「回転木馬もいいものだな」「皆、喜んでいました」 ええ、馬達も、と微笑む経理担当の顔を眺めながら、白髭園長は少し考え込んだ顔になる。「奇妙な体験をしたよ」「え」 経理担当はいささか顔を引き攣らせ、やがて眉を寄せた。「それは確かに…私達のような年齢の男が回転木馬に乗っているのは違和感があるのは否めませんが…」「違う違う」 納得しかねる顔の経理担当に苦笑する。「私はあそこで、自分の影と出会った気がした」「影、ですか」「お礼を言われたのだがね」 白髭園長はゆっくりと視線を窓の外へ投げた。 観覧車、ジェットコースター、回転木馬、お化け屋敷、ミラーメイズ、コーヒーカップ、バイキング、ゴーカート、射的場、チェーンタワー……他に食堂、売店、花壇に囲まれた噴水がある。トイレも4カ所、休憩のためのベンチは20カ所、チケット売り場も各ブースの他に2カ所、入ってすぐのイベント会場ではキャラクター・ショーや手品、アクロバットなども見せていた。交通手段も駅から5分、バス停留所から3分と悪くない。 だが、ここはもう閉園が決まってしまった。 現在は、これまで当地で営業してきたお礼を込めて、残り時間を存分に楽しんでもらおうと、一日に一つ、アトラクションを無料にしている。 これまで無料にしたのは、観覧車、ジェットコースター、回転木馬。気のせいか、来客が無料開放のアトラクション以外にも増えてきたような気がする。 しかし、夕べは不思議な夜だった、と白髭園長は思い返す。 回転木馬が記憶をたどる懐かしいものであるのは想像がつくが、経理担当に促されて青のモルナールに跨がり、くすんだ緑のたてがみの彫り込みに指を滑らせ、上下に揺られて園内をぐるぐると見渡しながら、白髭園長は一番最初に遊園地へやってきた時のことを思い出していた。「芝生に弁当を広げていた女性がいましたね」「クラシカルな風合いが好まれたのだろう、服のモチーフにしたいと許可を求めていた娘さんもいたな」「ちょっと年かさのいった青年ですが、まるで初めて回転木馬を見たように殊勝に乗ってくれていた人がいました」「だが、中に一人、奇妙な鳥の面を被った女性がいて」 白髭園長は少し口を噤んで、遠い目になり、「……おかしいと思うかね。私は彼女に会ったことがあるような気がしたよ」「最近ですか」「いや、それこそ、一番初めの遊園地で」 白髭園長は語り出す。両親に手を引かれ、連れていかれたそこは、小さな小さな遊園地だった。ジェットコースターなどない。道化師が芸を見せながらポップコーンを売り、人力駆動のゴンドラ四つの観覧車が回り、ビーンボールの台と大人達のためのビールと炒り豆のテーブルが並び。「回転木馬があった」「初耳ですね」「私も忘れていたよ」 すぐ側に楽団が居て、バイオリンやチェロ、シンバルや太鼓、移動式の小さなピアノで同じフレーズが繰り返す曲を演奏していた。「父に抱き上げられて乗せられたのは何色の馬だったか、わからないんだ。ただ、目の前を走る白い馬に、一人の女性が乗っていて、その紫のドレスが風に翻っていたのをじっと眺めていた」「夕べの人がその人だったと?」「いや、違う…あり得ないし、事実、そうじゃないんだ」 白髭園長は苦笑した。「実は、その遊園地に紫のドレスの女性などいなかったんだよ」「……どういうことです?」「場末を回る小さな移動式遊園地の名前は『マダム・ファフニールの遊園地』と呼ばれていた。看板に描かれていたのは紫のロングドレスを纏った貴婦人だったよ」「……幻ですか」「幽霊かも知れないな。夕べ、一人の女性に出会ったのだが」 その時、こちらを見上げて微笑んだ女性の顔が、まるでその『マダム・ファフニール』のように見えた。「彼女の前に居た私は、今ここに居る私ではなくて、あの移動式遊園地に出かけていた私のように思えてね」 回転木馬は、時を遡るのかも知れないな。「……よし」 白髭園長は一つ頷いた。「次は『お化け屋敷』を無料開放しよう」「『お化け屋敷』ですか? あの四つのステージのある?」「そうだ、城のステージ、月のステージ、墓場のステージ、実験室のステージ」 白髭園長は一つずつ並べると、にやりと笑う。「ただし、入ってもらう方にも仮面を被ってもらうことにしよう」「仮面を、ですか? あのいつかのイベントの時のような?」「吸血鬼、狼男、ミイラ男、フランケンシュタインの四つから、好きな仮面を被ってなりきって進んでもらおう」「それじゃあ、『お化け屋敷』じゃなくて、『お化けになろう屋敷』ですよ」「構わないだろう、もう閉園するのだから」 白髭園長は悪戯っぽく片目をつぶった。「私達も楽しもうじゃないか」「皆さん、いろいろとお疲れ様です」 鳴海はぺこりと頭を下げた。「世界の命運について深く悩まれている方、帰属を考えておられる方、いろいろおられると思います。館長からも皆さんのお疲れを少しでも減らせるようなことを考えて欲しいと言われてまして……」 先日から時々お願いしている依頼ですが、と微笑む。「壱番世界の、閉園間近の遊園地です。閉園までの時間を楽しんで頂こうと、一日に1つ、アトラクションを無料にしています。今回は『お化け屋敷』だそうです。お知り合い同士、あるいはお一人ででも如何でしょうか」 実は、今回は昼過ぎには戻らなくてはなりません。「開園早々には着けるんですが、どうしても都合がつかなくて、戻る時は昼過ぎの出発となってしまいます」 申し訳なさそうに肩を竦めて鳴海は、乗り遅れてしまうと次の便は翌日の夜となりますので、注意なさって下さい、とチケットを差し出した。
「鳴海、有難ウ!」 チケットを受け取り、幽太郎・AHI/MD-01Pは明るく弾けた声を響かせた。 「僕、前カラズット、コノ旅行ガ気ニナッテタノ。遊園地、大好キダカラ」 「でも、昼過ぎまでですから、ちょっと短くて申し訳ないですが…」 「…ェ…昼過ギ二戻ルッテ…。ソレジャア、半日モ遊ベナイッテ事…? 開園ガ10時ダトシタラ…3時間位デ終ワリ…?」 ピープ、とどこかで抜けた音が鳴ったような気がするほど、幽太郎ががっくりする。装備された各種のセンサー、高感度レーダーの大きな翼、自慢の太くて長い尻尾、いざとなれば口の中の小型荷電粒子砲を放つこともできる力強い竜型ロボットのはずなのだが、こぉん、こぉん、とつまらなげに数回尻尾を床に打ちつけた後、 「…ヤダ…」 きょとんとする鳴海を見下ろして、首を振る。 「僕、残ルヨ。次ノ便ダッタラ丸二日遊ベルヨ」 「え、えーと、それはですね」 「僕ノ事ハ心配シナイデ…。大丈夫…遊園地ノ人達ニハ絶対二迷惑カケナイカラ…」 見上げるほど大きな金属竜が可愛らしい駄々をこねるのを、どう扱ったものかと鳴海は戸惑っていたが、やがてくるりと背中を向けた。 「あー忙しい忙しい、あんまり忙しくって、ちゃんと受けてもらった依頼のことまで悩んでいられませんねえ、ほんと! 報告書が来てから悩もうかなあ!」 「……アノ…ジャア…ボク…」 「……楽しんで来て下さいね」 ぼそりと呟いた鳴海は、次の瞬間猛ダッシュで幽太郎の元から離れていく。 「……アリガトウ!」 幽太郎はいそいそとロストレイルに向かっていく。 「遊園地か……ガキの頃一度だけ母さんに連れてきてもらったな」 ヴァージニア・劉は吸っていた煙草を片付けながら入口を潜る。園内禁煙は最近どこもだ。女の子は白くてキレイなお馬さんが好きでしょと、スカートを穿かされて回転木馬に乗せられた。だが、そんなものでも数少ない楽しい想い出の一つだ。 『エンド・オーヴァー』 それがお化け屋敷の名前だった。 石造りのアーチ型の門の側に、古びた札が四枚かかっていて、チケットと交換にその下にある箱の中から仮面を一つ、取り出すことになっている。 一枚目の札にはこう書かれていた。 『古城のステージ あなたは時間を越えて、永遠を手に入れた。無限の時間を楽しむ者として振舞え』 「ふん」 冷ややかな唸りを漏らして、朧・ノスタルジアは吸血鬼の仮面を手にする。片目を隠した青い長髪は伸縮自在で手のように扱える。銀に青の斑な瞳を瞬いて薄く嗤う。見かけの端麗さに比べて、その笑みは酷薄だ。 思い立ったのはきまぐれの一つ、けれど、存在するものとしないもの、見えるものと見えないもの、この地よりも進んだ文明でも噂はある。自分が血液を操ることから『吸血鬼』を選んで被ることにしたが、中身は造られた人間『フランケンシュタイン』だ。 「皮肉だな」 視線を逸らして、朧は幽太郎と劉が手を伸ばしているステージの札を読んだ。 『実験室のステージ あなたは誕生を越えて、進化を手に入れた。新たな理を体現する者として振舞え』 フランケンシュタインの仮面を手にする二人を眺める。幽太郎は大きなおもちゃがしゃべっている感じ、機械はお化けを怖がるのだろうか。劉は線の細い陰気な男、派手な柄シャツに薄い胸の刺青の趣味は合わないが、どこか自分と似たものを感じる。視線に気づいたのか、振り向いて目が合いそうになったとたんに目を逸らせ、 「べ、別に怖かねーよ」 聞きもしないのに応えて、劉は仮面を神経質に弄くった。 「びくついてる? 気のせいだ、そういやソアも来てるんだっけ」 一人でしゃべりまくるあたり、十分怯えているようにも見えるが違うのか。 「牛化で暴走されちゃたまんねーし迷子になんねーよう気をつけておくか」 劉が視線を投げた相手は黒髪に明るい緑の瞳の女性、小柄な体で来た時から周囲を熱心に見回している。遊園地は初めてなんだろう、素朴な可愛い嬢ちゃんだ。朧や劉の凝視にも気づかず、両手をぐっと握って、一つの札の前に立つ。 『月のステージ あなたは種族を越えて、変身を手に入れた。能力を融合し可能性を生む者として振舞え』 「これがお化け屋敷…名前からしてお化けがぎっしり詰まっているのかな」 小さな声がきゅっと引き結んだ唇を押し開いた。 「でも、勇気を出さなきゃ、これからどんな世界に冒険に行くか分からないんだし、その時に備えて怖いのに慣れるためにここに来たんだから」 「おい、ソア」 お化け屋敷はそういうもんじゃねえ、と口を挟もうとする劉を無視して、 「被り物は…それじゃわたし、狼さんになります!」 背伸びしてソアが掴んだのは狼男の仮面だ。 「狼さんの真似をして歩くのかな? 頑張ります…! えーと、がおー、がおー!」「おいおい…」 早速仮面を被って予行演習、しょっぱい顔になった劉に比べて朧の思考は柔らかだ。迷子になりやすいのか、注意しておこう、と微笑んだ。全く似てはいないのだが、どうもこういう年代の少女を見ると重ねてしまう面影がある。 結局誰も選ばなかったが、朧は残ったステージの解説も一応読んだ。 『墓場のステージ あなたは死を越え、転生を手に入れた。傷みと苦痛を終わらせる者として振舞え』 ちくり、と胸が痛んだ気がした。 入り口で仮面を被り、細い通路を進むと古い木製の扉だった。 ぎ、ぎぃいいい。 きしむ音をたてて扉を開いたのは右のこめかみに太い釘を突き刺したフランケンシュタインの幽太郎だ。大きな体を屈めるようにして扉を潜りながら、 「僕…フランケン、ノ、オ話シ知ッテイルヨ。フランケンッテ…本当ハ、オ化ケサンノ、オ父サンノ名前ナンダヨネ」 続いて、おっかなびっくり狼男のソアが、そして首に釘が刺さったフランケンの劉が、最後に血に塗れた牙を剥き出した吸血鬼の仮面の朧が続く。 そこは左右に扉が並ぶ通路だった。壁には幾つもタペストリーがかかり肖像画が飾られ、揺らめく灯がついたり消えたりする。ごおお、と風が唸る音が聞こえた。吸血鬼の住まう城内という設定なのだろう。 「オ化ケサン…頭ガ良クテ、チカラ、モアッタケド…顔ガ怖クテ、ミンナニ怖ガラレテ…オ父サンカラモ怖ガラレテ、ズット一人ボッチダッタンダッテ…オ父サンニハ名前スラ付ケテ貰エナカッタッテ…可哀相ダヨネ…」 先を往く幽太郎に遮られるのだろう、劉が幽太郎の横から覗き込み、その背中に隠れるようなソアが居て、朧からは両側の壁しか見えない。 「僕…何ダカ人事ノヨウナ気ガシナイノ…フランケン、ナラ、上手ク演ジラレソウナ気ガスル…『僕ノ事、怖ガラナイデ…友達二ナロウヨ… …オ父サン…何処二イルノ…?』」 ふいに幽太郎が声色をかえて、ふらふらと体を揺さぶった、そのとたん、 「うわあっっ!」「きゃあっ!」 前方で起こった悲鳴、どすん、ばたんっと何かが倒れた音、その音に弾かれるようにソアが悲鳴を上げ、一瞬その輪郭がぶぶっ、とぼやけた。 「大丈夫カナ…?」「な、なんだよっ、お前らっ!」「いやあっ!」「アノ…ボク…」「ちきしょうっ、こいつっ!」 前方で起こった状況がわからないので、朧はすうっと伸び上がった。天井に張りつくようにぺらりとした体を伸ばし、三人の頭上を越えた瞬間、 「ぎゃあああああっ!」「お化けえっ!」 幽太郎の前に立ち塞がっていたミイラ男と吸血鬼のカップルらしき二人が、朧の姿を目にして顔面蒼白、駆け去っていく。側のドアから突然飛び出して脅かそうとしていたらしい狼男がきゅう、と妙な声を出して崩れる。 「エ、オ化ケ? ドコ? ドコ?」「お、お化けですかっ、どこっ」 慌てる幽太郎、悲鳴を上げるソアに、するすると朧は体を戻す。なるほど、ここは通路を行くうちに、突然人が飛び出してきたり、腕を掴んだりして恐怖を与える仕掛けなのか。 だが、続く数分間のうちに、朧はすっかり飽きてきてしまった。驚かされても殺気が感じられないから、反応がしにくい。途中で段々速度が鈍り出した幽太郎に代わって先頭を務めたものの、ふいに虚しくなってきてしまった。 「最後なら、一緒に楽しませてやろうか」 ぼそりと呟いたのは、さっきの反応が新鮮だったからだ。次々と開く扉から飛び出す人間を相手に、急激に髪を伸ばし腕を伸ばし、血を撒き散らし滴らせ、ぼとりと腕を切り落としてみたり、うろたえる相手の背後に立ったり信じられない角度から首を伸ばして覗き込んだり、ついでに吸血鬼よろしくバッと飛び散ったように薄くなって再び集まってみたり。 「うわあっ!」「ひいっ!」「ぎゃあっ!」「助けてえっ!」「何か居る何か居るっ!」 「おい、いい加減にしろって」 阿鼻叫喚の修羅場となった城内に、劉がさすがにぼそりと唸った。ではこれで最後にしようと、ひゅるん、と顔を崩れさせつつ体を細く捻って天井近くから、側を通る人影に朧が屈み込んだ瞬間、笑顔が固まる。 あ、しまった。 「いやああああっっっ!」「ウワアア!」 幽太郎の悲鳴はもちろん、真正面からそれを見たソアの絶叫が響き渡る。とたん、ソアが少女の姿を捨てて牛になった。朧を跳ね飛ばしかねない勢いでまっすぐに激走していってしまう。 「ソア!」「待ッテ!」 あわやソアに踏み散らされかけた朧の側を、劉と幽太郎が駆け抜ける。 「ソア!」「ドコ?!」 劉と幽太郎が飛び込んだ部屋は薄暗く、木が生い茂り壁も岩のような手触りだった。 「次のステージか」「月ノステージダネ」 二人のフランケンシュタインが遮る樹々の枝や草を掻き分ける。 うぉおおおおおんん……。 録音とはとても思えない生々しい声が間近であがり、幽太郎が立ち止まる。 「あ、同じ狼さんですね!」 少し離れた位置でソアの声がして、劉ははっとする。 「ソア? どこにいる?」 ぐるるるるるっっ。 返事の代わりに、真後ろで唸り声がした。振り向いた瞬間、暗闇に大きな二つの光が灯り、身構える間もなく大きな体が降ってきて、劉を抱え込む。 「何だ細っこいフランケンだな、そんなことでこの狼男に勝てるのか」 「ちょっ、これはやりす、ぎ」 ぎゅううっと締め上げられ背後の壁に押しつけられて劉は気づく、相手はシャツとジーンズ姿、つまりはアクターではなくて、劉達と同様、客の一人だ。 「さっきはよくも脅かしてくれたな、お返しさせてもらうぜ」「ちっ…」 えらく悔しがってた奴が居た、あいつか。 察した劉は息を吐いて体の力を抜いた。緩んだ力に相手が慌てるのと同時に、重心を落として腕を擦り抜け、再度抱え込みにかかってくるのを一転跳ね上がって膝蹴り一発。腹を抱えて崩れ込んだ相手を突き飛ばし、ソアの声がした方へ向かって草を掻き分ける。その矢先、 「キャー!」「幽太郎?!」 別方向で高い悲鳴が上がって輝く刃が閃いた。ばさあっと枝が落ちる音、ぎゃぶっとこれは恐怖というより傷みの声、叫び声が交差し走り回る音が広がる。 「何か落ちてきた助けてくれっ!」「ってか、凄い光が走ったぞ!」「まじっ!」 「……こんなとこで荷電粒子砲なんか使ってくれるなよ…っ」 あれはひょっとしたら幽太郎のトラベルギアじゃないかと思いつつ、劉は再びソアの方へ走り出す。 ごごごごごおん。がこおぉん。 「何だあれは」 異様な音が響き渡って足を速めると、突き当たりに、今度は石の壁が立ち塞がっている。呼んでも呼んでも応えないソア、あのまま月のステージを駆け抜けて、次の場所へ入ってしまったのか。 「とんだ狼男だぜ」 舌打ちしながら近づくと、石の壁が同じような音をたてながら左右に割れた。 「なる……自動ドアに、エフェクト音か」 自分の周囲に居るのが人間離れしているから、ついつい別世界に入り込んだような気になってしまっていたが、落ち着いて考えれば、ここは壱番世界、それこそ、ターミナルで日常茶飯事に起きるようなことも、ここでは起きるはずもない。 石壁風自動ドアをくぐり抜けたとたん、 「怪我してるんですか!? 大丈夫ですか!?」「ソア?」 素っ頓狂な声が響いて振り向く。暗がりでよく見えなかったが、通路はすぐ前で行き止まり、左右に繋がる道もない。だが振り向いて気づいた。今出て来た入り口の真隣にもう一つ石のアーチがあり、入ってすぐに戻るようになっているのだ。そちらへ進み出したとたん、 「があああっっ!」「きゃああっっ!!」 明らかに脅しをかけた声にソアの悲鳴が聞こえて劉は足を速めた。 「ソア、おい!」 ここは墓場のステージ、怪我なぞしてるわけがないだろう、ミイラ男が。 顔を引き攣らせつつ入り込み、薄明るい広間に出て瞬いた。左右に石棺が並んでいる。どれも蓋がずれており、蓋を掴んだ指や包まれた布から黒髪をはみ出させた頭、包帯を巻かれた足などが覗いている。 「ソア?」 部屋は静まり返っていた。周囲に次の場所へ行く扉は見当たらない。おまけに肝心のソアも見つからない。棺を回っていくが、どの指も顔も足も動く気配がない。 「どっから出りゃいいんだ? ソアはどこ行っちまったんだ?」 フランケンの仮面の下でじっとり汗をかきながら、劉は壁を調べて回る。とにかくここは壱番世界なのだ、急に出現するドアとか、溶ける出口なんぞあるわけがない。どこかに必ず、これまでと同じように出入りできる場所があるはずだ。 「何だこれ…」 壁にべったり添って初めてわかった。遠目から一枚の壁だと思っていたが、実は錯覚を利用した重なり合った壁で、手で触れていけば互い違いの壁があり、そこを抜けると、リノリウムの無機質的な床が見えている。 「次はこっちかっ、てっ、痛えっ」 先へ進もうと手を突き出して、劉は思い切り指をぶつけた。 「どうなってんだ?」 今度はそっと触れて驚く。その先の廊下は描かれた絵だ。光の加減、影の具合で、まるで奥へと繋がっているように見えるだけだ。 「だまし絵みたいなもんか……っ、ひょっとしたら!」 慌てて戻って、もう一度ゆっくりと壁を伝って歩き始める。そればかりではない、棺周囲も跪いて近づき気がついた。壁際にあった一つの棺桶だけが描かれた絵だ。しかも、そこにどこからか風が入ってくる。 「一体どこから……っ!」 がたがたがたっと背後の棺の蓋が一斉に落ちてさすがに総毛立った。全く動かなかったミイラ男達が、次々と棺桶の中から這い出してくる。両手を伸ばして、おおおおと唸りつつ近寄ってくるのは、アクターだとわかっていても気持ち悪い、というか、本能的に逃げたくなる。と、その時。 「サキさん…助けて…」「ソア?」 微かな声が部屋の隅から聞こえた。近づいてくるミイラ男達の間を擦り抜け、入ってきた戸口近くの棺桶に駆け寄る。よく見ると、そこの蓋に掛かっている指は描かれたもの、しかも蓋が斜めにずれ込んで動く。急いで大きくずらすと、そこに階段があった。風が大きく吹き抜けて、くすんくすんと泣き声が聞こえる。 「ソア!」 階段下の小さな凹みにソアが座り込んで泣いていた。全裸に近い状態、牛になって暴走した時にいろいろ落としてしまったのか。急いでシャツを脱ぎ、階段を駆け下りていくと、がばっと顔を上げたソアが目を見開く。 「劉さん!」「よくまあこんなとこまで」 「ヤット…追イツイタ」 階段を降りる劉、背後から来た幽太郎に、ソアは慌てて受け取ったシャツを羽織り、ぎゅっと体の前で合わせる。 「ありがとう、ございました!」 怖いのに慣れようとここに来たのに、今回はあの時みたいにサキさんは来てくれないのに、全然ダメで情けなくなる、とまたもや大粒の涙を膨れ上がらせようとするソアだったが、 「僕モ……怖イカラ……一緒ダヨ」 幽太郎の慰めにようやく笑みを浮かべる。 その頃、朧は墓場のステージに一人で立っていた。 あちこちに派遣した従者のおかげで、ミイラ男達のからくりも脱出口も早々に見つけ、ミイラ男達には真の吸血鬼さながら剥き出した牙と尖った爪から鮮血を滴らせながら飛び回って見せ、全員昏倒させてしまった。 「墓場、か」 主を守る為に死ににくさ優先で造られた自分だ。何が怖いと言って、この命の果てが見えないのが怖い。どこまで生きていればいいのかわからないのが怖い。 この世界には輪廻転生という思想があるという。終われば、新しく生まれ変わるのか……また、出会えるだろうか。 この遊園地もまた終わりに向かって近づいている。こうやって毎日変わらぬように営業していても。比べて自分はどうだろう。この墓場のように明けても暮れても、ただ同じ光景同じ自分が居るだけなんじゃないか。 だがしかし、今一時はここに在るために、そういうことでもいいのだろうか。 朧は生まれた時を覚えている。闇の中から朧を引き出した手があった。闇から生まれたのなら、闇に帰るのが道理だろう。暗闇の中の心地よさを思い出す。 「俺の世界は、どこにある……?」 それと知らず俯いていた。ばさりと流れた髪がさらさらと額を掠め頬を撫で唇に触れて雪崩落ちる。肩を包み腕に添い腰に流れ脚にまとわりつく。自らの髪、自らの一部で体を覆い尽くして静まる闇に踞り……やがてぼそりと呟いた。 「そいや、こういうのはペアで入るんじゃないのか?」 ソアが座り込んでいたのは階段横の空間だった。彼女は気づかなかったが、幽太郎が指摘して確認すると小さなボタンがあり、押すと階段奥の壁が開いた。 見つけたのは上へ昇る階段、昇り切るとそこは手術室を思わせる金属製の台と大きな照明が眩く輝いている。手術台には、そこからはみ出るような大きさの人間が一人、通常の数倍はある大きな顔を険しい表情に歪めて眠っている。 「お化け!? 怖い!!」「大丈夫だって」「怖イ!」「お前もかよ!」 両側からソアと幽太郎に寄り添われて、劉は手術室を通り抜け、その先の蛍光灯が弱々しく瞬く廊下に進み出ようとしたとたん。 「きゃっ」「キャッ」 「あー…何だ? これ持って行けってことか?」 いきなり真っ暗になった廊下、背後の手術室の明るさが妙に怖い。右にある小さな受付窓に何本かペンライトが準備されており、どうやらそれで照らしてこの先を進めということらしい。 「げっ」「きゃあっ」 ペンライトをつけた瞬間に、廊下の床と言わず壁と言わず血飛沫を思わせる汚れが浮かび上がる。あまつさえ天井には何者かが這っていったようなべたべたとした妙に大きな手足の型がくっきりと残り、それは少し先の扉あたりで消えている。 「……血液ジャナイネ」「そういう突っ込みか!」 廃病院に潜む謎の生物、そういう演出なのだろうが、幽太郎には暗闇ほど効果はなかったらしい。ブラックライトニ浮カビ上ガル発光塗料、疑似ルミノール反応ダネ。淡々と分析してくれたせいで、劉の揺れた心も納まる。 「行こうぜ、とにかくあそこまで」 二人を促してペンライトで周囲を照らしながら進む胸に過ったのは同居人の顔。 ……スタンなら喜ぶだろうな。元の世界に帰りゃ敵同士、しかも俺は組織を裏切って追われる立場だ、安寧なんざ望むべくもねえ。でもロストナンバーのままターミナルで暮らすなら、長年望んだ退屈な平凡が手に入る、人並みに人間に混じって暮らせる。 「…こりゃ、すげえな」「ひいいっ」 「大丈夫ダヨ、プラスチックト金属ノ合成物ダ」 天井の手形が消えたあたりの扉が順路、開いてみると、そこは金属製の棚が並ぶ倉庫だった。棚には所狭しとガラス瓶に入った臓物っぽいもの木箱からはみ出した骨や髪の毛のようなものが並べられている。そのどれもにまた、飛び散った血痕風の汚れが光っていた。 「…ちっ…消毒液の匂いがしやがる…」 作り物だとわかっていても、劉は気が滅入った。昔を思い出す。馴染みの物だ、医療器具とベッドと消毒液の匂い。湿っぽい廃墟の地下に拘束された日々。おかげで劉はもうすっかり人間離れしてしまった。生まれ持った能力と繰り返された実験とで筋金入りの化物だ。 だが、そんな劉でも心配して待っててくれる奴がいる。スカしたダチだってできた、そう思ったとたん、背後でばたばたと走り寄ってくる足音に振り返る。 「ぐあああっ!」 「急速接近、距離5、4、」「きゃああっ!」「だと思ったぜ!」 両手を振り回しながら駆け寄ってきたのは手術台に寝ていたフランケンシュタイン、妙に冷静に距離をカウントする幽太郎にペンライトを放り投げ、ソアを背後に庇うと、後ろでぶふっ、と妙な音が響いたから、フランケンシュタインに向かって走り出しながら叫ぶ。 「幽太郎、ソアを頼んだぜ!」「ハイ!」 忘れるな、ここは異世界でも戦場でもない、ただのお化け屋敷のイベントだ。間違っても能力を使わないように、体を翻して走り抜け、腕を掴んでバランスを崩し、脚を引っかけて転ばせる。 胸の刺青が疼いている。人様に唾吐かれる化け物だってちょっとはマシな生活望んでいいだろ。切なさを吹き飛ばして叫ぶ。 「あんたもお仲間だろ? 楽しくやろうぜ!」「うわああっ!」 フランケンシュタインは劉に振り回されて見事にひっくり返った。被り物がずれたのか半分回った首でもがくのに、劉は手を差し伸べる。あ、あはは、すまない、と間抜けた声を上げて、相手は劉に掴まって起き上がって笑った。 「今日の客はテンション高いよね、そら俺らもやっててめっちゃ面白いけど。最近こんなぶっ飛んだ客来なかったからさ、脅かしがいもないし、遊びがいもないし」 こういう仕事なら毎日やってても楽しいな。 機嫌よくしゃべっていた青年の声を遮るように、 「ヒエ!」「何だ?」「コ、コレ…」 突然、幽太郎が震えながら床をペンライトで照らす。飛び散る血の汚れ、けれどその間に妙にもったりとしたものが滴り落ちて点々と奥へ続く。 「何だよ、それも塗料」「イエ、血液デス、成分照合、……ヒト、デスネ」 「え、でもそんなもん、さっきまでなかったぜ、それにあの奥は使わなくなった倉庫で、順路にもねえ、し………?」 フランケンアクターの兄ちゃんが請け負ったとたん。 ぎ、ぎいいいっっ。 閉まっていた扉が不気味な音をたてて開き、その間から青くてぬるぬる動くものがいきなり流れ落ちるようにはみ出してきて、 「いやあああああんっ!」「うわああっっっ!」 ソアの悲痛な叫び、飛び退って逃げるフランケンシュタイン役の青年、その間で凍りついたように立っていた劉が、しゅるしゅると元の気怠げな美青年に戻る朧にうんざりと顔を歪める。 「……壱番世界のこういう状況で、それはなしだろ、朧」 「あー、騒いだ」 一行がお化け屋敷を脱出してロストレイルに乗り込んだのは結構ぎりぎりだった。とにかく一服だと煙草を吸い終えた劉が、紫煙が滲みる、と目を擦っていると、朧が眉を寄せて尋ねてくる。 「金属竜はどこだ」 「ああ、まだあそこにいるんじゃねえの」 「大丈夫でしょうか」 何とか着替えを調達したソアは、遊園地で売られていたロングTシャツにロゴが入った明るい緑のサマーパンツ、不安そうに離れていくホームを見送る。 「大丈夫だろ、あれでもあいつはロストナンバーだぜ」 「そうじゃない」「そうじゃなくて」 劉のことばに残り二人が首を振る。 「遊園地が心配だ」「です」 「……別に何もしやしないだろ、あいつは」 少なくともお前が残るより、ずっと安全なんじゃねえか、そう朧に顎をしゃくった劉は、ふとあることを思い出して思わず振り返る。 恐がりなんだよな、確か。荷電粒子砲、持ってやがるんだよな、確か。 「……ま、まあ、何かあったら、鳴海の責任だろ!」 遠いターミナルで鳴海司書が盛大にくしゃみをする。 客が帰っていく遊園地の片隅で、幽太郎はベンチに一人座っている。光学迷彩で姿を消して絶賛消失中だ。 「無料ダカラ明日モ混雑ガ予想出来ル。沢山待ツ事二ナルト思ウケド…ダケド、2日アレバ何回デモ入レル。仮面モモウ一度全部楽シム事出来ルヨネ」 結局、午後から四つの仮面全部試して『エンド・オーヴァー』に入ることができた。子ども達とわあわあ言いながら入ったり(君もアクター、と物馴れた質問をしてくる子どもには翼を広げてみせて人気を得た)、子どもが小さい頃よく来たのよと笑う中年夫婦と出会ったり、狼男の仮面を被っていた時にドラケモだーっ、シャメいいですかっといきなりしがみつかれたりもした。 それら賑やかな面々が帰途につき、次第次第に静まり返ってくる遊園地、バスも途絶え車の往来も減ってくると、さすがに物寂しさが増す。 「結局、アノ血液ダケハ、ワカラナカッタ」 ぼやいた、その瞬間、背後に光を感じて振り返った。 「エ…?」 観覧車がきらきら回っている。夜空に光の華が咲く。 「ナニ?」 ジェットコースターが闇を駆け抜ける。歌声が響く。 「作動シテナイヨネ?」 回転木馬が霧の中を上下する。見惚れる子どもの姿。 センサーはアトラクションがどれも完全に停止していることを教えている、だが、感知する、このもう一つの光景は。 見る見る園内に子どもや家族連れが溢れた。皆実体ではない。半透明で、きらきら輝いていて、幻とわかる儚さで、けれどもアトラクションに駆け寄り、はしゃぎ回る姿は今にも触れられそうで。脱げかけたミイラ男仮面の白髭の男が顔を抱えて走っていく幻がある。大丈夫ですか鼻血、側で声をかけているのは吸血鬼仮面の男の幻だ。重なるように浮かんだ映像は、半裸のソアが悲鳴を上げて飛び退いた先に脅かそうとしていたミイラ男と吸血鬼、思い切り肘鉄を食らって吹き出す鼻血。 「ア、ナルホド」 そういうことかと頷いた幽太郎の前で、幻は次々と違う光景を生み出す。夢中で眺めていて気がついた。アトラクションが一つずつ消えていく。実際にはあるのに、何もない暗闇の幻が重なっていく。 やがて園内には噴水と花壇とベンチだけが残された。 そこに佇む一人の見覚えのある男。髭は白くない。恰幅は良くない。今よりずっと痩せっぽちで着古した背広を着て、けれど目だけは意志に煌めいて。 幽太郎の真正面に居るが、幽太郎は見えていないのだろう、拳を握って叫んだ。 『ここを遊園地にしてやるぞ、エリ、タツオ、ミズホ!』 振り絞るような声、震える頬に涙が流れる。 『ここでずっと、遊ぼうな!』 見上げる星空に、強く歯を食いしばる姿、それも徐々に消えていく。 「何、ダロウ」 風が吹き渡って行く今は、ただ平らな草原だけが広がっている。数本の草花が揺れている。周囲は緑濃い森だ。森のただ中に、幽太郎は一人居る。 「……記憶、ナノカナ」 見とれながら、幽太郎は呟いた。 この遊園地が、今まで過ごしてきた時間の再現。 「残念……記録媒体ニ残ラナイノカ…」 センサーが感知しないから残せない。センサーが感知しないのに、なぜこれが「見えて」いるのか、それこそ謎だけど。 この再現される光景も、やがてこの遊園地とともに消されていくのだろう。 再び噴水と花壇が現れた。アトラクションが増え始めた。光煌めく幻達が、笑いさざめきながら歩き回って、走っていく。音楽が響く、光に合わせて揺れる音、どこからかポップコーンの香りもするようだ。 誰も知らない、深夜に繰り広げられる、もう一つの遊園地。 「良カッタ……残ッテ」 幽太郎は呟き、駆け回る幻達を息を詰めて見続けた。
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