六月。 壱番世界で六月に与えられた呼び名のひとつとして代表的なものは、やはり水無月と言うものであろうか。 旧暦の六月は梅雨も明け水が少なくなる時節に当たる。それを発端としてのものだと言うが、さておき。 0世界の片隅にひっそりとたたずむチェンバーのひとつ。そのチェンバーの主は先頃異世界で命をおとし、還らぬ身と成り果てた。 残されたチェンバーは現在彼の知己にあたる男が譲り受け、長屋のような家屋はそのままに、ひっそり静かに暮らしている。 浅葱色の暖簾もそのまま軒先に提げられていた。が、その暖簾をくぐり抜けても、今はもう並ぶ商品があるわけでもない。三和土から一段上がるかたちを取った畳敷きの部屋ばかりが広がっている。 新たな主の名は雨師。その名が示す通り、彼がチェンバーの新たな主となってから、チェンバーには比較的高い確率で雨が降っている。 小糠雨が地を濡らす。 雨から逃れるように暖簾をくぐり入って来た客人たちを、和装姿に眼鏡という出で立ちの男がやんわりとした笑みをもって迎え入れた。 何はともあれと言わんばかりに手拭いを差し伸べて、男――雨師は客人たちを手招く。「こんな辺鄙な場所までよくお越しくださいました。さあ、席のしたくは出来ています。今、温かな飲み物でもお出ししましょう」 事の発端は張り出された一枚の紙だった。 ――雨の降る夜、怪談の語り合いでもしませんか そんな内容の短い誘い文がしたためられたその紙は、何人かのロストナンバーたちの目に触れた。そうしてその中の四名が、その誘い文に乗る事になったのだ。 とは言え、何も百物語のようなものをやろうというわけではない。酒肴でも楽しみながら、言わば真似事のようなものを楽しもうという趣旨のもの。ゆえに語り終えた後に怪異が期待出来るわけでもないのだ。 いずれにせよ、酔狂な暇つぶしにしかならないものですよ。そう言って雨師はやはりゆるゆると笑うばかり。 暖簾をくぐり入った先にあった畳敷きを通り過ぎ、案内されたのは庭に面した和室だった。 テーブルの上、和惣菜を中心とした酒肴が並ぶ。むろん、茶やジュースも用意されていた。 四人が腰を落ち着かせたのを見計らい、湯気のたつ湯のみを盆にのせ運んで来た雨師が口を開く。「さあ、まずは食事でもしつつ、始めましょう。それで、どなたから話してくださるんですか?」 眼鏡の奥の双眸が客人たちを順に検めていく。 縁側の向こうに広がる庭は、薄暮の空から降る雨に打たれ、音もなくひっそりと耳を傾けていた。
雨はまだ降っている。 開かれた雨戸の向こう、さほど広くはないが、四季を思わせるには充分たる彩りを備えた草花が細かな雨に打たれ揺れていた。 賀茂伊那人は表情の変調に乏しい、けれども人形のように整った相貌をわずかにかしげ、案内された畳敷きの和室や庭をぐるりと一望する。置かれた家財や調度品の類は最低限のものしかない。 「この場所はかつては商いをやっていたと聞いたが、如何なる品を扱っていたのだろう」 伊那人が落とした言に、オレンジ色の肌、それと同色のたてがみをもった小型ドラゴン――ユーウォンが口を開く。 「おれ、来たことあるよ」 雨が庭を静かに叩く音がする。 ユーウォンの声に、伊那人が顔を向けた。つられるようにしてメルヒオールとジューンも顔をあげた。 「お面とか売ってたんだ。いろんなのがあってさ。おれ、天狗のお面を選んだんだよ」 その時の記憶を思い出しながら話しているのか、ユーウォンは深い青を映した眼光を瞬きさせる。 「それでなんかこう、夢? かな。見たらしいんだけど、おれ、覚えてないんだよねぇ」 「お面、ですか」 続いたのはジューン。ピンク色の髪は空気をはらんでふわふわとやわらかく揺れ、髪の色よりはいくぶん濃い目のピンクをたたえた双眸には穏やかな微笑みが浮かんでいた。 テーブルには雨師が運んでくる酒肴が並び、食事の用意も整っていく。いわゆる和食をメインとした品々が並べられていくのを視界の端に捉えながら、ジューンはわずかに眦をすがめた。 ――ジューンはこのチェンバーの主であった男を知っている。 この店に足を運んだことがあるわけではない。あの男と親しく言葉を交わしたこともない。ジューンは報告書などを見れば男の素性を知ることは出来るが、あの男はたぶんジューンの名前もろくに知らないままだっただろう。 「……よくは知らんが」 続いてメルヒオールが口を開けた。 「このチェンバーの前の持ち主は死んだんだろう……?」 「ええ、先日、インヤンガイで」 雨師が応える。ユーウォンがわずかに首をかしげて瞬きをする。ドラゴンである彼の顔にある表情の変異は分かりにくい。ゆえに、今この場にいる者の中では唯一御面屋との対峙・会話を果たしたことのある彼が、御面屋の死に際して何を思っているのかを知る術はない。 メルヒオールは「そうか」と小さくうなずいて、テーブルに並ぶ猪口の数を目視した。 「……その男の分も盃を用意してやってはどうかな」 「はい?」 雨師が少し驚いたような色を浮かべ、メルヒオールの顔を見る。メルヒオールはどこか眠たげな目を庭に移ろわせ、音もなく降る雨を見つめながら言を続けた。 「……聴きに来ているかもしれないだろう」 メルヒオールに言われ、雨師は数度ばかり瞬きを繰り返し、それから静かに立ち上がり雨戸の傍に足を寄せる。 チェンバーの空は一枚絵のようで、動くこともない。けれども雨は確かに降っているし、夜気をはらんだ風は庭を撫でながら吹いている。 ――このどこかで、彼の魂は漂っているのだろうか。考えて、雨師は小さく笑みを落とした。 「さあ、それでは始めましょう。仮に彼が傍聴しているのだとすれば、さっさと始めましょうとかなんとか言うでしょうし」 言って庭に背を向けた雨師の声に、四人のロストナンバーたちはテーブルの思い思いの位置に腰を落とす。それから互いの顔を見やった後、初めに口を開けたのはユーウォンだった。表情の変調など窺い知れずとも、放っている空気がユーウォンが今抱いている強い好奇心を知らしめている。座り、うずうずとした様子で周りを見やった後、ユーウォンは虹彩を浮かべた眼光を閃かせた。 ◇ <野宿火 / 哀に物すごくしてすさまじきものは野宿火也> おれの番でいいんだよね。うん、えっと、おれ、故郷でもいろんな不思議なことを見てきたし、遭ってきたけど、……うーん、なんていうのかな。趣があるって、こういう場のことを言うんだって思うんだよね。何だかしっとりしてて、わくわくが静かに背筋を登ってくるっていうかさ。だから、おれの故郷での話はたぶんこの場にはそぐわないと思うんだ。だから、壱番世界で遭った不思議な話をするね。うん、あの日もやっぱり雨が降ってた。でもこんな細かい雨じゃなくて、もう少し粒の大きな霧雨だったけど。 電気が発明されてから、少なくとも現在の日本からは真の暗闇というものはなくなってしまったと言っても過言ではない。日が沈み夜が訪れた後も、そこかしこに明かりは点いている。彼がその日訪れた山中でも、遠くに見える街の光がわずかに届いていた。ちょっとした調査のため、初めて訪れた場所。調査はほどなく片付き、その後は時間が訪れるまでの間、自由行動となっていた。 針葉樹の枝葉が雨風をうけてゆるゆると揺らいでいた。まるで海の底でひっそりと漂う海藻のようにも思える風景の中をくぐり、彼はやがて山中奥に隠れるように眠っていた小さな社があるのを見つける。 祭事すらもろくに行われていないであろう、寂れた小さな拝殿。それを抱き包む鎮守の森には大きな杉が数多くそびえていた。古くは森そのものが信仰の対象となっていたような場所らしい。今ではかつての栄えなど見る影もなく、代わりに、いわゆる丑の刻参りの名所として、知る者ぞ知る場所と化してしまっていた。 彼は持ち前の強い好奇心のままに社を覗き、粘つく夜気に背筋を躍らせながら歩みを進める。 境内が妙に明るい。外灯が備えられているわけではない。街の光が境内の一部を明るく照らすわけもない。所々で朱がはがれ落ちている木製の鳥居をくぐり、彼はそうっと石畳の上を進む。手水場からは苔むした水の匂いがしていた。拝殿の横には注連縄で巻かれた大杉の木があった。彼は知らず知らずに息を潜め、ゆっくりとした歩調で砂利を踏む。 御神木には蛍の光よりもずっと暗い、おぼろな藍色の光がいくつもいくつも群がり包み込んでいた。這いすがるように揺れ動くその光たちは、見れば御神木の根元から立ち昇り、雨に押され土中に戻されかけながらも懸命に御神木を登ろうとしているかのようでもあった。 夜気に混ざり、どこか遠く近くから、何かがギィギィと軋むような音が聞こえる。その音が何であるのかを聞きとめようと耳を澄ませば、それに合わせたかのように鼻腔の奥で血の臭いが広がった。 鎮守の森の眠る数多の木々、何よりも眼前のこの大杉に打ち付けられ続けてきた無数の錆釘の臭気だろうか。あるいは呪によって流れた数知れぬ者たちの血脈の臭いだろうか。ならば耳に触れるかすかな音は釘打つ者の呪詛の声だろうか。それとも釘を打たれる大杉の木霊の呻きだろうか。 藍色の光がまとわりつくその様は、やはり海の底にある風景を思わせた。 手を伸ばし、光に触れてみる。だが彼の手は何に触れることもなく、ただただ宙を掴むばかり。 うん、まあ、それだけなんだけどさ。後でコンダクターのひとから詳しい話を聞かせてもらったんだよ。うん、丑の刻参りのさ。それで改めて、ニンゲンの心って怖いもんだなあって思ったんだ。なんだっけかな。ああ、そうそう。ひとをのろわばあなふたつ。どっちも不幸になって、ああやってさ迷うことになるなんてさ。おれには分からないなあ。 ◇ 語り終えたユーウォンが酒が波を打つ猪口を手にとって一息に干すのを、テーブルの上に並ぶ酒肴を口にしながら興味深げに聞き入っていたジューンが見つめていた。 「さあ、次はだれ? 早く聞かせてよ」 二杯目の猪口を干した後、ユーウォンは声を弾ませてそう言った。 縁側では雨師が酒を注いだ盃をひとつ置いて、木戸に背を預けるように座りながらこちらを見ている。 しばしの間を置いた後、「そうですね」と言いながら口を開き、ジューンは煮魚を運んでいた箸を箸置きの上に休め、やわらかな視線をゆっくりと小さく移ろわせた。それから何かを思い出したようにうなずいて、座ったままの姿勢で改めて深々と頭を下げた。 「本日はお招きいただきありがとうございます。私の暮らしていたセブンズゲートでは怪談というものがあまりなかったので、異世界の皆様のお話を伺いに参りました」 丁寧な口調で述べた口上に、伊那人が背を伸ばし丁寧な礼を返す。つられたのかメルヒオールが小さな会釈を見せて、ユーウォンは楽しそうに目を瞬きさせた。ジューンは彼らの顔を見つめ微笑んだ後、思い出したように雨師を振り向いて告げる。 「……美味しいです。これは何と言う食べ物でしょう? それと、後でレシピをいただくことは可能でしょうか」 「え? ああ、金目の煮物ですね。お口にあったなら良かった。僕のレシピでよければいくらでも」 応え微笑んだ雨師に、ジューンもまた首を傾けて笑う。 「ありがとうございます。……それでは、もしもよろしければ、次は私に番を預けていただいてもよろしいでしょうか」 そう訊ねたジューンに皆がそれぞれにうなずく。それらを検めた後、ジューンは静かに口を開けた。 ◇ <磯撫 / 尾をあげて船人をなで引込てくらふとぞ> 私たちの暮らしているコロニー内では、実は怪談の類はありません。異音がするのは空気漏れであったり、宙族の襲撃に関わるテロ行為だったりと、原因の説明がつくものばかりです。……しかし、宇宙航路を旅する方々にとっては、原因不明の怪談というものはそれなりにあるお話のようです。ええ、私も彼らからいくつか聞かせていただいたことがあります。壱番世界には都市伝説というものがあるようですが、それに似たようなものも耳にしたこともありますし……。私がお話するのは、そんな、いくつかあるお話の中のひとつです。 銀河間を移動するために用いる手段としては、光速ではとても足りない。何億光年という途方もない距離を移動するためには、もっと有効的な手段を取るより他にないのだ。そうして、その手段として用いられるのが、俗にゲート航法と言われるもの。――つまり時空間ジャンプを行うのだ。 宇宙航路を旅する者たちの間では、このジャンプを行う際に不思議な体験することがままあるともされている。 異音が確認され、その音の原因を調べるために赴いた船員が、異音が響く中にかつての同輩の姿を見る。同輩は船員に向けて、当時と何ら変わらない笑みを浮かべ、そうして何事かを告げながらこちらへ来いと手招くのだ。同輩が告げる声は異音にまぎれて消える。船員がそれを聞き取ろうと、――あるいは同輩のもとへ近付こうとして足を寄せると、船員はそれきり姿を消してしまうのだ。船員は異音の中に見たかつての同輩が、すでに命を落とした身であったことを失念していたのだろうか。あるいは懐かしさに、そういった違和も消し飛んでいたのかもしれないが。 原因不明の異音の中に死者の姿を見たとい事例は、決して少なくない数が確認されている。その異音の際に船員が忽然と姿を消したという事例もいくつか確認されていた。 また、あるはずの計器が紛失したという案件も、同様に、いくつか確認されている。 同様の事例がいくつか上れば、その原因を探るための調査が行われるのは必然。ジャンプが行われる際に、脳波に何らかの影響などが及ぼされるのではないか――しかし、いくども重ねられた調査が弾きだした検査結果は、そういった類の可能性をすべて否定するものにしかならなかった。 一切の原因が不明な現象。しかし、その調査が行われている間も、行われた後も、年に一度はそういった失踪事例が起きる。やがて人々はひとつの結論に達した。すなわち、 ジャンプ中は決して持ち場を離れるな。如何なる声が聞こえようとも返事をするな。何が無くなっても探しに行くな。 現象そのものに遭遇しても、それに触れさえしなければ、あるいは。 大概のものならば理論などで説明がつくと、私個人は思っています。説明のつかない現象などほとんどありません。どのような怪異であったとしても、それが生じる原因さえ判明してしまえば、それ以上に対象を畏れる必要などなくなります。 ただし、それは逆を言えば、説明のつかない現象に立ち会った時、人は畏れることすら忘れようとしてしまうのかもしれない、ということになります。私にはそれが、正しいことであるのかどうか……分かりません。 ◇ 「つまらない語り口で申し訳ありません」 語り終えたジューンは再び丁寧に頭を下げた。 「いや、僕は興味を覚えました。怪異の原因が知れないなら、それを遠ざけ、触れず、聞こえず、見ないように努めればいい、……ということですね」 雨師が応える。ジューンは小さく首をかしげ、何かを考えるようなしぐさを見せた。 夜気を含んだ風が、開け放たれたままの木戸をすり抜け、和室の中の空気を冷やしていく。 「俺には想像もつかない世界だな」 一杯目の酒が注がれた猪口を手に持ったりテーブルに戻したりしている伊那人が、ジューンの語りに表情をこわばらせた。 「しかし、知りえるはずのなかったであろう世界の話を聞くのは、やはりとても興味深いな」 言いながら、猪口をゆっくりと口に運ぶ。そうして難しそうな表情を浮かべながら酒を見つめ、思い切ったように飲み干そうとして、しかしテーブルに戻した猪口の中には酒がまだ残っていた。 「酒は苦手か?」 メルヒオールが訊ねる。彼はもう猪口を何度か空にしていた。顔色や表情は常と変わらないが、飲むペースは少しずつ早くなってきているようにも思える。 「俺のいたところでは、酒は贅沢品だった」 「ああ、なるほど。あまり口にする機会がなかったのか」 言いながらうなずくメルヒオールは、常よりもいくらか饒舌になっているようだ。やはり酒がまわっているのかもしれない。 伊那人は再び猪口に目を落とし、放逐された出身世界の記憶に思いを馳せる。 「そうだな、……次は俺が番をいただこう」 そう言うと、猪口の中で揺れる酒を、今度は一息に干して、伊那人は静かに口を開けた。 ◇ <狐者異 / 只恐るべきは自己の悪念なり> 怪談と呼べるものかどうかはさておき、耳にした事のある話なら出来る。例えば、 部屋にある隙間の奥には何か得体の知れぬものがいて、その隙間からこちらを覗き見ているのだという。例えば押し入れや天袋、そういったものの隙間だ。その中に、指が入る程度の隙間であるならば、目が。腕が通る程度ならば身体が収まっているのだという。 夜、誰もいないはずの部屋で、誰も動いていないはずの部屋で、何かが軋む音がする。そんなときは、隙間の奥からこちらを覗いていた何かがするりぬるりと隙間を這い出て、部屋を満たす闇の中に溶け込み、紛れ込んでくる者を待っているのかもしれない。 隙間の奥で息を潜め、ただひたすらにこちらを覗き見ていたものは、見つめ続けた時間の長さの分だけ、相手を強く求めている。何を思い、何を欲しているのかは知れない。もしかするとそれは恋情に似た憧憬であるのかもしれない。あるいは相手との入れ替わりを求めているのかもしれない。例えば初めは指の通る隙間にも至らない程度のものであったのかもしれないが、歳月を経ると共に、――想いが重なるほどに、その想いが少しずつ隙間を開いていくのかもしれない。そうしてついに這い出ることが出来たとき、それが抱える想いは強烈な力の塊となって、対象を待ち構えているのかもしれないのだ。 暗闇に何かがいるという想像をするのは自由だ。しかし、まだ夜深い中で目覚めたとき、その気配を感じたとしても、視線だけでも探すことはしない方がいい。探すということは、その対象が”そこに在ればいい”と願うことに通じてしまう。もしも仮に、見つけてほしいと願っている何かが実際にそこにいて、闇に溶け込みながら待っていたとしたら。 居るか居ないかということではなく、相手が目に見えるか見えないか。その違いが、闇を呼び寄せてしまうか否かの境界線になることは存外に多い。 見えぬものを必要以上に想像する必要はない。想像するということは、対象にかたちを与えてしまうということにも通じてしまう。かたちを得られぬものはいずれどこぞへ消えていくのかもしれない。再び隙間の向こうへ吸い込まれ、もう一度隙間を作り、ただひたすらに機を待つのかもしれない。 夜は人間の時間ではないと、俺の世界では言われていたが、確かに、どのような時刻でも光がある世界では、恐れるものもまた別になるのだろうか。……本当に興味深いな。貴方がたが語った話には、どちらにも共通した何かが根底にあるようにも思えるんだ。もっとも、俺はこの通りの話下手ゆえ、俺の語り口では果たして怖いと感じるものになったとは思えんな……。ああ、そうだ。思うんだが……。恐怖という感情を持っていたほうが、人間はより人間らしくなれるように思うんだ。怪異を恐れ、闇を恐れる。得体の知れぬものを恐れる。正体が知れれば恐れる必要もなくなるのだろうが……。そうだな……俺にも恐怖という感情があれば、少しは人間らしくもなれるのだろうか。 ◇ 独り言を落とすようにそう告げて、伊那人は二杯目の酒が注がれた猪口に目を落とす。 「むずかしい話はよくわかんないけどさ、なんかあれだね。世界とかが違ってても、こういう不思議な話って根っこが似てるような気がするなぁ」 ユーウォンが息をひとつ吐きだしながら告げた。ジューンがうなずく。彼女は今、野菜の炊き合わせを口にしていた。異世界での怪談を聞き、普段食べないものを食べて食の幅を広げるのを目的とした参加だったのだ。双方どちらも楽しめ、なおかつ気になった料理のレシピまでもらえるらしい。ジューンの顔には常よりもいくぶん穏やかな、明朗とした笑みが浮かんでいた。 と、雨師に倣って縁側に移動していたメルヒオールが、何杯目か数えるのをやめた酒を猪口に注ぎ、わずかに眠たげな色を浮かべた声で言を落とす。 「最後は俺の番だな」 言いながら木戸に背を預け、メルヒオールは灰色の双眸をゆらりと揺らす。 ――まあ、もっとも、一番の怪奇現象……一番の恐怖はメルヒオール自身の覚醒時に生じた現象だとは自負しているが、それは誰かに語って聞かせたいものでもない。考えながら、メルヒオールは視線を石化して垂れ下がったままの右腕に向けた。 ◇ <溝出 / 恐れるべきは人霊の祭葬にして、祟むべきは先祖の塚也> とは言うものの、俺の故郷では魔法というものが一般的なものだったからな。日常的に使われているものだったから、何かしらの怪奇現象なるものが生じたところで、誰かしらの魔法が生み出した産物でだったっていうオチがほとんどだ。魔法を使ったものかどうかってのは、調べれば分かってしまうもんなんだ。今回のこれは出来がいいだとか悪いだとか、そんな評価を下すこともよくあったな。――だが、だからといって、全てが魔法の産物だというわけじゃあない。いくら調べても魔法の痕跡の認められないような怪奇も、たまにはあったりもしたさ。 学校と称されるところは、大概どの世界においても怪異に好かれるための条件を備えた場所なのかもしれない。まだ稚い齢の子どもから、ある程度の齢を重ね大人の一歩手前で足踏みをしているような子どもまで、揃う年齢の幅は広くとられてはいるが、いずれにせよ。そう、いずれにせよ子どもという存在は未知数の力を秘めているものだ。そんな子どもたちが多く揃い、生活を共にする場ともなれば、当然に、その場にはあらゆるものが混在した気がわだかまるものだろう。気がわだかまり膨らんだ場には良し悪しに関わらず、あらゆるものが引き寄せられ集まりもするのかもしれない。そうであると仮定するならば、学校が怪異に好かれがちだということにも道理がいくだろう。 メルヒオールもまた、各地にある魔法学校の中のひとつに非常勤講師として勤めていた。 魔法学校は専門学校のような場所だ。魔法とは才能の一種であり、技能の一環でもある。教師たちは各自がそれぞれに研究の傍らで講師を担っている。ゆえに、中には研究という名目のもと、研究塔などにこもってなかなか出て来ないような者もいた。メルヒオールもその不良教師の中に含まれるひとりだった。 自らの研究に没頭しがちな日々を送っていた矢先、教え子である女生徒たちがメルヒオールの研究塔を訪ね、好き勝手に茶などをいれてくつろぎながら、そういえばと思い出したように話し始めた。 ある教室で、何をどう動かしても、少し目を離した隙に元の配置に戻ってしまう、という事例が生じているらしい。それだけのことなのだが、当然に疑われるのは何者かによる悪戯の類。あるいは何者かが放った魔法の結果。 害意を感じるわけではない。机や椅子が元の配置に戻ってしまうという現象が生じたところで、少なくとも多大な被害を受ける者がいるわけでもないのだ。けれど、現象は現象だ。原因は追究しておかなくてはならない。 どうせ単純な魔法によるものだろうと見た教師のひとりが調査を始めた。が、何度となく調査を重ねても、そこには魔法を使った形跡などわずかほどにも残されてはいなかった。 別の教師が別の方向からの調査を重ねる。また別の教師が調査を重ね、その次の教師もまた調査を重ねた。が、やはり、そこには魔法を使った痕跡などまるで残されてなどいなかったのだ。だが現象は厳然として続いている。ついにはさじを投げた教師たちによって、その教室は使用されることのない場所になってしまった。 教室からは机や椅子や書棚が運び出され、別の教室への移動を終えた。運び終えた教師たちが直後に見たのは、たった今運び終えたばかりの机や椅子がもやに包まれて掻き消えていく、まさにその場面。果たして、机や椅子は件の教室で見つかった。 整然と並んでいるわけでもない机や椅子。そこに、目には映ることのない不可視のものたちが着席しているのが見えたような気がした。その顔が揃ってこちらを凝視している。表情のない顔がいくつも並び、物を言うでもなく、ただ黙したままに。 ああ、それで、どうなったかって? 教師どもは皆、揃いも揃って、どうやったらこの不可思議な現象を再現できるかという議論に躍起になったらしい。連中はその教室に感じた違和感に対する恐怖を、自分たちの魔法によって再現することで打ち消す術を見出そうとしてたのかもしれないな。……俺か? 俺はその時は自分の研究で忙しくてな。それどころじゃなかったんだ。 それに、 ◇ 薄い笑みを浮かべたメルヒオールに、ユーウォンが首をかしげる。 「それに?」 訊ねたユーウォンに、メルヒオールは眠たげに小さなあくびをひとつ落とした後に数度ばかり目を瞬いた。 「そういうのをいちいち端から全部解いていなかくたっていいだろう? 怪異は怪異のままに置いておくのも面白いんじゃねえのかな」 そう言ったのを最後に、メルヒオールは静かな寝息をたてる。雨師が肌掛けと枕を持ってきて、メルヒオールを横にさせた。 「怪異は怪異のままに、か」 伊那人は二杯目の酒をちびちびと口にしている。呟き、視線を庭に向けた。 もしも仮に、このチェンバーの元の主が今ここに戻ってきているのだとするならば、その存在もまた怪異の種となりえるのだろうか。 人は得体の知れぬものに恐怖を抱く。その恐怖はわだかまる闇に強い力を与え、力を得た闇はかたちを成して人の前に姿を見せる。 確かに光は闇を追いやりもするだろう。けれどもそれで闇が立ち消えるわけでもない。かれらはほんの少しの隙間からこちらを窺っているのだ。何より、闇は人の心の底にもわだかまり、かたちを成していきもする。人の心に巣食う闇は救済を求めてさ迷いもするが、罪過を犯した魂が無条件に救済されることもないのかもしれない。ゆえにかれらはさらなる闇に沈み、さ迷い、闇に溶けていくのかもしれない。 「円環、でしょうか」 ジューンが首をかしげる。そう思えばこの四つの語りには、どこか不思議な繋がりがあるようにさえ思えてくる。 「むずかしいことはわかんないなぁ」 言って、ユーウォンが酒を干す。それに続き、ジューンもまた酒を干した。伊那人はわずかな逡巡の後、思い切ったように猪口を一口にあおる。 雨はまだ降っている。夜気をはらんだ風が庭の枝葉を揺らし、かすかな音をたてた。 まるで誰かが何かをささやいているような、そんなかすかな音にも聴こえる。 「御面屋さん、いるの?」 ユーウォンが問う。 応えはなかった。
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