インヤンガイからの依頼だった。 以前世界図書館に次々と報告されたような、マフィアの大規模組織の激しい抗争ではなくて、小競り合いをしつつも、ある種の均衡を保っていた組織『黒徒』と『赤闇』、その『黒徒』の下部組織の長、クワン・ドウからだ。 「ほのか姐さんですね」 探偵に教えられて出迎えた若い男は、ゲンといいやす、と名乗った後、気難しい顔のまま先に立った。 「これでもあっちこっちの祈祷師、占い師、術師に伝手をつけやした。考えられる手は全て打った、そう請け負って下さった先生もいやす」 けど、親分に迫る怪異は消えてくれやせん、と困り顔で続ける。 壱番世界で言えば着流し風だが、細身のシャツとズボンの上にひらひらとした着物を羽織ったゲンは、情けなさそうな顔で肩越しに振り向く。 「こうなったら、とあんた方を思い出したんで、探偵に話をつけやした……あんまり関わりたくねえっておっしゃる方もいらっしゃる、それは知っていやす。けど、オイラ達も結構キツくてねえ……あ、まずここで手、洗って頂きやす」 おそらくは奥にある屋敷が、クワンの家なのだろう。周囲を取り囲む塀に、一定間隔で黒い棒を立て、その先に壱番世界で言うところの御幣のようなものなのか、黒と赤の折り畳まれてびらびらした紙が釘で打たれている。門扉で促されて、そこに据え付けられた薄緑色の液体で手を洗わされ、ほのかは小さく溜め息をつく。 「すいやせん、気持ち悪いでやしょうが、親分を守る結界ですんで」 いや、そういう意味ではない、そう言うのは憚られた。 ここを第一の結界とし、幾重にも幾重にも張り巡らされた結界を、ほのかは感じる。外側から内側へ進むに従って、程度をあげていく結界は、素人のものではなくて、何ものも通すまいという意志に満ちている。 それは、ここの主、クワンがどれほど、襲い掛かり迫り来る不吉と渾身の力でもって闘っているのか、それにどれほど怯えているのかを表しており、その恐怖が如何に厳重過ぎて愚かしく見えようとも、笑う気持ちにはなれない。 ただ。 「これでどうぞ」 濡れたほのかの手を、ゲンは真っ黒な手拭いで拭かせた。微かに漂う香、この手拭いにも結界の仕掛けの一つが施されていると見える。 「こっちです、ほのか姐」 ゲンはほのかのことを優秀な霊媒、或いは霊能力者だとでも聞いているのか、うやうやしく頭を下げつつ、石畳を奥へ歩き始める。 ならなおさら困る。 ほのかは「それら」を認識するだけであって、実際、重ねられた結界はかなり強固で、どんどん霊達が遮断されていくばかりか、通常の人間としての気持ちの動きまで押さえ込もうとする、その手法や技術には驚くばかり、それはわかるのだが、ではそれらから漏れて、今もほのかやゲンの側を擦り抜けていく赤紫の炎のような人影はどうすることもできないのだが。 「次はここを、こうやって踏み込んで頂きやす」 ゲンに従い、配置された石を丁寧に同じように踏み歩く。 そこでも気の流れが厳しく制限され、封じられていくのがわかる。しかし。 「……このままでは…」 「え?」 「…いえ……まだ先なのですか」 「もう少しでやす、お手間取らせて申し訳ありやせん」 話が途中でしたね、とゲンはことばを続ける。入り口から比べると、結界を幾重も潜るせいだろう、かなり気力を削がれているようだ。 クワンの属する親組織『黒徒』と、近隣のバイカが属する親組織『赤闇』は長年争ってきた。勝ったり負けたり、始末したりされたり、それはそれでまあまあ均衡を保っていたと言える。クワンもバイカと揉めはするが破綻はしない、その程度にうまくやってきた。 状況が変わったのは数ヶ月前だ。インヤンガイでマフィア同士の大きな抗争があり、はからずも巻き込まれた組織があったが、その空きを『赤闇』が手に入れようとし、当然のごとく『黒徒』がそれを止めとうとした。 最も、正面切ってやり合うのではなく、クワン達の下部組織がやりあって、その状態を見てほどほどのところで手打ち場所を決めよう、そういう画策だったらしい。 だが、『赤闇』に最近入ったばかりの若いのが居た。クワンを殺(と)れば、組織は安泰、そう先走ったのが居た。クワンの妻を捉えて嬲り殺し、その屍体を晒して意気を挫こう、そんな浅はかさで突っ走った。 クワンは逆上した。表には見せなかったが、ほんの数人しか構成員がいなかった時から自分を支えた女だった。失ったのは痛手だった。それを痛手と呑み込めなかった。 自ら率いた集団で無法を許したのはクワンの失策、気づいた時にはバイカの首を殺(と)って練り歩く馬鹿騒ぎの最中だった。 『黒徒』はクワンを見捨てることにした。へたにテコ入れするほどクワンを可愛がってたわけでもない、『赤闇』が牙を剥くなら差し出して手打ち、その辺りまでの譲歩を考えていた。 『赤闇』は術師を大勢抱える。正面切ってやり合えば、『黒徒』もただでは済まない。クワンとその組織で手打ちにできるなら有難い、そう『赤闇』にほのめかした様子だ。 「ここんとこ、『赤闇』の奴らがのしてきてるし、おまんまの食い上げになってきやした。親分はああして、こっから動きゃしやせん」 どっちにしても、オイラ達は終わりです。 冷めた口調で嗤ったゲンは、最後ですぜ、とほのかに部屋の周囲に描かれた赤と黒の二重螺旋と、一定箇所ごとに盛られた灰色の砂の外で立ち止まった。 「クワン親分、お連れしやした」 「入ってもらえ」 きしるような低い声が唸り、 「こっからはお一人でどうぞ。オイラ達もこっからは入ることが許されねえんで」 ゲンがまたうっそりと嗤って、頭を下げて引き下がる。 ほのかは教えられた通りに、引き戸を開け、赤と黒の線を踏まないように室内に入った。 「お前か、術師は」 「……はい…」 答えながら、ほのかはクワンの方を凝視する。 真四角の室内の隅には、奇妙な金色の皿に入った塩のようなものが置かれている。クワンは部屋の真ん中に寝台と小テーブルを置き、その寝台に浅く腰掛け、微かに喘いでいる。その周囲は一段高くなっており、どうやらこん棒のようなもので囲い込んであるようだ。 「見えるのか。見えるんだなっ」 クワンがいきなり叫んだ。わなわなと震えながら、周囲を見回す。無精髭の伸びた頬、落窪んだ眼、碌に眠りもしていない、食べ物も食べていないのだろう、痩せた体から饐えた垢の臭いがする。 「どこだっ、どこにいるんだっ」 「……お待ち下さい…」 ほのかは、クワンの隣をじっと眺めていたが、静かにクワンを宥めた。 「…とにかく…お話をお聞かせ願えますか」 「気配がするんだっ」 叫ぶようにクワンは訴えた。 「これほど厳重に結界を張ったのに、気がつけば間近に何かがいるっ」 はあはあ喘ぎながら握りしめたのは、首から下げた幾重もの数珠と、下がったお札のようなもの。 「気を抜けばのしかかってくるから、こうやって!」 ぶん、とお札を握って手をいきなり振り回した。 空気の流れに押されたように、何者かがうっすらと部屋の隅に後じさりするような感覚、だがすぐにクワンの側へ戻ってくる。 「こうやって! こうやって! こうやってええええ!」 同じことを何度も繰り返したクワンは、額に滲んだ汗を拭おうともせず、ほのかを暗い眼で見た。 「追い払うのだが、キリがない。すぐにやってきて、ほら、今もだ、ほらここに!」 またクワンは大きく腕を振り回した。ぶちっと音がして数珠が一本切れたが、既にそれさえどうでもいいようにクワンは手を振り回し、はあはあと肩で息をしながら振り向く。 「『赤闇』の奴らが送り込んでいるんだ! このままでは体が保たん! それがあいつらの目的なんだ! もう何日もまともに寝てない、あ、ああああ、またっ!」 いるんだろう! 気が狂いそうだ! 「なんとかしてくれ! なんとかしてくれえ!」 どうやって結界を破ってるんだ! 「どうやってこいつはここに来たんだあああ!!!」 絶叫しながら見えない空気を叩きつけるように腕を振り回すクワンに、ほのかはそっと吐息をついた。 「……あの様に弱弱しいものが、ここの結界を破ったとは思えません」 「な、にいっ!」 ぎょろりと、まるで骸骨に目玉を張りつけたようなクワンの顔が振り返る。 「つまりあれは……最初からここにいたのでしょう。害意も悪意も感じません……」 「なん…だとおお……っっっ!」 ざああっと顔色の悪いクワンの顔がなお真っ白になった。 「それを入れたまま結界を張ったのか! 奴らも皆、『赤闇』の奴だったのか!」 そいつは、そいつは今何をしようとしてるんだ、何を何を何をっ。 悲鳴じみた詰問に、ほのかは少し口を噤む。 たゆとう気配は今にも泣き崩れそうだ。 「……深い悲しみをたたえておられます。僭越ながら……消えろ、などとは仰らぬよう……恐らくは時がたてば……雪が溶ける様に消え失せるものですから」 「そんなものを待っていられるかっ!」 クワンがののしった。 「そんな化物と一緒に居ろというのか! 消えるまで一緒に暮らせと言うのか!」 「ただあなたに触れようとして……躊躇っておられます…」 案じておられるのですよ、その声は、クワンの悲鳴にかき消された。 「ひああああああああっっ!!」 寝台から飛び降りる、それでも結界を飛び出る勇気はないのだろう、こん棒に囲い込まれた中を、寝台を睨みつけ、力の限りののしりながら、ぐるぐると駆け回り続けている。 「出て行けっ! さっさと出て行けっ! お前などどっかへ行ってしまえええええっっ!」 「…それは…」 知らぬとは、哀しいもの。 気配が茫然とし、竦み、姿をなくすほどに嘆くのを目の当たりにして、ほのかも切なくなる。 「どうしたら出ていくのだっ! どうしたらいなくなるのだっ!」 おそらくは、自分亡き後のクワンの身を案じ、儚い身上でも守ろうとしたというのが真実だろう。だがしかし、今、気配は微かな願いを伝えてきているようだ。 ほのかは走り過ぎて今にも倒れそうな顔で喘いで立ち止まったクワンに、頷いた。 「……扉を開けてほしいようです」 「では開けろっ!」 「クワンさんが開けてくれるなら……と」 「え……えええいいいっっ!」 気力体力限界だったのだろう、一瞬蒼白になったクワンは自棄になったように、こん棒を飛び越えた。そのまま、まだ数種類ある結界の線を突破して、戸口に駆け寄り、扉を開け放ち、振り返る。 その瞬間、クワンが硬直した。 「お…前っ……」 その目の前を淡い気配が空気のように通り過ぎる。 夢の中のように手を伸ばすクワン、だが引き止める手立ては既にない、扉の彼方へ消え行く影を追おうとして崩れる背中に、ほのかは静かに問いかける。 「ところで失礼ですが……あなたの奥様は目を潰されたのですか?」 クワンの答えは、引き裂かれたような号泣だった。
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