ブルーインブルーでしばらく過ごすと、潮の匂いや海鳥の声にはすぐに慣れてしまう。意識の表層にはとどまらなくなったそれらに再び気づくのは、ふと気持ちをゆるめた瞬間だ。 希望の階(きざはし)・ジャンクヘヴン――。ブルーインブルーの海上都市群の盟主であるこの都市を、旅人が訪れるのはたいていなんらかの冒険依頼にもとづいてのことだ。だから意外と、落ち着いてこの街を歩いてみたものは少ないのかもしれない。 だから帰還の列車を待つまでの間、あるいは護衛する船の支度が整うまでの間、すこしだけジャンクヘヴンを歩いて見よう。 明るい日差しの下、密集した建物のあいだには洗濯物が翻り、活気ある人々の生活を見ることができる。 市場では新鮮な海産物が取引され、ふと路地を曲がれば、荒くれ船乗り御用達の酒場や賭場もある。 ブルーインブルーに、人間が生活できる土地は少ない。だからこそ、海上都市には実に濃密な人生が凝縮している。ジャンクヘヴンの街を歩けば、それに気づくことができるだろう。●ご案内このソロシナリオでは「ジャンクヘヴンを観光する場面」が描写されます。あなたは冒険旅行の合間などにすこしだけ時間を見つけてジャンクヘヴンを歩いてみることにしました。一体、どんなものに出会えるでしょうか?このソロシナリオに参加する方は、プレイングで、・あなたが見つけたいもの(「美味しい魚が食べられるお店」など)・それを見つけるための方法・目的のものを見つけた場合の反応や行動などを書くようにして下さい。「見つけたいものが存在しない」か、「見つけるための方法が不適切」と判断されると、残念ながら目的を果たせないこともありますが、あらかじめご了承下さい。また、もしかすると、目的のものとは別に思わぬものに出くわすこともあるかもしれません。
乳色の霧が全ての輪郭を蕩かす。重なる建物も、狭い路地の夜空に見える丸い月も、窓から僅かに零れる火色の光も。 路地の果てに横たわる夜の海さえ、闇色の霧に埋まっている。 霧のジャンクヘブンの一角を、レオンハルト=ウルリッヒ・ナーゲルは彷徨い歩く。否、当てはある。見つけたいものも、ある。 ――何かに食われた痕のあるやつな。首無いって本当か? ――別の場所で殺されたっぽいけどなあ ――全員男だってよ。何人殺されてるんだろうな ――あの辺りの郊外、夜は人気少ないしなあ ――海魔か? ――海軍は何やってんだ ――うう、酔ってもあの界隈歩かないようにしねえと 頭の隅にあるのは、今回の討伐依頼の際、乗り込んだ船の乗務員達が交わしていた噂話。 噂のせいもあるのか、路地を歩くのは彼一人きり。 喪服の裾に、長い灰金の髪に、霧の粒がまとわりつく。眼鏡にこびりつく細かい水を白い指先で拭う。眼鏡の奥の血色の瞳は、凍り付いたように感情を映さない。 唯、歩く。急ぐでもなく、濃霧に怖じることもなく。歩みを進める毎、払いのけられた霧が流れる。 湿気を帯びた石畳を踏む。黒礫岩を積んだ塀の坂道を上る。家の壁に挟まれた狭い階段路地を下り、海辺の路に出る。低く石を積んだだけの堤防の奥に、霧と共、生き物のようにうねる海が見える。闇と霧に沈む海に、時折白く跳ねるのは波の飛沫か。 霧が流れる。 「今晩は」 静かな声に呼ばれ、眼を上げる。霧に浮かび上がるようにして、女が一人、堤防の縁に腰掛けている。 剥き出しのまろい肩から、波打つ白銀の髪が豊かな胸へと滑り落ちる。くびれた胴を捻るようにして、女は立ち上がった。 「あなたのような方を探していたの」 うっそりと、夢のように女は微笑む。長い睫毛な囲まれた、深海色の眼が細くなる。艶やかな唇の端が三日月のように持ち上がる。 (こちらもだ) レオンハルトは心中で呟いた。 「少し、ご一緒してくださる?」 艶かしい腰の曲線を強調する薄い夜着を揺らし、女は首を傾げる。 口を閉ざしたまま、顔色も変えないまま、レオンハルトは頷いた。女の笑みが深くなる。 霧に濡れる髪を拭う振りをして、レオンハルトは自らの髪を片手で抑える。 (……まだだ) 女が手を伸ばしてくる。柔らかな二の腕は、霧の色に似て白い。乞われるまま、女の冷たい手に手を重ねる。 「……つめたい、手」 そう言い、女はまた笑った。逃すまいとするかのように、レオンハルトの腕に両腕を絡みつかせる。柔らかな胸を押し付ける。 「こっちよ」 跳ねるように、楽しくて嬉しくて仕方がない、そんな風に歩く女と並び進む。霧の向こうに、小さな港が霞んで見える。幾隻もの船の陰が、黒く浮かんでいる。 「船で旅をしているの」 あちこちの港に泊まるのよ、と女は得意げに眼を煌かせる。案内されたのは、港の端、大きな漁船の影に隠れるように繋がれた、小さな船。波に揺れる度、船の何処かしらが軋んだ音を立てる。 「こっち」 甘い声で囁いて、女は舳先に身軽く飛び移る。夜着が際どく翻る。女の手に逆らわず、レオンハルトは女の船に乗り込んだ。狭い扉を潜り、船内に入る。香か何かを焚き染めているのだろうか、暗い船室は甘い香りに満ちている。 女の身体がすり寄せられる。白い腕がレオンハルトの脇を過ぎ、船室の扉を閉ざす。鍵が掛けられる。 「ようこそ」 備え付けの卓に置かれていた角灯に、火が入れられる。揺らぐ小さな光に、広くない船室が淡く照らし出される。室内には、打ち付けて固定された棚が幾つかと、茶器と角灯の乗った卓。奥には乱れた寝台がひとつ。 低い天井に角灯の火が踊る。影が揺れる。 「掛けて」 勧められるまま、軋む椅子に腰を下ろす。 「お茶を」 いつから用意されていたとも知れぬ茶が、ポットから茶器へと注がれる。船内に満ちる香に紛れて、茶の香りは届いては来ない。手を取られ、柔らかな手つきで、けれど強引に、茶器を渡される。 「飲んで」 女が深海色の眼で覗き込んで来る。ゆらり、紅い唇が歓喜の形に歪む。 レオンハルトはカップの縁に唇を触れさせた。温かな湯気が頬を掠める。 「――薬で痺れさせて後、首を刈るのか」 それとも、と血色の眼を上げる。 「腸を喰らってからか」 灰金の髪の隙から、掌ほどの黒い蜘蛛が這い出る。待ち兼ねたように、女に飛び掛る。息を呑み、眼を見開く女の頭を踏み、更に跳ぶ。跳びながら、透明な糸を素早く吐き出す。 女が呻く。蜘蛛を捕らえようと、両手を振り回す。眼がぎょろりと眼窩から突き出る。唇が裂け、魚じみて尖った歯が露になる。 「ブラックウィドウ」 レオンハルトに呼ばれ、蜘蛛は女をからかって跳び回るのを止めた。 細い糸が薄暗い室内を奔る。思わぬ鋭さで、船内の卓や棚を切断する。ごとり、と卓が床に落ちる。棚が落ちる。落ちた棚の中から、続けざまに白く丸いものが転げ出す。それは、滑らかに白い、幾つもの頭蓋骨。 磨きこまれたのか、そこに付随する中身も外見も全て、舐めてこそぎ取られたのか。どの頭蓋骨も、塩のように白い。 「あ、あぁ……」 女は床に膝を落とす。蒼白い腕を広げ、犠牲者の頭蓋骨を愛しげに抱き上げる。 「――おまえ、同胞か」 鋭い牙に縁取られた口が開き、低く女は問う。恨みがましげな深海色の眼が、立ち上がるレオンハルトを見仰ぐ。終始無表情だったレオンハルトの眼に、今浮かぶのは、酷薄な飢えた笑み。 「海魔などと共にするな」 レオンハルトの白い手首から血が滴り落ちる。鮮血が、生き物のように蠢く。雫の型から糸の型になる。音もなく、伸び上がる。尻を突き、頭蓋骨を抱いて下がろうとする女の腕を頭を足を、 「――ひ、」 絡め取る。 女の裂けた唇を、悲鳴がつく。 血の糸が、海魔の皮膚に潜りこむ。凄まじい速さで、血の糸を介し、女の血がレオンハルトの体内へと吸い取られる。 香の匂いを押し退け、血臭が船室に充満する。 女の悲鳴が小さくなる。掠れる。赦しを乞うて差し伸ばされた腕が、乾涸びて落ちる。声が途切れる。腕に抱いていた頭蓋骨が船床に転がる。血を吸い尽くされて死んだ海魔の死体が、足元に崩れる。 レオンハルトは血色の瞳をほんの僅か、歪めた。 霧の中、 (魔の存在に、なりつつある) 思うのはそればかり。敵であろうと、生命持つ者から血を奪うことなど、本意ではなかったはずだ。それなのに、最近はどうだ。 血への欲望が増している。渇望と言っていい。突き上げる衝動を堪えきれず、望まぬはずのこの身を囮にしてさえ、血を得ようとする。 (――血を、) 得なければならない。それは確かだ。血を得ることでしか、この身の内にある封印の力を護ることは出来ない。けれど。 『器』として創られたこの身でさえも、魔になろうとしている。 眼を伏せる。足元さえも白く濁す霧を、蹴り退ける。 重い風が流れる。澱む霧が渦を巻く。霧の隙間に覗いたのは、民家の窓か。彼の姿が映し出されている。灰金色の長い髪を結い、喪服を纏う長身の男。 霧が揺れる。 彼は気付かない。霧に佇むもう一人の『彼』のその背には、現実には未だ現われていない筈の、漆黒の六翼が広がっている。 『彼』は、眼を伏せ霧の中を進む彼を血色の瞳で見る。唇の端を吊り上げ、――嗤う。 終
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