イラスト/エムゴレニズム(iczn4126)
連なる山々を見通せるのは、ここが地上数十メートルという高所だからだ。 女の笑声に似た音階が吹きすさぶ、ヴォロス辺境の山岳地帯。叩きつけるように吹き降ろしていた風は、次の瞬間には横殴りのそれに変化し、ヌマブチの身体が不安定に揺らぐ。だがそれも一瞬のこと、胴に食い込む猛禽の爪の主がその込める力を増し、すぐに元通りの平衡が取り戻される。 「痛いか」 頭上からもたらされる玖郎の声は、それほど大きい訳でもないのに、強風の中にあってもよく通った。視界をかすめる赤銅色の羽に、それも道理かと思い直す。空を駆ける天狗にとって、きっと風は配下に等しい。 「問題ないであります」 とは答えたものの、獲物を運ぶような体制と食い込む鉤爪に、動悸が高まらないかと言ったら嘘になる。戦略上妥当であると理性は判じるが、本能的な部分は別だ。 「……このまま獲物としてくれるなよ?」 玖郎が人を食ったという話は聞いたことがないが、ただ語らないだけという可能性も捨てきれない。だがいっそいとけないとでも言い切れる仕草でかくりと首をかしげる様子からは、人食い妖怪の風格は感じられず、ヌマブチは安堵のため息を吐いた。 「おまえは、筋っぽくてかたい。肉もすくなそうだ、食べたいとは思わない」 返って来た言葉は朴訥そのものの響きだった。しかしヌマブチの脳は瞬時にその対偶をはじき出す。世界一聞きたくない質問だった。頭を振って、再び前に顔を向ける。 月光は遠く、闇は重い。鋭く切り取られた星空のおかげで山の存在は感じられるが、それ以外に視界にとらえられるのはただ一つ、光り輝く異形の鳥どもだけだった。 ……――きゃあ、きゃあ――…… 異形の鳥の鳴き声は、童女の笑い声に似ていた。しかしその顔とさらけ出された上半身は、成熟した女のそれである。両腕と腰から下は鳥に変じていた。その脚に捉えられた小さな小さなシルエットは、飛び立った直後は激しく手足をばたつかせていたのだが、今はぐったりと大人しい。理由は既に知っている。 ……――きゃあ、きゃあ――…… 鳥どもが笑う。異形の歌を朗々と響かせる。一匹の鳥が、歌と共に足に掴んだそれを放る。別の一匹が旋回、それを捉えて急上昇。更にもう一匹も獲物を狙おうととびかかる。きゃあきゃあ、きゃあきゃあ、笑いながら獲物を投げ合う異形の鳥の間から、何か棒のようなものが森の闇へと落ちていく。これで三本目だから、すでに息はあるまい。 ヌマブチの脳裏で、昼間出会った農婦が絶望の叫びを迸らせた。 今回、ヌマブチと玖郎に与えられたのは、竜刻の回収任務だった。 ――山の絶壁のどこかにはあるはずだが、詳しい場所までは見えなくてなぁ。といっても目印がないわけじゃねぇ。その竜刻のすぐ隣りに鳥の巣があったんだが、ああ、ご想像通りだよ。影響を受けた。変異してやがる。お前らと同じくれぇに膨れた、いかれ鳥になっちまったよ。一番初めに影響を受けた親鳥が産んだ卵からも、同じようなものが孵ってやがる。既に被害は出てる。近くの村の奴らが何人か攫われちまってらぁな。さっさと退治してもらわねぇと余計な犠牲が増えそうだぜぇ? 鳥どもは全部、殺せ。放っておけば際限なく増えかねねぇからな――。 ノイズごと吐き出された言葉はしかし、逼迫した響きを帯びていたから、ヌマブチは依頼を受けることを決めた。隣に佇む玖郎も短く応じる意思を示し、指定された山麓の村に着いたのは昼を過ぎた頃だった。 「そういえば、村の様子が何だか以前と少しばかり違っているように思うのでありますが、何かあったのであります?」 補給に立ち寄った旅人と言う体で、ヌマブチは畑を耕していた農婦たちに話しかけ、情報を拾っていく。玖郎はこの場にはいない。彼とは村に入る前に別れた。彼には村の周囲の森の探索を頼んでいる。 理由は二つ。第一に、村人から話を聞き出すならば、ヌマブチ一人で十分だ。大の男二人に詰め寄られる威圧感に、口を噤まれるとも限らない。二手に分かれてはとも思ったが後述の理由で不可だ。ならば玖郎にはその機動力を生かして、ヌマブチの脚では何時間もかかるような場所に一っ飛びしてもらい、戦略立案の手掛かりになる情報を集めてきて貰う方が効率が良い。 もう一つの理由は、そもそも、玖郎という男はこういうことに不向きだった。 対話や相談、複雑に情の絡む話は尚のこと。あの素朴な猛禽の青年の性情は、人間の視点からすればどこかずれている。長く戦場に身を置き続けていたヌマブチにもそういう部分はないでもないが、たとえばヌマブチの場合、それは欠けた歯車として表すことができる。ずっと昔には感じていた、辛く湿っぽく、重たい感情のうねりは、今や遠い過去の遺物でしかない。それでも一度は、確かに存在していたのだ。 だが玖郎という生物には、その歯車は最初から存在していない。彼の思想は人間より、ずっと単純にできているとヌマブチは思う。だから彼は時折、奇怪なものを見る目で(もっとも玖郎の眼元は常に鉢金に覆われているので、実際にそうかはわからない、雰囲気の話だ)微かに首を傾けるのだ。情が薄いとか厚いとかそういう話ではなく、鳥が空を飛ぶように、魚が水を泳ぐように、玖郎はそういう生物だった。 ヌマブチの言葉に、農婦の顔はあからさまに強張る。きつく噛みしめられた唇に、ひびが入った。ヌマブチの肩越しに視線が抜ける。振り返ると、子供たちが追いかけっこに興じていた。 「……最近、子供たちばかりが何人も消えているんです……お隣のヒュムという男の子も、今日の夜に……」 「闇にまぎれての犯行でありますか。人さらいではないのでありますか?」 「いいえ、いいえ!! 村中総出で山狩りをしたけれど、ここの人以外が立ち入った様子は何もなかったわ。それに子供を一人か二人だけ攫うのを何晩も繰り返すなんておかしいでしょう?」 「まこと奇怪でありますな」 表面上は悲愴を込めて、内心にはこれは竜刻の化物の仕業だろうかと手に入れた情報を吟味する。夜にだけ現れるなら、ヌマブチらも夜を待って行動するのが良いだろう。巣まで案内させてから殲滅、いや、その前に玖郎の入手した情報とすり合せて……神妙な顔で農婦に別れを告げたヌマブチは、連絡をつけるべくトラベラーズノートをめくり、眉を顰める。 そこには玖郎による周辺の報告と、一つの疑問文が添えられていた。 玖郎は考えていた。 山までの距離と大まかな地形、それに周辺の地図をノートに書き込む手は休めず、意識は全く別のことを考えていた。 ――テンシとは、何だ。 「いちばん高くなった月にね、おいのりすればいいの。『てんしさま、どうかわたしをつれていってください』って。そうしたらね、てんしさまがあらわれて、ゆめみたいにすてきなお国につれていってくれるのよ」 「じゃあ、じゃあ、ヒュムもナットーもみんな、ゆめの国に行ったの?」 「もちろん、そうよ」 「うそだあ。あれはひとさらいがつれてっちゃったんだってママ行ってたぞー!」 「うそじゃないもん! あたしみたもん、ヒュムのお部屋のそとに、きれーなおかおのてんしさま、来てたもん!」 「だったらしょーこみせろよ、しょーこ!」 「ヒュムもナットーも、ほかのみんなも、帰ってきたらすぐにおしえてくれるよ。いいところだったって」 「そんなことあるもんか! あいつらはさらわれたんだ! おめえはうそつきだ、うそつき!」 「ひどいこと! あたしうそつきじゃないわ!」 「うそつきうそつきうそつき! だったらお前もいっちまえ! ひとさらいにつれてかれちまえ!」 「てんしさまをばかにしないで!」 からかうおのこにしびれを切らし、女童は枝を取り上げるとそれを振り回しておのこを追いかける。そのまま童らは鬼ごっこを始めてしまい、玖郎の止まる大木になど目もくれずに走り去っていく。 「…………」 書き終えたノートの隙間へ、むりやり言葉をねじ込む。 『テンシとは何だ』 送信の完了を待ってノートを懐にしまい込む。あとはここでヌマブチを待てばよい。上げていた鉢金を戻して、ごろりと枝に寝そべる。青葉が羽を撫でる感覚が気持ちよかった。 テンシとは。 美人で。夢のような国に連れて行ってくれて。窓の外におり。ひゅむと納豆もそこにいる。 よく、わからない。何度もつぶやいていると、コンダクターの知り合いがいつだったかそんな言葉を口にしていたような気もしてきたが、記憶は茫洋と不確かだ。 しばらく静かな時が過ぎ、やがて嗅ぎなれた匂いが近づいてくる。枝から飛び降りれば、やはりヌマブチはそこにいた。 「どうだった」 「必要なことは訊きだせたであります。玖郎殿もご苦労でありました。ところで、この天使とは一体何でありますか?」 「童らが話していた」 玖郎が見聞きしたことをそのまま伝えると、ヌマブチはああ、やはりと何度か頷いた。 「天使とは、翼の生えた人間であります」 「天狗ではないのか」 「天狗ではないでありますな。某も詳しい訳でないゆえ、この程度でご勘弁願いたい。本来は神の使いらしいが、今回はそんな上等のものではないのでありましょう。おそらくは、竜刻の影響を受け、子供ばかりさらい続ける化け物鳥」 「ならば食用だな。体格と非力さゆえ獲物には最適だろう」 言い争う童べらを思い出す。玖郎ほどの体躯があれば一、二人攫うのは簡単に過ぎた。知らず爪が引っ掻くように小さく動く。 「夜を待って現れた鳥らを追いかけ、竜刻を確認次第殲滅が最適でありましょう。玖郎殿、某を一緒に連れて飛ぶことは可能でありますか?」 頭からつま先までヌマブチを検分し、玖郎は顎を引く。 「大事ない」 ところで玖郎にとって運ぶという行為は、狩りの獲物の運搬へ直結していた。野を駆ける動物らを狩るには手よりも長い脚が便利だったし、力も腕より強い。いつ敵が襲ってくるかわからない中、両腕がふさがっているのも危険に過ぎる。つまり玖郎にとって何かを運ぶ=脚という図式に他ならないのだが、生憎ヌマブチは天狗ではなかったので、そんな図式は持ち合わせていなかった。 数時間後、村はずれの大木の枝から、中年男の野太い悲鳴がとどろいた。 「あそこか」 玖郎の声が、記憶に沈んでいたヌマブチの意識を浮上させる。星を押しのけ、山脈は目の前に迫っていた。その絶壁の一つところへ、異形の鳥どもが集まっている。 「ようやくでありますか」 巣の場所さえわかればもう鳥らを生かしておく理由はない。身体を捻って銃を構え、ヌマブチは迷いなく引き金を引いた。群れる光を狙ったはずだが、弾は吹き荒れる風に流されて絶壁に小さな穴を穿っただけだ。鳥どもが音に反応してぱっと飛び立つ。 轟雷。 天から幾本の雷が飛翔し、鳥どもを串刺しにする。玖郎の掌の周囲でも、パチパチと光花がはじけていた。一体の鳥が硬直したまま落下、残った数体が瞬時に身をひるがえし、二人へと殺到する。 「敵は五体! 内一体は撃沈を確認! 来るぞ!」 「ああ」 真っ向から突っ込んできた一羽のへ玖郎の腕が振られ、雷を纏った爪が容赦なく肉を切り裂く。蛋白質の焦げる臭い。おののく異形の鳥の羽に玖郎の手がかかる。関節部分に肘が乗せられ、次の瞬間雷速の膝が蹴りあがる。響き渡る絶叫。真っ二つに羽をへし折られ、異形の鳥が錐もみしながら闇へと落ちた。 背後から襲いかかってくる一体へヌマブチが発砲。弾丸は空気を焼いて虚空に消失。休む間もなくもう一体。脇腹を掠めたが浅い! 異形の鳥は夜光塗料のように光る血を白い羽にへばりつかせて、再びこちらへと突進を開始。続けざまに二発、三発と鉛玉を打ち込んでいく。鳥は身をくねらせてそれを避け、あるいは避けるまでもないところへ弾は飛んでいく。 玖郎のギアから雷が飛ぶが、明らかに最初より威力が低い。鳥はきゃあと叫んで二人から離れたものの、ぐるぐると旋回しはじめた。隙あらばいつでも狙う心胆が透けて見える。 「ちっ……」 不安定な体制、瞬時に向きを変える風、そしてこの空間に最適化された肉体を持つ多勢。悪条件に悪条件が重なって状況は階乗式に最悪へ近づく。加えて玖郎の体力もあった。ここまで人一人を抱えて飛んできたのだ、たとえ口には出さないにしろその疲労はヌマブチとは比べ物にならないはずだ。 「……玖郎殿、奴らの巣まで某を運べるか!?」 「ああ」 足場が悪いなら安定させる。ヌマブチが枷になっているならどく。風と多勢はどうにもならないが、できることだけでもやらないよりマシだ。 玖郎が翼をはためかせ、方向転換する瞬間だった。 「――ッ!」 下方より、大咢が接近していた。がぱりと開かれた口腔は、鋸に似た歯に隙間なく覆われている。尾羽の向こうに隠れていたか!? 寒気を振り払うように銃剣を突き出す。しかしそれは届くことなく、むしろ後退していた。腰をぐっと引き寄せられるのと同時、玖郎の脚が異形の鳥の顔面を蹴りつけ、血しぶきがはじける。 「大事ないか」 声はさっきより間近から聞こえてきた。玖郎の顔が近く、身体の右側がほのかに暖かい。 小脇に抱え込まれたのだと気づいた途端、ヌマブチの内心が音を立てて軋んだ。 「……こ、んな体制で、大丈夫でありますか? 重たくは?」 「ああ。小柄で助かる」 「……………………そりゃ、結構」 玖郎の口調に揶揄する色は一切なかったが、それでもヌマブチは少しだけ心の中で涙を流した。実際は容赦なく腹を締め上げる腕のせいで出るとしても反吐だけだったが。 「投げるぞ」 言葉と同時に、ヌマブチの身体が宙を舞う。獣くさい、蒸れた空気に飛び込んだ。 肩、背中、腰と順番に転げて衝撃を殺す。空気のような柔らかさの下で、パキパキと小枝のへし折れるような音がした。木製の巣なのかもしれない。即座に膝立ちの体制を取り反転、片手を添えて銃剣を突き出す。 背中をさらした愚かな獲物を一飲みにせんと、開かれた異形の鳥の口腔へ、剣は吸い込まれていく。飛ぶ勢いがそのまま己に返ってきた鳥のことを、滑稽だと思った。固い手触りがあって、銃剣の侵入はそれ以上不可能になる。異形の鳥はとっくに絶命していた。光り輝く血液が口からあふれていた。その死体を巣から蹴り落そうとして、ふとヌマブチは動きを止める。その横顔には思案の色が浮かんでいた。 「はああっ」 短く息を吐き、玖郎は手を打ち下ろす。鞭のようにしなった鉤爪は鳥のが鳥の肌を削り、羽を吹き飛ばし、肉をこそげとる。はらわたの零れ落ちる腹を蹴りつけると、光の軌跡を描いて死体は気配は森へと落下した。 「…………」 五感を総動員して、気配を探る。詰めていた息を吐いた。まぶしい気配はもういない。これで依頼の半分は完了といったところだろう。残るは肝心の竜刻だが、これはすでにヌマブチが動いているようだ。 「それはやつらの血か」 ヌマブチの手を濡らしているのは、夜を押し返さんばかりに輝く鳥らの血だった。巣の周囲の絶壁に、叩きつける要領で塗り込められていく。 「こうも暗いと竜刻を探すのも一苦労でありますからな。探し終えた目印にもなる」 「手伝うか」 「しばらくは某一人でやってみるであります。それより玖郎殿は少し休まれてはいかがでありますか?」 岩をくりぬいて作られた巣は、奥に行くほど細まってはいたが、人ひとりの大きさの鳥が住んでいただけあって十分に広い。疲れていたのも事実なので、玖郎は礼を言って羽をたたむ。 巣の中にはやつらの抜け毛だろう、ほのかに光る白い毛が一面に敷かれていた。だが一面が白というわけではなく、丸いのや長いの、短いのや平たいの、色々な形の骨が転がっていて、そこだけが暗く沈んでいる。 「やはりか」 「……? 玖郎殿、何か仰ったでありますか?」 「いや」 羽の上に尻を落とし、片膝を抱えた姿勢をとる。 かつて己が腕に抱いたやや子も、骨で遊ぶのが好きだった。 食い終わった獲物の、肉の一遍も残っていない骨にいつまでもかじりついていた。それを妻に見つかり、取り上げられると火のついたように泣き出した。この子はよき狩人になるだろうと、思っていた。 口を開いた玖郎へしかし、ヌマブチが竜刻の発見を告げる。 玖郎は一言、「そうか」と言って頷いた。
このライターへメールを送る