月の綺麗な夜。男は船の上で、深く息を吐きだした。「またか……」 先程まで一緒にいた女は別の男の所へ行ってしまった。 これで何連敗目やら。 こういう事には向いていないのかもしれない、と溜息を再び吐きだした。 と、そんな彼の耳に美しい歌声が届く。 かなしい、ないてるような、歌声。「……? 誰だ……?」 耳を澄ませば、それは船の中からではなく、海上から聞こえた。 目を凝らす。岩場? その縁に腰掛け、歌うのは美しい女性。 なんて綺麗で、なんて哀しい。 気づいたら彼は海に飛び込んでいて――。 月に見守られた夜。 海上に浮かぶのは、動きを止めた船。 ああ、そこにはもう誰もいない。 哀しく響くのは、死唄の乙女の歌声だけ。 ***「…………ブルーインブルーの、船の護衛をお願いしたい」 たっぷり10秒黙った後、彼の口から出たのは端的な依頼の概要だった。 右目だけを長めの前髪で隠した無表情な青年。 しかし手には『導きの書』。 無口な世界司書は、ぱらりとそれを開いてマイペースに話を続けた。「船は、客船。豪華とは言えないけど、小さくもない。30人くらい乗ってるかな……」 その中ではささやかにパーティが行われ、良い雰囲気になった男女が甲板で語らうこともあるという。 船長に話は通してあるし、いい人だから心配はいらないと続けた。「船はジャンクヘヴンを出港して、中規模な海上都市であるコーツへ到着する」 昼に出発して、次の日の朝には付く程度の距離である。「だけど、その途中で不幸に見舞われる」 船の通り道に、島とも言えない岩場があるらしい。「そこに女の姿の海魔が出現するんだ」 それは歌い、船に乗る人間を誘惑するセイレーン。「声を聞いた者は彼女に近づこうと海に飛び降りてしまう」 そうなれば、後は彼女に食われるだけ。「君たちならばそう簡単に魅了されたりはしないだろうけど、充分気をつけて欲しいかな……」 岩場そのものは十分な広さがある。そこで戦うことも可能だろう。「歌以外だと、金切り声でショックを与えてくるみたい。……結構痛いかな。多分」 後はひっかく程度だから、と続ける彼。「ああ……そうだ。どうでもいいけど、コーツは壱番世界で言う珊瑚のアクセサリーが有名な都市なんだよね」 無事に到着したら、少し見てくるくらいはいいんじゃないかな。 彼はもう一度、口癖の様にどうでもいいけど、と繰り返してから皆を見て言った。「じゃあ、お願いするよ。気をつけてね」 そう言って、彼は彼らを送り出すのだった。
月の綺麗な夜が来る。 それは哀しい唄の、響く夜。 ざわざわと騒がしいラウンジ。そう、ここは既に船舶内。 30人程の乗客達が着飾り、談笑する姿に混じり、ロストナンバー達の姿はあった。 「セイレーン、かぁ……」 煌びやかな人々から少し離れた場所でそれを眺めるコレットがぽつりと呟いた。 壱番世界にずっといたら、見る事の出来なかった空想の世界のそれ。 出来たら握手して貰いたいくらい、という程、出会える事は彼女にとって貴重で嬉しい事だった。 「でも、誰かを食べようとするなら、やっぱりなんとかしなくちゃね」 きゅ、と小さく手を握り、力を込める。 そんなコレットの横にいたアインスが、突然立ち上がり叫ぶ。 「カラクリは読めた!!!」 一瞬ざわりとした会場内に、アインスは少し声を潜めてその内容を力説する。 「つまりだ、犯人は此処の船長で、夜中に誘き寄せた客を海に突き落として殺害、それをセイレーンの所為にした彼は、まんまと乗客にかけていた保険金を……」 その後にもまだ台詞は続くのだが、仲間のやや冷めた視線に耐えかねてそれを笑い飛ばす。 「…………ふっ。今のがジョークだと見破れないとは、まだまだだな」 こめかみに流れた汗は見なかった事にするべきか逡巡して流すことにした。 そして話を戻して、セイレーンへの対策。 コレットと軽い挨拶を交わしていたアルドが一つ提案したのは、唄。 「僕の唄もセイレーンの唄と似たような効果があるから、それで対抗してみようと思うんだ」 アルドの唄も、誘う唄。楽しげな調子のそれであれば、何か効果があるかもしれないと。 良い考え、と同意したコレットも何か思いついたらしい。 金糸の髪を揺らして提案したのは、乗客達に早く客室へ戻って眠って貰う事。 「出来るだけお酒を沢山飲んで貰って、早く休んで貰うの」 そしたら今から給仕のお手伝いをして、沢山飲んで貰わなきゃね。 コレットが手伝いをすべく立ち上がると、アインスやアルドもそれに続き、手伝いを申し出た。 「海魔の出る海域で、よく宴などする気になるものだ」 脳天気といえば脳天気な彼らの人数を数えながらサーヴィランスはそう呟く。 しかし任務を全うすべくその下準備の為に、船員に声を掛けた。 空瓶が欲しい、と言えば彼は快く了承し、客が空けたであろう酒の瓶を必要なだけ提供してくれた。 ありがたくそれを頂戴したサーヴィランスは、それをマントに包み込んでから――がしゃん。 大きめの破片になったそれは、まるで手裏剣。即席の武器になった。 それを持って甲板へ。パーティの喧噪では海魔の気配は悟れない。 見える海は未だ平穏。まだ岩陰一つ、見えなかった。 *** 船舶内、通路。 船長室に頼み事ついでに挨拶を済ませたのは遊理。 流石に客を縛って回ることは断られたが、なるべく協力するという言葉は貰えた。 しかし、彼もただの船乗り。彼自身がセイレーンに惑わされる事もありえる。 やはり自分達でどうにかするしかない、か。 そこまで考え、更に遊理はセイレーンに想いを馳せる。 「……彼女らが唄うのは食の為だけ、なのかね?」 壱番世界の神話では、そう――、少し、異なる。 コツ、コツ、コツ、と自分の足音が響き、波の音がそれに添う。静かな夜だった。 そして甲板へさしかかると、その静寂を破る大きな声。 「すっげー! 海だ海だ!!!」 初めて見た海は広く、大きく、ツヴァイの心を魅了した。 そう、ここがまるで平穏で、事件とはまるで無縁な場所だと思えるくらいに。 「セイレーンの事件自体間違いだったんじゃねーの?」 あの司書のヤツ、なんかテキトーに仕事してそうだったしさ!と。 本人が聞いたらテキトーは間違ってないが、と変な肯定を返しそうな台詞である。 しかし嘘であろうとなかろうと船には乗っているし、コーツまでは行かねばならない。 どうせなら楽しめ、とばかりにツヴァイがダンスの相手を探していると、ラウンジからアインスがコレットを伴い甲板へ。 どうやらラウンジでの歓談が一段落し、甲板でのダンスタイムになったようだ。 ピアノ奏者の横ではアルドが待機している。どうやら唄うつもりらしい。 「姫君、一曲踊って頂けますか?」 こういった場は馴染んでしまうのが一番、とアインスがコレットに誘いを掛ける。 ツヴァイも負けじとフリーの女性客をダンスに誘い、一曲目がスタート。 それぞれが踊り出し、それぞれが海に気を配る。 海の状態は凪、しかし時折吹く風が不吉な空気を醸し出す。 *** 「討伐、なのだろう? なら、私達は馴れ合う必要がない」 今回の依頼の為に集まったメンバー。船に乗り込み、一度は全員で顔を合わせた。 その席で、最も初めに席を立ったのはハーデだった。 そしてハーデはそのまま、船に備え付けられていた救命ボートの中に身を潜める。 暫くそのままじっと動かず、精神を集中するかのように目を伏せていた。 ……どのくらいの時間が経っただろうか。外がやや賑やかになった。 もうそろそろ遭遇しても良さそうな時間に、ハーデは目を見開き、一振りのナイフを取り出す。 そしてそれを――、左の掌に突き刺した。 骨や腱を傷つけぬように貫かれたそれ。ナイフを抜いて素早く止血し、立ち上がる。 時間だ。旧式の時計がかちりと音を立てた。 *** それは、緩やかに訪れた。 ピアノの調べに混じって聞こえてくる歌声。かなしい、かなしい、啜り泣きの様な声。 そしてピアノの音が止まる。しかし唄は止まらない。 ふらり、ふらりと誘われるのは乗客達。外に出ていた客は、サーヴィランスの数えでぴたり30。 「セイレーンだ!! 死にたくない者は耳を塞いで船内へ戻れ!」 怒鳴るように、そして押しとどめる様に彼らに背を向けて立ちふさがるサーヴィランス。 その声で数人が我に返り、慌てて悲鳴を上げながら船内へと戻る。 しかし、残った客は捕われたまま。ゆらりゆらりと船の縁へ――。 ダン、とその縁へ突き刺さったのは巨大な裁縫針。 突き刺したのは大翔。小さな身体に似合わぬそれを操り、客達を船の縁から引きはがす。 流石に魅了されていても串刺しは勘弁して貰いたいのだろう。 彼らは殆ど抵抗なく引き下がった。魅了はされたままだが。 彼らが武器を持っていればまた話は違ったのだろうが、彼らは普通の乗客達。 抵抗は、大翔の攻撃をかいくぐって声の主を目指す程度だ。 そしてそのささやかな抵抗に成功した者が――、じゃりりと鎖に巻かれて引き戻される。 遊理のトラベルギアの鎖は縦横無尽に甲板を飛び回り、次々に乗客を拘束した。 その拍子に、我に返った者は解放して船室へ押し込み、繰り返す。 喧噪も喧噪、静かな夜はどこにもなく、悲鳴が支配する夜となった。 そして更にそれを騒がしくするのは、銃声。 軽やかなその音が甲板に叩き付けられ、乗客達が戦き飛び退る。 アインスの小型銃の音は派手に唄を遮り、それでまた数人が我に返る。 そのタイミングで、最悪は訪れた。 船がゆっくりと停止する。横には小さな島。岩場のそこに、腰掛け唄う女。 薄い緑の皮膚に、うっすらと鱗が光り、首には生々しい鰓が見えた。 セイレーン。 美しい異形が、此方を見てにたりと笑った。 緊迫した空気の中、それに添わない声をあげるのはツヴァイ。 「待て、きっとあの女の子は遭難者だ!」 未だに彼は依頼を『嘘だ』と信じているのか、どうなのか。 まずは浮き輪と救助艇を出して、それから保安庁に電話を……と言いかけたところでアインスの弾が跳弾し、間一髪顔の横を通り過ぎていく。髪が数房はらはらと落ちた。 「すまないすまない、ワザとではないのだぞ」 流れ弾が当たったらすまない、などと言いながらのアインスの言葉。 ちょっと冷や汗を流しながら、ようやく事態を認める気になったのだろう。 「わ、分かったよ。ちゃんと認めるって……この依頼が本物だってな!」 そう弁解するように言い、ツヴァイもまた乗客の避難に協力する。 まとめ上げ、引き離した乗客達を唄で誘うのはセイレーンばかりではない。 「航海の友と一緒に、楽しい唄を奏でよう!」 アルドのインバイトマーチが乗客達を船室へと誘った。 *** 停止した船、海魔セイレーンは歌い続ける。 あらかたの乗客を船室に押し込み、ロストナンバー達は岩場へと飛び移る。 降り立ったのは、遊理、コレット、ツヴァイ、サーヴィランス、そしてハーデ。 アインス、アルド、大翔は未だ魅了に取りつかれている乗客の為に船に残ったのだ。 狐火で照らしながら、コレットと遊理がセイレーンに近づく。 セイレーンは妖艶な笑みを浮かべながら、暫しその動向を見るかのように黙った。 遊理は言う。この航路を離れてくれと。殺したくないから、と。 コレットも言う。誰かを襲う為に、その綺麗な歌声を使わないで欲しいと。仲良くしたい、と。 だから、とコレットが微笑んで、その手を差し出し――海魔がその手を。 「いっ……!!!!」 海魔が振り上げた手には鋭利な爪。それがコレットを狙い、庇ったツヴァイの背中を引き裂いた! ツヴァイさん!と声を上げるコレットに、臨戦態勢を取る遊理。 心配そうなコレットに、ツヴァイは気丈に笑顔を浮かべる。 コレットを庇っての怪我だったら、いくらでも大歓迎だぜ、と。 海魔に理性など無い。再び迫るセイレーン。 遊理達の間に跳ねるように滑り込んだのはハーデで、手にした光の刃がセイレーンを切り裂く。 「海魔を助ける為に、他の人が犠牲になっても良いというのか?」 聞いて呆れる、そう言ったハーデの顔にはいらつきが見えた。 きゃきゃきゃ、と耳障りな嗤い声。 「口を開けたな?」 ぎゃっと嗤い声が悲鳴に変わる。サーヴィランスの放ったガラス片。 瓶の破片が口に放り込まれたのだ。 「今だ! 畳み掛けろ!」 言われるまでもない。サーヴィランスの声と同時に、遊理の鎖がセイレーンの首に巻き付く。 「よくもやってくれたな!!」 背中の痛みを堪えて、ツヴァイのナイフがセイレーンの鱗を切り裂いてはじき飛ばした。 たたらを踏んだセイレーン。歌う事も忘れて海に飛び込もうと逃げ惑い――。 「どこへ行こうと?」 ハーデのテレポートの方が一歩よりも早い。 「殺す者は殺される。ただそれだけだ」 世界の範を超えれば討伐される。それは、海魔も、己も、同じ。ただ、それだけ。 ざん、と中身の詰まった麻袋を断つように、海魔は光に両断され――海へと落ちる。 ばしゃばしゃと海の中から暫く音がして、そうしてようやく静かになった。 *** 朝。夜中の攻防に終わりを告げ、無事にコーツへと到着した一行。 サーヴィランスは足早に、迎えのロストレイルへと向かってしまった。 ハーデもまた、集合時間になるまで姿を見せなかった。 名物のアクセサリー屋を眺めているのはアインス、コレット、遊理、アルド。 アインスはコレットに髪飾りをいくつか見繕い、髪に合わせては似合う似合うと喜んでいた。 遊理は手頃そうな値段の、洒落たデザインの腕輪を店員に見繕って貰った。 その店員に、ペアになっているアクセサリーは無いか尋ねるのがアルド。 こちらなど如何でしょう?と差し出されたそれは、二つ組み合わせられるペンダントトップ。 くっつければ一つに、分ければ二人でもてるようになっている素敵なデザインのものだった。 船長と何か会話しているのは大翔だ。 無事に航海が終って安心したように酔っぱらっている船長にがしがしと頭を撫でられていた。 ハーデは部屋で膝を抱え、己を抱きしめ呟く。次はどこ、と。 「戦わない私に…………意味なんて、無い」 誰か、助けて、と。 アクセサリー屋から出てきた4人を捕まえたのはツヴァイ。 どうせだから乾杯くらい、という事らしい。 船長に聞いたオススメの店に入り、注文するのはジュースにエール。 「依頼の成功と海と、この出会いに、カンパーイ!」 ツヴァイの音頭が響き、グラスが合わさり涼やかな音を立てた。 もう二度と、あのセイレーンは唄わない。 彼女は、海へと還りたゆたい続けるだけなのだから。
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