「こんなことを頼めた義理じゃねえんだが」 赤蟻がそう切り出して、虎鋭は紅をつけた小指を止めた。「笹宮が『化物夜伽』を『弓張月』に呑ませてこいと言われた?」 獲物の手入れをしていたリオも訝しげに顔を上げる。 宵の『弓張月』の裏手、ぼちぼち忙しくなる頃合いを見かけて話を持ち出したのも、自分の気になる女が困っていると聞かされた、それを何とかしてやりたいと思う気持ちが照れくさい、そんなところだろう。「『花王妃巡礼』をやり遂げたのが、やっぱり落ち着かなかったのか、涙宮」 リオは苦々しい顔になる。 『花王妃巡礼』と呼ばれる『弓張月』の一番娼妓としての顔見せを、ロストナンバーの助けを得てリーラは立派に済ませた。その際、『幻天層』『金界楼』『闇芝居』『銀夢橋』という主立った娼館を回ったのだが、その一つ『銀夢橋』を仕切る『涙宮』は、どうにも腹の虫がおさまらなかったと見える。 笹宮はリエ・フーがインヤンガイに帰属して楊虎鋭となった時からの知り合い、『銀夢橋』に属しながらも、それとなく虎鋭やリオのことを気にかけてくれている娼妓だ。その縁を『涙宮』は逆手にとったらしい。 リオは『花王妃巡礼』の時の『涙宮』の振舞いを思い出して小さく息を吐く。「やりそうだけどね」 見かけは、白とピンクのメイド服様のドレスに、銀細工のティアラをつけた愛らしい少女、左の頬に大きな涙の粒を模した紫と赤の化粧、そこにきらきら光る宝石の粒を貼りつけている『涙宮』は、リーラに小水をぶっかけておきながら、ふっくらとした唇の甘えた口調で「呑めと言わないのは宮の優しさですのん。ありがたく思し召せ」と言い切るような性格だ。「……もういいぜ、姐さん」 虎鋭は向き合っていた娼妓の唇に最後の一塗りを仕上げて頷き、指を拭いた。「おんやあ、美晴姐さん、えらく別嬪になったじゃねえか!」 赤蟻が驚いた声を上げ、美晴は嬉しそうに鏡を覗き込む。「ほんになあ、虎鋭の化粧は評判通り見事なもん、これで気ぃよぉ座に着けるわ」 そう喜ぶ美晴の片袖は空中でふわふわ揺れている。他店の厳しい折檻で腕を失ったのだ。「おおきになあ、虎鋭」「花代はちゃらでいいぜ」「へえへえ、おおきに、そのうちな」 身軽に立ち上がった相手を微笑んで見送り、虎鋭は険しい顔で振り返った。「いいじゃねえか、『銀夢橋』での『化物夜伽』、受けて立とうぜ」 銀鳳金鳳も異論ないだろう、とリオを見やると、リオもゆっくりと頷いた。「『化物夜伽』は宵に蝋燭を灯してから夜が明けるまで、聞いたこともないような化物の話をし続ける趣向……インヤンガイでやるなら、当然よからぬものも呼び寄せる。話し手の準備と護り手の準備、両方がいるな」「護り手は俺が手配しよう、リオもいるしな、守りは任せてくれ」 赤蟻が頷く。「じゃあ、話し手は僕が準備する。虎鋭は『弓張月』の守りを頼む」 誰に頼むのか察した虎鋭がにやりと笑う。「わかった。リーラの義足も仮合わせが始まったとこだし、よからぬものに紛れた阿呆がいるかもしんねえしな」 それにあいつらなら。「聞いたこともねえ化物の話なら、腐るほど知ってるだろうぜ」 くすくす零した笑みが懐かしい顔ぶれを思い出している。「手は足りそうか、赤蟻」「ああ、いけそうだ、来て下さった方々も半端ねえし」 『銀夢橋』の周囲に手配りをしながら、赤蟻はリオに頷き返し、笑う。「背中がちいっと淋しそうだな、リオ、ええ?」「そうだね、けれど」 『弓張月』には虎鋭が居てくれる。「僕が多少無茶をしようと、未来を案じる必要などない」 ゆっくり左右の腰から抜き出したのは、しゃらしゃらと鳴る細い鎖、かつて操っていたリボンによく似た獲物だ。術式を一つ組み込んであり、実体だけでなく、暴霊に対しても肉体に対するのと同じような攻撃を与えることができる。「違えねえ」 くくっ、と笑った赤蟻が、両手首に真っ赤な革のベルトを巻いた。ぐっと握る拳の先、空気が熱せられて陽炎が立つ。「中の客人には、一指も触れさせねえぜ」「如何にも」「当然」 背後で控えるラオンとジャグドの声、周囲でそれぞれ構えるロストナンバーを見て、リオは微笑んだ。「…負ける気が、しないな」
語り手として『銀夢橋』にやってきたロストナンバー達は既に地下二階の和室あつらえの間に入っている。陽は落ち、じわじわと忍び寄る夜の気配、いつもなら賑やかに華やかに客を呼ぶ光景も、今夜の『銀夢橋』には見られない。 娼館が一夜の稼ぎを諦めるということは大変なことだ。娼館自身にとっては商売の先行きに影を落とし、娼妓にとっては自由への手がかりを一つ失うことに等しい。 それでも、それを越えてまで『化物夜伽』を行おうとする『涙宮』の並々ならぬこだわり、たとえ一番娼妓であるとしても、雇い子の一人でしかないはずの『涙宮』が娼館にそれを呑ませるという支配力、まさに『涙宮』は名実とともに『銀夢橋』を仕切る大看板ということなのだろう。 中に入ったロストナンバーは、敵の懐で、その鼻を挫き名前を泥に落とし込む覚悟、ならば外を守る者達は、化物語りに誘われる有象無象を悉く討ち果たすことを、その本分とする。 「鬼を狩るのが、俺の生業、それに宿命だったからな。こっちの方が性に合う。あちらにいたのなら、『鬼の魂を使った人間の話』をするところだったが」 鬼龍は灰色の左目を瞬いた。右目には黒い眼帯、緑の髪は獅子のたてがみのよう、頭頂部から二本、膝裏まで届く長い白いキジの尾が生えている姿は、触角にも見える。筋骨逞しい背の高い姿に添うような刃先のつぶれた薙刀、話そうとしていた内容が自らのものだと語れる者は、元の世界にももういない。 「そういう話をすれば、そういう者が集まってくる、というのは、世界共通なのか」 いささか大義そうに呟きながら、鬼龍は味方全てに攻撃力増強の術をかけた。 「唯一、俺が人であったときから使える術だ」 「こりゃ、有難い」 赤蟻達が嬉しそうに拳を握る。手先に揺らめく陽炎が、さっきより激しく広くなった。 「力はいくらあっても、困ることはねえ」 「……では、『断つ』とするか」 護り手の一人として、下がるつもりはない。 鬼龍が言い放つと、それまでは刃先鈍く、とても獲物としての鋭さがないように思われた薙刀が、甦ったようにいきいきと鮮やかな気配を醸し出す。『断つ』ということばで、新たな力を付与されたようだ。 「頼もしいな」 ゆるやかに薙刀を構える鬼龍の姿に鼓舞されて、ジャグドが心強そうに笑みを返す。 「いやー、いーいシチュエーションだね、これ、僕ってば自分で言うのもなんだけど目立っちゃう奴なんだけどさ、こういうコソコソしたのが似合うんだよねぇ」 くすぐったそうな笑い方をしながら身をくねらせる、奇妙な布の塊はアストゥルーゾ、布のあちらこちらから、ぎょろりとした目玉が覗き、あるいはか細い小枝のようなものが蠢いて突き出され、そして唐突にぴょこりと現れた可愛らしい少女があどけなく顔を傾けながら、 「怪談話のネタもないことはないんだけどね、怪物視点の怪談話なんてつまんないでしょ?……あれ? 今の笑うとこなんだけど」 周囲の突っ込みを期待してきょろきょろと見回した、その視線の遥か先には、このインヤンガイに帰属した友の姿がある。 「仕事が終わったら……いや、だからリエちゃんにはあわないよ、あれで今生の別れのつもりだったんだからさ、今会うのも野暮ってもんでしょ………………まぁ、こっそり様子見るくらいはいいかな………?」 柔らかなためらいの声を聞いたような聞いていないような顔で、相沢 優はトラベルギアの剣を抜き放ち、微かに遠くのざわめきが髪の毛を立ち上がらせる気配に顔を引き締める。 「タイム!」 相棒は心得たように軽々と上空に舞い上がる。背後の『銀夢橋』を守る義理はないが、中には仲間が内側の戦いに参じており、自分達もインヤンガイに暮らす友人達の遠き護りとなる一戦、負けるわけにはいかないとの気迫は指先視線、身動き一つまで満たしている。 剣を一振り、『銀夢橋』の店全体に防御の壁を張り巡らせた。化物話に引かれて刺激されたインヤンガイの暴霊達が、どこからどんな形で襲い掛かってきてもおかしくない。 「隙がないね」 「ああ」 声に振り返って、鎖をそれぞれ手首に巻き付けているリオの姿を眺めた。 何だか信じられない。ロストレイル双子座号で相対した性別不明の男の子は、青いワンピースを翻して物欲しそうにアイスクリームを眺めた瞳、モフトピアでペッシとともに『銀青瞳』を奪い合い、インヤンガイで今にも崩れそうな姿で数え唄を謳いながらお手玉していた姿、樹海の森で半死半生のところを旅団から攫って、やがて今ここに、伸びやかで健やかな、青年間近の姿として存在する。 細っこくて無茶ばかりして頼りなげで、それでも一所懸命に生きてきた弟が、ようやく己の居場所を見つけてすくすくと成長していっている、そんな感じだ。 「…どうしたの」 それでも、優に向かってはまだどこか甘え口調が残る相手に、思わず微笑んだ。 「最初に会った時の事を思い出した」 「え…ああ」 薄く赤くなるあたり、ごめんね、と呟く声が一瞬ロストレイルの中にいるような錯覚を生む。その横顔に、もういない二人の仲間を思い出した。 「懐かしいなぁ………リエも元気?」 「元気も元気。ってか、僕、知らなかったよ、虎鋭って天性の女たらし?」 唇を軽く尖らせる。 「付け文が山ほど来るし、それをまた綺麗に捌いて憎まれないし。何だか『弓張月』が違う方向でもいろいろ手伝ってくれる女が増えた気がする」 「はははっ」 らしいな、と優は明るく笑った。 笑顔の後ろで逡巡する。 言わない方がいいのかもしれない、けれど。 けじめとしてきちんと言った方がいいんだろう。 「リオ」 「ん?」 無邪気に見返す青い瞳に、口の中が苦くなった。脳裏を過る笑顔が二つ、もう二度と見ることが叶わない、甘い笑顔と優しい笑顔。 「……俺がリオを助けるのに必死だったのは………今はもういない綾と灰人さんがそう望んでいたから、なんだ」 俺は二人の為に何かをしたかった。でも二人の為に、何もできなかった。 「だからせめて二人が願っていたリオの幸せを護りたかった。綾との約束、リオとリーラを再会させるという約束を果たしたかった」 遠回しに、お前を救おうとして助けたんじゃない、そう取られることばだとはわかっている。場合によっては謝罪もするつもりだ。 ぽかんとしたリオがゆっくり瞬く。 「優…」 戻ってくるのは罵倒だろうか、或いは、そんなことなど知りたくなかった、なぜ今更そんなことを、という幻滅を訴えるののしりだろうか。 ぐ、っと優は奥歯を噛み締めた。 『化物夜伽』の護り手として、今宵は壮絶な戦いが待っている。だが、その実は、リオに真実を告げるという状況もまた、自分にとっては厳しい戦いだったのだと気づく。 「来たゼ!」 上空に飛び上がり、周囲の状況を俯瞰しながら索敵していたジャック・ハートの声が響く。 (おいおい結構派手だなァ? 正面から半透明のスライムっぽいヤツ、その周辺に薄黒い雲、いつかのパパ・ビランチェのヤロウみたいなヤツ、『銀夢橋』の裏手からこれぞ化物ってヤツも来てるし、四方八方から群がり寄ってきやがる。中のヤツらはどんな話をしてやがんだァ、ヒャヒャヒャヒャ!) 上機嫌の精神感応が待ち構える護り手達の頭に響き、化物達の配置を教える。 「裏へも回る、こっちは頼むぞ、リオ!」 「わかった!」 赤蟻男衆とジャグド、ラオンが急いで持ち場に散る。応じたリオがちらりと優を振り返り、物言いたげに唇を開いたが、諦めたように首を振った。 「後で!」 赤蟻達が抜けた穴を埋めようと走り出すリオに、ジュリエッタ・凛・アヴェルリーノが走り寄る。何かしら囁きながら近寄る姿、遠ざかる二人に優は胸の中で伝え切れなかったことばを噛み締める。 俺達の縁はいつか本当に途切れてしまうだろうけれど、それでも。 「仕事が終わったら、皆で食事して騒ぎたいな」 色々な話を、聞きたい。 トラベルギアを構えて、押し寄せつつあるもやもやとした半液体のような姿に向かいあう。風景を歪め、ところどころ赤黒く滲んだ血のような汚れを波打たせながら、目の前に来たそれは、突然優を包み込むように無数の手となり腕となって襲い掛かってきた。 「く…っ」 防御壁を張る、どしんと叩き付けられるような衝撃が全身に及ぶ、だが受け止めた瞬間に優はなおも一歩踏み越える。押し詰められた液体が圧力に一瞬だけ硬化する、その隙を逃さない。 「う、ぉおおおおおっっ!!」 がしゅっ、ばきばきばきっっっ。 半液体が固形のもののように砕かれて散る。 「タイム!」 優の声に応じて砕かれた塊に、上空から炎の弾丸が叩き付けられる。 なおも波状に押し寄せる液体に、優のトラベルギアが一閃する。 「光波壁!」 『銀夢橋』の正面で、巨大な力の波がぶつかりあって、白銀の飛沫を散らせる。 「ふむ、やはり以前と違って筋力がついてきたかのう? これならリーラ殿も頼もしく感じるじゃろう」 「え、あっ、あのっ」 優と離れて護りの弱そうな場所へ移動するリオの体にぺたぺた触り、ジュリエッタはにっこり微笑む。以前は溌剌と伸びやかな手足を見せるセーラー姿が多かったのだが、今宵は艶やかなチャイナドレス姿だ。何があったのか、内側から溢れるような華やかな気配、花街に居れば、その気配が何を語るかはとうに知っているから、リオは驚きたじろぐ。 「あの、ごめんっ、ちょっと」 慌てて体を引くと、ジュリエッタはきょとんとした顔になった。恋をしている女性は、それだけで鮮やかに開く花のようなもの、誘惑する気がなくとも、年頃の男の過敏な部分を刺激してしまう。 「こ、今夜はずいぶん感じが違うんだね」 微妙に距離を取りながら、ほんと今日は驚くことばかりだ、とリオはごちる。 「ん、何がじゃ?」 「ターミナルは時の止まった世界だけど」 皆と会うたびにそんなことはないんじゃないかとよく思うよ、と続ける。 「そんなことはない?」 「皆、やっぱり変わっていく」 ちらりと背後の優を振り返り、その近くでジャグドと共に敵を待ち構える鬼龍の姿を見やり、上空で黒髪をなびかせ身を翻して飛ぶジャックを見上げ、赤蟻の側に走り込んでいくアストルゥーゾを、そして真側のジュリエッタを振り返る。 「僕もきっと変わっているだろうけど、皆もやっぱり変わっている」 「…そうか、の」 ジュリエッタが一瞬顔を翳らせたが、続いたリオのことばに瞬きした。 「それでいいと思うんだ」 「……うむ……がしかし!」 頷いたジュリエッタは、一転、声を張り上げた。 「聞いたぞ、まったく血なまぐさい争いも嫌じゃが、女同士の陰険な争いというのはもっと面倒くさいのう…強き心を持つリーラ殿じゃから耐えられたのじゃろうが、わたくしがリーラ殿の立場じゃったらきっとその女の横っ面を張り倒し…」 元気よく言い放つ顔は昔のままだ。はっとして、ごほごほと咳き込んでみせ、 「とにかくここは『弓張月』をきっちり守らねば」 「嬉しいけど、今夜護るのは『銀夢橋』だよ」 「おお、そうじゃった!」 じゃが、ここで『銀夢橋』を護り切ることが、つまりは『弓張月』を守ることにも繋がるのじゃから、あながち間違ってもおるまい。 むん、と胸を張ってみせるジュリエッタに、リオはくすくす笑う。 「もちろんわたくしも戦いはするが、あの霊の勢いではわたくしの接近戦は不利じゃからのう…」 おしゃべりはしていても、背後から迫る気配は十分に判っていたらしい。どぉおん、と空気を震わせる衝撃、優の居たあたりでわらわらと飛び散る何かに、ジュリエッタはくるりと身を翻して立ち止まり、トラベルギアを高々と掲げる。 「ここは霊の数を絞ることに重きを置くつもりじゃ。マルゲリータ、リオ殿達、頼んだぞ!」 叫びと同時に、差し上げられた小脇差しにばりばりっと空が高く鳴った。見る見る周囲に高まる圧力、肌がちりちりしてきな臭い風が吹く。優が散らしたもろもろの塊が空中を走った光に灼かれた、いや、喰われたと言ったほうが正しいのか。光は上空に押し寄せた雲間から次々と走り降りてくる。それはさながら、うねりのたうつ数匹の蛇、空中を駆けながら、ジュリエッタに寄り集まってきたかと思うと、再び閃光と耳を聾する音が響き渡って、九つの頭をもつ大蛇となって顕現する。 「了、解っ!」 それが何かを察したリオは飛び離れて駆け出した。へたに側に居ては、獲物に呼び込まれて酷い目に会うかも知れない。それほどの威圧力、天空を覆うほどの巨大な蛇が、ざああっと音をたてて押し寄せてきた芥子粒ほどの黒い物体を吸い取るように呑み込んでいく。 「大蛇よ! その力で夜の帳を払うほどに霊を蹴散らせなのじゃ!」 ジュリエッタの声に、巨大なあぎとを開いて咆哮する、優が弾いた半液体のものばかりではなく、『銀夢橋』を囲い込もうとした霊全てに襲い掛かる蛇の速度は人知を超える。 「横から来るぞ、リオ殿、アストルゥーゾ殿!」「済まぬ、下から抜けたものがおる、頼むぞ、鬼龍殿!」「上空へ逃げたものは任せたぞ、ジャック殿、雷が及んだら避けてくれ!」 きびきびとした声が状況を読み、的確な指示を飛ばす。 その姿は、闇に咲く一輪の牡丹のような艶やかさ。 「おお、すげェすげェ!」 上空でジャックは堪え切れぬ笑いに体を震わせていた。 インヤンガイに着いた時、周囲を見回していたので何を探してるのかと聞かれたが、「ンー、別に。こういう依頼は気楽でいいワ。来た暴霊来た暴霊、全部木端微塵に引き裂きゃ良いからナ、ヒャハハハハ」と受け答えした、その上機嫌は続いている。 『銀夢橋』の正面で優が防御壁と光波壁を繰り出して押し寄せる波状攻撃を防いでいる。鬼龍が下を抜けてくるあやしの輩を繰り出す薙刀で消滅させている。その両隣ではアストルゥーゾと赤蟻が、リオとジャグドが、不気味な姿で襲い掛かる霊達を撃退中、正面を飛び抜け背後へ回り込むように押し寄せた細かな黒い粒状のものを、ジュリエッタの大蛇達ががぶりがぶりと喰い尽くしていく。 「オォ、気にすンな、ジュリエッタ。俺はエレキ=テックだからヨ、テメェの雷くらいこっちで避けて弾く!」 どすん、どすん、と蛇達が地上近くを掠めるたびに響く巨大な振動、『銀夢橋』が多少離れているとは言え、これだけの騒ぎをさすがに傍観できもしない、あちらこちらの街角や軒、はては娼館の窓窓からも、このとんでもない活劇を口を開けて見守る顔が覗いている。 重苦しい唸り声を上げて、今しも『銀夢橋』の屋根を越えそうな大入道が頭を振って現れ、アストルゥーゾが守る方向にのしかかっていく。その周囲にはきちゃきちゃと激しく口を噛み鳴らすような音をたてながら渦巻く風、大入道に気を取られていてはあっちに切り裂かれるしかないだろう、だがその風をジャックは迎え撃つ。 「受肉してねェ奴の方が面倒臭ェだろォが。だからそっちは俺が受け持つッてンだヨ!」 がしがしがしがし! ばしばしばしばし! ぎええええああああっっ。 容赦なく叩き込まれて行くライトニングとゲイルにあっという間に雲散霧消、それでも堪えず次々とさっきより実体化しながら、優の防御壁を駆け上がるように飛び上がってくる赤黒い霊体にジャックの顔が悦楽に歪む。 「遠慮なしッてェのは堪ンねェゼ、ヒャヒャヒャヒャヒャ!」 上空に血煙が舞い、絶叫と怒号と怨嗟が溢れ、さながら地獄とはこのような獄吏がいるものではないかと思わせるジャックの哄笑が響き渡る。 「オイオイ、そっちには行かさねェゼ!」 爆笑しつつ、ジャックの目はリオとジャグドの隙を狙って『銀夢橋』に取り憑こうとした灰色の塊を見逃さない。上空からでも十分仕留められる、けれど直前リオが跳ね飛ばされて転がったせいで、ぽかりと開いた護りに身を翻して急行した。降り注ぐ光の矢、渦巻きねじり切る疾風で相手を怯ませ、超高速移動し、PSIで弾き飛ばす、それだけでは勿論飽き足らない、弾き飛ばした相手を今度は上空へとPSIで叩き上げ削り、『銀夢橋』の真上で粉々に砕いた。体を震わせる歓喜、力がなおも漲っていく。 「夜明けが来なければいいのにヨ」 薄明るく滲み出した空の端を名残惜しく眺める。さすがに疲れたのだろう、ジュリエッタが大蛇を納めて肩で息をしているのに気づき、ラオンとジュリエッタにだけ持参の水のボトルをアスポートした。 「ま、もう少しだからヨ。口でも漱いで気合入れろや」 「す、すまない」 喘ぐラオンがボトルを掴む。 「俺よりジェントルな男がこの中のどこに居るッてンだヨ? 俺ァ女にゃ年齢問わず優しいゼ、ゲラゲラゲラ」 「そのようじゃな」 厳しい顔で水を煽ったジュリエッタがすぐにボトルを投げ捨て、もう一度トラベルギアをかざして叫ぶ。 「最後じゃ、行けえええええっ!」 再び金の光が空中を走る。 「さーてそれじゃ、お化けもビビルくらいの大暴れを見せちゃいましょうかね? まずは東洋怪物シリーズ!」 軽口を叩いたアストルゥーゾは、のそりのそりとやってきた大入道にひゅううっと首を長く伸ばした。 「うらめしやー!…あははははっっ!」 足と言わず手と言わず、ろくろ首さながらにくるくると巻き付き自由を奪う。苛立った大入道が体全体で抱え込もうとしても、するりと抜け出しそのまま空中に跳ね飛んで、 「インヤンガイの人は龍とか見たいかな? でもかまいたちも捨てがたい、まぁ全部やって暴れますか!」 くねくねと動いたかと思うと銀青の鱗を煌めかせる龍となって、大入道を巻き締める。それだけではない、龍を掴もうともがく相手がどたんばたんと動くのが『銀夢橋』に倒れ込もうとする矢先、ふいに体を縮小して、大入道の体の上を素早く奔った。その足下から次の瞬間吹き出す血潮、絶叫して体を揺さぶり仰け反る大入道は、空中でほろほろと紙のような薄い布に変わって舞い散っていく。 変わって現れたのは鬼火を帯びた鳥の群れ、ぎゃあぎゃあと激しく鳴きながらアストルゥーゾを囲い込むが、 「火には水でしょ当然だね!」 巨大な柄杓が空中に現れ、空の雲に突っ込まれたかと思うと中身をざぶざぶと鬼火鳥達にかけまくる。ただの水じゃない、かかった瞬間に鳥達の羽根を焼き身を爛れさせる溶解液、ぼたぼた周囲に落ちるそれは、人にかかるまえに蒸散する。 「焼き鳥イッチョー! 量多すぎか!」 まだまだ来いよ、さあもっと! 次の獲物を求めて変形するアストルゥーゾが、一瞬切なげな視線を『弓張月』へ向ける。 ほんとはほんとはほんとはさ、こっそり座敷わらしっぽい姿に化けて物陰からこっそり様子見、見つかりそうになったらマッハおばあちゃんレベルの足で逃げる! ってのを考えてたんだ。 元気そうならよかった、ちょっと大きくなってると感じたら寂しい思いもするかな? そんなことも思ったりして。 まぁでも、そもそも違う世界の人だもんね、納まるべきところに納まって元気でやってるんだもん、分かってる。 「次は僕の番だね、だからばいばい、リエちゃん」 振った片手はすぐにぎょろぎょろ目玉がついた吸盤の腕となって、襲い掛かる霊達に向かって伸びていく。 「く…っっ!」 波状攻撃は何とか凌いだ。タイムの炎の弾丸も効果的だった。だがしかし、今優の前に次々現れる相手には、防御するだけでは駄目なようだ。 おおんおおん、と妙な鳴き声とも唸り声ともつかぬ音をたてながら、ずるずると迫ってくるのは白くて芋虫のような物体、体の至るところにふやけたような女や赤ん坊の姿が突き出し飛び出し、細く小さな手がざわざわと生えて表面を撫でさすり、時折ぐたりと垂れた頭が今にも千切れそうに首をぶらぶらさせながら、それでもこちらを振り向いて、血に濁った目で優を眺める。動く裾にも顔や手足が巻き込まれ、時に擦られ、血や膿のようなものを糸を引きながら流している。 一体、一体、また一体。 おおん、おおん、おおおおん。 子どもの泣き声のようにも、猫の発情する声にも、そして身動きできずに体の痛みに呻く人の声のようにも聴こえる声、恨みというより哀しみに満ちた声音は攻撃意欲を削ぐ。 がもちろん、優には怯みはなかった。切り込む、切り捨てる、これらは『化物夜伽』で起こされ呼び出された影のようなもの、むしろ放置してやる方が惨いとわかっている。 「ライトニングッ!」 上空からのジャックの援護もある。がすんっ、とまるで金属の矢を撃ち込まれたかのように動きを止めて見る見る黒こげになる相手は、燃え尽きてしまうと攻撃をやめる、だがしかし際限がない。 「キリがねえなァッ!」 倒しても倒してもおおんおおんと泣きながら増えてくる。エネルギーの供給源は護っている『銀夢橋』にあるのだから、『化物夜伽』が終わるまでは尽きることはないのだろう。問題は、吹き飛ばしても貫いても、焼いても溶かしても切り刻んでも、まるでその数だけ取り戻すように増えてくるあたりだ。じりじりと押し詰められてくる。距離がなくなると、光波壁が効きにくい。しかも防御壁を保たねばならず、優の動ける範囲が狭まってくる。 「焦るな」 すぐ側から低い声がした。 「俺は近距離攻撃がもっとも得意でな。つまりは、ある程度突っ込まないといけない。おまけに、右側が死角だ。右目は完全につぶれているからな」 鬼龍がことばと同時に迫る白色の怪物の中に飛び込んだ。 「背中を頼む」 言い捨てて、群れの中で薙刀を振り回す。薙ぐだけではない、返す動きで石突きで突き、見る見る周囲の数を減らす。 『俺はあいにく、武神でな。便利な広範囲の攻撃術は持ってない』 人だったときから苦手だ、そう言ってはいたが。 「広範囲の攻撃術なんか、不要なんじゃないんのかな」 さすがに軽く肩で呼吸をしながら優は目を見張る。背後を優が護っているとはいえ、容赦なく薙ぎ倒し、突き倒す様、その確実さと的確さ、相手が新たに数を増やすよりも素早いのではないか。おまけに、 「あ…っ」 突然襲い掛かった一体がずぶりと鬼龍の右目眼帯を貫いて尖った指を差し込んだ。傷みに仰け反り倒れるかも知れない、助けに行かねばと走ろうとしたが、鬼龍は淡々とした様子で相手を突き倒す。眼帯が外れ、ぼたぼたと血が滴る右目、今こそ勝機と飛びかかる輩を一顧だにせず、これまで以上に薙刀を揮う鬼龍、その右目が見る見る治癒していく。 「神の不死性と、鬼の再生能力を侮るな」 その再生を途中で封じたのか、歪む顔で鬼龍はなおも薙刀を振り回す。 傷を受けてもすぐに治癒する武神と、尽きぬエネルギーを供給されて果てしなく増え続ける暴霊と。 それはまさに、修羅の道と言うより他になく。 その戦いぶりに優は気力を奮い立たせる。 「くそっ…、まだまだあっっ!」 トラベルギアを振り抜き、広がる光波壁が弾く空間へ飛び込み、さらに光波壁を大きく放ち、なおもそこへ駆け込んでいく。 止まるな、怯むな、恐れるな。 竦んだ心こそが、今の自分の敵だから。 やがて。 突然、切なげな、わびしげな、掠れた声が響き渡った。 「む」「何だろ?」「ちっ」「あれは」「……明烏…?」 ロストナンバー達が動きを止める一瞬前、まるで幻のように、全てが一気に掻き消える。 薙いだ白い化物が消えた。赤蟻とともに炎で焼いた巨大な蛙が消えた。空を舞っていた無数の羽虫が消えた。八岐大蛇が噛み砕いていた大女が消えた。今ぎりぎりと刃を重ねていた相手が……消えた。 「…終わった、のか」 はあはあと荒い呼吸をしながら、汗を拭うリオが、血のにじんだ両手首から垂れた鎖を巻き上げて、背後の『銀夢橋』を振り返る。 悲鳴のような烏の声は、その屋敷の方から聴こえたようでもあったのだが。 『銀夢橋』の屋敷の扉がゆっくりと開いた。 中から歩み出てくるのは、入っていった仲間達。 「終わったらしいナ」 上空から残念そうに舞い降りてくるジャックは、乱れた髪を両手で掻きあげる。 「何とか凌いだようじゃ」 チャイナドレスを捌きながら戻ってくるジュリエッタの顔はやや青ざめている。 「もう終わりなのかあっ、楽しかったねっ」 ぴょんぴょん飛び跳ねてくるアストルゥーゾはなぜか犬の姿、赤く濡れた口をぺろりと舐める。 「務めは果たしたな」 鬼龍は薙刀を軽々と抱えながら戻ってくる。 「助かった…」 そこら中泥に汚れて浅黒い顔の赤蟻が革ベルトを緩める。 「予想以上にきつかったな」「ほんと」 ジャグドとラオンもあちらこちらにできた傷を撫でながら、溜め息をつく。 「……リオ」 優は『銀夢端』から出てくるロストナンバーを見つめる相手に声をかけた。 「……終わったようだね、ありがとう、優」 一瞬体を強張らせたように見えたリオは、明るい笑顔で振り返った。 「無事に『化物夜伽』を済ませられた………皆のおかげだ」 本当に、ありがとう、ございましたっ。 リオはぺこり、と頭を下げる。そのまま、しばらく動かない。 「リオ、俺は」 今こそ伝えなくちゃならない、と優は一歩近寄った。 俺はお前に会えて、お前の力になれて本当に良かった。 何も出来ないと思っていた自分が、誰かの力になれた事がすごく嬉しかった。 リオがここで幸福に生きているのが嬉しい。 あの頃だと考えられなかったから、余計に。 「俺は」 「優」 俯いたままのリオが静かにことばを遮った。 「ありがとう」 僕を助けてくれて、本当にありがとう。 「それが、綾さんや灰人、さん、のためだって、そんなこと、関係ない」 くい、と顔を上げたリオの目は濡れていない。むしろ、愛しむように、じっと優の顔を見つめている。 「優がここで死ぬような想いをする必要はないんだ」 リオの視線が何を見ているのか、頬を触って気がついた。いつの間にか、べたりとした血に濡れている。 「優にしても、ううん、ロストナンバーの皆にしても」 ゆっくりと周囲を見回す。 「なのに、僕らを、僕を、救ってくれた。命を賭けるような依頼を、何度も何度も受けてくれた」 赤蟻が、ジャグドが、ラオンが頷く。集まってきた男衆達も頷く。 「僕を、ここへ、帰してくれた」 リオはそっと胸を押さえる。その中には、絆を紡いだ『胡蝶の石』が入っている。 「自分を見失って、迷子になっていた、この僕を。そんなことする義務なんて、なかったのに。君達を傷つけるようなことしか、しなかったのに」 ありがとう。 掠れた声が繰り返す。 本当に、本当に、ありがとう。 朝日が射した。 眩い光が、リオの青い瞳を照らしている。 「優、今度は僕の番だから」 「え?」 「したいことがあるんだろう?」 「…」 「願っていることがあるんだろう?」 「………」 胸が、詰まる。 傷だらけで、けれどしっかり、鎖を制御する拳。 「今度は、僕が力になる」 きらきらと、誇らしげに輝く瞳。 「どんなに遠く離れても、優が何をしようとも」 くすりと悪戯っぽく唇を綻ばせる。 「たとえ魔王と呼ばれるようになったとしても」 僕は必ず、優の味方だ。 「行って」 自信に満ちて、大きく頷く。 「優の願いを果たすために」 「リオ…」 その日の朝日は、この世で一番美しいものを見ただろう。 まっすぐ誠実であろうと苦しんだ心が、ついに解き放たれた瞬間だった。
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