膝下ほどの長さに伸びた草たちが、涼やかな風をうけて波打っている。仰ぎ見れば高く広がる蒼穹が、平原の向こうには深い森がある。そのさらに向こうに行けば一転して岩場が広がり、そこ辺りにまで行けば風が運ぶ温度も質感もいくぶんか変わってくる。 森に近い場所には小さな池がある。澄んだ水をたたえたその水辺のほど近く、草葺の小さな家――庵が一軒あった。決して仰々しくはない構えの門をくぐれば様々な樹木や草花が色濃く感じられる庭があり、その庭や周辺に広がる豊かな自然に囲まれたその庵の主は、名を清闇という。 清闇は縁側にあぐらで座り、膝の上に頬杖をついて目を細め、目の前にいる客人が語る話に聞き入っていた。 客人の名は理星。短めに揃えた銀髪を揺らしながら、清闇が用意してくれた茶菓子を頬張ってはうれしそうに「ホントうまいよ!」と満面の笑みを咲かせている。 一面に涼やかな青を広げている空から降るのは、初夏のそれを思わせる陽光だ。不快な暑さを感じずに済んでいるのは、絶え間なく流れる風の心地良さと、広がる風景の美しさのためだろうか。晴れ渡った風景の中で、理星は終えたばかりの冒険の話を清闇に聞かせているのだ。 「それでさ、その龍のヒトってのがすごく大きくてさ。大きいっていっても清闇さんほどじゃないけどね」 「そいつに怖い目に遭わされたりはしなかったか?」 「最初は少しね。でもこれがあったから」 言いながら、理星は首から提げているペンダントに大事そうに触れた。それは大切な友人である清闇からもらった、清闇自身の鱗を用い作られたものだ。黒竜の姿をとることもできる清闇の鱗は、陽に透かしても漆黒を薄めることもなく、純然たる暗色を保ち続けている。 「これを見たら、すごく親切にしてくれてさ。やっぱり清闇さんってすごいよ」 そう言うと、理星は白磁の皿の上に置かれた焼き菓子の最後のひとつを一口に頬張り、冷茶の残りも一息に飲み干して、気持ち良さそうに空を見上げ目を細ませた。その横顔を眺めつつ、清闇もまた頬をゆるめる。 「そうか。そいつァよかった」 言って片手を伸ばし、理星の髪をかき混ぜるように撫でまわした。何の前触れもなく頭を撫でられた理星は驚き清闇のほうに顔を向けたが、すぐに喜色を満面に浮かべた表情をみせて小さな笑い声をもらす。 「疲れただろう? 羽を梳いてやろうか」 理星の頭を撫でまわしながら清闇が言うと、理星はますます表情を明るく輝かせて何度も大きくうなずいた。折りたたんでいた純白の両翼は広げると五メートルをゆうに超えるほどの大きさを誇る。鳥類のそれに似た特長を備えた翼を広げた理星を手招きして自分の膝を示した清闇の思考を汲み、理星は両翼を広げたままいそいそと清闇のそばに近寄って、それからころりと転がり、清闇の膝に頭をのせた。 「なんかくすぐったいな」 そう言って照れたように、けれど嬉しそうに笑う理星の額を軽く撫でてやりながら、清闇もつられたように小さく笑う。 「俺さ、あんまりこうして膝枕とかしてもらったことなかったけど、あんがいくすぐったいもんだな」 「くすぐったいか?」 頭を撫でる手を離そうとした清闇をあわてて引き留めて、理星はゆったりと安堵の表情を見せた。 「ううん。清闇さんに撫でてもらったりするのは好きなんだ。安心する」 にぱっと笑う理星の言葉に清闇は「そうか」と微笑み、うなずく。理星も大きくうなずいて笑った。 「じゃあ、ついでに羽を梳いてやろう。たまには手入れもしないとな」 言って、清闇は理星を呼び寄せるように、自分の膝をぽんぽんと軽くたたいてみせる。清闇のその行動が意味するものを悟った理星は飛び上がるほどに満面の喜色を浮かべ、たたんでいた大きな羽を片側だけ広げながら清闇の傍へとすり寄った。 風が吹いて、清闇の黒髪を流し過ぎていく。陽光を浴びてもなお漆黒を失うことのないその色は、理星が大切にしている鱗の色とまったく同じだ。禍々しさを一切感じない、深い夜の闇の色。理星は清闇に膝枕をしてもらいながら、清闇の髪が風に揺れるのをぼんやりと眺めていた。清闇は理星の羽を梳いてやりながらただ静かに微笑んでいる。 理星があまりの心地良さにまぶたが重くなってきたのを感じ始めたとき、清闇は小さく息をこぼした。 「俺にもし弟ってのがいたら、おまえみてェな感じだったのかねェ」 それはまどろみかけていた理星を起こさないようにと配慮した、声音を低めたただの独り言だった。が、眠りに落ちていたはずの理星は清闇の膝の上でもぞもぞと身を動かし、閉じていた銀色の瞳を再びゆったりと持ち上げた。 「そういえば清闇さんって兄弟とかは?」 「ん?」 「清闇さんの家族の話って聞いたことなかったなと思って」 「……そうだったか?」 清闇の手が動きを止める。理星がうなずいてみせると、清闇はほんのわずかに困ったような笑みを見せた後、再びゆっくりと理星の羽を梳き始めた。 「家族はみんなもういねェよ」 「なんで?」 「俺が殺しちまったからな」 返された言葉に、理星は目を見開いて息を飲んだ。 「嫌い……だったの?」 両親や家族のことが。そう訊ねた理星に、清闇は小さくかぶりを振ってみせる。 「俺の親ってのはな、どっちも金竜だったんだ」 言いながら、清闇は理星の頭を優しく撫でた。やわらかな銀髪が指に絡む感触に目を細めながら、清闇はまるで昔話を語るかのような口ぶりで静かに言葉を続ける。 清闇の両親は共に黄金の色彩を持つ金竜だった。金竜は強大な力を持ち、それは神の力に匹敵するとさえ言われていた。が、同時に、金竜とは魔性の存在でもあった。他者を虜囚とし、精霊を問答無用で従属させる魅縛の力をも所有していたのだ。当然ながら竜族の中ではもっとも強靭な力を誇っていたのだが、しかし、その力の強さゆえに心を呑まれ気狂う事も少なくはないとされていた。 清闇の両親もまた類にもれず、父母は共に狂気の徒となりはててしまったのだ。 「それでもな。俺がガキの頃なんかはまだ、ふたりともまだまともだったと思うんだよな。たまに、こうやって俺の頭とか撫でてくれたりしてなァ」 懐かしげに目を細め、理星の頭を撫でる。穏やかなその表情の中には、悲しみや後悔や、そういったものなど何一つとして浮かんではいなかった。そのやわらかな笑みに、理星は引き込まれたように、ただ口を閉じたままでいた。 月日は流れる。 次第に狂気に支配されていく両親。しかしその力はふたりが狂気をはらめばはらむほどに一層強靭なものへなっていった。もはや誰にも彼らを止めることは出来ない。世界は崩壊の一途を辿るしかないのかと、絶望が色濃く世界を満たし始めていった。 「俺ァな、あの国の存亡だとかそんなモンはどうでもよかったんだ。金竜がどうだとか、そんなのもどうでもよかった」 「……助けたかった?」 訊ねた理星に、清闇はただ静かに微笑んだ。そうしながら理星の羽を梳く手を少しだけ休め、雲ひとつない空を仰ぎ見てゆっくりと息を吸う。 「そうだなァ。……だから、俺ァ今でも親殺しになっちまったことを悔いたりはしてねェんだよ」 今も思い出すのは、自分を愛してくれた両親の優しい記憶だ。頭を撫でてくれた大きく温かな手のひらと、美しくやわらかな笑みをたたえ抱きしめてくれた温もり。この記憶がある限り、清闇にとっての両親は狂気の徒などではない。世界を危機に陥れかけた存在でもなく、神に匹敵するほどの力を持った存在でもない。清闇にとっては、あくまでも、優しく温かな両親なのだから。 「でも、……辛かっただろ?」 きっとそれは壮絶な記憶でもあるはずだ。愛してくれた、愛していた無二の存在を手にかけなくてはならなかった。その選択は、きっと、魂を削ぐほどの苦しみだったはずなのだから。 「俺もとーさんかーさんのこと大好きだし、わかるよ。……辛かったよな、清闇さん」 悲しい記憶を笑顔で「悔いはない」とさえ言い切る清闇のかわりに泣きそうな表情を浮かべながら、理星は両手を伸べて清闇の顔に触れた。清闇はわずかに驚いたような顔を浮かべたが、すぐにまた穏やかな笑みを浮かべて目を細めた。 「おまえは優しいな、理星」 そう言って理星の頭をくしゃくしゃと撫でつけた後、清闇は再び理星の羽を梳き始める。 風が運ぶ熱がわずかに冷たくなってきた。平原の向こう、青く広がっている空の端が紅を帯び始めている。もうじき陽は落ちて夜が一帯を包み込むのだろう。 「茶でも淹れなおすか。俺も喉が乾いたしな」 羽を梳き終え、清闇は向こうを向いている理星に声をかけた。応えがないのを知って覗き込んでみる。理星は小さな寝息をたてていた。 風が銀色の上質な糸のような髪を梳いていく。 辛くなかった、といえば嘘になるかもしれない。親を殺すという行為がどれほどの重罪であるのかも理解していた。けれど、そういったすべての葛藤を押さえ込むほどに、清闇は両親を愛していたのだ。深く愛されていた。だからこそ、彼は苦しむ両親を見ていられなかったのだ。狂気に墜ちながら、両親は共に苦しんでいた。おそらくは心のすべてを呑みこまれたわけではなかったのだろう。むしろすべてを呑まれてしまっていれば逆に幸福だったのかもしれない。それを殺す清闇にとってもその方がラクだったかもしれないのだ。 今も覚えている。とどめをさすその瞬間に見せたふたりの表情を。その口が声にならない言葉を語っていたことも。その言葉も。 理星の頭を撫でながら、清闇は静かに口を開く。 「後悔はしてねェんだよ、本当に。ふたりとも、今も俺の中で生きている。俺がこうして覚えてる限り、ずっと死なねェんだからな」 理星は寝息を立てている。羽毛よりもやわらかな羽がふわりと舞い、風に乗って運ばれていった。 空は穏やかに暮れていく。眠りを妨げぬよう気を配りながら、清闇は静かに理星の頬を撫でた。 「おまえは優しいな。……ありがとうな」 理星は夢を見ているのだろうか。むにゃむにゃと寝言を呟いて、それからふにゃりと頬をゆるめ、笑った。
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