砂漠がさらさらと流れていく。ダンジャ・グイニは砂に手を差し込んだ。熱い。構わずにすくい上げると掌の隙間からこぼれ落ちた。 風紋が波のようにたゆたっている。地平線がとろけながら揺れている。 「お出ましかい」 陽炎のような影が近付き、ダンジャはゆっくりと立ち上がった。 今日も殺戮が始まる。 まず左手首が飛んだ。その次は左前腕。次いで左上腕。ダンジャは丁寧に痛めつけられ、切り刻まれていく。楽になどしてやらぬ、受けた仕打ちを返すのだと相手が笑った。右手一本のダンジャも薄く笑う。ダンジャは――どこかで殺されている筈の仲間たちも――無力だ。 時には夜まで生き延び、仲間たちと落ち合えることもあった。といってもせいぜい二、三人だ。彼らは例外なく血にまみれ、欠損した体で密林に避難した。 「仲間を集めよう。戦うんだ」 焚火を囲んで仲間が呻く。小さな炎は身をよじりながら震えている。ダンジャはひび割れた眼鏡をむしり取って自嘲した。 「どうしてだい」 ダンジャの面を生き物のように影が這いずる。仲間がダンジャを睨めつけた途端、すぐ傍でうわごとのような呻き声が上がった。大腿から骨を覗かせた女が痙攣している。やがてそれも止まり、静寂が訪れた。 炎が力なく爆ぜている。 「お前、変わったな」 仲間はどろりとダンジャを見つめた。 「花畑なんか作ろうとしてたくせに」 「昔の話さね」 ダンジャの口許が歪む。 「とにかく俺は戦う。黙って殺されるのなんてごめ」 仲間の言葉が引きちぎられた。茂みから真っ黒な質量が飛び出し、襲いかかったのだ。猛獣か。人か。どちらであっても大差ない。 「戦いたいならそうおしよ」 ダンジャは残り火を踏み消した。 「時間はいくらでもある。あたし達は何度だって甦るんだ」 そしてまた殺される。かつて蹂躙した人々のように。 どれだけ経ったのだろう。 朝が来て夜になる。また朝が訪れ、日が暮れる。永劫と紛う繰り返しの中でダンジャの意識は肉体から遊離した。 (ああ、落ちたのかい) 七十二体分の残骸が今日も地べたに横たわっている。手足は解体され、新鮮なはらわたがはみ出している。襲撃者の槌が頭蓋を粉砕し、物言わぬ脳味噌がどろりと溢れた。 ゴミ屑は顧みず、ダンジャは塵のように夜空を漂う。 ビロードのような天。アラザンに似た星。眼下を流れるのは砂の大河だ。砂は何も蓄えない。太陽の下では熱せられ、月が昇れば青ざめて凍てつく。砂礫の大地はどこまでも不毛だ。 砂漠にまいた種は芽吹かなかった。目印の石はさざれと化した。 凍りつくような風の中で緩慢に宙返りをする。次にイルカのように跳び、夜の海原を悠然と泳ぐ。妨げるものは何もない。この空にはダンジャ独りだ。 虚空に腕を這わせる。型紙をおこすように。地図を引くように。指先が闇を切り裂いて、銀の星粒が溢れ出た。星々は虹色となり、種と化して砂漠に注ぐ。ダンジャの手が宙を愛撫する。種の煌めき次々と滴り落ちる。 早回しのように緑が芽吹き、毛氈となって砂漠を覆った。次に泉が。背の高い木々が。微細なさざれは巌に育ち、大地にどっしりと根を下ろした。巌の根元でエニシダが囁く。葉擦れの陰で昆虫が躍動する。あどけない手が伸びてきて虫を掴み上げた。ばたつく節足の向こうで幼子が笑っている。 鼻の奥がツンとした。 こんな景色が見たかった。だから世界を変えたかった。飛行船から見下ろしていた頃は何でもできると思っていた。 ゆっくりと降下する。巌を抱擁するように。巌の抱擁を求めるように。 ずん、と体が重くなった。 ダンジャは地べたに叩きつけられた。逃げ場のない茫漠の中、太陽が砂とダンジャを炙っている。また朝が来て体が甦ったのだ。 陽炎の向こうで濃密な群衆が揺れている。彼らは二つに分かれ、一つがダンジャの元へとやって来る。ダンジャは黙って待った。一面の砂漠では隠れようがない。 「逃げ場なんていらないさ」 やがてダンジャは両手を広げて――芝居がかった、滑稽なしぐさで――口上を謳った。 「分かりかけてきたんだ、あたし達が何をしたか。罰をおくれ」 その瞬間、ダンジャは見た。地平線に薄く広がる緑を。そこで揺らめく人々の群れを。まさかと目を凝らした時、熱と闇に貫かれた。目玉に槍を突き込まれたのだ。 (いい幻だった) 酔い痴れながら不毛の砂に倒れた。 砂漠は刹那血に染まり、すぐに乾いていく。撒き散らされた臓物や肉にはすかさず蝿がたかった。そう、いつしか昆虫が息づいていたのだ。羽虫は蜻蛉や蛙を呼び、彼らは鳥や蛇を誘う。 ダンジャは毎夜オアシスを夢見た。風のソロを、花と蜂のアンサンブルを聞いた。そこにいつしかさえずりが加わった。小鳥だ。木漏れ日の中でリスのシルエットもちらついている。 葉の緑は実りの金となり、日に焼けた手で摘み取られていく……。 そこで目が覚めた。乾いた熱が体の下にある。砂漠。不毛。ダンジャはのろのろと体を起こした。陽炎の群れが亡者のように揺れている。近付いてくる人々を求めながら、息を呑んだ。 人影が薄い。いつもより少ないのだ。 (どうして) 慌てて視線を彷徨わせた時、清澄な風が鼻先をくすぐった。 砂の上を緑が覆っている。うっすらとしたそれは草木の息吹だ。葉擦れの囁き。虫の羽音。人々は農具を手にして草花の世話をしている。 「殺すのか?」 という問いで我に返る。いつの間にか襲撃者たちに包囲されていて、ダンジャはどうしようもなく安堵した。目の前の彼らが携えているのは剣だ。槍だ。 「俺たちが殺さなきゃいけないのか?」 武器を握り締めながら男が問う。 「そうさ」 ダンジャは世間話でもするように応じた。 「私たちが? あんたを?」 槍を握った女がこわごわと尋ねる。ダンジャはまた肯いた。女の目が決定的に揺らめき、問うた。 「どうしてなの」 ダンジャの息が止まった。 コノ人タチハ 何モ 知ラナイ ? ダンジャの思考はそこで途切れた。老人の棍棒で頭をかち割られたのだ。 「殺すんだ。わしらの先祖はこいつらに踏みにじられた」 打撃と唾がダンジャに降り注ぐ。 「こいつらは罪人だ。当然の報いだ!」 「……その通りさね」 罵詈の甘美に安直に身を委ねた。 「かみさま さばいて」 殺戮と無関係にオアシスは息づく。もはやオアシスではなかった。砂は水を蓄え、草木を育み、人々の暮らしを慈しみつつある。 ダンジャは緑の中を彷徨った。襲撃者の数は減り、代わりに土を耕す人々が増えた。ダンジャが求めなければ誰もダンジャを殺しに来ないようになっていた。 さらさら、さらさら。小川が流れ、叢が揺れる。さわさわ、さわさわ。木々と人々がさざめき合っている。何事もなかったように。かつて滅ぼされたことなど知らぬかのように。 夜になって、ダンジャは数日ぶりに首をはねられた。胴がごとりと倒れ、頭がぼとりと落下する。斧でダンジャを裁いた男は「ひっ」と身を竦ませた。肉体から遊離したダンジャは茫然とそれを見下ろしていた。 ビロードの天。アラザンの星。 夜風は瑞々しく柔らかい。家々の灯が星のように瞬いている。まどろむ草原は反物のよう。これを織り上げたのはダンジャ達が嘲った者たちだ。ダンジャは風に吹かれるまま彷徨った。襲撃者はどこにもいない。七十二人の痕跡も、また。ただ緑だけが広がっている。風化した柱にむす苔のように。 世界は静かに変わりつつあった。 峻厳な巌が根付いている。ダンジャはゆっくりと墜落を選んだ。殺されぬのなら自分で死のう。あの岩で頭を砕くのだ。 ゴッ、と鈍い音が轟く。 ダンジャはどさりと岩の足元に落ちた。頭蓋が割れた感触がある。傍で泉が囁いている。たちまち虫が這い寄ってきた。血を啜り、肉を破り、臓腑に入り込む。ダンジャは笑った。くすぐったいのだ。ブウウウン。蝿が狂喜している。 「喰らい尽くしておくれ。もうあんた達しかいないんだ」 ダンジャの中から草が芽吹く。虫の体に種子が付いていたらしい。ダンジャを苗床とし、草花は旺盛に伸びていく。花を咲かせ、実を結ぶ。そして次の芽が生まれる。ダンジャの体はたちまち緑に覆われていく。 視線を巡らせれば、こんもりとした緑の塊が散在していた。ダンジャを含めて七十二。 ぞっ――と悪寒に貫かれた。 「やめておくれ」 悲鳴はどこにも届かない。美しい緑は口の中まで入り込んでいる。 「嫌だ。嫌だ。嫌だ!」 優しい緑でダンジャが霞む。大地の営みに取り込まれていく……。 「……何してるんだ」 男の声が降ってきた。 ダンジャはぼんやりと目を開く。いつの間にか夜が明けていた。背骨が軋み、頭が重い。目と鼻の先で名も知らぬ花が揺れていた。 「大丈夫か?」 見知らぬ男が当惑しながらダンジャを見下ろしている。ダンジャは静かに安堵した。男は武器らしき物を握り締めていたのだ。 「ありがとう。でも、どうせ死ぬ」 長く深く息を吐き出す。 「さあ……殺しておくれ」 さらさらと風が渡っていく。男は息を殺している。ダンジャは訝しみながら視線を上げ、愕然とした。 男が手にしているのは鍬だった。 「俺たちは何も知らない。何故あんたたちを殺さなきゃならないんだ」 彼の眼は迷子のように揺れ惑っていた。 「いつまで煩わされなければならない? 人を殺める罪をいつまで負わなきゃならない?」 彼は泣いていた。 「何の意味があるんだ。なあ。もう嫌なんだよ」 「そんなこと言わないでおくれ」 ダンジャは必死に身を起こして男に縋った。 「あたし達は惨いことをしたんだ。あんたの祖先を――」 「祖先?」 男の頬が見当違いの形に引きつる。 「今生きてるのは俺たちだ」 鈍器のような言葉がダンジャの頭を打ち据えた。 「俺たち、今の営みを守るだけで精一杯なんだよ。あんたらに関わってる暇なんかないんだ」 「そんなこと言わないでおくれ」 「嫌だ。やめてくれ。お願いだ」 「そんなこと……」 涙が次々と滴り落ちる。どちらが泣いているのか。あるいは二人とも泣いているのか。 「惨いじゃないか」 ダンジャの指がのろのろと男から離れた。そのまま崩れ落ち、背中を丸めた。 「贖わせておくれよ。ねえ。お願いだ……」 七十二柱の罪を誰一人として知らない。裁いてくれる者もない。ダンジャ達だけが取り残され、生き続けている。 「やめてくれ」 男は泣きながらダンジャを助け起こした。 「手当てしてやるから。な。歩けるか?」 慟哭がダンジャを衝き上げる。 この者たちに罪を負わせてきたのか。これ以上罪を負わせるのか? 「かみさま たすけて」 愚かな哀願は永劫に宙に吊られた。 真の罰が待っていた。 男の家族はダンジャに恐怖と不審の視線を向けた。それでもダンジャの怪我を見ると血相を変えて手当してくれたのだ。湯を沸かし、傷口を拭いて、清潔な包帯を巻いてくれた。寝床と粥さえ提供してくれた。 無論ダンジャは拒もうとした。しかし傷付いた体ではそれもかなわない。踏みにじった者たちの善意は酸の雨のようにダンジャに降り注いだ。 「もう……行くよ」 包帯も取れぬままダンジャは立ち上がる。どこにと子らが問う。ダンジャはあてもなく微笑んだ。 「さてね。どこにならいていいのかな」 子らはきょとんと首を傾げた。 外に出た途端、別の子供が追いかけてきた。振り向くと同時に包みを押し付けられる。水と、干し肉だった。 「おなかすくでしょ」 アーモンド形の無邪気な瞳がダンジャを見上げている。 消し得ぬ熾がダンジャの胸を掻きむしった。何も知らぬ人々。芽吹いた緑。世界から奪ったもの、知らずに失われた歳月。 「このババアには勿体ないね」 視界が優しくぼやけていく。涙の熱で眼鏡が曇ったらしい。ダンジャは泣き、精いっぱいの微笑を返した。 「ありがとう。よく噛み締めて食べるよ」 喉が灼かれる思いだった。 のろのろと歩き出す。牛馬の鋤がダンジャの足跡を掻き消していく。小川が流れ、銀の小魚が跳ねた。子らのジョウロが虹を作る。ダンジャは泣きながら歩き続けた。草花と人々のさざめきがダンジャの歔欷を塗り潰した。 (了)
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