どがっ!! ばぐっ!! ばしっっっ!! 「っっ!!」 衝撃に跳ね飛ばされ転がったところを容赦なく次の打撃が襲う。必死に上げた氏家ミチルの視界に入ったのは空中を奔る金色の炎。 「くっ」 一矢目を躱せたのは奇跡、二矢目を逸らせたのは偶然か悪意、続いた数矢をたて続けぬ体に受け止める。悲鳴など上げる暇はない。もちろん逃げる隙もなく反撃する余地などありようもない。いつぞやの【悪魔の美術館】との一戦の方が対象が自分だけではなかったからましだろうか。 「終わりか」 冷徹な声が、叩きのめされ引き裂かれ焼かれ抉られボロ屑のようになって倒れているミチルの上から降り落ちてくる。 『何をやっとる、馬鹿者が』 叱ってくれる人が居ない。いつも一番に見つけてくれた人が。 見上げて唾を吐きつけたかったが瞼を上げることさえできず、ミチルはただひたすら空気を貪る。生きるために。ただただ生きながらえるために。 それが体中振り絞るほど切なく悔しい。 「……馬鹿……する……な……っっ」 「ほほう」 悪魔は嬉しそうに拳を振り上げる。 「その覇気は好ましい」 「っっっっっ!!!!」 地面ももろとも撃ち抜かれたミチルの脳裏に散る、花弁。 有馬 春臣が失踪した。 様子がおかしかったのに気づかなかったわけではない。いやむしろ、気づいていたからこそ、注意深く見守っていた。 「…下手に突くのは危険か?」 問い質してとんでもないものが飛び出してしまうかも知れない。それをミチルに扱いきれるのか。そこまで考えていたとは言い切れないが、それでも、相手は何十年も人生経験を持った男だ。【悪魔の為の楽団】に属してからも、数々の経験を重ねてきた…と考えたとき、奇妙な怖気を感じたせいかも知れない。 主に何かを感じ沈思していた横顔、迷いの果てに確かめようとした、その数日後、失踪してしまった。 家族を守るために悪魔と契約したミチル、その行為を後悔することはなかったし、これからもきっとないだろう。 けれど、ふと、アスファルトの道路に散って踏みにじられていく花弁を見たとき、言いようのない傷みが込み上げた。 散るのは道理、散らぬのは無様、いつまでも花として樹上に輝けるはずもなし、けれど無様であっても生き延びたいと願う心、生き延びるなら健やかにと祈る心のどこに、嘲笑されるものがあろう。それでも散り損ねて樹上で枯れる花を、人は痛ましく見上げてしまうものなのだ。その痛ましさを抱えあぐねてもがく人が、どれほど切ないものなのか、ミチルはよく知っている。けどしかし。 『何をやっとる、馬鹿者が』 ぱすん、と頭を叩かれた。 『…姫』 よさんか、と眉を潜めた顔は美形なのだが薄気味悪さが漂う。高いというより長いといった印象の身長、背中を丸めて容赦なく散った花弁を踏みつけて歩き出す。 『前へ進まんか』 これだから小娘は困る、と溜め息まじりに呟かれた声は艶っぽかった。三味線をかき鳴らして声を添えられると、それだけで危うい衝動がミチルの中に沸き起こる気がする。 『姫…っ!』『おっ』 抱きついて全身擦りつけたくて、その気配だけで有馬は飛び退ったけれど、構わず突き進んでミチルは花の絨毯に踏み込む。靴裏にじり、と潰れる花弁に一瞬顔をを歪め、それでも先行く有馬の背中に飛びかかろうとした。 居てくれるだけで良かったのだ。 居てくれるだけで、前へ進めた。 もし、有馬がどこかで危険に陥っているのなら、守らなければ。 楽団を飛び出し、有馬を探して世界中を旅した。 悪魔はすぐに追って来なかった。数ある楽団員の中で、ミチルの逃亡にまだ気づいていないのか、それとも。 『捕まる前に、何とか姫を見つけるッス』 焦る心に歯を食いしばった。 熱砂の陽炎、蔦と屍垂れ下がるジャングル、凍てる空気に骨まで砕かれる極寒、だが人間の集まる街こそ修羅の世界だった。 『こんな人知らないッスか』 『え? あー知ってる知ってる』 写真を見せた男はへらりと笑って仲間を見やる。 『知ってるよなあ、こいつ、ほら、あそこの店で見たよなあ?』 『え…あ、あーこいつね、うんこいつこいつ、そうだよ』 頷き返す男の目に剣呑な光があったとは後で気づいた。 ここの店だよ,と連れ込まれたのは廃屋、いつの間に呼び寄せられたのか、数人の男が現れてミチルを取り囲む。 『いいじゃん、しばらくここで遊んでけよ』『つっても、遊ぶのは俺ら? だったり?』 『嘘ついたんスか!』 『気づかなかったの、へええびっくり!』 見かけ以上に男達は喧嘩慣れしており、したたかで獰猛だった。野獣と違う、相手は人だ、そう怯む心に付け入られた。 逃げ回るのでは間に合わず、かと言って全力出して仕留めるわけにもいかず、ミチルは廃屋の中で窮地に陥り、仕方なしに放った『歌』で一人二人を倒したのが、男達の嗜虐心を煽ってしまった。 『もういい、やっちまえこいつ!』 『、こ、ろされ…るっ!』 脳裏を過った有馬の顔に死ねないと思った。抵抗し暴れ回ってなお足りず、屠られる寸前、ミチルの中で闇が吹き上がった。 『シネ』 喉から溢れた歌声は命を癒す応援歌ではなかった。向き合い叩きつけ合う攻撃の中、相手の恐怖に引き攣った顔をまじまじと眺めながら、その恐怖と怒りと困惑を飛び散り迸る血潮と同時に浴びながら、ミチルは目を閉じられなかった。 『これ…自分が…やったッスか…』 力が増したのを感じた。 相手の激痛に増幅されたような、鋭く激しい旋律がミチルの歌に加わった。 『なんで……なんで……』 困惑と動揺と。 『なんで………っ!』 殺したくなかった。けれど生きたかった。天秤に載せられた相手の心臓と自分の心臓が見せる釣り合いを、どうしても自分の方に傾けたかった。 竦むミチルの前に、待ち構えていたように現れた悪魔は、満足げだった。 『素晴しい歌になったな』 『すば、らしい……?』 『人を愛すること、人を殺すこと……どちらも極上の彩りとなる』 『そんな…っ』 では、ずっと掌の上で踊らされていただけなのか。有馬を探し回っていたことも、危機に陥って相手を殺さざるを得なかったことも、その間の悲嘆や懊悩も、全てミチルの歌を仕上げていく手立てに使われていただけなのか。 惨い現実にミチルは愕然とする。 それをさらに追い立てるように、悪魔はあっさりと言い放つ。 『有馬を探しても無駄だ』 『……何か…知ってるんスか』 『お前達は運命を売り渡した』 選べる自由などとっくにない。 『けど……』 そもそも自分の願いを叶えるために私と契約するような者に、運命が微笑むとでも思っているのか。 『けど…っ!』 有馬の顔がぼやぼやと滲んで消える。アスファルトに踏みにじられた花弁が脳裏を掠める、そこを踏み込んでいった有馬の細くてしなやかなステップ。 愚かなことだとわかっている。非道な選択だと知っている。 それでも皆、何かの為に捧げてきた。過去や家族、そういったささやかなものを必死に想って進んできた。 『弱みに付け込んで人の運命をいじる奴が!』 『怒りに任せて私“も”殺すか?』 『っっ!』 悪魔の返答に息を呑んだ。 『探すのは自分の為で彼の為じゃない』 悪魔が嘲笑う。 お前達の契約の願いも利己的だ。 花に自分を重ねて踏み込めなかったミチル、そこにあったのは家族への想いではなくて、踏みにじる自分への自己憐憫でしかなかったのか。 『分かってる…それでも皆を馬鹿にするな!!』 先生。 命は馬鹿馬鹿しいものだろうか。 祈りは自分勝手なものだろうか。 『行くッス!! 応援歌!!』 先生。 先生。 あの時みたいに叱ってほしい、前へ進めと。 口を開く、アスファルトの花弁を、今度は自分の意志で踏みにじる。 「良い事を思いついた」 その声が響いたのは、全身を撃ち抜かれてミチルが千切れ飛ぶ直前だったのか、直後だったのか。 急激な再生が体で始まったのをうっすらと感じた。 『しっかりしろ』 体の内側で声がした。 有馬のような、全く違うような。 「無駄だぞ」『賭けだ』「成り立たない」『この体で』「無謀な」『そういうものさ』 体の外側で、空気が、世界が、めりめりと引き剥がされて放り出される。 「勝ってみせろ……」 声が楽しげに消えて行く。 あ。 ミチルは微笑む。 綺麗…ッス……姫……。 もうすぐ……抱っこ……できるッス……よ……。 差し伸べた手は、虚空に受け取られた。
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