白磁の髪に、紅い瞳。 双方ともそれぞれに特徴的な民族衣装。 ハロ・ミディオとイルファーンが司書アインに呼び出されたのは少し前のことだった。「お二人を見込んで、お願いしたい依頼があります」 そう言ってアインが渡したのはヴォロス行きの、2枚のチケットだった。「グラディアーラ」 端的に放たれたのは聞き慣れぬ単語。「ヴォロスのとある地域。その土地の言語で、『地に眠る天の恵み』というそうです」 その地には精霊が宿っていたのだと、アインは言う。 それが真実「精霊」としてイメージされるような存在であるかは定かではない。 だが高い高い山脈の上に形づくられたその空中都市を形成するのに欠かせない、絶対の存在であるのは確かだった。 天を突くかのような峻厳な山脈の一角、雪に覆われる地域でありながら、その山々に囲まれて形成されたいくつかの盆地にある都市の一つ――それがグラディアーラだった。 近郊の同様の都市からも信仰されるその土地は、しかし今、人々が初めて経験する厳冬の気配に包まれているという。「常春だったはずの地域が、ある日を境に猛吹雪に襲われ、地からあふれていた雪解け水は氷付き、彼らにはわずかばかりの食糧と薪が残されたのみ」「それは――大層困っていることだろうね」 痛ましげに眉根を寄せるイルファーンに、アインはひとつ頷いた。「困ってしまった挙句、現地の人々は巫女を担ぎ出しました」 その巫女は二十歳になるかならぬかという娘。 人々はただ古くからの伝承と血統により巫女に祭り上げられていただけの少女に対し、この異常な気象をどうにかしろ、と詰め寄った。 彼らは強く信じていたのだ。その地域において確かに存在していた絶対の存在。天空の守護者。常春の精霊。 巫女である少女の家系は、その精霊と唯一意思疎通を図ることのできる血統であるとされていた。 故に歴代のその土地の統治者の支配からも一線を画され、不可侵の存在としてそこにあり続けていたのだ。 だからこそ、人々は言う。 「これまで何もせずにお前たちが生きていられたのはこういう時のためである」と。「その山を覆う厳冬は、自然のものではありません」 ひと通りの状況説明をした後、アインはそう言って二人を見た。「どういうこと? 精霊さんがおへそをまげちゃったから、そうなったんだよね?」 幼い少女が、彼女には重そうに見える牛の頭蓋骨ごと、首をかしげてみせた。 アインは横に、その首を振る。「猛吹雪こそが、外界からその地域を守るために精霊が織り成していたもの」「それが、何故か暴走し本来守るべきはずの都市群を危機に陥れている」「ですのでお二人にお願いしたいのです。その原因をつきとめ、彼の地の危機を救っていただけますか?」 語られる依頼に、二人はこくりと頷いた。「ちなみにですが」 そう言ってアインは手の内の預言書に視線を落とす。「精霊の巫女たる少女は、今彼女にできる唯一のこと――精霊へ祈りを捧げることを、その身を賭して行なっています。けれど、それでは足りないのです。いいえ、むしろ危うい」 アインは言う。 少女の中に眠る血統こそが、その地の崩壊をぎりぎりで押し留めているのだと。 その地に眠る、巨大な竜刻の暴走を沈めているのだと。 仮初の意思を持ち、周囲の気候すらも変えるその竜刻こそが件の精霊の正体であり、その力の発現したそもそものきっかけも、巫女の祖先に由来するらしい、と。「何故今、精霊――あえてこう呼びますが、それが暴走を始めたのかは、預言書には現れていません。ただ一度始まってしまった暴走は容易には止まることがないでしょう。ですので、このタグをお渡しします」 そう言ってアインは、封印のタグを差し出した。「これがあれば、竜刻の暴走そのものは収まるでしょう――精霊と呼ばれる仮初の意思も消えてしまうかもしれませんが」 ですので、とアインは言った。「これをいつ使うか、あるいは使わないかはお二人にお任せします。彼の地の竜刻の暴走をとめてください」 よろしくお願いします、と言い、アインは深々と頭を下げてみせた。‡『もう祈るな』 凍てつく吹雪により積もった雪によって封じられた神殿。 その冷え込む床に膝をつき、一心に祈り続ける巫女へと精霊は語りかける。「いいえ、やめるわけにはまいりません――グウェン、貴方ならきっと」 だからどうか、と少女は祈った。 その巫女の姿を眺め、精霊――おおよそ人としか思えぬ見目、朱金の髪、緑翠の瞳、こげ茶色の肌をした青年が、呆れたとばかりに肩をすくめてみせる。『もはや私ではどうにもならぬ、そう言っているだろう』 淡々と、だが内実ではいらだちを抑えられぬ思いがにじみでているかのようなその声。『人は忘れるものだ――太陽に慣れたものは太陽を疎み、月よ輝けと我儘を言う。万年の平穏は、人を腐らせるには十分だった――それだけのことだろう?』「それでも、これが私の役目ですから」『貴様を穢した輩を救うためか』「そうでなきものも大勢おります」 淡々と応える巫女の口調には、それまでと異なる何かを堪える様子が滲む。「私には、貴方のために祈ることしかできないから」 嘆息した精霊は、「勝手にしろ」と一言だけ捨て置き、姿を消した。「勝手にします」 空色の瞳持つ、黒髪の巫女姫。厳粛に扱われ、庇護されるべきはずの、姫。 巫女は閉じた瞼の裏で、ただただ祈る。 生まれ落ちた時より今にいたるまで己を見守り続けていた精霊の怒りがきえることを。 己の身を、この都市を、この地域を守るためではない。 彼がこの地の人々に恨まれるのが、あまりにも辛いから――そして、待ち受ける未来の果てに、彼がこの世から消えてしまうのが、最も厭だったから。「グウェン――」 それは男の名乗った名。 その地に伝わる神話の名。 偉大なる竜の力を制し、この地に住まう人々を、他地域から侵攻してきた者から守り通した英雄の名。 だが、彼女にとってそんな事は関係ない。 幼い頃から側にいて守ってくれた、唯一無二の存在の名。 だから、万感を込めて彼女は祈る。 彼が、この地を滅ぼす厄災の主になりませんように、と――祈りの相手は誰でもよかった。 どこかにいる神でも、死んだ後も彼を囚えて離さぬこの地の竜刻でも。「グウェン――」 巫女姫の声が、虚ろな神殿の静寂に、ゆったりと染み渡っていく。 大地の奥底。 山脈の内部に埋もれる巨大な竜刻が、ゆっくりと鳴動する。 不凍の地底湖に沈んだその竜刻を前にし、グウィンは嘆息した。 その暴走を止めるのは容易――きっかけは彼ではなかったから。 だがそれをしてしまえば、己は消えるだろう。 そしてそのための手段がもたらす結果は――。「だが、いずれも同じなら……」 決断すべき時は、すぐ近くまで迫っていた。「ルキア――」 小さく囁かれた娘の名前が洞窟内に、谺した。
天空都市グラディアーラ。 共に歩むうちの片方はすらりとした肢体を緩やかな衣に包み込み、雪花の白を纏う娘。 今一人は、その娘の腰ほどの背丈で一生懸命に歩く、小さな子供。白銀の髪が複雑な文様の服装に映えている。 頭上には牛の骨を載せているところが珍妙といえばそうであるが、笑顔を浮かべながら娘に手を引かれている姿は、まるで姉妹のよう。 そんな二人が訪ねて回った住民らの口調は重く、何軒めかに訪ねた宿屋の主人がイルファーラらに話した内容も、その他の場所で出会った面々から聞いた話と大差がなかった。 かつて旅人を防ぐほどではない寒冷の地帯が街から二日ほどの距離から始まっていたこと、敵が来た折にはその勢いを増し街へ至る道を塞ぐこと。誰も、暖かい気候への疑問はもたない。 このような高山にあって、雪に覆われない奇跡。 それが当たり前と感じる程に長い間、この都市はその幸運を享受していたのだろう。 「ハロ・ミディオは、どう思う?」 椀を受け取って隅のテーブルへ移動したイルファーラが、大人しく待っていた童女に問いかける。 「ハロはねぇ、もふもふの司書さんが言ってたおねえちゃんのことを誰も言わないの、フシギかなー」 渡された椀から香り立つ匂いに嬉しそうに顔をほころばせつつ、応えるハロ。 イルファーラもまた、それをみて料理に口をつける。 「確かにそうね――まるで、皆触れられるのを恐れているような、そんな気配がするわ」 「でもハロ、なんとなくわかるよ」 何がかしら、そう目で問いかける娘に、ハロはずりおちそうになった牛の骨をその稚い手で直しながら、完爾と笑った。 「ここにいる精霊さん、怒ってない。むしろ、悲しんでる感じ。きっと優しい人なんじゃないかな? だから、きっとお話したらいろいろ教えてくれるとおもうの」 一瞬目を瞬かせたイルファーラが、ふわりと口元を緩めた。まだ見ぬ人でなき存在へ親近感を抱く少女の、その欄間な心根に自然と浮かんだ笑みだった。 「そうね、ハロ・ミディオ。これ以上街の人々に聞いても得るものはないかもしれない――なら」 神殿へと急ごうか、そういいかけた彼女が、不意に入り口へと視線を投げた。 同時に勢いよく叩かれる扉の音。 応対する主人と、何事か騒がしく話す窓の外の騎士。 「……流石に露骨に調べ回りすぎたということかしら?」 「逃げたほうがいいかなー?」 食べられるものは食べるの、と言わんばかりに椀の中身をかき込みながら話すハロ。そんな少女に宿屋の裏口を示して、イルファーラが笑う。 「私がおとりになりましょう。ハロ・ミディオは、一度裏口から逃げるといいわ。大丈夫、怪しく動き回らなければ外套が守ってくれるはずだから。後で神殿で会いましょう」 「うん、じゃあまた後でね、おにいちゃん――じゃなくて、おねえちゃん」 互いに相手がどうにかなることなど微塵も疑う様子がなく、阿吽の呼吸で打ち合わせをすませ二人は席を立つ。 主人が騎士らしき人物を招き入れたのは、ちょうどその時の事だった。 ‡ 「見慣れない者があれこれと詮索してると聞いてつれてこさせたが――これはまた美しい娘だな」 囚われたイルファーン――イルファーラの頤を指であげ舐めるように見てくる男の名はロウ=フォン。 この街を統べる一族の長を務める者だった。 「この街の長であるというなら、ちょうどよかったわ」 す、と身を引きその手から逃れながら、イルファーラはロウの目をしかと見据え、問いかける。 「ある日を境に暴風雪が逆転したと聞きました――おそらく、その日に何かあったはず。何か知らないかしら?」 何を、という表情だった男が、おもしろい物を見たとでも言うように笑みを浮かべる。 「何を聞いて回ってるかと想えば、そんな事か」 「大事なことだわ。原因を探らなければ、解決などできはしないのですもの」 淡々と述べるイルファーラを、おもしろそうに眺めるロウ。 「お前が何者で、何故この事態をどうにかしようとしているかはわからんが……問題はない――失敗したら生け贄にしてくれると言ってあるからな。今頃必死で祈っていることだろうよ」 「それは、精霊の巫女のことを、言ってるのかしら?」 「そうだとしたら?」 男は一歩足を踏み出し、イルファーラの肩に手をかけようとする。 「元々この都市は精霊の恩寵に浴して栄えていたのでしょう? 本来人は、精霊に依存せずとも己の力で生きていけるはず。高山にありながら常春を享受するこの都市の在り方こそが異質だったのではないかしら。風雪が自然のさだめならそれと共存するか、でなければ別天地をさがすしかない――それなのに、ロウ=フォン、あなたは巫女一人にすべてを背負わせるのか」 腰まであったはずの髪が、淡雪のように溶けていく。 玲瓏とした声が、詰問の口調で問いかけた。 「その為だけの娘だ――そのためですらなかった娘だ。貴様、何者だ」 問われたその時、既にイルファーラはそこにいない。 「僕はイルファーン――人を愛し人に寄り添い人と在るもの。この地の精霊に異変があったと聞いて訪なった者。なんとなく、わかった気がするよ。これ以上ここにいる意味はないようだね――失礼させてもらう」 瞬間、罵倒の言葉と共にロウの腰に下げられていた刃が抜き放たれ、イルファーンの残影を切り裂いた。 それだけだった。 ‡ そっと裏口を出たハロが。背後で騒ぐ男の声を扉の向こう側に感じつつ、小さな足で走り出す――途端、誰かにぶつかった。 「ふきゃっ」 「はわっ」 二人ともが、尻をついたものの、体重の軽さの分ハロの方が大きくはじき飛ばされる。 「大丈夫?」 自身が幼い子を蹴り飛ばしたと想ったせいだろう。素早く起き上がった少女が焦ったように問いかけた。 「ハロ大丈夫だよ」 にこっと笑みを返して起き上がる、幼子。その笑みに安心したかのように少女――イリーナもまた、微笑んだ。 「よかった――トラブル?」 「よくわかんないの。でも怖いから逃げようかなって」 立ち上がり、裾をはらってギアをかぶり直すハロと、扉の向こう側の喧噪の気配を交互に見て、少女は再び手を差伸べた。 「あの人達嫌いなんだ。助けてあげる。こっちよ」 「ねぇお姉ちゃん、よければ教えてほしいな」 ハロの行方を追ってきた主人を適当にごまかしたイリーナに、飼葉の山に投げ込まれていたハロは、顔だけをぴょこんと出して問いかけた。 「この村にいるのは良い神様? それとも悪い神様?」 「神様? あなたたち、ひょっとして精霊様のことを聞きたかったの?」 宿屋の主人に天候の変化した時のことについ問いかけていたことを覚えていたのだろう。 しゃがみ込んだ少女が逆に問うてくる。 「そうなの。ハロ達この土地に起きていることをとめたいと想ってきたの。お姉ちゃん何かしってるの?」 しばし逡巡するかのように迷うイリーナ。 「良い神様、だと想うわ――言い伝えでは、私達を守ってくれる精霊様だったと、伝えられているもの」 「そうなんだ? でも今みんな困ってるんだよね? 困った時に皆は神様に何をしたの?」 「何も」 きっぱりと言い切られ、ハロは小さく首を傾げる。 「じゃあもし、神様を追い出して解決できるなら追い出すの?」 「それは――」 「ハロ達、追い出すこともできるよ。でもしたくないの」 困惑しうつむいていたイリーナが、弾かれたように顔をあげる。その強い視線を受けてもたじろがぬ幼子に、イリーナは何かを決意する。 「教えてあげる。精霊様の伝承。ルキアのこと、ロウが何をしたのかを。だから、お願い」 あの子を、逃がして。 ‡ 静謐そのものの空間は建屋の奥深く。外気こそ入ってはこないものの、冷え切った空気が床へ津々と降り積もる。 そこは祈りの泉。 地底より溢れでる泉だが、冷水であることに代わりはない。その中に浸り、一心に祈りを捧げる巫女の姿がある。 既に十日程前になるやりとりの後は、誰も訪ねてくることはなく、声がすることもない。 その中で彼女は一切の寝食をとらず、時折御祓の為の休息をとる以外はただ祈り続けていた。 その空間に、しばらくぶりの気配が顕われた。 はっとして顔をあげた娘の眼前にいたのは待ち望んだ存在ではない。 だが、それと同種の存在であるように思えた。だから、静かに頭を垂れて出迎える。 「顔を上げてほしい」 水面に膝をついて巫女を見上げたイルファーンが、静かに語りかける。 「僕はイルファーン。人と共に在る者」 ゆっくりと頭を上げた巫女の目に浮かぶのは、畏敬と疑問。 何故そのような存在がここへ来たのか、そう問いかける彼女の目線に一つ頷いて、彼は応えた。 「この地の異変を感じて。街の民や、ロウ=フィンにも話を聞いてきたところだよ」 敢えての名。明らかな反応こそなかったものの、僅かに震えた瞼が全てを物語っているかのようだった。 「間違っていたらすまない。おそらく、ロウ=フィンの所行に彼の精霊は怒ったのでは……?」 きっと、愛する人が穢されれば、自分も同じ事をするだろう。 自分もまた特別を選んでしまったから。 もし愛すべき人によって、その「特別」が傷つけられてしまったら。己もまた、己の半身と同じ事をするのではないだろうか。 (かつての僕ならば、街の民達をまず第一に救いたいと、救うべきだと思ったろう) でも僕は、君と彼が運命に殉じて滅びるのを見過ごす方が辛い。彼女と出会う前なら……でも今は、違ってしまった。 (今の僕は無謬の天秤じゃない。私情で動く『人』だ) だからこそ、と思う。 もし自分が件の精霊の立場なら。非情でもいい。当の彼女に冷酷だと蔑まれてもいい。きっと、傷つけた者を許すことはできないのではないか。 「いいえ」 己で発した問いに囚われそうになったイルファーンを、巫女の託宣が引き上げる。 「あの方は、民を愛してくださっています――だから、私はこうして祈ることができるのです」 イルファーン様、と巫女は言う。 「グウェンは、私の祈りを拒み、異なる場所へ消えてしまった。もし貴方様が彼と同様の存在でしたら」 どうか、彼を。そう願う巫女の言葉に、イルファーンはただ頷くのみだった。 その時、今一人の侵入者が巫女の向こう側から声を掛けてくる。 「お待たせおにいちゃん。どこかいくなら、ハロもついてくよ!」 小さな体躯で小走りにこちらへ駆けてきながらそう言うハロ。だが不意に立ち止まり、泉の中に身を浸す巫女へと声をかけた。 「おねえちゃん。皆がおねえちゃんにお願いしたのは、この天気をどうにかすることだよね? でも、おねえちゃんが守りたいのはだれ?」 下から見上げてくる幼子の純粋な視線に晒されて、巫女の瞳に逡巡の色が浮かび上がる。 「ハロはね、思うの」 「神様は皆にびょーどーじゃないといけないんだ。神様の事悪く言う人にも、信じない人にも。精霊って呼ばれている人も、きっとそういう役目なんだと思うな。でもね、でもね。ハロは神子だから、本当はこんなこと思っちゃだめかもしれないんだけどね」 「ハロは、街の人達のこと好きじゃないの。困った時だけおねえちゃんに押し付けたから、好きになんかなれないの――あ、でも、イリーナお姉ちゃんは、助けてあげられなくてごめんね、って伝えてって。いいから、逃げてって」 イルファーンの目の前で、巫女が一雫の涙を零す。 「あの人を、お願いします」 絞り出された声に頷いて、イルファーンはハロとともにかつて常にここにいたという、精霊の気配を辿りはじめた。 ‡ 地下深く。そこは巨大な地底湖となっていた。広大な空間の中央、こじんまりとした地上の神殿いくつ分かにもなろうという巨大な竜刻が明滅している。 内部から放たれる光は淡い、だが明確な脈動。ゆっくりとした力場のうねり。 そして、その上に座る、朱金の美丈夫。緑翠石の瞳が、二人を捉える。浮かんでいるのは微かな焦燥。 巫女の行動に焦れているのだろう。 「上での会話は聞こえている」 そちらの娘の、イリーナとのやりとりもな、とグウェンが言えば、道すがら伝えられていたのだろう。竜刻に降り立ったイルファーンも頷いて応えた。 「彼女の祈りに応える気は?」 「無駄な祈りだ――いや、あながち無駄でもないだろうが、いずれにせよ都市の滅びは避けられん。俺はこれとともにあるだけで、これの力を操ることなど、できはしないのだから」 切り捨てるような言葉に顰めかけた眉を、イルファーンが開く。 「俺はこの地に及ぼす力とともに留め置かれた幻でしかない――真にこいつを暴走させているのは、ルキアだ」 逃げろという勧告なら幾度もした。街の民とともに山を下り、新たな地を探せと。 自分はこの地を離れられず、竜刻の力が消えたならば、同様に消えてしまうだけの存在だと。だから、気にするなと。 「それでもだ」 どうして言えよう。その暴走の原因が、「ルキアが世界の崩壊を望んだから」だと。 街の民の安寧を祈るはずの彼女が、無意識の内、心の底から街の民を――ロウを、許せない限り、止むことはないのだと。 そして自覚した瞬間に、きっと均衡は崩壊するだろう。 「あいつは俺が怒りに任せてこの地を消そうとしていると思っている。自分ではなく俺の怒りだと思う心と、俺の死を拒否する心だけが、この竜刻の暴走をかろうじて防いでいるのさ」 自身はただの事象に過ぎず、その事象を巻き起こすのは、よかれ悪しかれ巫女の血統であるのだと。 「あいつが力尽き、祈りを――想いを紡げなくなった瞬間が、この地の最後。そのはずだった。だが貴様等はこれを封じることができるという」 ならば、と言外に告げられるも、イルファーンは首を横に振った。 「タグは使いたくない。僕と彼女の似姿でもある君達には生きて幸せになって欲しい――愛し愛され、結ばれて欲しい。それがエゴを貫く事になろうとも、だ。それに、もしそれで事態が収まったとして、天候が回復するわけではないのだろう? 役立たずの巫女として、彼女が害される恐れがある。君が守れるというなら、別だが――」 「ハロもおにいちゃんには消えてほしくないの。どうにかしておにいちゃんの竜の石、運び出したりできないかな? もし運べるのなら、皆で石を街の皆が来ないようなところに運びたいの。でね、二人で暮らせばいいと思うの」 そういってハロは、また小さく笑みを浮かべた。 「それで何かあったら街の人、おにいちゃんたちにお願いするかもしれないけれど。ハロはね、そのときはおにいちゃんたちの好きにすればいいと思うの。えへへ、神子がこんなこと言ったら、神様に怒られちゃうかもしれないけど!」 無邪気に笑う童女に、ふ、と微笑むグウェン。肩の力が抜けたように感じた。 牛骨越しにその頭をなでた朱金の精霊が、イルファーンに願う。 「この竜刻の暴走が止まったとして、言ったとおりあいつの身は危うい。だからこそ、そのままに殉じるつもりだった」 「無意識の中で、あれは未だに泣いている。初めてこの神殿に押し込められた子供の時以上に。――民と、あいつを助けてやってほしい」 それは、ハロの提案が無理だということを言外に告げるもの。だが、それでも男は娘の身を案じる。自身が消えた後、人を殺したと、故郷を滅ぼしたという罪の意識に苛まれないようにしてほしいと。それを伝えるのは、男には無理だった。あくまでも、「この地を滅ぼした」のはグウェンの怒りでなければならなかった。 「……僕もきっと、そう思うだろうね」 否定しかけたイルファーンが、一度頭を振って、それから漸くに頷いた。 ‡ 立ち上るのは、一条の光。 それが収束したとき――巨大な渓谷だけが、残っていた。 イルファーンの力により避難を勧告され逃げ延びた者、信じようとせず無理矢理に結界の外まで移動させられた者の姿がある。 上空の結界の中、その一部始終を見ていたイルファーンの背にはハロ。腕の中には、無理矢理に連れ出された娘の身があった。 声にならない、慟哭。 幾度も聞いてきたそれが、今また己の胸元で響いている。 「『忘れろとは言わない。精一杯生ききって、それからこい』って、おにいちゃんがね、言ってたの」 背のハロ・ミディオが、肩越しに少女へと、語りかける。 腕の中、声を出さず落涙を続ける少女。今の彼女に告げるには、詛いに近い遺言だと、イルファーンは思う。 だが、そうしないとこの腕から抜け落ちた瞬間、命すらも投げ出してしまいそうな危うさが、確かにあった。 (それも見据えて、ということか) もし自分がその立場になったらどう声をかけるのだろう。 「ハロはね」 手を伸ばしたハロが、あやすように少女の頭をなでている。 「おにいちゃん、とってもおねえちゃんのこと好きだったと思うの。おねえちゃんがずっとずっと泣いていると、おにいちゃん悲しむの。だから、しばらくしたら、一緒にわらおうね?」 幾日もの絶食で痛めつけられたその身を更に苛むように泣いていた娘。 だが、ハロの言葉で、ほんの少しだけ力が戻ったかのようで――微かに音が紡がれる。 「っ、グウェン……!」 消えた高山の山頂に、黒曜の娘の声が、谺した。悲痛の慟哭が漸くに発露する。 まるで――新しく生まれた赤子の声のようだった。
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