ヒトの心というものを理解してしまったがゆえに『殺す』ことを拒否した黒の夢守が、茨の牢獄に囚われ姿を消してしばらく経った。 至厳帝国ムンドゥス・ア・ノービレは、あれから一度も戦いを仕掛けてこない。軍部の動向も不明だ。 帝都アウルム・ラエティティアはいつも通りの活気と平穏を保っているが、王城の天辺には、元ロストナンバーにして現至厳皇帝クルクス・オ・アダマースの側近であるロウ・アルジェントが囚われたままだという。 先だっての依頼、任務で、『電気羊の欠伸』の深部にもトコヨの棘が存在することが再度確かめられ、また、それとは別口で、異界の竜神であったロウを捕らえ皇帝の意識を操作するほどの力を持った何者かが帝国内部に入り込んでいることも判っている。 しかしながら、トコヨの棘は沈黙を保ち、未だ新たな動きはない。 帝国内部にいる何ものかの意図も不明だ。 そんな中、姿を見せない一衛(イチエ)を気にして、もしくはいつも通りの静けさを取り戻した――それを嵐の前の静けさと取るものもいるだろうが――各領域へと観光に、ロストナンバーたちは三々五々顔を覗かせていた。 そこで、それは起きた。 最初にそれを察知し、伝えたのは紫の夢守・七覇(ナノハ)と白の夢守・十雷(トオカミ)だった。「黒の領域がおかしい」 ふたりの話によると、黒羊プールガートーリウムの守護し司る多様な領域に、先だって一衛が囚われたのと同じ黒茨が発生し、次々と空間を飲み込んでいるのだそうだ。 飲み込まれた領域、黒茨の内部がどうなっているのかは判らない。黒茨の牢獄は、すべての事象と光とを内側に閉じ込めて、外からの干渉を拒み沈黙している。「想彼幻森(オモカゲもり)や皈織見(カヘリミ)の森、《鏡》の水晶森も取り込まれたようだ。あの辺りは訪れているロストナンバーも多い」 しかし、なぜこれが起きたのか、夢守たちには判らないという。「あれは黒羊の司る封獄だ。強い力を持つ存在、荒ぶるモノどもを綴じ込めるためのもので、本来はあんなふうにあふれだすような代物じゃない」 結局、その場にいたものたちで様子を見に行くことになった。「触れれば中に取り込まれる。だが、中に入らなければ何が起きているか調べることはできないだろうな。入るも入らないもあんたたちの自由ではあるが、くれぐれも気をつけてくれ」 これは、我々夢守ですら予測のつかない事態だ。 そんなふうに締めくくる白の夢守と別れ、ロストナンバーたちはめいめいに行動を始める。 * * *「……ここは、あの茨の中、か……?」 辺りを見渡し、そこが影の木々と陽炎の岩、暗闇の大地によってかたちづくられた幻影の世界であることを確認する。 現在、ほぼ想彼幻森の管理者となっている明佩鋼(アケハガネ)=ゾラ=スカーレットが、森の奥からあふれだした黒茨に飲み込まれることになったのはほぼ必然と言ってよかった。 他にも、想彼幻森を訪れていたものはいるはずだが、ゆらゆらと揺れながらどこまでも続く影の平原に、同胞たちの姿を認めることはできなかった。「危険なにおいはしない。敵意や殺意は感じない。皆に、今すぐ危機が迫ることはなさそうだ。ただ……何だ、これは……?」 奇妙な、胸の奥の痛み。 そして、「……これは、哀しみ? それとも……嘆き、か……?」 眼球を、鼻の奥をシンとさせる、身に覚えのない感情が、今の彼には宿っている。 しかしそれは、悪い感覚ではなかった。 なぜならその痛み、哀しみ、嘆きのすべてに、穏やかなぬくもりと懐かしさを感じるからだ。「この黒茨の持つ力なのか。もしくは、一衛の?」 じっとしているのも性に合わず、ゾラは誰かの姿を求めて歩き出す。 距離感の掴み辛い、何とも据わりの悪い世界ではあったが、立ち止まっていたところで事態が打開されるとも思えない。 ゆらり。 影の樹木がゆらめいた。 ずいぶん高い樹だ、と思いつつ、「これは、生きているのか?」 興味を覚え、幹へと手を伸ばしたところで、ゾラは異変に気づいた。 ゾラは未だ自分の記憶というものを取り戻してはいない。 機神兵などというモノになれる自分が、見かけどおりの年齢なのかどうかも判らないが、少なくとも彼は二十を半ば以上過ぎた姿かたちであったはずだ。しなやかな筋肉と頑健な骨によってかたちづくられた、筋金入りの武人。そういった存在だったのだろうと自分でも漠然と想像している。 しかし、今、伸ばした手は、ごつごつとした硬さを失って小さくなり、やわらかな丸みを帯びていた。「樹が高いのではなく、俺が小さくなった、ということか……?」 顔に、腕に触れ、自分の身体を見下ろし、それを確認する。 どういう原理なのかは判らない。 ただ、彼は今、一般的な人間でいうところの、七歳児程度にまで縮んでいるようだった。「……皆も、同じように?」 身体が小さいと移動に時間がかかるのだと思い知りつつ歩き、はたと気づく。 これが、影の平原のもたらした、何らかの作用であることは疑いようがない。危険は特に感じないものの、出口を見つけるために歩き回らねばならないとしたら、不便極まりないのではなかろうか。 とはいえ進まねば何も始まらない。 ここに留まって救出を待ってもいいのかもしれないが、それはゾラの役どころではない。 誰かと合流できればいいんだが、などと思いつつ、ゾラは更に歩みを進める。 影の平原は遠近感が掴みにくく、歩いても歩いても距離が稼げたようには思えない。しかし、おそらく、想彼幻森にいたすべての人々が、同じような思いを味わっているのだろう。何より、変化の乏しい『電気羊の欠伸』にこの事態である。何かが起きたのは明白で、挫けている場合でもない。 そう、気を取り直してなおも進んだ先で、ゾラはその声を聴いた。(強くなりたい。あの人を護れるように。あの人がこれ以上傷つかなくて済むように)「――あの人?」(俺の命。俺の全部。俺の世界。あの人が笑ってくれるなら、俺は何にだってなれるのに)「それは、」(ああ、だけど、機化の神儀に参加できるまであと十年もある。それまで、いったいどうすればいいんだろう。どうして俺は、こんなに無力な子どもなんだろう……俺は、こんなにも護りたいのに。俺を護ってくれるあの人を) 記憶などなくとも、それが自分の声だと判った。 どこから響いてくるのかは判らない。「『あの人』……」 言葉にして唇に載せるだけで心が震え、騒ぐ。同時に、すうっ、と、記憶の隅っこを、背の高い、壮年の男の笑顔がよぎっていく。 厳しさと優しさを併せ持つ、鉄色の髪と瑠璃色の眼を持つ男だ。たくましくごつごつとした、武骨な、武人そのものの身体に、しかし高貴な血ゆえの優雅さと理知、そして懐の広い愛が見て取れる。 彼の、磊落にして陽気、晴れ渡る空のように明るい笑顔を見ているだけで心が奮い立ち、同時に強く胸が痛んだ。「ああ……」 知っている。覚えている。記憶にはないのに、なぜか『彼』が判る。 自分でもよく判らない感情があふれだして、ゾラの双眸を濡らした。「蒼穹都(ソラノミヤ)=タイチ=ラピスラズリ。我が君。俺の王」 無意識に言葉が零れ落ち、「そうだった。俺は……」 ゾラは、自分が、ただひとりの王に仕える武人であったこと、機神兵とは人間が我が身を捧げることで生まれる鋼神とヒトの融合体であること、故郷は無数の国が覇を競い合う群雄割拠の乱世であったこと、彼の故国もまた、大陸の端に位置する小国であったことなどを思い出していた。「そうか。この痛みは、俺自身の内側より来たるものか。俺の中に、この、懐かしく温かい痛みが存在するということか」 戻って来たいくつかの記憶に思いを馳せながら歩くうち、ゆらめく影の平原は消え、彼は黒い茨に覆われた森へと差し掛かる。 このまま進め、と、魂が告げている。 戻ることに意味などないと判るから、無言のまま踏み込もうとしたところで、「どうして?」 傍らから声がかかった。 気配も何もないそれに、ロストナンバーの誰かかと見やれば、そこには自分が佇んでいる。「――お前は」 同時にゾラは、自分が元の姿を取り戻していることを知る。 ゾラは、声の主たるもうひとりの己、先ほどまで自分が『そう』だった、七歳ばかりの姿をしていた。「どうしてだろう?」 幼い己は、ゾラを見上げ、頑是なく問うてくる。「どうして……」 ゾラは苦笑した。 その、『どうして』に含まれる、たくさんの思い、意味がわかる。「どうして、だろうな」 魂は、やはり、まっすぐに進めと告げている。 ゾラは、幼い自分に手を差し出した。「行こう。俺の答えもまだ道半ば……だが、お前を少しくらい、安堵させてやることはできるかもしれない」 未だ記憶の大半は戻らず、なぜ自分が覚醒したのか、彼の王は、国はどうなったのか、わからないことだらけではある。しかし、覚醒し、さまざまな人々と関わり、いろいろな世界を見て、自分は変わったとも思う。 『どうして』の中に含まれた、自分自身への問い。 その答えを知りたいと――感じ取りたいと、ゾラもまた思うのだ。「きっと今ごろ、他のロストナンバーたちも、同じ問いと向き合っているんだろう」 この先に何がいて、あって、それらと出会った結果何が起きるのか、未来は読めない。 読めないけれど、進むしかないのだ。「この向こう側に、俺自身の答えもあるのかな」 つぶやき、少年の手を引いて、ゾラは歩き出す。 黒茨の森は、琥珀のごとき静謐でもって、彼らを迎え、包み込んだ。*このシナリオは、一連のストーリーに沿ったシリーズものではありますが、ご新規PCさんの途中参加も大歓迎です。特に細かいことは気になさらず、お気軽にご参加くださいませ。* *大切なお願い* *『【電気羊の欠伸】Pain and Nostalgia Sonata』と『【至厳帝国ムンドゥス・ア・ノービレ】聖骸の反逆者 二ノ幕』は同時系列のできごとを扱っております。同一PCさんでの、双方への同時エントリーはご遠慮いただけますようお願いいたします(万が一エントリーされ、当選された場合は、どちらかもしくは双方の描写が極端に少なくなる可能性がありますので、重ね重ねご注意くださいませ)。また、なるべくたくさんの方に入っていただければという思いから、人数枠を多めに設定しておりますので、エントリーは1PLさんにつき1PCさんでお願いできればたいへんうれしいです。わがままを申しますが、どうぞご配慮のほどをよろしくお願いします。
1.孤独行 影の平原は、ものがなしげな陽炎を揺らめかせながら人々を迎え、包み込む。 踏み込んだときには確かにあったはずの入り口、『あちらとこちら』の境目は、今やどこからも見出すことは出来ない。振り返れば、ただ、幻影の木々が、寂しげに佇んでいるだけだ。 平原は、物理的に『広い』だけではないのか、ぐるりと周囲を見渡してみても、自分以外の誰かが視界に入ることはなかった。 じわりとした孤独が足元から這い上がる。 しかし、それも、この平原の持つ作用なのかもしれなかった。 「……ああ、懐かしいな」 蓮見沢理比古は、自分の両手を見下ろしながら微笑んだ。 彼は、一衛を心配して『電気羊の欠伸』を訪れていたひとりだった。理比古は、いつものように想彼幻森にいて、いつものように寛いでいたはずだったが、気づけば影の平原に佇んでいたのだ。 「七歳、くらいか。俺にもこんな時があったんだよね」 小さな、無力な両手は、否応なしに、理比古を過去へと連れてゆく。 脳裏をよぎるのは、いつもびくびくと人の顔色を伺っている、怯えた顔の自分だった。 (きょうから、ぼくの?) 七歳と言えば、現在ではすっかり蓮見沢家のオカンと化しているしのびが、理比古の傍仕えとして育成されるべく、遠い故郷を離れて家へ来たころだ。 (ええと……よろしくね) あのころは、日々が辛くて、どこかが痛くて、両親にも言えない恐怖に支配されていた。毎日何かに怯えていて、近づきたくて仕方ない人たちに罵倒され、暴力を揮われて、自分というものに価値を見いだせず、幼いながら苦しんでいた時だった。 そこへ、あの、真っ白な肌の少年が来たのだった。 「ああ……そうだった」 理比古は微笑む。 恐怖も絶望も諦観も、七歳にして舐めつくしていた理比古の世界は、あの時少し開けたのだ。 「今じゃすっかり護ってもらっちゃってるけど、あの時は護らなきゃって思ってたんだよなあ」 故郷で何があったのか、いったいどんな扱いを受けてきたのか、少年の青い眼には理比古以上の絶望と虚無があった。己のような役立たずで無意味な、けがらわしい存在に側仕えのしのびなんて、という劣等感はすぐ、彼を護りたい、笑ってほしい、という思いに取って代わられる。 今でこそ兄と弟どころか母と息子のような関係の彼と理比古だが、その時は、同い年の弟が出来たような気持ちだったのだ。 弱音も吐かず、泣きごとも言わずに厳しい訓練、鍛錬に耐え、慣れない言葉につまづきつつも着実に学んでゆく、その懸命な――今にして思えば、『それしかなかった』からなのだろうが――姿に、理比古は胸を打たれた。 そして、彼と仲よくなりたい、家族になりたいと強く思ったのだ。 だから笑顔で接することに決めた。 急に踏み込むようなことはせず、しかし親切に、屈託なく、好意を持って。反応の薄さにもめげることなく、根気強く、忍耐強く接し続けているうち、絶望ばかりだった少年の眼に変化が現れた。 ぼそぼそとしゃべるようになり、少し笑うようになり、理比古に好意を示してくれるようになった。ふたりだけで部屋にいるときは、じゃれたりふざけ合ったりするようにもなった。 絆、そう、絆だ。 そういうものが少しずつ強くなって行って、 (あやのことは) 義兄たちに暴力を揮われて熱を出した夜、まだ決して堪能ではない日本語で、 (あやのことは、おれがまもるから。ぜったいに) 憤りと悔しさと無力感――しかしそこには『生きた』感情があって、朦朧としながら安堵した覚えがある――に拳を震わせ、泣きながら誓ってくれた。 それを思いだすと、理比古は穏やかな気持ちになる。 「俺って、結局幸せ者なんだよなあ。いつだって、誰かが俺のことを生かしてくれてるんだから」 小さな歩幅を、むしろ懐かしみいとおしむように踏みしめながら、理比古は影の平原を進む。 「だから……恩返しをしないと。俺を生かしてくれる、たくさんのものに」 ひとつの想いを胸に抱いて。 ゆらゆらとゆらめく不安定な光景も、今の理比古にとっては慈しみの対象だ。 ロウ ユエもまた、想彼幻森に来ていたところであの黒い茨に呑まれた。 「……さっきの、あの茨……」 裾の長い、動きにくい衣装で、苦労しながら前へ進む。 誰にも出会わず、何の連絡も情報もないのに、進しかないことを心のどこかが理解しているからだ。 「何かあったということなんだろうが、いったい全体、どうなっている……?」 脚に絡む裾をつかみ、がくりと肩を落として溜息をつく。 「九歳……くらいだったか、これだと」 ユエは今、典型的な姫君の装束を身にまとい、不自由な様子で平原を歩いている。男児に女児の出で立ちをさせれば丈夫に育つ、両親がその習わしに縋った気持ちが今となれば理解出来るから、溜息をつきながら、ユエは文句も言わず歩き続けた。 九歳当時と言えば、とにかく虚弱で、両親や守役に心配をかけていたころだ。 ずいぶん疲れやすいし、何より小さな歩幅ではなかなか前へ進まない。 そして、何より、 「……それにしても」 何かに追い立てられるような感覚が、ユエに眉をひそめさせる。 不安、焦燥、諦観、疑問、希求。 そういったものが、ユエの記憶と心を、音を立てながら流れてゆく。 (なぜ私はこんなに弱いんだろう) 子どもの嘆息は、哀しげで切実だ。 (どうすれば、強く大きくなれるんだろう?) ユエは苦笑した。 この感覚は、幼いユエが、日常的に抱いていたものだったのだ。 「そうだった。あんなに頑張って、一生懸命食べたのに、なかなか身にはならなかったんだよな」 吐きそうになりながら苦い薬も飲んだ。 泣きそうなくらい痛い注射も我慢した。そのおかげで、腕は穴だらけだ。 それでも、ユエの身体は、一向に丈夫にはならなかった。何かあればすぐに熱を出して寝込み、鍛錬などしようものなら翌日は起き上がれないほど疲労した。座学だけは突出していたが、それだけで選王家の子としてつとまるものではない。 『皆と同じ』ではどうしようもないのだ。 負った不利は、その程度で消せるものではない。 (どうしたらいいんだろう、どうしたら。――だけど、父様と母様には訊けない、また哀しませてしまうもの) すでに七人の我が子を亡くし、ようやく授かったもうひとりも再びなくすかもしれないという恐怖で、母は心を病んでいた。彼女にとってユエは、ユエという個人でありながら、今までに失われた息子娘たちの依り代でもあったのだ。 母は時おり、ひどく哀しそうな――痛みに満ちた目で、ユエを、彼が会ったことのない兄や姉の名で呼び、ユエが本当は誰であるのか忘れる。 ユエは、幼いながら聡明であったので、母の状態を理解していた。 普段は、とても優しい、ユエを誰より愛してくれる母だ。 彼女をこれ以上苦しめたくなくて――どんなに忙しくても自分と母を気遣ってくれる父親を心配させたくなくて、幼いユエは、内側に渦巻く不安を押し隠し、膝を抱えて丸くなるだけだ。 瀬尾光子は、複雑な溜息とともに自分の両手を見下ろしていた。 ゆらゆらと定まらない影の平原で、己が手だけがやけにリアルだ。 「……年齢的には7歳ってところか。思い出すね、あの日迷い込んだのもこんな森だったか……」 六十年。 言葉にすればそれだけだが、今、ここに至る道のりは、ただ遠かったとしか言いようがない。 (逃げろ、光子!) という、切羽詰まった父親の声を聴いた気がして、光子は思わず周囲を振り仰いだ。――もちろん、そこには誰もおらず、ただ影が寂しげに揺らいでいるだけだ。 「ほんとに、遠い昔だねぇ」 瀬尾光子の父親は、東洋の魔術結社の一員で、しかもかなり高い地位にあった。 組織に対して、少なからぬ影響力と発言力を持っていた彼は、組織の腐敗を目の当たりにしておそらく失望し、信頼できる友人にあとを託し、自分は引退した。自分が所属し、夢や理想を語ったこともあるかもしれない、そんな組織が、これ以上腐っていくのを見たくなかったのだろう。 隠居した先での、家族との日々は、娘の光子から見ても穏やかなものだった。 読書と土いじりを楽しみ、家族との団欒を貴びながら、父は、このまま平凡な父親として、一生を閉じるつもりでいたはずだった。 しかし、組織はそうは思わなかった。 その辺りは光子の想像だが、穏健派の彼が、未だ強い影響力と発言力を持つことを恐れた他派の連中から、過激で強硬な策が出され――もしかしたら、過去の罪など捏造さえされたかもしれない――、結果、彼らは父の抹殺を実行する。 「東洋魔術結社が、こともあろうに西洋の黒魔術に手を染めるなんざ、始末におえん」 連中は、西洋の黒魔術をもって悪魔を呼び出し、その力を使役して瀬尾一家を亡きものにしようとしたのだ。 襲撃があった日、一家はごくごく普通の一日を過ごしていた。 光子は軒先で遊び、父は庭で花の手入れ、母はおそらく夕飯の支度をしていたはずだ。 予兆はなかった。 ただ、長年、目に見えぬエネルギーとともに生きてきたからか、父親だけがそれに気づいた。最初の震動より一瞬速く、血相を変えて走り寄った父親が、光子を突き飛ばした。 次の瞬間、手品のような唐突さで家が崩れ、彼女以外を飲み込んだ。 最期の言葉すら、交わすことは許されなかった。 しかし光子には哀しむ間とてなく、捕まれば殺されるという本能的な恐怖に駆られて逃げた。事実、背後からは、ヒトならぬ凶悪な何かが迫っていた。 「ああ……あの時は必死だったね。よくもまあ、あそこまで逃げられたもんだ」 微苦笑は、次いで嘆息に取って代わられる。 「何の因果だったんだろうねぇ、あれは」 光子の心を察知して招いたのか、それとも、招いたのは光子自身だったのか。 我に返った時、彼女は、魔女の森に佇んでいたのだった。 彼女の人生、運命は、そこで大きく曲がり、歪んでしまったのだ。 ふと気づくと、影の平原に立っていた。 歪、誰かがそう呼んだ気がしたが、それは自分の名前ではないと打ち消す。 では自分は何者だっただろうかと根源的な問いが込み上げるが、 「あ……?」 浮かんだ疑問は言葉になる前に氷解する。 黒江家の男子として、武家の後継ぎとして、恥ずかしくない男にならねばならぬ。昇太郎、そのために、何が必要か判るな? ゆらゆらと揺れる影が、厳格な父親の言葉を口々に紡ぎ出す。 それに追い立てられるように、昇太郎は歩き出した。 子どもには大きすぎる黒鞘の刀を、お守りのように抱きかかえ、少年はふらふらと進む。 見知らぬ、見たこともないような、茫洋とした景色に恐怖が込み上げるが、怖がっているところなど外に出すわけにはいかない。黒江家の後継ぎとして相応しい、強い男子でいなければ、父親を失望させてしまう。 「はい……はい、わかっています、父上」 うわごとのようにつぶやき、遠近感の測りがたい不可思議な風景の中、一歩一歩進んで行く。進んで行くしかなかった。どうして自分がここにいるのか、ここはどこなのか、どうすれば帰れるのか、何も判らないのなら進好かない。 先ほどまで自分は、屋敷の一室で勉学に励んでいたのではなかったか。 このあと、父と鍛錬をする予定があったはずだ。 父は、決まりごとを破り、約束を守らなかった昇太郎を許しはしないだろう。そう思うと泣きたくなるが、泣くことすら父は許すまい。 「帰ら……ないと」 名門・黒江家に生を享け、父に厳しく育てられた。 しきたりでともに暮らすことを許されず、母のこともわずかにしか知らない。 下働きに来ている女たちが、昇太郎坊ちゃんの遊び相手に、と自分の子どもを紹介してくれた時、世の中には、母親といっしょに暮らすことが出来る人たちもいるのだ、と少なからず驚いたものだ。 母の愛をいっぱいに受けて笑う子どもらの屈託のなさに、どれだけまぶしい思いをしただろうか。 しかし、昇太郎少年にとって何より大切なのは、武士としての、父親の期待に応えることなのだ。 父に、よくやった、と言ってもらえるなら、昇太郎はいくらでも努力をするだろう。父が、嫡男である自分にどれだけ期待しているか――黒江家の繁栄を願っているかを知っているから、なおさらだ。 「父上を、がっかりさせるわけには、いかない」 歯を食いしばり、一歩進んだところでけつまづき、転んだ。 擦りむいた膝がじわりと血がにじんだが、それを気にかける余裕すらなかった。 ――自分の力で立ち続けるしかないのだ。 誰かに頼ることも、諦めて折れることも許されはしない。 脆く孤独な刃のごとき生きかただ。 それでも、彼は、他に方法を知らないのだった。 ツリスガラがちょうど『電気羊の欠伸』を訪れていたとき、事件は起きた。 夢守からの依頼を受けたのは、『心』にこだわった何者かがその中心だと聞いたからだ。 「心……心とは、結局のところ、何なのだろう?」 発せられる声は、普段の己のものより高い。 そして、どこか懐かしい。 懐かしい、と感じることもまた懐かしく、ツリスガラは、己の小さな手のひらを見下ろした。 「私は……」 白の夢守・十雷から、この不思議な現象の原因を調べてほしいと頼まれた。 調べるというからには、内容は調査がメインだろうと考えていたが、『心』のゆえに責務を拒否し、囚われたその人物と会えれば、自分が失って久しいそれを取り戻す手がかりになりはしないかと、彼女はかすかに期待しているのだった。 しかし、今、その期待がばかばかしいほど、彼女の内面には感情が満ちていた。 あの時確かに失われ、今や彼女の中からは零れ落ちて久しいはずの、心というもの。それが、幼いころへと戻ったツリスガラの中には、あふれ弾けそうなほどにあって、 「戻ってきた……違う、今だけ?」 ツリスガラは胸をぎゅっと押さえた。 心の奥底から、音楽への愛が、家族への愛が、友への愛が湧き上がってくる。 (みんな大好き。だいすき) 邪気のない声がどこかから聴こえたような気がした。 現実の彼女は、もはやそれを思い起こすことすら――理解はできても、実感として認識することは――出来ないが、確かに昔、ツリスガラは、無邪気で感情豊かな、まわりにあるたくさんのものを愛し、愛される、普通の少女だったのだ。 「それは、こんなにも普通のことなのに」 惜しむように我が身を抱きしめる。 幼い、華奢な身体は、しかし、心を失ったツリスガラが、『心を失っているという認識を保ちながら、わずかな時間だけ戻ってきた【心】の感触を確かめている』という不可思議な状況下においてなお、エネルギーに満ちて瑞々しい。 それは、幼さゆえの発露であったのか、それとも、心というモノのゆえであったのか、今のツリスガラには判然としなかった。 煌白燕は、己が掌を、無言のまま見下ろしていた。 小さな手だ、と思った。 「こんなにも、小さかったのだな」 声にもまた幼さが混じる。 ひととき、『あの頃』へと戻った身体は、否応なしに思い出を連れてくる。 ――白燕は一国の王の長子として生を享けた。 兄か弟がいれば、政とも争いごことも縁遠く、姫として屈託なく生きることが出来ただろう。 しかし王に子は白燕のみ。 そして、王妃たる母は、白燕を生んでしばらくのち、亡くなった。 父は、母を深く愛していたのか、それとも次の妃を娶る暇もなかったのか、結局世継ぎは白燕に決まった。 父は、王としては立派な人物だった。 賢君と名高く、民を憩わせ、国の平安と発展に力を注いだ。国は栄え、人々は幸いを享受し、王を、国を愛した。 しかし、だからこそ、王たる父は、白燕と、父親として接する機会をほとんど持てなかった。 多忙のあまり言葉を交わすことすら難しかったが、厳しいだけの父ではなかったと思う。やさしい言葉をかけられた記憶もある。期待されているのだと知っていたし、それに応えねばとも思っていた。 しかし、白燕にとっての『家族』は、乳母と、乳兄弟である忠星、このふたりだった。 「……私は確かに愛されていた。それが判るから、私は立てた」 世は戦乱。 国は次々と興り、滅び、増えては減って、また次が始まる。 そんな時代だった。 だからこそ、家臣は世継ぎの白燕が女性であり、しかもひとりだけだということを不安に思っていた。 当時の、まだ幼い白燕ですら、その数が少なくないことを理解していたし、家臣たちの前では、年若い小娘と侮られぬよう『豪胆な王の子』を演じていた。事実、彼女には王としての器があったようで、それは決して不自然ではなかった。 そんな、本当の己を押し隠し――否、どこの、どれが真実の自分であるかなど、もはや白燕には判らない――、『女でありながらいずれ王の座を継ぐ者』に相応しくあるために勉学に鍛錬に励む日々が、ずっと続くのだと思っていた。 「窮屈ではあったが、厭うてはいなかった。私には愛するものがいたし、愛されてもいた。父上は私を、ただの後継ぎという道具として見ていたわけではなかった」 王に、父としての、我が娘への情がなかったとは思わない。 さもなくば、どこぞの身分ある姫君を娶り、男児をもうけていたはずだ。 愛する妃との間に生まれたひとつぶだね。 しかも、父や臣下を不安にさせまいと研鑽に励む、健気な娘だ。 そこに、なんの愛情もなかったとは、白燕自身、思わない。 「……出来ることなら、もう少し、話がしたかったな。私たちは、お互いに、もっと、知るべきだった」 しかし、父は唐突に逝った。 思いを伝え合う暇もなく、幼い白燕は王となった。 「天地が引っ繰り返るような、とは、あのことを言うのだろうな」 彼女の日々は、そこから、大きく変わっていったのだ。 玖郎は、どこか茫洋と影の平原を見つめていた。 亡くした妻の記憶や言葉の欠片を求めて、想彼幻森を訪れていたはずだったが、気づけばここに立っていた。事情などはまったくわからないが、何かが起きたという実感はある。 翼を動かしてみる。 やけに不慣れな感覚があった。 これでは、飛べるかどうかもあやしい。 「何があった?」 声には幼さがある。 手を見下ろし、身体のあちこちを動かし、自分が雛のころに戻っていることを確認する。 ――原理など判るはずもない。 しかし、天狗の持つ本能めいた感覚は、何も危険を告げては来ない。 『電気羊の欠伸』と呼ばれるこの領域は、玖郎たちがこれまでに繰り広げてきたような、喰い喰われる競争とは無縁なのだ。それは、何かしらのエネルギー暴走を――玖郎の感覚から表現すれば、理のずれを――起こしているように思える現状においても、変わらない。 「……でぐちを、さがすか」 朴訥につぶやき、歩き出す。 先ほどまで、周囲に誰かの気配を感じていたのに、今は玖郎ひとりだ。 身体が雛のころに戻ったことで、察知する感覚も狭まっているのかもしれない。 「……」 他に出来ることもないので、無言のまま、延々と歩き続ける。 猛禽と似た身体構造を持つ天狗は、長時間歩くということにあまり向いていない。覚醒してターミナルに住まうことで多少は慣れたが、幼鳥の身にこの距離は堪える。 しかし、つらいとか苦しいという感情は、玖郎の中ではっきりとしたかたちにはなりにくく、彼はやはり、無言で、淡々と、ゆらめく平原を歩き続けるのみだ。 (どうして?) 茫洋と歩く間に、脳裏では声が聞こえていた。 己の声だ。 声は、誰かに問うている。 問うて、求めている。 「……ああ」 玖郎は頷いた。 母のことだと気づいたからだ。 玖郎の母は、天狗の一族がすべてそうであるように、人間の女だ。 天狗の妻となる女たちは、人身御供よろしく人間の集落から差し出されてきたものが大半で、玖郎の母も例に漏れず、日照り続きの村を救うため、雨の見返りにと立てられたものだった。 人間の腹から生まれながら、人間のあまりにも豊かすぎる感情を理解しきれない天狗は、母親にとってどのように映っていたのだろうか。 (……) 伝わる沈黙は、母の態度を如実に知らしめる。 母親に抱かれた記憶はない。 むしろ、避けられていたように思う。 言葉なしにそれを察し、玖郎はいつしか温もりを請うことをやめたし、近づくのもよしとはされぬと感じていた。 (たすけて) 息絶え絶えのそれは、幼鳥玖郎が金気のものに噛まれて力を奪われ、すんでのところで命を落としかけたときのものか。 玖郎はすぐそばにいた母親に助けを求めたが、母は、気づかなかったはずがないのに、自分へと近寄ることなく――自分では金気のものに太刀打ちできぬから、というだけではなく――立ちすくんでいたように思う。 (ごめんなさい) 嗚咽は、危ういところを父に救われ、朦朧としている意識の片隅に聞こえてきた。母の声だ。 その時、幼鳥玖郎の胸を満たしたのは、わずかな疼きを伴った諦めだった。 これは仕方のないことなのだ、と。 ――と、そこへ、 「不思議だな」 不意に声が聞こえた。 敵意はないから危険ではない。 もっとも、身を護るすべもない幼鳥に、危険が迫ったからといって何が出来たわけでもないだろうが。 「だれだ」 雛の声で問えば、相手はくつくつと笑った。 見やれば、そこには、漆黒の髪と、不思議な形状の瞳孔を持ち、黒に覆われた全身に、木の枝にも虫にも布にも石にも見えぬ不思議な線や突起を持った、この『電気羊の欠伸』においては珍しくもない者が、そこには立っている。 「いちえ、か」 言えば、小首が傾げられる。 かたちこそ同じだが、現在姿をくらませている黒の夢守とは雰囲気が違った。あれはどことなく玖郎と似た朴訥さを持っているが、これは悪童のような、それでいてすべてを突き放すような冷ややかさを醸し出している。 「今のアレが消去されたあと、そうなるかもしれない可能性のプログラムだ」 ざっ、と音がして、一瞬姿がぶれる。 「実体はない。この意識がかたちを持ったのも、ほとんど偶然だ。まさか、封獄の制御を取り込んで暴走させるとは……黒羊も、ここまで予測はしていなかっただろうな。『心』というのは厄介というか、面白いというか」 彼には判らないことを言い、『可能性』と名乗ったそれは、どこかあどけない仕草で小首をかしげる玖郎を見つめた。 「怨嗟と無念が種をつくるか……ヒトとはすさまじいものだな」 スキャンという機能を玖郎は知らないが、この領域において無窮の力を誇る夢守ならばという納得もある。 「種のはじまりというもに思うところはすくない。天狗という一族は、そのありかたをまっとうするだけだからだ」 言うと、可能性はかすかに笑った。 「だが、それでも、母の愛は乞うんだろう」 ひとの怨嗟が天狗という種族を生んだ。 天狗は、ひとの愚かさをあざ笑うように――それとも、繰り返し味わわぬために、か――、ひとに似た姿を持ちながら鳥のように淡泊に、己が生をまっとうしてゆく。 しかし、天狗も、母の温もりを求めるのだ。 そして、それが得られぬことを、諦めもするのだ。 確かに奇妙なことだと思う。 同時に、ひとという、厄介で複雑なものの残滓が、まだ天狗の中に息づいているのかもしれない、と漠然とした意識を抱きもする。 「……母はひとだ」 「ふむ?」 「我が子とは言え、己の腹から出でし化け物を厭いこそすれ、慈しむなどとは、と」 それが、長じて知恵を得た玖郎が、半ば、己を納得させるために――諦めを正当化するために出した結論だった。そこに何かを感じ取ったのか、黒の夢守の姿をしたそれが目を細める。 2.私は羊 テオドール・アンスランもまた、幼い己と向き合い、あの時の記憶を反芻していた。 そのとき彼は、ふたつの悩みと哀しみを持っていた。 ひとつはその瞳。 彼の持つ黄金の双眸は、人間である母の種族にはなく、闇の翼の一族出身である父親の血であっても珍しいものだった。 子どもという生き物は残酷だ。 自分と違うものを排斥する能力において、大人となんら変わりがない。 当然、テオドールの金瞳は、排他的感情の的となった。 もうひとつは、父が探す『鋼の竜』に関すること。 今でこそ、それが、故郷へとやって来ていたロストレイルだと判っているが、その当時は何ひとつ証拠もなく、父の言葉以外に実証できるものはなく、それでも父を信じて絶対に見つかると主張し続けるテオドールは、格好のいじめの的となったのだった。 当然のことながら、ロストレイルはあの世界のものではなく、ゆえに他者へ示せる確たる証拠など存在しない。 それでもその存在を主張し、鋼の竜を探し続ける父は嘲笑の対象だったし、それを頑なに信じ続けるテオドールもまた、うそつきだと馬鹿にされ、相手にされなくなっていた。 「そういえば、こんな日もあった」 瞳の色を馬鹿にされ、うそつきとなじられて、泣きながら家に帰ったことがあった。五歳くらいのことだったか。 その時に聴いた、 (テオドールの眼はとてもきれい。鋼の竜の実在は私には判らないけれど、それを懸命に探すお父さんはとても素敵だから好きよ) 母の言葉は、幼いテオドールを安堵させた。 (困難に負けぬ強い意志と望みを持ち、努力を続ければ報われるはずだ。私はそう信じる) 初めて鋼の竜の話を聞いた時、冒険者になれば自分も会えるかと問うたテオドールに、父親は力強く答えてくれた。連鎖的にそのことを思い出し、テオドールは唇を引き結ぶ。 (考え方も感じ方も、ひとによって違うのよ。哀しいことだけれど、差別や偏見は存在する) いつだったか聴いた、母の教えが脳裏をよぎる。 (でも、ひとの哀しみ喜びを、自分のそれと同様に受止めることは大切。自分の幸福を求めるように、ひとのそれを願いそのために尽くしなさい。そうすれば、外見に囚われず本質を理解して愛してくれる誰かが必ず現れるわ) それを真実だとテオドールは信じる。 だからこそ、今、こうしてここにいる。 それが判るから、テオドールの歩みはゆるぎなく、確かだった。 枝折流杉は特別な感慨を持って影の平原を歩いていた。 彼は、アレグリアへ友人に会いに来ていた。 そこへ、夢守たちから話を聞いて、ここへ赴くことになった、というわけだ。 「“世界”を護りたいと願ったのは、さて、何百年ぶりかな」 声は幼いが、言葉には力がある。 「……護れると思う? 『Visual Dreama』を守れなかった、僕に。自信も確証もない、けれど……」 つぶやきの向こう側に、流杉は大切な人の笑顔を見ている。 「クレオ。君が、『今』を幸いとともに生きるこの世界を、僕は護りたい」 かすかに笑い、自分の姿を見下ろした。 彼は、自作のキャラクターである“にゃぼてん”を抱えている。 そして、心の中には、たくさんの恐れが渦巻いている。 外から見れば、きっと無表情だろうと思った。 「そう、無表情でいなきゃ、立ち続けられないって思っていたんだ」 流杉は、己を誇示し、他者を挫く造形絵師として育てられた。 今でも思う。 自分は、両親にとって最良の『作品』だっただろう、と。 自身を護れない、という意味でなら確かに彼は“無力”な子どもではなかった。 けれど、 (怖い。壊すのは怖い。だって、あの絵にも、何かの願いや想いがあったはずなのに) (でも、壊さなきゃ。壊し続けなければ次は僕が、僕の絵が壊される) (ああ、でも違う、違うんだ、僕が描きたいのはこんな絵じゃない、こんな怪物じゃ) (でも壊されるのは嫌だ、来ないで、構わないで、でないと僕は君までも傷つける) (描けない、僕の、絵、描けない、でも、描かなきゃ……) (描きたい。だけど描けない。こんな僕に、何が描けるっていうの) まわりのすべてに怯え、絶望し、どうすればいいのか判らないまま絵を描き続ける流杉は、現状を変える力を持たないという意味であれば、確かに“無力”だった。 「それでも、気付けば、黒の造形絵師だなんて大層な二つ名で呼ばれていたんだよね」 苦笑し、にゃぼてんを抱えて平原を歩く。 今や彼の根幹には大いなる喜びと安堵が満ちていたから、流杉は過去の自分に引きずられる必要がなかった。 「大丈夫。僕は歩ける。……行こう」 魂の平安を許された黒の造形絵師は、黒の守護造形絵師となって、大切なものを護るために邁進するのみだ。 黒燐もまた想彼幻森にいたひとりだった。 彼もまた、一衛を案じて、いつもの森に来ていた。 先ほどまで、周囲にはいろいろなロストナンバーの姿があったはずだが、空間が膨張したということなのか、今の彼はひとりきりだ。 しかし、この場所が自分を傷つけるためにあるわけではないと判るから、黒燐には焦りも恐れもない。 「うーん、五歳くらいかな? 今の僕よりまだ小さいよねー」 冷静に状況を確認しつつ、 「……何があったんだろう。茨の牢獄は、なぜあふれたんだろう?」 今回の事件の発端について思いを巡らせている。 「強い力を持つ存在、荒ぶるモノどもを綴じ込めるための封獄……いったい、だれの意志で? なんのために?」 否、それはもしかしたら意志によるものではないのかもしれない。 「判らないな。まずは、ここを抜けるしかないみたいだ」 思考しつつ足は止めず、黒燐は、幻想に揺れる平原を進む。 更に小さくなった身体と歩幅では、なかなか距離を稼ぐことはできなかったが、 「あはは、思い出すなあ」 黒燐は焦るでもなく笑っている。 (計斗、計斗) (ほら……お茶を淹れたよ) 脳裏をよぎる声は、両親のものだろう。 加茂計斗、それが黒燐の本名だ。 (わーい、おまんじゅうだ、ぼくだいすき!) はしゃぐ計斗は幸せそうだ。 「そうだったなあ」 今まで忘れていた、とでもいうように黒燐はつぶやく。 「仲、よかったんだよね。愛されていたし」 もうずいぶんと時間が経ったから、黒燐自身、ほとんど忘れていた。 今の自分とは違った意味で無邪気な計斗を思うとき、分かたれていった道を否応なく思い出す。 「……忘れてたよ」 やさしい両親の声と、はしゃぐ自分。 そんなことは、もう、遠い遠い記憶のかなたのできごとだったから。 オゾ・ウトウは、影の平原を黙々と歩いていた。 歩きながら、時々、辺りを確かめるように周囲を見渡す。 「不思議な光景ですね。何が、ここをつくっているんでしょう?」 シャンヴァラーラを訪れるのはこれが初めてだった。 シャンヴァラーラは、報告書で読んで、気になっていた世界だ。 報告書によって伝えられる情報から、何かが起こりつつあることを知り、より気にかかるようになった。そして、ついに思い立って訪れた先で、黒茨に巻き込まれたのだ。 「しかし……」 自分の掌を見下ろす。 おそらく十歳にもなっていないだろう。 翼を得る方法など知らなかったころの、頑是なくも満ち足りていた少年時代だった。 「なぜ、なのだろう」 ゆらめく平原を進みつつ、独白する。 なぜ翼を得たいと思ったのか。あんなにあの仕事に就きたいと思ったのか。 こうして、おそらくオゾの将来を決定したであろう多感な少年時代へと戻ってみても、その根本は判らない。 「……理由など、必要なかったのかもしれないけれど」 父がそうだった。 祖父もそうだった。 故郷を、誰かの営みを護る仕事がしたかった。 いうなればそれだけのことなのかもしれない。 「きっと、僕は幸せだったんでしょうね」 ぽつりとつぶやく。 故郷の集落、オゾが護り切れず――過信によって損なわせてしまった――そこは、いつでもそれなりの危険にさらされていた。 覚醒し、異世界をあちこち旅してみて判ったが、それは何も、オゾの故郷だけのことではない。生きとし生けるものはみな、日々の営みの中で、危険というものにさらされている。 だから、別に、自分の故郷だけがたいへんだったなどというつもりは、オゾにはないし、何よりオゾは、尊敬できる両親をはじめとした大人たちに愛され、護られていた。教えてもらえないこと、うまくいかないこと、いくつかの別れなど、等身大の悩みを持ちつつも、前向きに人生を歩んで行こうと思っていた。 そんな少年時代を、オゾは懐かしく、少し哀しく思い起こすのだ。 ダンプ・ヴィルニアは、弾むような声を聴いた。 『僕も、あんな風に格好よくなりたい!』 微苦笑が口元に浮かぶ。 「……ああ、最初は、それでござったな」 ダンプがここを訪れていたのはほとんど偶然だ。 黒い茨に飲み込まれ、不思議な平原へと放り出されることになろうとは思ってもみなかったが、冒険者として世界中を駆け巡ったダンプに恐れなどなく、むしろこの状況を楽しんですらいた。 それに、吸血鬼に噛まれて変貌してしまった現在とは違い、幼少時に戻った己の身体は妙に清々しい。 幼いころの記憶が連れてくる、いくつかの言葉と想いを、ダンプは微笑とともに反芻している。 「変わった御仁でござった。東の島より至ったと申しておったかな」 ダンプ少年が冒険者を目指したのは、とある戦士との出会いがきっかけだった。 周囲にはいないタイプの戦士に、ダンプ少年はすぐ夢中になった。 あの戦士のように強くなりたい、格好よくなりたい、最初は、たかだかそれだけの気持ちだった。 「いやはや、やんちゃ坊主であったことだ……」 なんでも真似したがる孫の顔を思い出しながら、ダンプは顎を撫でる。 いやはやと言いつつ、その目は満足げだし、嬉しそうだ。 「血、でござるかなぁ」 冒険者や世界のなりたちなど何も知らぬ、無垢で単純な子ども時代だった。 しかし、あの時代があったからこそ、今のダンプはいる。 今は亡き妻に会うこともなかっただろう。 そう思うと、あの時の出会いに感謝するほか、ないのだった。 舞原絵奈は影の平原を心許なげに歩いていた。 「……なんだか、寂しいところ」 ゆらゆらと揺らめく影の木々、陽炎の岩、足元のおぼつかない大地は、絵奈のもとへ、どうとも表現できない感情を連れてくる。 「でも……なぜかな、どこか安らぎを感じる。それって……私が、この場所のように黒い心を持った人間だからなのかな」 絵奈がつぶやくと、 「ここは断罪と同時に赦しと安らぎの場所でもある。そこから判るように、決して黒は邪悪の象徴というだけではない。特にこの黒の領域で、黒を悪しきもののように扱うのはやめてもらいたい」 どこか憮然とした声が響き、彼女は文字通り飛び上がった。 振り返れば、 「あっ、えっ、一衛……さん?」 そこには、漆黒の髪と、不思議な形状の瞳孔を持ち、黒に覆われた全身に、木の枝にも虫にも布にも石にも見えぬ不思議な線や突起を持った、この『電気羊の欠伸』においては珍しくもない者が、そこには立っている。 「違う。いや、そうとも言えるが、そうではない。今のアレが消去されたあと、次の自我になるかもしれない可能性のひとつだ」 ざざっ、と音がして、姿がぶれた。 「可能性……?」 「ただのプログラム、ということだ。実体は持っていないし、この意識がかたちを取ったのもほとんど偶然だ」 それが言うように、かたちこそ同じだが、現在姿をくらませている黒の夢守とは雰囲気が違った。あれはどことなく朴訥な雰囲気を持っているが、これは妙に頑なそうな、それでいてすべてを観察するような冷ややかさを醸し出している。 「アレは囚われているのか、捕らえたのか。消えたいのか、残りたいのか。……不可解だな、『心』というものは」 彼女には理解の及ばぬ何ごとかを独白したのち、それが絵奈を見る。 絵奈は思わず謝っていた。 「あの、ご……ごめんなさい」 「何が?」 「黒い心、なんて、言っちゃって」 さまざまな要素を司る黒の領域において、その色が死や邪悪や断罪ばかりを表したものであるはずがないのに、つい口にしてしまったことを謝罪する。夢守もどきは軽く肩をすくめただけだった。 「あ」 絵奈は唐突に声を上げた。 屈託なく笑う己のヴィジョンが流れ込んできたからだ。 今、彼女が転じている、幼いころの己。 「私……子どものころの記憶がないんです」 背筋を、悪寒とも期待ゆえの武者震いとも取れぬ震えが這い上がる。 思わず言葉を口に出したのも、恐れのゆえだった。 「昔の私は、どんな感情を抱えていたのか、知るのが怖くて……」 「なら、知らないままにすればいいのでは?」 「……だけど、知りたいんです。何があったのか。知らなきゃいけないって思う」 夢守もどきの冷淡な言葉にうつむきつつ、絵奈は流れ込んでくる記憶をたどる。 ――幼い絵奈は笑っている。 とても幸せそうだ。 素直で、無邪気で、家族が大好きで、家族に愛されている。 けれど、狭い世界に閉じ込められて、窮屈で、自由がほしいと思い続けている。外の世界への希求で、弾けてしまいそうなエネルギーを内側に抱き続けている。 どうやら、彼女の父は、世俗を避けて暮らしていたようだった。 幼い絵奈は、大きな屋敷で、箱入り娘のように育てられたらしい。ほとんど、屋敷に閉じ込められていたといってよかった。広い庭で遊ぶ彼女は、しかし、家族以外を目にすることが出来なかった。 (ねえ、お外に出たいよ) (駄目だ、外は穢れでいっぱいだから) 興味、好奇心、欲求。 自分たち以外の『誰か』と出会ってみたい、話してみたいという願望。 そういったすべてを抑えつけられ、幼い絵奈の心は苦しんでいる。 けれど、家族が自分を本当に愛していること、幸せを願ってくれていることが判るから、皆を心配させないようにずっと我慢している。溢れ出しそうな希求を抑えつけ、溜め込んで、必死にふたをしている。 それが、幼い絵奈だった。 「やっぱり……」 ぽつりとつぶやく。 「子どものころからずっと、今に至るまで、自分を抑えてきて、いい子でいようとしていて……それが積もりに積もって爆発しそうになってるのが今の私なんだ、きっと」 絵奈は、自分の身体をぎゅっと抱きしめた。 この中に、その莫大なエネルギーが渦巻いているのだ。 それがあふれだすことを恐ろしいと思いつつ、望んでいる自分がいるのも確かなのだった。 古城蒔也は、どこか愉快な気持ちで平原を歩いていた。 身体の大きさ、状態からして、六歳ごろの姿に戻っているようだ。 「原理とか判らねぇし、どうでもいいけど」 幼い身体は、未だ成長しきることのない心によく馴染む。 長い間迷子になっていて、ようやく帰ってこられたかのような安堵感がそこにはあった。 「なんだろ……すげぇ、ホッとする」 だから、ただ歩くだけでも楽しい。 歩幅がいつもより小さいのも楽しい。 そうやって、楽しみながら進んでいた蒔也だったが、 「……あ」 気づくと、父親の姿を探している自分に気づき、髪をくしゃっと掻き回した。 六歳と言えば、蒔也にとっての世界そのものだった実父が、彼の目の前で死んだころだ。この姿は、いうなれば、蒔也の人生においてもっとも大きな転機となった時期のものなのだ。 「おとうさん……」 父は、いつも自分の手を引いて歩いてくれた。 幼い蒔也の歩幅に合わせ、急かすことなくゆっくりと。 世間では、破壊に悦楽を見出し、情け容赦なくすべてを壊す凶悪犯罪者として、恐怖と憎悪の対象として見られていた実父だが、蒔也にとってはただの、子煩悩でやさしい父親だった。 「……こんなとこに、いるはずねぇんだけど」 彼は死んだのだ。 追い詰められ、蒔也の前で、自らを爆発させて。 と、不意に、 (蒔也) 父親の声が聞こえた気がして、蒔也はきょろきょろと周囲を見渡した。 それが、記憶のどこかから発せられたものだと知って、少し失望したけれど、声が聴けることは純粋に嬉しく、耳を澄ます。 「そういや……覚えがある、ような……?」 ベッドの中で、微睡みながら聞いたのだったか。ひどくおぼろげだが、実父の声は限りなく優しくて、蒔也は幸せな気持ちになった。 (蒔也、おまえもいつかきっと私と同じ獣になる) (おまえと同じものを壊すようになったらとても楽しいだろう) (しかし、私はどうにも心のどこかでそうならないことを願ってるようなんだ) (……幸福になりなさい、蒔也。私とは違う存在になりなさい) やさしい声が、子守唄のように蒔也へと投げかけられる。 しかし、彼は困惑していた。 「……どういう、ことだよ……?」 父は、蒔也に、自分とは違うものになれという。 それはつまり、爆発と破壊に快楽と喜びを見出し、壊すことによってのみ充足を得る、壊すことが愛情表現……という、今の蒔也ではいけない、ということだ。 「幸福ってなんなんだ、おとうさん。俺は……おとうさんといっしょのほうが、うれしいのに」 父の言うことが理解できない。 父の想う幸福が何なのか判らない。 けれど、それが世界一大好きな父の言うことなら叶えなくてはという思いもあって、蒔也はしばし、呆然とその場に佇むのだった。 ニコ・ライニオは、これまでに出会った乙女たちの記憶の欠片を求めて想彼幻森へやってきていた。 幸運にも、乙女たちがニコへ向けてくれたやさしくも甘やかな想いの果実をいくつか見つけ、とても幸せな気持ちで森をあとにしようとした辺りで黒茨に飲み込まれたのだった。 「おー……これは、懐かしい、ねぇ……」 ニコは、自分の姿を見下ろして苦笑する。 彼は今、小さな竜へと転じていた。 「うんうん、そうだった。このころはまだ、人化する方法なんて知らなかったんだよなあ」 初めの乙女と出会うまでまだかなりの間がある、そんな時期だ。 小竜の世界は小さな山の中だけ。 親を知らず、同族が存在することすら知らず、ただ、ここが自分の土地なのだと、自分が存在することでこの地に豊穣を与えているのだと本能的に悟っていた、そんなころだった。 小竜は、緑深き豊かな山、小さな世界から、そっと耳を澄ませていた。 ここで、こうして緩やかな時間、永遠にも近しいそれを過ごしてゆくのだろうと、そうすることで世界を潤してゆくのだろうと、漠然と感じていた。 「まさか、ひとと交わることになるなんて、ひとがあんなに美しくて素晴らしい生き物だなんて、知らなかったもんなあ」 ニコは、小さな尻尾をぱたんぱたんと動かしつつ、感慨深げにつぶやく。 「僕は幸せ者だ。機会という運命を得た。そうじゃなかったら、大切な人と出会うこともできなかった」 今は隠れてしまって見えない、薬指の指輪を思いながら微笑む。 それを幸運だったと確信を持って言える。 自分は、このために生まれ、生きてきたのかもしれない、とも。 3.手をつなぐ 影の平原を抜けたところで、黒い茨に覆われた森に差し掛かった。 このまま進めと心が囁くまま踏み込めば、傍らにはいつの間にか、『あの時』の幼い己がいる。 その姿は、驚くほど小さかった。 ああ、己にもこんな時期があったのだ、そんな感慨とともに見下ろす。 「なぜ?」 幼い唇が、頑是ない、他愛ない問いを紡ぎ出す。 言葉を失う間に、あちこちで同じ光景が見られ、ああ彼らもやはり来ていたのだ、と安堵する。 黒茨の森は光を遮るほど薄暗く、しかし、周囲を見るのに苦労はない。 そこでは、皆が、頑是ない問いへの答えを、自分なりに紡いでいた。 テオドールは、幼い己の問いを真っ向から受け止めた。 「なぜ?」 なぜ金瞳であるだけで差別されるのか。 「そうだな。今は敬愛する両親、双方の血ゆえと受け入れることが出来た。立ち直る力は得たが……心が傷つく事実に変わりはない。だけど、俺は思うんだ。哀しみを否定すればするほど苦しみは増す。なら、受け止め共感することで涙に変え、流してしまったほうがいいのじゃないか、って」 「どうして?」 どうして人は、鋼の竜は見つからないというのか。 「眼に見えないものを信じることは、とても困難だし勇気のいることだ。父さん母さんの言葉を覚えているか? 俺は、あの教えを真理だと思う。信じようと思う。……お前も、それを信じればいいと思う」 幼子は一生懸命理解しようとしている様子だったが、 「……わからない。わかるような気もするし、わかりたいけれど」 テオドールの言葉は、五歳の己を納得させるには少々難しすぎるようだった。 たとえそれが自分であっても、気持ちを伝えるとは難しいことだ、と、テオドールは苦笑する。 苦笑しつつ、幼子の手を引いた。 「……行こう。この先に、何かがあるはずだから」 幼い己へ向けて語ったそれは、テオドールに、自分が父母に愛されているという事実を再認識させる。 「俺は、感謝しなきゃいけないんだろうな。だからこそ、俺自身も、父母や大切な人たちを愛し、生きなくちゃいけないんだろう」 まぶしい金瞳は、決意と喜びを載せて、穏やかに輝いている。 流杉は、やわらかい、許容の微苦笑とともに幼子を見下ろしていた。 「どうして?」 見上げ、問うてくる己の手を引き、ともに歩く。 「うん……どうして、だろうね」 幼い己は、にゃぼてんをしっかりと抱きしめていた。 不安そうな、寄る辺ない面を、慈しみを持って見つめる。 ――返したい言葉ならいくつかあった。 けれど、その多くは、押し付けられる価値観と奪われる恐怖に凝り固まり、身動きもできなくなった幼い自分には届かない言葉だと知っている。 「そう、だな」 「え?」 「届かなくたって、構わないけど」 歩幅を合わせ、ゆっくり歩きながら、流杉はまた微笑んだ。 「これだけ、言わせて」 「うん……?」 にゃぼてんを、まるで唯一のよすがであるかのようにひしと抱き、見上げる己は、とても幼く見えた。 (ああ。僕は僕の犯した罪に苦しみ続けていたけれど――それは、確かに償わなければいけないことかもしれないけれど。あの時の僕は、こんなにも幼かったんだ。こんなにも怯えていて、こんなにも追いつめられていたんだ。――僕は、この僕を許そう。誰が糾弾し、罪を暴き立て、裁くとしても、僕だけは間違いなく、この僕を許そう) 泣きたいような甘受とともに、流杉は口を開く。 声が震えないよう、少しだけ苦労しながら、 「――……長い旅に、なるよ」 万感の思いを込めて、告げる。 これからも、消えてしまいたいほどの苦しみは続くだろうけれど、死にたがりであればあるほど、しぶとく生き延びることを、流杉はもう知っているから。 「わーい、やっぱり今の僕よりちいさーい」 予感めいた何かがあった。 そこにいた、今の自分より幼い己と手をつなぐ。 「ねえ、なぜ?」 彼が問うてくるのにも、予感はあった。 黒燐は苦笑する。 「うん。僕が天人族について研究し始めたからだよ」 加茂家は格式高い、由緒ある水行天人族の家柄だったから、天人が天人について研究するなどという前代未聞の行為は、両親には到底受け入れられないことだったのだ。 「だから、仲が悪くなったんだよね」 「……どうして?」 「うん、そう、後悔はしてないんだ。僕は知りたかったから。連綿と続く、天人という存在が、なぜ、どうして、ここにいるのか。何をなし、何を行い、何を残すのか。僕は、この種が行きつく先を知りたかった」 「それから?」 「あはは、うん、成美が僕たちを取り持ってくれたからね。妹って偉大だよね。そうそう、実家に帰ったあと、役人になったのも、両親の体面を保って家格を下げないためだったよ。成美の負担を減らしたかったっていうのもあるんだけど」 それはほとんど成り行きだったが、しかし、役人になり『黒燐』になった計斗は、そこでもまた面白いものを見つけた。わくわくできるものを見つけた。 「こっそり論文とか書いちゃったよね。写本もしてもらったし……悪くないよね、こういうのを運命っていうのなら」 だから黒燐は、躊躇わず幼子の手を引くのだ。 彼の先にあるものが、紆余曲折は経るにしても、よき未来であることを知っているから。 オゾは、先ほどまで自分が転じていたのと同じ、十ばかりなる少年の姿を目にして言葉を失っていた。 「なぜ?」 それは確かに、少年のころの自分だったが、 (自分が事故で死なせてしまった少年も、このくらいの年頃だった……) オゾはむしろ、そのことに胸を突かれる思いだった。 「どうして?」 幼い己の発する言葉が、己へと向けられる問いが、別の意味を伴って聞こえる。 「……それは……」 だから、放っておくことはできなかった。 邪気のない顔で見上げてくる自分の手を引き、ともにゆく。 少年の歩幅の小ささに、自分にもこんなに小さい時期があったのだ、と奇妙な感慨を抱きつつ、オゾの意識は黒茨へと向かう。 「なぜ?」 「……そうですね。なぜ、あれは暴走したんでしょう。元凶がある、ということなんでしょうか? どこへ行って、何を探せば、解決策がみつかるんでしょうね……」 それが人為的なものなのか、それとも自然災害なのかもまだ判らない。 ただ、邪悪な意思によるものではない、誰かを傷つけたいという願望のゆえではないという確信はあって、オゾは黒々と茨がわだかまる、森の奥を見つめる。 「行きましょう。この先に、きっと、答えがある」 その答えが、自分の進む道にも何かをもたらすかもしれない。 期待とも不安とも取れぬ感情を抱きながら、オゾはなおも歩く。 「どうして?」 ダンプは、元気いっぱい問うてくる己へと苦笑を落とし、 「ふむ……恋、愛、を知らぬ子どもには、少し早い気もするが。それでもよければ、どれ、歩きながらでも……それとも、こちらのほうがよろしいか?」 小さな走竜人を抱き上げて肩車をした。 喜び、はしゃぐ少年を見上げ、 「それがしは確かに妻の血を吸って、彼女を殺したでござる。そして、そうやって永らえた己の身を、再帰属させて、妻の墓前で灰になろうとしている」 聞いているかどうかも判らない彼へ、とつとつと語る。 「死ぬつもりなら吸わなければよかったのに。死ぬと知っていて、妻もどうしてそんなことをしたのか。――色々と矛盾しているでござるな」 少年が頷き、ダンプを見下ろす。 ダンプは、慈愛めいた笑みを浮かべた。 「互いに、互いが苦しむことが……離れるのが、いやだったからでござるよ。例え吸血鬼になって、種族として敵になったとしても。それまで育まれた愛は消えぬ。そして、それは時には己が命も凌駕する、それだけのこと」 妻は知っていたはずだ。 自分を差し出したところで、妻を失ったダンプが永く生きられるはずがないと。 しかし、知っていたとしても、我が身を捧げただろう。 ダンプが、妻の想いを知りつつも、墓前で最期を迎えることを選択するように。 傍から見れば、それは愚かな、滑稽な行為なのかもしれない。 しかし、ダンプと妻にとって、あれは、この上もない、愛の確認だった。 『傍にいる』『愛している』『離れない』『離さない』『ずっとあなただけ』。 それらすべてが、あの時、妻をすべて己が内へと収めた夜に行われ、確かめられた。 ダンプは、それを、至高の幸いだったと断ずる。 「?」 少年は首をかしげている。 ダンプは軽快に笑い、黒々とわだかまる茨の森、その奥まであと少し、といったところで少年をおろした。 「……ふふ、だから、愛を知らぬ子供にはまだ早いでござろう?」 難しい本を読んだような顔をしている幼い己の頭を撫で、 「いつの日か、手前にも……十年ちょっとあとでござるかな、その辺りで、判るときがくるでござるよ。無論、はじめからではなかろうが……やがて、の」 ダンプは森の奥を見つめる。 「それがしは、妻の墓前に参らねばならぬ。それまで、立ち止まることなく歩み続けねばいかんのでな。――さ、行こう。この先に、何かあるようでござるから」 促して、彼は少年の手を引く。 未だ恋も愛も知らぬ幼い己は、屈託のない笑みを見せ、頷いた。 「どうして苦しむの?」 絵奈の目の前で、幼い彼女が、苦しさなど微塵も見せることなく無邪気に笑っている。 「それは……」 息苦しくなって、思わず胸を押さえた。 今にもあふれだしそうな感情を我慢できず、苦しんでいる今の自分が、この子どもよりずっと小さくてつまらない人間のように思える。 「今は自由の身でしょう? 我慢する必要も苦しむ必要もないのに。どうして?」 「だっ……だって!」 思わずむきになり、ハッと気づいて赤面する。 過去の己に、しかも幼い少女にむきになる、その理不尽さ滑稽さが判らぬ絵奈ではない。 しかし、言葉はあとからあとから湧いて出た。 「もし我慢をやめたら、私きっと本当にひどい人間になる。今だって、人を痛めつける夢とか、見るし。でも……我慢するのは苦しい。私、どうすればいいの?」 解放されたい。 けれど、解放されたとたん、自分はとんでもない罪を犯すのではないか、という恐怖が消えない。 「判らない……自分が怖いの。私、これからどうなっちゃうんだろう。ねえ……怖い、怖いよ……」 救いを求めるように、しゃがみ込んで彼女の手を握った。 滑稽だと知っている。けれど、涙が止まらない。 少女は、不思議そうに、自分の手にすがりついて泣く絵奈を見ている。 「あなたは痛いのが好きなの?」 「えっ? いいえ、そんな」 「そう? だって、ひとを痛めつけるっていうことは、自分も痛めつけられる覚悟があるっていうことだよ。自分の大切な人が痛めつけられる可能性を知るっていうことだよ。そして、痛めつけたひとが、もしかしたら自分の大切な誰かにとって、かけがえのない存在かもしれないっていう想像力を持つことだよ。そうでしょう?」 「あっ」 「我慢はぜんぶが悪いことなの? 我慢をやめたとき、すべて悪い方向へ転がって行ってしまうと思うのはどうして?」 「……そ、それは」 一瞬、幼い自分の姿に、先ほどの夢守もどきが重なったような気がした。 あれは平原を抜けると同時に姿を消したはずだったが、少なくとも今、絵奈へ向けられている問いは、あの日の少女が持ち得た言葉ではなかった。 「あなたは護りたいものを持っている? 護りたいもの、大切なものがあっても、我慢をやめたとたん、ひどい人間になってしまうと思うのは、どうして?」 単純で他愛ない、頑是ない問いを、少女の口を借りて夢守もどきが発している。そんな気がして、絵奈は沈黙する。 「わ、私……」 また、判らなくなって、絵奈は少女を見上げる。 少女は、可愛らしく小首をかしげて、絵奈を見つめている。 蒔也が少年を見つけるのに、それほど時間はかからなかった。 「何でかな、会えると思ったんだよな」 手をつなぎ、手を引いて歩く。 自分が、在りし日の父になったようで、なんとなしにくすぐったい。 「ねえ?」 子どもが首をかしげる。 「ん?」 「どうして壊すの?」 「どうして壊しちゃ駄目なの?」 問いに問いで返すと、子どもはまた首をかしげた。 「そうだね、どうして駄目なんだろう。……かなしむ人がいるから、とか?」 「それは誰?」 「うーん……誰だろう。おとうさん?」 子どもが言って、蒔也は考え込む。 「おとうさんは、幸せになれっていうけど。幸せって、どういうことだろう? 俺は、おとうさんといっしょが幸せだって思ってたのに、そうじゃねぇんだって。お前、判る?」 大人であるはずの蒔也のほうが、子どもに質問している体たらくだ。 精神年齢という意味ではそれほど違わないと自覚しているから、おかしなことではないのかもしれないが。 蒔也の問いに、子どもはにこっと笑った。 「わかんないけど、わかる。あのね、おとうさんといっしょにいるときみたいなのがいい」 頑是ないがゆえに、まっすぐで真摯な言葉。世界も疑いも知らない子どもの、愚かで可愛らしい、純粋な答えに、蒔也は沈黙する。 その答えが正しいのかも、間違っているとしたらどこなのかも、今の蒔也には判別がつけがたい。 小さな竜は、ひどく不思議そうにニコを見ていた。 本能のような感覚で、それが自分と同じ存在だということは判ったようだったが、 「どうして人間の姿をしているの?」 当然の問いを、彼は発した。 「ん?」 ニコは微笑み、一度、元の姿に戻った。 身の丈五メートルばかりある真紅の竜が、次の瞬間には滑らかにひとのかたちをとる。小さな竜は、目をぱちくりさせるばかりだ。 「そうだなあ」 ニコは悪戯っぽく片目をつぶってみせた。 「教えたいから、かな」 「教えたい?」 「うん、そう」 「なにを?」 「人間のこと。人間っていう、愛おしい存在について」 「いとおしい? どういうこと?」 森の奥を目指すという共通した意識のまま、並んで歩きながら、ニコは口を開く。 「そうだな、まずは何から話そうか――」 ニコに世界を見せてくれた。 ニコに愛を教えてくれた。 ニコに未来を与えてくれた。 これまでに出会い、心を交わした彼女たちからもらった、あたたかな気持ちを教えたい。 その一心で、ニコは言葉を紡ぐ。 4.目を合わせ 解は唐突に与えられる。 「なぜ」 問うてくるそれは、確かに雛の己だった。 白い産毛の残る羽、表情に乏しい顔。 天狗の雛とは、しかしそんなものだ。 ひとの子のように、ころころと表情を変え、笑い、泣き、転げまわって遊ぶようなことはしない。――母が望んだ我が子とは、そういった存在だったのかもしれないが。 しかし、彼の疑問を解いたのは、幼鳥玖郎の姿ではなかった。 その背後に影の如くある、同じかたち、同じ姿で、違う経路をした雛だった。 「……おまえは」 闘技場で、廃城で、玖郎とよく似た見知らぬものが、殺意と憎悪を以て訴えていた。それを覚えている。 己は確かにここに在ったのだと。 何度も『それ』と出会うに至って、玖郎は理解した。 過酷な環境下において、充分な親の庇護を――栄養状況である場合が大半だ――受けるため、兄弟を殺す鳥がいる。 天狗に双子はまれだが、皆無ではない。 玖郎の記憶にはないが、おそらくあれは、彼が自我を得るより早く、『自分がより強く生きるため』に喪わせた、彼の双子の弟だった。 ――疑問が氷解したのは、その時だ。 「母、は」 当然、彼女は見ただろう。 玖郎が、弟を、同じ母の子を殺めたさまを。 それは、人間である母にとって、どれだけ恐ろしい行いだったことか。 「そう、か」 すべてに合点がいって、玖郎は、毛玉のようにわだかまる雛たちを見降ろした。 死が生につながり、より強き個が先を得る。 それは、自然という厳しい理の中では至当の在りかただ。 そうして強いものが生き、種は強靭に整えられてゆく。 けれど、ひとはそれを是とはしない。 その理を、こころというもので拒絶する。 なぜ、なんのゆえに、と。 「だが……そうだな」 天狗は、遥か昔、ひとの無念が生み出した種だという。 玖郎にそれを理解することはできない。 だが、世界の理に従わぬ、理不尽で不合理な在りかた、そういうものがあるのだと、ひとの腹から生まれた身として――母から息子の片割れを奪った身として、せめて納得のひとつくらいはしてみるべきかもしれない。そんな、天狗にあるまじき、ある種の複雑な感情は、あの、夢守の姿をした『可能性』が、彼に与えていったものなのかもしれなかった。 白燕は、無言で少女を見つめていた。 彼女の目の前にいるのは、王になったばかりの幼い白燕だ。 不安で不安でたまらず、しかしそれを口にして臣下を、民を混乱させてはならないと、そのようなことになっては亡き父に申し訳が立たぬと、唇を噛みしめて前を――前だけを睨みつけていた彼女自身だった。 「……行こう」 少女へと、白燕は声をかける。 「おまえは(私は)ひとりではないよ」 少女は、彼女が自分だと判るからか、 「本当に?」 すがるような目を向けた。 真実の彼女は、父王の死に涙も見せず堂々と振る舞う新王ではない。 あふれ、こぼれ出しそうな不安と必死に戦い、与えられた役割を果たそうと震える足を隠して立つ、年相応の顔をした少女にすぎないのだ。 「ああ。さあ、彼らのところへ帰ろう」 「かれら……忠星たち?」 「そうとも。彼はいつでも私とともにあろうとしてくれる。そう約束した。家族とは、そういうものだろう」 「……うん」 少女王はうなずき、白燕の手を取った。 手をつなぎ、しばらく歩いたところで、 「なぜ私は女に生まれたのだろうか? 男児であれば、臣下も民も不安は抱かなかっただろう。父に歯がゆい思いをさせることもなかっただろうに」 少女は、ぽつりぽつりと、胸のうちを語った。 それはまさに、当時の己が痛切に感じていたことだったので、 「性別など、ふたつにひとつの賭けのようなものだ。それは確かに何らかの意味を持つかもしれないが、それだけで人間をどうこうできるものではない」 白燕は、自分へも言い聞かせるように言葉を発していた。 「女として生まれたからと嘆く必要などなかったのだ。なぜなら、王になるため、王であるための努力は、男でも女でもかわらない。私たちは必死で努力をしたな。戦いの技を高め、符術を磨き、政を学んだ。それは、間違いなく、私たちの糧となって生きている」 だから何を恥じる必要もないのだと言えば、少女王は唇をキュッと引き結び、頷いた。 手のひらから伝わる温もりに微笑みつつ、白燕はまた、歩みを進める。 幼いころの、弾むようなエネルギーを秘めた自分を目の当たりにし、ツリスガラはほんの少し、動揺していた。 「どうして?」 満面の、楽しそうな――活き活きとした笑顔で、己が問う。 ツリスガラはそれを、どうして心を取り戻そうとするのか、という意味だと受け取った。 取り戻したところで辛い思いをするだけなのに、と。 「……たとえそうだとしても。もしかしたら、また捨てようと、壊そうとするとしても」 幼い己へ、というよりは、今の自分自身に言い聞かせるように、ツリスガラは言葉を重ねる。 「わたしにはそれが必要なのだと、『経験』が言っている」 実感として理解はできずとも、記憶として意味の判る、経験というもの。 かつての、そしてディアスポラしてから得たそれらが、口々にそう言うのだ。 「ターミナルで音楽を奏で続けて、心がかすかに揺れるたびに思う。自分はきっと、音楽が本当に好きだったのだろう、と」 「じゃあ、なぜ?」 「わたしは確かめたい。確かめたい、という願望は感情の発露でもあるな。わたしはきっと、それを取り戻した自分を見てみたいんだ。絶望し苦悩することになるとしても、それを自分の心で受け止めたい。だから、かな」 音楽や家族、自分を取り囲み包み込むたくさんのものごと。 ツリスガラはその、たくさんのものが本当に好きだった。それは、実を言うと、子どものころから何ら変わっていないのではないか、とも思う。 「……待っていてくれ」 ツリスガラが言うと、少女は不思議そうな――しかし、すべてを知っているような顔で、微笑んだ。 「必ず。わたしは、いずれ、お前を取り戻す」 その誓いには、確かに、『思い』がにじんでいた。 歪は、不安げな子どもの手を引いて歩いていた。 子どもは、盲目の歪に驚いていたが、歪自身は何ら不便を感じることがない。 「だいじょうぶ?」 「もちろんだ。心配ない、俺はすっかり慣れているから」 子どもをなだめながら、森の奥へと進んで行く。 「あそこに……いるのか」 なぜだか知らないが、歪には判る。 茨の奥、真ん中に、姿を消して久しい黒の夢守がいるのだと。 このまま放っておけば、きっとひどく後悔するようなことが起きるだろう、と。 鋭い棘で、まるで威嚇するような――否、内部に何かを閉じ込めるためか――様相を見せる黒茨を踏み越え、真っ直ぐに進む。その足取りは確かで、迷いがない。 「怖く、ないの?」 子どもは黙って手を引かれていたが、ややあってぽつりと問いを口にした。 盲目のまま歩くこと、何にも寄りかかれずに進むこと、その双方への問いだと気づいて、歪は唇を笑みのかたちにする。釣られたように、子どもが笑うのが判った。 「怖くないさ」 「どうして」 「ひとりで立っているわけではない」 覚醒し、多くのものを見、知り、友と家族を得た。 彼らなら、たとえ自分が道を失っても、その先を示してくれるだろう。 光を失いはしたけれど、視えるモノはたくさんある。 「本当を言うと、ひとは皆、そういうものだ。いつかお前にも判る時が来る」 「本当に?」 「ああ。だから、焦らずに、目の前にあるたくさんのものを受け入れていけばいい。道は、必ず交わる。永い苦しみも、哀しみも無力感も、決して無駄にはならない」 彼が、これまでに歩んできた道は、歪を裏切りはしなかった。 それが判るから、歪の言葉には、揺らぎがない。 光子は、衝撃のあまり表情をなくした子どもを、溜息交じりに見ていた。 「……こいつをほうっておくとあとが大変そうだし、連れて行くしかないかね。はぁ、シャーロットでもつれてくるんだったよほんと」 組織の襲撃を受けて家族を失い、気づけば魔女の森へと流れ着いた日、あの日そのままの自分を連れて、光子は億劫そうに黒茨の森を歩く。ここだけのことだとは思うものの、あの日の自分が受けた苦しみ、哀しみ、絶望が判るから、放置するのも忍びない。 「ねぇ、どうして?」 幼い日の自分が、光子に問うてくる。 光子は肩をすくめ、息をひとつ吐いた。 「因果応報ってやつかね、果たすべき責任から逃げたからそうなったってだけさ。そんなところは、あたしも両親に似たらしい」 父は、組織の歪みを、汚れをただすべきだった。 しかしそれをせず、放置した結果、あの禍の日を招いた。 「あたしも逃げたからここにいる……両親を笑えやしない。悪魔に唆され、悪魔の力を得て、その結果多くを失った」 人としての感情、家族の温もり、かけがえのない親友、魔術以外の道、死後の安寧、――そして、故郷。 「その時の復讐心に任せず、自分の足で歩むべきだった。悪魔に何かを捧げずとも、強く生きれる人間はたくさんいたからね。あたしもそのひとりになれる可能性があったのに、自ら捨ててしまった」 望んでのことではなかった。 損得や欲によるものでもなかった。 しかし、それが、もはや取り返しのつかないことだというのもまた、事実なのだ。 「……くだらん話をしたね、行こうか。ああ、そろそろ悪魔が唆しに来るころだ。もし出会っちまったら、いいかい、こう言うんだ。『力が欲しいなら、ほかをあたれ』ってね」 もはや取り戻せぬ未来と知って、戯れに声をかければ、この先に何が待ちうけているかなど知る由もない、幼い己は、ちょっとだけ笑って頷いた。 感情を失っていなければ、光子は、そんな姿に、胸を締め付けられたのかもしれなかった。 小さくてか細い、ほぼ間違いなく女児に見える子どもを、ユエは無言で見つめていた。 「そういえば、こんな感じだったか」 護り手兄弟に、尋ねようか尋ねまいか、ぐるぐると悩んでいたころの姿だろう。 尋ねるにしても何と言えばいいか、三日三晩悩んで、どうすれば大きくなれるかと訊いた。 「答えは……なんだったかな。たぶん、何の変哲もないものだったんだろうな。なにせ、今の俺が覚えていないから」 長老派の襲撃を経て異能は発現したものの、相変わらずの虚弱で寝込んでばかりだったころだ。 折り合いの悪い長老たちからの要求水準は相変わらず高く、あの手この手でつぶしにかかってくる。おまけに、いずれ一門のものにユエが所持する異能を『継承』させることになるだろうという話まで聴いてしまった。 それはつまり、ロウ ユエという人間はいなくなるということだ。 自分より優秀な誰かに『喰われ』てなくなるということだ。 やさしい両親、護り手兄弟、そういう人たちの前から、自分がいなくなるということだ。 その日を思ったら、心臓が凍えるような感覚に襲われて、二日ほど寝込んだことを覚えている。 けれど、誰かに相談できるはずもなく――特に、両親には――悶々としていた、そんな時期だった。 「なぜ?」 子どもがユエを見上げ、問う。 「……どうしてだろうな」 何に対する『なぜ』なのか、思い当たる節が多すぎて答えられず、ユエはそう言うにとどめた。 それから、子どもの頭を撫で、手を引いて、ゆっくりと歩き出す。 迷子がふたり、彷徨うようなものだ。 そう思うと、やけにおかしかった。 理比古は、痩せて昏い眼をした幼い自分を、微苦笑とともに見つめていた。 子どもは、いろいろなものに怯え、絶望していたが、その小さな胸の中で、夢や希望や願いというものも育んでいた。理比古は、誰よりもそのことを知っている。 「なぜ?」 「うん……なぜだろうね。なぜ、大好きな気持ちは届かないんだろう」 「なにが?」 「うん、本当に、何が足りなかったんだろう」 「どうして」 「うん。どうしてこんなに、それでも大好きなんだろうね」 今さらその気持ちを消せるはずがない。 もう、消さなくてもいい。持ち続ければいい。 そんなふうに思う。 まるで言葉遊びのようなやりとりのあと、理比古は子どもの手を引いて歩き出した。 「大丈夫、怖くないよ。夜は長いかもしれないけど……いつか、辿りつける場所は必ずあるから」 歩幅の小さな子どもに合わせ、ゆっくりと歩く理比古の眼には、慈愛めいた光があった。 「本当に?」 「うん。だって、だからこそ、今の俺がいるんだ」 一度立ち止まり、子どもと目を合わせた。 「このまま歩こう。俺たちは不幸じゃない」 微笑みかけると、子どもは唇を引き結んだのち、頷いた。 「がんばる。あきらめたくない、から」 「うん……いい子だね」 自分にいい子って言ったってただの自画自賛かな。 そんなことを思いながら、理比古は前を見た。 それぞれが、もうひとりの自分との邂逅を経て、何かを確認しながら進む。 森を抜けるころになると、いつの間にか、子どもは、姿を消している。 5.茨の牢獄 森を抜けた先に、それはあった。 「……一衛!」 理比古が声を上げる。 歪は小走りに傍へと寄った。 「どうして、こんな」 理比古の声には嘆きが混じった。 黒茨の森の真ん中、すべてのロストナンバーたちが行き着いた先で、幾重にも絡み合い、鎖の様相を呈した茨によって、黒の夢守は全身を絡め取られ、半ば宙づりにされるかたちで綴じ込められている。塔のようにそびえ立つ茨は強固かつ頑丈で、引っ張ろうと刃物で斬りつけようと、びくともしなかった。 見れば、茨は、一衛の身体の中にまで潜り込んでいた。 夢守に痛覚があるのかは判らないが、やけに寒々しく、痛々しい。 磔刑に処される殉教者は、確か、こんなだったか。 不思議な瞳孔のある眼は閉じられている。意識はないのか、それとも、何らかの『調整』を受けている最中なのか、ロストナンバーたちが声をかけても、夢守は身動きひとつしなかった。 「これは……一衛が望んでのことなのか」 茨の牢獄に触れ、ツリスガラが言うと、 「どうだろうね」 黒燐は夢守を見上げながらつぶやいた。 「これ……このまま放っておいたら、どうなるんだろう」 彼の疑問には、絵奈が答えた。 「あの、私……『今のアレが消去されたあと、次の人格になるかもしれない』っていうプログラムと会いました。アレって、このひとのことですよね……?」 「消去? 次の人格? じゃあ……この一衛は、また、消されてしまうっていうこと?」 黒燐が眉根を寄せると、ツリスガラは思案する風情をみせた。 「わたしは……一衛がそれを本気で望んでいるならそれもいいのではないかと思う、が。一衛自身が、心から望んでいることならば」 「だけど、僕には、これが一衛さんの望みには見えないんだけど。そもそも、この封獄をこしらえたのは誰なんだろう?」 「……くろひつじだ、と、おれは別の『ぷろぐらむ』とやらから聴いた。今のこれは、いちえが、くろひつじの制御を失わせた結果だとも」 玖郎が朴訥に応えれば、黒燐はたまりかねたように声を上げた。 「ねえ、一衛さん。きみ、本当にそのまま消滅してしまおうっていうの? 僕はそれ、すごくもったいないと思うんだけどな。だって、消滅しちゃったら、心を知ったきみの物語はそこで終わりなんだもの。だから……」 それ以上はうまく言えず、押し黙る。 その傍らで、玖郎もまた、茨の塔に綴じ込められた夢守を見上げている。 「もろともを呑んで往け……肉を食み身をつくるがごとく。重ねた記憶でおまえのこころはできてゆく、そういうものなのだろう」 玖郎は、無量の力を持つ守護者ですら、こころを選んだがために滅びに瀕している、その事実に首をかしげていた。厳密な『ぷろぐらむ』とやらで出来ている夢守ですら、滅びぬために維持するのみではないらしい。 「ますます、判らん……だが、今、この場において、思いを馳せることを悪しき行為とも思わん。ふしぎなものだ」 維持と存続は種のつとめ。 しかし、『そう』ではないものがいて、まったく別の理由で自らを危機にさらすものもいる。 己には出来ぬ在りかたかもしれないが、自分とは交わらぬそれへわずかに踏み込むことで、母や、結局心の内側を掴めぬまま逝かせてしまった先の妻の想いに触れられるかもしれない。 そう、玖郎は思い至る。 「すごいな。罪人を閉じ込めるみたいだ。……それは本当に罪だったのかな」 流杉は黙って茨の牢獄を見上げていた。 「まさか、こんなことになっているなんて思いもよらなかったけれど……」 ひんやりとした黒茨に触れ、見上げる。 「一衛。僕の長い旅を、君は知っているだろう。僕はやっと判ったんだ……理解できたし、許そうと思えた。今は、この長い旅を、続けたいと思っているよ。その話を、出来れば、君や他の夢守たちにも聴いてほしいんだ」 再誕都市アレグリアでの再会が、流杉に新しい道を示した。 希望を与えてくれた。 今、流杉は、何百年ぶりかも判らないほど久しぶりに、生きてみよう、このまま歩いてみようと思っている。 「僕は君たちに、この世界に感謝してるんだ。君が戻ってきたら、お礼を言いたいな」 穏やかに告げる流杉の隣で、オゾは黙り込み、考え込んでいる。 何か言ってやりたいと思うのに、かけるべき言葉が見つからない。判らないのだ。 ひとであれば、『知る』とはとても大切なことだ。 知ることでひとはつくられてゆく。積み上げられてゆく。 強くもなるし、やさしくもなる。失敗もするだろうが、何かを得てもゆく。 しかし、この夢守は、知ってしまったがゆえに、夢守ではなくなろうとしているのだという。 「何か……僕に出来ることは、ないでしょうか……」 同時に、思い至ったことがある。 自分はなぜ生きているのか、自分の生には何か意味があるのか、これまでずっと思い悩んできた。怠慢によってひとの命を奪ってしまった自分の生の意味を、どうやって見つけるべきなのだろうか、と。 しかし、今になって思う。 答えを探すだけではなく、自らその意味をつくってゆくことが、あの少年の命に応えることではないだろうか。 「それが正しいのか、正しくないのか……僕は、それをこれから、たしかめなければ」 つぶやき、見上げた先で、黒の夢守は静かに目を閉じている。 微睡んでいるようだ、と、オゾは思った。 「一衛さん……」 絵奈は途方に暮れたような顔で茨の塔を見上げている。 ぎゅっと胸を押さえ、唇を噛む。 幼い自分の姿をした何かが、新しいことにたくさん気づかせてくれた。 自分には、まだまだ知らなければいけないこと、学ばなければいけないことがある……と、思う。 「だけど……やっぱり、苦しいことに変わりはないね」 それは絵奈が、自分の内側で渦巻くものを醜いと、自分勝手で汚いと感じているからだ。 「一衛さん……私の中身を見たら、あなたはなんて言うのかな。それもひとだ、って笑ってくれる? ――そんなふうに笑い飛ばしてくれるひとが、どこかにいるのかな」 わけもなく確信してはいる。 『本物』の一衛はきっと、だからこそ人間はまぶしいんだと、絵奈のすべてを肯定してくれるだろう。それは生きているからだと、絵奈自身が耐え難く醜く感じている内面を受け止めてくれるだろう。 「あなたと、お話ししてみたいな。話を聴いてほしい……あなたの話を、聴きたい」 絵奈の独白めいたつぶやきに、黒い金属片の埋め込まれた指先が、かすかに動いた――ような、気がした。 蒔也もまた、陽気でおしゃべりな彼には珍しく、先ほどからずっと黙り込んでいる。 ややあって顔を上げ、 「一衛、あんたにとって、消えることは幸福か? 俺にとっては幸福に含まれること……の、はずだけど……どうだったかな、よく判らなくなってきた」 常の彼には珍しく、歯切れ悪く話しかける。 「それとも、寂しいのか。どうなれば、一衛は幸福になるんだろうな? ――おとうさんのいう幸福って、なんなんだろうな?」 蒔也の思う幸福は、ずっと、何かを壊すことだった。 最愛の父と同じように、何かを壊すときに感じられる、彼の面影と出会うことだった。 しかし、父は、蒔也に幸福になれと言う。 それは、父とは違うものになることだという。 「判んねぇな。なんなんだ、これ。なんで、なにが、どうしてなんだろう」 永く停滞していた精神に、唐突に与えられたその概念は、蒔也をくるくると混乱させる。 「壊してりゃ幸せなのかと思ってたけど、今でもそれ、否定できねぇけど……そうじゃねぇのかな」 首をかしげる蒔也へ、 「幸せって、難しいね」 ニコは声をかけた。それから、彼もまた茨の塔を見上げる。 「あんたの幸せって、どんなんだ?」 「僕? 僕は……そうだな、愛すること、かな」 「……漠然としてるな」 「そうだね。でも、ほんと、それが僕を言い表す言葉の大半だと思うんだ」 笑い、茨に触れた。 それは滑らかで、ひんやりとしていて、いわゆる植物ではないことは明白だった。これに身体を貫かれ、囚われている夢守を憐れだと思う。どうにかしてやりたい、とも。 「君と直接会ったのは、アレグリアでの一度だけだったけど……」 妙な親近感を覚えている、というのが正直なところだった。 助けてやりたい、とも感じている。 「ヒトの心は、儚いけれど、強い。愛さずにはいられない、それが本当によくわかる。僕だって、もし自分が消えてしまうとしても、愛することを止められはしないだろうってね」 ひとの心がニコを今のニコにした。 ひとの愛が、今のニコを幸せにする。 だから、それを知った夢守を、世界も種族も越えて、同胞だと感じるのだろう。 「だけどね、同じくらい、ひとを愛する心を持ったまま、君に消えてほしくないとも思うんだ。だって……黒燐も言ってたけど、もったいないじゃないか」 ね? と、ニコが小首を傾げてみせると、一衛の手が動いた。歪は確かにそれを見た。 「帰ってこい、一衛」 声をかけると、ヒクリと瞼が動く。 「俺は、また、おまえと肩を並べて歩きたい。危機が迫るのなら、戦いたい」 歪は、思いのままに率直な言葉を紡いだ。 彼の抱く、この感情の意味を、今の一衛は理解出来るだろう。 見知らぬ旧友は、今やかけがえのない友となりつつある。 感情を理解しきれぬまま、それでも、一衛は、歪や彼の親友のために手を貸してくれた。彼らが再び出会うための手助けをしてくれた。 そんな一衛が積み重ねてきたもの、得てきたものを、歪は貴びたい。 たとえ相手が黒羊であろうとも、間違いだなどとは言わせない。 「一衛。お前が消えてしまうのは、かなしい」 歪の、朴訥で純粋な言葉を、理比古は微笑みとともに聴いている。 彼らの目の前で、夢守の眼がゆっくりと開く。茫洋とした黒瞳は、しかし何も映してはいない。 「一衛が選んでくれたすべてを貴びたい。きみのおかげで今の俺はいるんだ……本当に感謝してる」 差し伸べられた手は、届きはしなかったが、確かに届いていた。 「心を調整されながらきみが示してくれた、純粋な善意に報いたい。ねえ、大好きだよ、一衛」 まっすぐな善意をてらいもなく向け、理比古は微笑む。 シャンヴァラーラが外へ開かれたから数年。 その間に築き上げられた、人と人との関係、絆、感情の発露が、今、この場にはあった。そしてそれは、今の一衛が、何よりも求めていたものに、違いなかった。 それが、功をなしたのだろうか。 「わたし、は」 視線が動き、小さく言葉が漏れる。 喜ぶのはまだ早いと知って、安堵の息がどこからか漏れる。 「一衛!」 呼び声に、視線だけが彼らを見て、微笑むように細められた。 うまく動かせないのか、ぎこちない動きで手が天へと差し伸べられ、 「最後に、会えた。なら……それで、もう」 唇が、穏やかな――ものがなしい言葉をぽろりとこぼす。 「ちょっと待った!」 誰かが声を上げた。 そのためにここへ来たわけじゃない、絶対に諦めるな、と激励の声がかかる中、黒茨の森が、影の平原が、風に吹き散らかされるように消えていく。 あとには、茨の塔と、囚われた夢守だけが残った。 気づけば、一衛はまた、目を閉じている。意識を失うという状態が夢守にあるのかは不明だが、呼びかけにも反応しなくなった。 旅人たちは皆、想彼幻森近くにある、黒の広場へと転移させられていた。 「あんたたちも戻って来たのか」 明佩鋼=ゾラ=スカーレットが彼らに気づいて歩み寄ってくる。 その表情は硬い。 何かあったのかと問えば、 「夢守たちが話しているのを聴いた」 あかい眼差しが一衛を見上げる。 「プログラムが絡んで調整が難しく、黒羊は、己の夢守を一度、すべて白紙に戻すことを決めた、と」 彼がそう言った瞬間、周囲の空気が変わった。 「……プールガートーリウム」 いつの間にか、茨の塔の前には黒羊が浮かんでいる。 物理的な圧迫感さえそこにはあって、ロストナンバーたちは後退せざるを得ない。 羊は、いつもの、気の抜けるような声で鳴いたが、そこに、宣戦布告めいた何かを感じ、不吉を覚えたものも、少なくはなかった。
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