風ひとつない平野。静かな湖畔は水辺だというのに、鳥の姿さえなくて。 遠くの山脈共々菫色に染まる水面から突き出た、鋭くも歪な大小無数の白茶けた石灰の塊は、遠くから見れば水上に浮かぶ街にも見えた。 蜃気楼にでも誘われるように、ばしゃばしゃと湖の中央を目指す。 徐に、ざあっと砂より荒い粒が擦れる音がした。それは幾度となく繰り返され、湖上につむじを巻いた。かと思えば唐突に止み、次の瞬間ばっと四散して、すみれ色の夕日に照ってきらきらと辺りを彩りで包み込む。目を奪われていると、やがてそれは薄まり。 ふと気が付けば、私は雑踏の只中で、立ち尽くしていた。 ※ 遥か西の地、遥か古代。淡き湖に浮かぶ街のこと。 今に確かと詩人が歌う、語り草となる物語――ある竜刻の、物語。 嘗て其処は”白光の花都”と讃えられた。 塩の名地として知られ、それを一手に担っていた交易の中心地として。 至るところで伸びやかに樹木が生えて、一年中花咲き乱れる都として。 また、嘗て其処は”生命の竜刻”を宿していた。 竜がひとたび寿げば、それ即ち生の賛美。 忽ちの内に水が沸き、無限の春を謳歌する。 竜がひとたび呪えば、それ即ち死の賛美。 忽ちの内に水は枯れ、夢幻の波に懺悔する。 竜刻は、ふたつの象徴を人々に齎し、街と民心とを希望で満たした。 唯、独りを除いて。 時の太守の囲女に、ヤロスラヴァという名の美姫が居た。 眉目麗しく心優しい彼女を、太守は溺愛したという。 しかし、ある日。 何事かに絶望したヤロスラヴァは、”生命の竜刻”に呪いを込めた。 一夜にして人々は死に絶え、都は廃墟と化し、一帯は塩湖と成り果てた。 この時、竜刻は塩に溶けて失われたと伝えられている。 ※ 廃墟に踏み込もうとする四人の人影が在る。否、廃墟と呼ぶには語弊があるのかも知れない。何しろ其処では”白光の花都”が嘗ての姿そのままに蘇り、嘗ての住人達が暮らしているのだから。「最後の一日」を繰り返しているのだから。 それは、ある世界司書の導きの書に齎された、未だ誰も知らぬはずの光景。 偶然廃墟に迷い込み、取り込まれた不幸な旅人が見た場景。 溶けて消えたはずの”生命の竜刻”が齎す残酷な奇跡。 足首が浸かるほどの湖の中央に浮かぶ小島から、街の鼓動が、息吹が伝わる。幻影でも亡霊でもない、ひとの意思と意識と肉体が無数に集うことを、イルファーンは敏く感じ取った。だが、それはやはり仮初でしかない。「永遠の円環に閉じ込められて気づくこともできないのは、どんな気持ちだろう」「さてな。何しても気の毒な話だ」 清闇は顔色こそ変えぬものの、短めの言葉の節々に彼なりの気遣いが窺える。向けられたのは痛ましげに呟く精霊か、街の人々か――或いは双方か。「僕らにできることは『本当に終わらせる』だけ……ここでひとつ、断ち切ってやりたいよね」 他にどうしようもない――そのことを、ニコ・ライニオは改めて口にする。内容に反してどこか軽薄な調子なのは普段からだが、今は彼と同様に人を愛しく思う仲間達のことを慮って努めて明るく振舞っているのかも知れない。「せめて安らかに眠らせてやるのが慈悲か」「だね」「……うん」 黒竜に赤竜と少し遅れて精霊が頷き、三人は静かに歩き出す。「話も纏まったとこで、そろそろいきやしょうよダンナ方~」 ひとりそわそわしていたススムくんは仲間達を急かしながら、ばしゃばしゃと街の方――最後の一日――へと駆けていった。生命の竜刻を、求めて――。=========!注意!企画シナリオは、便宜上、参加枠数が「999」になっていますが、実際には特定の参加予定者のために運営されています。この企画シナリオは下記のキャラクターが参加予定です。他の方のご参加はご遠慮下さい。万一、参加予定でない方のご参加があった場合は、参加がキャンセル(チケットは返却されます)になる場合があります。<参加予定者>ニコ・ライニオ(cxzh6304)イルファーン(ccvn5011)清闇(cdhx4395)旧校舎のアイドル・ススムくん(cepw2062)=========
斜陽が巷の悉くを染める。湖面も、白壁も、深緑さえも。けれど宵闇迫る花の都は賑わいにかげりを見せるどころか、一際派手に喧騒が響く。行き交う住民の面立ちは一様に明るく、淀みの無い暮らしぶりが窺える。 然程高くも無い塀の向こうは、入り口にして既に目抜き通りの様相を呈していた。往来でまず目に付くのは露店。各地から商人が集っているのか、様々な宝飾、日用品に武具、食べ物が並び、更に多くの人々がそれらを物色しては、買うか或いは冷やかしがてらに店主と語らい、笑い合う。その脇を如何にか通り抜ければ、やっと市街地へ行けそうだったが、雑踏は相変わらずだった。 「これは都市の記憶、その残像だ。彼等はその中で明日を夢見て生きている」 「ああ、まるで祭りだ」 イルファーンの誌的ともいえる分析に、清闇は頷いた。連日こうなのだとすれば、彼らは連夜、何事かを祝っている。例えば――希望に満ちた毎日を、年中祝っている。明日を、翌年を、十年先を、老いてこの世を去る迄を、疑いもせず訪れると信じているに違いない。とうに葬り去られていると云うのに、だ。 「……ヤロスラヴァお嬢は、本当に絶望して呪いをこめなすったんでやんすかねぇ」 ススムくんがきちりと首を傾げて呟いた。 「少なくとも伝承じゃそう云う事になってるな」 「何か、気になる事があるのかい?」 思わぬ言葉におやと目を向けるふたりへ、人体模型は俯き加減に応える。 「この光景を見ていると、お嬢はその時一番の幸せを封じなすった――そんな気が、するでやんす……」 「だとすれば尚更気が滅入る話だ」 齢にして数千。清闇はその間、沢山の滅びを目にしてきた。なればこそ過剰に心を痛めはしないが、それでも繰り返される悲劇に憐憫の情を禁じえない。 「立ち止まったまんまどこにも行けねえなんざ、な」 清闇は竜でありながら人と共に歩み、竜に比すればあまりに儚い彼らを失う哀しみも、その魂が巡る摂理に救われて来た。だが、この街の民はあまりにも、 「ん? 何か云った?」 喜色混じりにニコが皆へ訊ねた。若い赤竜が何をにやけているのかとその視線を追えば、なるほど愛らしい街娘達が細工物の露店でかしましくしている。 「――……いいや」 「そう? じゃ、僕はちょっとあの可愛い子達に宿が無いか訊いてみるから」 適当に時間潰しててね。 そう云い添えるニコは、相槌をうつ暇もなく、手をひらひらさせて既に歩き出していた。婦女子を目にしては居ても経っても居られないとばかりに。 彼の様子を見て軽く溜息をつく清闇に、イルファーンが笑いながら提案した。 「折角だから今夜は自由行動にしようか。未だ時間はあるし、僕も街を見ておきたい」 「賛成でやんす。わっちは竜刻の在り処について探りを入れてみやしょうか」 ススムくんもかくんと頷き、得意のアルカイックスマイルを浮かべたまま、ぎこちなく清闇の方へ首を廻した。 「そうだな」 それもいいだろう。覚醒する迄も無く永久に近しい定めを背負った、ここに集う神の如き四人ならばこそ、書物に記して遺せぬ記憶をも留め置くに相応しい。 損な役回りだった。 「ヤロスラヴァ? ああ、貴方も噂を聞きつけてきたってワケ?」 「ちょっと、目の前にこんな美女が居るクセに他の女の話しないでよ!」 「美女って? あんたの家の鏡、曇ってるんじゃない?」 「なんですって!」 「私はともかく、あんたなんか振られてばかりでしょ」 「とっかえひっかえしてばかりの尻軽よりマシだわ!」 「何よ、ひがみ?」 「ちょっとやめなって」 「放っときなさいよ、いつもの事なんだから」 ニコは先ほど知り合った四人の娘達と手近な屋台に来ていた。軽食を嗜む傍ら、暫くは他愛も無い世間話に花を咲かせていたが、そのついでに件の妾について触れた途端、この有様である。四者四様に魅力を秘めている娘達はそれ故に度々憎まれ口を叩き合いながらも、仲良くやっているらしかった。 「ま、ま、ふたりとも落ち着いてよ。僕としても、ただどんな人なのかなーって気になっただけだからさ」 「あらあ、お優しいのね。私はともかくこんな猪にまで美人だなんて」 「また『私はともかく』? 馬鹿のひとつ覚えもいいとこよ。彼はあんたに気を遣ったのが解んないの? 馬鹿」 「「何よ」」 「いい加減にして」 「はあ……」 「ほらほらほらそんな怖い顔してたら折角の美人が台無しじゃん? ね?」 「…………」 「……ふん」 年頃で、特に色気づいたふたりは殊更『美人』に弱いようで、渋々ながら漸く引き下がった。とは云え互いにそっぽを向いてこれ以上聞けそうに無い。 (んー、困ったなあ) ニコは頬を掻きながら、場の空気を和やかにしつつ寵姫の噂話を訊く方法を思案していた。彼女達は本当に活き活きとしていて――元よりニコには女性と血の通わぬ遣り取りをする気などありはしないが――合理的に必要な情報のみを得る事には不向きだし、またそうすべきではないとも思う。ニコも先頃の清闇同様、この街の顛末を見届ける事を自らに課していたが故。娘達の明るさは平和の象徴だ。救い難い、否、救う事などできぬその笑顔が、重かった。 「ヤロスラヴァの事だけど」 「え? あ、うん」 見かねたのか、静観を決め込んでいた娘が料理を頬張りながら徐に語り始める。ひょっとしたら柄にも無く沈痛な面持ちでもしてしまっていただろうか。彼女の態度からそれは窺い知れぬが、ともかくニコは持ち前の笑みを浮かべて耳を傾けた。 「元々はこの街で一番貧乏な家の出でね」 当人に失礼ではあるものの、ヤロスラヴァの身の上は四方世界に掃いて捨てるほどありふれた典型的な不幸の縮図だった。父親は城仕えの役人だったらしいがヤロスラヴァが未だ少女の時分唐突に姿を消し、母親はかねてより病気がちで食い扶持を稼ぐ力も無かった。母子が生きていく為には娘が働くしかなくなり、ヤロスラヴァ自身それを買って出た。とは云え娘一人の稼ぎなどたかが知れており、生きていくのがやっとの日々。随分苦労していたようだが、それでも彼女は人前では常に明るく気立て良く振舞った。生来の美貌も相俟って、皆に愛されていた。 「太守様に見初められたのは、確か二年ぐらい前だっけ?」 「馬鹿、その倍は経ってるわよ」 「ははっ」 他の娘達も会話に加わり始める。なんだかんだで気の合う四人なのだろう。ニコは彼女達の遣り取りがやはり嬉しくて、笑った。笑いたかった。 「羨ましいな。あたしもお城いきたい」 「うそっ、私だったらちょっと考えちゃう」 「どのみちあんた達じゃ無理よ。私はともかく」 「やれやれ、また始まった」 「でも城に行ったら帰って来れないってハナシじゃん」 などと現在の彼女達はおろか、当時のヤロスラヴァならば尚の事、選り好みする権限などある筈も無く。ヤロスラヴァは太守の寵姫として己を差し出し、代わりに城の者が母親の面倒をみるようになった。その母も昨年亡くなったようだが。 「とにかく、ヤロスラヴァは太守様の一番のお気に入りなワケよ。そんな女狙った日には命が幾つあっても足りないでしょ」 「や、だから」 僕は別にと云おうとしたニコの口にしなやかな人差し指が当てられる。次いである娘は肩にもたれかかり、またある娘は腕を組んでにっこり微笑んだ。首筋に触れた素肌は塩に触れた後のようにすべらかだった。 「そう、だから――今夜は私らと遊びましょうよ」 ニコが快諾したのは云うまでも無い。 同じ頃、ススムくんは比較的閑静な――懼らくは居住区へと足を運んでいた。 「もし、そこのお方」 人気の少ない暗がりに人体模型が蠢く様は中々に怪奇染みていたが、旅人の外套によるものか、当人に脅かす気がなければ姿かたちは然程問題にはならないらしい。声を掛けられた通行人も自身を含め夜に出歩く者など珍しくないのだろう、気軽に応じてくれた。 「はいはい、どうかされましたか」 「つかぬ事をお聞きしやすが、井戸はどこでやんすか?」 ススムくんが軋みを立てて動いて少しは妙だと感じたか、僅かに首を傾げたその人は、しかし丁寧に道筋を教えてくれた。何なら案内もしてくれそうではあったが、目的が目的だけに人目があるのは拙いと思い、丁重に断る。 「井戸発見~!」 好都合な事に井戸は路地裏の更に奥まった場所にあり、今なら周囲を気にしなくても済みそうだ。と云うわけで、 「とぅっ」 ススムくんは足早に駆け寄ると、その深い淵へと身を投げた。城へ、或いは竜刻へと続く道を求めて。 彼が飛び降りる刹那、井戸端を小鳥が掠め、城の方へ羽ばたいて行った。 ※ 「申し訳ございません。折角お招き頂きましたのに」 「良いのだよヤロスラヴァ。私は何よりお前が心配だ。端女に看病させよう」 「お心遣いに感謝の言葉も……ですが、今宵は独りになりとうございます。わたくし如きに構わず、どうか端女にも一夜の安らぎをお与えくださいませ」 「心優しきヤロスラヴァよ、お前の望む通りにしよう。しかし何かあれば事だ。外にひとりつけておくから、具合が悪くなったらすぐに伝えるのだぞ」 ※ 「重ね重ねありがとうございます、殿下。お休みなさいまし」 バルコニーの手すりに留まる小鳥は、薄絹を重ねた衣装の美しい女と恰幅の良い髭面の男の遣り取りに、耳を欹てていた。やがて男が退室するや、女――ヤロスラヴァは顔を抑えて、未だ若いのにくたびれた背中を一度上下させる。そのままふらふらと妾にしては随分豪奢な寝台に向かい、腰掛け、倒れ込んだ。 「望み、なんて」 小鳥は彼女を慰めるように、チチっと短く啼いた。 「あら」 ヤロスラヴァの虚ろな瞳に微かな光が宿る。ゆっくりと身を起こす彼女の元へ、小鳥はまたチチチと啼きながら羽ばたき、その周囲をぐるぐると飛び回った。 「こんな夜更けに小鳥だなんて……――今晩は。あなたどこから来たの?」 ヤロスラヴァが慈しみの眼差しで手を差し伸べると、小鳥は当然の如くそれを止り木に定めた。時折首を振り、さえずる歌は、寵姫を僅かに癒す。 「ひょっとして慰めてくれているの? ふふ、ありがとう、とってもお上手よ」 礼の言葉に応ずるように、小鳥は三度チチっと啼いた。 「でも、いつまでもここに居ては駄目。でないとあなたも塩に――」 ――塩に? どう云う事? 「誰っ!?」 突如寝室に響いた美声に、ヤロスラヴァはびくりと身を強張らせた。小鳥は彼女の元を発ち、緩やかな弧を描いてバルコニーへ翔け、つむじ風を巻き起こす。カーテンが、垂れ幕が、薄絹が、室内の布と云う布がふわっと浮かび、そして―― 「改めてご機嫌よう、ヤロスラヴァ」 バルコニーに恭しく畏まる、眉目麗しい精霊が姿を顕した。 ヤロスラヴァはその霊威に満ちた美声に名を呼ばれ、現世に並み居る者無き美貌に目を奪われかけたが、程無く我に返り、落ち着いた面で応じた。 「……驚いた。どちらの神様かしら」 少なくとも騒ぎ立てるつもりは無いらしい。死出を受け入れた者のみが持ち得る胆力の為せるわざであろうか。精霊は寵姫の問いにゆっくりと首を振ると、自らをイルファーンと名乗り、そして来訪の理由を告げた。 「君が竜刻に呪いを込めた理由を知りたいんだ」 その言葉にヤロスラヴァは少なからず驚いたようだったが取り乱す事は無く、 「誰も知る筈の無い事を知っているあなたなら、お見通しなのではなくて?」 そのものへの言及を避けるように問いを返す。 「僕にだって、過去の出来事は結果しか知る事ができない」 「知るべきではないわ。そして呪いを止める事もできない」 「知っているよ。何故ならこの街は遥か昔に滅亡しているから」 「何を云っているの? あなたは未来から来たの?」 「逆さ。ヤロスラヴァが――この街が、過去を繰り返しているんだ」 「それはどう――」 ヤロスラヴァがイルファーンの言葉の意味を質そうとした矢先、寝室の扉が叩かれた。 「夜分に失礼致します。何かありましたか?」 「なんでもありません。少し夢観が悪かっただけ」 「畏まりました。失礼致します」 「ありがとうございます」 努めて大声で衛兵を追い返すとヤロスラヴァはほっと息をつく。そして、 「……あなたも、もうお帰り下さい」 美しい闖入者をも柔らかく、今度は声を潜めて追い返そうとする。 「まだ君も僕も大切な事を答えていないよ」 イルファーンも声を沈めて、諭すように食い下がる。だが寵姫は頑なだった。 「…………全ては私の意志と、この街の問題」 「……そう」 イルファーンは寂しげに相槌を打つと、ふわりとバルコニーの手すりへ飛び乗り、ヤロスラヴァを振り向いた。大きな月を背負って。 「今夜はこれで」 無言のまま見詰め返すヤロスラヴァにふっと微笑み返して、 「明日また来るよ。街に夕日が沈む前に」 滅亡する前に――精霊は恭しい礼をすると、舞うように後ろへ倒れ込んだ。 「危ない!」 思わずバルコニーへと駆け寄ったヤロスラヴァは柵の下を見下ろしたが、そこには夜闇に包まれた中庭が広がるばかりだった。 「でさー。あの子達、飲み始めた途端みーんな性格が逆転すんの」 「ははっ、面白え。で、お前さんは引っ繰り返った花に囲まれてよろしくやってきたのかい? 俺はてっきり四人とも宿に連れ込むモンだと決めてかかってたがな」 「無理無理。泣いたり笑ったり怒ったりでそれどころじゃないって。ちゃーんと全員送ってあげたよ。どの子もそれなりにいい家に住んでたからさ、今頃親御さんから大目玉なんじゃない?」 「違えねえ。しかしなんだ、意外と紳士じゃねえか」 「そりゃね。この世でもっとも尊いのは女性! 丁重に扱わないと竜にだってバチが当たるよ。清闇も気をつけなくちゃー」 「バチ当たりな竜ときたか。そりゃ傑作だ」 赤竜と黒竜は人の姿で他愛も無い話に興じていた。今日、街中で出会った人達、彼らが織り成す愉快な日常を、月明かりが差し込むだけの部屋で、酒を酌み交わしながら。 「…………」 「…………」 だが、不意に会話が途切れると、途端に遣り切れぬ想いの所為で口が重くなる。 「…………いい街だ。酒も飯も美味い」 「……うん、可愛い子ばっかりだし。みんな明るくて優しいし」 ふたり、月を見上げてどちらからともなく、盃を合わせる。 「今は亡き、花の都に」 それから暫しの後、ススムくんとイルファーンが揃って宿へ到着した。 「いやー酷い目に遭ったでやんす」 曰く、竜刻が水源付近にあると睨んだススムくんは街中の井戸に手当たり次第飛び込んだのだそうだ。勿論酷い目に遭ったと云うのはその事ではなく、飛び込んだ先に涌いていたのが悉く、 「塩水でやんした。お陰で上がってから乾くにつれてあちこちガタが……」 やがて動けなくなり倒れていたところを、通りかかったイルファーンに助けられた、との事だった。イルファーンの力で纏わりついた塩もあらかた払う事ができたようで、今は動きに支障は無いらしい。残念ながら竜刻や城へ通ずる道は見付からなかったが。 「塩水……塩、ねえ。井戸を塩田にするワケねえしな」 ススムくんの話に清闇のみならず、ニコもイルファーンも怪訝な顔をみせた。 「女の子の肌がさ、とってもすべすべしてたんだよね」 塩に触れた後のように。 「ヤロスラヴァも云っていた」 あなたも塩に――と。 そもそも街の周囲は竜刻の奇跡が発動している現在、淡水湖だった筈だ。だと云うのに、特産品たる塩田の見えぬ街中は、何故こうも塩気が満ちているのか。街と一体化している植物群とて海辺での生息に適したものには見えない。 「ん~……なんだかわっちには、お城に近寄るにつれて塩っ気が濃くなってるように思えるでやんす」 「そう云えば竜刻と塩は太守が管理してるって聞いたけど」 ススムくんの言葉を受けたニコが四人娘から得た情報を告げる。 「湧くってンだから、地中――水源近くか?」 「そして水源は懼らく、城の地下に」 「それだっ!」 清闇とイルファーンの推論に、指を鳴らしてニコが改心の笑みを浮かべた。 「決まりだな。夜が明ける前に正確な場所を割り出しとく」 「僕にも手伝わせてくれないか」 「ああ、助かる。地元の精霊に声掛けてみるから、手を貸してやってくれ」 「わかった」 竜刻の在り処のあたりがつけば、後は話が早い。だが、まだ気になる事もある。予てより「それ」を考えていたニコは、方針を話し合う皆へ切り出した。 「……あのさ。結局”生命の竜刻”の力って、なんなんだろ」 知り得たとて如何様にも出来ぬが、今知り得ねば後悔するような気がして。 「僕は、人々に水を与えるものなんじゃないかって思ってたんだよね。例えば塩水を淡水に変えるとか。だから水源近くにあるのかなってさ。……でも、実際は水源に近づけば近づくほど塩水になっていってるみたいだし」 ニコの疑問に、三人は顔を見合わせる。取り敢えず応えたのは、清闇だ。 「さあな。だが……俺達が今居るここは、どうやって形になってンだろうな」 「あっ」 小さく声をあげる赤竜に、ススムくんもイルファーンも何も答えない。既に承知していたのか、ニコと同時に得心したものかは解らぬが、その胸中は懼らくニコと同じだった。 四人は最後にヤロスラヴァの情報を交換すると、ある者は床に就き、ある者は然るべく備えて、思い思いの夜を過ごした。 翌日未明。太守の城にて。 「おはようございやす、ヤロスラヴァお嬢」 ヤロスラヴァは、何やらおかしな調子の訪問者によって起こされた。あんな言葉遣いの従者は記憶にないのだけれど。寝ぼけまなこに「少し、待ってください」とだけ答え、のろのろと最低限の身支度を整える。すると今度は扉越しに「構いませんよ、ごゆっくり」と昨夜聞いた美声が響くので、いっぺんに目が覚めた。慌てて扉を開けると、そこには城の従者の身なりをした、二人の男が立っていた。その姿は潜入の助力にと清闇が施した魔法によるものだった。 「昨日、あれから考えたのだけれど、やっぱりよくわからなくて。……教えて欲しいの。街がどうなっているのか」 ヤロスラヴァはイルファーンとススムくんを中に通すと、自身はバルコニーへと歩み寄った。精霊は人体模型に目配せし、人体模型は「へい」と一歩前へ進み出る。そして、芝居がかった身振りと調子で全て語った。今に伝わる塩都の伝承、詩人のうたと、今現在滅亡を繰り返し続けている、街の事を。 ヤロスラヴァに驚きは無く、ただひたすら哀しげに、目を伏せていた。 「皆、今日という日を懸命に生きている。始まらず終わらない一日を」 イルファーンは寵姫の隣へと移動し、活気のある城下を一望して、呟いた。 「……こんな残酷な事があろうか」 今日もまた、あの露天商達は客寄せに精を出し、客は各地の珍しい品々を求めて足を運んでいる事だろう。年頃の娘達は二日酔いに苛んでいるかも知れないが、若さを謳歌する元気はそれを凌いで街遊びへと誘うに違いない。職人は夜毎の一杯の為に、或いは家族の為に腕を磨き続けている。誰もが街中で咲く花のように眩しい笑顔を忘れず、旅人にも分け隔てなく接する――永遠に。 「これが本当に君の望み?」 精霊の瞳は寵姫を責めてはいない。いっそ同情の色さえ湛えている。ヤロスラヴァは何も答えず、何事かにじっと耐え忍んでいるようだった。そして、 「昨日」 独り言のように、ぽつりと零した。 「何故呪ったのかと、云っていたわね」 「確かに云った」 イルファーンは身動ぎせず、言葉のみで応える。 「あなたがどこまで気付いているのか知らないけれど、答えはとても単純なの」 「それは」 「この街に本当は希望なんて存在しないから。いいえ、あってはならないから」 この街が――塩でできているから。 「……塩、だよね。どう見ても」 「ああ」 半刻ほど前。城の地下では、やはり従者の格好をした清闇とニコが、水浸しの通路の両側にずらりと並ぶ純白の人形を見ていた。等身大で、ある者は祈るような姿勢で、ある者は驚愕のあまり目を丸くひん剥いて、またある者は――、 「昨日の続きだがな、ニコよ。竜刻の力の半分は多分お前さんの云う通りだ。で、もうひとつの力の正体が――つまりこういう事なんだろうな」 直接そのものに言及しなかったのは、清闇なりの気遣いだろうか。しかし目の前に突きつけられてしまった以上、最早如何にもならなかった。 四人娘のひとりが云うところには――城に行ったら帰って来れない。行方知れずとなったヤロスラヴァの父は、この中に居るのだろうか。それとも既に砕かれ、売りに出されてしまったのだろうか。 見渡せば、真白なのは人だけではない。壁伝いに張り付き、柱に絡む太い蔓や花も、塩で出来た精緻な細工物と化している。そして、それは徐々に外へ外へと広がっているようにも見える。滅亡の兆だった。 言葉を失う同属の肩を、清闇は乱暴に叩いた。 「行くぞ、今は時間がねえ。精霊達の下調べ通り、この先で間違い無さそうだ」 「……うん、そうだね」 ヤロスラヴァが語る”生命の竜刻”の力は、ふたりにとって既に驚きに値するものではなかったが、ただ、痛ましかった。 「私の望みなんて、ひとつもないの。太守様だけ死んだって、同じ事を考える人が必ず現れる。竜刻を失えば、街の人達は生きていけない。皆の暮らしは、城内で塩にされた人達に支えられているわ。誰もそんな事知らない。みんな笑って生きてる。私もそうだった。でも――笑顔は塩でできてるの。誰かの絶望をくべた希望が、真っ白に燃えているのよ」 ヤロスラヴァは、哂っていた。眉根を寄せて、涙を流しながら。イルファーンは、そんな彼女から目を逸らさず、まずは聴き手に甘んじた。如何なる理由があろうとも、何も知らぬ無辜の民を巻き添えにした罪は許されるものではないだろう。だが、 「僕も同じ咎人だ、国一つ滅ぼした。君はまるで僕だ、自責と贖罪の為だけに永劫の刻を生きている。見ていて、辛い」 「…………」 イルファーンには、寵姫の胸中が痛いほど解った。ひとりで罪の何もかもを、背負い込もうとしていた。 「わかりやした」 そこへ、今まで沈黙を保っていたススムくんが、徐に口を開く。 「あなたに何がわかるの……?」 肩を小刻みに震わせながら、ヤロスラヴァは少し責めるように真意を尋ねた。 「へえ。あんまり気の利いた話じゃあありやせんが、お耳汚しご勘弁なすって。……街が同じ一日を繰り返すのは、やっぱりヤロスラヴァお嬢が原因でやんす」 「どういう事だい?」 イルファーンも人体模型の思わぬ推論に興味を示す。近しい事を、彼もまた考えてはいたから、尚更だった。 「お嬢は、本当は町民を巻き込みたくなかったんでやしょ? でも、同時に誰を信じる事もできなかった。人に希望が持ちたくても持てなくて、どっちつかずの気持ちのまま街の在り方を呪ったんでやんす。塩に溶けた竜刻には、この街の全ての記憶がどうやら遺されておりやした。それを繰り返すってえ事はつまり」 「なるほどね。君の言葉を借りるなら、竜刻は最後の使い手であるヤロスラヴァの、『どっちつかずの気持ち』をもその内に留めていて、力の発現に影響を及ぼしていると云う事か……」 「旦那の仰る通りでやんす」 精霊の要約に頷き、人体模型はどこか云い難そうに、少しだけ本音を零した。 「とは云え巻き込まれた民はいい面の皮。ただ……永遠に幸せな時間に揺蕩えるなら、巻き込まれてみたいと思う気持ちも、わっちにはあるでやんす……」 魔力を失えばただの物へと還る――いつかその日が訪れる事を何より畏れるススムくんにとって、永遠の存在で居られる事は何よりの憧れでもあるが故。 ヤロスラヴァは、 「私にはよく解らないけれど……じゃあ……私の、所為なの?」 ひとつ、罪を自覚しようとしていた。 「でも、仮にその通りだとして、どうにもならないでしょう」。 「いや、そう捨てたモンでもねえ」 いつ扉が開いたものか、話し込んでいる間に清闇とニコが入室している。 「悪ィが勝手に邪魔させてもらってるぜ」 清闇は大雑把に非礼を詫び、親指でニコが小脇に抱えているものを示した。木の葉のような形をした、透き通った赤い塊。大きさは人の頭ほどで妙に薄っぺらい――これが、生命の竜刻である。 今度こそあからさまに驚いて言葉を失うヤロスラヴァに、ニコは努めて優しく、諭すように語り掛けた。 「はじめまして、綺麗なお姉さん。これを街の外に持ち出せば、もう同じ悪夢を繰り返し観なくて済むんだよ。お姉さんも、街の人達も」 「ってワケだ。ここはひとつ、俺達の酔狂に付き合っちゃくれねえか」 清闇の気の好い笑みに、ニコもつられたように微笑む。 「何でも云ってくれていいんだよ。我慢しなくていいから。お父さんの事は勿論、自分の事だってそう。僕らが叶えてあげる」 あと数時間で滅びのときを迎える、この街で。彼らはまるで憐れな娘の元へ舞い降りた天の御遣い。事実、人と呼べる存在はひとりとして居ないのだけれど。 「あなた達、一体――」 突然の申し出、それも全てを飲み込んだ上で尚も良くしてくれる者達に、どう接して良いのか解らなくて。ヤロスラヴァは半ば呆けていた。 「僕達は断罪に来たんじゃない……君とこの街の人々を救いに来たんだんだ」 そんな彼女へ、イルファーンは小鳥であった時のように、囀った。 また斜陽が白光の花都を染める中、太守の城の上空を、真っ赤な竜が飛んでいた。その背に三人の旅人を乗せて、時に留まり、時に翔けては眼下の景色を焼き付けるように眺めている。 「そろそろか」 背中で同属が語散た。精霊も人体模型も、赤竜も、承知していた。 寵姫の望みは、ふたつ。竜刻を人の手の届かぬところへ封じる事。そして、街の最後を四人が看取る事だ。前者は世界図書館が、後者は旅人達が当初から目的としていた事そのもの。もっと他にないのかと訊ねても、美しい娘は決して首を縦に振らなかった。本当にそれが心の底からの、希望なのだろう。 ニコは、そんな彼女が哀しくて仕方なかった。だから、少しでも間近で滅亡に立ち会う事を口実に、自ら竜化して仲間を乗せると申し出た。ヤロスラヴァやあの四人娘、賑やかな街の人々が果てる様を目にして、涙を堪える自信が無かったから。泣き顔を仲間に見せるのが、嫌だったから。 固い雪に亀裂が走るのと似た、くぐもっていながら力強い音が、街の方々から空に放たれる。世界司書が語っていた塩の旋風は起きず、代わりに低いところから凍結と同じ流れでじわりじわりと道が、建物が、花が、人が、一様に白く染まり往く。遥か地上のどれが誰なのかなど瞬く間に判別がつかなくなる。 城のバルコニーでは絶世の美女が祈りの手を組み、安らかな面でこちらを見ている。既にその足元は白く、次第に腰へ胸へと侵食していく。そうして首筋まで達した時――彼女は笑顔で瞳を閉じた。この世の誰よりも、如何なる幸福を享受する者も決して為しえない、希望に満ち溢れた、優しい笑顔。白く、なった。 精霊は、そんな彼女に、人々に、街に歌を捧げた。美声が巷に染み渡る中、清闇は深い祈りを捧げ、ずっと押し黙っていた。彼の者達の魂が鎮まり、やがて正しく巡る事を、共に願って。 いつまでも、いつまでも。
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