●La Norda Kruco ≪北十字≫ 九月だというのに、未だうだるような暑さが続く。 昴はお気に入りのワンピースを着て、姉と連れ立って休日のプラネタリウムを訪れていた。 行きつけの科学館にはこれまで何度も足を運んでいる。 半月に一度投影プログラムが変更されるので、内容が変わるたびに欠かさず見に行くのだ。 今日も朝から一番のりでドームのお気に入り席を陣取り、天象儀の世界に想いをはせていた。 夕方、帰宅途中の電車で、昴は姉と隣り合わせで席に座る。 車内は乗客もまばらで、それぞれが思い思いに過ごしている。 ごとごとと繰り返す音と振動が心地良い。 「今日の夜は、はくちょう座とこと座が見えるっていってたよね。夜にまた、星を見にでてもいいかなあ」 「あの星図は夜八時のものだったから。帰って、父さんと母さんに聞かないと」 「危ないからだめって言われそう……」 うなだれた妹を横目に、姉は車窓の外に広がる夕景を見つめ、続ける。 「夕方は西の空に金星と火星が昇るって言ってたわね。帰りに、見えるかもしれないわよ」 ぶっきらぼうな物言いは変わらないが、告げる表情は柔らかい。 昴はぱっと顔を輝かせた。 「見えるかな」 「今日は天気が良いから。……高台の公園、寄って帰る?」 「うん。行く!」 姉に身を寄せ「ありがとう」と告げる。 姉はこたえず、口の端を小さくあげてみせた。 すこし不器用だけれど、こうしていつも昴を喜ばせてくれる。 年の離れた姉は大人びていて、優しくて、昴の一番の自慢だった。 やがて電車は見晴らしの良い高架にさしかかる。 「ねえ見て、お姉ちゃん。夕焼けがあんなにきれいだよ」 向かいの席には誰も座っていなかった。 昴は窓いっぱいにひろがる黄金の空を示して立ちあがる。 背の低い民家が続く地域で、屋根瓦や窓が反射し、地平近くまできらきらと輝いている。 「昴。危ないから」 「座っていなさい」そう、続けようとした時だ。 窓が、破裂した。 昴が目を疑った瞬間、突きあげるような衝撃に足が床を離れる。 鈍色の車輪が金切り声をあげている。 心臓が引き裂かれるかと思うほどの、鋭い音。 黄金の光を映しながら硝子片が舞う。 その中を、ぬうっと伸びるものがあった。 首の長い竜だ。 首長竜の歪なあぎとが、姉に、迫っていた。 「お姉ちゃ――」 伸ばした手は空をかき、昴は扉に叩きつけられた。 痛みが全身から押しよせ、骨という骨が砕けたように感じる。 動かない腕の代わりに、額を床に押しつけて身を起こす。 額からあふれ出た赤く生暖かいものが、顔を、ワンピースを染めていく。 口の中に広がる鉄の味に構わず、振りかえる。 姉がいた座席の背もたれに、竜の首が、めりこむように埋まっていた。 ●La Oriono da Bruli Arbo ≪オリオンの燃える木≫ 見覚えのない白い部屋。 そのベッドの上で、昴は目を覚ました。 見れば全身包帯だらけで、ずいぶんとひどいありさまだ。 美しい夕景も、やさしい姉の姿も、どこにも見あたらない。 代わりに現れた両親の顔は土気色で、いまにも倒れてしまいそうだった。 「事故現場のまわりも全部探してもらったの。でも、あの子どこにもいないのよ……!」 開口一番、母はそういって顔を覆った。 姉は『失踪』したという。 高架下を横薙ぎに飛びこんできたクレーン車が電車に衝突し、昴と姉はその事故に巻きこまれた。 いびつに歪んだ電車の中には昴と他の乗客だけが居り、姉の姿はどこにもなかったというのだ。 ――お姉ちゃんは、首の長い竜に襲われたんだ。 何度かそう告げたものの、事故のショックで記憶が混乱しているのだろうと誰もとりあってくれない。 実際、昴も一命を取り留めたとはいえ全身を強く打ち、切り傷の治療や検査のために入院を強いられていた。 昴の傷が癒え、普段どおりの生活ができるようになっても、家族には目に見えない深い傷痕が残された。 姉の失踪を受け、両親は捜索願やそれに伴う公的な手続きに終われ、日に日に心労を重ねていった。 何の手がかりもないまま月日が過ぎ、季節はうつろう。 仲が良かったはずの両親の心は、しだいに離れていった。 「失踪宣告を出そう。どこかで区切りをつけないと。ずっと、こんな気持ちのままじゃダメだ」 「あなた、あの子を殺そうっていうの!?」 「そうじゃない! だけど『もしかしたら帰ってくるんじゃないか』なんて、そんな希望にすがって何年になる!」 父は母を説得してくれと言い、母は父が姉を見捨てるつもりなのだと泣いた。 希望にすがりたいのは昴も同じだった。 父の苦悩も、母の想いも、昴には身を切るようにわかる。 けれど月日が過ぎれば過ぎるほど、希望は絶望に変わっていく。 夏は暑さとともに事故の記憶がよみがえり。 秋の紅葉はあの日見た黄昏の色に似て。 冬の雪景色だけが、家族の心をわずかに慰める。 春に散る桜は一年という月日を重く突きつけた。 考えれば考えるほど悪い予感にとらわれていく。 父も母も昴も、だれもが疲弊していた。 両親の板ばさみになりながら、昴はどちらの肩をもつこともできなかった。 その年の冬は雪が良くつもった。 手袋をしないまま、昴は夜の庭で雪だるまを作っていた。 雪が降った日は必ず雪だるまを並べる。 父と、母と、姉と、自分に見立てた、大小四つの雪だるまだ。 「昴」 声に振りかえると、父親が佇んでいた。 厚手のコートを着こんでいる。 足元には大きなボストンバッグ。 もう夜も遅い。 今夜は雪が積もるというのに、父はどこへ行こうというのか。 「そんな格好じゃ、風邪ひいちまうぞ」 父親はポケットから革の手袋をとりだし、昴の手にはめてやる。 昴は大きすぎる手袋を見ながら、これでは雪だるまを作れないなと、ぼんやり、考えていた。 父親の手がくしゃくしゃと昴の髪を撫でる。 「お父さん」 呼びかける昴を返りみることなく、父親の背は遠ざかっていく。 昴は天上を見あげた。 遠くオリオンの星々が、震えるように輝いている。 「ごめん。ごめんね」 お姉ちゃんの帰る場所を、まもれなくて。 わたしだけが、助かってしまって。 あの日、竜の影に姉を見失ってから、昴の手から大切なものが次々とこぼれ落ちていく。 喘ぐようにこぼす吐息が白く染まる。 星がにじんでいく。 指先を包んだ父の手袋に、その暖かさに。 昴は己がどれほど孤独かを思い知り、雪の中にくずおれた。 ●Ciela Rivero ≪天上の川≫ 父と母の離婚が成立した後、昴は母方の実家に引き取られ、名と住み家を変えることになった。 「ミナガワ、昴」 耳慣れぬ姓。 姉が帰ってきたとしても、『ミナガワスバル』では気づいてもらえないかもしれない。 そんな不安を抱きながら、またひとつ、姉との接点が消えるのだと思う。 昴はいまも鮮明に覚えている。 黄金色に輝く電車の中。 おぞましい竜の首が車窓をつき破り、姉を襲った。 だがあの日、竜のあぎとは確かに姉を捕らえたろうか。 竜の首が埋まったあの場所に、姉の身体はあったろうか。 (ううん。なかった。あそこに、お姉ちゃんは『いなかった』) 姉は竜の牙を逃れ、姿を消した。 そう、信じたかった。 ――でも、どこへ? 春に散る桜は一年という月日を重く突きつけ。 夏は暑さとともに事故の記憶がよみがえり。 秋の紅葉はあの日見た黄昏の色に似て。 冬の雪の日には、今も四体の雪だるまを作る。 手がかりのないまま、姉の消息は今も知れない。 やがて昴は、周囲との違和感に気づきはじめた。 離婚した後も、父親とは何度か会う場を設けていた。 籍を分けたとはいえ、実の娘のことだから話し合いは続けたほうが良いと、そう両親が決めていたのだ。 だが、ある時、母が言った。 「もう会う理由もないし。昴、一人で行ってきてちょうだい」 「でも、お姉ちゃんの話とか、あるし」 「『お姉ちゃん』?」 母はいぶかしげに昴を見やる。 「……なに言ってるの。あなた」 最初は、ただ母が疲れて、混乱しているのだと思った。 姉を溺愛していた母だ。心が病んでしまったのだと思った。 だが、父も同じことを言った。 「ねえお父さん。お姉ちゃんのこと、なにか、わかった?」 「『お姉ちゃん』? どこのお姉ちゃんのことだ」 やがて誰からも、姉の話題は出なくなった。 気がつけば家の中から、姉の痕跡が次々に消えていった。 かつて撮った写真を探しても、なぜか姉の写真だけが見当たらない。 処分するはずはない。 あの母が、離婚後も大事に持ってきていたはずなのだ。 その後警察にも問い合わせたが、姉の捜索願は提出されていないと言われた。 (そんなわけない。お父さんとお母さんが、あんなに悩んで届けたのに) しかし当の両親は、すでに姉の失踪などなかったかのように暮らしている。 そもそも『姉』は居ないというのだから、心配などしようがないのだろう。 『昴。危ないから――』 あの日、あの時、呼びかける声を覚えている。 昨日のことのように思いだせる。 だが姉の存在を告げるたび、母と、父と、日常から取り残されていく。 ――わたしの記憶なんて、あてにならない。 すこし不器用だけれど、いつも喜ばせてくれた。 年の離れた姉は大人びていて、優しくて、昴の一番の自慢だった。 「でも。もう、いい」 想うことが辛かった。 母や父を悲しませることが辛かった。 きっとこの記憶の姉は、優しい記憶に浸りたかった昴の生みだした幻想なのだろう。 これ以上、己や姉のことで彼らを苦しめることがあってはならない。 このうえ母をも失ってしまったら、昴の手のひらにはなにも残らなくなってしまう。 夜闇を見あげると、天上にもやのような川が流れている。 天の川だ。 昴は星空に向かって手を伸ばした。 ――正しくない記憶なら忘れてしまおう。 ――いっそなにも覚えないでおこう。 きっと星々が隠してくれる。 辛いことも、悲しいことも、すべて、五億の鈴が沈めてくれる。 ●Galaksio da Songo ≪銀河の夢≫ その夜から、昴は不思議な夢を視るようになった。 プラネタリウムに行った帰りに、“存在しない姉”と電車に乗っている。 電車は速度をあげ、空を駆け、やがて銀河に至る。 『ねえ見て、お姉ちゃん。天の川があんなにきれいだよ』 向かいの座席には“存在しない姉”の姿。 姉はいつになく上機嫌で『星めぐりの歌』を口ずさんでいた。 昴は姉の歌をききながら、車窓から臨む星々に想いをはせる。 そうして夢のなかの昴は、姉とともに夜毎見たことのない世界を巡りゆく。 ふと、考える。 もしかしたら姉は居なくなってしまったのではなく、もっと別の、ちがった空間に隠されてしまったのではないか。 ただ昴たちには感じることができないだけで、『姉』は存在し続けているのではないか。 だがいずれにしても、空虚に生きる昴が姉と邂逅する術はなさそうだ。 今はただ、夢の中の己に憧憬を抱く。 古書店から帰る道を歩きながら、昴は夕刻の空をあおいだ。 あの日に似た黄金の空。 たなびく雲の合間に、宵の星を見ていた。 ――La Knabina Vojago Nun Komencigas.
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