「不思議な匂いがするわ、ニノ」 緩やかな裳裾や袖をなびかせて、ゆっくりと下っていく道を降りながら、リンシン・ウーは赤い瞳を瞬いて振り返る。 黄金の髪とともに、帝である夫ジンヤンの在位を脅かすと嫉妬とともに語られ、彼女を夫から遠ざける一因となった容貌は、ブルーインブルーの鮮やかな光の中、一層眩く輝いている。「それに、なんて強い陽射し」 伸ばす指先で戸惑ったように陽光を遮る。「……影が濃いわ」 ふと見下ろして、驚いたように自分の足下を見つめて目を見開く。「もう少し、先、だよ」 穏やかでたどたどしいことば遣いで応じたニノ・ヴェルベーナァは、来た方向を振り返る。風に吹かれた金髪をかきあげ、緑の目を細める。 元暗殺者の殺気は今どこにもない。「海岸へ降りて、少し休んだら、さっきの、露店に、戻ろう」 海へと続くこの細い道を教えてくれた物売りは、街外れに店を並べていた。 香り高い果物、奇妙な色と形の生魚や貝に干物や海草、貝殻や珊瑚などを使ったアクセサリー、器に入ったおいしそうな煮物焼き物……だが、花や植物をあまり見かけなかった。 何か食べつつ店を回って、もう少し捜してみたい。それに、「……は苦手…」「え? なあに?」 再びゆっくりと道を進み始めたリンシンに振り向かれて、呟いたことばを慌てて呑み込み、微笑む。 海は、苦手だ。「おいしそうなものが、いっぱい、あったよ」「そうね、後で戻りましょう」 穏やかに笑うニノに笑み返すと、リンシンは崩れやすい砂と土の小道を用心深く進み出す。 後ろからニノが付いてきてくれるせいか、いつも重苦しく抱えている痛みがほんの少し軽くなった気がする。普段の自分ならば、ブルーインブルーに出かけようとも思わないし、思っても実際にチケットを手に入れて実行することなどできなかったかも知れない。 けれどニノがチケットが都合できたと教えてくれてから、この日をずっと待っていた。ブルーインブルーで美味しいものを食べてみたい、海が見たいと、ただそれだけの小旅行なのだが、なぜか体が微かに弾んでいるような気がする。 不思議な匂いは確か『潮』の香りと言うのだ。 照りつける陽射しは注意しないとすぐに日焼けすると聞いていたし、確かに既に肌がじりじりとする感じがあって、それにも戸惑うのだけれど、今一番気になっているのは。「…何かしら…」 風の音ではない。止まないし、繰り返し響いてくる。人の声ではない。もっといろんな場所から聞こえてくる。 下り道に入ってから、どんどん大きくなる音、ちょうど入り組んだ岩場の間を降りて行く道のために、前方は見えない。「ひょっとして、あれが『波』の音? ……きゃ」「ウーさん」 危うく滑りかけた体を、背後からニノが抱えてくれた。間近に迫った体温、抱きかかえられるなんて夢の中でしか経験したことがない感触、けれどああ、それよりも。 ちょうど目の前で岩場が途切れて、視界が広がった。「……何……?」 赤い瞳が見開かれる、眩しさに抗うように。 一面の青。「海、だよ、ウーさん」 髪を舞わせる風。 押し包む熱気とひどく近しい香り。「うみ…?」 世界を満たす柔らかで力強い音。 繰り返し。 繰り返し。「そぉら、いけえっ!」「わははっっ!」「きゃああっ!」 どぶんっ! ばしゃあっ! 「っっ!!」 突然、砂浜を駆けて子ども達が飛び込む。 思わずリンシンはニノにしがみつき、ニノは思わず抱き返し。「…海だよ、ウーさん」 怯えたと思ったのだろう。 囁かれるニノの声は甘さをたたえて届く。「……おおきい…わ…」 リンシンはこくん、と唾を呑み込んだ。=========!注意!企画シナリオは、便宜上、参加枠数が「999」になっていますが、実際には特定の参加予定者のために運営されています。この企画シナリオは下記のキャラクターが参加予定です。他の方のご参加はご遠慮下さい。万一、参加予定でない方のご参加があった場合は、参加がキャンセル(チケットは返却されます)になる場合があります。<参加予定者>リンシン・ウー(cvfh5218)ニノ・ヴェルベーナァ(cmmc2894)=========
波の音は響き続ける。 惑う二人の愛し子の、外の海と内の海で。 海に怯えてしがみついてきたリンシンの体は、陽に照らされて温かい。今日は以前に買い求めていたというワンピースを着てくれている。しなやかな体に沿う紺色カットソーのマキシ、ラウンドネックでハイウェストに絞り込んだ中央に同色のサテンリボン、短めの袖はリンシンの肩口で海風に翻る。 自分の為だと思いたい。 「ウーは、あの人、みたいだ」 愛しい人を胸に抱えながらじっと海を見つめ、ニノは思う。 故郷でニノを憎悪し、陥れた王妃。自分の子を守るために邪魔なニノを奴隷にまで落とし、暗殺者として利用した。けれども結局、王はニノを自分の後継者にすると主張したから、王を殺そうとして失敗し、覚醒した。 (あの人の、邪魔をする者を、退けたかった) けれど。 (俺は…俺は刃でしかないんだ!) けれど。 誰かを守る盾になりたかった。 ウーには、笑っていてほしい、泣いてほしくない。 今もウーはやっぱり夫しか愛していないのか、この先も夫しか愛していかないのか。夫について知っていけばいい、本当には知らないようだから。けれど、その先に、夫に対して愛が深まっていくとしたら。 「ニノ?」 力が入ったのを感じたのか、リンシンが腕の中で身じろぐ。それに応じない自分を感じる。笑顔を作って自由にして見下ろしたいのに、それができない。この手は植物を利用して命を奪っていく。今ここに植物はなくて、砂と空と海だけだ。だからこそ歯止めの効く衝動。 (俺は壊すしかできない) 海を見ながら思い知らされる。 そばにいたら壊しそうで、けど笑ってくれたから、俺でも作れると夢を見た。 それ以上はいらないはずだったのに。 この腕に納まる体ごと欲しくなる。 (求めたら、ウーも壊れる?) 自分の手は血まみれだ。 海に怯んで逃げ込んだ。その先の腕の確かさ温かに安堵して、リンシンはニノに体を預けながら海を見つめる。 (私の知っている世界は狭すぎたんだわ) でも、それでもあれで十分だと思っていた。今もリンシンは、故郷に帰りたいと思っている。帰って夫に会って、今度こそ怯えずにしっかり話を聞いてもらおうと思っている。話し合ってみたい、彼の中にある感情から、まっすぐ目を逸らさずに。 (こんなふうに思えるようになったのは、きっとニノのおかげ) ニノの事は好きだ。 でもそれは夫に向けたものと同じかどうかはわからない。今思えることは、そばに居てくれて嬉しいということ、ひとりだったらきっと、泣いたままだっただろうから。 (けれども私は夫を愛しているの) ずるくて残酷だとわかってる。ニノにそばに居て欲しいとも思っている自分がいると気づいている。ニノがなにもいらないといっても、リンシンはニノに何か返さないといけないと思う。 (無償で貰う訳にはいかないの……私に、そんな価値はない) 返せるものなど、何もない、きっとそうわかってきているから。 「ニノ?」 抱えられている姿勢が苦しくて身動きしようとしたが、果たせない。見上げると無表情に海を見つめる顔があって、ほんの少し怖くなる。思わず海へと視線を戻す。 この怖さは、海に似ている。柔らかそうで温かそうで、鮮やかで眩くて、けれど呑まれたら二度と浮かび上がれそうにない。 無償の愛への一線を、引いたつもりで後戻りできなくなる予感、冷たくされ尽くしても夫を愛していると言い聞かせても、ニノにそばに居て欲しいという残酷な我が儘が、呼び込んでくる破滅は甘美だろうか。 「何か、食べたいわ」 「……そうだね」 請うように囁かれて、ようやくニノは腕の力を緩めた。さらりと逃げ去るように立ち上がって欲しいと思うのに、リンシンはゆっくりと離れていく。その彼女の手を絡めとるように繋いで、もう一度二人で道を戻った。落ちる影は依然濃い。けれど、少しずつ太陽は天を移動していく。 「まあ……美味しい」 露店の店先、小さな木の椅子に並んで座って、香ばしく焼き上げられた魚と甘辛く味をつけた海草をつついた。単なる塩味ではなくて、香り高い旨味が湯気とともに解れ零れるのを舌で受け止める。海草の歯ごたえが魚のほろりとした感触を引き立てる。デザートに選んだ赤と黄色の果実のカップ、突き刺す小さな串の先でとろりと溶け落ちる濃厚な果汁、指先についたのを唇に含むリンシンに、ニノは軽く目眩を感じる。 「ニノもいかが?」「うん」 勧められて殻の中でじゅうじゅうと音を響かせる貝を噛む。強く噛み締め、溢れる汁を啜る。 「あつっ」「やけどしないでね」 ああ、本当にやけどしなければいのだが、やけどしてしまっているかも知れない、もう唇から体の奥まで。 店で買った海色の石をつないだネックレス、白く磨かれた貝殻を絡めてあって、今日のリンシンによく似合うだろう。 「海へ、戻ろうか」「……ええ」 名残惜しげに店を離れるリンシンを促して、もう一度海への道を辿る。 傾いている陽射し、水が冷たくなる前に、リンシンの水着姿を見たい。 「リンシン、これ」 「……まあ…」 我慢しようと思ったのに。 「俺は、あなたが好きだ、笑っていて、ほしい」 ネックレスを差し出した。 きっとウーは夫を愛しているのだろう、あんなにひどい夫なのに。湧き上がる殺意、殺してしまいたいのが本音。けれど、ウーは哀しむだろう、二度と笑ってくれないかもしれない。二度と笑えないかも知れない。 それならば、殺さない。別に見返りはいらないからそばにおいてほしい。 「あなたがここにいるから、あなたが生きているから、それでいいんだ」 ウーは自分に自信をつけてほしい。あなたがいるだけで俺は幸せになっている。そうだ、俺はこの俺の気持ちのまま、信じられないなら信じるまでそばにいる、言う、行動する。 ネックレスを受け取ってくれたリンシンは俯いてじっと眺めている。 答えを迷っているのだろうか。 それとも、答えはとうに決まっていて、答え方を迷っているのだろうか。 海を見やる。 波頭が白く泡立つ。 海は苦手だ。 けれど、微笑んで、リンシンに視線を戻す。 「…ありがとう、リンシン」 答えはどんなものでも受け入れる。 私を好きになってくれてありがとう。 側に居てくれてありがとう。 ここへ連れてきてくれてありがとう。 でも今は、ううん、もしかしたらずっと、その気持には答えられないかもしれない。 「…嬉しいわ」 ネックレスを手に俯いたまま、リンシンは答えた。 ニノの望みが私のそばにいることだったら、それを叶えてあげるのが対価になるかしら。 心の闇を彷徨いながら、背中のボタンを外し、肩からするりとワンピースを脱ぎ落とした。現れたのはパールピンクのチューブトップビキニ、息を呑むニノの気配、ネックレスを首に掛け、くるりと身を翻す。 水着が見たいと言っていたから。 ネックレスをくれたから。 私が生きているから、ここにいるから、それでいいと言ってくれたから。 甘えます、ごめんなさい。 波打ち際へ歩み寄る。足下を攫いそうな波にひやりとしながら、数歩踏み込む。 「……冷たいわ、ニノ!」 ばしゃり、と砕ける水を掬い、振り返る。 繰り返し寄せる波は次第次第に肌に慣れ、足を柔らかく包み込む。 「でも……気持ちいいわ」 あなたもいらっしゃい、とは呼ばなかった。 掬い上げた水を空中に撒く。きらきらと光を弾いて降り注ぐ水滴が、太陽の熱に温められた皮膚にぱらぱらと当たる。 浜で眺めていたニノの顔がくしゃりと歪んだように見えた。 それとも歪んだのは、水滴に滲んだリンシンの視界の方だったのか。 ニノがゆっくりと手を振った。
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