「……ふう」 『エメラルド・キャッスル』に入ってきて、アリッサは溜め息をつく。ここに来る時に、溜め息をつかない時がなかったような気がする。 それでも、館長の務めとして、ファミリーの呼び出しに応じないわけにはいかないのだ、たとえそれが、地の果てまで疲れ切る依頼であろうと想像がついても。「ようやく来たのね」 ヴァネッサは扇を揺らしながら、含み笑いをした。「なあに、その顔。睡眠不足? それとも、私の所へ出向くのが不愉快だったわけ?」「いえ、そんなことは」「目の下に隈ができているわよ、若いのに。いつまでも若いと思ってちゃ、女の肌はすぐ衰えるんだから」 誰のせいなんだ誰の。 そう詰りたいのをぐっと堪えてアリッサは微笑みを浮かべる。「それで、おばさま」「私なんかほら、繊細でしょ、すぐに心労が顔に出るのね。食欲もなくなってしまうし。今朝なんか10時のスコーンが3つしか食べられなかったわ」「……おばさま、ご依頼は」「夕べも、今回の宝石はとても手に入らないんじゃないかと思うと、心配で不安で眠れなくて。羊とマントヒヒを5324匹まで数えたわ」「マントヒヒ?」「知らないの? 無知ね。羊で眠れないときはマントヒヒを数える方が効果的だと報告書にあったでしょ。館長として勉強不足よ、ああ若すぎるって困るわね」「…申し訳ありません」「嘘よ」「………お、ば、さ、ま」「今からそういうことじゃ、あなた老化が早いわよ」 もっと柔軟な思考を保ってちょうだい、と赤く塗った唇を尖らせた。「『ヌカ・タマ・ヒ(青空の涙)』と呼ばれるサファイヤ。前に話したわよね?」 ヴァネッサは立ち上がって、部屋の隅に置かれていた古めかしい地球儀に近寄った。「壱番世界ですか?」「場所もわかっているわ。ここ」「……あの」 ヴァネッサが扇で示したのはどう見ても海中。日本の沖縄近くの海だ。「ここに海中遺跡がいろいろあるのだけど、その中の一つに宝石が隠されているらしいという伝説があって」 物理的に素潜りできない深さではない。だが、近づくと幻影が見えたり幻聴が聞こえたり、突然発生した渦に巻き込まれたりして、溺れてしまうという。「昔話によると、遺跡を守っていた王の涙が固まった宝玉なので、手出しをしてはいけないらしいわ」 くすくすとヴァネッサは笑う。「魅力的ね」 宝石を取り去ると、遺跡が崩れてしまうという噂さえあると言う。「おばさま」 アリッサは眉をしかめた。「異世界のものを持ち帰るだけじゃなくて、壊してこいとおっしゃってるんですか?」「研究のためよ」「おばさま、あの」「まるで、竜刻のようだ、そう思わない?」「……それを確かめる、という目的だと?」「さすが、アリッサよねえ。賢いわ」 ヴァネッサはにっこり笑って、扇でひたひたとアリッサの頬を軽く叩いた。煌めく緑の瞳を間近に寄せ、「長い時間を耐えるには、好奇心が大事よ、アリッサ?」「……ロストナンバーに伝えます」「期待しているわ」 ヴァネッサは猛々しい月のように目を細めた。 さあ、行こう。 石田 瞳は息を整えて海中に潜っていく。 目指すのは、彼女が勝手に『海王の墓』と呼んでいる海中遺跡だ。 数々ある不思議な遺跡の中でも、入り組んだ通路のような彫り込みと建物の壁を思わせる垂直な面は、何度かTVでも紹介された。 だが、この奇妙な通路の先にある小部屋は、まだ報道されていない。 近づくと妙なものが見えたり聞こえたり、時に急に動く流砂のような海流に巻き込まれたりして溺れると、今ではもう地元のものさえ近づかない。 ましてや、彼女のような高校生が潜ることはない。(…やってきたよ、王様) 胸の中で呟く。小部屋は6畳一間ぐらいの大きさ、入り口を入ると中央に棺を思わせる窪みがあり、その3分の1ほどのところに、石で作られた網の小箱のようなものが置かれている。 よく見ると、小箱の中にはきらきら光る青い石があり、漏れる光で棺が青く潤んでいるように見えた。『王よ、王よ、我が魂よ』 瞳の胸にいつもの切ない声が響き渡る。『都を守りし、我が最愛の主よ』 この部屋を見つけた時から、その声は瞳の胸から消えない。 きっと『石田瞳』になる前に、自分はここに眠る伝説の王の臣下だったのだろう、そう瞳は思う。これほど切ないのはきっと、彼を守り切れなかったからだ。(今度こそ守ってあげるから) 瞳は石の小箱にそっと触れた。(あなたの愛したこの場所を、あたしがきっと守ってみせる) 小さな祈りは、まだヴァネッサの執着を知らない…。
「民のために死ねぬ為政者の命など、聞き入れるに値しない」 雪・ウーヴェイル・サツキガハラは、出発前から、依頼に対して苛立ちを見せていた。 遺跡の沈む海を見下ろす崖に集まったロストナンバーを見回す。 互いの意見に差異があり、一つの方向に動けないとわかって、とりあえず人の来ない場所で話し合うことになったのだが。 「貴き者が貴ばれるのは、己が責務を果たしているからに過ぎない」 後ろで一本にまとめた黒髪、涼しげに整った顔立ち、切れ長のアーモンド・アイズは金色、ただでさえ伸びた背筋に、今は怒りを漲らせている。 「竜刻に似た力の宝石ですか。意志強き存在は死後どの世界でも不思議な現象を起こすのかもしれません」 穏やかに話すのは、アルティラスカだ。淡く輝く長い緑の髪、左右のこめかみに一輪ずつ咲く翼型の七色の花、澄んだ金の瞳をした美しい女性の姿だが、民と国については傷みに満ちた想いも抱えている。雪のことばに、胸の内でそっと、石田瞳が納得できる形で譲ってもらえれば、と考えている。 「ヌカ・タマ・ヒか」 『百の職を持つ男』、黒髪黒目のコンダクター、西 光太郎は手にした資料をあれこれ確認しながら続ける。 「俺も遺跡のことは特番で見たけど、実在するとは知らなかったな。ヴァネッサさんの思惑はともかく、気になるね。……ヴァネッサさんは……先に現地入りしてるのかな」 噂だけで『ヌカ・タマ・ヒ(青空の涙)』の確保を依頼したのか、それとも。 「俺はツーリストのみんなみたいな特殊能力もないし、ヌカ・タマ・ヒと遺跡の由来を追ってみるよ。少なくともTVに映ったってことは入った人間はいるんだし、話を聞ければいいのだけど」 光太郎は、世界中を旅するバックパッカーで、普段は雑誌に紀行文を書いたり、旅先で手に入れた舶来品を売るなどして生活している。この手の調査と情報収集はお手のものだ。 「まぁとりあえず地元の伝承から追いかけてみるかな。王がどんな人物だったのか、なぜ遺跡を守っているのか。特番の放送局も調べてみて、そっちもあたってみるか」 城南大学民俗学部卒業の肩書きも生かせるだろう。 「海が石のあるべき場所なら『青空の涙』の名を冠するのも妙なのです」 周囲の話を聞いていたシーアールシー ゼロが口を挟んだ。 「石になんらかの不思議が隠されていることは確かなのです」 「なるほど…」 光太郎が頷いた。 「ヌカ・タマ・ヒの語源だけ当たると、『七日の魂』という意味合いが近いと思ってたんだけど、それなら本来天に還っているはずの魂、と考えてもいいかもしれないしな」 青空の涙、青空から落とされた涙、だよな、と光太郎は聞き込みのヒントを得たようだ。 ゼロはこっくりと頷き返した。 「具体的な過程や時期が不明なのと世界樹旅団の跳梁のため後回しにされているようですが、この壱番世界はそのうち滅びるのです」 吹き上げてきた風が、銀色の髪を舞わせる。ただでさえ白い少女の姿が日差しに照らされ、一層真白く輝いて見える。 「少しでも多くの知と力があればそれを防げる可能性は高まり、宝石の研究はその一助となるかもしれないのです」 不思議な力を秘めた宝石。それに隠された秘密が、世界滅亡を食い止めるかもしれない。 「ヴァネッサさんの真意は不明なのですが」 「竜刻とやらの研究のため? まさしく欺瞞だな」 雪が納得しかねたように首を振った。瞳が今も潜っているだろう海を指差し、 「これがなくとも進むべき時が来れば進む。これがあったとしても進むべき時が来なければ進まん」 煌めく瞳の激しさは、自らもかつてロイヤルヘヴン王国近衛騎士団副騎士団長として、王と王族を守り、王命によって戦う騎士であったためか。 「この世界のことはあまり知らないが、民を愛した王がいて、王を護りたかった人々がいたのだ」 雪は海に、大気に、カミを、魂の残滓を見ている。強くこぶしを握って、皆の動きを止められなければ、力づくでも止めてみせる、そういう気配になった雪の耳に、 「わたしの知っている海とは全く色が違う…こんな海もあるのね…明るくて鮮やかで…きれい」 ほのかの静かな声が届いた。 宝石を取り戻すのか否か、ロストナンバー同士が今にもぶつかりそうになったのを気づかなかったように、腰までの垂らし髪を揺らせて、ほのかは振り返った。白い小袖の上に羽織った緋色の小袖が、背後の真っ青な海と空に眩く映える。儚げな、幽霊のような佇まいの中、琥珀の瞳が細められた。 「宝玉に、王の亡霊か意志が宿っている…? 幻覚や渦で、そこに異質な力が働いていると判じるのは分るとして…なぜ、宝玉を取り去れば遺跡が崩れると噂されているの…?」 柔らかな問いかけに、誰も応える術はない。 元々は漁村にいた海女で、霊感体質、心を見透かす能力と奇行を忌み嫌われ、時化が続いた時に神への捧げ物として海に投げ込まれた彼女は、海に誰よりも近しい、その恐ろしさにも優しさにも。 「実際試したのでもなければ、ただの尾鰭か、誰かが意図して流布させた事に…」 「ああ、可能性としてはあり得るよ」 光太郎が頷いた。 「霊魂云々というのは、昔の人が危険に近づくのを禁じる方便だったり、遺跡の製作者が何らかの罠を警戒している可能性が高い。何も超常現象が感知されないなら、機械的な罠や仕掛けがないかも注意しておいた方がいいな……」 穏やかに凪いだ海を見下ろした。 「海中の遺跡と王の逸話、宝玉にまつわる話を、具体的な事例では、いつ頃何が起こったのかを確かな事の把握を、第一にしたい…」 ほのかがうっそりと微笑みながら、雪を凝視する。 カミオロシで海の神霊を呼び覚まし、石を奪おうとする者が近づけないよう二重三重に強固な結界を張ることまで考えていた雪は、大きく息を吐いた。 仲間はまず、状況を知ろうと言っている。その上で、宝石や遺跡や、瞳に対する対応を考えよう、と。 確かに、ゼロの言うように、この世界もまた滅びに向かっており、それを防げる手立てとして何かの謎が解けるなら、ここに生きている光太郎にとっては朗報だろうし、世界図書館に居るコンダクター達の助けにもなる。 「…わかった」 雪は太刀を取り出した。 「では、ここでカミオロシを行う」 王の魂がどこかに残っているなら、その言葉を瞳に届けてやりたい。 「それならば、私は遺跡に近づき、何が起こっているのかを探ってみましょう」 アルティラスカが浜辺へ降りる道を歩き始める。 「私は…素潜りは得意だけれど…此度は幽体で潜り、魚に憑いて進む……」 ほのかが静かに岩陰に腰を降ろした。 「遺跡で異変に遭うのが人の形をした者だけなら…『それ』には周囲を把握する能力があり…対象を選んでいると思うの……その場合『それ』と交信できる余地が…思惟があるかもしれない」 目を細めるだけの笑みを浮かべて、 「宝玉を見つけたら…それに意識を移してみるわ…『それ』を知るには、一番早い方法だもの…そこに宿る記憶と志向…そして人格の有無を……」 「了解」 光太郎がトラベルギアでもある大型の旅行者用リュックサック【クラインの壺】を背負って、陸の奥へ向かう道を歩き出した。 「雪は王様との接触、ほのかは宝石とのコンタクト、アルティラスカさんは遺跡の状況把握、俺は伝説などの情報収集……ゼロは?」 「ゼロは」 とことこ走ってきたゼロは、ほのかの側にちょこんと腰を降ろす。 「瞳さんが上がって来たら、お話するのです」 「彼女の息が切れるのを待てば…宝玉は手に入る」 ぼうっとしていたほのかが、ぽつりとつぶやいた。 「或いはわたしが彼女に憑いて、こちらの都合がよい様に動かす…でも…できる限りそれは避けるべきね。それでは略奪だから…」 呼吸が次第次第に微かに小さくなっていく。開いた瞳に霞がかかる。 「宝玉から読み取れるものに、彼女を納得させる答えがあればよいのだけれど…」 ほのかの意識は海へと吸い込まれていった。 「さて、と」 図書館や聞き込みで、一渡り情報を当たってみた光太郎は、缶コーヒーをぐいと飲み干した。 騒がれ出したのは最近で、それまでもたぶん、あの遺跡はあそこにあったのだろうが、地元の人間が知っていたのみ、美しい海に沈む不思議な形の岩場という認識だったようだ。付近で海が荒れたとか、幻影幻聴の類が見えたということもなかった。海流が乱れたという報告もない。もっとも、全くのデマでもないらしく、調査が入り出したあたりから、異常現象の報告は増え、新聞の掲載記事も増えている。 「調査がきっかけになった可能性もあるな」 元は単なる不思議な形の岩場だった。それが遺跡として調査されるようになった。その後、周辺の海域で妙な発光だの、海流の乱れだの、魚の動きの異常だのが報告され出し、やがて遺跡の中に光るものがあったという話が浮上する。 「それまでにもあった現象が、注目されて『異常』だと認識され出した、か」 それから、昼夜問わず、遺跡周辺に潜る人間が増え、地元民と小競り合いがあったり、環境保護団体や観光開発業者が乗り込んできたりと騒がしくなり、その最中に幻聴幻覚を感じた人間、溺れかけた人間達が続出する。 だが、それも、海に慣れていない素人が生半可な知識と技術で遺跡周辺に近づき、体調不良や事故を起こしたと考えれば辻褄は合う。 昔話の方は、調べてみると意外なからくりがあった。 「『昔話』じゃなかったとはな」 昔話を元に書かれたとされているライトノベル『七日魂(なぬかたまひ)〜空から海へ』が今回の依頼そっくりな話で、瞳が愛読していた可能性があるが、出版関係に確認すると、実は『昔話を元に書いた』こと自体からが創作だったらしい。 「ヴァネッサが知っていて…ロストナンバーを焚き付けた、か」 やっぱり食えない女性だ。 ここまでならば、遺跡の怪異は人為的に演出された可能性が高い。この場所を注目させたい者させたくない者、様々な思惑が入り交じっての出来事という感じだ。 「ただ、それだけでもないんだよな」 人を辿り辿ってようやく一人の古老に話が聞けた。 その昔、この辺りを収める王族は、七日ごとに一室に籠り、天に願いを捧げる儀式を行っていたという。同じ七日。偶然にしても出来過ぎている。 次はTV局関係だ。携帯を取り出し、懐かしい番号をコールする。 「…わかりました。またお邪魔します。それじゃ」 光太郎は、携帯を片付けて、海辺の小さな街に入っていく。 以前、巨石文明が現在の文明にどう影響しているかの調査を行った時、知り合いになったTVクルーが居た。きちんとした系列に属さず、下請けの下請けの下請けって奴だよ、と笑った川田だ。幸い、今またこちらに入っているらしい。 「えーと……ユーエス企画…ここか」 コンクリート二階建て、玄関に掛かったプレートを確認してブザーを鳴らす。が、反応がない。どんどん、とドアを叩いてみた。 「すみませーん、川田さーん……お…」 家の奥でがしゃん、と何かが落ちた音がする。昼寝でもしていて、それで慌ててやってくるのだろうか、そう考えたが、待てど暮らせど誰も出てこない。 もう一度ドアを叩き、ブザーを鳴らした。 「川田さん! すみません、西ですが!」 無音。 「……人は居た、よな?」 少なくとも、たまたま何かが崩れたような音ではなく、誰かが何かを落としたような。そして、その後、慌てて身を潜めているような。 「………裏口は…なさそう、か」 伊達や酔狂でバックパッカーで何年も世界を歩き回っていたわけではない、こういう時に不愉快な展開があるのは心得ている。【クラインの壺】を握りなおし、チャックを開けた。戦闘時は状況に応じた武器が中から出現してくれるはずだ。何が出てくるかはその時々で光太郎にもわからない。できれば必要でないとありがたい。 「川田さん! 西です! お留守ですか!」 ことさらの大声に反して、手はそっとドアノブを回している。開いている。鍵がかかっていない。不用心なのか、それとも既に侵入者がいるか。 もし侵入者がいるとしたら、光太郎のターゲットは遺跡の不思議ではなく、人間世界のきな臭い出来事だということになる。 「川田さあ……っ!」 引こうとした瞬間に、ドアは思い切り押し開けられた。突き飛ばされそうになって慌てて身を引く、隙をついて、中から飛び出した男が側を擦り抜けようとする。 「え、いっ!」 【クラインの壺】の中へ突っ込んでいた手が掴んだものを引き抜いた。とにかく、この男を止めなくては、この先、謎に迫れる手立てが次々消される可能性がある。 「がぼっ!」「げ!」 がんがらがんがんがんっ! 飛び出たのは金属製のバケツだった。しかもかなり重い。こんなものがよく入っていたなという直径、驚きながらも振り下ろし、頭からもろにかぶせられた男が呻きを上げて転がるのを、慌てて追いかける。 「ぐわああああっ」 道路に倒れて転がり、そのまま悲鳴だが呻きだかわからない声を上げながらバケツの被さった頭を抱えた男が、必死に起き上がろうとするのを、光太郎は蹴った。 がぎゃがぎゃぎゃぎゃぎゃっ! 「うわああ…」 あれは結構悲惨、っていうか、この後話はできるんだろうか、耳は聞こえているんだろうか。とにかく相手を確保だ、と光太郎は飛びかかる。 アルティラスカは浜辺からしずしずと海に入っていく。 白基調、黒ベルトでアクセントをつけたシンプルなゴスパンクの女性が海に入っていくのは、時間によっては自殺かそれとも気が触れたのかと大騒ぎになる光景だが、トラベルギアの硬度を自由に操れる半透明の薄羽衣、今はただの綺麗なストール状の【lachryma】を見れば、新たな羽衣天女の伝説となるかもしれない。 なだらかな海底はある一線より深く落ち込む。 海中をふぅわりと降りるアルティラスカの羽衣とこめかみの七色の花が、海上からの日差しを受けて淡く煌めきながら翻る。色鮮やかな魚が群れ集い、自分達の王国に降臨する神々しい姿に、見惚れるように周囲を泳ぐ。 やがて見えてきた遺跡は、想像以上に巨大なものだった。 温かだった海が、そこだけひんやりとした流れに取り囲まれているようだ。 海底に据え置かれた大きな岩盤。 振り返れば、彼方にある浜辺から落ち込んだ淵から切り取られて滑り込んだ、と見える。さきほどトラベラーズ・ノートに送られてきた光太郎の情報では、TV特番ではそのような仮説が立てられていたという。 曰く、その岩盤は、かつて海辺近くにあった巨大な王国の基盤であり、何かの事情、おそらくは地震で削られ、海中に滑り落ちたのではないか、と。 事実、他の国ではそのような状況が実際にあり、海辺の小村がまるまる退避する羽目になったことがあるらしい。地球の温暖化で海面が上昇することが、似たような状況を壱番世界のあちこちに起こすと懸念されているともあった。 岩盤の中ほどに人影が動いている。瞳だ。近づくにつれ、海水の温度が下がってきた。霊的なものの接近か、それとも。海底の砂地が乱され舞い上がり始める。 「私達は貴方達の大切な場所を荒らしたり眠りを妨げるつもりはありません」 アルティラスカは静かに呼びかけた。 「ただ、国と王を悼み嘆き続けている心を解放したいのです。そのために私達は来たのです、どうかこの場に入ることを許していただけませんか?」 呼びかけながら、微かな違和感を感じた。 この周囲に何かそういう存在はあるか? 否。 では、この現象はそういう存在によるものではないのか? 否。 アルティラスカの接近は拒まれていない、何か、深く傷みに満ちた思念は確かにここにあるが、それはアルティラスカや周囲への害意を持っていない。なのに、海流は渦を撒き始め、妙な振動を感じる。 浮いていた瞳が苦しそうに顔を歪めながら、それでもまっすぐこちらへやってきた。アルティラスカの容貌、壱番世界ではあり得ない姿に怯みながらも、両手両足を広げて、前に立ち塞がる。 帰れ。 激しい叫びが伝わってきた。 帰れ。ここに来るんじゃない。 瞳の意志は強くてきららかだ。 アルティラスカは思わず微笑む。 何と見事な純粋さ。 「王とは国の器です、そして器を満たすは民。王にとって民が幸せでないことが一番の不幸です」 呼びかけに瞳が驚いた顔で耳を覆った。水中で聞こえる声にパニックになりそうなのを必死にこらえている。宝石の呼びかけには応えたのになぜ、と思いつつ、アルティラスカはことばを重ねる。 「貴方が前世の記憶に縛られていることは、王も悲しいのでは? 石田瞳として此処を守りたいならば、守る手段を身に着けてください。皆が生きた証を守るのはその資格を持った職業に就くことが一番じゃないでしょうか?」 あなたは、誰です。 瞳の泣きそうな声が、伝わってきた。 ゼロはほのかの側に膝を抱えて座りつつ、海と空を交互に眺める。 彼女には、『王よ』という言葉は瞳さんのものではなく宝石にこめられた意志に思える。 「王が守るべきは民であり、この地の人たちには臣民の血が流れているはずなのです」 宝石を守り、遺跡の破壊を阻止することで、瞳はこの地を、この地の人を守っている。 「多分主である瞳さんの了解を得れば、遺跡は崩れたりしないと思うのです」 ただ、眠りをかけがえないものと考えるゼロは、瞳と宝石自身の精神的安寧が最優先だ。了解が無ければ諦めようとも考えている。 ただ一つ、やってみたいことはあるが。 「宝石に空を見せてはどうでしょう?」 『ヌカ・タマ・ヒ』。青空の涙。 もともと空にあったのではないか。空を見せれば、何かわかるのではないか。 「ゼロは宝石が遺跡に安置されたままで、遺跡を損なわずに空を見せるのです。巨大化して遺跡を周囲の海底の岩盤ごと海上に手で掬い上げるのです」 光太郎の情報では、岩盤は海底の砂地に滑り込んだような状態であるというから、できないことではないのではないか。 もちろん、夜間を選ばなければ、それこそ騒動になりそうだが。 「……っ」 ゼロとほのかから少し離れたところで、雪は剣舞を続けている。 抜き放った太刀が次第次第に重くなるのがわかる。いつもに比べて、数倍の速度で、空間が練り上げられ、浄化されていくのがわかる。 ここは聖地なんだな。 本来、人が住んだり立ち入ったりしてはならないほど、磨かれ清められた場所。 そう言えば、ここに来る前に立て札が幾つもあった。光太郎が、自然を守れとか、開発反対とか、つまりは、ここを工場や住宅地にしないで欲しいという訴えの看板だよと言っていた。 「…ふ…」 仰け反る首に薄く汗が覆う。流れずに吹き出たまま、体表面を覆っていく汗は、緊張と制御の賜物だ。太刀が光を跳ねる。重みが増す。伸ばした腕では支え切れないほどの重圧、とんでもない空間だ。 「…」 しかも、この空間は時々雪の剣を呼ぶ。まるで、そちらではなく、こちらだと教えるように、空気が雪の腕や脚にまとわりつく。 本来のカミオロシではない動きも含まれているようだが、この空間ではこれが必要なのだとも、ヨリシロとしての力が教える。多くの不浄な力が乱し過ぎたのだ。整えるには、幾つもの層を繋ぐ段階が居る。 「!」 ふいに光が跳ねた。 太陽の光ではない。 開いたのだ。 かなりの光量、高位存在の出現を示す合図、だが、雪が眩がったのを面白がるように、すうっとエネルギー量が絞られた。桁違いのレベルだからこそできる、自らの存在を限る配慮、跪こうとする体を労るように支える安寧。 掲げていた太刀を降ろす。 胸に広がったのは、感謝。 この存在は、ここで起こった喧噪を疎ましがっていない。関わる全ての命に対して、感じているのはただただ、懐かしさと愛おしさだ。 命と魂を捧げた王を思い起こした。 雪もまた、どれほど王とともに在ることを望んだことだろう。その慈しみを、どれほど強く胸に刻み、どれほど深く受け止めただろう。その彼を。 「私は彼を護れなかった。――否、護るために戻らなくては」 いつかきっと、この想いを全うする。そのために、今ここに居る経験も全て、我が力と為して、いつかきっと戻る、彼の地へ、彼の下へ。 閉じていた唇から零れ落ちたものは願いの結晶。 『王よ』 声にゼロが顔を上げたのがわかった。 『王よ』 光太郎が誰かと格闘して押さえつけているのが見える。 『王よ』 アルティラスカが瞳と話しているのを感じる。 『王よ、我が魂よ』 そう口にできる、この喜び。 視界が蒼く染まる。この場所そのものを覆い尽くす、圧倒的な深い愛情。 『都を守りし、我が最愛の主よ』 ざぶり、と雪の意識は海に呑まれた。 岩盤の上を瞳が急いで泳いでいく。 アルティラスカの前に必死に立ち塞がろうとする彼女を擦り抜け、魚になったほのかはどんどん宝石へと近づいていく。 激しい海流は確かに起こる。 だがしかし、それはほのかを対象としていない。明らかにアルティラスカへ向かっており、近づく瞳をも巻き込みそうな乱れ方だ。 不思議なことに念は渦巻いていなかった。異変というならそれだろう。 宝石に近づけば幻覚を見たり、渦に巻き込まれたりするというのに、瞳は近づける。ほのかも近づける。人の形をしていなければ、問題なく近づける。 それは念とか霊というよりも。 光太郎のことばを頭に、ほのかは宝石に近づく前に周囲を泳ぎ回ってみた。 あった。 巧みに隠してはあるが、岩陰に幾つか金属の塊が置かれている。側に寄って眺めてみると、巨大な目玉のようなガラスに光が明滅していたり、ぐるぐる回る羽根が幾つも取り付けられていたり、小さく唸って水を吸い込み吐き出したりしている。その周囲だけ、妙に海水が冷えて、魚達が近寄れなくなっているものもある。 なるほど、遺跡に近づく者に対して、これでどこからか水温や流れを操作し、幻のような揺らめきを見せ、噂や伝説を作り出しているものがいるのだ。 ほのかは身を翻して宝石に戻った。 通路の果て、畳一間ぐらいの小部屋、中央に棺を思わせる窪み。 だが、人が入るには狭いとすぐに気づいた。子どもが横になるのが精一杯だ。その胸あたりに、石で作られた網の小箱が確かに安置されている。 近づくときらきらと眩い光が蠢いた。もっと小さい魚ならば、押し流されたかもしれないとも思った。宝石から流れが溢れているのだ。ということは、ただのサファイヤではないということだろう。 意識を移す。魚の体で感じていた水流の抵抗がなくなる。 「……ふう…」 感じたのは閉塞感だった。閉じ込められた感覚。全てが遮断され、身動き出来ない。真綿でくるまれ、口も目も塞がれ、窒息しそうな気がする。 掠めたのは、海に投じられた瞬間だ。息を封じられた身にまとわりつく、無数の人々の願い。 嵐を止めて。災いを消して。我らの祈りを聞き届けたまえ、この体を引き換えに。 無情だとは思わなかった。海に生き、海に死ぬ体であったのはほのかも同じ。自分が選ばれた理不尽を嘆くには、違う世界を感じ過ぎていた身であった。 海に封じられ、人々の世界を守る存在……その感覚が、宝石の流れに吸い込まれるように重なった。 胸に競り上がった泡を思わず吐き出す。 『王よ、王よ、我が魂よ』 ああ、これは。 『都を守りし、我が最愛の主よ』 ほのかは理解する。 この宝石は、力を封じた容器であり、それを動かす呪文がこのことばであり、その呪文はもう彼方の昔に遣われなくなった古いことばに由来する響きを必要とする。 ほのかが投じられた時も、祈りのことばが響いていた、確かに。 そして、このことばが開放する力とは。 「……そういうことだったの…」 重なり合う、我が身の意味。 「……そういう……ことだったの…」 ほのかは念話で仲間に全てを伝えた。 「だからさ、最初の異変は本当だったんだよ」 川田はぐったりした顔で頭を抱えた。 「あの遺跡がさ、海面近くまで浮いてたんだって」 「浮いてた? あんな巨大なものが?」 「ほら…そういうだろ…」 川田は唸った。 でも、その後は全く起こらなくて。そうしたら、学術的調査とか始まっちゃって。開発論議とかも始まって。企業誘致とかいろいろ絡んで。 「見たかったんだよ、もう一度」 自分の正気を疑わないために。 その感覚はよくわかる、と光太郎は頷く。 世界を旅する間に、信じられないようなことをたくさん見聞きした。だが、光太郎は、現実を疑うより驚きを伝える方を選んだのだ。 なぜなら、真実は踏み込んだ先にこそ、姿を見せるものだから。 「俺は間違ってないって、証明したかったんだ」 だから、噂を流し、機器を置き、人を遠ざけた。 「そしたら、ほんとに何でだか、近づけなくなったんだって」 「それはどういう…」 光太郎はことばを途切れさせる。ほのかの念話、トラベラーズ・ノートの連絡に川田を見下ろした。 「今夜一緒に来るかい」 「え?」 「真実を確かめようじゃないか」 「…は…」 かろうじて保っていた息を吐いて、崩れるように雪は座り込んだ。 手放した意識が、そのまま連れていかれそうになってひやりとしたが、相手はそれほど雪に固執しなかったようだ。 『我らは既に多くがそこから離れている』 存在は柔らかく伝えてきた。 『残ったものも、いずれはそこから解き放たれるだろう』 あなた方が生きるに価しない世界だからか。 胸の奥深くで雪は尋ねる。 『そうではない』 存在は微かに微笑んだ。 『それぞれの生きる場所があり、意味があるということだ』 視界を一瞬にして過っていった命の存在を、雪は衝撃とともに受け止める。 『この世界もまた、貴重なのだ』 壱番世界はいずれ滅びると言われている。繋がれ縛られ動きを止めてしまっているからだと。 『だが、それもまた、意味あることだと?』 その応えはついに与えられなかった。 体から擦り抜けていく存在が、雪の負担を案じているのがよく伝わった。これ以上は雪がもたない、そう理解しての離脱と感じた。 「雪さん」 ゼロが走ってくる。 「わかったよ……あれは…」 「彼方からのもの、なのです」 雪はトラベラーズ・ノートを差し出されて読み下した。微笑みが浮かぶ。 「今夜、なのです」 ゼロが片目をつぶった。 「今夜、だな」 雪は笑った。 ヴァネッサがどんな顔をするか楽しみだ。 その夜。 石田瞳はまっすぐに海辺に向かって走ってきた。 「アルティ、ラスカ、さん!」 はあはあ言いつつ、浜辺で待つ女性を呼ぶ。振り返った姿は幻のように美しい。 「お願いできる?」 「はい!」 瞳は暗い海に向かって声を張り上げた。 『王よ、王よ、我が魂よ!』 声が遠くの波に呑まれていく。日本語であるはずの瞳のことばは、地元の発音が混じり、独特の響きに変じている。本来ならば、もう、瞳の世代では知らないはずのことばに。 『都を守りし、我が最愛の主よ』 最後のことばが消えていくと、ざわざわと海が波立った。やがて。 「……あああ…」 白い波頭の砕ける位置が、少しずつ遠くになっていく。左右も切り分けられ、離れたところで波音が響く。沈んでいた岩盤が、今ゆっくりと、まるで巨大な舞台のように浮き上がってくる。 「いきましょう」 「は…はい」 アルティラスカの促しに瞳はおずおずと歩き出す。海の中を、濡れずに、浮き上がった岩盤に辿りつく。 「えっとね、ゼロはゼロっていうのです。よろしくなのです」 「っ」 「本来は、こちら向きなのです」 すぐ側の闇から声がして、何か巨大な人影が大きな掌を岩盤の下に差し入れた。静かに裏返すと、今まで砂地に面していた部分が晒される。 おそらくは何本もの支柱があったのだろう。円形の突起で囲まれた建物群らしい跡が幾つもある。中央に少し彫り込まれた部分があり、そこに入り込んでいくと、あの小部屋に繋がるとわかる。 「……あの宝石は小部屋の『天井』についていたんですね」 「そうして、この岩盤を浮かせていたのよ」 アルティラスカが説明した。 おそらくはあちらこちらに似たような小部屋があって、そこに同じような仕掛けがあったのだ。けれど、何かがあって、残ったものはこれ一つとなった。そのため、浮遊することができずに岩盤は沈み、ひっくり返ってしまった。 「…ここを見て」 小部屋に繋がる廊下には、紋様が彫り込まれ、それは一枚の絵に繋がっていく。今、その絵を見上げながら手を差し伸べる、瞳そっくりの少女の絵に。周囲に奇妙な図柄が彫り込まれているのを、アルティラスカはそっとなぞった。 「『王よ、王よ、我が魂よ。都を守りし、我が最愛の主よ』…そうたくさんの人が唱えながら、ここへ通っていたのね」 そのことばの力が、想いの強さが、この岩盤を支え守り保持していた。 瞳の目から涙があふれた。 「覚えてます……覚えてるわ……私、駄目な王様でした。この都を滅ぼしたのは私のようなものです、なのに、ここを、守ってくれていたの、私がいなくなった後も?」 「ええ……みんな、あなたが大好きだったのね」 アルティラスカは微笑んで、泣き崩れた瞳の肩を抱いた。 「そうよ、ここは……あなたのお墓だったの」 「私…私……」 もっと、頑張る、今のこの、自分を。 瞳は小さく、つぶやいた。 「で、どういうことなのこれは」 ヴァネッサは差し出された空箱を、アリッサを、そして同行したロストナンバーを冷ややかに見た。 「申し訳ありませんでした、おばさま」 アリッサが大人しく頭を垂れてみせる。 「今回のご依頼は果たせませんでした」 「報告書には目を通したわ」 真っ赤に塗った唇を不愉快そうにねじ曲げる。 「手に入らないかもと心配したわ、けれど、アリッサならばと思ったのよ?」 「あなたは、民のことを考えたことがあるのか」 頭を下げる気など一切ない雪が、ぴしりと胸を張ったまま続ける。 「今回の依頼、護りたいという願いを粉々に砕いてまで果たすべき仕事とは思えない」 世界が滅びに向かっている、その現状を薄々感じながら素知らぬ顔で、ただただ己の欲望を満たしたいがために生きているだけ、ではないのか。 「言ってくれるわね」 ばさりとヴァネッサが投げて寄越したのは壱番世界の新聞、沖縄にあった海底遺跡が地震変動で崩れそうになったが、何とか持ちこたえたとある。早急に保存の手立てを打つということで、地元の高校生達が中心となって、自然と遺跡を保護する運動を展開し始めたと付け加えられていた。添えられた写真は、海を背景に誇らしげにプレートを差し上げる石田瞳の姿だ。 『私達は、ここで、生きていく』 飛び跳ねた文字は、彼女の決意の証だろう。 それを雪は眩く見つめる。 その感動を引きずり降ろすように不快そうな声でヴァネッサは唸った。 「宝石はなくなったのでしょ?」 「えーと…」 アリッサが曖昧に微笑む。 「ここにはもうないのね、『ヌカ・タマ・ヒ』は?」 「ええ…はい」 「どこにあるわけ?」 「お空に飛んで行ったのです」 唐突にゼロがあっけらかんと応じた。 「壊れやすい石の網の小箱は、大きな変動に耐えられなかったのです」 「……それで?」 「網が破れて零れた宝石は、まるで流星のように宇宙の彼方に飛び去ってしまったのです」 遥か昔、宇宙の彼方から持ち込まれた石は、地球の重力を遮る力があった。最愛の主、つまりその石を制御できる知識を持った民がいなくなってしまった、今の壱番世界では彼らを保持することはできないだろう。 「……だからここで、と思ったんじゃない」 ヴァネッサは吐き捨てた。 「ここなら、保持する方法があるわ、いくらでも」 チャイ=ブレが知識を持っていたでしょうに。 「聞きたいことがあるのです」 なおも続きそうなヴァネッサの不満に、ゼロは無邪気に問いかけた。 「ブラッドオブジャスティスの研究進展についてなのです」 ヴァネッサがじっとゼロを見つめた。ゼロもまじまじと相手を見返す。 ばさり。 ヴァネッサはいきなり扇を広げた。顔を背ける。 「…いいわ、もう。消えたものは仕方がないでしょ」 ヴァネッサはしっし、と三人を追い払った。なおも問おうとするゼロに雪が首を振って促し、アリッサもさっさと離れようときびすを返す。その背中に、 「ああ、アリッサ」 お前の後ろに化け物がいる、そう脅かされてもこれほど緊張はしないだろう。 アリッサは溜め息をついて振り返る。 「マントヒヒよ」 扇の陰で、ヴァネッサはちらりと横目でアリッサを見やった。 「マントヒヒ柄の枕を注文してあるわ。世界図書館に届くから、持ってきなさい」 「……はい、おばさま」 なぜ世界図書館に、とか、なぜアリッサに、とかそういうことはこの際問題ではないだろう。とにかくヴァネッサは鬱憤ばらしをしたくてならないのだ。 「それから」 「はい」 うんざりした顔のアリッサに、ヴァネッサは嬉しそうに笑った。 「『銀青瞳』というアクアマリンを探せるロストナンバーを見つけておいて」 場所はモフトピアよ。 開いた扇の向こうでゆっくりと向きを変える。 「今度こそ、失敗はなしよ、アリッサ」 細められた緑の瞳は、もう笑っていなかった。
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