匹で暴走をはじめた。
 己の持つ記憶を正しく使うことのできる世界計の欠片を所有するキサを襲った。
 キサの所有する欠片は力を与え、吸収し、生み出すこと。

「化け物はキサの欠片から知識と力を得て、自分の所有する死者のデータ……インヤンガイに死者を復活させた。これはすぐに鎮圧する必要がある」

☆ ★ ☆

 真っ黒な粘りつくような液体が、『生魂花園(シェンフンガーデン)』の通りをゆっくりと流れていく。
 とろん、とろん、とろん。
 ただの液体ではないのは、傾きに流されず、道から外れず、何かを捜すように時に止まり、もう今では誰も住まなくなって、見捨てられた街の道を辿るように往くことでわかる。
 焦げ崩れ落ちた、かつておぞましい『本』が山積みにされていた店の跡まで来ると、するするとそこに忍び寄り、あっという間に廃墟跡一杯に広がったかと思うと、やがてのろのろと中央に積み重なり伸び上がり、液体は一人の人間の姿を取った。
 細巻き煙草を薄い唇にくゆらせ、右側の顔を隠した猫っ毛の青年、大きな瞳をゆっくり瞬くと、一瞬どろりと片方の顔が黒い粘液になって溶け崩れ、すぐさま戻る。
「助けなくちゃ」
 青年は柔らかな声で呟いて微笑んだ。
「今度こそ、ハオを助けなくちゃ」
 掲げた手には奇妙ななめし革の表紙の『本』、足下をいきなり走り去った鼠に『震え』、いきなり青年の手から黒い粘液の糸を引いて飛び離れ、鼠に覆い被さるとぐしゃり、と『本』とは思えない音をたてて『噛みつき』、がむがむと『咀嚼した』。響いていた鼠の悲鳴はすぐに消え、やがて『本』は青年の手に戻ってくる、が、よく見ると、『本』は青年の掌から黒い粘液の糸で繋がっている。
「がふっ、ふぁぐっ」
 開いたページからがちがちを剥き出した黄色い乱杭歯を噛み鳴らす『本』に青年は言い聞かせる。
「大人しくしてて、もうすぐハオを捜し出せるから」
 そうしたら、襲った奴らに思い知らせてやろう。
 脳裏に過る無数の情報群、『生魂花園』の隅々に潜ませた粘液質の体が敵を教えてくれるだろう。
 眠たげな顔でぱらり、と『本』のページを捲った。
 そこに大きな金色の一つ目がある。意外に澄んだ、真摯な気配のその異形の目は、強い意志を満たして青年を見上げる。青年は頷いて、囁いた。
「わかってるよ、フォン・ルゥ」
 甘い微笑が青年の顔に広がる。
「ハオを助けて一緒に暮らそう……二人で幸せになるんだ」


「……」
 きゅ、きゅ、きゅ、きゅ。
 力を入れて丁寧に隅々まで、ハオは『フォーチュン・カフェ』の全てを磨き抜いた。料理長には事情を含めた。戻ってくるのを待つというのを穏やかに断った。店員にも、それぞれ別のバイト先を紹介した。扉には『申し訳ありません。突然ですが、しばらく休業いたします。ご愛顧に感謝いたします』と詫びを入れた札を貼った。少々では剥がれないはずだ。
「……」
 ふと手を止めて、テーブルに一つ残ったバスケットをみやる。そこには焼き上げたばかりのマーラーカオがある。『彼』に立ち向かう時に、同じものを持って行ったロストナンバー達のことを思った。引き続く旅団の事件や、世界図書館を襲った戦争や、片目を失ったフェイや、店を失ったロンのことを思った。
 誰しも、何かしら失いつつ、傷みと引き換えつつ、前へ進んでいる。
「…っ」
 つきり、と耳の奥が痛む。
 一時は世界樹旅団が使っていた、マンファージ化させる『針』かと思ったこともあったのだが、今はもうわかっている。
 これは自分への怒りだ。
 何を失うこともなく、何を傷つけることもなく、守られ庇われることに安穏として、その実、自分の居場所を失う怖さに身動き取れなかった自分への怒り。
「……」
 きゅ、きゅ、きゅ、きゅ。
 再びテーブルを拭き始める。
 次の誰かが気持ち良く使えるように。
 ハオはこれから、インヤンガイで起こった異変、死者復活を鎮圧する依頼に向かう。
 ゴミは捨てた。私物は整理した。フェイには知らせず、ロンにだけ伝えて……頬を叩かれた。
『どういうつもりだ』
 あの馬鹿の努力を無駄にするのか。
 詰られたことより、そんな風に感情を露にしたロンに驚き、フェイとの暮らしによる変化なのだと気づき、そして自分に近しく寄せられた気持ちを、初めて、そうだ初めて深く抱き締めた。
 ありがとう、と返したハオに、ロンは一枚の符をくれた。命の危険を一度だけ守ってくれる護身の符。宝物だから、持ち帰れ、だが。
『それをくれた奴はお前が生還することを望むだろう』
 そう言って背中を向けた。
「………」
 きゅ、きゅ、きゅ……。
「……うん」
 頷く。
「……頑張って、戻るよ……僕一人じゃ、難しいだろうけど」
 依頼に同行する幾つもの顔に、もう一度頷く。
「今度こそ……ちゃんとフォンを眠らせてくる」


 自分の傷みを救う戦いが、今、始まる。

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!お願い!
イベントシナリオ群『星屑の祈り』は同じ時系列の出来事となります。同一のキャラクターでの、複数のシナリオへのエントリーはご遠慮下さい。抽選後のご参加については、重複しなければ問題ありません。
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品目シナリオ 管理番号2900
クリエイター葛城 温子(wbvv5374)
クリエイターコメントこの度、北野WR・近江WRのお誘いに応じ、悪党復活祭イベントに皆様をご招待いたします。

『生魂花園』に現れた粘液体は、かつてフォン・ルゥと呼ばれた探偵です。
ロストナンバーを自分の欲望のために利用しようとした不愉快な男ですが、昔『フォーチュン・カフェ』の店主、ハオがインヤンガイにディアスポラされた時に保護した男でもあります。その後、ハオはフェイやロンに保護され0世界にやってきました。
がしかし、フォンはハオを世界図書館に奪われたと思い込み、しかもマンファージ化してインヤンガイで暴れたために、ロストナンバーが討伐しました。

フォンはハオを取り返すことしか考えていません。ハオを捜し回り、遮られたと感じれば、手にしている『生皮本』で喰い尽くすつもりです。
しかし、彼はキサの欠片により甦った幻です。
皆様には、原因が解消されるまでのフォンの足止め、もしくは再びの討伐をお願いいたします。
説得が通じるかどうかは不明です。元々のフォンお気に入りのマーラーカオでは無理かもしれません。
フォンの粘液に絡まれたり包まれると、『自分の正義』に縛られフォンの怒りに同化して操られます。『生皮本』は一冊ですが、増える可能性もあります。

ハオについては戦闘能力もたいしてなく、どっちかというと足手まといです。これまでの経過から、体を張って仕留める気合いだけはあります。ハオを人柱にすることもできます。こだわり抜いているので、ハオを与えておけば、大人しくはしてくれるかもしれません(笑)。プレイングに記載がなければ、サポートに徹することでしょう。


では、鍵のかかった『フォーチュン・カフェ』で皆様のご報告をお待ちいたしております。

参加者
坂上 健(czzp3547)コンダクター 男 18歳 覚醒時:武器ヲタク高校生、現在:警察官
ハクア・クロスフォード(cxxr7037)ツーリスト 男 23歳 古人の末裔
鹿毛 ヒナタ(chuw8442)コンダクター 男 20歳 美術系専門学生
吉備 サクラ(cnxm1610)コンダクター 女 18歳 服飾デザイナー志望

ノベル

 『生魂花園』に入った瞬間、四人のロストナンバーの皮膚が粟立つ。崩れた街区にはもう人影はなく、もちろんこの街はとっくに滅びているのだけど、今その街区をねったりと埋めるタールのような液体が、廃墟の壁を這い上がり、滲み出、零れ落ちて、何かを探すように流れ落ちている。
 別の街区に向かったロストナンバー達もそれぞれに死闘を繰り広げているのだろう、爆音と轟音、振動と打ち付けるような怒声が時折風に乗って流れてくる。
 だが、ここは。
 『生魂花園』は静かだった。
 とろん、とろん、とろん。
 一瞬、こんなに静かな破滅ならば見逃してもいいじゃないか、そんな想いさえ抱きそうな感覚に呼応するように、中央の通りの奥に立っていた青年が振り返る。細巻き煙草が薄白い煙を漂わせている。手にした生皮本は片手に重たげに開かれている。
「ハオ。そこに居たんだね?」
「っ」
 健やかな笑顔とともに問いかけられて、同行していたハオが息を呑む。
「……フォン」
 思わず胸元で握りしめた背中のバッグのストラップ、詰め込んだマーラーカオ、もちろん報告書は目を通している、こんなものが通じる状態ではないと頭ではわかっていた、それでも、持って来ずにはいられなかった自分の甘さとぬるさを、ハオは改めて思い知る。
「ずっと探してたんだ」
 ずるり、と片手が粘液となって崩れ、すぐに復元する。
「奴らに攫われて酷い目に遭ってるんだろ」
 どろりと顔が溶け落ちて、ぬるぬると戻る。
「もう大丈夫だ、さあ一緒に、また同じ夜を過ごそう」


「ゆりりん、飛んで!」
 まるで呑み込まれるようにゆらり、と足を踏み出そうとしたハオの手首を掴んで、吉備サクラがオウルフォームのセクタンを放った。すうっといつの間にか足下に忍び寄ってきた黒い粘液からハオを引っ張り寄せながら、まだそれが辿り着いていない街路めがけて走り出す。
「こっちです! 1日逃げ回る覚悟で! 頑張りましょう、ハオさん!」
「う、んっ」
 がくり、と崩れそうな足を叩きつけるように走り出すハオをサクラは振り返る。
「他の人が必ず元凶を倒します。だからそれまで捕まらない。フォンさんと追いかけっこして、きちんと最後のお別れをしましょう。絶対死んでいる人に引き摺られない。貴方のお店で誕生会をやりたい人、貴方の事を生きて待ってる人はターミナルに居ます。それを絶対忘れないで下さい」
「み、せ…」
 呆然とした顔で瞬いたハオに、強張った顔で何とか微笑む。
「フォンさん多分怒ります。でも楽しい事刻んでいってほしいから」
 鹿毛さんと坂上さんが行くなら、私も行っても良いかなと思いました。主目的、倒すじゃないですよね。
 小さく呟いた声は、ハオには聞こえていないはずだ。
 安価なICレコーダー2、小型安価旧型なテープレコーダー5、スマホ対応ワイヤレススピーカー2。他にも、ミニリュックにペットボトルとシリアルバー、忘れちゃならないスケッチブックを入れて持ち込んでいる。
 フォンはハオに拘っている。それは嫌がるハオをロストナンバーが無理矢理連れ攫ったという、解消できないままの深く大きな誤解からだ。ハオがインヤンガイに居たままでは遅かれ早かれ消失していただろうことも、今ハオがターミナルで『フォーチュン・カフェ』を開いて幸福に暮らしていることも知らないまま、フォンはフォンなりの真摯な気持ちでハオを追い求めている。
 その願いは、サクラにとって無視できるものではなかった。
 フォンが甦ったのは、インヤンガイで逃亡してしまったキサの世界計の欠片によるものだ。誤解のまま、マンファージと化してロストナンバーに討伐され、またもや世界図書館のロストナンバーの影響で死の世界から呼び戻されたフォンは、ひょっとすると、ただ被害者であるだけなのかも知れない。
 元凶さえ消え去れば、かりそめの命は形を失う。
 ならば、再び苦しみを与えるのではなく、その時間を稼げばいい。
 フォンが消えるまで逃げ回り、できればハオがフォンへマーラーカオを渡して、お別れが言える場をつくれればもっといい。
「そこっ! 止まって、ハオさんっ!」
 ええいいっ。
 駆け抜けようとした路地から突然飛び出してきた黒い粘液に、サクラは持ってきていた上着を投げつける。凄く気に入っていた、とてもうまくできた上着だったけれど。ずきりと傷んだ胸に首を振り、
「死んだ貴方にハオさんは渡しません!」
 叫びながら、上空のゆりりんを見上げる。
 ミネルヴァの眼の視界で見下ろし、フォンの粘液質の体は『本屋』を中心としてべったりと広がり、じりじりとサクラ達を囲むように追い迫ってきているのを知る。眼鏡がずれる。髪が乱れる。ハオは不安なのか戸惑っているのか、どうしても遅れがちで体が背後に引きずられそうになる。来る前に、一度だけハオに50m走って貰って確認した速さより数段遅い。
 鍵の形をしたネックレスを必死に触れながら、念じる。
 街のあちこちにゆりりんに録音機材を運んでもらった。フォンの写真は見つからなかったけれど、フォンの声はロンやフェイに聞いて、そっくりになるまで声色を練習、ハオの記憶にあるフォンとのやりとりを再現して録音したものを再生しながら幻覚を付加する。同時に数カ所、うまく行くかどうか。
「走って、ハオさん!」
「っ」
 はあはあ息を荒げるハオの顔は白い。
 その顔を見ながら、街のいたるところで再現されている幻覚は、フォンの眼にどう写るだろう、とサクラは思う。
 焼きたてのマーラーカオを手に振り返り微笑むハオと、皿を差し出し「旨そうだな」と歓声を上げるフォンがつく食卓。
 くたびれた布と凹んだマットレスのベッドを整えながら、隣のベッドに眠るハオの顔を見下ろし「いってくるぞ」、呼びかけて眼を開けるハオの安心し切った笑顔。
 たいしたものは置いていない、置いてあるものは数日前のものだったり黴びかけたりしている、そんな街の店で食材を選り分けて買う、フォンとハオの姿。スケッチブックで描いてみせた後ろ姿は、フォンそっくりだとフェイに驚かれた自信作だ。
「も、う、だめ、かも」
「頑張って!」
 喘ぎながら止まりそうになるハオを叱咤し、自分にも言い聞かせる、きっと皆が何とかしてくれる、フォンと戦わずに済む道を探し出してくれるから。
 だって、だって。
 誰にも語らなかった、ハオが語ったフォンとの思い出の一つ、同じベッドで互いを抱き締め合うように眠っている光景を、サクラは想い描く。
 いつものように妄想だけで楽しむのではなくて、それは、外の世界からの干渉で引き裂かれてしまった恋人達の記憶として、ただただ切ないだけで。
 納得する、理解する、フォンのあれほどのこだわりと執着、ハオが戻らないと覚悟した理由。
 だって! 
「逃げ切るんです、ハオさん!」
 現実はどうあれ、想ってるからこそ助けに来たつもりの恋人を殺さなくちゃいけないなんて、そんなの絶対嫌。
「こ、ここからどっちへ行こう…っ」
 ミネルヴァの眼で方向を探りながら立ち止まったサクラ、その隣で膝に手をついて咳き込むハオ、その二人の背後の壁を黒い粘液体が音もなく滑り落ち、ハオの背中へとふよふよと指を伸ばす。


「うぉっと!」
 鹿毛 ヒナタは思わず独り言を呟いて片目をつぶる。
「ヤバイヤバイ」
 オウルフォームの舟の視界、今にも危うくハオとサクラに襲い掛かりかけた黒い粘液体を、ハオの影に伸ばしていた影でかろうじて弾き飛ばした。悲鳴を上げながら、サクラとハオが再び走り出す。
 街のあちらこちらでサクラの仕掛けた幻覚が浮かび上がっているが、数分の足止めはできたものの、逆にそれで勢いがついたように速度と容量を増しつつ二人を追う粘液体、いずれどこかで仕留めていかなくてはキリがない。
「やっぱ、どうにもあの人、生き延びるつもりが無さげなんだよね」
 戻る戻るといいつつ、やっていることは覚悟完了、何とかしないとと思ったから、行きのロストレイルの中でも、『ハオさん、本気で戻るつもりなら身辺整理とかナイですよ。いっそ見られたら恥ずかしい物を放置してく位が人間必死になれますよ。危機感で絶対死ねないからマジオススメ』と突っ込んでみたら、ほんとうにね、と穏やかに返されて、泣きそうになった。
 事実、『生魂花園』に乗り込んでみたら、フォンは完全化物になっていて、ハオのことを認識しているのやらいないのやら、いや認識はしているだろうけど、それは友人としてなのか食物としてなのかが微妙な雰囲気、渡したら返してくれそうにないのは必至、ハオを無事連れ帰るためにはフォンを倒すしかないとわかった。
 今は舟の視界で全体を把握しつつ、影を周囲に伸ばし巡らせ、探知網兼迎撃手段兼防壁に対応させているし、時折こちらに気が逸れる粘液体は、絡まれ包まれる前に影を渦巻かせて遠心力で突き放したりしているが、それでも。
「なーんかヤバいなあ」
 影しか触れていなくても、粘液が触れた瞬間、ぞくりと心に走ったのは怒り。イベントがなんじゃ。二次元のヤローのどこがいい。骨もないくせに! 俺だってなあ、最近は水墨画に開眼したし、色彩なんかなくったってなくたってなくったって、ええいくっそおお、極彩色の世界って凄いじゃんかわかってるよ素描だけじゃだめだってこと、けどなあ、けど!
「人型スライムと考えればヤれっかなー…アンデッドなんだよね、ヒトゴロシに等しくないよね、うん無問題」
 思い出しただけでも危うくなってきたんで、急いで気持ちを別な方向に逸らした。走り回る二人をフォローしながら逃げ回らせるのもいい加減限界だ。
 ハオはたとえ狙われても殺傷されることはないだろう、間違ってもこっちの攻撃の盾にはされないはずだ。ことばは悪いが囮状態、うまく扱えば攻撃を絞って一気にやれる。ハオの影に伸ばしたヒナタの影は、護衛もできるが釣り針も兼ねている。
 結局、つまりはハオの心の整理がつけばいいのだろう。フォンと話したければ邪魔をする気はないが、今のこの状態では話にもならない。多少勢力を削いで大人しくしてもらわないと。
「やるなら、あそこか」
 舟の視界に、街の片隅にぽかりと開いた空き地があるのが見えた。
 あそこにうまく追い込みつつ、持って来た携帯ガスボンベとライターを包んだ影を伸ばし、相手を包み込んだ中でボンベを破り着火させて爆発させれば、街への被害は最小限に、外への衝撃を防ぎ、内側への威力も高められる。
「ってことで、よろしく、坂上」
 トラベラーズノートに書き送り、あえてぐいっと周囲を見回した。
「俺、この戦いが終わったら、この街区の廃墟を堪能するんだ…このそびえ立つコンクリートの立ち枯れ感がイイよネ!」
 それでも、人殺しになるのだ。
 ぐっと重苦しくのしかかる圧力を跳ね飛ばそうと軽口を叩いた瞬間、
「おわっ!」
 目の前全面に迫った真っ黒な粘液に、とっさに掴んだのはハクアの護符。
「こういうのって映画かどっかにあったよねうん!」
 叫びながら護符を破る。


「っせえ!」
 飛びかかってきた黒い粘液を、坂上 健はかろうじてハクアの護符で退けた。破るや否や、ごうっと音をたてて周囲を取り巻いた風の層が、絡みつきかけた黒いねばねばをあっという間に飛び散らせる。もっとも、散らせただけで、壁や道路に飛ばされた粘液はすぐに寄り集まり引き寄せ合って、健に迫る。バック転数回、何とか距離を取って、逃走の時間を稼ぐために火炎瓶を投げて走り出す。
 前回もフォンとやりあっている。火炎瓶や手榴弾程度の火力と衝撃では、粘液そのものは散るだけで消滅しないことは経験済み、健にできることは今のところ陽動ぐらいだ。
 街に入った場所で待ち構えていたフォン、走り出したサクラとハオ、二人に影を忍ばせて動きを掴むと同時に守りに入ったヒナタ、同時に別方向へ走り出してフォンの意識を散らせた健、本体には今ハクアが向かい合っているはずだ。
『アンタは名案あるか、ハクア』
 そう尋ねた健に、ハクアは淡々とフォンを殺す、と告げた。さすがに青ざめるハオ、今にも食ってかかりそうなサクラに、
『あいつは死者だ。このままにしておけば生きている者が犠牲になる。だが、』
 嘆息した後、こう続けた。
『お前達がハオとフォンを会話させたいという想いは理解できる』
 もちろん、ハオにも、戦闘中は無謀な行動をするな、と容赦なく釘を刺した後で、
『お前とフォンの話す機会は作る』
 そう約束した。
 粘液体の力をできる限り削ぎ、一瞬でもフォンがハオと話せるような状況を作るために、今健は動いている。ハクアなら風の魔法でフォンを捕縛できるだろう。
「、っ、とっ!」
 手榴弾を投げる。いつもなら派手に響くはずの爆音は、直前一気に覆った黒い闇に吸い込まれる。ヒナタの影が、健の手榴弾とともに粘液の一部を包み込み、中で爆発の威力を高めてくれたのだ。
「大丈夫かな、ヒナタ」
 影で粘液を包み込むということは触れる機会も多くなるということだ。影なら直接影響はないのか、それともやはりどこかで何かしらの影響を食らうのか。
 ヒナタと話したのは三年ぶりぐらいだ。一緒になった一件では凄い勢いでセクタンを網で引いていて驚いた。自分の中にある『正義』への危うさ、それはヒナタにもあるような気がして、
『今回は下手に網で粘液引っ掛けると操られそうで怖いよなぁ。お互い逃げに徹しようぜ?』 
 そう話しかけると、戸惑った顔で親切だな、と返された。
「コンダクター同士で親近感持つのってそんなに変か……?」
 粘液体が怯んだように引いたのを見計らって、路地を駆け抜ける。
 そう言えば、どうにも煮え切らない感じがあるハオに、
『ハオは俺たちが怒って殴っても堪えないからなぁ…分かった、もし諦めそうになったら俺が公衆の面前でハオにディープキスしてやる。男でKIRINにキスされたくなかったら必死で逃げろ、な』
 ぽんと肩を叩くと、ヒナタが目一杯引いていた。そ、そんな趣味はっ、と自分のことでもないのに冷や汗をかくヒナタに、
『当たり前だ、俺にも男とキスする趣味なんぞないわっ』
 ちょっと笑いをとろうとしただけじゃないか、そうぼやきつつ、次は真面目に付け加えた。
『ないとは思うけどもし1人になっても絶対諦めるなよ、ハオ。必ず誰かがお前のとこに行くから。それとフォンはもう死人で暴霊だ、それだけは忘れるなよな』
『うん…』
 掠れた声で応じて淡く微笑む顔、やっぱりディープキスの方が効くかとは思ったが、これ以上周囲に引かれても困るから、
『ところでハオ。これが終わったら、勿論俺らを無料でハオの店の食べ放題に招待してくれるよな? すっげえ期待してるからな』
 一瞬口を噤んだハオが、店を片付けてきたことを知らないわけじゃない。
 けれど、人は何かのときに、無茶な要求で粘れることもあるのだ。
「……とっっ! 危ねっ!」
 足下に伸びてきた触手のような粘液体、あわや触れそうになった瞬間、体を風が取り巻き、浮かせて弾いた。
「健!」「ハクア!」
 目の前にハクアのすっくと立った後ろ姿、いつの間に移動してきたのだろう、そこは街の外れの空き地、ヒナタがそこならと示してきた場所、そこにゆらめく黒い液体に包まれたフォン・ルゥが真っ白な顔で立っている。
 最初に見た時より、酷い姿だった。
 周囲にずるずると引きずっている黒い粘液は、まるで萎縮したように縮こまっており、胸の悪くなるような臭いが周囲に立ちこめている。
 よく見れば、あちらこちらに焦げ爛れた生皮本が、『本』にはふさわしくないべったりとした落ち方で転がっている。伏せた下からべとべとの赤黒い液体が広がっているもの、どう見てもはみ出た舌のようなものが焦げて挟まっているもの、ぐちゃりと潰れた肉色の何かが陥没したような表面、フォンはゆっくりと肩で息をしつつ、それでもなお、片手の生皮本を差し上げ、次の瞬間、周囲の液体の中から次々と生まれでる生皮本が、牙を剥き、目を怒らせ、叫びを上げながら襲い掛かってくる。
「フォン…!」
 悲痛な叫びは今しもそこに駆け込んできたハオの口から響いたもの、その隣で悲鳴を呑み込むように口を押さえたサクラの大きく見開いた眼の前で、ハクアは容赦なく炎を放った。
 空中に次々と描かれる血の魔法陣、現れた炎の槍が生皮本を刺し貫き、叩き落とし、中の一本はまともにフォン・ルゥの頭部を突き刺す、だが、絶叫を上げ怒号を響かせ落ちていくのは生皮本ばかり、槍に頭部を突き刺されたフォンは、一瞬体を揺らめかせたものの、すぐに何もなかったかのように頭を復元すると、ハオに気づいてにっこりと笑った。
「ハオ、おいで」「ハオさんっ!」
 サクラが叫びながらハオを引っ張る、ハオの影から突然伸びた影はおそらくヒナタのもの、しゅるっと伸ばされたフォンの腕を包んで次の瞬間吹き飛ばす、だが堪えない、すぐに新たな第二第三の腕が伸びてハオを掴もうとし、その前で、ハオは目を見開いたまま硬直し動けない。
「ちいっっ!」
 健は走り出す、粘液に触れるのはごめんだ、断固拒否だ、だがフォンにハオを渡すのもまた拒否なのだ。ならば、そのぎりぎりを掠めるしかなかろう。
 皮一枚に迫った粘液、自分が駆け抜ける空間を咄嗟に計算して手榴弾を投げる、速度を上げてまっすぐにハオに突進する。
「う、ぉおおおおおお!」「っっ!」「きゃあっっ!」
 サクラとハオを両腕で抱え込むようにして同時に吹っ飛ばした。翻した白衣の内側にはあれこれ物騒なものが仕込んであるから、見かけよりも重量はある。背後で高温が弾ける。重なった、背中が焼けるほどの業火はハクアの魔法、その壁を越えてなおも飛び抜けた生皮本を、ヒナタの影が包み込み、ぐわり、と膨れ上がった影にフォンが絶叫しながら顔を覆う。


「やはりそこか!」
 ハクアはヒナタの影から飛び出してきた生皮本を狙った。フォンへの攻撃が効かない時から、本体は彼が特に大事にしている生皮本にあるのだろうと思っていた。
 空中に描いた魔法陣は風の魔法、フォン・ルゥの本体を捕縛する。
「く、ふっ!」
 背後に居たはずのヒナタがふいによろめいて飛び出してくる。影しか触れていないはずだが、粘液に操られたのか。そっちを風の魔法で拘束し、水の魔法で大量の水流をヒナタに注ぐ。
「ぶあああああっっ! 溺れぶうっ!」
 叫んで正気に返ったらしいヒナタに気を緩める暇もなく、拘束した以外の生皮本に再び炎を浴びせかけた。
「こんなものはないほうがいい」
 言い放つ声は我ながら冷たいが、生皮本の制作方法を思い出せば、残してよからぬ根となってもらっても困る。
「あ……あ…あ…」
 それを見守っていたハオの掠れた声に振り返る。その眼の畏怖に胸苦しさを感じた。業炎を背中に、容赦なく命を屠る自分は一体どんな存在に見えるのだろう。
 風に乱れる白髪、冷酷な輝きを宿す深緑の眼、指先は己の血で濡れて雫を滴らせている。
 恐怖の王か、化物か。
 恐ろしさのあまり、自分達家族を狩った者達もこんな目をしてハクア達を見ていたのだろうか、命の可否を、その指先で決定する酷薄な力の象徴として。
 その恐怖に負けた時、人はハクア達を狩った。
 ハオもだろうか。一緒に暮らすあの娘もいつか、こんな眼で自分を見ることがあるのだろうか。
「…ずげ…なぐ…ぢあ…」
 風に巻かれて叩き落とされた『本』からきしるような呻きが漏れた。
「…お…が…ごわい……め…あっでる…んだ……だず…げな…ぐちゃ…あ」
 ずる、と『本』が動いた。いつの間にか、さっきまで立っていたフォン・ルゥの姿が消えている。
 ただ粘液に絡まれたべとべとした地面に落ちた『本』が、ずるり、ずるりとハオの方へ這い寄っていくだけだ。
「う…ぅ」
 ハオは震えている。真っ青になって、がたがた歯を鳴らしながら、ハクアを見る。
「俺達がこの世界に影響を与えた事は否定しない」
 ハクアは静かに続けた。
「お前の言葉はあいつには届かないのかもしれない。それでもなんの因果か、欠片の力であいつはここに存在している」
 ハオはのろのろと地面に視線を落とした。すがるようにマーラーカオのバッグのストラップを掴んでいる。そんなものは役に立たない。前に役立った方式は全て、もう役に立たない。
「はお……なぐ…な…おでが…いば……だずけに…いぐ…がら」
「ハオさんっ」
 足を踏み出したハオに呼びかけたサクラを、ハクアは眼で制する。
「伝えたい事を伝えるといい。お前が今、幸せなのかどうなのか、あいつの事をどう思っているのか、どうあってほしかったのか」
 どんな形であれ、そいつはお前を案じ、守ろうとし、庇おうとし、世界を踏み越えてまで救おうとした。
「………後悔しないように伝えるといい」
「はご……ぉおおお…」
 ハオはバッグを外した。ぺたり、と『本』の側に座る。周囲に広がった粘液はもうぴくりとも動かないけれど、ほんの少し持ち上がれば容易にハオに絡みつける距離だ。健は火炎瓶を握り、ヒナタは影の警戒を怠らない。
「ふぉん…」
 サクラとハクアの見守る前、俯いたハオの口から、低い声が漏れた。
「おれ……助かったよ」
「……ば…お…?」
「おれ、助かったんだ………おまえが、救ってくれたんだ」
 だからさ。
 ハオが微笑む。
「もう、眠っていいよ」
 今夜は、おれが、見守っててやるから。

 眠れ。疼いて熱い、傷みの源。
 その祈りは消えずとも、新たな火種を宿すとも。
 消し切れぬなら今はただ、眠れ、包むこの両腕に。

 ぽたり、と落ちた滴はみるみる数を増す。
 手を伸ばすハオの目の前で、『本』が薄白くなり、霞み始める。
 やがて。
 「…………お……やす……」
 み。
 小さな、幼い声が告げて、『本』は細かな粒子となって消えていった。
 

クリエイターコメントこの度はご参加ありがとうございました。
インヤンガイ悪党復活祭でありながら、
何だか妙にしっとりしてしまって申し訳ありません(汗)。
本命の方は北野WRがきちんと始末をつけて下さったので、
心やすらかにフォンをぶちかませました。
キサも無事にインヤンガイに帰属しましたしね。

けれど、こちらの方では、
どっちかというと退治されたのは、
逃げ回っていたハオの方ではないかと思います(笑)。
緊張を緩めつつ、警戒も怠ることなく、準備もしっかりと、
しかも決めるところは決めるというチームワークの良さで、
無事にフォンが成仏いたしました。
長らくお付き合い頂きありがとうございました。
何だか、ハオも少し変わったみたいですね。


またのご縁をお待ち致しております。
公開日時2013-09-11(水) 21:30

 

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