走り続けるうち、風が冷え始めた。人の息吹とは無縁の、無機な冷たさだ。それでようやく、山の奥深くまで入り込んでいたことに気付いた。 「………………」 腰の刀の感触を確かめ、雀は足を緩めた。腿に負った傷がじくじくと痛む。背の高い藪がざわざわと鳴っている。なぜこんな場所まで来てしまったのだろう。追われていたのか。あるいは、追っていたのか。いつから? 「………………」 かぶり笠の下の額に汗が滲む。藪の暗がりが生き物のようにうねって見える。風のせいなのだろうかと思った時、湿気のにおいが漂ってきた。水だ。 唐突に渇きが衝き上げた。藪を掻き分け、獣道を辿る。濃厚な苔の香りが手招きしている。引き寄せられるように足を速め、辿り着いたのは奇妙な泉だった。 幽玄な、とでも言えば良いのだろうか。妖しい、しかし美しい陰影が横たわっている。深く鮮やかな苔に覆われた岸と、薄闇の投網がかけられたかのようにほの暗い水面。絶対的な静寂の中、雀は口元を覆う布をむしり取った。岸に膝をついて水を貪る。視界がかすむ。疲労のせいなのか。 ぱしゃん、という水音が静寂を打つ。目を上げると、鮮やかな鯉がゆったりと泳いでくるところだった。 「………………?」 なぜこの山奥にこんな魚が。そう思う間もなく雀は昏倒した。 鯉の口は大きく、下向きに付いている。 臆病な彼らは荒々しい狩りには向かない。餌を吸うように、石の苔を削ぎ取るようにして食べる。安全を確かめながら、少しずつ、少しずつ喰らうのだそうだ。 ――抜け。 ぼうやりと声が響いてくる。雀はいつしか和式庭園に立っていた。 反射的に腰に手をやる。どうしてそうしたのか分からない。しかし指先は空を彷徨い、得体の知れぬ焦燥に襲われた。何かが足りぬ。探さねばならぬ。何を? ぱしゃん。水音が思考をひきちぎる。 傍らの池で錦鯉が悠然と泳いでいる。色といい体躯といい、見事としかいいようがない。庭園もまたこの世のものとは思えぬほどに見事であった。池に繋がる疏水、敷き詰められた玉砂利、山の連なりを模して配された庭石。手入れの行き届いた濃緑の庭木たちはざわざわと風に騒いでいる。 笠をかぶり直そうとして、またしても手が空を掻いた。笠がない。口を覆う布もなければ腿に負った傷も消えている。おまけに、纏う着物は見たことのない上質な物に変化していた。 ここはどこだ。自分は何をしている。 「傘に入れて下さいませぬか」 という声でまたしても思考は中断された。いつの間にか見知らぬ女が傍に立っていた。鮮やかな山吹色の打ち掛けと、濃く赤い紅の唇が雀の目を刺した。 「その傘に入れて下さいませぬか」 肉感に満ちた唇が同じ言葉を繰り返した。自分の手元を見、雀はわずかに目を大きくした。見覚えのない和傘が握られている。探していたのはこれだったのだろうか。 釈然とせぬまま傘を開いた途端、ぱたぱたと雨が落ちてくる。 「失礼いたします」 女がするりと傘の下に入る。きついジャコウと共に得体の知れぬ違和感が纏わりついた。しかし、濃密な香りに阻まれて雀の思考は進まない。 ――抜け。 ぱしゃん。鯉の尾びれが水を打ち、声なき声を掻き消した。 ちん、とん、しゃん……。庭園に面した屋敷で宴が始まる。 着飾った女たちがみやびに舞う。琴や笛が歌う。雀の前には真っ赤な毛氈が敷かれ、色とりどりの豪勢な膳が供されていた。ゆるゆると入り込む風が首筋の汗を気化させていく。 「この日のために用意させました。お召し上がりくださいな」 傍らには山吹色の女。無遠慮な、しかし蠱惑的な香りに雀はわずかに眉根を寄せる。膳の上にはいつの間にか尾頭付きの鯛が乗り、白く焼かれたまなこで雀を仰いでいた。 ちん、とん、しゃん……。絢爛な宴が続く。しかし雀は上の空だ。右手が、何かを探すように落ち着かなく彷徨っている。 「お箸をお取り換えになりますか」 肉厚の唇で女が言う。察したように。あるいは、遮るように。見れば雀の手には新しい箸が握られていた。 ――……け。 声なき呼び声が徐々に遠のき始めている。何に呼ばれているのか分からない。得体の知れぬ焦燥ばかりが黒雲のように膨れ上がっていく。 「お口に合いませぬか」 赤い唇。きついジャコウ。全てを振り払うように雀は席を立った。ぱん、と女がすかさず手を打つ。廊下に出た雀の後に、小姓がするりと付き従った。 「あるじが、厠の案内をいたせと」 と小姓は言う。雀は唐突に尿意を覚えた。 「どうぞ一献」 席に戻ると女が徳利を構えている。雀の右手にはいつの間にか杯がある。 「………………」 杯を乾しながら、右手の指がぴくりと動く。求める物はこれではない。促されるまま杯を重ねた。断ろうとしても、女が徳利を差し出すと右手が杯を突き出すのだった。 酔いが程良く回り始めた頃、女が再び手を打ち鳴らした。 「閨(ねや)の相手をお選びくださいませ」 襖がするりと開かれる。雀はぴくりと眉宇を動かした。 「どうぞお好きなものを」 結い髪の娘たちが三つ指をついていた。 娘を使って何かを仕掛けるつもりなのだろうかと勘繰らぬわけではなかった。しかし迂闊に抗えば事態が悪くなるやも知れぬ。娘らが懐に何かを呑んでいるけわいはなく、雀は適当な者を選んで床に入った。 指一本触れぬまま、娘が寝付くのを待って寝所を抜け出した。外は月夜だった。 ぱしゃん。鯉の尾びれが池を打つ。水面の月がちぎれ、溶け、ゆらゆらと揺れ動く。 「………………」 ジャコウの香りから解き放たれ、雀の意識は澄み始めていた。目を閉じ、聴覚に神経を集中させる。呼び声は聞こえぬ。そう思ったら、焼けるような焦燥が喉をせり上がった。嘔吐しそうになって、唇を引き結ぶ。 ――……け。 風鳴りにも似たわずかな声。雀は目を開く。声の出どころを手繰るように視線を移していく。 粘つくジャコウの香り。 「まあ。あの子たちったら、役に立ちませんでしたのね」 しゃなりしゃなりと女が現れた。打ち掛けは相変わらずの山吹色だ。蒼白な月明かりの下で、赤い唇は奇妙にぬめって見えた。 「夜通しあなたのお傍にいて気を引くようにと言い含めましたに」 なぜだと目で問う。女は厚い口を緩慢に歪めた。 「あれを忘れられるように……。だって、あのような禍々しき物は厭われるべきでしょう?」 ぱしゃん。鯉の尾びれが水面を震わせる。 「灯りに入れて下さいませぬか」 女が言う。雀は手ではなく夜空を見、煌々とした望月を顎でしゃくった。 「灯りなら空にある」 まともに喋るのはいつ以来であろう。女の唇が更に歪んだ。 「では、傘に入れて下さいませ」 「雨は降らない」 ごぼり。大きな気泡の音。鯉がおくびでもしたのだろうか。 ――抜け。 「では、屋敷にお戻りに……」 ――私を抜け! 雀の右手が腰元の虚空を掴む。鯉口を切る感触がある。掌に柄の冷たさが伝わる。迷わず抜刀し、袈裟掛けに振り下ろす。 きいいいいん……。空間ごと斬り落としたような心持ちがした。 「……な……ぜ……」 赤い唇から赤い血が吐き出された。生臭い泥のにおいがした。女は無傷の打ち掛けごと崩れ落ちる。空を握り締めたままの雀は息ひとつ乱さない。 ぱしゃん。鯉の尾びれが水を打つ。水鏡の月が、雀の視界が、ゆらゆらと揺れた。 目を開くと、むっ――と苔のにおいに襲われた。 澄んだ風がざわざわと鳴っている。骨までしみるような冷たさにぞわりと総毛立った。体が、水と苔に呑み込まれている。急速に記憶が戻ってくる。山。泉。しかし泉に入った覚えはない。泉が、拡大していた。 何かに吸いつかれている感触がある。水ではない。凝視した途端、泉は手負いの巨鯉へと変じた。雀の体は鯉の口に少しずつ吸われ、削ぎ取られようとしていたのだ。頭から血を流す鯉は目をぎょろりとさせておくびをした。ぶよぶよの唇から生臭い泥のにおいがした。 雀は身をよじり、強引に鯉を引き剥がした。鯉の口からぬるりと糸が引く。抜けと何かが急き立てる。鯉口を切り、巨鯉の大口へと刀を突き刺した。 全ての光景がほどけて溶ける。 「………………」 奇妙に荒れ、枯れかけた湧水ばかりが眼前にあった。鯉の姿はない。 腿に負った傷がじくじくと痛む。この傷はいつどこで負ったのだったか。そもそもなぜこの山に入り込んだのだったか。追われていたのか、追っていたのか。 「………………」 どれもこれもが瑣末なことだ。 腰の刀の感触を確かめ、雀はようやく眦を緩めた。刀のみが関心事であるかのごとき様だった。刀の銘は、紅葛という。 (了)
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