「おはようございます、ジョヴァンニ・コルレオーネ様」 声をかけられて、ジョヴァンニは振り返る。「何かお目に止まるものでも?」 尋ねてきたのはここ、マルカルニアホテルの支配人だ。糊のきいたカラーに蝶ネクタイ、白いシャツをズボンの上から出し、シャツの裾には黒い飾り糸で刺繍が施されている。短くて黒い上着に黒い細身のズボン、浅黒い肌に白髪と白眉、だが老人ではないのは物腰のしなやかさでわかる。「美しい所じゃな」 ジョヴァンニが居るのは二階建てのホテルの一階、玄関ロビーに隣接した小ホール、幾つかのテーブルと蔓を編み上げたような椅子が並び、朝昼夕と供される食事はここで摂ってもいいし、部屋に運ばせてもいい。本来ならば、外の木製のテラスに出られ、天気がよければ穏やかな風に吹かれながらの食事も楽しめるのだが、ここ数日、テラスは事件のために閉鎖されたままだ。「このテラスからは湖が一望できるのじゃな」 椅子にゆったりと腰をかけて、テーブルから持ち上げたカップから香り高い温かな飲み物を含み、ジョヴァンニは再び窓から彼方にゆったりと広がる湖を眺めた。「出られないとは残念なことじゃ」「誠に申し訳ございません……事故がございまして修復中でございます」 ベンディのお代わりをお持ちしましょうか。 支配人は恐縮したように首を傾げた。「いや…十分に楽しんだ」 ジョヴァンニはカップを上げて微笑んでみせる。「朝食も満足させてもらった」「恐れ入ります」 支配人はすぐに振り返り、空の食器を下げるように合図すると、何か御用がございましたら、すぐにお申し付け下さいませ、と付け加えて引き下がる。 メイドでもない彼がわざわざジョヴァンニの御機嫌伺いに現れたのは、ジョヴァンニの品格だけでなく、滞在予定分の宿賃を気前よく前払いしたためもあるだろう。「さて、いつ仕掛けてくる気かのう…」 ジョヴァンニはトラベラーズノートを開く。フェリックス、黄金の魔女からの連絡はまだない。とすると、まだ三人の誰にも、夢魔は接触していないのだろう。「夜に眠るばかりでは…機会を逃すか……」 呟いたジョヴァンニのアイスブルーの瞳がモノクルの奥で光る。「おはようございます…黄金の魔女様」 少し離れた場所で、支配人の声が響き、ジョヴァンニは静かにノートを閉じた。「昨夜はお休みになれましたか」「ええ」 眩く輝くドレスを翻し、どこか素朴な味わいのあるホールにはいささか華美に過ぎる容姿で現れた黄金の魔女は、いそいそと近寄ってきた支配人に頷く。「それはよろしゅうございました」 微笑む男の黒い瞳は彼女の煌めく黄金の篭手に移り、同じようにさりげなく元の通り視線を合わせて頷いた。「朝食の準備はできております。どうぞこちらへ」「……」 まるで自ら黄金の魔女を抱え込んで案内しかねない仕草にいささか戸惑い、落ち着かない。やたらと距離を詰めてくるような対応は、彼女の黄金に魅せられているだけというよりは、彼女自身に興味を抱いてもいるように感じる。 輝く美貌の女性の一人旅。しかも予め、奇妙な事件が起こっているのは承知済みだと応じたのが、一層興味を引いてしまったのかもしれない。 支配人の短い黒い上着の銀色の縁取りは、いささかホテルに不似合いな気もしたし、かつかつ鳴らす皮のベルト付きの靴も、少し下品だ。白髪を結んでいる黒いリボンは、この辺りの正装なのだろうか。「今朝取れたばかりのブワサのワイン蒸しと、水藻サラダでございます。スープはマクシュのクリームスープとビワラのコンソメスープがございますが、どちらになさいますか」「……コンソメで」「かしこまりました、すぐにお持ちします。温かなベンディも」 支配人の合図で運び込まれてきたのは、白い皿に黄色と赤のソースで模様を描いた中央に載せられた白身の魚、おそらくはこれがブワサなのだろう。添えられているのは鮮やかな緑に半透明のつぶつぶした実のようなものがついたサラダ、白くてとろりとしたドレッシングのようなものがかかっている。スープはカップに入って黄金色に揺らめく中に、薄赤い花びらのようなものがたゆたっている。ベンディは紅茶のような飲み物で、ここでは三食ついてくる。主食系は丸くボールのようにまとめられたポテトのようなもの、ハムサと言ったか。「…もういいわ」「はい、では」 にこやかに頭を下げた支配人が、入り口の方を見て、ああ、フェリックス様、と慌ただしく去っていくのをちらりと眺め、黄金の魔女はスプーンを取り上げた。「……ジョヴァンニはよく平気ね」 とても品のあるもてなしとは思えないのだけど、あのジョヴァンニがそれに不愉快そうでもないのは、いささか解せない。 黄金の魔女はそっとトラベラーズノートを覗く。ジョヴァンニからもフェリックスからも連絡はない。誰もまだ夢魔には接触していないのだろう。「長期戦かしら」 溜め息をついてスープを口に運んだとたん、瞬きして慌ててベンディを飲み、スープを遠ざけた。舌を刺すような辛みだ。選択を間違えた。「おはようございます、フェリックス・ノイアルベール様!」「おはよう、ビンダス」「今朝もお元気そうですね」「朝食は準備できているか」「もちろんですとも、さあこちらへ」 括った白髪を跳ねさせて先に立って歩く支配人は、やってきた時から馴れ馴れしい。短い上着からひらひらするシャツは、背中の部分は青色で他が白という珍妙な仕立てだ。きょときょとと忙しく動く瞳は小太りな体に合っているが、時々思いがけない鋭い動作を見せる。朝食がセットされた席にフェリックスを導きながら、ベンディの熱いのを準備する仕草、支配人がわざわざそこまで手をかけることなどあり得ないだろうが、やはり事件のせいで客足が落ちているのかも知れない。「夕べはどうだった?」「幸いに何事もなく。皆様お元気でいらっしゃいます」「元気でいると困るような口ぶりだな」「滅相もない。あんな恐ろしいものを何度も見るのはごめん被ります」 ぱたぱたと手を振ってみせる相手に、フェリックスはもう一度情報を確認する。「もう一度だけ確認するが、まず、始めに起こったのは客の異変だったのだな?」「はい……私どもはお客様が何かご病気になられたものと思い込んでおりました」「ところが医者が診てもよくわからない。夜ごとにぼんやりとした顔をしてうろつき回り、ついには朝起きてこなくなったと思うと、部屋で干涸びて死んでいる、と」「その通りでございます」「そこで占い師に見立ててもらったところ、これは夢に潜む魔性であろうと」「お客様方は日が立つにつれ、とても嬉しそうな顔で昼間からお休みになられます。もちろん、ここは穏やかな気候と湖で取れる魚を味わって頂く、言わば保養地でもありますから、お休み頂くのは結構ですが、お食事もご不要となりますといけません」「客達は夢魔に精気を吸い取られて死んだ、と言う訳だな?」 フェリックスは皿にどさりと盛られた黄色い木の実の入ったハムサを掬う。クリームスープも、蒸された魚もかなり旨いが、このハムサという主食だけは慣れない。三食付くとなると、中に入っているものがいろいろあれど、同じものを食べ続けているという気になる。数口食べてスプーンを置き、この食べ物にジョヴァンニや黄金の魔女は納得しているんだろうかと考える。「夢魔はホテルの従業員か客、誰かの姿を借りてうろついているとも聞きました」 支配人は溜め息をついて、ハムサのお代わりを継ぎ足した。「……捕らえさえすれば、その占い師が何とかすると言ってるんだな?」 フェリックスがハムサをそっと押しのける。「封印の札を貼ってしまえばいいと言っております……けれど、誰の姿を借りているのかがわからなければどうにも…」 支配人が新たな皿を引き寄せてハムサを積もうとする。「おい」「はい?」「俺はもう腹が一杯だ」「ではベンディを入れ替えさせましょう」 支配人が料理長の所へ離れていくのに、フェリックスはハムサの皿を遠くへ押しのけ、トラベラーズノートを広げる。さっきまで居たジョヴァンニも黄金の魔女の姿もない。代わりに、ノートに連絡があった。『昼間も少し休んでみようと思う。夢魔を誘い出すことも必要じゃろう。支配人は事件が続くホテルを案じておるようだ。早期に解決してやりたいものじゃ』『支配人がこうるさくて困るわ。やたらと触れてこようとするのを避けるのもうんざり。夢魔より支配人を始末する方向で終わらせたいけど』「ふ…ん?」 何か引っ掛かるものがある、と思いつつ、フェリックスも書き込む。『新しい情報はない。支配人のビンダスは相変わらず騒々しいが、封印の札とやらをこちらに寄越す気がないようだ。俺を信じていないのかも知れないな』 書き終えて、もう一度二人からの連絡を眺める。「……何か、支配人の印象がばらばらだな……」 ジョヴァンニからのは上品で真面目な男、黄金の魔女のは何か企んでいそうな男、そしてフェリックスにとっては。「事件に困っていて解決を願っている割りには、非協力的……」 未だ新しいベンディを持ってこないのに、少し目を細めた。「……ビンダス…?」 室内に戻って、フェリックスからの連絡を確認しながら、ジョヴァンニは引っ掛かる。確か、このホテルにやってきた時に、支配人はコグ・マイストと名乗っていなかっただろうか。「ふむ」 居室に備え付けのテーブルに準備されているホテルの案内を取り出す。部屋の説明、湖の見所と周囲の観光名所、そして、支配人からの挨拶状。そこには胸を張り誇らしげに微笑む支配人の絵が添えられているが。 部屋に下がっていた紐を引き、メイドを呼んだ。「お呼びでしょうか」 現れた、ようやく少女から女性になろうとする年齢の娘が、おずおずと瞬きする。「支配人の名前を知りたいと思ったのじゃが……いろいろと気遣ってもらっている。今後ともこちらを利用したいと思っているのじゃ」「ああ、はい。支配人はコグ・マイストと申します」 娘はにっこり笑って、ジョヴァンニの手にしていた絵を指差した。「ビンダス……というのはどなたじゃったかな」「ビンダス? ………あの…」 娘は怯えた顔で後じさった。「存じ、上げません……」「よいよい、わしの覚え間違いじゃろう。……しばらく部屋で休みたいのじゃ、誰も入らないでおくれ」「かしこまりました」 頭を下げて慌てて去って行く娘に、そっと扉へ忍びより、耳を澄ませる。「……え? 本当?」「ビンダスは誰かって聞かれたよ、どうしよう」 こそこそ話す声が漏れ聞こえてくる。「まさか最初に死んだ人だなんて言えないよねえ…」「でも、どうして知ってるの? あのご老人、何者なの?」「支配人にお伝えしよう」「そうね、そうしよう」 ばたばたと走り去っていく足音に、これはこれはとジョヴァンニは微笑む。 手がかりが一つ見つかったようだ。 その夜。 ジョヴァンニ、黄金の魔女、フェリックスは、同じような夢を見ていた。 マルカルニア湖の畔を静かに歩いている。 足下にひたひたとした柔らかな水を感じる。 滑らかで少し温かな水に洗われて、忘れていたものが呼びかけてくるような気がする。 静かな声で。 静かな、優しい声で。 何を話しているのか聞き取ろうとした時、背後からの声に振り返る。「……様!」 振り返れば、走り寄ってくるのは支配人だ。 白髪を一つに縛った黒いリボン、銀の縫い取りのある短い上着から翻るシャツの白い裾、細身のズボンに皮のベルト付きの靴、だが、ああ、妙だ、足下が一切濡れていない、水際を走っているのに。「……様! お早く!」 見る見る近づいてくる顔に、何かを思い出そうとして。 静かな優しい声に、呼ばれた。「ジョヴァンニ…」 吐息に満ちた声音。「ああ……」 手を伸ばす。「黄金の魔女…」 耳にしみ込む声音。「何よ」 唇を歪める。「フェリックス…」 ためらうような声音。「…お前…」 掌を開く。 夢が彼らを呑み込んだ。=========!注意!企画シナリオは、便宜上、参加枠数が「999」になっていますが、実際には特定の参加予定者のために運営されています。この企画シナリオは下記のキャラクターが参加予定です。他の方のご参加はご遠慮下さい。万一、参加予定でない方のご参加があった場合は、参加がキャンセル(チケットは返却されます)になる場合があります。<参加予定者>ジョヴァンニ・コルレオーネ(ctnc6517)黄金の魔女(chen4602)フェリックス・ノイアルベール(cxpv6901)=========
「ジョヴァンニ…」 吐息に満ちた声音。 「ああ……」 手を伸ばす。 「貴女は……」 マルカルニア湖の静かな波音はまだ響いている。だが、同時にジョヴァンニは遥か昔に引き戻され、質素な喪服を纏い、モーニングベールを被った女性の前に居た。 「寂しいの」 掠れ気味の、だからこそ甘く響く声が訴え、そっとベールを上げる細い指先、記憶と寸分違わない哀しげな微笑み、泣きぼくろが胸を詰まらせる。 夫に先立たれ、貴族の子弟の家庭教師として身を立てる薄幸の未亡人、寄宿舎に入る前に世話になったフランス語の家庭教師……。 初恋だった。アネモネを押し花にして恋文を送った。子どものすることだと嗤うことも茶化すこともなく、ありがとう、と小さく囁かれた時に体を走った熱を、今でも覚えている。 「寂しいの」 大きな瞳は時に曇った。生活には困らない、だが、日々は一人で生き抜いていくには、あまりにも孤独だ。発音を教える唇に魅入った。柔らかな声の、吐息に触れたかった。寂しさだけを含む口に、慰めの欠片を与えたかった。 モーニングベールの幅広い縁取りをそっと指先で押し上げたのはジョヴァンニだった。夫の魂が見ていることを意識していた。これほど儚げな人を残して逝く男に挑戦したかったのが若さだった。そして……振り向いたのが、彼女の、意志。 「…」 重ねた唇は実体を感じないほど柔かだった。吐息に花びらを思い出した。薄目を開けて、睫毛が震えているのを知った、禁断の恋に。 ただ一度だけ。 だが、事は露見した。 彼女は解雇され、去って行った。 ジョヴァンニは若返る。少年となって、彼女の手を取る。 彼女は微笑む。泣きぼくろが、そっと近づいてくる。目を閉じる。 今再び、夢は現実への道を見いだす。 「すまないことをした。若さ故の軽率さがかえって貴女を苦しめてしまった…」 ジョヴァンニの声が震えた。 「黄金の魔女…」 耳にしみ込む声音。 「何よ」 唇を歪める……やがて、はっとする。 「……の魔女…?」 名前を忘れるはずはなかった。はっきりと口にして呼んだはずだった。だが、黄金の魔女のことばは、ひたひたと波打つマルカルニア湖の水音に絡まり、彼女の耳にもはっきり聞こえない。 「黄金の魔女。私を助けて。私を…この世で唯一の……の魔女にして」 涙を流しながら懸命に訴えてくる声は、記憶を容赦なく掘り起こし明らかにし晒しものにする。 あの時と同じ。彼女に初めて出会った時と。 彼女は黄金の魔女が良く知る一番の人物であり、最愛の友人だった。霞のように透き通っていて、今にも消えそうな様子もそのままだ。そこに立っているのかいないのか、いやそもそもそこに居るのか居ないのかさえあやふやな、目を凝らし過ぎると見えなくなる陽炎のような気配。 彼女のまわりでは全ての魔法が意味を為さなくなり、否定される。故に……黄金の魔女が、唯一触れることができた。 「貴女の魔法で、全ての魔女を黄金に変えて。そうすれば私は…」 黄金の魔女は自分の両手の籠手に視線を落とす。 自分さえも黄金に変えてしまうこの力。籠手の中のしなやかな指先が、誰かに触れて喜びを与えることはあり得ない。花も生き物も、水も岩も、黄金の魔女の前ではその一つ一つの特質を失い、ただの均一化した個性へと還元される…すなわち、黄金に。 そこに、どのような『価値』が生まれようか。 黄金化する力は全てのものから『価値』を奪う力でもあるのだ。 その黄金の魔女の力を無効にする魔女……興味を抱いた、希望を叶えようと思った……愛してしまったのは、ごく自然なことではなかったか。 籠手を脱ぎ落とした。 健やかな空気が肌に触れる。もう、籠手は必要がない。 「……の魔女」 白い指先を差し伸べる。 「フェリックス…」 ためらうような声音。 「…お前…」 掌を開く。 「もう、フェリックスってば危ないことばっかりして…! 心配かけさせないでよね!」 「お」 おどおどした声は一転する。 目の前に居たのは幼なじみのラナだった。緋色の髪が相変わらず跳ねている。明るい瞳、生き生きと変わる表情、今はぶうっと膨れっ面。 「心配しろと頼んだ覚えはないぞ」 「またそんなこと言う!」 ちょっとは幼なじみのありがたいことばをちゃんと受け取ったらどうなのよ! 「ちゃんと聞いてるって」 開いた掌で危うく抱き締めそうになったのを制して、フェリックスは苦笑しながらこぶしを握りしめる。 「聞いてない! もう、ほんとにっ!」 「聞いてる聞いてる」 つんと顔を背け、挙げ句には背中を向けてしまったラナの姿にフェリックスは微笑む。 懐かしい、と思ってしまった。 ずっと仲が良かった。いろんなことを話したし、いろんなことを一緒にやった……時には女の子には酷な冒険も。 けれど、その全てにくっついてきたラナ。半泣きになっても、ぶるぶる震えていても、フェリックスが行くならあたしは余裕で行けるわよ、馬鹿にしないで、と強がった。 俺を好きで居てくれたんだ、と思う。大事に思ってくれていた。 長く生きてきた今なら、そうわかる。 小さな体一杯で、いつもフェリックスを心配し、考え、想ってくれた。 「騎士団の活躍を聞かない日はないよ。すごいよね…なんだか、あたしの手の届かない所に行っちゃったみたい」 背中を向けたラナが、小さく呟いて肩越しに視線を投げた。ついさきほどまでの元気のいい少女は、いつの間にかしなやかな曲線に包まれた一人の女性になっている。 「…それは…」 「ねえ…」 明るかった瞳が憂いを帯びていた。不安そうに寄せた眉が切なげで、胸の奥がずきりとした。放っておいた、ずっと一人で。あれほど一緒に居たのに。 「フェリックス、どうしていなくなっちゃったの…どうしてあたしに何も言ってくれなかったの…」 「ラナ…」 「今からでも…遅くない、よ?」 優しい声が誘う。 「ねえ、フェリックス…」 思わず抱えた腕の中でラナは俯いたまま、ことばを重ねる。 「どうしてあたしを一人にしたの……どうして戻ってきてくれなかったの…」 髪の艶が消えた。柔らかな温もりがごつごつした筋肉の感触に変わっていく。 「ラナ…?」 「ねえ、フェリックス…」 ふいと見上げた顔にぎょっとする。確かにラナの面影は宿しているが、その顔には見る見る皺が寄り、目が落ちくぼみ、唇の色が褪せる。 「どうしてあたしを捨てたんだ……?」 「っ!」 ざぶり、と足下に水が押し寄せた感覚があった。瞬きする間もなく、周囲に冷風が吹き、しがみつかれた枯れ木のような腕に力が籠る。 「ふぇりっくすぅううう!」 「夢魔か!」 肩を掴んで引き離す、ぼきりと折れた音がして、両腕がフェリックスの体に巻き付いて残るのを、一気に掴んで引きはがす。 「いたあああいいいいいいよぉおおおおふぇっりいぃいいっくっすううぅううう!」 「ラナを!」 抜き放った青い刀身を幻影に向かって叩きつける。 「汚すなあっっ!」 我ながら幼い叫びだった。時の彼方に置き去られていた自分、ラナと過ごした日々の中に居たフェリックスが駆け戻ってきて、夢魔を撃破する。 「ぎゃああっっっ!」 ラナの格好をした老婆が刀身に裂かれて黒い竜巻となって消える。その竜巻が何かを落とした。 「シャツの切れ端……っ」 青と白のシャツの切れ端を握った瞬間、フェリックスは吹き上がった水に瞬きし。 「だが儂は……いや、僕にはやるべきことがある」 ノブレス・オブリージュ。 貴族たるもの、その身分にふさわしき振舞いをすべし。 ローマ帝国千年を支えた思想とも言われる、そのことば。 教えてくれたのは、まさしく彼女ではなかったか。 「薄情な話じゃな…長らく忘れていた初恋の人に夢の中で巡り会うとは」 「ジョヴァンニ?」 閉じていた目を見開いた。 「妻にも言えぬ秘め事……甘く苦い青春の思い出じゃ…」 そうだ、それは思い出だ。 「高貴なる者が負いし義務を果たせねばならぬ……その為に此処に来た」 「じょゔぁ……に……」 喪服の美しい幻が、しゅるしゅると中身を失って崩れ落ちていく。 ジョヴァンニは敬愛を込めて、結婚指輪に口づけを贈る。 「礼を言おう……君のおかげで初恋の人と出会えた。だが、儂の運命の女性は別におる……それを見抜けなんだが君の敗因じゃ」 抗うように、もう一度夢を取り戻そうとするように、モーニングベールがのたうち、うねり、立ち上がろうとするのを、黒檀の杖を手に、ジョヴァンニは冷ややかに見下ろす。口許に漂っていた酷薄な笑みが、ふと、少年の時のものよりも切なげに歪んだ。 「あるいはルクレツィアなら……儂も夢に溺れたままだったかもしれんな」 望んでも願っても、未だ再会できない最愛の女性。 いつまでだろう。いつまで、貴方に会えないのだろう。 彼女を想った一瞬の隙に、モーニングベールはふいに舞い上がった。 「む!」 きりきり絞られた矢のように飛び離れていくのに、とっさに揮った杖が何かを絡めて叩き落とす。近づいて見下ろしたそれは。 「……蝶ネクタイ、じゃな……うっ」 拾った瞬間、寄せてきた大波に呑み込まれ。 「貴女は………の魔女は、既に敗北して消滅した」 伸ばした指をそのままに、けれど求める願いから糾弾する意志に変えて、黄金の魔女はなお伸ばす。 「もう貴女はこの世には存在しない」 目の前の彼女が揺らめいた。自分を否定することばを否定するように、流れる涙をより溢れさせて。 何と酷い現実だろう。 黄金の魔女の力を唯一打ち消す存在、だがその存在が、他の魔女より強かったわけではなく。殺し殺される魔女達の戦いの中で、彼女の存在は言い換えれば、全ての魔女に対する破滅の力。 そんなものの存在が許されるはずもなかった、それは必然。 愛おしく見つめ、やがてのろのろと顔を伏せて、伸ばした指先を相手に届かせぬまま、黄金の魔女は吐き捨てる。 「どこの誰だか知らないが去ね!」 去らせるのだ、これほどの侮辱を与えた相手を。消しもせず、殺しもせず、この黄金の魔女が。 愛していたのだと思い知る。 愛しているのだ、本当に。 抱き締めたい。この両手で。黄金に変わらないあなたを抱き締めたい。 だからこそ。 「……の魔女の名誉を汚す事は、この私が赦さない!」 叫ぶことばが悲鳴に聞こえる。 いきなり躍り上がった波しぶきを悉く黄金に変える指、金色の花弁となって降りしきる中を急速に薄れて消え去る彼女を追おうとして、踏みつける黒いリボン。 「…!」 触れて金のブローチとなったそれを踏みにじり。 「っっ!」 ベッドから跳ね起きた。 片手にあったものを見下ろす。 予感があった。 トラベラーズノートを開く。 『湖畔にて、支配人を』 夢魔に抗しつつ自分が書いたのか、それとも他の二人か。 とにかく急ごう。 部屋を飛び出す。 「ジョヴァンニ様、一体どのような御用でしょうか」 マルカルニアホテルの支配人は、礼を失さない程度に相手を伺い見た。 「昨日のネクタイはどうした?」 穏やかな老紳士は微笑みながら尋ねる。 「……思わぬ綻びが見つかりまして」 支配人は一瞬体を竦めたが、穏やかに首のネクタイに指を当てた。 「失礼があってはいけないかと」 「これではないのか」 「これは……」 戸惑った顔でジョヴァンニからネクタイを受け取った支配人は、そろそろと視線を上げる。 「……で?」 「で、とは?」 「このネクタイは、御用件と関わりがございますか」 「……支配人は、ビンダスという男をご存知かな」 「……存じ上げません」 「マルカルニアホテルの支配人を名乗り、ここのところ続いておる不可思議な事件を占い師に占わせた。占い師は、昼間は誰かの姿を借り、夜になると客の夢に入り込む夢魔が、精気を吸い取っているのだと見定めた。封印の札を支配人に渡したということだが…」 「……存じ上げません」 支配人はじりじりと背後に下がっていく。 「あのハムサという料理じゃが」 ジョヴァンニは距離を詰めない。湖の方を眺めながら、まるで世間話のように続ける。 「ここの料理には三食必ずついておる。この地方のものなのかと思っておったが、調べてみると、このホテルだけのもの…しかも事件が起こり出す少し前から始まった料理らしいの……料理長が不思議がっておった、ホテルの特色を出したいとしても、あれでは逆効果にならないのか、と」 ゆっくりと穏やかに細めた瞳を支配人に向ける。 「あのハムサはいつも支配人が仕込まれるそうじゃの? 何か特別なものなのかの……?」 「……お口に合わぬのでしたら、今後お出ししません……申し訳ありません、片付けねばならぬ仕事が差し迫っております、今はひとまず…」 十分な距離を取ったと思った。だが、丁重に頭を下げた瞬間、ジョヴァンニの黒檀の杖が翻った。 「っっあっ!」 「そう急がずともよいじゃろう」 素早く飛び退った支配人の両側に、鋭い刃が削ったような亀裂が出現した。ぎょっとする間もなく、亀裂から溢れた蔓薔薇があっという間に伸び上がり、枝を絡ませ、葉を重ね、花を咲かせながら支配人を囲い込んでくる。 「く、そっ!」 舌打ちとともに上空へ向けて飛び上がり、逃げようとした彼の視界をも遮って蔓薔薇が伸びる。両手を突っ込み引き千切ろうとした支配人は、奇妙な音に眉を寄せた。 「何……?」 ぱきぱき、ぺきぺきと、細い枝か何かをへし折るような音。しかもそれは支配人の足下から響いてくるようだ。蔓薔薇の柵に囲まれ塞がれ、その中空にしがみついて見下ろした支配人に目に、信じ難い光景が移る。 金色の波が吹き上がってくる。 「ううっ」 蔓薔薇の籠のすぐ外に、黄金の煙管を吹かす女性がいるのが見えた。ホテルに止まっている女性、黄金の籠手をいつも身につけている大金持ちの……籠手は今外されて、彼女は煙管を吹かしつつ、戯れるように蔓薔薇に触れている。 その、彼女が触れた部分から、蔓薔薇は見る見る黄金色に染まっていきつつあった。あっという間に、今支配人が手を突っ込んでいる場所近くまで上がってきて気づく。蔓薔薇が一瞬にして黄金の細工ものと化している、と。 「ひ、いいっ」 手を振り放し、下に落ちた、それでも少し遅かった。右手の半分が黄金に変わっている。突き抜けるような重さと冷感、循環を失った残りの部分が見る見る青黒く変色していき激痛が走る。 「うあああっ」 涙を振り零しながら籠の隙間から必死に外を見やると、傲岸な視線にぶつかった。籠手を外したままの黄金の魔女が、冷笑一歩手前の表情で、何かを籠の中に差し入れてくる。 「う、う、う…」 触れるまいと体を竦めていく支配人の目の前に、ぽとりと落とされたのは金色の紐のようなものだった。訝しく目を細め、その正体に気づく。それは元々黒のリボンだったのだ。今身に着けているものと同様のもの、だがそれを見たとたん、何とも知れない震えが這い上がり、支配人はがたがたと震え出した。 まさかまさかまさか、この二人はまさか仲間だったのか。ではひょっとすると、そう想った思考に呼ばれたように、聞き慣れた声が響いた。 「占い師は快く封印の札をくれたぞ」 残りの一人が近づいてくる。風に舞う銀の髪、冷静な青の瞳、背中に白い翼が翻っているのに目を見張る。あんなものがあっただろうか。しかし、フェリックスが手にしている札は確かにあの忌々しい札、夢魔を封じる魔除け札だ。 「ビンダス? それとも、コグ・マイストと呼ぶべきか?」 「一体何を、何をなさっておられるのか」 精一杯哀れを装って、訴えた。 「ハムサがご不快だったのなら申し訳なかった、お部屋がご不満ならばお取り替えもします、しかし、私が一体何を」 すぐ側でじっと見下ろす黄金の魔女に向かって訴える。 「私はいつもあなた様にも十分なおもてなしをしてきたではありませんか!」 老紳士は喰わせものだった。夢でも懐古に浸りながら、その実、意識はずっとひややかに醒めていた。情けを訴えても揺らぐことはないだろう、だがこの娘なら。 「それ以上近寄るな、下郎が」 だが、相手は見下すだけではなく、激怒していた。淡々とした変わらぬ表情のその奥で、本当は籠ごと支配人を黄金に変えてしまいたいと願っている、そう気づいた。 「この私を誰と心得ている? それ以上この私に馴れ馴れしく近づくと…黄金の夢に抱かれて永遠に眠る事になるわよ?」 「っ」 体を引いた。その膝近くに投げ捨てられたのは青と白の布。 「あ、あ、あ、あっっっ!」 がたがたと激しく体が震え始めた。誰がこれを教えたのだろう、誰がこれに気づいたのだろう、ネクタイは既にポケットに、黒いリボンは目の前に、加えて今戻されたのは奪われたシャツの切れ端だ。夢の仕掛けから持ち帰ったものを戻されては、偽りの姿を保てなくなる。 だがまだ勝機はある、フェリックスが札を貼ろうとすればいい。コグ・マイトスも同じように封じようとした、魔術の多少の心得があるのが災いした。札を貼ろうとしたその手を握り、すぐに入り込んでやったのだ、その心の裏側に。 「止めて下さい止めて下さい、もうお願いです、その札だけは貼らないで下さい」 縮こまりぶるぶる震えながら許しを請う。小物のように、みすぼらしく、これ以上の力は残っていないかのように。そして最後のチャンスを狙う、新たな体を得るチャンスを。 だが。 「ふう…」 フェリックスは溜め息をついて立ち止まった。 なぜ来ない? 「長く生きてると、良からぬ知恵がつくもんだよな」 独り言のような呟きを漏らしながら、手にした札を黄金の魔女に渡す。黄金の魔女は籠手をした手で受け取る。 「本当に怯えている奴なのか、それとも虎視眈々と何かを企んでいる奴なのか、見極めがついちまうもんなんだよな」 フェリックスが肩を竦める。黄金の魔女がゆっくりと札を持った手を差し入れてくる。 構わない。 あの籠手が黄金化を防ぐのなら十分だ。彼が入り込むのは相手の心の範囲だ。心は体よりほんのわずかはみ出ている。籠手に包まれた手首を引き寄せ、範囲に入ってさえしまえばいい、だからもう少し近寄れ、札を額に貼るために、そうだもう少しだけ近寄って来い。 黄金の魔女が唇を尖らせ、籠の中に手を差し入れてくる。彼をまっすぐに見据え、彼を封じる札を貼ることだけに集中しているのか、真剣なまなざし、それをまっすぐ受け止める。 ああ、何て綺麗な瞳だろう、もうすぐこれが自分のものになる……。 「ぴ」 黄金の魔女が小さな呟きとともに、支配人の額を、白い指先で突いた。 「え……?」 視界が一気に黄金に満ちた。 「ふむ……これは見事な像じゃな」 蔓薔薇の籠に囲まれ、驚愕と苦悶の表情で踞る支配人の黄金の像を、ジョヴァンニは感慨をもって眺める。 「人間の欲望と苦悶を集約しておる」 「まあ確かに、札を貼った程度じゃ押さえられそうになかったし、何かを企んでる感じだったが」 フェリックスがあきれ顔で黄金の魔女を見やる。札を貼るのだとばかり思っていたのだが、最後の瞬間、何を思ったのか、札を持った手とは逆の手の籠手を外し、妙な声とともに支配人の額を突いた。 結果、マルカルニア湖畔には、異様な、しかもきらびやかな純金製のオブジェが出現することになった。 「しかし、それほど怒っていたのか……これから私もいろいろ気をつけよう」 フェリックスが溜め息まじりに呟くと、 「…から」 「は?」「何じゃと?」 むっつりしていた黄金の魔女がぼそりと唸り、ジョヴァンニとフェリックスは相手を覗き込んだ。籠手を両手につけ、黄金の煙管をしっかり握った黄金の魔女が、もう一度繰り返す。 「……わからなかったから」 「…は?」「……何をじゃ?」 ぐ、と詰まった黄金の魔女が唇を噛み、一気に吐き捨てた。 「どこに貼るのか、わからなかったのよ、文句あるっ!」 「……ぶわっはっははっ!」「なるほどのう…」 吹き出すフェリックス、頷くジョヴァンニ、見る見る赤面した黄金の魔女が、煙管を振り上げる。 「おいおい止めろって!」「まあまあ…」「籠手を外すわよ!」 後に。 マルカルニア湖畔には新たな名所が加わった。 『虚しい夢』、そう名付けられたのは鳥籠の中で悔やみうろたえている男の黄金の像だ。 巨万の富を奪われるのが嫌さに自らの回りに黄金を積み上げ、ついにそこから出られなくなって飢え死にした男の像だとも、神秘の力を手に入れ悉くを黄金に変えたものの、うっかり自分を黄金にしてしまった男の像だとも言われている。 何度か、この像の黄金を削り、または盗み出そうとした者が居たらしいが、いずれも「もっと深くだもっと深くへ誰も来ないところへ逃げるんだ黄金が追ってくる」と呟きつつ、湖に入水したり地下道に入り込んだりするもので、すぐに手を出す者はいなくなった。 真実を知っているのは、穏やかに広がるマルカルニア湖のみ。 静かな波音は今日も黄金の籠に響いている。
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