「……では、その日に」「お待ちしております」 私も、主も。 はにかんだように微笑むイルナハトに見送られて、華月は『エメラルド・キャッスル』の入り口で彼方を眺めた。 美しい四つのドーム、壱番世界に作られているという巨大な霊廟、タージ・マハルを思わせるその姿は、揺れる水面に静かに映り込んでいる。 もう一度、イルナハトに会釈すると、もう光学迷彩を必要としなくなった彼が陽射しの中で眩げに頷く。 背中を向けて歩き出しながら、華月の胸には豪奢なドレスと宝石で着飾ったヴァネッサ・ベイフルックの顔が思い浮かぶ。と、同時に、自分の頭の上に点滅しているであろう、夢浮橋の真理数も。 イルナハトに依頼したのはヴァネッサとの会見、いやもっと平たく言えば、お茶会だ。 華月はまもなく夢浮橋に帰属する。大切な人との絆を結び、あの世界に自分の居場所をはっきり捉えた。 帰属の前に、ヴァネッサにちゃんと挨拶をしておきたかった。 様々な迷いの中で始めた銀細工は、確かに華月の心を支えてくれた。けれど、それを誰かに贈る装飾品として作り始めたときから、華月の中で何かが変わってきたように思う。 たとえば、あの、ヴァネッサに贈った装飾品。 あのネックレスを作ったことは、華月にとって一歩前へ進む事が出来るようになるきっかけだった。(だからこそ) 唇を引き結び、華月はしっかりと顔を上げて歩く。(ヴァネッサさんにちゃんと挨拶をしたい) 目指すは『クリスタル・パレス』。 お茶会を受け入れてくれたヴァネッサに、何を持っていこうか、心優しいラファエルと相談してみなくては。「もうそろそろではないの」「まだお時間ではありません」 ドームから外を眺めていたヴァネッサは、静かに答えたイルナハトを振り返る。「準備は」「滞りなく」 イルナハトは微笑んだ。「ヴォロスの華茶を用意しました。作り上げたばかりなので、十分に花弁が開くかどうか心配だと、里の者は申しておりました」「開くに決まっているでしょう」 肩越しに瞬く鮮やかな緑の瞳が、一瞬柔らかく微笑んだ。「華月が来るのよ」 イルナハトが見惚れる前に素っ気なく顔を背ける、その向こうから、遠い昔の友人が離れていった時のような、淡い声が響く。「帰属は奇跡よ。世界の外から、その世界に存在しないものを受け入れるということは、世界が自らを変えていくと決めたこと。それだけの祝福の前に、時間の壁など幻のようなものだわ」 きっと世界は知っているのね。「帰属する者は、無限の選択を捨てて、自分と生死を共にしようとしてくれていると」 何かを無理に納得しようとしているような、どこか舌足らずのだだっ子のように響く声に、イルナハトは少し歩み寄る。「ヴァネッサさま」「イルナハト」「はい」「お茶会は『夜』にしましょう」「……かしこまりました」 一瞬ためらい、イルナハトは一礼して歩み去る。 ヴァネッサは、遠くの空を眺めていた視線を掌に落とす。 そこには繊細で細やかな、蝶を配したネックレスが載せられている。=========!注意!企画シナリオは、便宜上、参加枠数が「999」になっていますが、実際には特定の参加予定者のために運営されています。この企画シナリオは下記のキャラクターが参加予定です。他の方のご参加はご遠慮下さい。万一、参加予定でない方のご参加があった場合は、参加がキャンセル(チケットは返却されます)になる場合があります。<参加予定者>華月(cade5246)ヴァネッサ・ベイフルック(cztt8754)=========
「なるほど、ヴァネッサ様にですか」 『クリスタル・パレス』で華月の訪問を受けたラファエルは、静かに考え込む。 「それならば、どうしてもお届けしたい一品を工夫するでしょう、ペンギン料理長が」 「え?」 華月はきょとんとする。 帰属となった我が身の話をヴァネッサに報告しようと取り付けた約束、お茶会には是非『クリスタル・パレス』の一品をと思い立ってやってきたのだが、思わぬ申し出に瞬きを繰り返す。 「ペンギン料理長さんが、ですか」 「ええ」 微笑むラファエルの口から漏れたのは、なお意外な事実だ。 ペンギン料理長は実はヴァネッサの大ファンで(隠れ大ファンらしい)、『ご尊顔を拝見したいあまり、エメラルド・キャッスルを訪ねたはいいものの、ダンジョンの広大さと数々のトラップに破れ去り、ボロボロになって帰って来た』らしい。 「そんなことが……っ」 「?」 華月が頷きかけて凍りついたのに、ラファエルはゆっくりと振り返り、苦笑する。奥の扉の隙間から、ほんの少し顔を覗かせたペンギン料理長が、つぶらな瞳をきらきらと輝かせているのだ。 「……! Σd(≧∀≦*)」 「……ヴァネッサ様に差し入れ? おまかせあれ、というところでしょうか」 ことばにならない想いを的確に汲み取ったラファエルが通訳してくれたのに、華月も思わず笑み綻んだ。 「では、お願いいたします」 「かしこまりました」 優しく目を細めて、ラファエルが笑う。 「確かに当日までにご用意させて頂きます」 「はい!」 華月は安堵に大きく頷いた。 当日、華月が『クリスタル・パレス』で渡されたのは、掌より少し大きな紺色の箱だった。裏は真珠色なのだろう、巧みに裏表を組み合わされた取っ手に繊細なレースがリボン結びされ、是非にこれをと願った想いが読み取れる。 「いい香り」 鼻先を掠めた新鮮な薫りに、華月は微笑んだ。 ラファエルが請け負い、ペンギン料理長が工夫を重ねた一品、きっとヴァネッサを喜ばせるだろう。 『クリスタル・パレス』を選んだのは間違いではなかった、そんな想いに後押しされて、華月は『エメラルド・キャッスル』までやってきて、息を呑んだ。 「これは…」 暗い。 夕方や薄闇の気配、というのではない。とっぷり暮れた冬の深夜を思わせる夜となった世界に、『エメラルド・キャッスル』は静かにその身を沈ませている。 「…綺麗…」 闇の中に立ち並ぶ濃い樹々の姿。目が慣れるに従って、その中央の水面が彼方へと視線を運び、遠くに浮かぶ四つのドームの建物は、陽射しの中とは違ったこっくりとした存在感で聳えている。窓の幾つかに仄かな灯、あれは照明ではなさそうだ。まるで、一つ一つの窓に、小さなろうそくの明かりを置いたような。 「…華月様」 「…はい」 ふい、と側に近寄った気配に、華月は振り向いた。 驚きはしなかった。ここは『エメラルド・キャッスル』、ヴァネッサの支配する場所で、彼女が許可を出した会合ならば、華月に危害が及ぶようなことはさせないだろう。これほどあっさりと近づくのは、イルナハト以外に考えられない。 「お迎えに参りました」 「ありがとう」 イルナハトは小さなランタンを掲げている。やや曇りがちのガラスで囲まれたそれは、古めかしい街灯のような作り、片頬を光らせた彼の上半身しか照らさない。 こちらへ、と誘われて、イルナハトの後ろからついていく。 「お足下にお気をつけ下さい」 イルナハトに言われるまでもなく、せっかく持参した菓子が崩れては困ると、華月は丁寧に足を運ぶ。静かな音が庭園の中の石畳の通路を歩いていると教えてくれる。 やがて、前方にほんわりと浮かび上がった小さなテーブルがあった。 三人つけば狭苦しいだろう。丸テーブルには、見事なレースのテーブルクロスがかかっている。テーブルの上には茶会のためのごく最小限のもの、茶器と小さなキャンドルの明かり、皿のように平らな花器に飾られた薔薇。葉と茎を取り去られ、花と蕾ばかりを盛られたそれを、じっと見つめていたヴァネッサが緩やかに目を上げた。 「……あぁ」 思わず漏らした吐息を聞き取られてしまっただろうか。 ヴァネッサの今夜の装いはシンプルだった。薄い緑のスリムラインのロングドレス、ウェストから回った濃い緑のベルトが左胸脇を駆け上がり、左肩へのワンショルダーに変わって、背中で薄物のトレーンのように垂れ下がっている。 飾りらしい飾りがほとんどないドレスの胸には、華月が贈った『虹、生まれるところ』が置かれている。新緑の森に輝く、秘められた泉に舞い飛ぶ蝶の群れ。キャンドルの揺らめく灯に光を跳ね、その光がヴァネッサの赤い唇に、顔を縁取る髪に、そして闇の中でも明るく輝く緑の瞳を照らしている。 華月はイルナハトに導かれるまま、テーブルに近づき、ヴァネッサの前に腰を降ろす。これを、とイルナハトに渡した紺の小箱をちらりと見やったヴァネッサが、目を細めた。 「『クリスタル・パレス』ね」 「はい」 イルナハトが静かに紅茶を入れ、持参の菓子をテーブルに載せるのを待って、華月は口を開いた。 「『エメラルド幻想』と呼ばれるタルトです」 『クリスタル・パレス』のペンギン料理長が、是非、ヴァネッサ様にと。 皿に載せられたタルトは、それ一つで宝石箱のようだった。「ヒスイ」「アリサ」「シャインマスカット」「ハニービーナス」。選りすぐったエメラルド色に丸のまま、或いはハーフカットした葡萄を散りばめ、ミントの葉が飾られている。サワークリームを加えたカスタードクリームのベースが、葡萄の鮮やかな緑を引き立てていた。 「どうぞ」 イルナハトが切り分ける。小皿に分けられたそれをヴァネッサは静かに味わった。それがまるで、話し出すのを待っているかのように思えて、華月は口を開く。 「……今夜の席を設けて下さって、感謝しています」 紅茶は薫りを主張しなかった。華月が持参する菓子が、どんなものであろうとも、その味わいを殺さないように、注意深く選ばれたとわかった。 「とても、美味しいお茶です」 「貴方が持って来たタルトも、十分考え抜かれているわね」 ヴァネッサはゆっくり目を上げた。 その目をまっすぐに見返して、華月は手にしていたフォークを置いた。 きっとタルトもとても美味しいのだろう。薫りも色も舌触りも、何もかも十分吟味されたものなのだろう。 けれど今の華月には、それを味わう余裕がなかった。 鮮やかで艶やかな緑の瞳。 この瞳ももう見ることはなくなるのだ。 「ヴァネッサさん。私は、夢浮橋へと帰属します」 ヴァネッサは瞬きもせずに華月を見つめている。 「夢浮橋で大切な人が出来ました。大好きで大切な人が」 鷹頼の笑顔が脳裏を過る。それをあえて遠ざけた。 今はその笑顔に癒され支えられ守られるべきではない。そんなものはヴァネッサを失望させるだけだろう。 ヴァネッサはターミナルを捨てる理由を話せと言った。 華月の選択を。 「私はあの人を選び、このターミナルからあの人がいる世界へと帰属します。あの人と、これから先、一緒に生きていきたいから」 「どんな場所なの」 「壱番世界の日本の平安時代と文化的に似ています。妖が存在していて……左大臣と北の方の息子……それが、私の…恋人です」 「名前は」 「藤原鷹頼さんです」 声が震えないように気を張った。 「ヴァネッサさん」 背筋を伸ばす。 「今までお世話になりました」 僅かに頭を下げた。視界の端で、『虹、生まれるところ』の宝石が煌めいた。 「すべてに絶望して覚醒した私だけど、銀細工作りと出会って、ヴァネッサさんと出会って、自分の作った銀細工を贈った事で、私自身も変わる事が出来ました。自分に自信を持つ事が出来ました」 口にしながら、ああ本当にそうなのだ、と感じる。 銀細工に打ち込んだのは、新たな自分。遊郭の守り手だけではない、新たな生き方。 だが、その生き方がもし挫かれてしまっていたなら、一人立つのにもっと時間がかかったかも知れない。 ヴァネッサはタルトを食べ終えた。紅茶を含むその唇は、華月にことばを返さない。 ふいに、そのヴァネッサがひどく小さな子どものように見えた。緩くまとめた髪が数筋ほつれて首筋にかかる。全体的にふくよかな姿、それが、揺れるキャンドルのせいだろうか、一瞬ほっそりとした少女に見えた。 何の理由もなく、確信した。 華月は今、ヴァネッサの中にいる、繊細で鋭い少女を見ている。我が儘放題に周囲をこき使い、無神経に応対し、欲しいものは何が何でも様々な手段を使って手に入れる傲慢でしたたかな女性ではなく、示された誠実を見えない深さで受け止める一人の少女が。 「ヴァネッサさん」 思わず笑みがこぼれた。不審そうに眉を上げる相手に、なおも笑みを深める。 「私は貴方が大好きです」 緑の瞳が驚いたように見張られる。 「笑顔が大好きです」 だから、これから先、もう二度と会えなくても、私は貴方の幸福を祈り続け、信じ続けています。 続けたことばに、初めてヴァネッサの瞳が揺れた。 「私はこれから先、あの世界でどんなことがあっても強く生きて行きます」 「…イルナハト」 紅茶を入れ替えて差し上げなさい。 低い声が命じ、少しためらったような間を置いて、付け加える。 「おいしいタルトよ、華月」 貴方はいい友人に恵まれているのね。 暗に食べなさい、と促された気がして、華月はフォークを取り上げる。 微かに酸味の効いたクリーム、色鮮やかな粒は口に含むと甘酸っぱく舌を濡らす。 なぜだろう、ふいに視界が霞んだ。 「勝手にいなくなる私だけれど、ヴァネッサさん」 何を言い出そうとしているの、私は。 これは別れを伝える席よ。 揺らぐ姿を見せに来たんじゃない。 「私はターミナルから出ることはないわ」 ヴァネッサが応じる。 伝えられた否定に、なぜだろう、華月は笑った。 ああ、そうだろう、ヴァネッサ。あなたは、そう応えるだろう、これからも。 けれどそうやって、突き放すのがあなたのやり方だとわかるぐらいには、私はあなたのことをよく知るようになってしまった。 華月はタルトを味わい、紅茶を飲み干した。 「ごちそうさまでした」 立ち上がる。話が途中なのは、華月もヴァネッサも知っている。 けれどヴァネッサは引き止めない。華月も続けない。 席を離れ、もう一度ヴァネッサを見ると、彼女は華月を見上げていた。聖なる者を見上げるようなその視線に、微笑む。 「もし良かったら、いつか会いに来て下さい」 今夜は、ありがとうございました。 頭を下げ、側に立つイルナハトに、どうか貴方も幸福で、と笑いかけて、華月は歩み去った。 後日、イルナハトからこう伝えられた。 あの夜、ヴォロスの華茶を用意しておりました。 それは、『見えない一人』分をいれることが原則になっているお茶です。『見えない一人』は、ことばに出されなかった想いを語る者とされています。 あなたが語り切れなかった場合を案じておられたのでしょう。 けれど、あの場であなたに逢われた時、華茶を出すなと命じられました。もう一つ選んでいたお茶でいいと。華月には、そんなものは不要だと。 小賢しいことを、とおっしゃっておられました。 私をターミナルから引きずり出すなんて、ずいぶんしたたかになったこと、と。 それを聞いて、華月は笑った。 いつかヴァネッサはターミナルを出るのだろう。 それは、ヴァネッサの新しい一歩になるのだろう。 蝶は、新しい空に舞うのだ。 それが華月が残す、ヴァネッサへの最後の贈り物だった。
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