ざわつく闇。 虚ろな漆黒はひとりの男を誘い込むように抱き、微睡みに身を委ねている。 五色の羅紗を翻し、鮮やかな色の闇はその場に腰を降ろした。男が身じろぐ度、ささやかな鐘の音色が響き渡る。 身に受けた束縛の呪は未だに彼を蝕み続け、この虚から外へと這い出る事を禁じた。しかし、この呪は結果的に、肉体の主にこれ以上望まぬ罪を背負わせず済む事ともなっている。それでいいではないか、と、口を歪めて誰にともなく呟く。そして、ふと考える。 あの男は何処に行ったろうか。あの、鬼に憑かれた哀れな男の魂は。 視界の端で、一筋の青が閃く。 それにつられて視線を彷徨わせれば、鈴鳴にも似た微かな羽撃きの音が耳を打った。儚く、弱い残影が闇の中に翳む。それを見とめて、仮面の鬼はかくりと首を傾げた。 摺鉦の聲が、波紋のように広がってゆく。『……逃げるのか。いずこへ』 ――断罪の手を求めているのは、己も彼も同じだろうに。 男はただ、待っている。 四人の、異邦からの剣士を。遠く美しい、春の訪れを。 + + +「インヤンガイからの依頼だ」 その日、依頼を受けた四人の旅人達の前に姿を見せたのは豪奢な朱金の毛並みに身を包んだ、巨躯の虎猫だった。「ん? ああ、残念な事に、話題になっているマンファージの件じゃあない。前回ロストナンバーに向かってもらった事件があったろう。……そこで行方知れずになっていた、ユー・イェン――鬼神ヘイイェを発見した」 冬の終わりを間近に迎えた街区で、狂える鬼神が男ばかりを七人も斬殺した事件だ。巡節祭の最終日、五人の舞手によって執り行われる儀式『剣戟』――その一人である鬼神が、何を思って過去の舞手たちを殺して回ったのかは定かではない。 それを語るのが、先の事件を担当していたはずの女司書ではない事に戸惑いを覚えるロストナンバーへ、リベルは忙しそうだからね、と猫は鼻先に皺を寄せて応える。「リージャン街区の果て、“二里の祠”へ向かってくれ。『導きの書』によれば、きみたちが何もしなくともヘイイェの方から姿を見せるだろう」 リージャン街区の奥、廃屋街を抜けた向こう。 開拓の手も伸びず、霊力の行き交う事もないその地域には、インヤンガイにしては珍しく無骨な岩壁が聳え、中央には巨大な洞穴が口を開いている。闇に覆われた終わりなきその虚(うろ)を、リージャンの先人達は“二里の祠”と呼び、異界――彼岸との境と崇めた。その、奥深くで。「待っているんだよ、“彼”は」 彼岸に還る事さえ叶わず、ただ現世との境を彷徨うだけの暴霊。神の役割を担った哀れな鬼。 光さえも届かぬ暗闇の洞の奥深くで、彷徨える鬼神は、ロストナンバーの訪れを待ち侘びているのだと言う。「行って、討伐――というよりは、その魂を鎮めてきてくれ」 瞳を警戒に細めて、瞬間怠惰な猫は獰猛な虎の表情を見せる。「やる事は討伐と変わりないんだけれどね。今回は暴霊自身が、消滅を望んでいる。その手伝いをしてほしいんだ」 鬼神の異変を知り、リージャンの巡節祭は長らく延期とされているが、暦の上では彼らが向かうその日が、季節の変わり目――剣戟が行われるはずだった日、らしい。 今回の件が上手くいけば、彼の地に晴れて新しい年をもたらす事ができるだろう。「鬼神は待っている。きみたちと剣を、武器を交わす時を。……祠の奥で、『剣戟』を行うつもりでいるんじゃないかな、彼は」 リージャン街区の儀式、『剣戟』の流れは至ってシンプルだ。 現世に降り立った鬼神と、四色の舞手が剣を交え、斃して幽世へと送り返す。剣を用いて戦いを模した舞を奉納することから『剣戟』と称されるが、今回は剣を用いる必要はない。「それだけだ。……ほら、簡単だろう?」 からかうようにそう呟いた虎猫へ、ロストナンバーの一人が手を挙げてひとつ質問を投げた。「ああ、鬼神の宿主……ユー・イェン探偵の事かい? どうやら彼は、肉体から追い出され、魂だけの姿で祠内を彷徨っているみたいだね」 黄金の瞳を瞬かせて、巨猫は四人のロストナンバーをそれぞれ見据えた。「魂だけの姿では、霊力に曝されいずれ暴霊となってしまうだろう。彼については、ほぼ死者に近いと言っていい。それでも助けるか否かはきみたち次第だ。……何しろ祠の中は、特別な瞳を持ったツーリストであっても見渡す事ができないほど暗いんだから」 世界司書の持つ『導きの書』を以ってしても、何一つ見通せないほどに。 何かに塞がれているかのように、闇は濃く、霧の如くに深く立ち込めている。 灯りの類――フォックスフォームセクタンの狐火も含む――は持ち込む事は出来るようだが、闇の奥に光を持ち込む事で何が起こるかは保障出来ない、と告げて、「……どうやら今回は結構シビアな依頼のようだ」 しばしの沈黙ののち、怠惰だが真摯な虎猫は四人を見比べた。「けれど、きみたちならうまくやってくれる。そう信じているよ」 + + + ひらり。 響くのは、弱い弱い風を打つ音だけ。 己は何故此処に居るのか、最早それさえも判らない。己は何処へ向かおうとしているのか、それさえも。深い闇の中を、ただ彷徨わなければならないのだろうか。 この魂が在るべき器にはもう還れない。それは罪と死に溢れ、ただ彼岸だけを見据える異形の闇に塗り潰されてしまったから。(知らなかった) その独白を、聴くものは居ない。 その懺悔を、赦すものも居ない。 それでも彼は許しを乞い続ける。(知らなかったんだ、何もかも) 何故、――なぜ、無自覚の罪をも、背負わなければならないのか。 理不尽に身を震わせる。羽撃きの音が響き渡り、ざわめく闇が、それに応えて一層強く蠢いた。 彼の小さな足掻きを嘲笑うかのように、響く音は闇に反響し、木霊し、大きくなっていく。(なァ、オレはどうすればいい――?) 弱き者の魂は飛ぶ。 全てを覆う黒の向こう側に、助けを求めて。
闇の向こう側へ手を伸ばし、トリガーを引く。 高く耳障りとすら呼べる音が、幾つも跳ねて響いた後、 「へぇ……なるほど」 残る余韻に耳を傾けて、ファルファレロ・ロッソは眼を細めた。 音の返り方から洞の構造を察して、仕立ての良い革靴を響かせて一歩、奥へと踏み込む。 二里の祠。 光さえも拒絶すると言う、闇だけが充ちる場所。彼岸へと続くと言われる路。 その先に、彼らが捜す者がいる。 彼らとの邂逅を待ち侘びる者がいる。 ならば誘き寄せてやろう、と、ファルファレロは唇を曲げて笑う。 「バンビーナ。火を、」 「やめた方がいい」 主の声を受けた小狐型のセクタンが動きだそうとするのを、冷静だが強い声が押し留めた。清廉な風に似て、凛とした女の声――篠宮 紗弓のものだ。 「んだよ」 「灯緒さんが言っていただろう? 灯りをつけて何が起こるか保証はしない、って」 不機嫌に片眉を跳ね上げて問いかけるファルファレロへ、やはり慎重な声音で紗弓はそう答える。 「だから今からそれを試してみるんじゃねぇか」 「危険な轍は踏むべきじゃないと思うよ。……それに、ほら」 ――しゃァん。 紗弓の声に応じるかのように、暗闇の遙か深くから幽かな音色が響く。柏木に括り付けられた幾つもの鈴が鳴り渡る様に似た、軽やかにして美しい、しろがねの音だ。 「私達が何もしなくても、彼の方から来てくれる。……そうも言っていたよね?」 冷厳なる黒き冬の跫が、四人の旅人へと迫り来る。 鈴鳴の音が、間隔をあけて暗闇に響き渡る。反響し、あちらこちらから耳に届くその音は、しかし確かに源を持っているはずだ。 (成程、判り易い) 然して神経を研ぎ澄まさずとも、どの方向に居るかは掴む事ができる。鈍色の瞳を細めて、雀は愛刀の柄に手を伸ばした。 (――だが、あの男は) 瞳を開いていても流れ込む闇を見据えながら、雀の心はいつかの光景を眺めていた。無数の鋼の音を鳴り響かせる、盲目の双剣使い。手違いで鉢合わせとなったコロッセオで、視覚と言うハンデを負いながら彼の剣士は雀とまったく互角の戦いを見せた。気配を消し、音を立てずに駆け回る雀の動きを的確に読み取って。 開いたままの瞳を閉じる。その先にも、また、闇。 (見えぬまま戦うとは、如何な苦労を伴うか) それを、“見”極めたい。 鈴鳴の跫が響く。彼の剣士の鋼よりも高く、華奢な音色が。 指差そうとして、止めた。この暗闇の中、手振りでは仲間に伝える事が出来ない。口を開く。錆割れた声を、放つ。 「――右だ」 ぽつり、と聞き覚えのない声がした。 不機嫌そうながらもよく喋るファルファレロと、凛とした女性である紗弓、どちらの声でもない。消去法で残り一人、忍めいた出で立ちの寡黙な男のものであろうと察し、イテュセイは朗らかな声で応えた。 「おっけ! 任せて」 パスホルダーからトラベルギアを取り出す。小さなオルゴールの蓋を開いて、雀の示した方向へ向けてそれを設置した。 「さ、鬼さんこーちらっ!」 可愛らしい音色が暗闇に満ちて、鈴の音がそれに彩りを加える。 ふわり、ふわり、と軽やかな空気の流れを感じ取る。 微弱だが風は彼女の背中から流れてきている。これなら期待した方向へ向かってくれるだろうと笑って、鈴の音が近付いて来るのを待った。 予感。 そして、轟音。 「近づけるもんなら近づいてみんしゃい!」 接触爆発型の無差別攻撃。オルゴールから際限なく生まれ、ふわふわと降り注ぐ綿毛は触れた者を巻きこんで爆発すると言う、他人にとっても本人にとっても危険極まりないギアだ。 止め処なく鳴り響く爆発音。鬼神の反応は判らない。そもそも当たっているのかさえも――イテュセイには、確かに当たっていると言う自信はあるのだが。 「……これはまた、凄いトラベルギアだね」 「ふふーん。もっと褒めて!」 呆気に取られたような、紗弓の言葉が背後から聞こえる。それに胸を張って答えれば、また感嘆するような呼気が聴こえた。 「ところで、あれ、どうやって閉じるんだい?」 「……気合いで?」 あ、と言葉を零し、首を傾げる。盛大な嘆息が、イテュセイの背後から零れた。 濃密な闇の向こう側で、気配が躍る。 立ち上がり、歩き始める、鈴鳴の音。 『待っていたぞ』 降る綿毛、装束の裾か、肩か、髪か、身体の一部に触れては爆ぜるそれを意にも介さず、悠々と歩き来る気配がする。芳醇にして、冷徹な、人の形に凝縮された闇の気配が。 「って、アレ、効いてない……?」 「……みたいだね」 風を掌握して大体の位置関係を把握した紗弓は、鬼神が歩み寄る方向へ身体を傾けた。愛刀を覆う袋を外して、その柄に手を掛ける。 砂を踏む音。彼女以外の旅人達もまた、それぞれに己の武器を構える気配。 『始めよう。――否、終わらせてくれ。異邦の剣士達よ』 懇願にも似た声が落ちて、風を裂いた異形の闇が、四人へと迫る。 降る、刃。 「――そこか」 ぎぃん! 金属同士のぶつかり合う、耳障りな音が黒き虚を揺るがす。苛烈な一太刀を交差させた二銃の合間で受け止め、己の貌のすぐ傍に冷たい刃の気配を感じ取ってファルファレロは笑う。 『見事』 降り懸かる感嘆の言葉は、愉悦に満ちていた。 ただ戦いにのみ己を見出し、魂の望むままに武器を揮う鬼神。 よく似ている、と思う。二丁の拳銃とともに生きる、ファルファレロ自身と。 「こちとら昔に箍が外れてそれから箍が外れっぱなしだ。てめェと一緒、思う存分楽しく暴れて逝けるなら痛快だ!」 哄笑が暗闇の洞を覆い尽くす。後を追うように銃声が響き、しかしそれらは岩肌に突き刺さる硬い音に変わる。当たっていない、と音だけでそれを判断して舌打ちをひとつ、しかし引き金にかけた指の力は抜かない。 『然り!』 振り抜かれた太刀が風を起こし、スーツの裾を掠める。 『存分にその力を示すが良い、異邦の剣士よ!』 摺鉦の声は、次いで響いた銃声と鮮やかな調和を描いた。 銃を構えるファルファレロの隣を駆け抜けて、紗弓が鬼神の懐へと飛び込む。身を捻り、手にした刀を抜けば、無造作にそれを受け止められる。一瞬の拮抗に、鬼神が持つもう片方の剣が追随するのを許さず身を屈め、伸ばした片脚で薙ぎ払う。剣撃の重さから想像もつかぬ跳躍力で以ってそれは躱され、落ちるに任せて降る刃を身を転がす事で避けた。 また一合、剣と刀とが噛み合う。鋼と摺鉦の鳴く声がする。 『何故、汝は戦う? 剣を抜く?』 剣戟の合間に、屈託の無い、無垢とさえ取れる問い掛けが降る。 構えを逸らす事で圧し合う力を流して、紗弓はするりと相対する異形の闇から身を離した。 「この戦いに関して言うなら……貴方が満足できるように、私も全力で相手をさせてもらうだけだよ」 視界の利かぬ闇の先で、男が頷く気配がする。 鬼神が望むのは、伝説通りの剣戟だ。 ならば、刃には刃で応えよう。 得意とする魔術も、使い魔も、そのほとんどを己が内側に封じて、ただ己を主と認めた誇り高き刀だけを手に、紗弓は足を踏み出した。 滑り、翻り、舞うように刀を繰る。 “嵐姫”の名に相応しき、優美な動きを伴って。 鈴の鳴る。右。 近い、と判断したときには既に、雀の躯は左側へと滑っていた。寸前まで彼の居た場所を、鋭い二剣がなぞっていく気配がする。 『面妖な技を使う』 「……」 感嘆の響きが摺鉦の音となってこぼれ、それにも無言を返して雀は身を翻した。鞘を持つ手から、手へと。身体一つ分の距離を瞬間的に転移させて、刀を抜き放つ。 またしても、鈴の鳴る音。これを追って行けば、鬼神の挙動は掴める。そう判断して、雀は閉ざしていた瞼を持ち上げた。迫り来る気配。 鬼神が振るう、右手の太刀が、笠を捉える。 軽い。尋常ならぬ感覚がそれを悟って、すぐさまヘイイェは左手の太刀を横薙ぎに揮った。 案の定、容易く切り裂かれた笠の下に人影はない。 視界の端に映る、青い男の姿がぶれる。身体一つ分の転移で刀の射程から逃れ、雀は攻撃の機会を逸した事をも気にせぬ素振りで低く腰を落とした。 鈍色の瞳が、射竦めるような煌めきを伴って仮面の鬼を打ち据える。 『視えているのか。……否』 己で問うて、己で首を振る。五色の彩にいろどられているはずの髪が散ったか、そよぐ風が雀の頬を打つ。視えずとも、視線は外さない。 視線ひとつで競り勝つ事もあるのだと、雀は知っているから。 『ならば――汝にも問おう、戦う意義を』 真摯な問い掛けに、雀は銀の瞳を丸めて暫し思案に暮れた。この想いをどう語るべきか――問われたとて、説明の言葉など持たぬ。口許に巻いた布は言葉を捨てる意志の顕れだ。 熟考の末に、小柄な剣客は一歩、闇の深くへと踏み込んだ。迫り来る鈴の音を頼りに、鬼神の懐へと。 言葉がなければ、行動で示せば良い。 太刀の間合いに囚われる一歩手前、己から踏み込んで、押しつけるように刀を抜く。 振り抜いた刃は咄嗟に刃を以て受け止められ、地を蹴って背後へと飛び退る。刀が傷付く真似はしたくない。 (紅葛) もう、どれほどの時をこの刀と共に生き続けているか、雀にも判らない。鋭利であった刃は鈍り、しかしその美しさは今も尚彼を惹き付け続ける。 『……成程、その刀の為か』 対峙する相手の笑い声が聴こえる。腰を低く落とし、刀の柄を強く握り締めて、次の動きを待った。 視えずとも、己が刃が確かにその存在を訴える。 ならば、雀のするべきことなど決まっている。 (斬る) 己を惹き付けてやまないただひとつが、求めるままに。 地を蹴って跳べば、大地に亀裂が走る音がする。 空を掴んで渡れば、風が切り裂かれる音がする。 人の身で、人を超えた力を持った鬼神の剣閃に、しかし旅人達もまた鮮やかな動きで追従した。 早く鋭い、刃のように研ぎ澄まされた身のこなしで駆ける雀。 優雅で典麗な、まさに剣舞と呼ぶべき美しい動きで舞う紗弓。 弾道から解き放たれた弾丸の如き、予測のつかない動きで剣士二人を遠くから援護するのはファルファレロだ。 空を切って真っ直ぐに飛んで来る弾丸。敢えてそれを皮一枚掠める場所を駆けて、鬼神は跳んだ。双剣を十字に構え、落ちる勢いのままに対峙する剣士を狙う。 「隙ありぃっ!」 だが、真横から飛び込んできた乱入者に、それは阻まれた。得物を振り抜く気配。身を捩り、躱す。 しかし、不意をついた一撃は確かに、イテュセイに手応えを与えた。 「当たった!?」 「いや、掠っただけみたい」 視力の代わりに風を読み動向を把握する紗弓が応える。 「……だけど、何かがおかしい」 ――捉えたわけではないと判るのに、何故か鬼神の動きが鈍い。 たたらを踏み、雀の抜刀を左肩に受ける。続けて撃ち込まれたファルファレロの弾丸に脚を抉られて、岩壁に身を凭れ掛けさせて支えとする。太刀捌きの鮮やかな鬼神とは思えぬ無様さだ。 流石に奇妙すぎる、と紗弓は右後方に居るはずの少女へと問いかける。 「イテュセイちゃん、今使ったそれは何?」 「虫取り網! 秘伝の呪符で編み込みましたー秘伝って言うか祠の入り口に落ちてたアレだけど」 能天気な少女の語るアレ、の指し示すものが何であるか、紗弓はすぐに悟る。 鬼神を現世へと出さぬ為、洞の入り口に張り巡らされていた縛符。先の事件で切り裂かれたはずのそれを、イテュセイは目ざとくも拾い集めて虫取り網に張り付けたのだと言う。 呪や術の仕組みを知らぬ者は、時に突拍子もない事を仕出かす。 今回はそれが功を奏したようだ、と、紗弓は呆れ混じりの笑みを浮かべた。 動きの鈍くなった男を嘲るように、ファルファレロは短く鼻を鳴らした。張り合いがない、と独りごちる。 『ファウスト』の引き金を引くと同時に、喉を震わせた。 「バンビーナ、火を燈せ!」 「――ッ、ファルファレロさん!」 今度は、紗弓の制止も間に合わなかった。 焔纏う小狐は従順に、主の言葉を遂行する。肩から滑り落ち、岩肌に飛び乗って、己が前に鮮やかな色の炎を咲かせる。 鮮烈に揺らぐ光が、慈悲深き暗闇を切り裂いた。 だが、旅人達の視界は決して晴れたとは言えない。 光に覆われた洞のあちらこちらに、影が舞う。 空中を浮かぶ塵にも似て、しかしそれよりもずっと大きいそれは、彼らの眼に届くはずの光の大部分を遮った。 自由にならぬ視界のそこかしこでちらちらと瞬くそれは、昆虫の翅に似ているだろうか。ならば、これは――。 「……蝶?」 「いや……」 ひらり舞う羽が、燈り続ける輝きにその身を震わせる。視界を埋める無数の黒が、一斉に撓んだ。 それは予兆。世界司書の予言を、咄嗟に紗弓はその脳裏に浮かべた。 漆黒の蝶の群れが、揺らぎ、羽撃き、翻り、そして―― 「――バンビーナ!?」 光の源へと、殺到する。 二里の祠を覆う宵闇は、その全てが無数の蝶であったとでも言うのか。 群がる蝶を振り払うように子狐が身を震わせるのが視え、しかしそれも、すぐにまた新たな蝶に隠されてしまう。まるで死骸に集う蛾のようだ。 「目が視えなかったワケってこれ!? ちょ、気持ち悪いいいいい!」 片手でモノアイを庇い、がむしゃらに虫取り網を振り回しながらイテュセイが叫ぶ。過去の事件に関する記録に何度も出てきた『蝶』の暗示を不思議に思い、持ってきただけだったが、まさかこんな形で役に立つとは思わなかった――この大軍勢の前に、役に立っているとも思えないが。 「っていうかさっきまであたしたちこの群れん中で戦ってたってコト!? ヂョーダン!」 「多分、そうじゃないと思うよ」 騒がしい少女に冷静に言葉を返して、紗弓は短い詠唱で風を呼んだ。四人を包むようにして、実体持たぬ蝶を阻む壁が張られる。 「彼らは、元はひとつの“闇”だったんだ。それが、光を浴びて無数の蝶の形に分裂しただけなんだろうね」 彼らはただ単に、光を捕食せんと蠢いている。恐るべき現世の光を駆逐し、在るべき場所に還ろうとしているだけなのだ。 洪水の如くに空間を蹂躙する蝶を視界に留め、紗弓はそれらが向かう先、小狐の灯した焔に目を遣る。 群がる蝶達は、しかし焔の光に触れた傍から焼け落ちてゆく。 「……なるほど。光を嫌う性質のために、焔には弱い、か」 ならば、この状況を打破する術はただ一つだ。 「往こう、朱姫」 手の中の刃の、名前を呼ぶ。柄を握る手を返せば、じゃぎり、と応えるように鍔が鳴った。 朱姫を揮い、焔を呼ぶ。また、幾つもの蝶が燃えて落ちてゆく。 その様子を眺めていたファルファレロもまた、白銀の拳銃――ファウストを群がる闇へと向けた。 「火炎地獄(インフェルノ)!」 朱姫の優美な焔とファウストの苛烈な炎、そしてセクタンの狐火とが群れる闇を切り裂き砕いて灼き祓う。鮮やかな光に焦がされる度、蝶は恐慌に群れるその身体を震わせ、混乱に数多の身を捩らせた。 無数の翅が渦を巻いて飛び交う。その奥に、違う色彩が踊る。 ひらり。 群がる黒の奥で、ただ一瞬煌めいた青。 雀の鈍色の瞳が、笠の下からそれを認めた。 それが何であるかと判断する前に、駆け出す。実体持たぬ蝶の中を突っ切って、放たれた矢よりも愚直に、垣間見えた色彩へと。まっすぐに手を伸ばす。掴む。 瞬間、驚きに目を見張る。 掴めた。 闇の蝶と同じく、触れる事は出来ないものと思って強く握ってしまったようだ。青い燐光が何かを訴えるように強く震える。どうしたものかと戸惑い、視線を仲間達へと彷徨わせる。翅を捕まえて飛び立てぬようにし、その姿を示す。 誰かが、雀の掴んだ蝶の名を呼んだ。 「イェン」 鬼神の器から彷徨い出た、ひとひらの青い蝶。 四人の旅人は、その名を知っている。 本来の器から追い出され、彼岸への路を彷徨う生きた人間の魂。己の知らぬ所で負うた罪の責に耐え切れず、逃げ出した弱き人間の心。雀が指を緩めれば、するりと抜けだしたそれはまた闇の向こうへと飛び去ろうとした。 「逃がすか!」 やけに雄々しい叫びと共に、イテュセイが虫取り網で以ってその翼を捕まえる。実態を持った蝶は網から逃れることもできず、一度二度もがいた後に大人しくなった。 『勝負を投げ出すか』 四人の意識を青き蝶へと取られ、不服そうな口振りで黒夜の鬼神が言う。薄れた闇の向こうに五色の羅紗が翻り、二剣を手にした鬼面の男が飛び込んでくるのが目に映る。 「こちとらこいつに用があるんだ、てめぇはソコで大人しくしてろ!」 吐き棄てた言葉と共に、拳銃を闇に融ける装束の男へと向けた。 優美な白銀の銃口に、光が集う。闇の中を滑った光が五芒星を象って、ファルファレロはその中央を撃ち抜いた。 轟音。 凍て付く弾丸が魔法陣を貫いて、真っ直ぐに鬼神の脛へと飛び込む。 穿たれた右脚を巻きこんで創り出された氷が、岩壁に突き刺さる。 「凍結地獄(コキュートス)」 弾丸の名を口にしながらも、ファルファレロの口許はいびつに軋んでいた。 地獄の底、第九圏に広がる裏切り者の檻。 旧き詩人が編んだ、三つの界を巡る詩。 それは、彼の負う最大の罪を想起させる。厭うてはいるが、彼が“ファルファレロ”である限り切り離せぬものだ。 「……さて、イェン」 鬼神の動きは封じた。これでようやく落ち着いて言葉を交わせる、と、宵闇の蝶の数も減り或る程度光の通用するようになった祠の中で、ファルファレロはイェンの魂に目を向けた。彼の纏う弱弱しい輝きを不快に思い、眉を顰める。 「ねえ、インヤンガイは好き?」 唐突に、モノアイを悪戯に輝かせた少女がそう問いかけた。虫取り網の中で大人しく思案していた蝶は弾かれたようにふわりと浮きあがり、呪縛符に触れてまた叩き落とされる。それを首を傾げて眺め、微笑ましく唇を綻ばせて、イテュセイは重ねて問いかける。 「現世でやり残したことはある? ない?」 宵闇の蝶が舞う中で煌めく紫の瞳は、ただ無垢に、青き魂の迷いだけを写し取る。 「どうせこのまま暴霊になるくらいなら、輪廻転生してみたら?」 あたしみたいに、と胸を張る少女の、大きく澄み切った虹彩に映り込む己を見て、揺らぐ蝶は何を思うのか。 「こんな負の伝統は要らないよ。人は、きみは、自分の人生を生きるべき」 「……盗むも殺すもてめェの罪だが、生まれた事が罪だの何だの屁理屈は虫唾が走る」 イテュセイの言葉に被せるようにして、ファルファレロが剣呑な目で言葉を繋げた。 無自覚の罪を、負わねばならない運命。 吐き気がする。秀麗な顔を歪め、特に意味もなく拳銃を弄ぶ。儚く揺らぐ青い光に、過去の自分を垣間見て。 死んだ目をした人間は嫌いだ。どうしても、思い出してしまうから。 「夢だと思ってんだろ? なら夢のせいにしちまえ」 《……それは、》 唾棄の如くに吐きかけられる言葉に戸惑い、青き蝶はそこで初めて言葉を発した。闇を揺らし、鈴鳴とも取れぬ甲高い音が彼らの耳を震わせる。 「それができねーんなら、許して貰えるまで足掻き抜け」 現世から逃げだした青い蝶は、このまま消滅を望んでいるのだろう。だからこそ、ファルファレロはこうして苛烈な言葉を浴びせ続ける。 誰かが望むとおりの自殺幇助など、二度と御免だ。 「悔やんでんなら生きて贖え」 第五圏の地獄にて贖い続ける殺人者の言葉は、至極単純にして、揺るぎない。 「アンガイ優しいんだね、おにーさん」 「そいつの望み通りにしてやるのは癪だからな」 からかいを含んだ少女の賛辞に不敵な笑みで応えて、ファルファレロは白銀の拳銃を未だ氷に囚われたままの鬼へと向けた。第九圏の氷に囚われた男は、ただ静かに成り行きを見守っている。 五芒星の魔法陣が空に浮き上がり、その中央を潜って放たれた弾丸が鮮やかな紅蓮の焔を纏う。 「インフェルノ」 地獄の名を持つ炎弾は、闇の中でも狙い違わず鬼神の漆黒を貫いて苛烈に燃え上がる。 短い悲鳴が、弾ける炎の音の中に呑まれていく。鬼神の肌膚を掠めた焔は、彼を捕える冷徹なる氷の檻をも見る見る内に溶かしていった。 「こっからは好きにするんだな!」 銀縁の眼鏡を燃える焔に煌めかせて、振り向き様男が放った言葉に紗弓は頷きを返す。 闇を焦がす焔が収まる前に走り寄って、愛刀の鞘を払う。 焔の中から現れ出でる身体。 氷の束縛から解き放たれ、前へと倒れんとするそれへ、抜き身の刃を振り抜いた。 刃がその首に触れる寸前、手首で以って刀身を裏返す。 ――しゃァん! 鈴鳴の音が響く。 『朱姫』の峰に打ち据えられた男の肉体が、仄かな燐光を纏う。淡く青く色付いた白い光は、夜空に煌めく星々の儚さによく似て、傾ぐ男の身体から人の形を伴って乖離する。 鬼神の魂は引き剥がした。闇の中で視線を滑らせ、ゆらゆらと揺らぐ青い蝶を探し、そして、声をかける。 「許されたいと、そう願うなら」 穏やかな容貌の中で、銀の瞳が鋭い刃の色に閃いた。 「生きて生きて、罪を償うべきだよ」 殺害か、無知か、怠慢か。それがどのような罪であれ、逃げる事は好ましくない。 生きたいと願うのであれば、己の罪をしかと見詰めよ。 《……ああ》 しゃァん、と小さく鈴が鳴る。 鬼神の跫に比べればずっと小さく、群れる闇の奥に儚く消えてしまいそうな響き。だが、それは確かに彼らの耳に届いた。 《生きたい》 幽かで、強い意志を孕んだ、希求の言葉が。 鼓膜に響く確かな声に、紗弓は思わず微笑みを返し、そして、叫んだ。 「今だ!」 凛とした声が暗闇を撃つ。 その言葉にいち早く反応したのは、雀だった。 《――!?》 煌めく青の羽を掴み取り、拳を大きく振り抜く。掴んだ掌から戸惑いが伝わるが、気にも留めず、それを空の器となった肉体へ叩きつけた。強い力に、前へと傾いでいた身体が揺らぐ。 じゃァん! 大鐘の音が空を穿つ、その隙間に、混乱の最中で青い蝶の魂は声を聞いた。 「…………『殺された者』は、夢にはならない」 錆ついた刃に似て、鼓膜に長く残る、鈍色の声だった。 蝶の形を取っていた魂が融け、本来の器へと沁み込んでゆく。肉体に鮮やかな青の燐光が満ちて、それは一瞬の閃きと共に収まった。 だが、身体を喪い、力を喪っても尚、哀れな鬼神は闇の中で蠢いている。仄かな光を手放せないまま。 「……まだ、向こうには渡れない?」 虚空を見上げ、青き異形を逃さぬようにモノアイを向け続けるイテュセイが首を傾げれば、幽かに光る青がゆらりと、頷くように蠢いた。 「そっか……鬼を封じる方法を再現しない限り、終わらないってコトかな」 「道理だね」 鬼神がそう望む限り、この戦いは『剣戟』で、儀式であるはずだ。ならば、その形式を踏襲しなければ終わらない。 ひとつ頷いて、紗弓は昨年行われた『剣戟』を思い返す。 青き春の剣士に討ち取られ、彼岸へと還る冬の鬼神。 ――あの時、彼を導いた黄金の剣士は何と言っていただろうか? 弾かれたように、顔をあげる。 答えなど、疾うに出ていたのだ。 「行くよ」 唇に柔らかな弧を描き、『朱姫』の刃を水平に、己の肩の前で構える。片脚を退き、切先を仄かに光る闇へと向けて、紗弓は応(いら)えを待った。 『いつでも』 微笑んで、瞳を閉じる。 輪郭さえも確りと保つ事の出来ない光が、そう動いたように、紗弓には見えた。 片脚を滑らせて、哀れな鬼神の成れの果てへと迫る。 振り翳した刃を、まっすぐに、落とした。 差し出された、その首へ目掛けて。 青き春の、華やかなる樹木の剣閃を受けて、鬼神の首は落ちる。 彼岸から蘇った魂は彼岸へと還り、冬が終わって、春が訪れる。 季節は巡る。ただ、それだけのことだ。 青い燐光が、闇を薄めるようにして散って行く。 「これで満足かい、ヘイイェ」 紗弓は虚空へと問いかけた。最早魂としての形も留めぬ哀れな鬼神は、しかしこの洞の全てに坐している。 夜闇を模した黒の全てから、摺鉦の声が降り注ぐ。 『噫。迷惑をかけたな』 「気にしていないよ。慣れてるからね」 その意志とは関係なく、神として崇め奉られた哀れな祖霊。 苦悩、悲嘆、絶望の果てに、己だけでは迎えられぬ“終焉”を望んで暴れ回る姿。 故郷で、篠宮の一員として幾度も対峙してきた様々な“魔”の在り方を思い描いて、紗弓は口許を綻ばせた。 「……あなたは、紛れもない『神』だったよ」 微笑む紗弓の携える、焔を操る気高き太刀に視線を添わせ、雀はひとつ首を傾げた。己の持つ刀と、似ているようで全く違う妖気。それもまた興味深いと、目を細める雀の頭上――笠を外したその頭頂に、冷たい洞の鍾乳から零れた雫が一滴落ちた。 「!?」 驚きに身を竦ませる雀の姿は、先程まで鬼気迫る表情で刃を揮っていた男とは似ても似つかない。 主の視線を奪った刀ではなく、主そのものに嫉妬の矛先を向ける幼き妖刀も、また。 宵闇を覆う蝶の数も落ち着いた。既に、その眼で岩肌の色彩さえも捉えられるほどの薄闇ばかりが洞に満ちているのみ。 「もう、行っちゃうの?」 何処を見上げるべきかわからずに、イテュセイのモノアイが宙を彷徨う。か細い不安を交えた問いに返る、鈴鳴の応(いら)えに、安堵したように笑って、少女はその瞳を柔らかく緩めた。 「きみはさ」 『?』 「ずっと、殺されるために戦い続けてるんだね。現世の人達のために」 はらり、と、透いた雫がその大きな瞳から零れ落ちる。 「可哀想な生き方……」 涙を拭う事もせず、イテュセイは充ちる宵闇の向こうに目を凝らした。哀れな鬼の姿を探すように、まっすぐに視線を送る。 やがて、少女の言葉に応えるかのような、声が降る。 『これこそが我の定めだ。憐れみは不要』 摺鉦の笑い声が落ちて、だが、と言葉が続いた。 『その涙に、感謝する。情深き乙女よ』 宵闇に朗らかな笑みの色が滲み、冷厳なる鈴の音が静寂に融けて、そして、消えて行く。 『彼岸の路は開かれた。全ての魂を引き受けて、私は行こう』 きしり。 「……う、」 軋むような音を立てて、雀の足元で倒れていた男――ユー・イェンが小さく呻き、その身を擡げた。茫洋とした眼で周囲を見渡し、闇を見上げて、ようやく合点が言ったかのように、僅か笑う。 その瞳に宿る、確かな意志と決意の光。 ファルファレロは唇を緩め、ふらつきながらも己の足で立った探偵を認めて、身を翻して革靴を地面に叩きつける。 それを追うように旅人達は踵を返し、薄闇の向こう側に広がる春の街へと、歩を向けた。 風が吹く。 遥か祠の入り口から、柔らかな季節がやってくる。
このライターへメールを送る