>【桃源鏡】へようこそ 【桃源鏡】は真のあなたを探す手助けをいたします。 変えたい過去はありませんか? なりたい未来はありませんか? 現実(いま)の自分に不満はありませんか? そんなものはない? いいえ、あるはずです。 あなたのお言葉はそう語っておりました。 さぁ、おいでませ。 【桃源鏡】はあなたの望みを叶えます。◆「きみ達なら大丈夫と思います」 精一杯に背伸びをしても130cmほどに届くかどうかという背丈の司書が、そう前置きをして『導きの書』に再度視線を落とした。「インヤンガイの壺中天内にあるサイト、【桃源鏡】。その中で暴霊に捕らわれた少年を助けてほしいのです」 アインと名乗った、犬の特性を濃く残した獣人司書のオレンジ色のふわふわとした巻き毛が、予言書の頁をめくる動きに合わせて揺れた。「壺中天とは壱番世界でいうインターネットのようなもの。その上位互換。霊力で構成され、五感により様々な事を体験できる場所」 五感により、というところにアインは奇妙にイントネーションを置く。「予言書は言います。心せよ。夢は夢。現にあらじ。心地よい夢に抗うに必要なのは、強い意志。あるいは不変の支柱。夢と現の狭間は霧中なれば」 書へ落としていた視線を正面へ戻し、アインはロストナンバー達を見上げる。「気をつけてください。予言書のとおりならば、きみ達に要求されるのは、己の心を曝し、誘惑に敢えて乗り、その心身を蜜色の夢に浸してなお、それを振り切る強い意志」 ぱたん、と書を閉じたアインの金色の瞳が、ひたとロストナンバー達を見据える。「現地にいるモウ探偵が、今回の依頼人の手配で壺中天の端末をリースしています。きみ達は彼に協力し、そこから壺中天内へと入るとよいでしょう。くれぐれも、二次遭難とならないことを望みます」 万が一そうなったら? とのロストナンバーの問いかけには、アインはただ肩をすくめて微笑むだけだったが、思い出したように一言付け加える。「ところで、今のきみ達がいるのは本当に現実ですか?」◆ ――これは夢だ! 強く念じたそのとき、不意に視界が反転し、気づけば闇の中にいた。 唯一光を放っているのは、部屋の奥、壁にかけられるように設置された縦に長い楕円形の鏡のみ。 その中に映るのは自分ではなく、線の細い少年の姿。 『本来の彼』程病的ではなく、同級生らしき少年達と屋外での遊びに興じている様子が映し出されていた。 ふと、光景はゆがみ、また新たな光景を映し出す。 父母と一緒に夕食の卓を囲む少年の姿。 その日あった出来事を少年が嬉しそうに話し、出来がよいことを父に褒められ、母がそれを微笑みつつ眺めているという光景だった。 一家団欒、という言葉がふさわしい光景だろう。 けれども、それは『本来の彼』の姿ではない。 少年が叶えたい理想の姿だということは十二分に理解できた。 だからこそ、俺は鏡に向かって声をかける。 何度も声をかける中で、少年が不意にこちらを眺めるような様子を見せる。 現実に戻ろうと少年が決心したその時、目前の鏡にヒビが入った。 カシャン、と割れた鏡と、その前に呆然と座り込む少年。 優しく声をかけてやり、俺は少年を背負って立ち上がった。 そしてふと思う。 かつてここまで順調に依頼をこなせたことがあっただろうか。 そうとも、俺は今こそ、今まで以上にまっとうな探偵としての道を再び歩み出すのだ! ・ ・ ・ ――これは夢だ! 強く念じたそのとき、不意に視界が反転し、気づけば闇の中にいた。 唯一光を放っているのは……◆「あ、とうとう心臓とまったネ」 美味そうな饅頭を口にほおばりながら、メイはそう言った。 その視線の先には、心臓が動いている事を確認するための装置をつけられたモウの姿。 頭には壺型のインターフェイスがつけられたままである。 ロストナンバー達がモウ・メイ探偵事務所を訪れたとき、既にモウはこの状態となっていた。「何がそんなに楽しいかわからないネ。けど全然もどって来ないヨ。これ間違いなく捕らわれたか喰われてるネ。生命維持装置をつける金なんてないのに、モウはバカだネ」 助けにいかなかったのか、との問いかけに、メイはにゃははと笑って「行かないヨ」、と応える。「五感で感じるからって実際にお腹膨れるわけじゃないネ。私はご飯を食べて消化できる現実が好きヨ」 だから、と彼女は言う。「あっちの世界に籠もりっきりになる奴は理解できないネ。理解できないモノ、わざわざ助ける程暇じゃないヨ」 ところで、と彼女は再び言葉を置く。「ロストナンバー達、お昼まだかネ? まだなら一緒に食べにいくから奢って欲しいネ――駄目カ? それならしょうがないから一人で行くヨ」 資料は何かないのか、との問いに、彼女は立ち去りかけた状態で振り返って指さす。 モウの遺体がぐったりと横たわる長いすの横。乱雑に散らばった机の上だ。「そっちの方に、【桃源鏡】とやらへのアクセス方法やら依頼人の資料やら書いた紙はあるヨ。自由にするといい」 後の事は勝手にするネ。 そう言い残し、メイは事務所を出て行った。
【Stage-a for Yuu】 金属製の古びた階段を昇る足音を、優は枕に顔をうずめたままで聞いていた。携帯のアラームをとめて、既に30分程が過ぎている頃合だ。 合鍵で、ドアの鍵を開けられるのを微睡の中で聞く。 靴を脱ぐ音。台所を歩く音。そして。 「おきなさーい!」 「ぐふっ」 盛大に、優自身を蹴る音。 「いい加減起きてないと、朝ご飯食べる時間なくなるよ!」 下の階から持ってきた朝食をテーブルに置きながら、楓がそう言う。 「えーっと。あれ、え……ぁー、おはよう、楓」 優はまだはっきりしない頭でその楓を見上げながらそう言う。 「うん、おはよう。ほらお兄ちゃんも起きる!」 言葉と共に中々小気味いい音が響いた。 「それそのまま昇天しそうだな」 だらしなく寝こけていたが為に後頭部を蹴り飛ばされる奏をみやり、優は心の中でそっと手を合わせた。 『いただきます』 三人で、楓が作った朝食に箸をつける。 「しかし楓、もう少し兄を労わることを覚えた方がいいんじゃないのか」 口と手を忙しく動かしながらも、奏が恨み言を言う。 「知りませんー。夜中まで飲んでゲームして騒いでるお兄ちゃん達が悪いんでしょ。文句言うなら朝ご飯作ってあげないよ?」 「く、兵糧攻めとは卑怯な!」 「朝飯がなくなるのは、俺も困るなぁ」 そんな兄妹のやりとりに少し笑って、横から口を挟む。 男の一人暮らしに御飯は貴重だし、手作りとなればもっと貴重だ。 優は自分で作れるが、こうして毎日手料理を持ってきてくれる幼馴染がいるならそれに越したことはない、とも思っていた。 結論として、奏の巻き添えをくらって朝ご飯をもらえなくなるのは大変痛い、となる。 「そういえば優の寝坊は珍しいよね。どうしたの? そんなにお兄ちゃんに付き合わされた?」 「おいなんで俺が原因で確定なんだよ」 「大体いつも私が来るときには布団も片付いているのになーって今日はちょっとびっくりだったよ」 奏の抗議は、空しくスルーされてしまう。 「ん。壮大な夢をみていたのかな? どうにも起きられなくて。楓が目の前にいるのを『何でだ?』って思うぐらい寝ぼけてたかな」 「あー、それでなんかすごく微妙な表情で見上げてたのね」 納得、とばかりに再び箸を動かす楓と、「スルーするなよ……」と力なく呟きながら口を動かす奏。 その二人の様子を見ながら、優は何故だか嬉しくなる。 中学の時に起こした諍いは深刻なものだったけれど、奏や楓と、より強く一緒にいたいと思わせてくれた。 話し合い、最後までお互いがお互いを諦めずにいた。だからこそ今があり、これからがあるのだと思えば何気ない会話を交わせることが嬉しく、自然と笑みが浮かんでしまう。 「どうしたの? 優」 楓が、そんな優を訝しげに見ていた。 「いや、別に。しかしお前卵焼きだけは進化しないよな」 「う、うっさい! 文句言うなら食べるなっ」 何故か感じた嬉しさを悟られぬようにそう言うも、本気で拗ねないよう「すみませんでした」と素直に謝る。 そんな何気ないやり取りが、何故か今日は嬉しかった。 ――優。 ふと、名前を呼ばれた気がして後ろを見る。 視線の先にはただの窓。外にはいつも通りの景色と、抜けるような青い空。 「優?」 今度は本当に奏に呼ばれ、「なんでもない」と食事を再開しようとした。 その時に、テーブルに置いてあった携帯が視界に入る。 何故だか、違和感を覚えた。 【Stage-a for Naura】 皇国防衛軍直属の士官学校。今日がその学校の卒業式だった。 一人、また一人と個別に用意された訓示を与えられて去る中で、最後の生徒と一対一で向き合うと、校長はにやりと微笑んで声を張り上げる。 「ナウラ訓練生! これまで面倒なこともあったろう。だが貴様も明日より皇国軍人となる。兵卒の模範たるべき将校としての第一歩であるだけでなく、地上に生きる民としての晴れがましい第一歩である! 心してかかれ!」 地下からの亡命者を士官にするなど、という声を力強く跳ね除けてナウラの入校を許可し、今またナウラを送り出そうとする老年将校の言葉に、まだ年若い青年が敬礼を返した。 「ありがたくあります、教官殿!」 生真面目ぶって返したナウラだが、嬉しさは隠せない。ふにゃ、と顔が笑み崩れた。 「そのように笑う奴があるか! 最後の罰をくれてやる。駆け足! 校庭10周の後、自宅まで走り、明日の入隊へ備えよ!」 教官も「しょうがない奴め」といった表情をするも、餞別だとばかりに、叱責の言葉を投げつける。 「はっ、行います!」 そういって敬礼すると、ナウラは校庭へと駆け出して行った。 「兄さん!」 士官学校の校門を走り抜けたところで、見知った顔を見つけ、勢いのまま走り寄っていく。 その声に振り返った青年の名は、アイロ。地底人だったナウラが「正義の味方」とされる防衛軍に、士官として入隊できたのも、この兄がいてこそだった。 数年前にこの地上へ一家で亡命したナウラの幸運は、卓越した技術力を持つ父と、その知識量を受け継ぐだけでなく交渉術、政治力、統率力に長けた兄アイロが防衛軍に入隊後、目覚ましい活躍を見せ異例の士官抜擢を受けたことに大きく拠っている。 実験として特例で入学を認められたナウラに対しての周囲の視線は厳しかった。 「異邦の民のくせに」という視線が、アイロの数々の功績によって次第に軟化していくことを感じていたナウラにとって、今日の日はアイロのおかげだと信じて疑いのないものだった。 「ナウラ、遅かったな」 勢いのままに突貫してきたナウラを受け止め、頭を撫でながらそう問いかけるアイロの様子は、まさに「兄バカ」というべきもので。 そんな兄に対し先ほどまで受けていた訓示の内容や、その後のやりとり――罰則まで含めて――を正直に話す。 「この馬鹿が」 そんなナウラの様子に苦笑しながらも、アイロはその頭を小突き、形ばかり叱って見せた。 「ほら、そろそろ行くぞ、親父が阿呆なことをせんうちに、帰宅しなければな」 そう言ってナウラを引きはがして歩き出すと同時に、アイロは手を差し伸べ、微笑みを浮かべる。 「うん!」 ナウラもまた、当然とばかりにその手をとった。 その時。どこか、遠くの方で雷がなったような音がした。――同時によぎる、知らないはずの人の顔。 それは、とても懐かしいような、アイロに向けるような感情を抱かせる人だった。 桜の下で優しく微笑むその人の表情と、兄の浮かべる微笑みが、重なって見える。 「――どうした?」 握り返した手を力なく落として固まってしまったナウラを、訝しげにアイロが見ている。 「兄さん……」 決意したように顔を上げたナウラの表情は、今にも泣きだしそうなそれだった。 【Stage-a for Meruhio-ru】 誰も訪れることのない塔の中で、メルヒオールは時に思索にふけり、時に結論を紙の上へと休むことなく書き記していた。 眠ることも必要がなければ、食べることも要求されない部屋を構築したことで、彼はここから出ることを必要とせず、ただただ師の残した遺産とでもいうべき研究の数々を発展し、新たなテーマを見出すことにのみ心血を注いでいた。 「しかしあのババア、結論だけなら数十年先まで既に到達してるんじゃないか……?」 この二、三か月をかけて思考してきた論題について、先ほど偶然見つけた未開拓の書の中からその回答を発見したところだった。 「『故にこの術は可能となる。――この仕組みの果てに私は次のような驚くべき術式を見出したが、それを書くにはこの余白が狭すぎる』て、おいこらババアまたか」 『結論だけなら』、とメルヒオールが言った所以だった。予想だけでなく、実際に運用したことがある術、それ以前の基礎理論の着想だけなど、彼の師が残した遺産の中には中途半端な記述だけがなされたものが多数含まれていた。 今のメルヒオールにとって、それらの難題を証明してみせ、誰もが実践、理解できるようにするための研究をすることが、唯一の楽しみといえた。 人に邪魔されず、己の好きなことを好きなだけ行う。時がいくらあろうと足りなかった。 そしてここには、生きるのに必要な場所があり、それ以上に生きるために必要な作業がない。 あるのはただ、己と、紙と、右手で扱うペンの走る音だけだった。実に、楽しい。 ぴた、と不意にそのペンの音が止む。 本当にそうか、と不意の疑問が湧きだしてきた。 ちょっとした違和感でしかなかったその考えだが、思考の方向を向けた瞬間、脳裡に深くこびりついて離れない澱の様相を呈してくる。 「何だというんだ」 つぶやき、何気なくポケットに入れた手が、硬いものに触れた。 『私の名前が言えないせんせーには、この指輪をはめてもらいまーす』 不意に元気な少女の声が、脳裡に響き、その違和感が、益体もない妄想ではないのだということを主張してくる。 「何だというんだ」 再びのつぶやきに、傍で応えるものはいない。 【Stage-a for Usagi】 「えへへ。これ、どうかな?」 初めて着たワンピースで一回転をしてみせる兎。 そんな彼女の嬉しそうな様子をちらと見やり、青年は溜息とともに眉間に皺を寄せた。 「似合ってる? ねぇ似合ってる?」 そんな言葉を無視し、新聞に視線を戻す青年。 「ひどーい、ちゃんと反応してよー!」 しつこく食い下がる少女の額に、指弾が刺さる。 「あぁうっせぇな! 女の着るもんなんざわかるか! 聞くな! 殴るぞ!」 「もう殴ったー! 卑怯ものー!」 「うるせぇデコピンだ! 殴ってねぇ!」 床にぺたりと座り込んで文句を言う兎の様子に、どう扱ったらいいかわからん、とぶっきらぼうに対応する青年。 「いいからさっさと行け! デートだかなんだかしらんが勝手にしやがれ」 「きゃー! 怒ったー、こわーい、いってきまーす!」 結局すねて見せたのも半分演技だったのだろう。楽しげに笑いながら、部屋をでていく。 「大変だねぇ、余所の男にとらrぐがっ」 背後から揶揄するように声をかけてきた仲間に、青年は裏拳での一撃を見舞うと、読んでいた新聞をぐしゃぐしゃと丸める、地面に盛大に叩きつけていた。 待ち合わせ場所へ向かうわけだが、兎の足取りは自然と軽くなる。 初デートだ、との意識が働いているだけではなかった。普段の制服ではない、女の子らしいワンピース。 「ふふふん、何て言ってくれるのかなー」 「客観的に見て頭の中がお花畑だ」という仲間の指摘は――まぁむかつくけど――事実だった。けど、そんなことはどうでもいい。 あの人と、今日一日をプライベートで過ごせるのだと思うと、ハッピーにならなくてどうするのか、と反論してやる。 何故なら、あの人が何て言ってくれるかなと想像するだけでこんなにも嬉しくてしょうがないのだから――そんな風に考える兎は、確かに客観的に見てみればただの変な人ともいえただろう。 『可愛いよ』? 『素敵だ、似合ってる』? ひょっとして『こんなに胸があったのか』? 「いやいや、それはさすがにないって」 妄想の翼がとまらない自分に、兎は思わず言葉に出して突っ込みを入れる。けれど、と立ち止まって兎は自分の胸を見下ろした。 普段の仕事着では目立たなくなるこの胸――Dカップ!――も、きっちり強調してみせたいなぁ、と乙女心ながらにそう思う。 そんなしょうもないことを考えながら歩いている内に、待ち合わせ場所が近づいてきた。 繁華街の待ち合わせ場所は、多数の人がいはしたが兎はその中から唯一の人の顔を簡単に見出せた。 腕時計を確認していた彼もまた、自分を見つけたようだと、兎は目的の男性の表情に浮かぶ微笑みで気づく。 さぁ、楽しい一日の始まりだ! 駆け出そうとした刹那、遠く、どこかで雷が落ちたような音がした。 いや、実際にはすぐ近くにある時計台の時報の鐘の音だったのかもしれない。 けれども、それは何故か兎の足を止め、振り返らせるのに十分な存在感を持って兎の元へと届いていた。 振り向いた先にいた人物を認めて、兎は茫然とした表情を浮かべる。 『兎――自分を、否定しないでくれ』 穏やかで、慈愛に満ち溢れたその声を耳にしたとき、時が、固まったような気がした。 【Stage-a to b of Kurou】 「おまえさま、おまえさまっ!」 ゆっくりと開かれた視界に入ってきたのは、滂沱の涙を流す妻だった。 地に倒れている玖郎の頭を膝に載せ、涙を流しながらも、必死で呼びかけてきている。 なにゆえの仕儀であるのか――疑念を抱くも、痛みがその原因を気付かせる。 胸に開いた巨大な穴。 時折こみ上げてくる血は、咳き込む毎に口腔に溢れ、漏れ出ていく。 その痛みで、玖郎は思い出した。その傷が、妻子を守るために天敵である金行のモノと争い生み出された傷であると。 それでも、間に合わず、妻子の亡骸の欠片を見るという事がなく済んだ――その思いが、玖郎の表情に自然と笑みを浮かばせる。 「かように、なくな。おまえたちが生くることのかないしが、なによりのことなれば」 そう言い、霞む視界の中にある妻の頬を撫でる。 人身御供として捧げられたも同然の妻であるが、玖郎にとっては愛しき比翼の鳥であったから、亡くして後に訪なうであろう喪失感に比べれば、この程度の傷造作もないのだと素直に思う。 しかしそうした思いとは別に、仕方なしと断じる思考と、この後もともにいたくあったという感情が混ざり合い、複雑な感情が玖郎を支配する。 それは知識は人と同じかそれ以上でありながら、その心情の根幹を猛禽のそれと類似したものとして生まれ落ちた彼にとって、初めて経験する混乱だった。 己の死を想像することが殆どない玖郎であったが、どこか漠然と、その時がくれば、妻子の死ですらも、自然のまま、当たり前のものとして受け入れるだけであろうとどこかで感じていたのかもしれない。 妻子の代わりに死ぬということがこれほどまでに深い満足感と、充足感を覚えるとは露とも思っていなかったからこその、混乱だったのかもしれない。 「おまえがわらっているほうが、やすらぐ」 混沌とした感情の中で、ただ一言玖郎はそう言った。 びく、とその身を震わせた妻は、未だ眦から雫を落としつつも、ようようと口の端をつりあげ、不格好ながら微笑みを形作ってみせる。 その笑みを目にし、玖郎もまた微笑んだ。 これでよい。 その想いが自然と心からこみ上げてきた瞬間、別の声が、頭の中で啼く。 あるいは、それは玖郎が有する危機回避の為の本能であったのか。 ――まことに然なりや? 心中よりの問いに、なにを、と玖郎はいいかけようとして気付く。 妻が玖郎にとって比翼の鳥なれば、妻にとってもまた玖郎は連理の枝たるものであろう。 否、それ以上だ、と玖郎は自認する。 玖郎がいなくなれば、守るものの無き妻と子は、たやすく新たなる脅威にさらされ、その日の食物にも事欠く有様となろう。 それを思うことすらせず、己の命と引き替えに妻子を守り満足するような想い等、抱くはずも無し。 たとえこの一時をやりすごしたとて、それは緩慢なる妻子の死を意味するもの。 ――これでは徒死なり。 「そのような記憶など、ありもせぬ」 それは、世界の否定。それとともに、かっ、と目を見開いた先には先ほどまでとは異なる風景が広がっていた。 倒れ伏していた身体はいつのまにか地面に屹立し、胸に穿たれた巨大な穴も存在しない。 そして目の前には、既に亡き、妻が子を抱いて笑っていた。 その背後に立つ巨大な楡の木は、彼らが過ごした住処の目印の一つ。 小さな白い花が無数に咲くその木が、花を萎め葉を散らす時期だと主張するかの如く、一枚、また一枚と葉を落としていくそんな風景。 その中に立ち尽くす妻子に思わず腕を伸ばし、歩を進めようとしたところで動きを止める。 それこそが本当は己の望むものであったのではないか、と数瞬の間、自問を行うも、これが夢であることを、玖郎は既にしっている。 「五感にしのびいるまぼろしとは、げにおそろしきもの」 そう呟くと、微笑みを浮かべてみせる彼女を遮る物のない目でしっかりと見据えたあと、鉢金を下ろし、視界を狭めた。 そうして一呼吸。 「あのときのおれには、かなわざりしこと」 それが、現実である。そこから逃避することは、玖郎が妻子をおいて死ぬことと同義――彼女らの死を徒死とするものであると、彼は思う。 過去を見据え、消えた命、潰えた道を己の贄とし限界を打ち破り進むことこそ、生きる者の当為であると、彼は信じた。 もう一度、呼吸を整え、彼は握りしめた拳を打ち合わす。 鉄甲でもある神鳴が、打ち合わされ、高く、激しく啼き叫ぶ。鮮烈な光が場を白く塗りつぶし、目前の幻を不可視のものへと変えていく。 ――きけ、同輩。おまえたちもまた、たどりし道はたがえどこころの根はおなじであろう。 玖郎は、神鳴が染め上げた世界の中で、そう一人ごちる。 隔たれた場所にいる仲間へと、その光が届くことを信じて。 ――どのような形かはわからぬ。されど、この殷々たる鳴声がとどいたならば、われとともにえものの下へとむかおうぞ。 雷の音が、空間を離れ轟いていく。あたかも、閉ざされた函谷関を開かんとする鶏鳴の如く、猛く、遠く、高らかに。 【Stage-b of Usagi】 兎は突然の事態に、戸惑っていた。 数十メートル先にいる、あの人。だがその人と同じ姿をし、声をする人が背後に、いる。 「体のことなんて関係なく、俺は兎が好きだ。だから――今の自分を否定しないでくれ」 櫻の木の下で、こんな体は厭だと嘆く自分を救ってくれた。あの言葉があったから、兎は方向性はともかく、前向きに生きようと思うことができた。 その時の、慈愛に満ちた微笑みを浮かべ手をさしのべる彼の姿。 幾多の人混みの向こうで兎を待つ彼と、数度比べ見て、あぁそうか、と兎は思う。 そうなのだ、自分は覚悟していたのだ、と。 自分自身が何か夢を見せられるとしたら。そしてそれが、こうであれと望む姿をそのまま叶えてくれるのだとしたら。 きっと、こうなると――そして、その時にはそのまま流されてもいいと、心のどこかで思っていたのだ。 けれど、兎の心の中、奥底に住まうあの人の存在が、思いの外現実の自分のことを、自分自身に受け入れさせてくれていたのだと自覚する。 同時に、どこか遠くで、雷が轟くような音がした。 気付くと、兎の服装はワンピースから普段の男物へと変わっており、腕には金色の環が備わっている。あちらの世界にいたときはなかった、その衣装。 ほんの少しどころでなく膨らんでいた胸ももう無く、その奇妙な経緯のためか、歪な作りのままでこの世に産み落とされた自分の体に戻ってしまっている。 普通の女の子であれたらどれほど幸せかと心の底から厭った自身の体。 でも、そんな自分を否定することは、本来の兎を嫌悪することなく、自然のままに受け入れてくれた目の前の人を否定することになると理解できてしまった。 それは、兎にはどうしてもできないことだった。 「うん、ありがとう」 この幸福な夢が、正に夢だと悟ると同時に、兎はそう口にする。 言葉とともに溢れたのは涙。 喜びなのか、悲しみなのか、自分でも自覚できない涙を笑いながら零す兎を見て、手をさしのべていた男もまた笑みを浮かべ、一つ頷いた。 「帰りたいし、帰りたかったけど、でもそれは今じゃないよね。うん。僕は、今の僕がやらなきゃいけないことをやる、よ。その道がきっと、あなたへ続いていると、信じているから」 決意を言葉にした瞬間、遠くで雷の響く音がした。 音に惹かれその方向を見やった時――世界が、白く染まっていった。 【Stage-b of Meruhio-ru】 ――めーるせーんせっ。 指輪を窓から入る光に翳してみていた時、不意に背後、ドアの向こうから声がしたような気がした。 後ろを振り向くも、研究部屋の扉はしまったままであり、もとより人のこない塔で小娘の声がすべくもない。 悩むことをやめ、再びペンを走らせようとするも、先程不意に襲ってきた疑問が頭にこびりついて離れない。 集中できるこの環境は、やはり、おかしい。 そうとも、小娘の声がすべくもない。というのに何故小娘、と限定したんだ? 俺は。 気になってしまったが最後だった。ペンを傍らに置き、再び指輪をとりだすと、背もたれにもたれ思索に耽る。 ――メルヒオール先生またさぼってるー! 再び蘇る若い娘達特有の甲高い声。 「さぼってるわけじゃねぇ、研究してるだけだ」 誰へとも無しに言い返す。 思索を進めていく内に、いくつもの声がよみがえる。 『パンが食べたいっていうから焼きたて持ってきたのに、食べてくれないのー?』 『メル先生ここがわからなくって……』 『ねぇねぇメルヒー彼女いないってほんとにほんとー?』 誰がメルヒーだこら。 目をつぶったままで心を遊ばせれば、かつて受けた邪魔の数々が瞼の裏に蘇ってくる。 やっぱり、忘れていたほうがよかったんじゃないか? そう自問するも、ついで苦笑する。 そのまま、メルヒオールは椅子から立ち上がると、研究ノートをそっと閉じた。 ここでやる研究は、楽だけど、楽しくない。というよりも、餓えないからこそ、別の餓えに気づかされてしまう。 「全く。食うためだけのはずだったのにな」 あの日々を知ってしまったから――この『理想』では、物足りない。 『いい年してまぁ、無いものねだりかい? 一人で夢に引きこもろうなんざ、甘いんだよ』 「うるせぇ」 全く、心の中でまで五月蠅い婆さんだ。そう呟きながら、メルヒオールはふと気づく。 この世界でやった研究の内容を、欠片も覚えていない。その成果も。 「何から何まで、やった『つもり』かよ」 くっく、と笑いながら彼はドアノブに手を掛けた。 開いたドアの向こう側は、一面の白。けれども、ドアの向こう側へ踏み出す足に迷いはない。 『もう来るんじゃないよ』 『お帰りメルせんせっ』 背後と、白闇の世界の双方から声をかけられたような錯覚を受ける。 それが幻かそうでないかを探求しようとは、欠片も思わなかった。 【Stage-b of Naura】 「どうした?」 手を握ったまま、そう問いかけてくる兄。 父と、兄と、地上の人々と融和し、過ごしていける素敵な世界。 けれども、ナウラは気づいてしまった。これが、自らの望む夢なのだということに。 兄の手をつかんだ最後の時は、彼が死ぬ、その間際だった。 「わた、私、は……」 涙が、溢れる。手から伝わる温もりは、かつて握った時のように、熱を失っていくことはない。 兄と、父と。そして、つい先ほどまで忘れてしまっていた、家族のようなあの人たちと、このままに。 想像しただけで、胸の奥が一杯になるほどの世界だった。 けれど、それを選ぶことは、自身のこれまでの歩みを否定する事だった。 これまでの道や『今』を共にすごしてきてくれた人を否定する事だった。 それだけは、したくなかった。 「私を許さなくて良い。ごめん」 力をなくした掌が、兄の手から抜けおちる。 兄がいて、平沢がまだいない世界。幸せな、世界。それでも、それに甘んじることはしたくなかった。 その決断は、ナウラにとって再び兄を殺すことを意味するもの。あの時は選ぶ、という意識があったかどうか定かではない。 しかし、今回は違う。例え明確に傷つけるという行為を経るわけでなくとも。 兄を己の手で、再び世界から消すのだ――その思いが、ナウラに謝罪の言葉を紡がせた。 そんなナウラの頭を優しくなでる手がある。目の前にいる、兄の手だった。 けれど、その兄の姿は先ほどまでとは異なっている。真実の彼を最後に見たときの。ナウラが、兄を殺した時の血にまみれた彼の姿だった。 「ナウラ」 くしゃ、と白くやわらかなナウラの髪を指で梳かしながら、アイロは笑う。 「本当に馬鹿だな。何があろうと、私はお前の兄だろうが」 その言葉に、またナウラが泣き崩れる。 頭に置かれた手をそっと握り、俯いた顔から零れ落ちた涙は地面を濡らす。 「もう、行くよ」 しばらくの時を経て、ナウラは兄の手を離し、顔をあげた。 「あぁ、行って来い」 そういって微笑む兄の姿を瞼に焼き付け、ナウラは己の視界を、ゆっくりと閉ざした。 【Stage-b for Yuu】 「優、おかわりは?」 携帯に気をとられていた優は、はっと顔をあげる。 ほとんど空になった事に気づき問う楓の声に、うん、と頷いてお椀を渡した。 「ちょっと待ってね」 そう言った楓の笑顔もいつも通り。 また、違和感が優の心に湧き上がる。不意に携帯が鳴りだした。 何の気なしに床から取り上げた携帯を見て、先ほどから感じた違和感の正体に気づく。 ――こんなストラップ、持ってたか? じゃら、と垂れ下がったストラップは、ワンダーランドのものと、よくわからない生命体を象った物。 あぁそうだ、持ってたとも。なぜか抱いた、その確信。 そうだ、あの時。このストラップを買った時。遊園地で横にいたのは誰だった? コロッセオの道すがらのあの浮き浮きした気分は何故だ? 鳴りつづける携帯に表示されていた、非通知の文字。 疑問が氷解したとき、それが見覚えのある名前へと変わった。 この世界にはいない。けれども忘れたくない、大切な人の、名前だった。 「優?」 楓と奏が不思議そうに優を見ていた。 二人の様子に、胸がほんの少しでなく締め付けられる。 あったかもしれない、世界。 全てがほんの少しだけ、良い賽の目をだしていればあったかもしれない、この運命。暖かいな、と優は思う。けれども。 「ごめん、な」 携帯の鳴動を手で感じながら、優はそう口にする。 この夢に浸っていたかった。けれど、今の優には、この世界が訪れなかったからこそ出会うことができた仲間たちがいた。 「なぁ、優」 不意に奏が箸をおき、優を見つめてくる。 「俺は、お前ともっと過ごしたかったよ」 本当の奏ではないと知っていても、胸が締め付けられた。 「俺は、お前に会って謝りたいよ」 少しだけ瞳を伏せ、そう応える。 伏せた視線の先には、まだ鳴りつづける携帯電話。きっと、この着信への応えが合図。 この心地よさを知ってしまったことで、中々応答のボタンを押せずにいる。 「優」 かかる声は、二人分。上げた視線の先にあるのは、柔らかな、二人の笑顔。 この目の前の二人にいずれ訪れる危機がある。それを看過するわけには、いかない。 「また、向こうでな」 笑顔に後押しされそう言うと、優は応答のボタンに添えられた親指に、そっと力を加えた。 【Whose dream is the dream?】 『ねぇ、小李』 突然聞こえた声に、少年――黄・李樹の手が止まる。 インヤンガイの一角、彼の屋敷の食堂で、李樹は父母と、歓談しつつ食事を楽しんでいるところだった。 『ねぇ、小李。貴方は、本当にそのままでいいのか?』 気のせいでは、なかった。 聞いたことのないはずの、少年のような声が、頭の中に響いた。 「どうしたね、小李」 「ううん、なんでも」 様子のおかしい李樹に、父が優しく問いかけてくる。優しい父を心配させるわけにもいかないので、李樹は軽く首を振って答えた。 『小李。君はこのままでは死んでしまうんだ』 答えた瞬間、再びどこからか声がした。遠くから小さく伝わるその声。 別の声が、また頭に響く。 『僕もそうだったけれど、理想の世界は、気持ちがいいよね。僕もずっと夢見てた世界があったよ。けれど――あなたを待つ人が、現実にもいるんだ。もし、李樹さんがこのまま眠ってしまったらその人達はどうなるの?』 それは、優しく語りかけてくる姉のような声。 「うるさい! 人の頭の中でわけのわからないこと言うのやめろよ!」 思わず叫んでいた。そんな李樹の耳に、呆れたような青年の声が届く。 「――全くもってしょうのない奴だな」 驚きとともに振り返れば、背後に見たこともない寝癖だらけの髪の男が立っていた。 機嫌の悪そうな表情で李樹を見下ろすと、いきなり椅子ごと蹴飛ばしてくる。 「何するんだ!」 「こっちのセリフだ。お前、とりあえずそこに正座しろ!」 尻餅をついたまま叫ぶ李樹を、ばっさり切り捨てて命令してくる。 「こんな所に引き籠って、父親を心配させて、挙句の果てに起こしにきた俺たちを『うるさい』とは何事だ貴様!」 びし、と額に指をつきつけられ、一気呵成にまくしたてられて、李樹は尻餅をついたまま、呆然としてしまう。 こんな人知らないし、「いるはずもない」のに何で怒鳴られてるんだろう――混乱しているところに、別の声が背後から聞こえた。 「大丈夫か?」 背を支え、助け起こしてくれる青年が一人。 「相沢という。君を、迎えにきたんだ」 「迎え?」 ここが自分の家なのに? そう言いたいのを悟られたようで、彼は言葉を重ねてきた。 「ここはいわば幻の世界で、君の理想の世界だから。本当の君は、少し違うだろう?」 「違う」と言われ、とくん、と心臓が自己主張をする。 「お父さんが、泣いてたよ」 何を言っているのかわからなかった。だが、先ほどまで目の前で食事をしていたはずの父母が、いつの間にか姿を消している。 「『生きていてさえくれればと思って、息子の気持に気付いてやれなかった』、ってさ」 それが、父の言葉、だというのか? 「だって、一緒にいてって頼んでも、一度も聞いてくれなかったのに。僕が病気だから、そんな弱い子とは一緒にいたくなかったん、じゃ――」 そこまで言いさして、李樹は口を閉ざす。 そうだ、物心ついてからこちら、父母はこんな風に夕食を一緒にしていたことはなかったはずだ。 『幻の世界』、その単語が頭の中をぐるぐると飛び回る中、相沢はまた語りかけてきた。 「現実は辛い事の方が多い。受け入れなおす事は、ひどい痛みを伴う。――いや、実際に体験した身としては、だけどね。でも、現実を見据えて、理想の世界に向けて立ち向かうこと。そこから得ることは、きっと多いと思う」 『そうだよ』 それは、最初に届いた声。 『どんな運命でも、諦めずに最後までやりぬいてみないか? 苦手な事、不可能な事でも、諦めずやり抜けば、できるようになる可能性はある』 声は、数秒躊躇った後、再び響いた。 『貴方が病気だということは、ここに来る前に、父上から皆で聞いたよ。けれど、生き抜くために足掻くことをやめちゃだめだ。それは君だけではなく、君と共にこれから先も生きていたかったと思う人にも、酷い傷を残してしまうものだ』 何かを振り返るような思いが宿る声音だった。 「僕は、どうせ死ぬと。このまま生きるより、夢の中で死んだ方が父も身軽になって喜んでくれると、そう思ったんだ」 桃源鏡に出会ったとき、「これで楽になれる」と思った。 父は仕事に一層本腰をいれられるし、僕の看護をする母も楽になれる。僕は僕で、これ以上いつ来るかわからない発作や死に怯えなくてすむと。 「でも、それが間違いだったというのなら」 ぎゅ、と胸の前で握られたこぶしが、無性に痛かった。そういえばこの世界で痛みを感じるのは初めてだと思い、それはきっと苦痛への恐怖を忘れたいという無意識の望みすら実現していたせいなのだろうと、今更ながらに気づく。 「父と、母がそれほどまでに僕を心配してくれるのなら」 恐怖は、まだある。 この世界でずっと身を揺蕩せたいとも、思う。 けれど、父母がもし僕をまだ愛してくれているのなら。 「僕は、現実に帰ろうと思う。父や、母とこの先を生きるために」 『よくぞさだめた」 途中までは脳内で。そして後半は自身の耳朶で聞き取った声は、落ち着いた男性の声だった。 気づけば周囲は鏡に囲まれた部屋の中。そのうちの一枚が割られており、異形の男が仮面の向こうからひたと自分を見据えていた。 「さだめは己にてさだめるもの――おまえは今、『生きる』とさだめた。先を閉ざされぬかぎり、まなび、さだめ、生きることこそ命あるものの道なれば」 ぽん、と男が李樹の頭に手をやり、下半分しか見えぬ表情を、不器用にゆがませる。 「つよく、生きろ」 何故だか父に言われたような気がした。 五人に囲まれ、その中で二番目に聞いた声の持ち主らしき青年が、「大丈夫?」と手をさしのべてくれている。 視界がぼやけ、涙に閉ざされる。 「さぁ、行こうか」と誰かに促され、泣きながら一歩足を踏み出した。 待ってる現実は夢にまどろむ前と変わらないことだろう。 ひょっとしたらもっと悪くなっているかもしれない。 けれど、もしかしたら変えていけるのかもしれない。 その場にいた五人の声が、そう感じさせてくれたから――李樹は、現実への道を歩こうと、そう思う。
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