「やっぱり駄目かね」「…はい」 白髭園長の問いに、経理担当は俯く。「随分あちこち融資をお願いしたんですが、こちらの経営状態を考えると、とても今後も収益を望めない、と」「……そうか」 園長は立ち上がって、事務所の窓から見える小さな遊園地を眺めた。 観覧車、ジェットコースター、回転木馬、お化け屋敷、ミラーメイズ、コーヒーカップ、バイキング、ゴーカート、射的場、チェーンタワー……他に食堂、売店、花壇に囲まれた噴水がある。トイレも4カ所、休憩のためのベンチは20カ所、チケット売り場も各ブースの他に2カ所、入ってすぐのイベント会場ではキャラクター・ショーや手品、アクロバットなども見せていた。交通手段も駅から5分、バス停留所から3分と悪くない。 けれど、決め手、いわゆる目玉商品というものがなかった。 そこそこにいろいろあるけれど、どうしてもここに来たいと思わせるものがないのは致命的、経営陣はそう判断した。 閉園が決まったのはつい先日だ。「……残念だが……仕方あるまい」 白髭園長はゆっくりと頷き、それならば、とことばを継いだ。「閉園までの時間を、十分皆様に楽しんで頂こう。開園して以来、この地域の方々にもいろいろお世話になった。せめてもの恩返しだ」 4人乗りの七色のゴンドラは40個、約10分で一回転する。数々ある観覧車、世界最大級の『ロンドン・アイ』や『シンガポール・フライヤー』などとは比べるべくもないが、頂上では少し離れたところの海と霞む山を見ることができる。窓が5センチほど開けられたり、床の一部が透明になっていて高さを味わえたり、それはそれで工夫を凝らしたものだ。「わかりました。ではまず『観覧車』で」「うむ」 白髭園長は晴れ晴れと笑った。「今日は観覧車を無料とする」「皆さん、いろいろとお疲れ様です」 鳴海はぺこりと頭を下げた。「まだまだ厳しい状況が続いている世界も多い中、館長からも皆さんのお疲れを少しでも減らせるようなことを考えて欲しいと言われてまして……」 見つけました、と微笑む。「壱番世界の、閉園間近の遊園地です。閉園までの時間を楽しんで頂こうと、一日に1つ、アトラクションを無料にしています。今回は『観覧車』だそうです。入場者もそれほど多くないですし、お知り合い同士、あるいはお一人ででも、ちょっとまったりしてこられては如何でしょうか」 今回は夕方ごろに遊園地に着く予定です。「夕焼けや夜景も楽しんで頂けるかも知れませんね」 真夜中には戻りますから、乗り遅れないようにお願いします、と鳴海はチケットを差し出した。
観覧車。 時にそれは人生そのもの。 乗り込み、向かい合い、思いを馳せ、眺め、たとえ素知らぬ顔で背中を向けても、ゆっくりと回り続け、時間を紡ぎ続けている。 「…マジかヨ。男4人で遊園地なンざ参加してる俺すら信じられねェ」 ロストレイルに乗り合わせた面々を一渡り眺めたジャック・ハートの、それが第一声だった。皮肉に歪めた唇、苛立たしそうに輝く瞳は,今は緑色だ。 「俺ァ、セ…が依頼に行きたそうに見えたから冷かしてやろうかと思ったンだヨ。男4人で遊園地で団体行動なンざ考えただけで背筋が冷えるッ。別行動するに決まってンだろ」 途中でぼやけさせた名前を呑み込み、遊園地の入り口からジャックは早々に離れていく。無料開放されている観覧車のある方向へ行く気配もなさそうだ。いつもよりは賑わっているのだろう、その人混みの中へ紛れ込み、姿を消す。 ヴェンニフ 隆樹は細身というにも細すぎる華奢な体を不定形の染みのような影に包みながら、ゆっくりと遊園地の中を眺めていた。 『どうしたんですかタカキ。そのセイシン、カエシてくれるシンザンですか?』 ヴェンニフが楽しげに話しかけてくる。真実を知ってからも調子は変わらないが、虎視眈々と『隆樹』を喰らおうと狙っているのが見え見えだ。 (赤の王の時に助けてくれた皆には悪いが、やはり僕は、いてはいけない存在らしい) 胸に広がるドス黒い絶望。『隆樹』が愛し守りたいと思ったものを、守りたいと思っている自分が何者なのか、よくわかってはいるのだ。ヴェンニフが何をやらかすのかわからない。もちろん、無駄死にや消失などは望んでいない。 (僕が僕でいる限り、生きている限り、あらゆる世界をイグジストから救ってやる) 決意は必然、自分の終末の光景へと繋がる。ヴェンニフに喰われる時は、そのままイグジストと戦う状況であればいい。それが最善手だと思っている。 (イグジストを殺し続ける、以外に何とかする方法があれば良いんだがな) それでもふと、目の前に広がる遊園地の光景は憧憬をもたらした。もうどこにもいない『大川隆樹』の遠い記憶が懐かしがる。十数年ぶりの遊園地を、微かに香る夕方の風を。 (いや、初めて、か) この僕は。 一瞬唇が歪んだ。ヴェンニフがくつくつ嗤っているのが聞こえる。 振り払うように歩き出す、観覧車へ向かっていく。 「ここが遊園地…」 イルファーンは今日は白いワイシャツとスラックスの地味な上下でやってきた。白髪、赤い瞳は本当ならばもっと目立つところだろうが、『旅人の外套』の効果だろう、彼に特別目を留める者はいない。 壱番世界にくるのは初めてだった。遊園地も初めて。物珍しい乗り物が沢山あり、家族連れや恋人同士が笑いながら通り過ぎていく。 (本当は彼女と来たかったけれど) 近づいて見上げた観覧車は思ったよりも大きかった。 (僕の世界にはこんな高くて廻る乗り物はなかった) 「ご利用でしょうか?」 「はい」 笑いかけられた女性に頷き、売り場でチケットを受け取り、観覧車の中に乗り込む。がたん、と揺れた金属の籠はしずしずとイルファーンを空中へ運び始める。 「ふぅ…」 座席に身を委ねると、作った笑顔が溶け落ちるように消えるのがわかった。 窓からの景色が次第に俯瞰図に変わっていく。地上を離れ、それまで得たことのない視点へ昇っていく、おそらく『人』の視点としては。隙間から入る冷え始めた風が、髪を乱して視界を覆う。 イルファーンの想いは自分の有り様に沈んでいく。 先日、ディラックとの問答で郷里への道は示された。 だが、元の世界に戻っても主はもういない。イルファーンを庇って死んでしまった。 (僕の存在は災厄をもたらす……僕が消滅すればアシュラフの未練も潰える) 目を細める。苦しい胸が小さく呟く。 (叶うならば彼女と時を重ねたい) 「でも……」 イルファーンは精霊、彼女は人。愛する人が老いて死に、独り取り残される現実に耐えられるのか。 唇を噛む。四肢から体へ、心まで食い荒らすこの孤独。 (もう独りは嫌だ。誰も……君を喪いたくない) 観覧車は昇っていく、地面を離れて遥かな空へと、まるでそのままうんと高みに舞い上がれそうな静けさで。だがしかし、航路は途中で曲がっていく、空に辿りつくことはなく、空を目前に揺らぎ始め、身を引き、たじろぎ、見上げたまま倒れ込む体のように弧を描いて崩れていく。 (僕はこんなにも小さく弱い……) 途方もない力を抱えながら、その一つでさえ幸福になれない。精霊の身に人の心を宿してしまったことは、これほど虚無に近くなる。 (いっそ僕が人の身だったら……人として生まれてきたならば、子を生す事もできたのに) 無限に果てしない道を一人歩くのではなく、この観覧車のように、命の円環の中に紛れて繰り返し繰り返し、巡り会い愛しあい、命を紡ぎ命を育み。 観覧車は今一番の高みを過っていく。 イルファーンの潤んだ視界に、黄金の光に巻き付かれ密度を増して輝きながら落ちていく太陽が霞んでいる。 「む…」 灰と藤の中世風の軍服を着、同色の首巻で口元を隠したコタロ・ムラタナは遊園地に入ったとたん、ここに来ない方がよかったのではないかと首を竦めた。思い出す、壱番世界の別の場所で起こった、ありとあらゆる機械との悲惨な付き合い。ここにはロボットフォームのセクタンもいない…そして、彼女も。 「ママー、次はあれ!」「はいはい…」 笑いはしゃぐ子ども達が母親らしい女性の手を引いて走っていくのを見送る。 蒼国軍戦列歩兵部隊第十八番隊隊士。得手は魔法を用いた遠距離・広範囲攻撃。職業、軍人。 何と不似合いな場所に自分は居ることか。 それでもここに参加したのは、落ち着いて思考を整理したかった為、言わば小休止……次の行動に移るまでの。 「く」 次の行動、そう思った瞬間に脳裏に広がった輝くような笑顔によろめいた。歯を食いしばって何とか歩き続け、ようよう、ベンチの一つに腰を降ろす。 無料開放されている観覧車は目の前でゆったりと大きな輪を回していた。つい先ほどヴェンニフが乗り込み、その数個後にイルファーンが乗り込んだ。二人とも何かを考えているように、ベンチのコタロには気づかなかった。 この位置ならば大丈夫だろう。いくら機械との相性が悪くとも、ここまで離れているなら被害は及ぼさないはずだ。 彼女とも? 「っ」 頭の奥から響いたことばにどきりとする。戦場にあっては命令を果たすことにいささかの怯みも狂いも感じない心が、彼女、の存在だけに揺さぶられる。いや、おそらくは彼女の存在から始まった、ことに。この拳の向こうに存在すると知ってしまった、命に。 「…」 無言で深く身を屈め、指を組んだ。 以前彼女に誘われ初めて共に訪れたのも壱番世界だった。自分の能力のせいで彼女には迷惑をかけた。そうだ、迷惑ばかりかけてきた。 にも関わらず彼女は自分を好いてくれた。 貰ってばかりの自分だ。出会う度、同じ時間を過ごす度、密かに膨れ上がってくる想いがある。 (彼女に報いたい) それは人としての己の願望だ、だが。 「………」 コタロは青い瞳を眇めて、翳っていく黄金の光を見上げる。朱に染まった大気の色、流す血潮ときな臭い硝煙が被る、あの世界を思い出さすにはいられない、こんなに平和なこの場所で。 (あの誇り高き兵士達と共に生きたい) 焼ける空に観覧車は巡る。ゆっくりと、金属の箱をきらり、きらりと光らせながら。影絵のように空を刻む、その動きに、壊れ行くマキーナと勝利の凱歌を耳にする。突き上げる拳の一つに自分を数える、その喜び。 カンダータへの再帰属。それは兵としての願望、だが。 (けれどきっとそこに彼女の姿は無い) それもまた、動かし難い真実だろう。 (彼女は平和なこの世界に生きていた普通の人間……ロストナンバーとしてどこかに帰属する日が来たとしてもそれはあの戦場では無いだろう) 人としての願望と兵としての願望の対立、それは嘗てと同じこと。 いつか旅の終わりがくる。その時自分は未練無く終わりを迎えられるのか。前のように絶望する事無く、前へと歩いていけるのか。 「!」「あ、っ…ごめん、…なさい…」 突然飛んで来た小さなボールが脚に当たって、どこかに転がるのをとっさに止めた。顔を上げると、さっきの母親がびくびくした顔で近寄ってくる。そのスカートに子どもがすがりついて泣きそうになっている。 「あの、申し訳ありません、私がついていながら」 「…」 自分はどう見えているのだろう、この親子に。どす黒く澱んだ顔色で目の回りに隈を作り、灰色の軍服に身を固め、ベンチを占拠している得体の知れない不気味な男か。 母親が彼女と重なった。いつか時間がたったとき、彼女もまた、こんなふうにうさんくさげにコタロや仲間を見るようになるのだろうか、大事な子どもを守るために。 「あ、ありがとうございましたっ!」「ごめんなさい!」 差し出したボールを母親は必死に受け取った。子どもを引きずり離れていく。子どもも声を張り上げて謝り、けれど何か気にかかったように振り返った矢先。 「っっ」 小さく笑った、安心した顔で、コタロを見て。 最大火力の重砲で胸をぶち抜かれたような気がした。 重なる顔が他にあろうはずもなく。 「……こ」 名前を思わず呼んだとたん、降りてきたヴェンニフ 隆樹が声をかけてきた。 「……コタロか。あの時以来だな」 観覧車が地上に戻った時には、心は意外に静かになっていた。 ゴンドラから降りると、目の前のベンチに呆然とした顔で固まって座っているコタロが、観覧車を見上げていて、思わず声をかけた。 「は…?」 瞬きした相手に、カンダータだ、と思い出させてやると、一瞬何かに貫かれたような顔で口を噤んだ。痛い話だったのか、とさりげに話題を変える。 「あれから、おでん屋には行ってるのか?」 「あ、ああ…」 「僕は行っていない。持ち金があまりないからな」 そういうリユウじゃないですよね、とヴェンニフが突っ込んでくるのを無視する。 本音を言えば、向こうから「逝くな」と言われる繋がりをあまり持ちたくないからだ。自分の末路なぞ知れている、誰かの心を騒がせるようなことをしたくない。 ふと、目の前の男は、そういう生死の境界にしょちゅう佇んでいる男だったと思い出した。 「……死にたがりに見えるから聞く。お前は、何のために戦う?」 「何の、ために…」 問われたコタロは一瞬何を尋ねられたのかわからない、そういう顔で瞬いた。 「死にたがりに…見えるか」 「そこかよ」 返答する場所が違ってるだろ、そのことばは続いた声に呑み込む。 「生きるために……いや」 自分を救うために…? 「は?」 「あ、いや…違うな、いや、敵もまた、生きているから、違わないのか」 「おい」 生粋の軍人のはずの男は、戸惑うような答えを返し、その自分の答えに戸惑ったように観覧車を見上げる。 つられてヴェンニフ 隆樹も観覧車を見上げる。ライトアップされ、ゆっくり巡るゴンドラに思考が一回転して戻ってくる。 「……そうだな」 所詮、喰らい尽くすことが『自分』の在り方ならば。 イグジストを実質的にしか殺しえないのなら。 なれば目には目を、歯には歯を。 (僕は、イグジストのみを喰らうイグジストを目指す) そっと小さく名前を呼ぶ。 「ヴィー、ルカ、シュト、リーア。『隆樹』は、そっちに逝ってるか?」 『イマイマしいナマエばかりですね』 ヴェンニフがせせら笑う。 観覧車から離れて、真上の空を見上げる。 ディラックの空のように謎めいてはいないが、やはりどこまでも深く、どこまでも遠く広がる空間に、少し心が楽になる。 (僕は、どこにも逝かず……いずれ空を彷徨おう) ヴェンニフ 隆樹は、吹き過ぎる風に目を細めた。 日はもう落ち切った。 暗くなった空と対照的に、地上に灯が灯り始める。それは回る観覧車も同じこと。端から次々ライトが灯る。ゴンドラの中で静かに空中を運ばれていくイルファーンの目に、暗闇に光る幾つもの灯が飛び込んでくる。 (あれなら知っている) 元の世界でもよく見た。深い夜の中で、人が生きていこうとしている徴だ。闇に呑まれないように、寒さに凍えないように、ここだよと誰かに呼びかけるように輝く祈りの光。 (赤の王との戦いではどうなるかと思ったが…この世界を守れて本当に良かった) 少なくともこの光は、イルファーン達が守ったものだ。気づかないうちに起こっていた、世界を破滅させる大きな波を、ロストナンバー達が手を繋ぎ、心を注いで見事に押し止めた証だ。 (次に生まれ変わるならば人になりたい) 「精霊に死の概念はないのに……愚かだね」 呟く声が静けさに紛れていく。遊園地に来ていたお客も三々五々家路についているのだろう、地上に近づいていくにつれ、静けさは増していくようだ。 (夜に入る) 安らかで柔らかな夜に。 観覧車に座りながら、イルファーンは目を閉じた。 そうしても、瞼の裏に光はなおも輝き続けている。 世界は美しい。そこに生きるものもしかり。 「…彼女にも…この光景を見せたかった…」 掠れた声は、声にならないことばを宿す。 人になりたい。 人になって、人と結ばれ、人として生きて逝きたい。 それが、誰にも言えないイルファーンの夢だ。 がこん、と揺れてゴンドラが止まった。 元の場所に戻ってきて、イルファーンは静かに観覧車から降りる。 脳裏に過った顔をそっと抱き締める。 (エレニア・アンデルセンはどうするのだろう) 故郷…出身世界に帰るのだろうか。 (それが彼女の幸せなら応援するのが正しいのに) イルファーンの心は小さく震えながら問いかけている。 (その世界に、僕の居場所はあるのだろうか) ヴェンニフ 隆樹の問いに見上げた観覧車からイルファーンが降りてきた。悩んでいる顔はそのままだ。自分も同じように悩んで、始末のつかない顔をしているのだろうとコタロは思う。 「…閉園か…」 ぼつぼつ人が帰り始めている。そぞろ歩いていた人々が忙しく出口に向かい始める。 「…終わりか…」 そうだ終わりはいつか来る。その終わりの先に何があるのか、わからない。けれど、歩いていかないからわからないということかも知れない。 「歩く…」 歩けるところまで歩く、否、歩いていかなければならないのだろう。 コタロはもうそれを十分学んだのではないか。 その為には、悔いを残す事無く今を生きねばならない。 (どうしたら彼女に報いる事が出来るだろう?) 「……今度、どこかに……誘ってみるか」 もう一度、周囲を見回した。満足そうに寄り添って帰る恋人達を横目に、ゆっくりと観覧車に近づいていく。まだ回り続けているし、チケット売り場の灯はついている。 ライトアップされ、きらきら輝く円環を眩く見上げる。 自分には似合わないだろう、上手くやる事も出来ないだろう……それでも多分、何もしないよりはマシだ。 「よし……あ」 頷いて向きを変えようとした途端、すぐ側を走り過ぎた子どもにぶつかられ、よろめいたコタロは慌てて近くの小屋に手をついた、そのとたん。 バキュッ! 「へっ」 「何だっ、今観覧車から煙が出たぞ!」「いや、閃光が走った!」「園長を呼んできてくれ!」「整備士も!」 「え、あ、」 小屋は観覧車の管理室だったらしい。コタロが手をついた次の瞬間、観覧車が止まった。ライトが消え、鮮やかな光の輪は一転、墨絵のように黒く沈む。ばたばたと走り出す周囲からそろそろと身を引こうとしたコタロの顔は蒼白だ。 (誰も乗っていなかったのか? 皆無事か?) 「イヨォ、ムラタナ。観覧車乗らねェのか。乗ってこいヨ…どうせ今なら誰も乗ってないゼェ…ッとナ」 ふいに耳元で声が聞こえて襟首を掴まれた。 「な…にっ……!」 体の周囲を風が覆う。 気がついた時には真っ暗な部屋に一人居る。 「こ、ここはっ」 慌てて窓に近寄るとゆらゆら揺れる、その揺れ方に思い至った。窓際に張り付いて見下ろす世界、どうやら観覧車の一番上の箱らしい。 同時に心の内側でテンションの高い笑い声が炸裂する。 (自力で転移符で降りられるだろォが、テメェはヨ? 別に下ろしてやってもいいが…せっかく来たンだ、テメェも堪能してから帰りやがれ、ヒャハハハハ) どこかへ姿を消していたジャックだ。 「て、転移符…てんいふ…っ」 ロストレイルの帰りの時間は真夜中だが、わらわら集まってくる修理のための人々にまたもや迷惑をかけていると思うと身が縮む。 コタロは必死に符を探す。その頭上でぎしりと何かが乗った音がした。 「氏族ほっぽり出して何やってンだ、俺ァ…こんな所で」 アスポートでゴンドラに放り込んでやったコタロは、さっさと転移して逃げたようだ。足下では観覧車の問題を確かめようと、管理者達が集まっている。 一番高いゴンドラの屋根に座って、ジャックは風に吹かれている。 空にはもう星が満ちた。地上の光が沼地に散った夜光虫のようだ。 思惑がいろいろと外れて、コタロをからかったものの、ジャックの気持ちは今一つ納まらない。 「ゲイル!」 夜空に風を巻かせ、空気の断層を交差させる。鳥でも飛んでいたなら、巻き込まれて凄惨なことになっているだろうが、木々が少ないせいか、蝙蝠さえも飛んでいない。 「ライトニングッ!」 放電の光はできる限り上空に展開した。あの高さなら地上に影響はないだろう。ゲイルを組み合わせ、光を散らせ、絡ませる。 「なかなか花火っぽくならねェゼ」 ロストレイルは真夜中の発車、今はそれに乗る気になれなかった。 「ふっ……むっ!」 なお放つ、繰り返す、遮るもののない大空に、力の波を跳ね散らかせる。 光が何度かぶつかり、跳ね飛び、花火というより、空中に舞い散る花びらのように見える。 大量のエネルギーが大気をかき乱したせいか、雲行きが怪しくなってきた。湿った風が吹き付けて、乾いた唇を少し潤す。 「……何やってンだよォ…」 ジャックはもう一度呟いた。 珍しく気弱な声だった。
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