「インヤンガイへ赴いていただけますか。呪殺に関する相談が現地の探偵に持ち込まれています。呪殺とはつまり、呪術を用いた暗殺の方法で、インヤンガイで行われる犯罪の一種です。詳しくは『星々坊(シンシンフォン)』街区の探偵――『片目のウェイ』という人物を訪ねて下さい」 世界司書リベル・セヴァンのそんな依頼にもとづいて、旅人たちは一路インヤンガイを目指した。 指定の時刻は日暮れだった。 街区はネオンのきらめきに満ちて、行き交う人々の足取りは軽い。どうやらこの街区は歓楽街だと見える。あちこちで酔客の浮かれ騒ぐ声が響き、飯店の良い匂いがただよってくる。 教えられた通りに道をたどると、ややうらぶれた小路へと入る。 そこにはぽつんと、小さな屋台が出ているばかりだ。 それらしい探偵事務所の看板は見当たらず、旅人は屋台に近づく。「片目のウェイは俺のことだ。……探偵というのは副業でね」 屋台の主人は聞かれる前にそう言って、旅人たちに椅子をすすめた。 三十路半ばといったところだろうか、汁麺の湯気の向こうに立つ屋台の主人は、ただの屋台の親父というには精悍な風貌で、なるほど、片目は黒い眼帯で塞がれているのだった。「これを見てくれ」 片目のウェイが取り出したのは、色あせた古紙だ。あやしい文様のようなものが書かれている。「これは古い書体の文字で『蛇』と書いてあるんだ。俺はこいつに見覚えがある。その道では名の知れた『蛇王』という呪殺師の予告状だな。名こそ知られているが『蛇王』がどんなやつなのかは誰も知らない。姿を見せずに呪いで獲物を殺す。ある人物はこの紙が届いたひと月後、体内から蛇に食い破られて死んだ。別の男は密室で大蛇に巻かれた痕を残して死んだ。毎晩あらわれる小蛇の群れに発狂したやつもいる。つまり方法は一定しないが蛇を使ったまじないを仕掛けてくるというわけだ」 話しながら、ウェイは人数分の椀に汁麺をよそって出してくれた。 まずは腹ごしらえでもしていけ、ということか。「今まで蛇王に狙われて生きていた人間はいない。しかし副業とはいえ俺は探偵だ。相談を持ちかけられた以上、依頼人を放ってはおけないのさ。紹介しよう。マーガレット」「お願いしますぅううううう」 屋台にはもう一人客がいたのだが、どうやらその彼女がウェイの依頼人だったらしい。 マーガレットと紹介された人物は縦巻きロールの金髪にけばけばしい厚化粧をほどこし、ラメの輝くドレスのうえに豪奢な毛皮をひっかけていた。「マーガレットは『スターズ&ローゼス』という飲み屋を経営している」「飲み屋だなんて言い方しないでぇ。ショーパブって言ってちょうだいよ。ウチはなんといってもショーで有名なんですからね。みなさんもぜひご覧になってみて。星々坊で最高のステージをお目にかけるわ」「そんな呑気なことでいいのかね。このままじゃおまえさん、蛇の呪いで死ぬんだぜ」 ウェイが低い声で言うと、マーガレットはとたんに、不安げな顔つきになる。「嫌よ! あたしまだまだやりたいことがいっぱいあるもの。蛇王だか何だか知らないけど、そんな得体の知れない男の呪いで殺されるなんて! ね、助けてもらえるでしょ?」 指輪の痕が残る節くれだった指を胸の前で組み合わせ、マーガレットは哀願の声を出す。「そのためには蛇王本人か、蛇王に呪いを依頼したやつを見つけ出して呪いをやめさせる必要があるな」「あたし心当たりがあるの! ウチの店の評判を妬んでる他のお店。そのうちのどれかの仕業に違いないわ!」「かもしれん。……ともかく事情はそういうことだ。簡単な仕事じゃないが、頼まれてくれるな」 ウェイの隻眼と、マーガレットの5センチはありそうなつけまつげに彩られた瞳が旅人たちを見た。「お願いしますぅ」 マーガレットは、がっしりした肩でしなをつくってみせる。 “彼女”の、くっきりと割れた顎では、髭の剃り跡が青くなりはじめていた。
1 「いや、せっかくだが――」 レオンハルト=ウルリッヒ・ナーゲルは、『片目のウェイ』がすすめた汁麺を静かに断った。 「あ、ではいただいても?」 横合いから、ケルスティンが言って、すでに空っぽになった彼女のどんぶりをどかすと、レオンハルトのぶんだったものを啜り始めた。 ウェイは特に何も言わない。 ロストナンバーをひとつの世界の常識ではかることはできない。レオンハルトのように通常の食物を摂取しないものも、ケルスティンのように外見はほっそりとした女性なのに大食なものもいる。それをわきまえているのかもしれない。 「さてこの一件じゃが……まずは呪殺の依頼人を見つけ出さねばのう」 言ったのはジュリエッタ・凛・アヴェルリーノだった。 汁麺に浮かぶ、切り落としたチャーシューをもぐもぐ頬張りながら、勝気な緑の瞳を閃かせた。 「いったいどんな輩なのやら。だいたい、呪うなどという手段が気に食わぬわ。正々堂々とやらんかい!」 「そうよね、そうよね。きっと正攻法ではウチのお店にかなわないからだわ!」 とマーガレット。 「『蛇王』ですか」 イーは、レオンハルトが手にしてじっと見つめている予告状をのぞきこみ、ぽつりと言った。 「どうせなら実体無き呪殺師の正体、この目で拝見してみたいもんですねぇ! なに、腹にオロチを飼ってる俺っちにしてみりゃ、蛇の呪いなんぞ可愛いもんでさ」 たもとに片手を差し入れ、クククと笑う。 すでに麺を食べ終え、楊枝で歯をせせっていた。 「……他に心当たりは? どんな些細なことでも」 レオンハルトが問うた。 「そう言われてもォ……。でもどこかのお店の陰謀に決まってると思うの!」 マーガレットはそう繰り返すだけだ。 「……」 レオンハルトは彼女にそっと近づくと、その肩から腕にかけて、触れそうで触れない、彼女の周囲の空気をなぜた。瞬間――、すうっと冷気を浴びたような気がしてマーガレットはぶるりと震える。 「な、何?」 「……念のために」 彼が氷獄コキュートスの力を宿らせたことを誰が知ろう。しかし呪術に慣れたインヤンガイの民だからか、なんらかの護りの術を施されたことは察しているようだった。 ケルスティンがその様子を見るともなく見ながら、 「雄なのに雌……雌なのに雄?」 とつぶやきつつ、メンマをかじった。 「ところで」 一方、イーは探偵ウェイに訊ねた。 「そもそも、誰も姿を見たことがない呪殺師にどうやって依頼を出すんでしょうかね?」 「そこはそれ。裏稼業にはいろいろとあるものだ」 とウェイ。 「ふうん。ではまずそこから教えていただきやしょうかね」 「私は呪いの術式について」 レオンハルトが言った。 「ちょ、ちょっと、犯人かもしれない店の連中はどうなのよ」 マーガレットがそう言うのへは、ジュリエッタが応じた。 「心配せずともよい。任せておけばよいのじゃ。……みな、ノートで連絡を取り合おうぞ。よいかな?」 イーとレオンハルトが頷く。 「さて、では行くか。美味であったぞ」 汁を飲み干して、きれいになったどんぶりを前にジュリエッタが笑う。イーとレオンハルトはすでに席を立っていた。ジュリエッタがそれに続こうとしたが、ケルスティンがおずおずと手をあげる。 「あの、すみません、できればもう一杯おかわりを」 「なに!まだ食べるのか!」 ジュリエッタが目を丸くした。 結局、ケルスティンは6杯、食べた。 ウェイが空いたどんぶりを片付けていると、路地の暗がりからすっと近づいてくるものがある。 「……忘れ物かい」 「聞きたいことがある」 レオンハルトだった。 「今までに蛇王に殺された者に共通点は。蛇を使うということと、予告状を送られるということ以外に」 「特に思いつくことはないな。呪殺師は依頼を受ければ誰だって殺す。目標はいろいろだ」 「マーガレットのようなものが殺されることも」 「そりゃあ、あるだろう。って、マーガレットのようなもの、っていうのがどういう意味で言ってるか知らないが」 「嘘をついている可能性は?」 「マーガレットが? どうだろうな。この街区の人間は嘘つきが多い。しかしマーガレットは自分の命がかかっているわけだし」 「……」 レオンハルトの金の瞳は、見えざるなにかを見るように、虚空へ視線を遊ばせる。 「もう一度、予告状を見せてくれないか」 「いいとも。どうするんだ」 「蛇王がこれを支度したことは間違いない。なら思念の残滓があるはずだ」 ウェイが差し出した紙を、レオンハルトは手にとった。 マーガレットの店の照明はうす暗い。 もとより煌々とした灯りのしたで営業される類の店ではないのだろうが、それにしても暗い、とケルスティンは思う。 シャンデリアに似せたその形は豪奢なのだが、天井あたりに凝るような闇に、その姿が半ば隠されている。 ビロードのスツールとソファーが並ぶフロア、壁の片側にバーカウンター、別の一画がステージ。 そろそろ店を開ける支度の時間だ。マーガレットは黒服とともに事務所へ。フロアには、従業員が次々に出勤してくる。 「あらァ、見かけない顔ね。新入りサン?」 野太い声で訊ねられる。 「違うのよ、探偵サンですって。ホラ、例の」 「ああ」 ケルスティンは興味津々といった様子で、女の服をまとい、化粧をしている男たち――といってはいけないのかもしれないが――を見ていた。 「こんな可愛らしい女の子の探偵サンもいるのね」 「呪いの件をご存知なんですね」 「ママったら大騒ぎだったからね。あれが届いたときの悲鳴っていったら隣の街区まで聞こえたと思うわ」 「うかがいたいのですが」 「何かしら。あ、アタシ、デイジーっていうの。よろしくね」 彼女は茶色の髪を貴婦人のように高々と結い上げ、ラメ入りの派手な化粧をしていたが、顔はぱっと見て女性といって差し支えない造作だった。 「デイジーさん。率直に、マーガレットさんを狙うとしたらそれは誰でしょう」 「そうねェ……。ママも悪いひとじゃないんだけど、いろいろ強引な商売もしてきたから。恨んでる人もいるかもねェ。けど、呪殺師って頼むとずいぶんお金がかかるんでしょ? そこまでする人いるかしら」 「彼女が亡くなっていちばん特をするのは誰でしょう」 「ええ~、誰かしら……アタシたちは困るわよね、雇い主なんだもの」 「ではやはりライバル店」 「う~ん」 「マーガレットさんはよその店があやしいと」 「どうかなぁ~?」 デイジーは首を傾げた。 「マーガレットさんが亡くなったらこの店はたち行かないのでしょうし、そうすればよその店が儲かることになるのでは」 「……あたしが言うのも何なんだけどね……」 彼女は声を落として、言うのだった。 「ウチの店、そんなに儲かってるわけじゃないのよ。だからうちが潰れようがどうしようが、よその店がそんなに大喜びってわけでもないの」 2 「ほほう、これはうまいな! もっと飲みたいぞ!」 ジュリエッタの言葉に、テーブルには次々と飲み物・食べ物が運ばれてくる。――といってもここは食事のための店ではないから、食べ物といってもせいぜいがおつまみの類だが、それでもなかなか上等そうなチョコレートやナッツ、フルーツの盛り合わせなどが並ぶ。飲み物は、ノンアルコールカクテルであったがジュリエッタはずいぶん気に入ったようで、くいっとグラスを開けては、アルコールは入っていないというのに妙にテンションが高いのだった。 「……あの。目的、お忘れでないでしょうね」 思わず、小声でイーがそう囁いたほどだ。 「わかっておるわ! 郷に入れば郷に従えというもの。心から楽しんでこそこの場になじめるというもの。おお、見ろ、なかなか凄いぞ」 そう言うジュリエッタは、男の格好だ。 想定するシチュエーションは、上流階級の子息がお供(イー)を連れてお忍びで遊びに来たの図。 この男装が、ある意味“プロ”である女装の店員たちに対してどこまで通用していたかは定かではないが、そこはそれ、接客のプロでもある彼女たちはなんら不審な様子は見せず、ジュリエッタとイーの傍らに座ってサービスに尽くすのであった。 そこは、マーガレットが「犯人の可能性があるライバル店」のひとつとして名指しした店だった。 ステージの上では、女性にしか見えないダンサーが、きらびやかな、しかしきわどく露出の高い衣裳で艷めいた踊りを披露していた。盛り上がる音楽に照明。ジュリエッタたちのほかにも客は多く、店は賑わっていると言ってよかった。 「ここはなかなかよい店じゃのぅ」 「アラ、嬉しい。よかったら贔屓にしてくださいネ」 でっぷり太った女装の中年が、ジュリエッタの傍にあらわれた。目にもあざやかな真っ赤なフリルのついたドレスを着た姿はランチュウの化け物――といってはあまりに失礼というものだが、年齢や態度からしてこの店の女主人のようである。 「おお、おまえが女将か」 「ママ」 イーがそっと用語を訂正する。 「しかしこのあたりはこういう店が多くあるであろう」 ジュリエッタが言う。あくまでお供の従者という体裁で、イーがそれに続けた。 「はい、他には『スターズ&ローゼス』が有名と聞きます」 「まァ」 女将もといママの、たんねんに描いた眉がピンと跳ね上がった。 「それは情報が古いですわ、お客サマ。最近じゃ星々坊のナンバーワンはウチでございますものね、ホホホ」 「そうなのですか?」 イーが訊ねた。 「ええ、ええ。そりゃあ、あちら様も一頃は一世を風靡したと言うのかしら、星々坊といえば……といったお店だったですけれども。最近はもうすっかり客足も遠のいてるそうじゃありませんか」 「ほう……。すこし小耳に挟んだんですが、『スターズ&ローゼス』のママが呪殺師の蛇王に狙われてるという噂」 「そういえばそんな話も聞きましたわねェ。でも本当かしら」 「向こうは探偵を雇って、呪いの依頼人を探しているそうですよ」 「あら、そうですの」 ママはさして関心もなさそうに言った。 イーとジュリエッタは目をみかわす。 (なぜ呪殺なのか、ということなのじゃ――) ジュリエッタの言葉を、イーは思い返していた。 (単に殺すだけならいくらでも方法がある。わざわざ金も手間暇もかかる、呪殺師への依頼という手段をとったのかが気になる) (確かに。まず考えられるのは、相手が死ぬまでにより恐怖を与えることでしょうかね。予告されるんですから。あとは……『呪殺の対象にされたという不名誉』でしょうか) (それじゃ。店の評判は落ちるじゃろうし、店主が近く死ぬとなれば従業員も離れていく。狙いはむしろ店のほうかもしれぬ) (なるほど) だとすれば、ライバル店が依頼人という推理は筋が通っている。 けれども――。 どことなく腑に落ちないまなざしで、イーの視線はタバコの煙がたゆたう店の空間をさまようのだ。 「なんですってぇ!?」 ママの裏返った声がイーを引き戻す。 「それって、ウチが、スタロゼのマーガレットママを殺そうとしてるとでも言うの!?」 「そうは言っておらん。ただ心当たりはないかと――」 「失礼しちゃうわッ」 目をキッと吊り上げて、ママは立ち上がった。 「気を悪くしたならすまんが、やはり、マーガレットを狙うなら、ここに限らずライバル店の――」 「あんな誰からも見限られたような店、誰がわざわざ狙うもんですかッ! 今度の件で久しぶりに名前を聞いたくらいよ!」 「なんですって」 イーが口を開いた。 「ということは何ですか、わざわざ呪殺師を用いてマーガレットを殺したり、あの店の評判を落とそうとするものはいないと」 「何なのよ、あんたたちッ」 なにかだいぶ気にさわったらしい。ヒステリックにママが叫ぶと、屈強な体格の黒服の男たちがさっとあらわれて、ジュリエッタたちを取り囲むように立った。 「む」 「……」 「お客さん。お話は裏でゆっくりうかがいましょうか」 こわもての黒服が、ジュリエッタの肩に手をかけようとした、その瞬間! 「ぐお!?」 「待て、コラ!!」 動いたのはイーだった。 下駄が黒服の独りを蹴倒し、そしてそのまま脱兎のごとく店の出口へ。 その背には、ジュリエッタが背負われている。 「むう、ちょっと深入りしすぎたかのう」 「いいえ、収穫ありでした!」 下駄の足音も高らかに、ジュリエッタをおぶったイーがインヤンガイの路地を駆ける。 店の中を探らせていたオウルフォームのセクタン・マルゲリータも、ジュリエッタのあとを追ってきているようだ。 すい――、と、かれらのゆくてを影が遮る。 眼帯の男……『片目のウェイ』だ。 「蛇王へのアクセスポイントを見つけた」 言いながら、路地の片隅に立つ該当端末の傍に立つ。ブゥン、と音を立てて、モニターの中に荒い画像が揺れた。インヤンガイの人々が利用する電子的なネットワーク。その中に、常に場所を変え続けながら、蛇王への依頼を受け付ける窓口があるのだそうだ。 「依頼人を装うのだろう」 そうして呪殺師とコンタクトをとり、マーガレットの呪殺の依頼人を逆に脅迫しようというのがイーの算段だった。 「……それがですね……今の見込みが外れていなければ、あるいは……」 イーがなにやら思案顔で言った、そのとき。 「危ない!」 ウェイが叫んだ。 3人は該当端末の前から飛び退く。 周囲に響き渡る大きな音を立てて、路上に砕け散ったのは、植木鉢のようだった。 「あそこじゃ!」 ジュリエッタが指す、建物の非常階段に、人影が見える。 イーが走り出していた。 「待ちなせぇ!」 そして叫ぶ。 「あんたを殺すよう蛇王に依頼を出す! マーガレットを殺す依頼を取り消すなら、こちらもそんなマネはしない!」 ビルの隙間にイーの声が反響する……が、返事はなかった。 3 暗い、部屋だ。 灯りは、四方にともされた蝋燭の細い炎だけ。 床には複雑怪奇な文様が描かれた敷物が敷かれており、その上にひとりの人物が座している。フードですっぽりと頭を覆っており、顔にあたる部分は影に塗り込められているため、男か女かもわからない。 ただ、細く節くれだった指をからめて印をつくり、低い囁きが呪文を詠唱している。 香炉から、ゆらゆらと煙が立ち上り、部屋の中は不思議な香の匂いに満たされていた。 天井から、ひとつの籠が吊られている。金属製の鳥籠のように見える。だがその中に収まっているのは、小鳥ではなしに、とぐろを巻いた黒い蛇だった。 ちろちろと舌を出入させながら、爬虫類の感情を宿さぬ眼が虚空を見つめていた。 「……」 ふと、詠唱が止んだ。 術者は、空気を探るように頭を巡らせる。まるで、誰かに見られている気配に気づいたとでもいうようだった。しかしすぐに気のせいとわかったのか、再び、地を這うような詠唱の声が、フードの下の奈落のような闇から漏れはじめる……。 「『蛇王』を見つけた」 レオンハルトが言った。仲間たちの三対の目が彼に集まる。 「近くの建物に部屋を借りている。そこをつきとめることもできるし、ここから呪い返しをしてもいいが」 予告状からたどって呪殺師の居所を見つける。レオンハルトの超常の魔力がそれをなした以上、依頼はすぐにも達成できる。しかし、レオンハルトは冷ややかなまなざしで、問いかけるように一同を見る。イーが、それに応えたように頷いた。 「もうすぐ今夜のショーの時間です」 と、ケルスティン。 4人は、そのまま『スターズ&ローゼス』のドアをくぐった。 ドアは防音処置がなされているものらしく、中に入ると大音量の音楽が耳に押し寄せてきた。 めまぐるしく色を変える照明の下で、数人のダンサーが踊っているが、フロアに客はまばらだった。 ちょうどセンターをとっているのは、デイジー嬢だった。彼女はスタイルもよいし、美人だし、ダンスの動きも悪くなかった。 しかしやたらけばけばしいスパンコールのついた衣裳や、曲に照明、振り付けなどは、どうにも垢抜けないものに感じられた。 デイジーたちのダンスが終わると、曲が変わった。 照明はいったん暗転し、闇を貫くようなピンスポットがステージの上に光の輪を描いた。その中に、しずしずとあゆみ出てきたのが、誰あろうマーガレットだ。 誰かの――ため息のような声が聞こえる。 陶酔のそれではない。 マーガレットは、スパンコールのうろこがキラキラと光を反射するマーメイドラインのドレスを身にまとい、高々と、顔の2倍はある高さまで結い上げたあと、縦巻きのロールを描いてサイドに垂れたプラチナブロンドのウィッグを乗せ、そこにティアラを埋め込んでいた。分厚いシャドーに、てらてらと艶やかな唇。長い長いつけまつげ。耳を飾る手のひら大の星型のイヤリング。とどめに、背中にはきらめく孔雀の羽根が扇型に広がって、光背のごとくになっていた。 それは、まさにこの店とステージの、女王の姿であった。 彼女は女王だった。 それは間違いないと誰もが思った。 ただ、彼女の王国は滅びていこうとしており、女王はそのことを認めようとしない。 朗々と歌い上げるような、おそらくオペラの一節を、女の声が歌いはじめる。マーガレットの唇がそれに合わせて動く、いわゆるリップシンクの芸だった。 まばらな拍手が、お義理であったとしても、起こった、そのとき。 照明が消え、音響も切れた。 そして、闇の中に、青白い炎の柱がごう、と逆巻く渦を巻いてあらわれたのだ。 客や、従業員たちから悲鳴があがった。 だがそのどれよりも大きな悲鳴が、マーガレットからあがった。 炎は、蛇のかたちをとると、ステージ上の彼女にめがけて走る。 マーガレットの、この世のものとも思えぬ悲鳴が天地を揺るがす! だが炎の蛇のあぎとが、彼女をとらえることはなかった。ケルスティンだ。彼女が飛び込み、『鎖』で蛇を受け止めた。蛇は、鎌首をもたげるようにして、いったん退いた。 「助けて! 蛇王だわ!」 「ええ、下がって」 「助けてぇええええ! あたし、狙われてるのぉおおおお!!」 マーガレットは叫んだ。 まるでその声に引き寄せられるように――蛇が空を駆ける。ケルスティンの鎖さえ縫い、マーガレットに迫る。彼女は腰を抜かしたのか、床にすっころんだ。しかしそのおかげで、蛇の軌道から免れて、つけまつげを焼いただけで済んだのだ。 「ちょ、た、探偵さん!?」 あきらかに、その声に先程まではなかった狼狽があらわれている。 蛇が旋回して、再び、マーガレットへ向かってくる。 その前に、今度はレオンハルトが立ちふさがる。 「呪殺師は容赦はしない」 彼は冷たい声で言った。 「呪いというものを、甘くみないことだ。呪いを弄ぼうとするものは必ず報いを受ける」 「な、なにを――」 「『蛇王』は本気であなたを殺すつもりだということですよ」 イーが言った。 「なんですって!? そんなの話が違――」 いいかけて、口をつぐむ。 イーは笑った。 「『蛇王』は正体不明の呪殺師。そうでしたね?」 「だが、あのとき――」 蛇の炎に照らされ、レオンハルトの影がフロアに落ちる。それは三対六枚の翼を備えている。風なき風に彼の髪が巻き上がり、眼光が、敵を見据えた。 「『そんな得体の知れない男』と言ったな」 はっとマーガレットは息を呑んだ (嫌よ! あたしまだまだやりたいことがいっぱいあるもの。蛇王だか何だか知らないけど、そんな得体の知れない男の呪いで殺されるなんて! ね、助けてもらえるでしょ?) 「なぜ『蛇王』が男だと思った? 会ったからだ。呪いの対象の一部……髪か爪を渡す必要があったはずだ」 血が――レオンハルトの手首から鮮血がしたたる。 それは生き物のように床を這い、見る間に魔法陣を描いてゆく。 「わざと自分を狙わせて、それを吹聴する。いやでも話題になりますね。他の店に『呪いをかけてまでライバルの邪魔をする』という悪評を立たせることもできる」 ケルスティンが指摘した。 「最初にも言ったがやはり気に食わん! 正々堂々とやらんか!」 ジュリエッタの言葉がすべてを物語っているだろう。 呪いの蛇は、だが、お構いなしに、獰猛に牙を剥き、跳びかかってきた。 マーガレットがひいっと身をすくませたが、炎の牙は彼女はおろか、その前に立つレオンハルトにさえ届くことはなかった。 床に描かれた円陣から出現した筋骨隆々たる腕が蛇を殴りつけたのだ。 炎の蛇はぱっと分裂し、無数の蛇となってバラバラの軌道を描いて獲物を目指さんとするも、腕の持ち主である巨人には、百の腕があった。『血の万魔殿』の魔のひとつ――ヘカトンケイルの腕がひとつ残らず炎の蛇の頭を握りつぶしていくのを、レオンハルトは冷ややかに見つめていた。 * 「……まァ、浅はかにも程があるという話だったが、勘弁してやってくれ。あいつも十分懲りただろうしな」 「過去の栄光を、忘れられんかったのじゃのぅ」 片目のウェイがそう言いつつ、4人を労うのへ、ジュリエッタが言った。さめざめと泣きながら許しを乞うマーガレットの姿を思い起こす。 「苦労をかけた。うちのでよければ何杯でも食っていってくれ。……あんたは食わないんだったか」 レオンハルトは静かに頷く。 「私はいただきます」 ケルスティンはさっそく手をつけていた。 「『蛇王』はどうなっちまったんですかい」 とイー。 「呪いを打ち返したのでダメージは受けたはずだが、向こうも専門家だ。死んではいないだろう」 「そうですか。じゃあまたいつか会えるかもしれませんねぇ」 「なんじゃ、興味があるのか」 「まぁね」 着物のうえから、わき腹をすりすりとなでながら、イーは言った。 星々坊街区のネオンの灯りは、今もまだきらびやかだ。 その中に、いくつもの夢と希望と、失望とをないまぜにはらみながら、それでも星のように光り輝いていた。 (了)
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